アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
bauです。ちょっとでてきました。
Xanadii wrote:
> 私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。私にとって車が「走る凶器(死語?)」と呼ばれるのは、「ぶつかったら危ないから」とか「有害なCO2を排出する機械だから」であって、「失敗することもある人間が操縦しているから」というふうには認識していないと思う。
>
そうそう、私も認識していません。
「クルマ」が走っているのがわかるだけ。
何年か前に、認識していないこと自体に気がついたので、
ヒトが乗っているんだって思うようにはしているけど。
たくさんの車が道路を一定間隔で整然と走るのを見ると感心します。
Xanadiiさん wrote:
> 学術路線から脱線しっぱなしの駄文製造機・Xanadiiでした...
以前から思っていたしちょっと指摘もしていたと思うのだけれど、Xanadiiさんにはとても明晰でフェアな人格がいらっしゃるのだな。情的なXanadiiに隠れてはいるけれど、研究者的な態度を感じます。それって学術路線の王道だとおもう。うん。
>#のぼりぼう
>
> きょう、のぼりぼうをしました。うまくのぼれなかったので、くつをぬいで、
>はだしでのぼったら、うまくのぼれました。うれしかったです。
> これ、8歳の時の、私の作文なんですけど。おしまいに「うれしかったです」
>と付け加えたということは、それを読んで、大人たちが、「そうなの、うれしかっ
>たの。よかったね、よくできたね」と誉めてくれるであろうことを予測=期待し
>ていたのだろうと考えられるんだろうか。それとも単に、「自分だけが嬉しい」
>という事実を、文章で報告しただけであると解釈したほうがいいんだろうか?
>
> たぶんこの作文を書いた時点での私は、私がのぼりぼうを登れるようになれた
>なれないなど、これを読む相手にとってどうでもいいことかも知れないというこ
>とまで想像することは無理だったかも知れない(かりにそんなこと考えてたら、
>なにひとつ書けたもんじゃないわな)にしても、相手が喜ぶことをしよう(書こ
>う)という感覚は、あやふやながら持っていたはず。当時を思い出して、そんな
>気がした。
> あっ!もうちょっと年いってからなんだけど、学校に提出する作文書いてて、
>さいごに「お兄ちゃんのばか」と締めくくったら(もちろん本音だった)、それ
>読んだ母が激怒して「そういうことは書くもんじゃない!」と内容を書きなおさ
>せられたこともあったなー。
ちょっと長い引用になってしまいました。ごめんなさい。ぺこぺこ。
あたしが思うに、あたしとXanadiiさんには共通の歯がゆさがあると思うんですよ。自分の感情が伝わらない、という歯がゆさ。だから、最後に「うれしかったです」と書いてしまう。「うまくのぼれた」→「うれしい」という自分の感情が、ちゃんと伝わるかどうかの自信がない。だから、今現在あたしが書いているこの文章だって、「王道だとおもう。うん。」「ごめんなさい。ぺこぺこ。」といった表現が出てきているのですね。で、これが「現在のあたし」の典型的なスタイルだったりもするわけです。
JoshyaさんとKILROYさんは「クールな性格」がウリだからこういうのはないんですが、あたしと同じ情熱系のMotoちゃんの場合は「わはははは。」「違うっつーの。」「ばかもーん!」「くそー。」とかいった一言を文章の後ろにくっつけるというのもあるし、『顔文字使用マニュアル』なんていうのを書いてしまうくらい、全員「感情を相手に伝えるのに苦慮している」ことの痕跡が疑われたりするのだな。
それともうひとつ。相手の態度というのがまた問題なのですよ。
> 私自身、学校時代を通じて、周囲からも親からさえも、「何を考えているのか
>分からない」「感情がない」「人間らしくない」「コワイ」「キモチワルイ」な
>どと言われっぱなしであったこと、
こういう相手に対して、人間は感情移入できないのですね。だから、「言葉の内容」と「感情」の間にギャップがあるんです。
たとえば、「謝罪したいと思う」というのは、謝罪の言葉ではありませんね。「謝罪したいんだけど、組織の人間としては『謝罪』しちゃうと『組織としての責任』を認めちゃうことになるからそれはダメ」みたいな意図が見え見えになってしまうわけですよ。松本サリン事件のときも、ある警察関係者が「個人としてお詫び申し上げる」とか言っていたわけで、つまりは組織としては責任を認める発言はしていないわけで、「遺憾に思う」かなんかで済ませちゃったわけです。
だから、あたしは「ごめんなさい」と頭を下げて、それでようやく「謝罪」だと思っているわけです。
つまり、「言っていることの内容だけでは、感情は伝えきれない」、あるいは、「伝わってこない」という思いがどこかにあるわけです。その不信が、「うれしかったです。」の一言には込められているのではないでしょーか。だけど、「現代における普通の大人」の文章表現には、その欠落を埋める表現はなかったりするのね。そこで、あたしのような「子供じみた」「幼稚な」文体にならざるを得ない、ということがありそうに思います。
「最近の若者の文章は子供っぽい」みたいに云われているようだけど、それって大人が言葉を形骸化させちゃったから、しかたなくそうなってるんじゃないかなぁ。そう思います。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>アインシュタインとボーアの論争になぞらえるのは奢り過ぎ?
