アスペルガーの館の掲示板(旧)

あなたは 番目のお客様です。

新しい話題を投稿 次の20件を表示 最新のログを表示 パスワード変更 発言の削除
一度に表示する件数を 件に
《アスペルガーの館》に戻る / 新しいアスペルガーの館の掲示板


Re: 「心の理論」は仮説である。 5926へのコメント
No.5995  Thu, 12 Jul 2001 16:17:37 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 「心の理論」というのは、はっきり言って、自閉症方面の子供を理解する上では有害な概念である。ただし、「心の理論」という概念を正確に理解しているならば、だけれども。
>
> 「心の理論」がなぜ「理論」と名付けられたかというと、「他者の心の中は推論によってしか理解できない」からだったりする。だけど、人間というのは、本当に他者の心の中を推論によって理解しているんだろうか?
>
> 人間は、むしろ「感情移入」によって、相手の心の中を「経験的に」推測しているに過ぎない。「擬人化」というのは、まさにそれである。ミジンコはミジンコの都合で生きているし、クラゲにはクラゲのライフスタイルというものがある。けれど多くの人間は、人間の視点でしかミジンコやクラゲを理解しようとしません
 たとえばの話、

 ・子供Aが人形を箱Xから箱Yに移す。
 ・子供Aがいない間に、子供Bが人形を箱Yから箱Xに移す。
 Q:子供Aがやってきて人形を捜すとすれば、箱Xと箱Yのどちらを捜すか?

>という典型的な「心の理論」の問題についても、あたしは疑問を抱かざるを得ないのですね。
> たとえばの話、「箱Xを捜す」と「誤答」した子供が、「他の子がいない隙に、人形を元の箱に戻してしまう」という悪戯をしないかというと、そうじゃないと思うんですよ。つまり、「子供Bではなくて子供Aに感情移入してしまった」ために、なんだかわかんなくなっちゃった、という可能性はあるわけです。
>
> 現実問題として、あたしには子供Bが人形を箱Yから箱Xに移す意図がわからないのね。この場合、「人形は本来箱Xの中になければならない」と思っていたのなら、子供Aが箱Xの中を捜すことになんら不自然さはありません。だいいち、子供Bは箱Yに人形が入っていることをどうやって知ったんでしょうか?
>
> 人間は、相手が「生物」であると認識しているときには、「感情移入」によってその行動を予測します。
> そして、相手が「機械」であると認識しているときには、「推論」によってその動作を予測します。
>
> この二つの原則の間の競合が、すなわち「健常者」と「自閉症方面の人間」のコミュニケーション・ギャップそのものなのですね。
>
 私は「心の理論」というのは、理論ではなく「仮説」であると思います。
ある日本人の科学者は、両者の違いを次のように考えています。

仮説:人間が周りの自然に対して、最初に主観的に感じた法則性を命題にしたもの

理論:仮説は証明されて法則となるが、その法則を複数個統一していくような、より高次の普遍的な総合法則

 つまりこの考えによれば、もし「心の理論」がその名の通り理論であるならば、「普遍的に正しいことが、立証されている」「複数の法則を統一するものである」という2つの条件が満たされなくてはならないことになります。
 そこでちょっとこの点について、自分なりに考えてみます。
 まず、「心の理論は普遍的に正しいことが立証されているか?」ということです。「人間は推論によってしか他人の心を理解できない」これは、明らかに普遍的な考えではなく偏った見方です。先にMARIAが指摘してくれたように、反論の余地があります。私もむしろ「人間は自分自身が持っている能力を最大限に生かすことができたときに、相手の心を読みとることができる」というのが正しい見方ではないかという気がします。「サリー・アン課題をクリアーできない子は、自閉症の可能性が高い」というのも、ナンセンスであると言えると思います。
 次に「複数の法則を統一するものである」という点ですが、これは明らかに満たされていません。どんな心にまつわる法則も未だ検討の段階であって、それを統一する理論など無いのが現状なのではないでしょうか・・・


 
 


Re: 異常と障害と個性 (ついでに逸脱) 5992へのコメント
No.5994  Thu, 12 Jul 2001 16:14:35 +0900  みどり [この発言にコメントする]

くると wrote:
> どうも、レスが遅れがちなくるとであります。みどりさんがわたしと異なる
>観点から「異常」「障害」「個性」を分類されているようなので、ちょっとレ
>スしておきます。

逆に私は、あんまり変わらないような気がしました。

> もう1つ、わたしが考えたのは「第三者からの因果関係の推測が困難であ
>ること」です。例えば、どんな問題行動であっても
> というのは、第3者が動機と結果の因果関係を推測しやすい行動です。同
>じことをしてみたいとまでは思わないまでも、「このような状況なら、こん
>なことをしてしまうこともあるだろう」という理解ぐらいはできる行動だと
>思います。

私の中では、これらは「他人への困難度」に含まれます。ハタから見て因果関係があろうとなかろうと、本人のなかにはなんらかのつながりがあるのでしょう。しかし、共感できない行動を見ると周囲は理解できなくて困ってしまい、「あれは問題だ、異常だ」となります。
(もしかして電車のカップメン問題もこういうこと?)

