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Re: 「心の理論」は有害である。 5946へのコメント
No.5948  Tue, 10 Jul 2001 17:17:49 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。

それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。

それでは言葉を変えて、私は「発達心理学における理論」支持派と言いましょう。
ただこれでは範囲が広すぎるので、本当はいい言葉を探さなければいけないんでしょうけど。


Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5935へのコメント
No.5947  Tue, 10 Jul 2001 17:12:39 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

くると wrote:
> こんにちわ、武田さん。就職試験の疲れがやっと取れたくるとです。
>
>武田好史さん wrote:
>>くると wrote:
>>>> このように「見える」ということは、目と脳が同時に正常でないと「正常
>>>>に体験できない」感覚なのです。
>>>
>>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>>ります。
>
>>私は
>>「視覚は他の感覚と合わさったときに初めて虚構でなくなる」「あなたの感じてい>る視覚世界はあなただけのものである」ということが視覚について言えるのではと>おもいます。
>>そして普通の視覚というのは、「万人が見た平均的なもの」なのだという気がしま>す。
>
> 「万人が見た平均的なもの」ですか。じっさいには全ての人の見え方には細
>かい差異がひしめきあっていますが、それを切り捨てた共通の見え方みたいな
>ものですか?
>
> この考えに基づけば、「視覚異常」というのは「異常か、正常か」という次
>元の問題ではなく、「典型的か,非典型的か」という次元の問題なのではない
>でしょうか?そして、非典型的な視覚を持つ人は視覚が異常だからではなく、
>同じ見え方を共有できる人が少ないから困難が発生するのではないか、と考え
>ています。いかがでしょうか?

 確かにそういった面もあるのでしょう。これは何も視覚障害に限ったことではなく、全て障害のについて言えると思います。もちろんAS・ADHD・LDもその中に入るでしょう。実はこのことはバリアーフリーということを考える上でとても重要なことなのです。
 
福祉作業所でボランティアをしていた頃、私は「見えない」というのは、どういうことなのかを知りたくって、目をつぶって手探りでフェンスを触りながら、市民体育館の二階の走路を歩いてみたことがあります。どっちに進んでるのかというのが、手の触覚で感じるフェンスのパイプの曲がり具合からしか判らないので、見えているときには短く見える距離が、その倍以上に長く感じました。
 見えないという人たちには、歩道の黄色い凹凸のある板・オルゴール付きの信号などの「進むための手がかり」というものが、いかに大切かそのとき初めて判りました。
 
 またある自閉症の専門家は、言葉の不自由な重度の自閉症の子とラポール(やりとり)をするコツとして次のようなことを言っています。

#「限られているその子の言葉が、彼の行動とどのように結びついているかをよく#観察しなさい。例えばその子がポポーとしか言えないのであれば、ポポーという#ことが何を意味しているのかを、頻度や表情・どんな場での使用かということか#ら読み解いていく必要があります。」


Re: 「心の理論」は有害である。 5945へのコメント
No.5946  Tue, 10 Jul 2001 16:34:39 +0900  Maria [この発言にコメントする]

シュッツさん wrote in 『Re: 「心の理論」は有害である。(追加)』、
No.5940、10 Jul 2001
>「心の理論」という名前について、分かりにくいと思う最大の要因は、「理論」
>が「科学上の理論」ではなくて「個人の内部の思考における理論」の意味で使っ
>ているからです。
>普通は前者で使われることが多い言葉なので、混乱しやすいと思うのです。

 つまりは、そういうことなんです。『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文を書いた人たちは、まさしく「科学上の理論」と同じような意味に限定したくて、「理論」という言葉を使ったんですよ。で、後に続く研究者たちも、「個人」といったような特定しがたい要素を排除し、「精密科学」としての発達心理学・認知心理学を確立しようとして、あえて「理論」という言葉を使ったわけです。

 ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。

 麦芽とホップと水だけで作ったのが「ビール」。それ以外のものを「ビール」と呼ぶな、というのと同じ。「心の理論」というのは、対象を一種の機械、つまり「自分とは異質なもの」とみなした上で、その「行動」から帰納的推論によって得られたモデルについてのみ使っていい言葉なのね。