神は人類を創造したほどの大ばくちゃー(「おおばくちゃー」。沖縄方言で「大層な博打打ち」の意)だったりします。サイコロ遊びくらいすると思うぞ。
>ちょっと戻って、上の1)の論文のタイトルを訳すと
>Maria wrote:(No.5936)
>> 「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジー>>は心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になって
>>います。
>ではなくて『チンパンジーは心の理論を持つか?』になります。
貧乏人なので、最近出版された安西祐一郎さんの本を八重洲ブックセンターで立読みして調べました。
小心者なので、メモを取る勇気がありませんでした。
そんなわけでうろ覚えでした。ごめんなさい。
>1)はチンパンジーの実験を通じて最初に「心の理論」を提唱した論文で、2)は
>それを発展させて人間とチンパンジーの違いに言及したものです。
>3)は人間の子供の心の発達に対して「心の理論」を応用した最初の論文です。
>4)は「心の理論」を自閉症に応用した最初の論文です。
>mariaさんは少なくとも4)には反対らしいのですが、1)〜3)についてはいかが
>でしょうか?
>> シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
>これはどこのことでしょうか?
>主張の違いのように思えるのでが。
じつは、あたしは
1) Premack,D. and Woodruff,G.: Does the Chimpannzee have a Theory of Mind?, The Behavioral and Brain Science, 1, pp.515-526, 1978.
2) Premack,D.: 'Does the Chimpanzee have a Theory of Mind?' revisited, Machiavellian intelligence: Social expertise and the evolution of intellect in monkeys, apes and human, pp.160-179, 1988.
3) Wimmer,H. and Perner,J.: Beliefs about Beliefs: Representation and Constraining Function of Wrong Beliefs in Young Children's Understanding Deception, Cognition, 13, pp.103-128, 1983.
4) Baron-Cohen,S, Leslie,A. and Frith,U: Does the Autistic Child have a "Theory of Mind"?, Cognition, 21, pp.37-46, 1985.
のうちの、(1)(と、たぶん(2)(3))に反対、(4)に一部賛成・一部反対なんですよ。そこんところを勘違いしてはおられないかと。
ですから、あたしは“Of cource, The Socialized Autistic Child have a theory likes "Theory of Mind": but does "normal" child have a "Theory of Mind"?”と言いたいのですよ。
>「行動」は見えるけど「心」は見えないので、科学において「現象」は見えるけど
>その背後の「理論」は見えないことになぞらえた、その「理論」を構築すれば「行
>動」が予測できるから、とも言われています。
数学における「関数」の概念がそうですね。で、心理学における「行動主義」も同じような立場です。
で、その場合の「理論」の優劣に関しては、『オッカムの剃刀』の原則がだいたい適用されるわけです。ですから、
>>それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理
>>論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっ
>>きりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまります
>>よ、ということだったりします。
>こういう理論があるのもまた当然のことでしょう。
に関しては、「どっちがシンプルかつ精度が高いか」という評価を待たねばなりません。
で、「心の定式化」=「心の理論」ではなく、「自己投影」「感情移入」といった、「心の理論」では排除した要素を取込まないと、「心の定式化」は困難であり、結果的に天動説や錬金術のようなグロテスクなものになっちゃうぞ、とあたしは言っているわけです。ふぅ。
(4)の執筆者の一人であるコーエンの『自閉症とマインド・ブラインドネス』なんか、なんだか凄いことになってるぞ。とにかく必死になって解読して理解したのはいいけれど、「なんじゃこりゃあ!」とか松田優作のように叫んでしまいました。こんなの、もっと簡単な説明があるだろーに、と思ったんですね。
でまあ、あたしは「心の理論」ではなく、「適応プログラム」と呼んでるわけなんですけどね。
Xanadiiさんのレスには追ってお返事します。ぺこぺこ。
(Maria)
武田好史 wrote:
>1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?
この質問って、「銀行に預けた方がよい」を前提としてるんですね。これだと答えにくいなあ。
質問をひねって、「友達にお金を預けるのと比較して、銀行に預けた場合の利点を探してください」ならいくらでも出てきます。
ただし、その逆でもいくらでも出てきますけど。
私だったら、その両方を全部並べあげて、全体的に比較して銀行の方が「利点の合計 - 欠点の合計」が多いから、と答えるでしょう。
(で、「普通」の人に途中で打ち切られたり、理屈っぽいと呆れられるんだ。)
実際には私は銀行ではなく郵便局か証券会社にあずけます。利息も信用もサービスも情報公開もなく、手数料と税金ばかり取るところに預ける理由なんぞない。
いままであんまり考えたことがなかったから、自分の考えをこの場に提示してみよう。
くると wrote:
>「異常」→関係者が理解しにくい逸脱行動のこと。障害があるというだけ
> では異常とはみなせない。
>「障害」→心身の機能が不全だったり非典型的であるために発生する困難。
> 個性とは別のものである。
異常: なにかが非典型的であるという事象。判断基準は客観的 (のはず)。
他人に対する困難度が高い場合 (逸脱行動など) 、比較的よくある事象でも過敏に判定されるようだ。
(逆に「やたらに背が高い」などは他人に影響が少ないため異常とは思われにくい)
障害: 本人にとって不具合、困難を伴う事象。
その事象による直接の困難はなくても、その「異常さ」により他人につらくあたられる、などの二次的な困難も含む。
医療の対象はここ。
>「個性」→心身の機能が不全だったり非典型的ではあるが、そのことによ
> って困難が発生していない。
>
個性: なにかが非典型的である事象そのもの。困難さには関係ない。判断基準はかなり主観的。
その事象にほかの名称 (異常、〜〜人、など) が付けられる場合には個性だとは呼ばない場合もある。
たとえば、他人に対する困難度が高い場合は個性だとは認めてもらえにくいらしい。
私は「偏り」すべてを個性と呼びたいが、自分のこととなるとなぜか抵抗がある。なぜだろう。
もう一つの疑問は、「逸脱行動という場合、どの程度偏っていたら『逸脱』なのか」。
3人に一人? 100人に一人? 50億人に一人?