> 近年報道される「異常な」事件とされるものは、この因果関係の推測が困
>難なものが多いのではないかと考えられます。だから、その因果関係を探る
>ことに情熱が注がれてしまうのではないでしょうか?

「人間の行動はすべて理解可能なものだ」と思いたいのかもしれませんね。

> あと、付け加えておくと、「異常の診断基準」が客観的であるかどうかは
>疑問です。「異常」が問題とされる診断として、「〜性人格障害」というの
>がありますが、わたし自身は客観的な診断ができるとは思えません。まあ、
>この話はスレッドを変えて後日コメントします。

私も実際にできるかどうかには疑問ですが、できるだけ客観的であろうとしてるだろうとは思います。少なくとも学会レベルでは。

>>個性: なにかが非典型的である事象そのもの。困難さには関係ない。判断
>>基準はかなり主観的。その事象にほかの名称 (異常、〜〜人、など) が付
>>けられる場合には個性だとは呼ばない場合もある。
>
> わたし自身は障害者本人が非典型的な事象を持っている場合は、それを「
>障害」ととらえるか「個性」ととらえるかは、本人の主観の問題になってし
>まうと思います。

それがまさに『判断基準はかなり主観的』『その事象にほかの名称 (異常、〜〜人、など) が付けられる場合には個性だとは呼ばない場合もある』です。
その事象に「障害」という名前がつくと、個性とはとらえない人もいるでしょう。もちろん障害も個性のうちととらえる人もいます。

ほかにも職業、性別、体格、人種などは個性とはとらえない場合が多いように思います。
考えてみると、これらを入れない理由も特にないと思うんですが。どこにその差があるんでしょうね?? 多数派の存在も必要なのかな。


理論! 5991へのコメント
No.5993  Thu, 12 Jul 2001 14:37:05 +0900  Maria [この発言にコメントする]

シュッツさん wrote:
>「セルフ・コミットメント理論」を検索したけど、うまく引っ掛かりませんでした。
>「適応プログラム」を検索したら、一般的な言葉なので、あまりにも多くの分野か
>ら見つかって、どれを見ればいいか分かりませんでした。

 セルフ・コミットメントに関していちばんよくまとまっている本は、たぶん、

 R.H.フランク著/山岸俊男監訳『オデッセウスの鎖 適応プログラムとしての感情』、サイエンス社。原題を直訳すると、『理由ある激情 感情の戦略的役割』。

だと思います。「感情」と「適応プログラム」のAND検索だったらよかったのにねー。

 セルフ・コミットメントに関しては、他にも講談社現代新書に、たしか『ゲームとしての交渉』といったようなタイトルの本があり、そこに「ハンニバル戦略」の名前で紹介されていたと思います。うろ覚えですが。「交渉理論」については、この本がいちばんよくまとまっていると思います。BATNAとか「オプチマルな交渉」とかいった、重要な概念がわかりやすく説明されています。

 (Maria)


Re: 異常と障害と個性 (ついでに逸脱) 5971へのコメント
No.5992  Thu, 12 Jul 2001 14:05:47 +0900  くると [この発言にコメントする]

どうも、レスが遅れがちなくるとであります。みどりさんがわたしと異なる
観点から「異常」「障害」「個性」を分類されているようなので、ちょっとレ
スしておきます。



みどりさん wrote:

>異常: なにかが非典型的であるという事象。判断基準は客観的 (のはず)。
> 他人に対する困難度が高い場合 (逸脱行動など) 、比較的よくある事
>   象でも過敏に判定されるようだ。(逆に「やたらに背が高い」などは他
> 人に影響が少ないため異常とは思われにくい)

わたしが持たなかった観点としては「他人への困難度」という視点がある
みたいですね。わたし自身は「本人にとっての異常」という観点からコメン
トしていたので、この視点は完全に抜け落ちていました。

 もう1つ、わたしが考えたのは「第三者からの因果関係の推測が困難であ
ること」です。例えば、どんな問題行動であっても

(1)相手が憎いから殺した
(2)お金がほしいから盗んだ
(3)いらいらしたから虐待をした
(4)いじめを苦にして自殺した

 というのは、第3者が動機と結果の因果関係を推測しやすい行動です。同
じことをしてみたいとまでは思わないまでも、「このような状況なら、こん
なことをしてしまうこともあるだろう」という理解ぐらいはできる行動だと
思います。

 近年報道される「異常な」事件とされるものは、この因果関係の推測が困
難なものが多いのではないかと考えられます。だから、その因果関係を探る
ことに情熱が注がれてしまうのではないでしょうか?

