アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
下の発言、なんかすごく唐突な発言すぎたかもしれません。
・・・
アスペルガー症候群のことを読んで
自分と近い人たちに出会えたように感じて
嬉しかった。
そのことが伝えたかったんですけど、
でも、なんて言っていいかわからなくて・・・。
とりあえず挨拶がしたかったんだけど、
上手にできなくてごめんなさい。
わたしは、CFS(慢性疲労症候群)の患者です。
ASについては診断されてないし、検査も受けてないので、みなさんと同じ人種かどうかわかりません。
けど、診断基準を読んでいると、共通点が多いです。
どういった診断名がつくかつかないかわからないけど、私も、たぶんなんらかの特種な脳ミソの持ち主だと思います。
今、壁にぶつかって、この先どうしたらいいのか途方に暮れています。
・・・
病院に検査を受けにいった方がいいかな。
ASって病院ではどんな検査をするんですか?
自分から言って、検査ってしてもらえるのでしょうか。
私は人との接し方がワンパターンで
人と話すときは、やたら陽気なので
悩みがあるようには見えないんです。
どんなに具合が悪くても、いつも元気だねって言われます。
でも、本当の感情を出せないだけなんです。
おかしいとか、人の気持ちがわからない宇宙人だとか、気持ち悪いとか言われて
奇妙な目で見られていつもイジメられてました。
だから自分を隠すようになったんです。
・・・病院の先生に何て言えばいいんでしょうか。
みなさん、教えてください。
emmaさん wrote:
>「放っておいてもらえるように、親しくなる」ですか。
>そうなるためには、やはり意思的に行動しなければならないのですね。
>今の環境では難しそうですが、そうできたらいいな、と思います。
笠原真澄さんというひとの、『田舎がきゅうくつなひと 都会がたいくつなひと』という本があります(サンクチュアリ出版、1200円)。
この本には「田舎と都会では、『優しさ』の質が違う」といったことが書いてあります。都会の優しさは、「無視してくれる優しさ」なのだと。で、だからといって冷たい訳ではありません。はっきりと助けを求めれば、助けてくれる人は大勢いたりします。
ここで重要なのは、「はっきりと」の部分です。『田舎がきゅうくつなひと 都会がたいくつなひと』には、こんな話が出てきます。
---
都会の人に道を聞こうとして声をかけると、たいていはびくっとしてさっさと逃げ去ろうとします。確かにこれでは、聞こうとした側はショックです。傷ついてしまうのも無理はありません。
しかし、それは声のかけかたが間違っているのだということを、声を大にして言いたい。
(中略)
だから、「あ、すいません」で間を置いてはいけないのです。
「すいません、○○にはどうやったら行けますか?」
と一息で尋ねてしまうのです。
(中略)
これに気づいてからは、尋ねた人全員に親切に教えてもらっています。嫌がる人などは誰一人いません。
今でも、「すいません」と言った瞬間に逃げようとする人はいますが、相手が背中を向けて逃げようとしてもそのまま「○○ってどこですか」とつなげてしまうと、そこで全員振り返って安心したような顔をして教えてくれます。
これは不親切なのではなくて、防衛本能です。誤解しないであげてください。
---
そんなわけで、「自分のことを知っておいてもらう」という「自己開示」については、国民性や地方性が大きく影響します。
たとえば、韓国の人というのは、「友達」となったら徹底的に自己開示し、相手にも自己開示を求めます。で、それを拒絶すると、「冷情」と非難されちゃうんですね。で、相手の生活の中にどんどん踏み込んでゆくのが親愛のしるし、みたいな考え方があります。これは日本の田舎と共通する部分があります。
だけど、東京というのは「他人をそっとしておいてくれる」土地です。小笠原なんていうのもそうなんですけどね(あ、あそこも東京都か)。つまりは、地元民のいない、「よそものの土地」なんです。「訳ありな感じ」の人がいても、詮索する人はあんまりいません。「変な人」であっても、後ろ指を差されることもありません。
