アスペルガーの館の掲示板(旧)
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> ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
>実験などで明確にできるのではないかと思います。
と書いたのですが、「色覚異常」でサーチしてみるといろいろ引っかかってきますね。
結構いい加減なことを書いていたようで、お恥ずかしい。
まずは、名前に問題があっても話を短くするために「心の理論」を使うことにします。
そもそも「心の理論」は自閉症のために考えだされたものではなく、子供の心の成長を理論的に表すために作られました。
それがたまたま自閉症を説明するのに使えそうだと分かったので、そちらの分野での研究が進んで行きました。
一つめの問題として
Maria wrote:
>「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
この部分ですが、当たり前のことですけど、「『他人の気持がわかる』ようになる」という意見が本当にあるのでしょうか。
あるとすれば、それは「心の理論」を歪曲して解釈したものです。
しかし、ねじ曲げ方が問題なのであって、「心の理論」自体の問題ではないです。
例えれば、いくら世の中に役に立つ発明をしても、悪用する人間が一人でもいる限り、発明は悪いものと決めつけるようなものです。
むしろ「心の理論」によって「『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ことがはっきり分かると思います。
> で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
振り回す方に罪があるのであって、「心の理論」は振り回される方の立場にあると思います。
次に
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
これは「心の理論」を自閉症研究に応用した場合のことであって、通常の発達を分析するばあいに当てはめればマッチしていると考えます。
というよりも、マッチングさせることが本来の目的であるはずです。
それを勘違いしている研究者がいるかも知れませんが、それは別の問題であって、「心の理論」が内包しているものではないでしょう。
これも例え話をすると、自然現象と物理法則の関係を考えてみましょう。
はじめに存在するのは自然現象であって、物理法則はそれに合わせて作られたものです。
勝手に式を作って、「自然はこの式に合うはずだ」としているのではありません。
しかし、科学は急に進むわけではないです。
ニュートン力学は昔は正しいものでしたが、相対論まで考えれば近似的に正しいというものであり、否定されるまでに「間違いだ」とされたのではありません。
一方で、錬金術は今では否定されました。
このように完全に間違いだと証明されれば、捨てられるのは当然です。
「心の理論」については、発達心理に合わせるように、近似の部分を徐々に減らしている段階ではないでしょうか。
否定される証拠はないと考えます。
もし間違いだと証明されるなら、私も固執しませんが。
また相対論にしても、原爆の理論的根拠になっているのですが、別に相対論が悪いのではありません。
> だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)
さて、これが役に立つかどうかということですが、少なくとも私にとっては役に立ちました。
私は「心の理論」を知って始めて、自分の心を、部分的にではあれ解析することができました。
それは一つの「心の理論」をそのまま自分の心に当てはめたのではありません。
人それぞれの心を、あるがままにそれぞれに理論化することによってです。
そのやり方は自閉圏であれ、健常であれ、同じ理論によっています。
私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
Xanadii wrote:
> N群の人々は、どうしているのか?ただ終始無言でROMしていっているのみなのか、なぜ、ただだまって見ているのみなのか?それがいいか悪いかってことじゃないんです。それより私が考えたいのは、「N群の人々を、この掲示板に参加させ、発言してもらうのはどうか?」ってことについてなんですよ。
> べつにもともと、館の掲示板には、「N群の者は近づくべからず」といった制限が設けられているというわけでは、なかったはず。それにもかかわらず、そういう人々がここにいない(過去にはtakaさんのような例もあったけれど、今どうしているか分からないしね)ということは、どういうことなんだろうな?やはり「障害」、とりわけ精神障害に対する遠慮というかタブーからなのか?
> どういう理由からであれ、N群の人々が、自分から語り出さなければ、私の疑問は解決しないんだろう(もちろんこの掲示板は、自由参加が基本だ。それは私も前提としているつもり)。
> A群の皆さんは、どう思われますか?