 あと、付け加えておくと、「異常の診断基準」が客観的であるかどうかは
疑問です。「異常」が問題とされる診断として、「〜性人格障害」というの
がありますが、わたし自身は客観的な診断ができるとは思えません。まあ、
この話はスレッドを変えて後日コメントします。

>障害: 本人にとって不具合、困難を伴う事象。
> その事象による直接の困難はなくても、その「異常さ」により他人につら
>くあたられる、などの二次的な困難も含む。医療の対象はここ。

異常という言葉の定義だけはわたしと異なりますが、基本的に同意できる
内容です。

>個性: なにかが非典型的である事象そのもの。困難さには関係ない。判断
>基準はかなり主観的。その事象にほかの名称 (異常、〜〜人、など) が付
>けられる場合には個性だとは呼ばない場合もある。

わたし自身は障害者本人が非典型的な事象を持っている場合は、それを「
障害」ととらえるか「個性」ととらえるかは、本人の主観の問題になってし
まうと思います。


理論?
No.5991  Thu, 12 Jul 2001 12:35:54 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

(スレッドのタイトルが気に入らないので、新しくしてしまいます)
書きたいことは頭の中にありますが、今日は仕事が忙しいので、簡単な質問だけ。

Maria wrote:
> で、現状における「心の理論」というパラダイムおよび理論というのは、天動説や錬金術に近いものになりかかってるわけです。それよりは、「ゲーム理論」とか「交渉理論」とか「セルフ・コミットメント理論」とか「適応プログラムとしての感情」とかいったもののほうが、説明がすっきりしていて精度が高く、自閉症方面の人間にも健常者にもよく当てはまりますよ、ということだったりします。その中身といえば、「心の理論」では排除されていた「感情」というものを自然な形でとりこんでいる、ということだったりします。

前の二つはいいとして、「セルフ・コミットメント理論」を検索したけど、うまく引っ掛かりませんでした。
「適応プログラム」を検索したら、一般的な言葉なので、あまりにも多くの分野から見つかって、どれを見ればいいか分かりませんでした。

ということで、
> 興味がおありでしたら、東京大学出版会から出ている戸田正直・著『感情 人を動かしている適応プログラム』(認知科学選書21)などお読みいただけると売れしゅうございます。ほくほく。

を見れば、後者はタイトルだからいいですが、前者も説明されているということですね。
図書館になかった場合に念のため、難しくてもいいので他にこの二つが解説されているものはありますか?
Web上の論文だったりすると、もっと嬉しいですが。


Re: ジョークが理解できなくていっこうにかまわない。 5984へのコメント
No.5990  Thu, 12 Jul 2001 12:33:42 +0900  Mr.Moto [この発言にコメントする]

ひま人さん wrote:
> このひとはいつもながら、ひとの書いた文章の中の特定の部分だけを取り
>上げて批判するのですが、批判するのは結構ですが、全体の文脈についても
>考慮していただきたいです。まあ、相手にしてくれるだけでもMotoさんには
>感謝しますが・・・

 じつのところ「全体の文脈について考慮しつつ批判を行なう」のはおれの仕事ではないと思っているし、「人の書いた文章の特定の部分だけを取り上げて批判している」つもりもなかったりするのである。元来へそ曲がりの私としては、発言者が想定していない方面からツッコミを入れるのが楽しくてしょうがない、ということだったりする。

>たとえば、ASやATから科学者・研究者・教授といったインテリタイプが輩
>出することはあっても、間違ってもお笑い系やエンターテイメントの世界で成
>功するひとはいないでしょう。それに、かりにASが特定のジョークを健常者
>よりも理解できたとしても、それは隠語的な側面が強く、雰囲気を和ませる効
>用をもつジョークの使い回しの能力で健常者を凌ぐ人はあまりいないのではな
>いでしょうか。

 ひま人さんはそもそも「健常者」一般が「ジョーク」として認識しているもの(あるいはその認識のしかた)について問題にしていたように思うのだが。だとしたら「健常者」一般よりも一段高いレベルの「笑い」を要求される「お笑い系やエンターテイメントの世界」を問題にすることに意味はないように思うし、むしろ「笑い」というものを本来主体的に捉えている「健常者」よりも、客体的に「笑い」というものを見つめているAS・ATのほうがプロとして成功するような気がする。

 じっさい、ツービート時代のビートたけしは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった「健常者」の良識・常識にあえて逆らうような「笑い」で「毒ガス」を自称していたし、タモリこと森田一義も「密室の暗黒芸人」と呼ばれていた時代のネタはほとんどが放送不能なネタであった。明石家さんまは師匠の「『ニューヨークの朝は早い』て、そんなんどこの朝でも早いんじゃ」というネタをしばしば引用している。山田邦子にしたって、「右手をごらん下さいませ。ひときわ高く聳えておりますのが、『中指』でございます」といった、自閉症的なネタで有名になった。で、この四人に共通するイメージが「毒のある笑い」なのである。

 健常者一般の笑いが「身体感覚」から出ている以上、結局のところ似たり寄ったりのところに落ちつかざるを得ない。「笑い」という「日常性からの逸脱」に関していうならば、それが身体感覚によるものであれ(これは「笑われる」場合)、客体化による分析の結果であれ(これは「笑わせる」場合)、「非・健常者」たるAS・ATのほうがより近しい、ということにはなりはしまいか。