ただし、だからといって東京(あるいは、都会)の人が他人に無関心かというとそうじゃないんですね。猫のように、相手の生活に介入することなく、それとなく様子を窺っていたりもするわけです。だから、東京では「わかりやすく、さりげない自己開示」というのができると快適に生活できます。
で、それはその人の「全部」である必要はさらさらないのね。たとえば「犬を連れて散歩する」でも、「『ハーブの苗 差上げます』という貼紙がしてある」でも、かまわない。とにかく、その人の「外から見える部分」をわかりやすく説明するものであれば、べつに何でもよかったりします。
ついでながら、田舎だと「変な人」というとそれだけで悪いことみたいに言われてしまいますが、都会だと「ヘンな人」は個性です。ですから、「ヘンな人」は、むしろ「わかりやすくヘン」であることを心がけたようがよさそうに思います。そうすると、周囲の人が納得してくれて、詮索されることがありません。
ただし、例外もあるようです。カムアウトしたレズビアンの女性が、「『女同士って、どうやってスルの?』としょっちゅう訊かれる」と嘆いておられました。まあ……分るんだけどさ。
(Maria)
みなさんおはようございます。
学校が休みにはいって、町へ出ると一輪車に乗っていたり・お母さんと一緒に買い物をしたり・志望校へ向けて勉強したり・部活動に汗を流して疲れた顔をしていたり・金色に髪を染めて楽しそうに仲間での時間を過ごしたりしているなど、様々な子供たちの姿を見かけます。
さて子供にまつわることで、ちょっとみなさんにお伺いします。
あなたが思うところ、日本の教育に関して、「ここは改めるべき!」と日頃思っている問題点はどんなことですか?
> うちのJoshyaさんは、「自分の悪意や意地悪を考慮に入れて行動されると攻撃的
>になる、悪意を持った意地悪な人」を上司に持つという悪夢のような状況を何度か
>経験
(中略)
>我々のように「普通の人」と感性を共
>有するのに不自由な人々というのは、こうした虐待の構造に取りこまれやすかった
>りします。
同じパターン(「悪夢のような状況」)の経験があります。
というか、我々の反応が虐待を誘発しているような側面もあるのでしょうね。
「いじめの標的になりやすい」という特徴は、幼児期だけでなく成人しても
なお続く。
このことは「我々自閉人の反応パターンが原因である」ということではもちろん
なく(我々の対人反応は脳の障害により制約されており、相手の意図が読めない
あるいは非自閉人に共感できないというポイントは直しようがないので、もし
我々に原因を求められたら「馬鹿は死ななきゃ治らない」とばかりに絶滅
させられる以外の選択肢はないことになる。)、「非自閉人の反応パターンが
異常である」あるいは、「非自閉人は、自閉人を前にすると狂う」ということを
示しているのですが。
Maria さん wrote:
> 「親しくなる」というのは、「一緒になって騒ぐ」ためだけのものではありません。「放っておいてもらえるように、親しくなる」ということだって、あると思うぞ。
遅くなってしまいましたが、レス頂いて嬉しいです。
「放っておいてもらえるように、親しくなる」ですか。
そうなるためには、やはり意思的に行動しなければならないのですね。
今の環境では難しそうですが、そうできたらいいな、と思います。
私はA-typeではないかもしれないけど、
これからもROMさせて頂きたいと思ってます。
お邪魔でなければ良いのですが。
emma
武田好史さん wrote:
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、「視覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→分析→動作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
そういえば、思い出したこと。
私は仕事中に話をすると手が止まる。仕事に集中すると黙っている。
(ただ、他人が話しているのは聞きながら仕事ができる。)
楽器を弾きながら話ができない(ので、弾き語りなど神業に思える)。
喋りながら歩くと、物にぶつかりそうになる。後ろから車が来ているのに気が付かなくて、連れの人に腕を引っ張られることがよくある。
私の場合、単に一度に一つのことしかできないってことかも?
