アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Mr.Moto wrote:
>ひま人さん wrote:
>>以前あるところに書いたことなのですが、ASがジョーク、お笑い、ユーモアが
>>理解できないということについて、どういう姿勢(思想的立場)で立ち向かうべ
>>きかについて述べてみようと思います。
>
> ひま人さんは「ASはジョークが理解できない」という前提をまるで疑っていないが、ASには分かるが一般人にはよくわからん、というジョークだってないとは限るまい。たとえば、ある種のブラックジョークは一般人には非常に受けが悪く、ASでないと笑えない、というのがある。
このひとはいつもながら、ひとの書いた文章の中の特定の部分だけを取り上げて批判するのですが、批判するのは結構ですが、全体の文脈についても考慮していただきたいです。まあ、相手にしてくれるだけでもMotoさんには感謝しますが・・・
たしかに、「健常者には理解しにくくてASにはよく解るジョーク」というのも存在するでしょう。ただ一般的な傾向として、健常者よりASのほうが、いろんな条件によってそういうのを理解する上で不向きではあるでしょう。たとえば、ASやATから科学者・研究者・教授といったインテリタイプが輩出することはあっても、間違ってもお笑い系やエンターテイメントの世界で成功するひとはいないでしょう。それに、かりにASが特定のジョークを健常者よりも理解できたとしても、それは隠語的な側面が強く、雰囲気を和ませる効用をもつジョークの使い回しの能力で健常者を凌ぐ人はあまりいないのではないでしょうか。
ジョークやお笑いというのは象徴として取り上げたわけで、それが適当でないというなら、以前この掲示板に書き込まれていた「多数の健常者は、会ったとたんに意識しないで自然に会話がはずんでしまうが、われわれには逆立ちしても真似できない」というので説明しましょう。
このような、意識もせず自然に会話が成立する状況・場面と、講義・説教・議論といった、意識的に言語を組み立てて話をする場合との背反性について言いたかったわけです。ああいう雰囲気にASが割り込んで話をしようとすると、しばしば雰囲気をぶち壊してしまいます。いわゆるぺダンティックな会話で相手をうんざりさせたり、質問癖や、同一の話題に固執したり、といった調子で、ようするに、健常者の世界とASの世界とが同一の時空間で歩調を合わせることの困難さ、不毛性についてです。
ASの主症状である孤立、社会性のなさ、協調性のなさ、にたいして、それを改善しようと訓練をする。意識的に会話の中に入ろうとする。などをしてもなかなか効果が出ない。またはそのことで悩んだり自己抑圧に陥っている人がいれば、その悩みを少しでも軽減できる手掛かりを提言したかったわけです。たんに「障害も個性のうち」といった、無責任で欺瞞的な言い回しではなく、それなりに根拠のある認識を掴みかけてきたという実感があったからです。
「そんなことはすでに分かってますよ」とか「いや、俺はそうとは思わない」という感想を持たれてもかまいません。
このようなことから、統合教育にはあまり賛成する気がしません。たとえば、休み時間にじっくり読書をしようとしても、周囲にギャーギャーうるさい連中が騒いでできないとか、自分の得意分野をさらに伸ばそうとしても、周囲の人間の嫉妬心が気になって、ほんとうは得意なのにわざとわからなかったりできないようなふりをしたりといったたぐいの馬鹿げたことを強いられるからです。
ちゃらちゃらした連中がいずれつけが回ってくるのはいっこうにかまわないのです。しょせん自業自得ですから。ところが、適した教育や指導をすれば伸びる素地をもつASの子どもまで、多数の健常児と悪平等によってその可能性が切り取られるとしたら、じつに腹立たしいことではありませんか。
とはいっても、実際問題として公教育の現場から(たとえば登校拒否するなどして)逃走するということもできないでしょう。特殊級に編入させるという手もあるかもしれませんが、ASの子どもに適した指導ができる教員もほとんどいないでしょう。
まず手始めとして、修学旅行・林間学校・臨海学校(いまでもあるのでしょうか?)遠足その他の学校行事に、ASの子どもを参加させないようにするのです。
これはぼくの経験からなのですが、遠足で鍾乳洞を見学に行ったときのこと、このときぼくはせっかく鍾乳洞の神秘的な雰囲気が楽しめるのだから、じっくり時間をかけてたっぷりと楽しもうと楽しみにしていたのです。ところが実際に行ってみると、ほとんどの児童はぺちゃくちゃおしゃべりをするばかりでろくに見ようともせず、どんどん早足で先に進んでしまうではありませんか。じっくり眺めようとしても、ひとりだけ取り残されてしまうので、しかたなくついていきました。「いったいおまえらは何のためにここにきたのだ」とじつに腹が立ちました。しょせん大自然の神秘な世界や感性の世界などと無縁な連中です。このような、ろくにわかりもしない連中と行動を共にすることに何の意味があるのか。
おまけに修学旅行などになると、四六時中数十人もの人間と集団行動をとらなければならなくなるのです。それでなくても集団がわずらわしいのですから、悪夢でしょう。さらに運悪く修学旅行中にいじめられたりしたら、ホテルなどの宿泊施設が文字どおり強制収容所と化してしまいます(じっさいそうなった例をいくつも知っている)。
あほな論客が言うような、「いのちの大切さを教えてこなかった」とか「生きる力を育む教育」がどうの、あるいはまるで○○のひとつ憶えのように提唱される「学校と地域の連携」「親と教師との連携」といった(これらはみなアリバイであり、何の効果もない)ことに原因があるのではなく、健常児とASのように、もともと反りが合わない者同志を同一の空間に収容させるシステムこそがいじめの温床なのではないか。だとすれば、そのような時間空間を減らしていくことこそが重要であろう。
ただ、この提案も押し付けるつもりではありません。AS児がいることでかえってクラスの雰囲気がよくなることもあろうし、本人が楽しみにしているものを無理に行かせないようにする必要もないでしょう。ただし、いま提案したような方法を採ったほうが得策であるという状況に陥る可能性があるということはいえると思います。
どうせなら、それこそこの掲示板を利用するなどして、たとえば鉄道マニアのASが集合してどこかの車輌工場や廃線跡を見学に行くなどのプランを立てたほうがよほど楽しいでしょう。
こんにちは。
1は答えられそうにないのでパスです。お金が絡むと、訳わからなくなります。
>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?