つい最近、ADDと診断された者です。はじめまして。
N群の人たちがなぜ発言しないか。
自分のことを考えると分かります。
今現在、私自身や私の家族や友人に精神分裂病者はいません。その疑いがある人も
いません。この状態で、精神分裂病がテーマの掲示板がどこかに存在していると
します。でも、自分や身の回りに関係ないので、覗いてみようという気も
起きません。社会的に大きく取り上げれば少し見るかもしれませんが、
一時的なものだと思います。(精神分裂病について研究しているとかなら参加
してみるかもしれませんが)
私がこちらを見るようになったのも、「私はADDかもしれない→ADDは
発達障害で、ASも近い障害らしい。併発することもあるらしい→もしかしたら
私もASかもしれない→覗いてみよう」という流れがありました。
自分や身の回りに関係ある人しか来ないのは仕方ないのではないかなぁと
思います。
シュッツさん wrote:
>それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
>「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
……そうではないのですよ。発達心理学において、「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムに問題があると言っておるのですね、あたしは。
現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)し、「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
だから、「『いわゆる健常者』の他者の行動予測原理における『心の理論』仮説」というものを、発達心理学の世界、および発達障害児童教育の世界、および精神医学の世界から追い出してしまえ、とあたしは言ってるわけ。
うーむ、この議論をちょっと整理したらそのまま本に載せられるぞ。仕事はかどってるなぁ。
(Maria)
本日、『私の障害、私の個性。』(ウェンディ・ローソン/ニキ・リンコ・花風社)購入。
↑勝手に日記やってんじゃないよ。
ただいま自分のブランク中のログNo.4980〜5237まで読破。まだまだだ。
あ〜えらいこっちゃえらいこっちゃ。
好い加減、MyPCが欲しいよ〜。
Tien wrote:
>こんばんは。私は、自分が2度ほど遭遇した出来事について考え込んでしまいました。
>通勤に利用する乗り物の中にいわゆる「障害者学校」の子供達も一緒の時があります。何故かは全く計り知れないのですが、「座席の隙間を見つけたら座らずにいられない」お子さんが、なんにも言わずに、それこそ最悪の場合、私の膝の上に無言で座り込むのです。本人は(2回とも違う子)なんにも言わず、自分の指を
>くわえたり、座るスペースを確保すると黙り込んだままなのです。
>私は「親御さんは帰ってくるまで心配だろうな」等やたらと考え込んでしまい、
>2度とも何にも言いませんでした。注意するのが怖かった共言えます。
>でも、こういう風に
>「黙りこんで=自分の世界に入り込んだまま異常な行動をする子あるいは人」は
>自分が自覚するまで、「自閉症」と決めつけていた、という思考回路の事実に
>私自身その子の隣で愕然としました。
>なにか考え&レスが浮かんだ方のご意見を聞きたくて今日はカキコ致しました。
私にもにたような経験があります。
以前私が、電車通勤で仕事をしていた時の事です。ある駅で高校生男女5人
が乗ってきて4人は、空いてる座席に座り無言でそれぞれ鞄からマンガ本を
取り出し読みはじめました。もう一人の男子が離れた所に座り(私の近く)
ました。その男子は見るからに落ち着きがなく立ったり、座ったりを繰り返
していたのです。そして『発車しない』『発車しない』と興奮気味にぶつぶつ
言い出しはじめました。その日はたまたま、電車が5分ぐらい遅れていたので
不安だったのでしょう。5時を過ぎてしまったことが、より不安を高めたよう
でした。わたしは直感的に『ああこの子は自閉圏内にいる子だ』と思ったのです。
悲しい「習性」とでも言えばよいのでしょうか・・・・・・。
何人かの人がその男子の様子を見てクスクスと、笑っていました。
私は自分の子供が笑われた気分になったことを覚えています。
これも悲しい「習性」かも・・・・・・。
Maria wrote:
> ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。
それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
それでは言葉を変えて、私は「発達心理学における理論」支持派と言いましょう。
ただこれでは範囲が広すぎるので、本当はいい言葉を探さなければいけないんでしょうけど。
くると wrote:
> こんにちわ、武田さん。就職試験の疲れがやっと取れたくるとです。
>
>武田好史さん wrote:
>>くると wrote:
>>>> このように「見える」ということは、目と脳が同時に正常でないと「正常
>>>>に体験できない」感覚なのです。
>>>
>>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>>ります。
>
>>私は
>>「視覚は他の感覚と合わさったときに初めて虚構でなくなる」「あなたの感じてい>る視覚世界はあなただけのものである」ということが視覚について言えるのではと>おもいます。
>>そして普通の視覚というのは、「万人が見た平均的なもの」なのだという気がしま>す。
>
> 「万人が見た平均的なもの」ですか。じっさいには全ての人の見え方には細
>かい差異がひしめきあっていますが、それを切り捨てた共通の見え方みたいな
>ものですか?