 だからこそ、「心の理論」というのは、チンパンジーを対象とした実験を基礎としているわけです。チンパンジーにとって人間は理解不能な異質なものであり、感情移入や自己投影の対象ではない、と考えたからなんですね。これが「人間がチンパンジーの行動を予測する」ということだと、人間はチンパンジーを「擬人化」しちゃうから、「心の理論」の検証実験にはならない。そういうことなんです。

 ですから、「心の理論」的な人間の行動原則の捉えかたは自閉症方面の人間にとってはとても自然なことでもあるわけです。だけど、健常者はそういう形では人間というものを捉えてないのね。あくまで「感情移入」「自己投影」によって理解をしているのだと。だからこそ、自分と質的に異なった存在の行動を理解することがとても難しいわけです。

 ですから、

 「健常者=『心の理論』を理解している人」
 「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」

ではなくて、

 「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
 「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」

ということなわけです。

 おわかりいただけたでしょうか。

 (Maria)


Re: 「心の理論」は有害である。 5936へのコメント
No.5945  Tue, 10 Jul 2001 13:55:14 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 現在、「セルフ・コメットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいった考え方が出てきて、その「私の根っこ」の「わけのわからなさ」というのはだいぶ解消されてきたのだけれど、依然としてその「私の根っこ」というのは人類にとって「わけがわからない」ものなのね。で、人類にとって「わけがわからない」以上、個人にとってはますますわけがわからない。
>
> だけど、「人間っていうのは本人にとってわけのわからないものに衝き動かされて行動し、それを雛形として他者の行動を理解し予測する」とかいったら、それこそ「わけのわからない理論」というものができあがってしまうわけです。「そんなんじゃ困るんだよー、そんなわけのわかんないものを持ちこむなよー」というのが、「心の理論」の「心の理論」たる所以なわけですね。
>
> そんなわけで、
>
>>これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
>>「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」である
>>ときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。
>
>とか言っちゃった時点で、それは「心の理論」と呼ぶべきものではなくなっちゃってるわけです。

じっくり考えてみたんですが、この部分の話のつながりがどうしても分かりません。
何故、前の部分から後の結論が出てくるのか、もう少し詳しく分かりやすく説明していただけないでしょうか。


Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5913へのコメント
No.5944  Tue, 10 Jul 2001 13:54:27 +0900  ウィローモス [この発言にコメントする]
くるとさん wrote:

> という点について質問です。そもそも、「正常な視覚を持っている」人が見
>ている外界の様子は、実際の世界の様子を正しく知覚できていると言うことが
>できるのでしょうか?

 「可視光線」と呼ばれる特定の帯域の電磁波が、物体の表面で反射したり吸収されたり
する性質の範囲内では、正しく知覚できていると言えるでしょう。


> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>ります。

 波長500ナノメートルの光に対して、「赤」でも「青」でもなく「緑色」を感じるの
は、「人間の脳や目の共同作業によって作り出された虚構」と言えるでしょう。
 しかし、その光そのものは「人間の感覚と独立して存在している」物理的な存在です。

 波長700ナノメートルだとなぜ「赤」なのか、450ナノメートルだとなぜ「青」な
のか、という疑問は、いくら考えても答えなど出ないでしょう。
 ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
実験などで明確にできるのではないかと思います。

 もし波長700と450で視神経が全く同じ反応をするなら(あるいは反応できないな
ら)、その人は赤と青を区別できない色覚異常ということになるでしょう。
 神経の反応というものは、各個人で違うことはもちろん、左右の目でも微妙に違ってい
て当然だと考えられます。「利き手」「利き目」が存在するように。


 ちょっと話は変わって。
 「真っ赤なリンゴ」は、赤い光を反射して他の色を吸収するので赤く見えます。
 そのため緑色の光で照らせば、反射できる赤い光がないため「真っ黒なリンゴ」に見え
ることになります。
 「緑色の光」をどんなに明るく強力にしても、そのリンゴは真っ黒に見えます。決して
赤く輝いて見えることはありません。