2は僕は
「そう言う席を作らないと、辛いけど座りたいと言い出せない弱者がかわいそうだから」
と答えると思います。
僕の友達(多分普通の人。でもちょっとおかしいかも(苦笑。)は
「ある程度、そういった席を設けておかないと『早い物がち』『自分が良ければそれで良し』しかルールを知らないパカタレ(PAKATAREだそうです(笑。)に全席占領されるから。」
と言ってました。
確かに、シルバーシートに「意気揚々」と若い人が座るので余り意味をなしてませんが、そう言う人達は「自分さえ良ければ良い」という「オーラ」が見えてしまう気がするので凄く嫌な気分になります。偏見かもしれませんが。
それでは。
>「心の理論」を自閉症研究に応用した場合にはかなりマッチするんだけど、
>「健常者」の発達にはマッチしない、
> 「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
> 「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を
> 予測している人」
おそらくこのへんは大当たりですね。んで
>「自閉児が他者の心理を理解できないのは、『心の理論』を身につけて
>いないからだ」
私の実感から言うと、これは因果関係を誤った認識です。自閉症者において
「心の理論」(という代替戦略)の獲得が遅れるのは、(感覚の異常
{というか差異}などの)より根源的な障害のために他者と感情を同調
させにくいためである、と理解すべきでしょう。
また、心の理論はあくまで「理論」でありますから、心の理論の獲得に
伴って、非自閉人ならば自然に身に付けているであろう「(非自閉人への)
共感能力」とでもいうべきものが自閉人に獲得されるわけではない、
という点にも注意すべきでしょう。
言い換えると、「心の理論」の獲得によって自閉症のハンディが一つ
なくなるというわけではなく、ハンディの中核をなす部分はそのまま残る、
ということです。
くると wrote:
> どれも、適切な答えとは思えません。
> こちらも十分ではないような気がします。
武田さんもくるとさんも適切な解答を探しているのに、私ときたらいきなり「これは問題が不適切」と断定していました。
ちょっとだけ自分の性格を反省しました。
もとの問題:
>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?
こっちは私にとっては比較的楽ですね。他人の行動や決断の理由をあれこれ推測したり説明したりするのは、いつもいつも (いやになるほど) 頭の中で繰り返していることです。
もしもこれが「なぜ優先席を作るのですか」とか「優先席が必要な理由はなんですか」なんてのだったら、「問題が不適切だ!」と思うことでしょう。(本当に反省したのか? > 私)
くるとです。武田さんが悩んだ設問にはわたしも的確に答えることは
できそうもありません。
武田好史さん wrote:
>1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?
(1)友達に重い責任を負わせることはできないから
(2)預金については銀行が専門機関であるから
(3)財産がより安全だから
どれも、適切な答えとは思えません。
>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?
(1)全く無意味なような気がする
(2)運送会社が道徳の向上への貢献をアピールするため
(3)立っているいるのが困難な人への配慮
こちらも十分ではないような気がします。
しかも2つの設問に対するわたしの究極の答えはこれです。
「そのことはわたしも常々自問しているのであります!!!」(笑)
「心の理論」で色々議論が交わされています。それであることを思い出しました。今回の僕の投稿は「心の理論」からは少しそれるかもしれませんが。
僕が親から聞いた、僕の幼少期の特徴のひとつに「親の真似をしない」というのがありました。
ASを認識した今それを分析してみると、どうも他人に関心を持たなかった、だから親の行動にも関心がない、よって真似をしない、そういうことのようです。
最初は信じられませんでした。子供が真似をせずにありとあらゆる行動を身に付けられるのか、もしそうだとしたら一体どうやってそれらを身に付けたのか、と思い巡らせました。
僕自身、その頃親の真似をしていたかどうかは、はっきりした記憶がありません。
しかし、マンガやアニメを見て、そのキャラの真似をよくしていたのは覚えています。強いて言うならこれは「マイ・ファンタジー」と言うべきでしょう。
親の真似をせずにどうやって「基本動作」を身に付けたのか、自分でもわかりません。親がウソを言っているとも思えませんし。
この掲示板を見ているASの子を持つ親御さん、あなたのお子さんはいかがですか?