失礼しましたー。
ASL(American signed language)については、以下の二冊が詳しいです。
ギャリック・マラリー著・渡辺義彦訳『人間(ヒト)は手で話す』、PMC出版、1990年、3500円
渡辺義彦編著『インディアンは手で話す』、径(こみち)書房、1986年、3500円
(Maria)
赤ちゃん言葉について補足。
子どもに対して、「〜しようね。」「〜しましょうね。」と語りかけるより、もうちょっといい方法があるような気がします。
日本語において、規則活用動詞の活用の形は、いわゆる「連用形」のうち、「ない」がつづく形で判別することができます。ですが、日常的によく使う形は、いわゆる「終止形」、つまり「連体形現在」です。
そこで、「××ちゃんは、××を、食べる(ここで、野球の「セーフ」のポーズのように、手をテーブルを拭くように水平に動かす。「心が平らである」「イエス」のサイン)、食べない(物を捨てるように、掌を下に向けて動かす。「ノー」のサイン)、食べるー!(ここで再びイエスのサイン)」とかやるわけです。
これで、子どもが「食べたくない」とか思ったら、ここでたぶん抵抗するはずなのね。
同じように「禁止する」場合(たとえば「玩具を食べない」とか)の場合は「食べないー!」とかやるわけ。アメリカン・サイン・ランゲージだと、「イエス」の場合は満足げな表情、「ノー」の場合は、「見たくもない」みたいな不快な表情をして顔をそむけます。
これを続けていたら、そのうちに「イエス」「ノー」のサインを自分で出しそうな気はするのですよね。ひょっとしたら、表情も真似してくれるかもしれません。
まあ、これも思いつきです。笑ってやってください。
なお、「笑う」のサインは、肘の高さで、掌を上に向け、物をつかむように指を曲げ、小刻みに震わせる、です。顔は笑ってください。ははははは。
(Maria)
くると(複合型LD)です。今回は成人LDの会とは全然関係ないんです
けど…。
実は、精神分裂病を患っている友人と8月11日(土)の東京湾の花火大
会に行く予定だったんですけど、友人の方がキャンセルになってしまいちょ
っとさびしいっす。(シクシク)
そんな訳で一緒に花火大会に行ってくれる仲間を募集します。時間は午後
7:00〜8:20までです。
もし希望者がいれば詳細をお知らせしますので、この掲示板に参加希望を
書きこむか、下記のメールアドレスにメールを送ってください。
(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp
まあ、騒がしい場所が嫌いな人にはお薦めじゃないけど…
(P・S)
あ、言い忘れてました。広島と福岡のオフ会に参加する都合で、8月3日
〜7日まで家を留守にします。この期間はすぐに返事を書けませんが、必ず
帰ってからチェックするのでご心配なく。
「言語学における基礎概念に、主語と述語の主従関係、というものがあります。
この“述語”という言葉は相当にややこしい問題を含んでおるので、祟りをなさ
ないように、[述語]とカッコに入れておきましょう。」
「つんつん」。つついたりして。
「つつくなぁーっ!」
「はーい」。何もそんなふうに怒らなくても。
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
正高信男、『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)がおもしろいです。
で、この本の中にはけっこう愕然とするような指摘がなされているのですね。
たとえば、「自閉症児には赤ちゃん言葉がない」ことから、「自閉症児教育には赤ちゃん言葉は必要ないのでは?」と考えてしまいそうになったことが、あたしには一度ならずありました。
ところが、です。そもそも「赤ちゃん言葉」というものが、日本以外の、特に欧米諸語には存在しないのだそうです(P.61)。
で、面白いことに、日本語には名詞の性による語尾変化というものがありません。単数形・複数形の区別というものもありません。つまり、名詞はいつも同じ形で出てきます(例外は、「あめ(天/雨)→あま」「かね(金)→かな」「ふね(船)→ふな」「さけ(酒)→さか」などと、複合語の連音濁にほぼ限られます)。
そんなわけで、助詞を省いた「赤ちゃん言葉」というのは、言語獲得の雛形としてはけっこうよくできている気がします。それに、日本語では大人でも「てにをは」を省略する傾向にありますし、そもそも「重要でないものは省く」という態度が徹底した言語でもありますから、赤ちゃん言葉から大人の言葉への以降はそれほど困難ではなかったりします。
そんなわけで、「赤ちゃん語」の語法の中に、「非・言語的(ノンバーバル)な意味表現構造」みたいなものが、わりと素朴な形で内在しているんじゃないかなぁ、みたいな予想はしていたりします。
それからもうひとつ。「指差し」というのが、「つんつん」に由来するという、「つんつん起源説」(←こういう名前では出てきません。あしからず)というのがあります。
つまり、子どもは、「未知なるもの」に遭遇すると、思わず「つんつん」してしまうわけですね。それに対して、親が反応する。これが繰返されることによって、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係が形成されるとみるわけです。