 同じリンゴに対して「真っ赤なリンゴ」「真っ黒なリンゴ」という異なる見方ができる
ことになります。
 しかし、これはどちらかが間違っているわけではありません。どちらも「その観察条件
のもとでは正しい」のです。

 いずれにせよ、そのリンゴの「赤い光を反射して他の色を吸収する性質」は、観察する
環境とはまったく関係のない、そのリンゴそのものが持っている特性です。
 色を考えるときは、その観察条件も含めて考えたいものです。

Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5920へのコメント
No.5943  Tue, 10 Jul 2001 13:20:36 +0900  くると [この発言にコメントする]

ぱうぜさん wrote:

>私は武田好史さんの考えに近い感じを持ってます。でも、くるとさんは
>知覚できる色彩について言っているように思えるので私の感覚を書いて
>みたくなりました。
>
>実は、私の右目と左目は見える色彩が少し異なっています。たとえば、
>右目で見ると明るい黄色、左目で見ると薄く緑がかった黄色に見えます。
>だから、どちらの目で見た色が本物かということは意味を成しません。
>(少し私の脳が壊れていることは認めますが)。
>
>でも、同じ方の目で見て比較して、これとこれは同じ色ということは分
>かります。個人差として、この程度の違いはあるかもしれないけど別人
>では比較できないのではないかと思っています。

 やはり、同じ名称を持つ色でも、(見る目)によって差異がひしめいて
いるみたいですね。「別人とは比較できない」という点は武田さんの「あ
なたの感じている視覚世界はあなただけのものである」という理論とも関
連して面白いですね。では


Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5924へのコメント
No.5942  Tue, 10 Jul 2001 13:11:42 +0900  くると [この発言にコメントする]

おむにさん wrote:
>くると wrote:
>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>ります。
>
>脳にある種の電気パルスを流すと、色の感じ方が変わるようです。
>ですから、「人間の脳や目の共同作業によって作り出された虚構」
>であると思います。

 わたしは基本的には虚構説をとっています。そして、「色覚異常」とされる問
題は「典型的な虚構が見えるか」「非典型的な虚構が見えるか」の違いだと思っ
ています。そして、「非典型的な虚構が見える人」は数が圧倒的に少ないので困
難があるのであって、「正常か、異常か」という尺度では測れないような気がし
ます。(くると)


Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5925へのコメント
No.5941  Tue, 10 Jul 2001 13:02:47 +0900  くると [この発言にコメントする]

Makichanさん wrote:

> 私もそのようなこと考えたことあります。で結論は、実際に存在する世界の様子>なんて人間である以上そもそもわからん話で、人間が知覚できる範囲内でしか世界>は解からんわけですよ。解からないことには沈黙するしかないん(どこかで聞いた>セリフ)じゃないかと思います。

ヴィトゲンシュタインの言葉だったと思います。しかし、ヴィトゲンシュタイ
ンがどのような意図でこのように発言したのかは不明です。ある一説によると、
ヴィトゲンシュタインは「沈黙するしかないこと=哲学」と考えていた節があって、彼が主張したことこそが「沈黙するしかないこと」だったとされています。

 考えてみると現代の哲学は他の学問分野では探求することを放棄してしまった
領域ばかりを扱っているような気がします。

 まあ、それはともかくとして…

> 少し論点がずれるかもしれませんが、この世界に色があると認知するのは、人間だけじゃないかしらん。他の生物は(聞いてみたことないので実際のところ解かりませんが)色という概念そのものがないんじゃないかと思うんです。色を情報のひとつとして反応することはあっても。
> いや人間でもそうです。「花が赤い」と感じたその瞬間「赤」があるので、感じなければ、ないに等しいわけです。前からイメージとしてあった「赤」に当て嵌めて「赤」を感じるじゃないですか。始めにイメージありきですね。これでいうと質問の後者にあてはまりますね。こういうのを唯心論というんだっけ。

 この意見は異なる観点からみて、結論が一致しました。(根拠がちょっと違
っていますけど)