話は変わります。「真似」に近い行動に「ごっこ」があります。
自閉症関連の本を読んでいると、よく「自閉症(スペクトラム)の子供は『ごっこ』遊びができない」との記述があります。「心の理論」の考え方で、
#人の心が読めない→社会的行動ができない→「ごっこ」遊びができない
ということだそうです。
しかし、それは「社会的色彩を帯びた『ごっこ』遊び」(例えば「お医者さんごっこ」や「お店屋さんごっこ」のような、「人とのコミュニケーション」が前面に出る遊び)に限ってのことだと思います。「ひとりでできる『ごっこ』遊び」ならばできると思います。それは「マイ・ファンタジー」に通じるものですから……。
僕は子供の時分、よく「バスごっこ」をひとりでやっていました。バスといえばワンマンですから、ひとりでやるにはもってこいだったわけです。
運転する動作をしながら、車内アナウンスをただひたすら言い続ける、といったもので、僕はこの「車内アナウンス」をしていたときが一番いい気分でした。やはりこれも「マイ・ファンタジー」というべきでしょう。
「真似」と「ごっこ」、どちらも自閉症スペクトラムにとっては「マイ・ファンタジー」の材料となるようです。(僕個人の勝手な推察ですが)
決して「マイ・ファンタジー」を否定しない ミッドランド
Xanadiiさん wrote:
> 私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。
bauさん wrote:
> そうそう、私も認識していません。
>「クルマ」が走っているのがわかるだけ。
いわゆる「健常者」は、逆に「自動車」に運転者の人格を「貼りつけて」いるような気がします。
自動車を運転している人というのは、その人個人の人格とは別の、「人+自動車」という「人格」を持つんですよね。で、それは運転している車種にかなり端的に現れるので、感じとしては「自動車(+人)」あるいは「自動車」の「人格」のようなものを感じます。で、映画『クリスティーン』なんかは、そういった「自動車の人格」みたいなものを描いた作品だったりするわけですね。
それは、「着飾った自分」と「裸の自分」の差のようなものだと思うんですよ。で、その人の内面というのは、ファッションに現れるわけです。
コンピュータに対して「憎悪」を向ける、いわゆる「健常者」なんていうのはどう考えても「異常」という気がするのですが、そういう感情は「正常」であると認知されているのがよくわかりません。「数学嫌い」だとか、「文法嫌い」だとか、そういうのも同じです。
あたしも変な走りかたをしている自動車を見ると、ときどき「壊れてる」と思うことがあります。だけど、それって運転者が変なんだよな、と気づくまでちょっとかかります。
(Maria)
bauです。ちょっとでてきました。
Xanadii wrote:
> 私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。私にとって車が「走る凶器(死語?)」と呼ばれるのは、「ぶつかったら危ないから」とか「有害なCO2を排出する機械だから」であって、「失敗することもある人間が操縦しているから」というふうには認識していないと思う。
>
そうそう、私も認識していません。
「クルマ」が走っているのがわかるだけ。
何年か前に、認識していないこと自体に気がついたので、
ヒトが乗っているんだって思うようにはしているけど。
たくさんの車が道路を一定間隔で整然と走るのを見ると感心します。
Xanadiiさん wrote:
> 学術路線から脱線しっぱなしの駄文製造機・Xanadiiでした...
以前から思っていたしちょっと指摘もしていたと思うのだけれど、Xanadiiさんにはとても明晰でフェアな人格がいらっしゃるのだな。情的なXanadiiに隠れてはいるけれど、研究者的な態度を感じます。それって学術路線の王道だとおもう。うん。
>#のぼりぼう
>
> きょう、のぼりぼうをしました。うまくのぼれなかったので、くつをぬいで、
>はだしでのぼったら、うまくのぼれました。うれしかったです。
> これ、8歳の時の、私の作文なんですけど。おしまいに「うれしかったです」
>と付け加えたということは、それを読んで、大人たちが、「そうなの、うれしかっ
>たの。よかったね、よくできたね」と誉めてくれるであろうことを予測=期待し
>ていたのだろうと考えられるんだろうか。それとも単に、「自分だけが嬉しい」
>という事実を、文章で報告しただけであると解釈したほうがいいんだろうか?