自閉症児は周囲との関係性を持たないので、「対象をつんつんする」ことと周囲の人間の反応とを結びつけて考えることがなく、その結果「指差し」が生まれない、ということが言えると思うんです……が、これ以外にも原因がありそうな気がするんですよね。
「正常な」子供の場合、親は「子供がつんつんしている対象」に意識を向けます。これはつまり、「子供を信頼している」からなんですね。ですが、「障碍を持った」子供の場合、親は「つんつんしている子供」に対して過剰に反応してしまいそうな気がします。つまり、「いろんなものを軽々しくつんつんしないように」というふうに、意識が行ってしまう。その結果、「対象をつんつんする」→「親の注意が対象に向く」という因果関係の形成が阻害されちゃうわけです。
ですから、子供が何かをつんつんしようとしたら、子供を押しとどめようとするのではなく、その「対象」を取り上げるというのが指導法として適切なのかなー、と思います。あるいは、「つんつん行動」から「指差し」を引出すような療育プログラムを用意する、とかね。
そんなわけで、正高信男『子どもはことばをからだで覚える メロディから意味の世界へ』(中公新書)、おすすめです。
「はにゃはにゃー」
「へにょへにょー」
「えーん、わかんなくなってしまいましたー」。しくしく。
「みなさい。[述語]の祟りです。」
「うーん。つついたのがいけなかったのか。」
− 救世義也、『日本語文法の「なぜ」に答える』より引用
(Maria)
シンタロウ wrote:
>どうも、シンタロウです。
>僕は8月3〜4日に楽器製作の専門学校の夏期講習へ行ってきます。夏期講習では>面接と作文と適性検査があります。僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手>です。誰かアドバイスをしてくれませんか?
こんにちは、シンタロウさん。そんなに深刻にならないで良いと思います。
相手は、とりあえず、普通の反応をする人か、一応働ける人か、というのを
簡単にチェックしたいだけですよ。質問にまじめに答えて、パニックにならない
よう気を付けるだけで良いんじゃないですか。
★面接→合格、お祈りしてますね。
シンタロウ
>僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手です。誰かアドバイスをして
>くれませんか?
宮本武蔵の『五輪書』には、「二星の目付(拳の動きを見る)」「峰谷の目付(両腕の動きを見る)」「遠山の目付(肩を中心に上体全体を見る)」というのが出てきます。で、いずれにせよ相手の目は見ないのね。
で、面接なんかで有効なのは、両肩を結んだ線の真ん中、つまりいわゆるVゾーン(ネクタイの結び目あたり)を中心にして、相手の上体全体を見る「遠山の目付」です。相手がリラックスしているか、緊張しているか。乗り出してきているか、退いて構えているか。そういうところを見ます。
ただし、そこを見っぱなしだと、「下を向いてボソボソ喋っている」という感じになって印象を悪くするので、相手の話、こちらの話の要所要所で相手に視線を送ります。このとき相手の目を見ちゃうとヤバいので、「眉」を見ます。
で、そのときの表情。
鏡で自分の顔を見てください。で、リラックスしつつ真面目な顔、つまり、何かに熱中しているときの顔をします。口は閉じること。次に、そこから「目を見開かないように、眉を上げる」ようにしてください。これが「なるほど」の表情。で、ほんの少し。分るか分らないか程度に、軽く頷きます。これが、相手の話を聞きながら、自然にできるよう練習します。
あとは、慣れ、でしょうか。
なお、「相手の言ったことを、自分の言葉で、言い方を変えて相手に問い質し、確認を取る」というのが適切にできるようならかなりの上級者。
(Maria)
みどりさん wrote:
>人並みという言葉もおもしろいな。ヒト並とか書くと、「人間なみ」との区別が
>だんだんあいまいになってきて。
月並みの小惑星は、月並みでなく大きい。
(Maria)
タレイヌさん wrote:
>マカトン・サイン と、言うのが、あるようです。
>自分の、欲求の表明を、促すこと、から始まります。
>簡単な、絵カードや、指文字が、発音と組み合わさっています。
戸部けいこ、『光(ひかり)とともに… 自閉症児を抱えて』、秋田書店
の中に、自閉症児童とコミュニケーションを取るのにポラロイド写真を使うという方法が出てきます。
ただ、動詞と文法格(てにをは)を表わすのが難しいんですよね。そこで、「名詞:絵や写真」「動詞:手話」「てにをは:語順」というのが、ひとつの方法ではないかと。
> Mariaさんの、書き込みには、いつも多くのことを考えさせて頂いてます。
> 有難うございます。
いえいえ。こちらこそお役に立てれば嬉しゅうございます。
(Maria)
どうも、シンタロウです。
僕は8月3〜4日に楽器製作の専門学校の夏期講習へ行ってきます。夏期講習では面接と作文と適性検査があります。僕は人と面と向かって話すのがものすごく苦手です。誰かアドバイスをしてくれませんか?