 確かに動物の中には体の色や模様によって他の生物種を威嚇したりするもの
もいるので、自分が感じる色に反応することはありえると思います。しかし、
かれらは色の概念自体は持っていないでしょう。

 色という概念ができるためには「言語」による分類が必要です。ある精神分
析哲学者(ラカン)は、「人は言語によって創造された」と発言しました。彼
の見解によれば、わたしたちが認識できるためには、知覚できたというだけで
は不充分だとします。さらに、知覚できたもの(現象)が言語や記号に変換で
きて初めて認識に到達することができるそうです。当然、概念も言語化や記号
化という作業なしには成立しません。よって、言語を持たない動物は色という
概念は持っていないと思います。

 「前からあったイメージとしてあった赤に当てはめて、赤を感じる」という
のも納得できました。これをわたしは同一性という観点から考えています。つ
まり、「どの色が赤であるか」を判断するためには、前例を必要とします。そ
して、前例で「赤」とされた色と一致した色に出会った時だけ、わたしたちは
「赤」と感じることになります。わたしも基本的にはこのように「赤」という
色を感じています。

 もっとも、この考え方の問題点も少しだけ指摘しておきます。それは次のよ
うなことです。

>前例で「赤」とされた色と同じ色を比較する場合、前例の「赤」はさらに前
>の前例と比較して「赤」と名づけられたに違いない。すると、前例の「赤」
>を「赤」と名づけるために比較の対象が必要であり、さらに遡る前例Bが存
>在するはずである。しかし、前例Bを「赤」と名づけるためにはやはり比較
>の対象が必要であり、さらにさかのぼる前例Cが存在したに違いない。そし
>て、前例Cを「赤」と名づけるためには比較の対象が必要であり、さらにさ
>かのぼる遡る前例Dが…

 と、このように理論が無限進行してしまうのです。ちなみに前文の「赤」
という部分を「正常」とか「異常」という言葉に置き換えても、やはり同じ
問題がおこります。

 という訳で、唯心論的認知はわたしたちがよく用いる認識方法ですが、問
題もあるということになるでしょう。では


Re: 「心の理論」は有害である。(追加) 5938へのコメント
No.5940  Tue, 10 Jul 2001 12:57:09 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

「心の理論」という名前について、分かりにくいと思う最大の要因は、「理論」が「科学上の理論」ではなくて「個人の内部の思考における理論」の意味で使っているからです。

普通は前者で使われることが多い言葉なので、混乱しやすいと思うのです。


Re: 「心の理論」は有害である。 5936へのコメント
No.5938  Tue, 10 Jul 2001 12:42:40 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

名前だけの問題なら、「定義をはっきりしろ」と言ってしまえば終わりで、中身の議論には関係なくなってしまいますね。
現在「心の理論」を研究している人たちでさえ、学説によって定義に差があるでしょうから、その決まっていない部分をここで突っ込んでもしょうがないでしょう。

Maria wrote:
> そんなわけで、「心の理論」というのは、「心というものに対する人間の捉えかた」みたいな意味で言ってるわけではなくて、「自分自身の心とは別に、観察から導出された推論の結果としての、『他者の心』のモデルを元に、(ヒトを含む)霊長類は他者の行動予測をしている」という考え方なわけです。

まさしくその通りだから、「感情移入を排していない」と書いたのです。
類人猿の「心の理論」に、私が書いたようなプログラムソースが存在しているかどうか、そう考えると猿の実験が、「感情移入」や「理論的な理解」などのいろいろな心の動きの道筋を区別する基になっていると考えます。
同時に何故「有害」かがまだ分かりません。

なお、あのソースは人間一般ではなく、あくまでも私の場合です。

経済学とかの部分は私には知識がないのでパスします。
用語とか分からないのがおおかったので、いまいち意味が読み取れませんでした。


「心の理論」は有害である。(おまけ) 5926へのコメント
No.5937  Tue, 10 Jul 2001 12:34:21 +0900  Maria [この発言にコメントする]

I wrote:
>ミジンコはミジンコの都合で生きているし、クラゲにはクラゲのライフスタ
>イルというものがある。けれど多くの人間は、人間の視点でしかミジンコや
>クラゲを理解しようとしません。