心の理論についての話題が出ているので、ちょっとみなさんに質問します。
以下にあげるのは、私がよこはま発達クリニックでWAISーRテストを受けたときに、常識の部門でうまく答えられなかった問題です。
1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?
2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?
1.は、今になって考えてみれば、「友達がお金を着服してしまうおそれがあるから」というのが正解なような気がしますが、そのときはなんか頭がバグってしまって全く何も言えませんでした。
2.は、「妊婦さんやけがをしている人が座って安らぐためです。」と答えたところ、それでは不十分であると言われました。
みなさんならどうこの設問に、答えますか?
最初に補足から
シュッツ wrote:(No.5954)
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
「私が備えている」という意味ではなく「自然界に存在する」という意味です。
次に「心の理論」に関する論文を挙げておきます。
1) Premack,D. and Woodruff,G.: Does the Chimpannzee have a Theory of Mind?, The Behavioral and Brain Science, 1, pp.515-526, 1978.
2) Premack,D.: 'Does the Chimpanzee have a Theory of Mind?' revisited, Machiavellian intelligence: Social expertise and the evolution of intellect in monkeys, apes and human, pp.160-179, 1988.
3) Wimmer,H. and Perner,J.: Beliefs about Beliefs: Representation and Constraining Function of Wrong Beliefs in Young Children's Understanding Deception, Cognition, 13, pp.103-128, 1983.
4) Baron-Cohen,S, Leslie,A. and Frith,U: Does the Autistic Child have a "Theory of Mind"?, Cognition, 21, pp.37-46, 1985.
1)はチンパンジーの実験を通じて最初に「心の理論」を提唱した論文で、2)はそれを発展させて人間とチンパンジーの違いに言及したものです。
3)は人間の子供の心の発達に対して「心の理論」を応用した最初の論文です。
4)は「心の理論」を自閉症に応用した最初の論文です。
mariaさんは少なくとも4)には反対らしいのですが、1)〜3)についてはいかがでしょうか?
話は変わりますが、確率過定論に拡散方程式というものがあります。
これは確率過程(時間の関数としての確率)を表現する微分方程式は解くことができないため、対応する確率密度関数が満たす方程式のことです。
それがなぜ「拡散」なのかということですが、確率が拡散するとかそんなことではなくて、最初にブラウン運動のような物質の拡散問題を解くために作られたからです。
それが今では確率過程一般に適用されるように理論が発展しました。
つまり当初は「物質拡散」という特定の現象を解明することが重要であったのに対し、現在は方程式を導く過程が中心となったのです。
それにともない「拡散方程式」という名前も実体に合わなくなり、人名をとってフォッカー=プランク方程式(物理学)とかコルモゴロフ方程式(数学)と呼ぶようになりました。
しかし依然として拡散方程式と呼ばれることもあり、それでも十分通じています。
「心の理論」(プレマック理論とでも呼びましょうか?)もこれとよく似ていると考えます。
最初は人間の心を記述することを目的として、まずチンパンジーの行動を実験的に観察することから始め、チンパンジーの心の動きに対して定式化されるというように、対象が特定されていました。
それが発展することで「感情移入」も含めて、定式化された心が重要なのではなくて、定式化する過程が重要になっています。
ただし、現状ではまだまだ成熟した理論になっていないことも確かです。
「理論」として目指さなければならない目標が「一般化」であるでしょう。
またそれに伴い理論の名称も内容に相応しいものに変わることも自然な流れでしょう。
手法的には将来どうなるか分かりませんが、一つのアイデアとしてノン・パラメトリックな手法を使えば「わけのわからないもの」も一応の定式化が可能です。
「テスト」や「療育」への応用は「緩用」であるので、ここでの議論とは切り離すべきだと思います。
ちょっと戻って、上の1)の論文のタイトルを訳すと
Maria wrote:(No.5936)
> 「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になっています。
ではなくて「チンパンジーは心の理論を持つか?」になります。
このタイトルからプレマックは「心の理論」が存在することを前提として、「人間は持っているけどチンパンジーはどうか」を調べたのです。
最初の論文ではチンパンジーも「心の理論」を持つと言っていますが、後に2)の論文で訂正して、一定の年令を過ぎた人間の子供は持っているけど、チンパンジーは少ししか持っていないとしました。
Maria wrote:(No.5926)
> 「心の理論」がなぜ「理論」と名付けられたかというと、「他者の心の中は推論によってしか理解できない」からだったりする。だけど、人間というのは、本当に他者の心の中を推論によって理解しているんだろうか?