>
> たぶんこの作文を書いた時点での私は、私がのぼりぼうを登れるようになれた
>なれないなど、これを読む相手にとってどうでもいいことかも知れないというこ
>とまで想像することは無理だったかも知れない(かりにそんなこと考えてたら、
>なにひとつ書けたもんじゃないわな)にしても、相手が喜ぶことをしよう(書こ
>う)という感覚は、あやふやながら持っていたはず。当時を思い出して、そんな
>気がした。
> あっ!もうちょっと年いってからなんだけど、学校に提出する作文書いてて、
>さいごに「お兄ちゃんのばか」と締めくくったら(もちろん本音だった)、それ
>読んだ母が激怒して「そういうことは書くもんじゃない!」と内容を書きなおさ
>せられたこともあったなー。
ちょっと長い引用になってしまいました。ごめんなさい。ぺこぺこ。
あたしが思うに、あたしとXanadiiさんには共通の歯がゆさがあると思うんですよ。自分の感情が伝わらない、という歯がゆさ。だから、最後に「うれしかったです」と書いてしまう。「うまくのぼれた」→「うれしい」という自分の感情が、ちゃんと伝わるかどうかの自信がない。だから、今現在あたしが書いているこの文章だって、「王道だとおもう。うん。」「ごめんなさい。ぺこぺこ。」といった表現が出てきているのですね。で、これが「現在のあたし」の典型的なスタイルだったりもするわけです。
JoshyaさんとKILROYさんは「クールな性格」がウリだからこういうのはないんですが、あたしと同じ情熱系のMotoちゃんの場合は「わはははは。」「違うっつーの。」「ばかもーん!」「くそー。」とかいった一言を文章の後ろにくっつけるというのもあるし、『顔文字使用マニュアル』なんていうのを書いてしまうくらい、全員「感情を相手に伝えるのに苦慮している」ことの痕跡が疑われたりするのだな。
それともうひとつ。相手の態度というのがまた問題なのですよ。
> 私自身、学校時代を通じて、周囲からも親からさえも、「何を考えているのか
>分からない」「感情がない」「人間らしくない」「コワイ」「キモチワルイ」な
>どと言われっぱなしであったこと、
こういう相手に対して、人間は感情移入できないのですね。だから、「言葉の内容」と「感情」の間にギャップがあるんです。
たとえば、「謝罪したいと思う」というのは、謝罪の言葉ではありませんね。「謝罪したいんだけど、組織の人間としては『謝罪』しちゃうと『組織としての責任』を認めちゃうことになるからそれはダメ」みたいな意図が見え見えになってしまうわけですよ。松本サリン事件のときも、ある警察関係者が「個人としてお詫び申し上げる」とか言っていたわけで、つまりは組織としては責任を認める発言はしていないわけで、「遺憾に思う」かなんかで済ませちゃったわけです。
だから、あたしは「ごめんなさい」と頭を下げて、それでようやく「謝罪」だと思っているわけです。
つまり、「言っていることの内容だけでは、感情は伝えきれない」、あるいは、「伝わってこない」という思いがどこかにあるわけです。その不信が、「うれしかったです。」の一言には込められているのではないでしょーか。だけど、「現代における普通の大人」の文章表現には、その欠落を埋める表現はなかったりするのね。そこで、あたしのような「子供じみた」「幼稚な」文体にならざるを得ない、ということがありそうに思います。
「最近の若者の文章は子供っぽい」みたいに云われているようだけど、それって大人が言葉を形骸化させちゃったから、しかたなくそうなってるんじゃないかなぁ。そう思います。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>アインシュタインとボーアの論争になぞらえるのは奢り過ぎ?
神は人類を創造したほどの大ばくちゃー(「おおばくちゃー」。沖縄方言で「大層な博打打ち」の意)だったりします。サイコロ遊びくらいすると思うぞ。
>ちょっと戻って、上の1)の論文のタイトルを訳すと
>Maria wrote:(No.5936)
>> 「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジー>>は心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になって
>>います。
>ではなくて『チンパンジーは心の理論を持つか?』になります。
貧乏人なので、最近出版された安西祐一郎さんの本を八重洲ブックセンターで立読みして調べました。
小心者なので、メモを取る勇気がありませんでした。
そんなわけでうろ覚えでした。ごめんなさい。
>1)はチンパンジーの実験を通じて最初に「心の理論」を提唱した論文で、2)は
>それを発展させて人間とチンパンジーの違いに言及したものです。
>3)は人間の子供の心の発達に対して「心の理論」を応用した最初の論文です。
>4)は「心の理論」を自閉症に応用した最初の論文です。
>mariaさんは少なくとも4)には反対らしいのですが、1)〜3)についてはいかが
>でしょうか?
>> シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
>これはどこのことでしょうか?
>主張の違いのように思えるのでが。
じつは、あたしは
1) Premack,D. and Woodruff,G.: Does the Chimpannzee have a Theory of Mind?, The Behavioral and Brain Science, 1, pp.515-526, 1978.
2) Premack,D.: 'Does the Chimpanzee have a Theory of Mind?' revisited, Machiavellian intelligence: Social expertise and the evolution of intellect in monkeys, apes and human, pp.160-179, 1988.
3) Wimmer,H. and Perner,J.: Beliefs about Beliefs: Representation and Constraining Function of Wrong Beliefs in Young Children's Understanding Deception, Cognition, 13, pp.103-128, 1983.
4) Baron-Cohen,S, Leslie,A. and Frith,U: Does the Autistic Child have a "Theory of Mind"?, Cognition, 21, pp.37-46, 1985.