いつもながら本筋を無視してからむ、違った、気になってしまうみどりです。
Maria wrote:
> ところが、「身ぶり手ぶりが理解できない」「身ぶり手ぶりを交えて話されると混乱する」といった自閉症者って聞いたことあります?ないでしょう?
これおもしろいですよね。自閉症者かいなかは問わないとして、「視覚認知能力も運動や言語の能力も十分あるのに、身振り手振りをひと並みに理解できない」という障害はあるのでしょうか?
# 人並みという言葉もおもしろいな。ヒト並とか書くと、「人間なみ」との区別がだんだんあいまいになってきて。
Maria wrote:
> いわゆる「言葉の遅れ」は最大の謎です。確かに言葉はあるのに「喋らない」ケースがけっこうあるんですよ。中では発達しているのに、表に出てこない。で、いわゆる「赤ちゃん言葉」がない。まるで外国語を学習しているみたいに母国語を理解しているらしいことは分るんだけど、じゃあ自閉症児の母国語って何なの? 音声言語によらない意味構造っていうのが存在するの?
いつもながら、自分の都合だけで、ちょっとだけ、書き込みさせてください。
マカトン・サイン と、言うのが、あるようです。
自分の、欲求の表明を、促すこと、から始まります。
簡単な、絵カードや、指文字が、発音と組み合わさっています。
音声言語によらない意味構造は、生理的欲求として、基盤にあるとおもいます。
―――すみません。
「コミュニケーション」という、「高度な音声言語表明」の、お話なのに、凄くレベルの、低次元なこと、書きました。
ただ、体の自然発生的要求と、言語表現が、奥底で繋がることで、言葉に、本当の「存在意味」が、持てるのではないかしら・・・と、思ったのです。
Mariaさんの、書き込みには、いつも多くのことを考えさせて頂いてます。
有難うございます。
(タレイヌ)
武田好史さん wrote:
> 最近私は気がついたことがあります。
> それは自閉症の人にとって、気持ちというものはどうも耳から入ってくる
>ものらしい、それが自閉症の人が「アイコンタクトが乏しい」と言われるゆ
>えんではないかということです。
あたしは自閉症者のアイコンタクトの欠如は他者認識の発達の遅れによるという説を取っているので本当は武田さんとは意見が異なっているのだけれど、確かに(すでに他者認識を獲得している)自閉症者に「視線忌避」の傾向があるとは思うんですよ。
たしかサルを使った実験なのだけれど、脳には二つ並んだ点に反応する「目玉細胞」があるという話があります。したがって、視線を意識するというのは「生得的なもの」だという認識がありました。ところが実際には「視線」という概念は「指差し」同様後天的に獲得されるものなわけです。だとすると、他者認識を獲得した自閉症者が遅蒔きながらアイコンタクトを獲得することはあっていいはずなんですよね?