「行動」は見えるけど「心」は見えないので、科学において「現象」は見えるけどその背後の「理論」は見えないことになぞらえた、その「理論」を構築すれば「行動」が予測できるから、とも言われています。
Maria wrote:(No.5959)
> で、現状における「心の理論」というパラダイムおよび理論というのは、天動説や錬金術に近いものになりかかってるわけです。
まだ錬金術にはなっていません。
宇宙論に「超ひも理論」というのがあります。
「心の理論」みたいに、有力だけどまだ受け入れられていない段階の理論です。
そのもとになったものとして、南部陽一郎の「ひも理論」というのがありました。
最初は注目されましたが、ぼろが多数見つかり、一端は錬金術のように扱われました。
しかし大きな発想の転換そすることによって(詳細は私の知識を超えています)南部の「ひも理論」を作り替えて「超ひも理論」が生まれました。
どんな理論でも黎明期には似たような状態があることでしょう。
「超ひも理論」にも否定派が多数いて、別の理論が存在するように、
>それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっきりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまりますよ、ということだったりします。
こういう理論があるのもまた当然のことでしょう。
繰り返しになりますが、私自身は「心の動きを定式化できる手法があり、自分自身に適用できる」ことによって心が非常に救われたので、「心の理論」を支持するのには論理的要素ばかりだけでなく、経験的要素もまた強いこともまた事実です。
> シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
これはどこのことでしょうか?
主張の違いのように思えるのでが。
> うーむ。なんだかとても面白い方面に話が行ってしまったぞ。うれしいなぁ。
アインシュタインとボーアの論争になぞらえるのは奢り過ぎ?
おむにさん wrote:
>大事なことは、「感性が変わっている」わけではなく、細胞の機能不全に
>より、明らかに「色弁別能力が低い」ということです。
>
>これを、個性と見るか障害と見るかは、人それぞれだろうと思います。
>私は障害だと思っています。
自分の意見をちょっとだけ整理させてください。言葉の使い方にあやふ
やなところがあったので。「異常」「困難」「障害」といった言葉をもう
少し正確に使用するべきでした。
「異常」→関係者が理解しにくい逸脱行動のこと。障害があるというだけ
では異常とはみなせない。
「障害」→心身の機能が不全だったり非典型的であるために発生する困難。
個性とは別のものである。
「個性」→心身の機能が不全だったり非典型的ではあるが、そのことによ
って困難が発生していない。
つまり、わたしの説で言えば、色盲や色覚は「異常」ではなく、「障害
」か「個性」ということになります。そして、おむにさんがそのことで困
難を抱えておられるならば、「障害」に分類されることになります。「色
盲」や「色弱」であること自体は逸脱行動とは言えないので、「異常」と
いう評価をすることはできないでしょう。(むろん、健常者と同様、障害
者が情緒的にこじれて逸脱行動をおこすことはありますが)
で、次に「障害」(困難)が発生する経緯を2つに分類しておきます。
(1)身体,知覚,認知に機能不全があるため
(2)身体,知覚,認知が非典型的であるため
「障害」による困難は(1)(2)いずれの場合にも発生します。そし
て、本人がどちらの理由で困難を抱えている限り、「障害」と判断すべき
でしょう。
なお、わたしは「色覚異常」と呼ばれているものについては、(1)で
はなく(2)の理由で発生する困難だと思います。そういう訳で、「色覚
異常」を「個性」だと言うつもりはありませんでした。
>反論めいたことを書きましたが反論ではありません。
>くるとさんの意見の主旨には賛成です。
>
>色に限らずあらゆる感覚は脳が作り上げた虚構だと思います。
>その虚構はそれぞれの脳の中にしか存在しません。
>そしてその虚構は脳の数だけ存在します。
最後に「色覚異常」についてまとめると、
(1)「色覚異常」は色覚が非典型的であるために発生する
(2)本人が困難を感じていれば「障害」である
(3)正確には「色覚異常」ではなく、「色覚障害」と表記すべきであ
る
ということになります。いかがでしょうか?