のうちの、(1)(と、たぶん(2)(3))に反対、(4)に一部賛成・一部反対なんですよ。そこんところを勘違いしてはおられないかと。
ですから、あたしは“Of cource, The Socialized Autistic Child have a theory likes "Theory of Mind": but does "normal" child have a "Theory of Mind"?”と言いたいのですよ。
>「行動」は見えるけど「心」は見えないので、科学において「現象」は見えるけど
>その背後の「理論」は見えないことになぞらえた、その「理論」を構築すれば「行
>動」が予測できるから、とも言われています。
数学における「関数」の概念がそうですね。で、心理学における「行動主義」も同じような立場です。
で、その場合の「理論」の優劣に関しては、『オッカムの剃刀』の原則がだいたい適用されるわけです。ですから、
>>それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理
>>論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっ
>>きりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまります
>>よ、ということだったりします。
>こういう理論があるのもまた当然のことでしょう。
に関しては、「どっちがシンプルかつ精度が高いか」という評価を待たねばなりません。
で、「心の定式化」=「心の理論」ではなく、「自己投影」「感情移入」といった、「心の理論」では排除した要素を取込まないと、「心の定式化」は困難であり、結果的に天動説や錬金術のようなグロテスクなものになっちゃうぞ、とあたしは言っているわけです。ふぅ。
(4)の執筆者の一人であるコーエンの『自閉症とマインド・ブラインドネス』なんか、なんだか凄いことになってるぞ。とにかく必死になって解読して理解したのはいいけれど、「なんじゃこりゃあ!」とか松田優作のように叫んでしまいました。こんなの、もっと簡単な説明があるだろーに、と思ったんですね。
でまあ、あたしは「心の理論」ではなく、「適応プログラム」と呼んでるわけなんですけどね。
Xanadiiさんのレスには追ってお返事します。ぺこぺこ。
(Maria)
武田好史 wrote:
>1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?
この質問って、「銀行に預けた方がよい」を前提としてるんですね。これだと答えにくいなあ。
質問をひねって、「友達にお金を預けるのと比較して、銀行に預けた場合の利点を探してください」ならいくらでも出てきます。
ただし、その逆でもいくらでも出てきますけど。
私だったら、その両方を全部並べあげて、全体的に比較して銀行の方が「利点の合計 - 欠点の合計」が多いから、と答えるでしょう。
(で、「普通」の人に途中で打ち切られたり、理屈っぽいと呆れられるんだ。)
実際には私は銀行ではなく郵便局か証券会社にあずけます。利息も信用もサービスも情報公開もなく、手数料と税金ばかり取るところに預ける理由なんぞない。
いままであんまり考えたことがなかったから、自分の考えをこの場に提示してみよう。
くると wrote:
>「異常」→関係者が理解しにくい逸脱行動のこと。障害があるというだけ
> では異常とはみなせない。
>「障害」→心身の機能が不全だったり非典型的であるために発生する困難。
> 個性とは別のものである。
異常: なにかが非典型的であるという事象。判断基準は客観的 (のはず)。
他人に対する困難度が高い場合 (逸脱行動など) 、比較的よくある事象でも過敏に判定されるようだ。
(逆に「やたらに背が高い」などは他人に影響が少ないため異常とは思われにくい)
障害: 本人にとって不具合、困難を伴う事象。
その事象による直接の困難はなくても、その「異常さ」により他人につらくあたられる、などの二次的な困難も含む。
医療の対象はここ。
>「個性」→心身の機能が不全だったり非典型的ではあるが、そのことによ
> って困難が発生していない。
>
個性: なにかが非典型的である事象そのもの。困難さには関係ない。判断基準はかなり主観的。
その事象にほかの名称 (異常、〜〜人、など) が付けられる場合には個性だとは呼ばない場合もある。
たとえば、他人に対する困難度が高い場合は個性だとは認めてもらえにくいらしい。
私は「偏り」すべてを個性と呼びたいが、自分のこととなるとなぜか抵抗がある。なぜだろう。
もう一つの疑問は、「逸脱行動という場合、どの程度偏っていたら『逸脱』なのか」。
3人に一人? 100人に一人? 50億人に一人?
心の理論についての話題が出ているので、ちょっとみなさんに質問します。
以下にあげるのは、私がよこはま発達クリニックでWAISーRテストを受けたときに、常識の部門でうまく答えられなかった問題です。
1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?
2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?
1.は、今になって考えてみれば、「友達がお金を着服してしまうおそれがあるから」というのが正解なような気がしますが、そのときはなんか頭がバグってしまって全く何も言えませんでした。
2.は、「妊婦さんやけがをしている人が座って安らぐためです。」と答えたところ、それでは不十分であると言われました。
みなさんならどうこの設問に、答えますか?
最初に補足から
シュッツ wrote:(No.5954)
>私にとっては「万有引力の法則」と同じように自然で、ない方がおかしい存在です。
「私が備えている」という意味ではなく「自然界に存在する」という意味です。
次に「心の理論」に関する論文を挙げておきます。
1) Premack,D. and Woodruff,G.: Does the Chimpannzee have a Theory of Mind?, The Behavioral and Brain Science, 1, pp.515-526, 1978.
2) Premack,D.: 'Does the Chimpanzee have a Theory of Mind?' revisited, Machiavellian intelligence: Social expertise and the evolution of intellect in monkeys, apes and human, pp.160-179, 1988.