>ジョークやお笑いというのは象徴として取り上げたわけで、それが適当でない
>というなら、以前この掲示板に書き込まれていた「多数の健常者は、会ったと
>たんに意識しないで自然に会話がはずんでしまうが、われわれには逆立ちして
>も真似できない」というので説明しましょう。
>このような、意識もせず自然に会話が成立する状況・場面と、講義・説教・議
>論といった、意識的に言語を組み立てて話をする場合との背反性について言い
>たかったわけです。

 雰囲気を共有することを「会話がはずんでいる」と表現するのは適当ではないように思う。「だから、要するにあれだろ?」「そうそう、あれあれ」とかいったのは「会話」と言えるのだろうか。情報そのものは外部にあり、それに対する共感を確かめあっているだけで、いわゆる「おたく」の「会話」のように、「情報をやりとりする」とかいったものではないと思うのだが。

>ようするに、健常者の世界とASの世界とが同一の時空間で歩調を合わせるこ
>との困難さ、不毛性についてです。
>ASの主症状である孤立、社会性のなさ、協調性のなさ、にたいして、それを
>改善しようと訓練をする。意識的に会話の中に入ろうとする。などをしてもな
>かなか効果が出ない。またはそのことで悩んだり自己抑圧に陥っている人がい
>れば、その悩みを少しでも軽減できる手掛かりを提言したかったわけです。

 「ジョークが理解できなくていっこうにかまわない」という、言ってみれば「つきはなした態度」と「不毛性」という言葉にはちと疑問を感じる。ASやATは「見えない障碍」であり、AS・ATは「健常者」にとって「他者」ではなく「身内」であるがゆえに問題の根が深い、と私は考えている。日本人の中にただ一人存在する欧米人のように、ASやATにとって日本の文化は異文化なのである。ただし、それは「理解が困難」なだけであって、人間としての基本的な感情世界としては共通するものを持っており、「理解」によって共感が得られるがゆえに「異文化」なのである。

 ところが「健常者」はAS・ATに当然のこととして「同化」を求めるからトラブルになる。「自閉症」という異文化からやってきた「客人(まれびと)」として社会に容れられれば、ASやATが「健常者」と同化する必要はさらさらない。「外国人から見た日本人の姿」に関心のある日本人であれば、AS・ATの視線による日本文化の評価、というのは重要視されないとも限らない。

 したがって、「ジョーク」に代表される「健常者」の心性を理解する努力は怠るべきではなかろうし、「不毛」と決めつけたもんでもなかろうと思う。

 なお、「いわゆる統合教育」に関しては単に「嫌い」だと言っておこう。高校野球なんかは十分にヘドが吐けるほど嫌いだ。北朝鮮のマスゲームも嫌いだ。
 冷戦下の話だが、NATOの軍事パレードで精鋭といわれたドイツ陸軍の兵士が歩調もろくに合わさずちんたらちんたら歩いていたのが微笑ましかった。「ヒトラー政権下のドイツを思い出して厭だ」ということなのだろう。黒いの白いの、でかいの小さいのと人種体格ばらばらだと、『コンバット』みたいでもっといいのだが。
 石垣だってどれも同じサイズの石で組んだら見た目も鬱陶しそうだし、かえって地震や風水害に弱いんじゃないかと心配になる。豆腐じゃねぇんだから人間を型に填めてどうする、みたいな思いもある。
 真の統合教育というのは、それぞれの特性を活かした適材適所のチームワークを身につける、ということであるはずだ。二人から十三人くらいのそれぞればらばらな人数によるグループ学習なんかは面白いだろうし、できれば地方の分校みたいに年齢層にも幅があり、すこしづつ人間が入れ替わるほうが面白い。その意味でクラブ活動は育ててゆくべきだとも思う。

 ……なんやらおれらしくない文章だな。私は嫌われていたほうが気が楽なのだが。ま、いっか。

 (Mr.Moto)


Re: うまく答えられなかった質問・・・・ 5980へのコメント
No.5989  Thu, 12 Jul 2001 11:36:02 +0900  くると [この発言にコメントする]

こんにちわ、みどりさん。レスが遅くなってすみません。

みどりさん wrote:
>武田さんもくるとさんも適切な解答を探しているのに、私ときたらい
>きなり「これは問題が不適切」と断定していました。
>ちょっとだけ自分の性格を反省しました。

 いいえ、わたしも「なぜそんなことをする必要があるのか分からな
い!」とか、「自問しているところだ」というのが正直な答えです。

 どちらの質問も、大局的には重要であるとは思われないのです。「
お金を友人と銀行に預けた方がいいのか」ははっきり言って個人の好
みの問題です。自分の財産をどう管理しようが勝手だと思います。

>>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?