>
> この考えに基づけば、「視覚異常」というのは「異常か、正常か」という次
>元の問題ではなく、「典型的か,非典型的か」という次元の問題なのではない
>でしょうか?そして、非典型的な視覚を持つ人は視覚が異常だからではなく、
>同じ見え方を共有できる人が少ないから困難が発生するのではないか、と考え
>ています。いかがでしょうか?
確かにそういった面もあるのでしょう。これは何も視覚障害に限ったことではなく、全て障害のについて言えると思います。もちろんAS・ADHD・LDもその中に入るでしょう。実はこのことはバリアーフリーということを考える上でとても重要なことなのです。
福祉作業所でボランティアをしていた頃、私は「見えない」というのは、どういうことなのかを知りたくって、目をつぶって手探りでフェンスを触りながら、市民体育館の二階の走路を歩いてみたことがあります。どっちに進んでるのかというのが、手の触覚で感じるフェンスのパイプの曲がり具合からしか判らないので、見えているときには短く見える距離が、その倍以上に長く感じました。
見えないという人たちには、歩道の黄色い凹凸のある板・オルゴール付きの信号などの「進むための手がかり」というものが、いかに大切かそのとき初めて判りました。
またある自閉症の専門家は、言葉の不自由な重度の自閉症の子とラポール(やりとり)をするコツとして次のようなことを言っています。
#「限られているその子の言葉が、彼の行動とどのように結びついているかをよく#観察しなさい。例えばその子がポポーとしか言えないのであれば、ポポーという#ことが何を意味しているのかを、頻度や表情・どんな場での使用かということか#ら読み解いていく必要があります。」
シュッツさん wrote in 『Re: 「心の理論」は有害である。(追加)』、
No.5940、10 Jul 2001
>「心の理論」という名前について、分かりにくいと思う最大の要因は、「理論」
>が「科学上の理論」ではなくて「個人の内部の思考における理論」の意味で使っ
>ているからです。
>普通は前者で使われることが多い言葉なので、混乱しやすいと思うのです。
つまりは、そういうことなんです。『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文を書いた人たちは、まさしく「科学上の理論」と同じような意味に限定したくて、「理論」という言葉を使ったんですよ。で、後に続く研究者たちも、「個人」といったような特定しがたい要素を排除し、「精密科学」としての発達心理学・認知心理学を確立しようとして、あえて「理論」という言葉を使ったわけです。
ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。
麦芽とホップと水だけで作ったのが「ビール」。それ以外のものを「ビール」と呼ぶな、というのと同じ。「心の理論」というのは、対象を一種の機械、つまり「自分とは異質なもの」とみなした上で、その「行動」から帰納的推論によって得られたモデルについてのみ使っていい言葉なのね。
だからこそ、「心の理論」というのは、チンパンジーを対象とした実験を基礎としているわけです。チンパンジーにとって人間は理解不能な異質なものであり、感情移入や自己投影の対象ではない、と考えたからなんですね。これが「人間がチンパンジーの行動を予測する」ということだと、人間はチンパンジーを「擬人化」しちゃうから、「心の理論」の検証実験にはならない。そういうことなんです。
ですから、「心の理論」的な人間の行動原則の捉えかたは自閉症方面の人間にとってはとても自然なことでもあるわけです。だけど、健常者はそういう形では人間というものを捉えてないのね。あくまで「感情移入」「自己投影」によって理解をしているのだと。だからこそ、自分と質的に異なった存在の行動を理解することがとても難しいわけです。
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
ということなわけです。
おわかりいただけたでしょうか。
(Maria)
Maria wrote:
> 現在、「セルフ・コメットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいった考え方が出てきて、その「私の根っこ」の「わけのわからなさ」というのはだいぶ解消されてきたのだけれど、依然としてその「私の根っこ」というのは人類にとって「わけがわからない」ものなのね。で、人類にとって「わけがわからない」以上、個人にとってはますますわけがわからない。