3) Wimmer,H. and Perner,J.: Beliefs about Beliefs: Representation and Constraining Function of Wrong Beliefs in Young Children's Understanding Deception, Cognition, 13, pp.103-128, 1983.
4) Baron-Cohen,S, Leslie,A. and Frith,U: Does the Autistic Child have a "Theory of Mind"?, Cognition, 21, pp.37-46, 1985.
1)はチンパンジーの実験を通じて最初に「心の理論」を提唱した論文で、2)はそれを発展させて人間とチンパンジーの違いに言及したものです。
3)は人間の子供の心の発達に対して「心の理論」を応用した最初の論文です。
4)は「心の理論」を自閉症に応用した最初の論文です。
mariaさんは少なくとも4)には反対らしいのですが、1)〜3)についてはいかがでしょうか?
話は変わりますが、確率過定論に拡散方程式というものがあります。
これは確率過程(時間の関数としての確率)を表現する微分方程式は解くことができないため、対応する確率密度関数が満たす方程式のことです。
それがなぜ「拡散」なのかということですが、確率が拡散するとかそんなことではなくて、最初にブラウン運動のような物質の拡散問題を解くために作られたからです。
それが今では確率過程一般に適用されるように理論が発展しました。
つまり当初は「物質拡散」という特定の現象を解明することが重要であったのに対し、現在は方程式を導く過程が中心となったのです。
それにともない「拡散方程式」という名前も実体に合わなくなり、人名をとってフォッカー=プランク方程式(物理学)とかコルモゴロフ方程式(数学)と呼ぶようになりました。
しかし依然として拡散方程式と呼ばれることもあり、それでも十分通じています。
「心の理論」(プレマック理論とでも呼びましょうか?)もこれとよく似ていると考えます。
最初は人間の心を記述することを目的として、まずチンパンジーの行動を実験的に観察することから始め、チンパンジーの心の動きに対して定式化されるというように、対象が特定されていました。
それが発展することで「感情移入」も含めて、定式化された心が重要なのではなくて、定式化する過程が重要になっています。
ただし、現状ではまだまだ成熟した理論になっていないことも確かです。
「理論」として目指さなければならない目標が「一般化」であるでしょう。
またそれに伴い理論の名称も内容に相応しいものに変わることも自然な流れでしょう。
手法的には将来どうなるか分かりませんが、一つのアイデアとしてノン・パラメトリックな手法を使えば「わけのわからないもの」も一応の定式化が可能です。
「テスト」や「療育」への応用は「緩用」であるので、ここでの議論とは切り離すべきだと思います。
ちょっと戻って、上の1)の論文のタイトルを訳すと
Maria wrote:(No.5936)
> 「心の理論(theory of minds)」という概念および名前は、『チンパンジーは心の理論を理解しているか?』という論文(著者名は忘れた)が元になっています。
ではなくて「チンパンジーは心の理論を持つか?」になります。
このタイトルからプレマックは「心の理論」が存在することを前提として、「人間は持っているけどチンパンジーはどうか」を調べたのです。
最初の論文ではチンパンジーも「心の理論」を持つと言っていますが、後に2)の論文で訂正して、一定の年令を過ぎた人間の子供は持っているけど、チンパンジーは少ししか持っていないとしました。
Maria wrote:(No.5926)
> 「心の理論」がなぜ「理論」と名付けられたかというと、「他者の心の中は推論によってしか理解できない」からだったりする。だけど、人間というのは、本当に他者の心の中を推論によって理解しているんだろうか?
「行動」は見えるけど「心」は見えないので、科学において「現象」は見えるけどその背後の「理論」は見えないことになぞらえた、その「理論」を構築すれば「行動」が予測できるから、とも言われています。
Maria wrote:(No.5959)
> で、現状における「心の理論」というパラダイムおよび理論というのは、天動説や錬金術に近いものになりかかってるわけです。
まだ錬金術にはなっていません。
宇宙論に「超ひも理論」というのがあります。
「心の理論」みたいに、有力だけどまだ受け入れられていない段階の理論です。
そのもとになったものとして、南部陽一郎の「ひも理論」というのがありました。
最初は注目されましたが、ぼろが多数見つかり、一端は錬金術のように扱われました。
しかし大きな発想の転換そすることによって(詳細は私の知識を超えています)南部の「ひも理論」を作り替えて「超ひも理論」が生まれました。
どんな理論でも黎明期には似たような状態があることでしょう。
「超ひも理論」にも否定派が多数いて、別の理論が存在するように、
>それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっきりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまりますよ、ということだったりします。
こういう理論があるのもまた当然のことでしょう。
繰り返しになりますが、私自身は「心の動きを定式化できる手法があり、自分自身に適用できる」ことによって心が非常に救われたので、「心の理論」を支持するのには論理的要素ばかりだけでなく、経験的要素もまた強いこともまた事実です。
> シュッツさん。そこんところ勘違いしてません?
これはどこのことでしょうか?
主張の違いのように思えるのでが。
> うーむ。なんだかとても面白い方面に話が行ってしまったぞ。うれしいなぁ。
アインシュタインとボーアの論争になぞらえるのは奢り過ぎ?