 これについても、正確には別に作らなくてもよかったと思います。
若い人や体に障害を持たない人の着席を厳重に禁止する優先席なら必
要だと思いますが、そうでない優先席は無意味だと思います。


Re: ジョークが理解できなくていっこうにかまわない。 5984へのコメント
No.5988  Thu, 12 Jul 2001 11:30:11 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

すいません。ひま人さん。ある特定の部分だけ反応させてください。
ひま人 wrote:
>>>以前あるところに書いたことなのですが、ASがジョーク、お笑い、ユーモアが理解できないということについて、どういう姿勢(思想的立場)で立ち向かうべ
きかについて述べてみようと思います。

 理解できないのではなくて、話の流れで(ずっと真面目な話をしていたせいで)冗談に聞こえないという可能性があると思います。あからさまに冗談を言ってくれるならまだしも。

>これはぼくの経験からなのですが、遠足で鍾乳洞を見学に行ったときのこと、このときぼくはせっかく鍾乳洞の神秘的な雰囲気が楽しめるのだから、じっくり時間をかけてたっぷりと楽しもうと楽しみにしていたのです。ところが実際に行ってみると、ほとんどの児童はぺちゃくちゃおしゃべりをするばかりでろくに見ようともせず、どんどん早足で先に進んでしまうではありませんか。じっくり眺めようとしても、ひとりだけ取り残されてしまうので、しかたなくついていきました。「いったいおまえらは何のためにここにきたのだ」とじつに腹が立ちました。しょせん大自然の神秘な世界や感性の世界などと無縁な連中です。このような、ろくにわかりもしない連中と行動を共にすることに何の意味があるのか。

 確かにゆっくり見たいですよね。せっかく来たのだから。僕もよく取り残されます。もしくは一人でどんどん進みます(うるさいから)。でもこれは、テレビでの映像をどこかで見ていて、その時の記憶が「一回見た」と判断し、感動できなくなってるのかもしれません。知り合いは大体「ふーん」の一言で片付けてしまいます。むしろそれよりも、皆で行くとき(小学生とかは特に)には「皆とおしゃべりできる」と言う方が普通の人にとって重要なのだとお思います。

関係ないですが、「遠足」=「火薬・蛾・UNO」になってる僕の頭は何?
それでは。


夏(2)
No.5987  Thu, 12 Jul 2001 10:19:20 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

うたた寝や ナルレプ怖く 幸でなく
冷たい茶 何度飲んでも 渇くのど
バイカジや 東の国でも 尊ばれ
杖ついた おじさん辛き 日照り道


Re: うまく答えられなかった質問・・・・ 5980へのコメント
No.5986  Thu, 12 Jul 2001 09:52:50 +0900  Maria [この発言にコメントする]

みどりさんwrote:
>武田さんもくるとさんも適切な解答を探しているのに、私ときたらいきなり
>「これは問題が不適切」と断定していました。
>ちょっとだけ自分の性格を反省しました。

 それは「性格」の問題と決めつけられるものでもないと思います。

 「友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか? 」という質問は、「友達よりも銀行に預けたほうがいい」状況をまず想定し、その状況の中から「一般性のある状況」を選びだし、その場合の「良い理由」を言語表現によって明示する、という「問題の意図」があるとでも考えなければ、「これは問題が不適切」という意見も十分正しそうである、という気はするんですよ。ですから、まず「問題は適切」という仮定を置いて、「この問題が適切である場合に、背後にどういう『問題の前提』および『問題の意図』が存在するか?」を考えねばならないわけです。

 で、自閉症方面の人間は、「問題の意図」を把握するのが苦手であると。ただ、「問題の意図」を把握する能力というのが「智能」の一部であるとすると、「自閉症方面の人間は全般的にいって智能が低い」ということになりそうですが。

 ですから、「預かったお金を安全かつ効率よく行なうことで、資産形成に役立ち、同じに社会の経済活動を活性化させる」「商取引を円滑に行なう」(当座預金の場合)という機能を担うものとして存在しているわけですが、友達にはそうした機能は一般に期待できない、ということだったりします。

 ところが、銀行が機能不全に陥り、逆に個人の資産運用能力が重要視されるようになた社会では、「銀行より友達のほうがだいぶマシ」ということになるわけです。

 したがって、「問題が不適切」というより、「時代の変化によって現実にマッチしなくなった」ということなのでしょう。

 「電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?」についても、「『社会的弱者に対する配慮よりも個人の利益を優先する風潮が一般化した』と考える人が多くなったから」ということだと思います。率先して席を譲るひとばっかりだったら、優先席は必要ありませんから。したがって、「新古典主義経済学の影響によって社会的モラルが汚染されたから」という答えも、ありなのではないかと。

 そんなわけで、

>もしもこれが「なぜ優先席を作るのですか」とか「優先席が必要な理由はなん
>ですか」なんてのだったら、「問題が不適切だ!」と思うことでしょう。(本当
>に反省したのか? > 私)

 反省するにはあたらないのではないでしょうか。

 (Maria)


Re: 「心の理論」は有害である。 5974へのコメント
No.5985  Thu, 12 Jul 2001 09:51:53 +0900  タレイヌ [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> 「最近の若者の文章は子供っぽい」みたいに云われているようだけど、それって大人が言葉を形骸化させちゃったから、しかたなくそうなってるんじゃないかなぁ。そう思います。
>
> (Maria)