 多くのひとはクラゲを見ると、「のんびり」「ゆったり」というイメージを勝手に想像してしまいますけれど、本人(?)は頑張って謹厳実直にクラゲとしての生きかたを貫いているのかもしれない。マンボウとかウミガメとかに見つかると齧られちゃうし。頑張って泳いでもスピード出ないし。それなりの苦労というものは絶えないと思います。

 親は自分の子供に自分と同じものを期待します。

 だけど、六十ワットで動くモーターに百ワットの電流を流したら、過熱で壊れてしまいます。
 六十点を取る子供に百点を取らせようとすると壊れると思うぞ。

 (Maria)


Re: 「心の理論」は有害である。 5930へのコメント
No.5936  Tue, 10 Jul 2001 12:12:02 +0900  Maria [この発言にコメントする]

i wrote:
>ただし、「心の理論」という概念を正確に理解しているならば、だけれども。

シュッツさん wrote:
>さいごに、「心の理論」という用語については疑問があって、もっと相応しい
>名前を考えてくれないかなぁと感じています。

 ……こういうことになると思っていたのだよな。

 「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になっています。で、

>「心の理論」がなぜ「理論」と名付けられたかというと、「他者の心の中は推
>論によってしか理解できない」からだったりする。

と書いたように、この論文が画期的だったのは、当時流行したスキナー流の行動心理学のように、「内観心理学」のぐじゃらぐちゃらした湿っぽさ(なんちゅー乱暴な表現じゃろか)を払拭したことだったのね。

 つまり、内観心理学的立場だと、人間は「自己省察」によって「自分の心がどのようなものであるか」を知るのだけれど、それは当人にとってさえ説明不能な「よくわからない」ものなわけです。で、それを物差にして他者の行動をあーだこーだ、とか言ってたら、はっきりいって学問になんない、とスキナーたちは考えたのね。それで「行動」というものを対象にしたわけです。確かにこのことで、心理学は大きく進歩しました。感覚心理学や計量心理学が発展したなんていうのも行動心理学の与えた影響だと言っていいでしょう。だけど、「ネズミやサルが解ったからといって人間が解るか?」みたいな意見はあったのね。でまあ、ぜんぜん別のところでユングやフロイトの心理学も続いていたわけですよ。

 そんなわけで、「心の理論」というのは、「心というものに対する人間の捉えかた」みたいな意味で言ってるわけではなくて、「自分自身の心とは別に、観察から導出された推論の結果としての、『他者の心』のモデルを元に、(ヒトを含む)霊長類は他者の行動予測をしている」という考え方なわけです。

 まあ、こういった「人間機械論」的なパラダイムというのは一時期大流行しまして、「利己的遺伝子説」の流行なんていうものも、こうした流れの一部だったりするわけです。本当はあの「利己的遺伝子説」も、かなり誤解されているのですが。

 でまあ、その後コンピュータの普及によって多くの研究者が「人間のモデルとしてのコンピュータ」というものを普通に想定するようになって、ますます「人間機械論」的なパラダイムというものは流行したわけですね。集団心理学なんていったら、じっさいこうしたアプローチでかなり成功してるし。

 で、こうした流れの裏には、「真古典主義的経済学」みたいなものが横たわっていたのだな。つまり、すべての生物は何らかの価値における「利益」を最大化するように行動する、ちゅー考え方なのですね。バブル経済真っ盛りの頃とかいったら、こういう考え方は流行るよなぁ。

 だけどですね。その「利益」を求める主体っちゅーのは何なのか、ということになると、はた、と考えこんでしまうのですよ。経済学だったら「個人」や「企業」、国際政治だったら「国家」、生物学だったら「遺伝子」みたいなことになるんだろうけど、「私が私であること」を支える「あいでんててー(自己同一性)」ちゅーのはどこにあるんだろうか、みたいなことに、なってしまうのですね。つまり、「失われたあいでんててーの探索」ちゅーのが始まっちゃったわけです。あいでんててー。(←読み筋は吾妻ひでお)