おむにさん wrote:
>大事なことは、「感性が変わっている」わけではなく、細胞の機能不全に
>より、明らかに「色弁別能力が低い」ということです。
>
>これを、個性と見るか障害と見るかは、人それぞれだろうと思います。
>私は障害だと思っています。
自分の意見をちょっとだけ整理させてください。言葉の使い方にあやふ
やなところがあったので。「異常」「困難」「障害」といった言葉をもう
少し正確に使用するべきでした。
「異常」→関係者が理解しにくい逸脱行動のこと。障害があるというだけ
では異常とはみなせない。
「障害」→心身の機能が不全だったり非典型的であるために発生する困難。
個性とは別のものである。
「個性」→心身の機能が不全だったり非典型的ではあるが、そのことによ
って困難が発生していない。
つまり、わたしの説で言えば、色盲や色覚は「異常」ではなく、「障害
」か「個性」ということになります。そして、おむにさんがそのことで困
難を抱えておられるならば、「障害」に分類されることになります。「色
盲」や「色弱」であること自体は逸脱行動とは言えないので、「異常」と
いう評価をすることはできないでしょう。(むろん、健常者と同様、障害
者が情緒的にこじれて逸脱行動をおこすことはありますが)
で、次に「障害」(困難)が発生する経緯を2つに分類しておきます。
(1)身体,知覚,認知に機能不全があるため
(2)身体,知覚,認知が非典型的であるため
「障害」による困難は(1)(2)いずれの場合にも発生します。そし
て、本人がどちらの理由で困難を抱えている限り、「障害」と判断すべき
でしょう。
なお、わたしは「色覚異常」と呼ばれているものについては、(1)で
はなく(2)の理由で発生する困難だと思います。そういう訳で、「色覚
異常」を「個性」だと言うつもりはありませんでした。
>反論めいたことを書きましたが反論ではありません。
>くるとさんの意見の主旨には賛成です。
>
>色に限らずあらゆる感覚は脳が作り上げた虚構だと思います。
>その虚構はそれぞれの脳の中にしか存在しません。
>そしてその虚構は脳の数だけ存在します。
最後に「色覚異常」についてまとめると、
(1)「色覚異常」は色覚が非典型的であるために発生する
(2)本人が困難を感じていれば「障害」である
(3)正確には「色覚異常」ではなく、「色覚障害」と表記すべきであ
る
ということになります。いかがでしょうか?
Makichan wrote:
>Maria さんwrote:
>> たとえばの話、「箱Xを捜す」と「誤答」した子供が、「他の子がいない隙に、人形を元の箱に戻してしまう」という悪戯をしないかというと、そうじゃないと思うんですよ。つまり、「子供Bではなくて子供Aに感情移入してしまった」ために、なんだかわかんなくなっちゃった、という可能性はあるわけです。
>
> Mariaさんのここのカキコ読んで、私もそれ感じたんですね。子供Aだけ居る時Aの心理になり、Bが出てきたらBの心理になり、Aが戻ってきたらBであることをひきずったままAになってしまう。つまりA=B=自閉者なんですね。彼らには、この世に自分しかいないんですよ。
> 彼らが何故そうであるかは、わかるような気がするんです。去年私カキコしましたが、全て存在は、自分の知覚を通してしか認識できないわけですよね。そのことに忠実になると、他者は自分の目に映る像でしかない。いや自分が自分であるという意識すらないわけで・・。
> このことは、かつて私が診断された「自己同一性拡散」の概念に繋がりますね。これは自分が自分であることに信を置けない状態を意味しますから。
>
> 「心の理論」は有害であるかどうかは、意見持ちません。ただその意味するところのものがなんとなく掴めたように思えたのでカキコしました。
すいません。Mariaさん、あさかぜさん、シュッツさん、makichanさん、武田好史さんの書込みはナナメ読みなので、「こいつわかってねえ〜」ということにもなりかねないこと覚悟の上の横レスなのですが(「わかってない」というのは、どこいらへんがわかっていないのか、指摘してもらえると助かるんですが...それ以前の問題かもな)。
私自身、学校時代を通じて、周囲からも親からさえも、「何を考えているのか分からない」「感情がない」「人間らしくない」「コワイ」「キモチワルイ」などと言われっぱなしであったこと、そこから「普通の子であれば、幼稚園卒業〜小学校3年の頃までにはごく自然に身につけているはずのなにかが、どうやらなぜか私には欠如しているか、または<遅れがある>らしい。」「つまり<心>の部分に何かあるらしい」と推測し、自分でさまざまな仮説を立てながら試行錯誤しつつ、今に至っていること。
自分の場合、Mariaさんやmakichanさんとは逆に、成長するにつれて「なおったように見える」タイプなんじゃないかと考えていること。
これが私個人にとっての前提なんですが。だから私も、今年のはじめごろウタ・フリスの論文で「アンとサリーの実験」を知ったときは、ちょっと心に引っかかるものを感じていました。
《サリーはカゴをもっていて、アンは箱をもっています。サリーはビー玉を自分のカゴにいれました。サリーは外に散歩に出かけました。サリーが部屋にいない間に、アンは(いじわるなアン!)カゴからビー玉を取り出して、それを自分の箱に入れました。さて、サリーが帰ってくる時間です。サリーは自分のビー玉で遊ぼうと思いました。サリーはビー玉がどこにあると思うでしょう?サリーはどこを見るでしょう?》正答はカゴの中です。サリーはビー玉をそこに入れたので、ビー玉はまだそこにあると信じているはずだからです。この解答は、信念の理解を前提としています。実験結果は、自閉症児は信念とは何かを理解していないことを示唆していました。サリーは、ビー玉が移されたときそこにはなかったのに、それを知っていると彼らは思い込んでいました。彼らは、ビー玉が現実にあるところを見ようとするサリー以外は思い描くことができませんでした。(『自閉症とアスペルガー症候群』ウタ・フリス編著/冨田真紀訳・東京書籍 p.46)
私としては、この文章の後ぐらいにでも、こういう一文を加えてほしかったんですよ。
#(実験者である我々は)「サリーは箱の中を見るとなぜ思うの?」と彼らに尋ねました。彼らはこう答えたのです。「だって、アンはサリーのビー玉を、箱の中に入れたんでしょ?だからだよ!」
これなら、私にもこの論文の意図するところが分かると思うんだけれど。
7、8歳の頃の私だったら、この「アンとサリー」の問題文をどう見、どう答えたか?