うん!そうおもいます。


Re: ジョークが理解できなくていっこうにかまわない。 5918へのコメント
No.5984  Thu, 12 Jul 2001 09:21:51 +0900  ひま人 [この発言にコメントする]

Mr.Moto wrote:
>ひま人さん wrote:
>>以前あるところに書いたことなのですが、ASがジョーク、お笑い、ユーモアが
>>理解できないということについて、どういう姿勢(思想的立場)で立ち向かうべ
>>きかについて述べてみようと思います。
>
> ひま人さんは「ASはジョークが理解できない」という前提をまるで疑っていないが、ASには分かるが一般人にはよくわからん、というジョークだってないとは限るまい。たとえば、ある種のブラックジョークは一般人には非常に受けが悪く、ASでないと笑えない、というのがある。

このひとはいつもながら、ひとの書いた文章の中の特定の部分だけを取り上げて批判するのですが、批判するのは結構ですが、全体の文脈についても考慮していただきたいです。まあ、相手にしてくれるだけでもMotoさんには感謝しますが・・・
たしかに、「健常者には理解しにくくてASにはよく解るジョーク」というのも存在するでしょう。ただ一般的な傾向として、健常者よりASのほうが、いろんな条件によってそういうのを理解する上で不向きではあるでしょう。たとえば、ASやATから科学者・研究者・教授といったインテリタイプが輩出することはあっても、間違ってもお笑い系やエンターテイメントの世界で成功するひとはいないでしょう。それに、かりにASが特定のジョークを健常者よりも理解できたとしても、それは隠語的な側面が強く、雰囲気を和ませる効用をもつジョークの使い回しの能力で健常者を凌ぐ人はあまりいないのではないでしょうか。
ジョークやお笑いというのは象徴として取り上げたわけで、それが適当でないというなら、以前この掲示板に書き込まれていた「多数の健常者は、会ったとたんに意識しないで自然に会話がはずんでしまうが、われわれには逆立ちしても真似できない」というので説明しましょう。
このような、意識もせず自然に会話が成立する状況・場面と、講義・説教・議論といった、意識的に言語を組み立てて話をする場合との背反性について言いたかったわけです。ああいう雰囲気にASが割り込んで話をしようとすると、しばしば雰囲気をぶち壊してしまいます。いわゆるぺダンティックな会話で相手をうんざりさせたり、質問癖や、同一の話題に固執したり、といった調子で、ようするに、健常者の世界とASの世界とが同一の時空間で歩調を合わせることの困難さ、不毛性についてです。
ASの主症状である孤立、社会性のなさ、協調性のなさ、にたいして、それを改善しようと訓練をする。意識的に会話の中に入ろうとする。などをしてもなかなか効果が出ない。またはそのことで悩んだり自己抑圧に陥っている人がいれば、その悩みを少しでも軽減できる手掛かりを提言したかったわけです。たんに「障害も個性のうち」といった、無責任で欺瞞的な言い回しではなく、それなりに根拠のある認識を掴みかけてきたという実感があったからです。
「そんなことはすでに分かってますよ」とか「いや、俺はそうとは思わない」という感想を持たれてもかまいません。
このようなことから、統合教育にはあまり賛成する気がしません。たとえば、休み時間にじっくり読書をしようとしても、周囲にギャーギャーうるさい連中が騒いでできないとか、自分の得意分野をさらに伸ばそうとしても、周囲の人間の嫉妬心が気になって、ほんとうは得意なのにわざとわからなかったりできないようなふりをしたりといったたぐいの馬鹿げたことを強いられるからです。
ちゃらちゃらした連中がいずれつけが回ってくるのはいっこうにかまわないのです。しょせん自業自得ですから。ところが、適した教育や指導をすれば伸びる素地をもつASの子どもまで、多数の健常児と悪平等によってその可能性が切り取られるとしたら、じつに腹立たしいことではありませんか。
とはいっても、実際問題として公教育の現場から(たとえば登校拒否するなどして)逃走するということもできないでしょう。特殊級に編入させるという手もあるかもしれませんが、ASの子どもに適した指導ができる教員もほとんどいないでしょう。
まず手始めとして、修学旅行・林間学校・臨海学校(いまでもあるのでしょうか?)遠足その他の学校行事に、ASの子どもを参加させないようにするのです。
これはぼくの経験からなのですが、遠足で鍾乳洞を見学に行ったときのこと、このときぼくはせっかく鍾乳洞の神秘的な雰囲気が楽しめるのだから、じっくり時間をかけてたっぷりと楽しもうと楽しみにしていたのです。ところが実際に行ってみると、ほとんどの児童はぺちゃくちゃおしゃべりをするばかりでろくに見ようともせず、どんどん早足で先に進んでしまうではありませんか。じっくり眺めようとしても、ひとりだけ取り残されてしまうので、しかたなくついていきました。「いったいおまえらは何のためにここにきたのだ」とじつに腹が立ちました。しょせん大自然の神秘な世界や感性の世界などと無縁な連中です。このような、ろくにわかりもしない連中と行動を共にすることに何の意味があるのか。
おまけに修学旅行などになると、四六時中数十人もの人間と集団行動をとらなければならなくなるのです。それでなくても集団がわずらわしいのですから、悪夢でしょう。さらに運悪く修学旅行中にいじめられたりしたら、ホテルなどの宿泊施設が文字どおり強制収容所と化してしまいます(じっさいそうなった例をいくつも知っている)。
あほな論客が言うような、「いのちの大切さを教えてこなかった」とか「生きる力を育む教育」がどうの、あるいはまるで○○のひとつ憶えのように提唱される「学校と地域の連携」「親と教師との連携」といった(これらはみなアリバイであり、何の効果もない)ことに原因があるのではなく、健常児とASのように、もともと反りが合わない者同志を同一の空間に収容させるシステムこそがいじめの温床なのではないか。だとすれば、そのような時間空間を減らしていくことこそが重要であろう。
ただ、この提案も押し付けるつもりではありません。AS児がいることでかえってクラスの雰囲気がよくなることもあろうし、本人が楽しみにしているものを無理に行かせないようにする必要もないでしょう。ただし、いま提案したような方法を採ったほうが得策であるという状況に陥る可能性があるということはいえると思います。
どうせなら、それこそこの掲示板を利用するなどして、たとえば鉄道マニアのASが集合してどこかの車輌工場や廃線跡を見学に行くなどのプランを立てたほうがよほど楽しいでしょう。