>
> だけど、「人間っていうのは本人にとってわけのわからないものに衝き動かされて行動し、それを雛形として他者の行動を理解し予測する」とかいったら、それこそ「わけのわからない理論」というものができあがってしまうわけです。「そんなんじゃ困るんだよー、そんなわけのわかんないものを持ちこむなよー」というのが、「心の理論」の「心の理論」たる所以なわけですね。
>
> そんなわけで、
>
>>これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
>>「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」である
>>ときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。
>
>とか言っちゃった時点で、それは「心の理論」と呼ぶべきものではなくなっちゃってるわけです。
じっくり考えてみたんですが、この部分の話のつながりがどうしても分かりません。
何故、前の部分から後の結論が出てくるのか、もう少し詳しく分かりやすく説明していただけないでしょうか。
くるとさん wrote:
> という点について質問です。そもそも、「正常な視覚を持っている」人が見
>ている外界の様子は、実際の世界の様子を正しく知覚できていると言うことが
>できるのでしょうか?
「可視光線」と呼ばれる特定の帯域の電磁波が、物体の表面で反射したり吸収されたり
する性質の範囲内では、正しく知覚できていると言えるでしょう。
> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>ります。
波長500ナノメートルの光に対して、「赤」でも「青」でもなく「緑色」を感じるの
は、「人間の脳や目の共同作業によって作り出された虚構」と言えるでしょう。
しかし、その光そのものは「人間の感覚と独立して存在している」物理的な存在です。
波長700ナノメートルだとなぜ「赤」なのか、450ナノメートルだとなぜ「青」な
のか、という疑問は、いくら考えても答えなど出ないでしょう。
ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
実験などで明確にできるのではないかと思います。
もし波長700と450で視神経が全く同じ反応をするなら(あるいは反応できないな
ら)、その人は赤と青を区別できない色覚異常ということになるでしょう。
神経の反応というものは、各個人で違うことはもちろん、左右の目でも微妙に違ってい
て当然だと考えられます。「利き手」「利き目」が存在するように。
ちょっと話は変わって。
「真っ赤なリンゴ」は、赤い光を反射して他の色を吸収するので赤く見えます。
そのため緑色の光で照らせば、反射できる赤い光がないため「真っ黒なリンゴ」に見え
ることになります。
「緑色の光」をどんなに明るく強力にしても、そのリンゴは真っ黒に見えます。決して
赤く輝いて見えることはありません。
同じリンゴに対して「真っ赤なリンゴ」「真っ黒なリンゴ」という異なる見方ができる
ことになります。
しかし、これはどちらかが間違っているわけではありません。どちらも「その観察条件
のもとでは正しい」のです。
いずれにせよ、そのリンゴの「赤い光を反射して他の色を吸収する性質」は、観察する
環境とはまったく関係のない、そのリンゴそのものが持っている特性です。
色を考えるときは、その観察条件も含めて考えたいものです。
ぱうぜさん wrote:
>私は武田好史さんの考えに近い感じを持ってます。でも、くるとさんは
>知覚できる色彩について言っているように思えるので私の感覚を書いて
>みたくなりました。
>
>実は、私の右目と左目は見える色彩が少し異なっています。たとえば、
>右目で見ると明るい黄色、左目で見ると薄く緑がかった黄色に見えます。
>だから、どちらの目で見た色が本物かということは意味を成しません。
>(少し私の脳が壊れていることは認めますが)。
>
>でも、同じ方の目で見て比較して、これとこれは同じ色ということは分
>かります。個人差として、この程度の違いはあるかもしれないけど別人
>では比較できないのではないかと思っています。