#のぼりぼう
きょう、のぼりぼうをしました。うまくのぼれなかったので、くつをぬいで、はだしでのぼったら、うまくのぼれました。うれしかったです。
これ、8歳の時の、私の作文なんですけど。おしまいに「うれしかったです」と付け加えたということは、それを読んで、大人たちが、「そうなの、うれしかったの。よかったね、よくできたね」と誉めてくれるであろうことを予測=期待していたのだろうと考えられるんだろうか。それとも単に、「自分だけが嬉しい」という事実を、文章で報告しただけであると解釈したほうがいいんだろうか?
たぶんこの作文を書いた時点での私は、私がのぼりぼうを登れるようになれたなれないなど、これを読む相手にとってどうでもいいことかも知れないということまで想像することは無理だったかも知れない(かりにそんなこと考えてたら、なにひとつ書けたもんじゃないわな)にしても、相手が喜ぶことをしよう(書こう)という感覚は、あやふやながら持っていたはず。当時を思い出して、そんな気がした。
あっ!もうちょっと年いってからなんだけど、学校に提出する作文書いてて、さいごに「お兄ちゃんのばか」と締めくくったら(もちろん本音だった)、それ読んだ母が激怒して「そういうことは書くもんじゃない!」と内容を書きなおさせられたこともあったなー。
私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。私にとって車が「走る凶器(死語?)」と呼ばれるのは、「ぶつかったら危ないから」とか「有害なCO2を排出する機械だから」であって、「失敗することもある人間が操縦しているから」というふうには認識していないと思う。
小学校時代の私に対する子供たちのいじめは、「泣くのがおもしろい」「いやがるのがおもしろい」とか、そんな感じだった。中学校時代は、「お前を鍛えてやっているんだ」とか、「あなたのこと(欠点)、こんなふうにはっきり言ってくれる人、ほかにいないでしょ?」っていうふうに、「理由」が出てきたみたいなんだけど。他者の気持ちを想像することができない、共感性がないっていうのは、お互い様な気がするんだけどね。「すきな人どうし」がやれるかやれないかっていう違いなんだろうか?
学術路線から脱線しっぱなしの駄文製造機・Xanadiiでした...
ウィローモスさん wrote:
>> ただ、光の波長の違いで視神経の反応がどのように異なるか、ということに関しては、
>>実験などで明確にできるのではないかと思います。
>
>と書いたのですが、「色覚異常」でサーチしてみるといろいろ引っかかってきますね。
>結構いい加減なことを書いていたようで、お恥ずかしい。
どうも、わたしが気がつかなかった観点からの考察をありがとうございま
した。わたし自身も光自体は人間の知覚と関係なく存在する可能性はあるの
かもと思うことはあります。ただ、わたしたちが光を知覚する時に何か違う
ものを読みこんでしまっている可能性はあるかも???実験したことがない
からわからないけど…
Maria wrote:
>
> 「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
> 「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を予測している人」
>
>ということなわけです。
私は「心の理論」については、この掲示板で初めて知りました。
端的にいうこと、これが健常者と自閉症方面の人の違いということで
しょうか?
私は他者を、感情移入・自己投影によって行動を予測することができ
ません。私の場合、他者を観察して行動パターンからその人の行動を
予測しているというほうがあっているような気がします。もともと、
あまり人に興味は無いのでそういう観察もあまりしませんが。
以前書いたように、右目と左目で色彩が異なるように感じられるので、
感情移入や自己投影で他者を見ることに疑問を感じているのかもしれ
ません。それとも、感情移入や自己投影に何の疑問も持たないのが、
健常者なのでしょうか?
もともと高次脳機能障害を検索していて、入力ミスが何かで、つい最近
この掲示板を見つけた新参者です。よろしく。
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