 ほんでもって、ダーウィン流の「突然変異と自然淘汰」みたいなパラダイムが行きづまっちゃったところに出てきたいわゆる今西進化論、つまり今西錦司さんの「種社会と棲みわけ」みたいなものが注目されてきたわけです。

 つまり、「種」っつーのは、「あるニッチを共有している、交配可能な個体集団」として、あいでんててーを持っているわけです。で、「個体」というのは、その「種としてのあいでんててー」を引き継ぐことによって、「個体としてのあいでんててー」を得ているのだと。

 で、「個体」としての人間は、人間の「種としてのあいでんててー」を決して「理解」はしていないのね。「恋は思案の他」なぁんて言葉もあるように、「理解不能だけれど、確かにそこにあるもの」としての「私の根っこ」というものを持っているわけです。

 現在、「セルフ・コメットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいった考え方が出てきて、その「私の根っこ」の「わけのわからなさ」というのはだいぶ解消されてきたのだけれど、依然としてその「私の根っこ」というのは人類にとって「わけがわからない」ものなのね。で、人類にとって「わけがわからない」以上、個人にとってはますますわけがわからない。

 だけど、「人間っていうのは本人にとってわけのわからないものに衝き動かされて行動し、それを雛形として他者の行動を理解し予測する」とかいったら、それこそ「わけのわからない理論」というものができあがってしまうわけです。「そんなんじゃ困るんだよー、そんなわけのわかんないものを持ちこむなよー」というのが、「心の理論」の「心の理論」たる所以なわけですね。

 そんなわけで、

>これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
>「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」である
>ときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。

とか言っちゃった時点で、それは「心の理論」と呼ぶべきものではなくなっちゃってるわけです。それが、冒頭に掲げた、

i wrote:
>ただし、「心の理論」という概念を正確に理解しているならば、だけれども。

シュッツさん wrote:
>さいごに、「心の理論」という用語については疑問があって、もっと相応しい
>名前を考えてくれないかなぁと感じています。

という文章に端的に表れているのね。

 そんなわけで、すでに誰もが「心の理論」という言葉を本来の意味では使わなくなっちゃっているのですよ。だから、混乱を避けるためにこの言葉を使うのはやめましょう、とあたしは言うことにします。

 だいぶ粗雑な文章になってしまいました。詳しくは『「どっちでもいいこと」が決められない。』の中で、じっくりと。

 (Maria)


Re: 目の前にあるものは、目の後ろから来る 5919へのコメント
No.5935  Tue, 10 Jul 2001 12:08:52 +0900  くると [この発言にコメントする]

こんにちわ、武田さん。就職試験の疲れがやっと取れたくるとです。

武田好史さん wrote:
>くると wrote:
>>> このように「見える」ということは、目と脳が同時に正常でないと「正常
>>>に体験できない」感覚なのです。
>>
>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>ります。

>私は
>「視覚は他の感覚と合わさったときに初めて虚構でなくなる」「あなたの感じてい>る視覚世界はあなただけのものである」ということが視覚について言えるのではと>おもいます。
>そして普通の視覚というのは、「万人が見た平均的なもの」なのだという気がしま>す。

 「万人が見た平均的なもの」ですか。じっさいには全ての人の見え方には細
かい差異がひしめきあっていますが、それを切り捨てた共通の見え方みたいな
ものですか?

 この考えに基づけば、「視覚異常」というのは「異常か、正常か」という次
元の問題ではなく、「典型的か,非典型的か」という次元の問題なのではない
でしょうか?そして、非典型的な視覚を持つ人は視覚が異常だからではなく、
同じ見え方を共有できる人が少ないから困難が発生するのではないか、と考え
ています。いかがでしょうか?