やはり、同じ名称を持つ色でも、(見る目)によって差異がひしめいて
いるみたいですね。「別人とは比較できない」という点は武田さんの「あ
なたの感じている視覚世界はあなただけのものである」という理論とも関
連して面白いですね。では
おむにさん wrote:
>くると wrote:
>> 色というものが「人間の感覚と独立して存在しているのか」「人間の脳や目
>>の共同作業によって作り出された虚構なのか」というのが、質問のまとめにな
>>ります。
>
>脳にある種の電気パルスを流すと、色の感じ方が変わるようです。
>ですから、「人間の脳や目の共同作業によって作り出された虚構」
>であると思います。
わたしは基本的には虚構説をとっています。そして、「色覚異常」とされる問
題は「典型的な虚構が見えるか」「非典型的な虚構が見えるか」の違いだと思っ
ています。そして、「非典型的な虚構が見える人」は数が圧倒的に少ないので困
難があるのであって、「正常か、異常か」という尺度では測れないような気がし
ます。(くると)
Makichanさん wrote:
> 私もそのようなこと考えたことあります。で結論は、実際に存在する世界の様子>なんて人間である以上そもそもわからん話で、人間が知覚できる範囲内でしか世界>は解からんわけですよ。解からないことには沈黙するしかないん(どこかで聞いた>セリフ)じゃないかと思います。
ヴィトゲンシュタインの言葉だったと思います。しかし、ヴィトゲンシュタイ
ンがどのような意図でこのように発言したのかは不明です。ある一説によると、
ヴィトゲンシュタインは「沈黙するしかないこと=哲学」と考えていた節があって、彼が主張したことこそが「沈黙するしかないこと」だったとされています。
考えてみると現代の哲学は他の学問分野では探求することを放棄してしまった
領域ばかりを扱っているような気がします。
まあ、それはともかくとして…
> 少し論点がずれるかもしれませんが、この世界に色があると認知するのは、人間だけじゃないかしらん。他の生物は(聞いてみたことないので実際のところ解かりませんが)色という概念そのものがないんじゃないかと思うんです。色を情報のひとつとして反応することはあっても。
> いや人間でもそうです。「花が赤い」と感じたその瞬間「赤」があるので、感じなければ、ないに等しいわけです。前からイメージとしてあった「赤」に当て嵌めて「赤」を感じるじゃないですか。始めにイメージありきですね。これでいうと質問の後者にあてはまりますね。こういうのを唯心論というんだっけ。
この意見は異なる観点からみて、結論が一致しました。(根拠がちょっと違
っていますけど)
確かに動物の中には体の色や模様によって他の生物種を威嚇したりするもの
もいるので、自分が感じる色に反応することはありえると思います。しかし、
かれらは色の概念自体は持っていないでしょう。
色という概念ができるためには「言語」による分類が必要です。ある精神分
析哲学者(ラカン)は、「人は言語によって創造された」と発言しました。彼
の見解によれば、わたしたちが認識できるためには、知覚できたというだけで
は不充分だとします。さらに、知覚できたもの(現象)が言語や記号に変換で
きて初めて認識に到達することができるそうです。当然、概念も言語化や記号
化という作業なしには成立しません。よって、言語を持たない動物は色という
概念は持っていないと思います。
「前からあったイメージとしてあった赤に当てはめて、赤を感じる」という
のも納得できました。これをわたしは同一性という観点から考えています。つ
まり、「どの色が赤であるか」を判断するためには、前例を必要とします。そ
して、前例で「赤」とされた色と一致した色に出会った時だけ、わたしたちは
「赤」と感じることになります。わたしも基本的にはこのように「赤」という
色を感じています。
もっとも、この考え方の問題点も少しだけ指摘しておきます。それは次のよ
うなことです。
>前例で「赤」とされた色と同じ色を比較する場合、前例の「赤」はさらに前
>の前例と比較して「赤」と名づけられたに違いない。すると、前例の「赤」
>を「赤」と名づけるために比較の対象が必要であり、さらに遡る前例Bが存
>在するはずである。しかし、前例Bを「赤」と名づけるためにはやはり比較
>の対象が必要であり、さらにさかのぼる前例Cが存在したに違いない。そし
>て、前例Cを「赤」と名づけるためには比較の対象が必要であり、さらにさ