Makichan wrote:
>Maria さんwrote:
>> たとえばの話、「箱Xを捜す」と「誤答」した子供が、「他の子がいない隙に、人形を元の箱に戻してしまう」という悪戯をしないかというと、そうじゃないと思うんですよ。つまり、「子供Bではなくて子供Aに感情移入してしまった」ために、なんだかわかんなくなっちゃった、という可能性はあるわけです。
>
> Mariaさんのここのカキコ読んで、私もそれ感じたんですね。子供Aだけ居る時Aの心理になり、Bが出てきたらBの心理になり、Aが戻ってきたらBであることをひきずったままAになってしまう。つまりA=B=自閉者なんですね。彼らには、この世に自分しかいないんですよ。
> 彼らが何故そうであるかは、わかるような気がするんです。去年私カキコしましたが、全て存在は、自分の知覚を通してしか認識できないわけですよね。そのことに忠実になると、他者は自分の目に映る像でしかない。いや自分が自分であるという意識すらないわけで・・。
> このことは、かつて私が診断された「自己同一性拡散」の概念に繋がりますね。これは自分が自分であることに信を置けない状態を意味しますから。
>
> 「心の理論」は有害であるかどうかは、意見持ちません。ただその意味するところのものがなんとなく掴めたように思えたのでカキコしました。
すいません。Mariaさん、あさかぜさん、シュッツさん、makichanさん、武田好史さんの書込みはナナメ読みなので、「こいつわかってねえ〜」ということにもなりかねないこと覚悟の上の横レスなのですが(「わかってない」というのは、どこいらへんがわかっていないのか、指摘してもらえると助かるんですが...それ以前の問題かもな)。
私自身、学校時代を通じて、周囲からも親からさえも、「何を考えているのか分からない」「感情がない」「人間らしくない」「コワイ」「キモチワルイ」などと言われっぱなしであったこと、そこから「普通の子であれば、幼稚園卒業〜小学校3年の頃までにはごく自然に身につけているはずのなにかが、どうやらなぜか私には欠如しているか、または<遅れがある>らしい。」「つまり<心>の部分に何かあるらしい」と推測し、自分でさまざまな仮説を立てながら試行錯誤しつつ、今に至っていること。
自分の場合、Mariaさんやmakichanさんとは逆に、成長するにつれて「なおったように見える」タイプなんじゃないかと考えていること。
これが私個人にとっての前提なんですが。だから私も、今年のはじめごろウタ・フリスの論文で「アンとサリーの実験」を知ったときは、ちょっと心に引っかかるものを感じていました。
《サリーはカゴをもっていて、アンは箱をもっています。サリーはビー玉を自分のカゴにいれました。サリーは外に散歩に出かけました。サリーが部屋にいない間に、アンは(いじわるなアン!)カゴからビー玉を取り出して、それを自分の箱に入れました。さて、サリーが帰ってくる時間です。サリーは自分のビー玉で遊ぼうと思いました。サリーはビー玉がどこにあると思うでしょう?サリーはどこを見るでしょう?》正答はカゴの中です。サリーはビー玉をそこに入れたので、ビー玉はまだそこにあると信じているはずだからです。この解答は、信念の理解を前提としています。実験結果は、自閉症児は信念とは何かを理解していないことを示唆していました。サリーは、ビー玉が移されたときそこにはなかったのに、それを知っていると彼らは思い込んでいました。彼らは、ビー玉が現実にあるところを見ようとするサリー以外は思い描くことができませんでした。(『自閉症とアスペルガー症候群』ウタ・フリス編著/冨田真紀訳・東京書籍 p.46)
私としては、この文章の後ぐらいにでも、こういう一文を加えてほしかったんですよ。
#(実験者である我々は)「サリーは箱の中を見るとなぜ思うの?」と彼らに尋ねました。彼らはこう答えたのです。「だって、アンはサリーのビー玉を、箱の中に入れたんでしょ?だからだよ!」
これなら、私にもこの論文の意図するところが分かると思うんだけれど。
7、8歳の頃の私だったら、この「アンとサリー」の問題文をどう見、どう答えたか?
#のぼりぼう
きょう、のぼりぼうをしました。うまくのぼれなかったので、くつをぬいで、はだしでのぼったら、うまくのぼれました。うれしかったです。
これ、8歳の時の、私の作文なんですけど。おしまいに「うれしかったです」と付け加えたということは、それを読んで、大人たちが、「そうなの、うれしかったの。よかったね、よくできたね」と誉めてくれるであろうことを予測=期待していたのだろうと考えられるんだろうか。それとも単に、「自分だけが嬉しい」という事実を、文章で報告しただけであると解釈したほうがいいんだろうか?
たぶんこの作文を書いた時点での私は、私がのぼりぼうを登れるようになれたなれないなど、これを読む相手にとってどうでもいいことかも知れないということまで想像することは無理だったかも知れない(かりにそんなこと考えてたら、なにひとつ書けたもんじゃないわな)にしても、相手が喜ぶことをしよう(書こう)という感覚は、あやふやながら持っていたはず。当時を思い出して、そんな気がした。
あっ!もうちょっと年いってからなんだけど、学校に提出する作文書いてて、さいごに「お兄ちゃんのばか」と締めくくったら(もちろん本音だった)、それ読んだ母が激怒して「そういうことは書くもんじゃない!」と内容を書きなおさせられたこともあったなー。
私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。私にとって車が「走る凶器(死語?)」と呼ばれるのは、「ぶつかったら危ないから」とか「有害なCO2を排出する機械だから」であって、「失敗することもある人間が操縦しているから」というふうには認識していないと思う。
小学校時代の私に対する子供たちのいじめは、「泣くのがおもしろい」「いやがるのがおもしろい」とか、そんな感じだった。中学校時代は、「お前を鍛えてやっているんだ」とか、「あなたのこと(欠点)、こんなふうにはっきり言ってくれる人、ほかにいないでしょ?」っていうふうに、「理由」が出てきたみたいなんだけど。他者の気持ちを想像することができない、共感性がないっていうのは、お互い様な気がするんだけどね。「すきな人どうし」がやれるかやれないかっていう違いなんだろうか?
学術路線から脱線しっぱなしの駄文製造機・Xanadiiでした...