Re: リタリンとSSRIについて、質問 5928へのコメント
No.5934  Tue, 10 Jul 2001 11:50:38 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:

>1.薬を飲む前と後で、感情面でここが変わったということは、何ですか?
>2.副作用と思われる徴候(症状)として、どんなことがありましたか?
>3.薬はどのように飲むのが効果的なのでしょうか?(リタリンに関して)

 こんにちは、武田さん
わたしはSSRIを飲んでいます。現在は一日に一回19時に10mgです。一ヶ月前までは20mgでした。

1〕イライラやかんしゃくが減りました。
  セロトニン量が安定して供給されていれば、自信が出てくるはずですと医者に言われましたが、
  そこまでは行っていないようです。
2〕特にありませんでした。

 あまり参考になりそうもなくて、ごめんなさい。


Re: そうだったんですか!(驚愕) 5929へのコメント
No.5932  Tue, 10 Jul 2001 10:51:33 +0900  みどり [この発言にコメントする]

名加野 wrote:
> そうなんですか・・・・・・皆「出歯亀=のぞき」というので、すっかりそういうことになってました・・・・・・自分で調べなきゃいけないですね。でもこれだと今までの使い方が間違ってるなあ・・・・・・。何でしょうね?

この大事件を起こした出歯亀氏に女湯を覗く趣味があった、ということから現在の意味があるようです。


Re: リタリンとSSRIについて、質問 5928へのコメント
No.5931  Tue, 10 Jul 2001 10:25:26 +0900  みちる [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
> ADD・ADHDの薬物療法には、リタリンとSSRIが用いられているようです。私も、よこはま発達クリニックの先生から服用することを薦められました。
> そこで、みなさんの中ですでにこれらの薬を服用している方がおりましたら、つぎの点についてご教示頂きたいと思います。
>
>1.薬を飲む前と後で、感情面でここが変わったということは、何ですか?
>2.副作用と思われる徴候(症状)として、どんなことがありましたか?
>3.薬はどのように飲むのが効果的なのでしょうか?(リタリンに関して)

こんにちわ
私は飲んではいないのですが、息子が今年四月から飲み始めています。
私の解る範囲ですが、参考になりますでしょうか。

 1.初めのうちですが、薬が切れた時、感情の起伏がはげしくなり、
   泣く事が多くなりました。たいしたことでもないのに、被害妄想の
   ような心の状態となり、セルフコントロールができなくなっていました。
   薬効が切れた時、そのような状態になると聞いていたので、驚きはしません
   でしたが、猛烈に悲しくなる様子でした。

 2.やせです。リタリン自体覚せい剤という輩がいるくらいですから
   痩せるのもむりないかも。身長は伸びていますが、体重は変わりません
   ってことは、やせているのですよね。カウプ指数はやせの範疇です。
   うちの子は朝服用し、昼にも服用するのですが、昼はほとんど
   食べたくないといっています。
   おやつも食べずに遊び、夕方薬効がきれてから、夕食をものすごく
   食べます。私も痩せて欲しくないので、栄養価の高いものを
   食べさせ、デザートも高たんぱくのものを食べさせています。

 3.覚醒させるのが目的の薬ですから、時間を考えて・・・。が大事
   だと思います。効果的な飲み方はよくわかりません。
   私ももう少し勉強してみたいと思っていますし、より良い飲み方
   があるなら検討したいと思っています。

 リタリンの項目を調べたら、覚醒しようと思って飲んだら、逆に寝てしまって
 驚いた。という体験談がありまして、リタリンは覚醒させるというよりも
 感情をフラットな状態に持っていくのだと思う。とその方はいっておられました
 まだ、謎の部分がありますね。

 また、わかったことがあれば、教えて下さい。よろしく

 今、息子は薬が効いていると、本当に目がらんらんと輝いています。
 なんでも、てきぱき出来て学校の先生にも驚かれています。
 リタリンがきいているうちにやることは、脳に定着するらしく、私も
 ちょっと驚いています。薬がきれたとき、どっとつかれるみたいですけど。

      私も飲みたいと思うこのごろ のみちるでした  


Re: 「心の理論」は有害である。 5926へのコメント
No.5930  Tue, 10 Jul 2001 09:40:54 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