>かのぼる遡る前例Dが…
と、このように理論が無限進行してしまうのです。ちなみに前文の「赤」
という部分を「正常」とか「異常」という言葉に置き換えても、やはり同じ
問題がおこります。
という訳で、唯心論的認知はわたしたちがよく用いる認識方法ですが、問
題もあるということになるでしょう。では
「心の理論」という名前について、分かりにくいと思う最大の要因は、「理論」が「科学上の理論」ではなくて「個人の内部の思考における理論」の意味で使っているからです。
普通は前者で使われることが多い言葉なので、混乱しやすいと思うのです。
名前だけの問題なら、「定義をはっきりしろ」と言ってしまえば終わりで、中身の議論には関係なくなってしまいますね。
現在「心の理論」を研究している人たちでさえ、学説によって定義に差があるでしょうから、その決まっていない部分をここで突っ込んでもしょうがないでしょう。
Maria wrote:
> そんなわけで、「心の理論」というのは、「心というものに対する人間の捉えかた」みたいな意味で言ってるわけではなくて、「自分自身の心とは別に、観察から導出された推論の結果としての、『他者の心』のモデルを元に、(ヒトを含む)霊長類は他者の行動予測をしている」という考え方なわけです。
まさしくその通りだから、「感情移入を排していない」と書いたのです。
類人猿の「心の理論」に、私が書いたようなプログラムソースが存在しているかどうか、そう考えると猿の実験が、「感情移入」や「理論的な理解」などのいろいろな心の動きの道筋を区別する基になっていると考えます。
同時に何故「有害」かがまだ分かりません。
なお、あのソースは人間一般ではなく、あくまでも私の場合です。
経済学とかの部分は私には知識がないのでパスします。
用語とか分からないのがおおかったので、いまいち意味が読み取れませんでした。
I wrote:
>ミジンコはミジンコの都合で生きているし、クラゲにはクラゲのライフスタ
>イルというものがある。けれど多くの人間は、人間の視点でしかミジンコや
>クラゲを理解しようとしません。
多くのひとはクラゲを見ると、「のんびり」「ゆったり」というイメージを勝手に想像してしまいますけれど、本人(?)は頑張って謹厳実直にクラゲとしての生きかたを貫いているのかもしれない。マンボウとかウミガメとかに見つかると齧られちゃうし。頑張って泳いでもスピード出ないし。それなりの苦労というものは絶えないと思います。
親は自分の子供に自分と同じものを期待します。
だけど、六十ワットで動くモーターに百ワットの電流を流したら、過熱で壊れてしまいます。
六十点を取る子供に百点を取らせようとすると壊れると思うぞ。
(Maria)
i wrote:
>ただし、「心の理論」という概念を正確に理解しているならば、だけれども。
シュッツさん wrote:
>さいごに、「心の理論」という用語については疑問があって、もっと相応しい
>名前を考えてくれないかなぁと感じています。
……こういうことになると思っていたのだよな。
「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になっています。で、
>「心の理論」がなぜ「理論」と名付けられたかというと、「他者の心の中は推
>論によってしか理解できない」からだったりする。
と書いたように、この論文が画期的だったのは、当時流行したスキナー流の行動心理学のように、「内観心理学」のぐじゃらぐちゃらした湿っぽさ(なんちゅー乱暴な表現じゃろか)を払拭したことだったのね。
つまり、内観心理学的立場だと、人間は「自己省察」によって「自分の心がどのようなものであるか」を知るのだけれど、それは当人にとってさえ説明不能な「よくわからない」ものなわけです。で、それを物差にして他者の行動をあーだこーだ、とか言ってたら、はっきりいって学問になんない、とスキナーたちは考えたのね。それで「行動」というものを対象にしたわけです。確かにこのことで、心理学は大きく進歩しました。感覚心理学や計量心理学が発展したなんていうのも行動心理学の与えた影響だと言っていいでしょう。だけど、「ネズミやサルが解ったからといって人間が解るか?」みたいな意見はあったのね。でまあ、ぜんぜん別のところでユングやフロイトの心理学も続いていたわけですよ。