ウィローモスさん wrote:
>> ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
>>実験などで明確にできるのではないかと思います。
>
>と書いたのですが、「色覚異常」でサーチしてみるといろいろ引っかかってきますね。
>結構いい加減なことを書いていたようで、お恥ずかしい。
どうも、わたしが気がつかなかった観点からの考察をありがとうございま
した。わたし自身も光自体は人間の知覚と関係なく存在する可能性はあるの
かもと思うことはあります。ただ、わたしたちが光を知覚する時に何か違う
ものを読みこんでしまっている可能性はあるかも???実験したことがない
からわからないけど…
Maria wrote:
>
> 「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
> 「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
>
>ということなわけです。
私は「心の理論」については、この掲示板で初めて知りました。
端的にいうこと、これが健常者と自閉症方面の人の違いということで
しょうか?
私は他者を、感情移入・自己投影によって行動を予測することができ
ません。私の場合、他者を観察して行動パターンからその人の行動を
予測しているというほうがあっているような気がします。もともと、
あまり人に興味は無いのでそういう観察もあまりしませんが。
以前書いたように、右目と左目で色彩が異なるように感じられるので、
感情移入や自己投影で他者を見ることに疑問を感じているのかもしれ
ません。それとも、感情移入や自己投影に何の疑問も持たないのが、
健常者なのでしょうか?
もともと高次脳機能障害を検索していて、入力ミスが何かで、つい最近
この掲示板を見つけた新参者です。よろしく。
武田さん wrote:
> 確かにそういった面もあるのでしょう。これは何も視覚障害に限ったことで
>はなく、全て障害のについて言えると思います。もちろんAS・ADHD・L
>Dもその中に入るでしょう。実はこのことはバリアーフリーということを考え
>る上でとても重要なことなのです。
「異常」と「障害」という尺度については、障害学のなかでも混乱が発生し
ているようです。この点については、おむにさんへのレスでもう少し詳しく論
じていきますね。簡単に言えば、「異常」というのは「逸脱」、「障害」とい
うのは「困難」という意味に近いそうです。
丁寧なコメントをしていただきありがとうございました。(くると)
おむにです。
くると wrote:
> わたしは基本的には虚構説をとっています。そして、「色覚異常」とされる問
>題は「典型的な虚構が見えるか」「非典型的な虚構が見えるか」の違いだと思っ
>ています。そして、「非典型的な虚構が見える人」は数が圧倒的に少ないので困
>難があるのであって、「正常か、異常か」という尺度では測れないような気がし
>ます。(くると)
通常、人間の目には色を感じる3つの錐体細胞があります。
それぞれ、赤、青、緑の光を感じることによって興奮する細胞です。
黄色などの中間色は、それぞれの錐体細胞の興奮の割合で補完します。
#この補完の面白いところは、「赤と緑の合成光」と「黄色の光」は全く違うものなのに、人間には見分けがつかないと言うところです。
#たとえば人間の耳は可聴範囲内なら全ての周波数を感じることができます。
#つまり、高い音と低い音が同時になったとき、それらを聞き分けることができます。
#しかし、色覚は違う周波数の色を同時に見分けることは出来ません。
色覚異常の場合、この錐体細胞のいくつか、もしくは全てが、
機能不全もしくは欠損しています。
赤色覚異常であれば、赤を感じる錐体細胞が機能不全になっています。
その場合、機能不全の赤錐体細胞の代わりに緑錐体細胞が余計に働き、
赤の信号の何割かを、緑の信号として脳に送ってしまいます。
つまり、目から脳に信号が渡る間に、2つの色が混じってしまうわけです。
そのため、色覚異常者はそれらの色を見分けることが困難とされています。
大事なことは、「感性が変わっている」わけではなく、細胞の機能不全により、明らかに「色弁別能力が低い」ということです。
これを、個性と見るか障害と見るかは、人それぞれだろうと思います。
私は障害だと思っています。
反論めいたことを書きましたが反論ではありません。
くるとさんの意見の主旨には賛成です。
色に限らずあらゆる感覚は脳が作り上げた虚構だと思います。
その虚構はそれぞれの脳の中にしか存在しません。
そしてその虚構は脳の数だけ存在します。
最後に面白い小説を引用してご紹介します。
-----
伝えられるところによれば、ルミアンの身体は光り輝くゼリー状の物質で、
柔軟な外皮の中でいつも熱い腐食性の気体に浸されていなければならないらしい。
ルミアンの世界ではそういった気体が自然の大気を形成しており、
そこには液化した氷の海があり、その熱さは水銀を融かすほどだという。
J.P.ホーガン「造物主の選択」
Maria wrote:
>シュッツさん wrote:
>>それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
>>「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
>
> ……そうではないのですよ。発達心理学において、「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムに問題があると言っておるのですね、あたしは。
>
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイムというのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定されるやりかたにマッチしていない、ということなんです。
>