「心の理論」支持派のシュッツです。

Maria wrote:
> 「心の理論」は、「感情移入」を排した点で「科学の厳密性」という時代の雰囲気に合っていたかもしれないけど、「適応プログラムとしての感情」という概念が出てきた現在においては陳腐化していると断ぜざるを得ないのね。で、なおかつ自閉症方面の子供を理解する上で有害な考え方だと言わざるを得ません。
「感情移入」を排してはいません、「感情移入する過程」を細かく分析しただけです。

> 人間は、相手が「生物」であると認識しているときには、「感情移入」によってその行動を予測します。
> そして、相手が「機械」であると認識しているときには、「推論」によってその動作を予測します。
>
> この二つの原則の間の競合が、すなわち「健常者」と「自閉症方面の人間」のコミュニケーション・ギャップそのものなのですね。
これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」であるときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。


> 人間は、むしろ「感情移入」によって、相手の心の中を「経験的に」推測しているに過ぎない。「擬人化」というのは、まさにそれである。ミジンコはミジンコの都合で生きているし、クラゲにはクラゲのライフスタイルというものがある。けれど多くの人間は、人間の視点でしかミジンコやクラゲを理解しようとしません。
「経験」だけで推測できないのは明らかで、そこには「本能」というか、「同じ人間なんだから」という前提が必要になります。
そこで「同じ」という感覚がなければ、純理論的推定に頼らざるを得なくなります。
また、類人猿が人間を見る時と、人間が類人猿を見る時では「理論的」には同じように見えても、「相手に対する優越感」「同類と見るかどうか」などのさまざまな「心の理論」そのものではない要素が入ってくるために、「心の理論」だけでは説明しきれないこの確かです。


> たとえばの話、
>
> ・子供Aが人形を箱Xから箱Yに移す。
> ・子供Aがいない間に、子供Bが人形を箱Yから箱Xに移す。
> Q:子供Aがやってきて人形を捜すとすれば、箱Xと箱Yのどちらを捜すか?
>
>という典型的な「心の理論」の問題についても、あたしは疑問を抱かざるを得ないのですね。
この問題で「区別」できるのではなくて、「心の理論」を説明するための例題と考えた方がいいと思います。

> 現実問題として、あたしには子供Bが人形を箱Yから箱Xに移す意図がわからないのね。この場合、「人形は本来箱Xの中になければならない」と思っていたのなら、子供Aが箱Xの中を捜すことになんら不自然さはありません。だいいち、子供Bは箱Yに人形が入っていることをどうやって知ったんでしょうか?
だからここで「意図」という言葉が出てくることが私には分かりません。

ちなみに私がこの問題を考えるとすれば、

$A->{X} = '人形';
$A->{Y} = '';
foreach $hako (keys %A) {
$B->{$hako} = $A->{$hako};
}
$A->swap($A->{X},$A->{Y});
print $B->{Y};

となるでしょうか。

さいごに、「心の理論」という用語については疑問があって、もっと相応しい名前を考えてくれないかなぁと感じています。


そうだったんですか!(驚愕) 5922へのコメント
No.5929  Tue, 10 Jul 2001 09:30:32 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

 こんにちは。

>2度とも何にも言いませんでした。注意するのが怖かった共言えます。

 僕も引くと思います。自分が情け無い・・・・・・。

>「黙りこんで=自分の世界に入り込んだまま異常な行動をする子あるいは人」は
>自分が自覚するまで、「自閉症」と決めつけていた、という思考回路の事実に
>私自身その子の隣で愕然としました。

 勝手に決め付ける事って、よくありますよね。あああ、人のこと言えないなあ・・・・・・

>ちなみに、名加野さんが書かれていた、「でばがめ」ですが、ちゃんと根拠がありまして、明治か大正時代に「出歯亀太郎」という人物が強姦の末、どこかの女中さんを絞殺したのが出元だそうです。地元紙の「今日は何の日?」と言う欄に先月?あって親子共々笑いました。(犠牲者の方には申し訳ないのですけど。)

 そうなんですか・・・・・・皆「出歯亀=のぞき」というので、すっかりそういうことになってました・・・・・・自分で調べなきゃいけないですね。でもこれだと今までの使い方が間違ってるなあ・・・・・・。何でしょうね?

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