そんなわけで、「心の理論」というのは、「心というものに対する人間の捉えかた」みたいな意味で言ってるわけではなくて、「自分自身の心とは別に、観察から導出された推論の結果としての、『他者の心』のモデルを元に、(ヒトを含む)霊長類は他者の行動予測をしている」という考え方なわけです。
まあ、こういった「人間機械論」的なパラダイムというのは一時期大流行しまして、「利己的遺伝子説」の流行なんていうものも、こうした流れの一部だったりするわけです。本当はあの「利己的遺伝子説」も、かなり誤解されているのですが。
でまあ、その後コンピュータの普及によって多くの研究者が「人間のモデルとしてのコンピュータ」というものを普通に想定するようになって、ますます「人間機械論」的なパラダイムというものは流行したわけですね。集団心理学なんていったら、じっさいこうしたアプローチでかなり成功してるし。
で、こうした流れの裏には、「真古典主義的経済学」みたいなものが横たわっていたのだな。つまり、すべての生物は何らかの価値における「利益」を最大化するように行動する、ちゅー考え方なのですね。バブル経済真っ盛りの頃とかいったら、こういう考え方は流行るよなぁ。
だけどですね。その「利益」を求める主体っちゅーのは何なのか、ということになると、はた、と考えこんでしまうのですよ。経済学だったら「個人」や「企業」、国際政治だったら「国家」、生物学だったら「遺伝子」みたいなことになるんだろうけど、「私が私であること」を支える「あいでんててー(自己同一性)」ちゅーのはどこにあるんだろうか、みたいなことに、なってしまうのですね。つまり、「失われたあいでんててーの探索」ちゅーのが始まっちゃったわけです。あいでんててー。(←読み筋は吾妻ひでお)
ほんでもって、ダーウィン流の「突然変異と自然淘汰」みたいなパラダイムが行きづまっちゃったところに出てきたいわゆる今西進化論、つまり今西錦司さんの「種社会と棲みわけ」みたいなものが注目されてきたわけです。
つまり、「種」っつーのは、「あるニッチを共有している、交配可能な個体集団」として、あいでんててーを持っているわけです。で、「個体」というのは、その「種としてのあいでんててー」を引き継ぐことによって、「個体としてのあいでんててー」を得ているのだと。
で、「個体」としての人間は、人間の「種としてのあいでんててー」を決して「理解」はしていないのね。「恋は思案の他」なぁんて言葉もあるように、「理解不能だけれど、確かにそこにあるもの」としての「私の根っこ」というものを持っているわけです。
現在、「セルフ・コメットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいった考え方が出てきて、その「私の根っこ」の「わけのわからなさ」というのはだいぶ解消されてきたのだけれど、依然としてその「私の根っこ」というのは人類にとって「わけがわからない」ものなのね。で、人類にとって「わけがわからない」以上、個人にとってはますますわけがわからない。
だけど、「人間っていうのは本人にとってわけのわからないものに衝き動かされて行動し、それを雛形として他者の行動を理解し予測する」とかいったら、それこそ「わけのわからない理論」というものができあがってしまうわけです。「そんなんじゃ困るんだよー、そんなわけのわかんないものを持ちこむなよー」というのが、「心の理論」の「心の理論」たる所以なわけですね。
そんなわけで、
>これらの違いも「心の理論」から帰結されます。
>「感情移入」に至るまでの道のりの違いで、対象が「機械」と「生物」である
>ときの思考過程がどれだけ違うかの程度でしょう。
とか言っちゃった時点で、それは「心の理論」と呼ぶべきものではなくなっちゃってるわけです。それが、冒頭に掲げた、
i wrote:
>ただし、「心の理論」という概念を正確に理解しているならば、だけれども。
シュッツさん wrote:
>さいごに、「心の理論」という用語については疑問があって、もっと相応しい
>名前を考えてくれないかなぁと感じています。
という文章に端的に表れているのね。
そんなわけで、すでに誰もが「心の理論」という言葉を本来の意味では使わなくなっちゃっているのですよ。だから、混乱を避けるためにこの言葉を使うのはやめましょう、とあたしは言うことにします。
だいぶ粗雑な文章になってしまいました。詳しくは『「どっちでもいいこと」が決められない。』の中で、じっくりと。
(Maria)
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