Re: うまく答えられなかった質問・・・・ 5970へのコメント
No.5983  Thu, 12 Jul 2001 09:18:53 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

こんにちは。

 1は答えられそうにないのでパスです。お金が絡むと、訳わからなくなります。

>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?

 2は僕は
「そう言う席を作らないと、辛いけど座りたいと言い出せない弱者がかわいそうだから」
と答えると思います。

 僕の友達(多分普通の人。でもちょっとおかしいかも(苦笑。)は
「ある程度、そういった席を設けておかないと『早い物がち』『自分が良ければそれで良し』しかルールを知らないパカタレ(PAKATAREだそうです(笑。)に全席占領されるから。」
と言ってました。

 確かに、シルバーシートに「意気揚々」と若い人が座るので余り意味をなしてませんが、そう言う人達は「自分さえ良ければ良い」という「オーラ」が見えてしまう気がするので凄く嫌な気分になります。偏見かもしれませんが。

 それでは。


Re: 「心の理論」は有害である。 5959へのコメント
No.5982  Thu, 12 Jul 2001 05:01:27 +0900  pocks [この発言にコメントする]

>「心の理論」を自閉症研究に応用した場合にはかなりマッチするんだけど、
>「健常者」の発達にはマッチしない、

> 「健常者=感情移入・自己投影によって他者の行動を予測している人」
> 「自閉症方面の人=『心の理論』的な方法によって他者の行動を
> 予測している人」

おそらくこのへんは大当たりですね。んで

>「自閉児が他者の心理を理解できないのは、『心の理論』を身につけて
>いないからだ」

私の実感から言うと、これは因果関係を誤った認識です。自閉症者において
「心の理論」(という代替戦略)の獲得が遅れるのは、(感覚の異常
{というか差異}などの)より根源的な障害のために他者と感情を同調
させにくいためである、と理解すべきでしょう。

また、心の理論はあくまで「理論」でありますから、心の理論の獲得に
伴って、非自閉人ならば自然に身に付けているであろう「(非自閉人への)
共感能力」とでもいうべきものが自閉人に獲得されるわけではない、
という点にも注意すべきでしょう。

言い換えると、「心の理論」の獲得によって自閉症のハンディが一つ
なくなるというわけではなく、ハンディの中核をなす部分はそのまま残る、
ということです。


Re: うまく答えられなかった質問・・・・ 5979へのコメント
No.5980  Thu, 12 Jul 2001 02:55:09 +0900  みどり [この発言にコメントする]

くると wrote:
> どれも、適切な答えとは思えません。 

> こちらも十分ではないような気がします。

武田さんもくるとさんも適切な解答を探しているのに、私ときたらいきなり「これは問題が不適切」と断定していました。
ちょっとだけ自分の性格を反省しました。

もとの問題:
>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?

こっちは私にとっては比較的楽ですね。他人の行動や決断の理由をあれこれ推測したり説明したりするのは、いつもいつも (いやになるほど) 頭の中で繰り返していることです。

もしもこれが「なぜ優先席を作るのですか」とか「優先席が必要な理由はなんですか」なんてのだったら、「問題が不適切だ!」と思うことでしょう。(本当に反省したのか? > 私)


Re: うまく答えられなかった質問・・・・ 5970へのコメント
No.5979  Thu, 12 Jul 2001 00:37:08 +0900  くると [この発言にコメントする]

 くるとです。武田さんが悩んだ設問にはわたしも的確に答えることは
できそうもありません。

武田好史さん wrote:
>1.友達にお金を預けるよりも、銀行に預けた方が良いのはどうしてですか?