で、あたしはこれには二つの理由があるように思うです。
ひとつは「緘黙」と同様のメカニズムで起きる視線忌避。「視線緘黙」とでも呼びましょうか。視線というのは、「感じ取るもの」であると同時に「発するもの」でもある(「睨みつける」「目を伏せる」など)わけで、自閉症者はこの視線を含めた表情を適切に(健常者にとって、ですが)作ることができない。さらに、「視線をまっすぐに向ける」というのは、多くの場合攻撃的な意味を持つわけです。
つまり、シャイな人がサングラスを掛けるのと同じ理由で、「視線緘黙」は生じるのではないかと。
もうひとつは、運動学習に関わる意識的な運動系と、無意識的な運動系の競合を避けるため、というのがありそうに思います。
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、
>「視覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→
>分析→動作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
「自閉症者は不器用」という話があります。これは、自分がどのように歩いているかについて考えたとたんに歩けなくなってしまった寓話の中の百足(むかで)のように、あるいは自分のフォームを意識すればするほどフォームがぎこちなくなってしまったスランプ期のスポーツ選手のように、「視線」を意識することで「自己」を意識することになり、意識的運動系と無意識的運動系の競合が起きる、ということなんじゃないか、と思います。
ただ、この説には大きな穴があります。「視線」の獲得は後天的なものだから、意識的運動系と統合されちゃえば競合は起きないんじゃないの?ということ。つまり、「視線」を言語の一部として統合することがなぜできないの?ということです。
これに対する一つの答えが武田さんの「視覚・聴覚競合仮説」なんですが、だったら身ぶり手ぶりといった視覚言語と聴覚言語の競合だって起こるはずですよね? ところが、「身ぶり手ぶりが理解できない」「身ぶり手ぶりを交えて話されると混乱する」といった自閉症者って聞いたことあります?ないでしょう?
そこで考えたのが、「目玉」の認識は生得的である、という話なんです。つまり、「目玉」の認識は生得的なんだけど、「目玉→視線」という径路の獲得が後天的なのだと。それに対して身ぶり手ぶりの理解は本来的に後天的です。ですから、「視線」というものは「目玉」の認識という生理・本能に近い部分から訴えかけてくるがゆえに、強烈なものだから意識的な言語活動を混乱させる、ということなんじゃないでしょうか。
さて。感覚の中で、味や匂いというのはやはり脳の深いところ、つまり周辺野(辺縁系)において処理されます。自閉症者が味や匂いに敏感、あるいは強いこだわりを持つ、というのは、それが「感覚の中でもダイレクトに無意識に訴えかけるもの」だからなんじゃないでしょうか?
まあ、単なる思いつきではあるのですが。
(Maria)
武田好史 wrote:
こんにちは、武田さん。
>つまり気持ちを読みとるとき、私たちはどうも聴覚に頼ってしまう傾向があるよう>で、それがスムーズに行かないときに、「気持ち=聴覚+視覚で読める」という普>通の人と摩擦が生じてしまいやすいのではないかということです。
> 逆に言えば、「話を聞いていない」「物事にこだわっている」というのは、「視>覚→分析→動作系」を働かせるのに全ての集中力を向けていて、「聴覚→分析→動>作系」を働かせる余地がないということではないのでしょうか?
私に限って言えば、すごく気分屋(この言葉はわがままみたいであんまりすきじゃないんだけど)なので、雰囲気が合うか合わないか、が
すごく重要なので、「気持ちを読み取る」のが視覚より聴覚より、何というか
波長というか、「私が嫌いではない、行動をとる人」に結果なっているようです。ごめんなさい、なんだか自分の事ばかり言い募ってますね。
だから、いきなり独り言を言う人や大きな音を立てるがさつ?な人は周りに
いられると、とてもつらいです。
Mariaさんwrote:
>いわゆる「言葉の遅れ」は最大の謎です。確かに言葉はあるのに「喋らない」ケー>スがけっこうあるんですよ。中では発達しているのに、表に出てこない。で、いわ>ゆる「赤ちゃん言葉」がない。まるで外国語を学習しているみたいに母国語を理解>しているらしいことは分るんだけど、じゃあ自閉症児の母国語って何なの? 音声>言語によらない意味構造っていうのが存在するの?
私は喋りたい時は喋りっぱなしで相手に悪いなあと思うんだけど、出来れば言語は
使いたくないのが本音です。言葉って耳に障る単語が時々合って嫌だな、と思う
時があるので。(語尾を上げるフレーズとか)
アイコンタクトで全て済めば良いな、と最近思うTienでした。
すみません、お二方に妙なレスで...。
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