> だから、それを「心の理論」と呼ぶことにも問題があるし、それを「心の理論」と呼ぶことを止めてしまったらパラダイム自体に意味がなくなってしまう(「ロボット理論」とか言い換えたら現実に即したものにはなるんですが、「非・自閉症方面の人間がロボットの行動をどう予測しているか」に関する理論を研究しても、現状あんまり得るところがあるとは思えません)し、「自閉症方面の子供が『心の理論』を身につけることによって、『いわゆる健常者』と同じように『他人の気持がわかる』ようになるわけでもない」ということなんですよ。
>
> で、自閉症方面のお子さんを持ったお母さまがたや、自閉症方面の症状に悩むご本人さんが、この「心の理論」なるものに振り回されて迷惑していたりするんですよ。
>
> だから、「『いわゆる健常者』の他者の行動予測原理における『心の理論』仮説」というものを、発達心理学の世界、および発達障害児童教育の世界、および精神医学の世界から追い出してしまえ、とあたしは言ってるわけ。
>
> うーむ、この議論をちょっと整理したらそのまま本に載せられるぞ。仕事はかどってるなぁ。
>
> (Maria)
いえいえサリー・アン課題よりも、もっと有害性が高いのがあります。
それはロールシャッハテストをはじめとする「投影法」と呼ばれる心理テストです。
投影法というのは、絵やインクのシミ模様を見せて、「どんな風に見えますか?」と被験者に質問したり、また絵画を描かせて、それらの状況からその人の心理状態を把握しようというものです。
シミ模様に対する反応を用いるロールシャッハテストは、精神病であるかどうかということを見極めるための指標として、もう50年以上使われています。
このテストはスイスのロールシャッハという精神科医が、自分の病院に来る患者さんがインクのシミ模様に対して独自の見方をすることに気が付き、そのことから試行錯誤の末に編み出したということです。患者さんか絵を見て語ったことは、一定の分類基準によって分析され、それによって患者さんの精神状態が判るのだといいます。
しかしながら、言葉が話せるといっても、目の前で起こっていることを上手に語ることが苦手な、アスペルガー症候群の人にとって、このテストは大きな誤解の種になることがあります。かなりの人がこのテストのために、分裂病の烙印を押されてしまい、幻覚などの症状がないのに病院での生活を余儀なくされているようです。また、ASの人は部分反応といって、ある特定の部分を見て「トリ!」といったりということが多いということですが、「視認知に困難さを持っている」ということを知らないと、類似性があるという単なるノイローゼと見誤る可能性があるようです。
なお、日経サイエンスの最新号には、ロールシャッハテストの信憑性についてまとめた論文がありました。それによると、全く正常な人でもこのテストによって1/6という割合で分裂病という診断が下されたとのことです。
Maria さんwrote:
Mariaさんのこのカキコ見ていて「ハッ」と思ったことありましたので、一言述べさせてください。シュッツさんとの議論全部読んでいないので、内容が重なっているかもしれませんが。
自閉者が「心の理論」わからないのは、他者には他者の心理があるということがわからないというんですよね。そう言ってもいいが、もっと単純に言って、自分と他者との間に線引き出来ないんじゃないですか。更に簡単にいうと自己という概念自体がないんじゃないですか。自他未分の状態とでもいいますか。
> たとえばの話、「箱Xを捜す」と「誤答」した子供が、「他の子がいない隙に、人形を元の箱に戻してしまう」という悪戯をしないかというと、そうじゃないと思うんですよ。つまり、「子供Bではなくて子供Aに感情移入してしまった」ために、なんだかわかんなくなっちゃった、という可能性はあるわけです。
Mariaさんのここのカキコ読んで、私もそれ感じたんですね。子供Aだけ居る時Aの心理になり、Bが出てきたらBの心理になり、Aが戻ってきたらBであることをひきずったままAになってしまう。つまりA=B=自閉者なんですね。彼らには、この世に自分しかいないんですよ。
彼らが何故そうであるかは、わかるような気がするんです。去年私カキコしましたが、全て存在は、自分の知覚を通してしか認識できないわけですよね。そのことに忠実になると、他者は自分の目に映る像でしかない。いや自分が自分であるという意識すらないわけで・・。
このことは、かつて私が診断された「自己同一性拡散」の概念に繋がりますね。これは自分が自分であることに信を置けない状態を意味しますから。
「心の理論」は有害であるかどうかは、意見持ちません。ただその意味するところのものがなんとなく掴めたように思えたのでカキコしました。
ありゃりゃ、痛恨の書き損じ。
---
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
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は間違い。
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ですから、
「健常者=『心の理論』を理解して<いる>人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解して<いない>人」
ではなくて、
---
が正解。
失礼いたしました。ごめんなさい。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>そもそも「心の理論」は自閉症のために考えだされたものではなく、子供の心
>の成長を理論的に表すために作られました。
>それがたまたま自閉症を説明するのに使えそうだと分かったので、そちらの分
>野での研究が進んで行きました。
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
うーむ。なんだかとても面白い方面に話が行ってしまったぞ。うれしいなぁ。
えー、そもそも「心の理論」というのは、「認知構造の進化の過程」を明らかにするために、霊長類であるチンパンジーを被験体とした実験において、「(一般的な)人間が他者の行動を予測するために用いている枠組み」であるという仮説の一部として提出されたものだったりします。
で、コーエンの『自閉症とマインド・ブラインドネス』なんかを読むと、どうやら「自閉児が他者の心理を理解できないのは、『心の理論』を身につけていないからだ」と主張しているようなのですね。でもって、「療育」の一部として、この「心の理論」に基づいたテストであるとか、教育法であるとかが提唱されていたりもするわけです。
で、シュッツさんは、
---
次に
> 現在、発達心理学において「心の理論」という名前で呼ばれているパラダイム
>というのは、非・自閉症方面の人間が他者の行動予測に用いていると想定される
>やりかたにマッチしていない、ということなんです。
これは「心の理論」を自閉症研究に応用した場合のことであって、通常の発達を分
析するばあいに当てはめればマッチしていると考えます。
というよりも、マッチングさせることが本来の目的であるはずです。
---
と書かれているんですが……よぉーく上記の文章を読んでみてください。
あたしは、「心の理論」を自閉症研究に応用した場合にはかなりマッチするんだけど、「健常者」の発達にはマッチしない、と言っているわけなんですね。だから、
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
というのは、とてもよくわかったりします。
そんなわけで、あたし自身も、
---
ですから、
「健常者=『心の理論』を理解している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』を理解している人」
ではなくて、
「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
ということなわけです。
---
と主張しています。
シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
で、誤解を解いた上でさらに説明。
たとえば、同じ天体現象を説明するのに、天動説によってもニュートン力学によっても説明はできたりはするのですね。だけど、天動説による説明は相当にややこしい上に精度の低いものであり、ニュートン力学による説明は非常にすっきりしている上に精度の高いものだったりするわけです。
同じように、ある化学反応を説明するのに、錬金術的な説明と原子・分子といった現代の化学の説明では、後者のほうが分りやすいのですね。
で、現状における「心の理論」というパラダイムおよび理論というのは、天動説や錬金術に近いものになりかかってるわけです。それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっきりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまりますよ、ということだったりします。その中身といえば、「心の理論」では排除されていた「感情」というものを自然な形でとりこんでいる、ということだったりします。
まあ、ぶっちゃけた話をすると、安西祐一郎先生や辻井潤一先生の本を読むより、戸田正直先生の本のほうが解りやすいですよ、という話でもあったりするんですけどね。
興味がおありでしたら、東京大学出版会から出ている戸田正直・著『感情 人を動かしている適応プログラム』(認知科学選書21)などお読みいただけると売れしゅうございます。ほくほく。
(Maria)
みちる wrote:
> 今、息子は薬が効いていると、本当に目がらんらんと輝いています。
> なんでも、てきぱき出来て学校の先生にも驚かれています。
> リタリンがきいているうちにやることは、脳に定着するらしく、私も
> ちょっと驚いています。薬がきれたとき、どっとつかれるみたいですけど。
>
> 私も飲みたいと思うこのごろ のみちるでした
息子さんは、「劇的にリタリンが効く」タイプですね。
そういう人ってあまり多くはないみたいです。
ほとんどの人は、「なんとなくいつもと違う」といった程度のようです。
効けば効くほど、切れたときとの差が激しいので、どっと疲れるみたいですよ。
Xanadiiさん wrote:
> 本日、『私の障害、私の個性。』(ウェンディ・ローソン/ニキ・リンコ・花風社)購入。
こんばんは。というより、Xanadiiさんには、初めてのレスでしょうか?
上記の本は、おととい読んだばかりです。もしよろしかったら、ご感想など話していただけないでしょうか?
変な奴ですみません。同じ本を読んだ人がどんな感想を抱くのか知りたくて。無理にとは申しません。もし、気がむいたら……ということで。
日にちが経つと感想を忘れてしまいかねない、あさかぜでした。よろしく。
武田好史 wrote:
> ADD・ADHDの薬物療法には、リタリンとSSRIが用いられているようです。私も、よこはま発達クリニックの先生から服用することを薦められました。
> そこで、みなさんの中ですでにこれらの薬を服用している方がおりましたら、つぎの点についてご教示頂きたいと思います。
>
>1.薬を飲む前と後で、感情面でここが変わったということは、何ですか?
こんにちは。ADDと診断されたばかりで、リタリンを飲み始めたばかりです。
ADD・ADHDの場合、リタリンが効く可能性が高いので、最初にリタリンが
処方されるようです。
私は衝動性が少なく、多動がないので、衝動性が強い人の場合効き方が違うと
思います。そこは注意してくださいね。
リタリンは効果が4時間継続すると言われています。(人によって違います)
効いている間は、感情面では、イライラがなくなります。
>2.副作用と思われる徴候(症状)として、どんなことがありましたか?
軽い動悸、軽い頭痛、少し手足のしびれがあります。あと、効果が切れたときに
額のあたりに「ぐわ〜ん」という感じの頭痛が来ます。
医師には、副作用として、動悸・頭痛・吐き気があると言われました。
ときに「死にたくなる」という副作用が出る場合があるので、その場合は
服用を止めるように言われました。
>3.薬はどのように飲むのが効果的なのでしょうか?(リタリンに関して)
これは医師と相談された方がよいと思います。また、人によって効く量も
違うので、自分で調整するように言われています。
基本的に4時間で切れるので、4時間ごとに一日3回服用します。また、眠れなく
なるので、午後6時以降は飲まないように指示されています。
それから、服用量を増やすと副作用もそれだけ強くなるので、副作用との
兼ね合いもあります。
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