(1)友達に重い責任を負わせることはできないから
(2)預金については銀行が専門機関であるから
(3)財産がより安全だから


 どれも、適切な答えとは思えません。 

>2.電車やバスに優先席があるのは、どうしてですか?

(1)全く無意味なような気がする
(2)運送会社が道徳の向上への貢献をアピールするため
(3)立っているいるのが困難な人への配慮

 こちらも十分ではないような気がします。

 しかも2つの設問に対するわたしの究極の答えはこれです。
「そのことはわたしも常々自問しているのであります!!!」(笑)


幼少期の「真似」「ごっこ」
No.5978  Wed, 11 Jul 2001 23:42:08 +0900  ミッドランド [この発言にコメントする]

 「心の理論」で色々議論が交わされています。それであることを思い出しました。今回の僕の投稿は「心の理論」からは少しそれるかもしれませんが。

 僕が親から聞いた、僕の幼少期の特徴のひとつに「親の真似をしない」というのがありました。
 ASを認識した今それを分析してみると、どうも他人に関心を持たなかった、だから親の行動にも関心がない、よって真似をしない、そういうことのようです。
 最初は信じられませんでした。子供が真似をせずにありとあらゆる行動を身に付けられるのか、もしそうだとしたら一体どうやってそれらを身に付けたのか、と思い巡らせました。
 僕自身、その頃親の真似をしていたかどうかは、はっきりした記憶がありません。
 しかし、マンガやアニメを見て、そのキャラの真似をよくしていたのは覚えています。強いて言うならこれは「マイ・ファンタジー」と言うべきでしょう。

 親の真似をせずにどうやって「基本動作」を身に付けたのか、自分でもわかりません。親がウソを言っているとも思えませんし。
 この掲示板を見ているASの子を持つ親御さん、あなたのお子さんはいかがですか? 

 話は変わります。「真似」に近い行動に「ごっこ」があります。
 自閉症関連の本を読んでいると、よく「自閉症(スペクトラム)の子供は『ごっこ』遊びができない」との記述があります。「心の理論」の考え方で、
#人の心が読めない→社会的行動ができない→「ごっこ」遊びができない
ということだそうです。
 しかし、それは「社会的色彩を帯びた『ごっこ』遊び」(例えば「お医者さんごっこ」や「お店屋さんごっこ」のような、「人とのコミュニケーション」が前面に出る遊び)に限ってのことだと思います。「ひとりでできる『ごっこ』遊び」ならばできると思います。それは「マイ・ファンタジー」に通じるものですから……。
 僕は子供の時分、よく「バスごっこ」をひとりでやっていました。バスといえばワンマンですから、ひとりでやるにはもってこいだったわけです。
 運転する動作をしながら、車内アナウンスをただひたすら言い続ける、といったもので、僕はこの「車内アナウンス」をしていたときが一番いい気分でした。やはりこれも「マイ・ファンタジー」というべきでしょう。

 「真似」と「ごっこ」、どちらも自閉症スペクトラムにとっては「マイ・ファンタジー」の材料となるようです。(僕個人の勝手な推察ですが)

 決して「マイ・ファンタジー」を否定しない  ミッドランド


Re: クルマにはヒトが乗っている!? 5975へのコメント
No.5977  Wed, 11 Jul 2001 23:06:50 +0900  Maria [この発言にコメントする]

Xanadiiさん wrote:
> 私は通りを走っている自動車を見て、「これを操縦しているのは心を持つ人間だ」というふうには認識してはいない。

bauさん wrote:
> そうそう、私も認識していません。
>「クルマ」が走っているのがわかるだけ。

 いわゆる「健常者」は、逆に「自動車」に運転者の人格を「貼りつけて」いるような気がします。

 自動車を運転している人というのは、その人個人の人格とは別の、「人+自動車」という「人格」を持つんですよね。で、それは運転している車種にかなり端的に現れるので、感じとしては「自動車(+人)」あるいは「自動車」の「人格」のようなものを感じます。で、映画『クリスティーン』なんかは、そういった「自動車の人格」みたいなものを描いた作品だったりするわけですね。

 それは、「着飾った自分」と「裸の自分」の差のようなものだと思うんですよ。で、その人の内面というのは、ファッションに現れるわけです。

 コンピュータに対して「憎悪」を向ける、いわゆる「健常者」なんていうのはどう考えても「異常」という気がするのですが、そういう感情は「正常」であると認知されているのがよくわかりません。「数学嫌い」だとか、「文法嫌い」だとか、そういうのも同じです。

 あたしも変な走りかたをしている自動車を見ると、ときどき「壊れてる」と思うことがあります。だけど、それって運転者が変なんだよな、と気づくまでちょっとかかります。

 (Maria)

新しい話題を投稿 次の20件を表示 最新のログを表示 パスワード変更 発言の削除

《アスペルガーの館》に戻る / 新しいアスペルガーの館の掲示板


EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 + s.murakami改
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami