アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Maria wrote:
>
> で、たとえば「東大卒」と「その他の大学の卒業生」、「大卒」と「高卒」みたいな、「同一の軸の上でのランクづけ」みたいな物差に相手を押込んで優越感を感じる「特権意識」みたいなもので自分をごまかしている人というのはいっぱいいるわけです。
>
そうそう!!よくいるね〜。僕はそうゆう奴らを沢山見てきたのね。
僕はバンドで文化祭の練習の時、メンバーの一人が「お前ベースの腕前は他のバンドのベースに比べて下から3番目だよ」と言われたり、他のバンドの奴から「お前1番ヘタクソだ」と言われたり、健常者は何でもかんでも順番つけたがるんだよね〜。オリコンチャートなど独創的で無い平均的な楽曲は上位にあって独創的な楽曲は下位へ落ちてゆく、健常者は音楽を楽しむことが出来ないんだよね〜全く!(プンプン!!)
グゥイネビア姫さん wrote:
>皆さんは「千と千尋の神隠し」ご覧になりましたか。
こんばんは。初めまして、でしょうか。
観ました。もう一度、9月になったら観に行こうと思っています。
>千尋の両親がね、無人の料理店に入っていって、飲み食いするでしょう。
>豚にするための伏線だろうけれど、よく考えたらあれって、「無銭飲食」でしょう?何で、断りもなく口に出来るの?子供の前で少しは大人の威厳をみせてよ。
>なんだか、子供ほぉりっぱなしで、自分の本能全開にして、なんだか、後味(?)わるい。
本能全開って感じ、よく分かります。「あ〜、いやだな〜、ああなりたくないな〜」って思わせるシーンでした。ちょっと、どぎつい表現だったけど、そのあとわんさと出てくる神様たちのどぎつさに対抗するには、あれくらいでも良かったのかも……なんて考えました。
「豚になったってしょうがないだろうさ、あれじゃ」と観客に思わせるためのデフォルメでしょう。現実にはどこかにいそうで、実際にはいないだろうと思いますよ。でも、いたりして? ……いやですね〜。
ここ何年か、ライアーに憧れていました。プロの人が弾くライアーの音色に初めて触れることができて、それだけでも嬉しかったです。映像も、とても印象的でした。わたしは「もののけ姫」よりは、好きだな〜。
Maria wrote:
>シュッツさん wrote:
>>ひま人さんがどれだけの検討をしたかは私には分かりませんが、Mariaさんが
>>「思いつき」と書いたのは、その検討内容が浅いということだと解釈しました。
>>私が書いた「思いつき」もその解釈に基づいています。
>
> えぇえぇそうでしょうともどーせあたしは考えが浅いですよぶちぶちぶち、とかいってふて腐れてしまおうかしら。(←またしても黒Mariaさん全開状態)
「『検討内容が浅い』ことをMariaさんが『思いつき』と呼んだ」
という意味なんですけど……
> で、そこんとこを「考え方の違い」とか、「見解の相違」とかで逃げてほしくないと思っています。あるいは、「私はそういう説を紹介、あるいは提示しただけだ」みたいに、自分のものとして引き受けない態度というのがあたしは嫌いだ、ということだったりします。べつにひま人さんやシュッツさんがそうだと決めつけるつもりはありませんが、ねっ。
こういうことは書いた覚えはありませんが。
(書いたつもりではない文章になってしまっている可能性はありますけど)
強いて言えば、私は理学ではなく工学の人間なので、その考え方をしてしまうことはあります。
例えば、交流に50Hzと60Hzがあって、どちらかに決められないように、複数の答えを認めることはあり、もしかしたらそれを「考え方の違い」のような言葉で表現したかも知れませんが、それは上のMariaさんが書いたことの意味とは違います。
シュッツさん wrote:
>ひま人さんがどれだけの検討をしたかは私には分かりませんが、Mariaさんが
>「思いつき」と書いたのは、その検討内容が浅いということだと解釈しました。
>私が書いた「思いつき」もその解釈に基づいています。
えぇえぇそうでしょうともどーせあたしは考えが浅いですよぶちぶちぶち、とかいってふて腐れてしまおうかしら。(←またしても黒Mariaさん全開状態)
>ここで言っている「検討」というのが、自分で行ったものか、第三者が行った
>ものかによって意味合いが違ってきますね。
>プレート・テクトニクスの例は第三者による検討です。
>しかし、考えた理論を始めて公表するときには、当然のことながら第三者の評
>価はまだなく、自分自身による検討の結果があるだけです。
>自分なりの検討を十分に加えたかどうかと、その検討内容が十分に深くて洗練
>された結果になっているかどうかは、また別ものだと思います。
確かに「自分なりの検討を十分に加えた」にもかかわらず、「その検討内容が浅くて洗練されていない」ことがあるのは認めますが、そこんとこを問題にすると、「それって単に研究者として無能なんじゃない?」みたいな話になってしまうので、あたしは言いたくなかったのね。
>余談になりますが、自然科学では実験的検証が結構重要になります。
>プレート・テクトニクスは地球が相手ですから簡単に実験するわけにもいかず、
>長い時間がかかってしまったのですね。
>逆に、先に実験的に見つけられた現象に理論的解釈を与える場合はまたちょっ
>と違う考え方をすることになるでしょう。
>ノーベル賞の、江崎氏のエサキ・ダイオードや白川氏の導電性プラスティック
>などは、実験で偶然に発見されたものですし。
同じようにペニシリンの発見やジュル・アルミン(「ジュラルミン」の方が通りがいいですけどね)の発明なんかも予想外の実験結果から得られたものです。
だけど、その結果は結果として、その結果をどう解釈するか、というのはまた別の問題なのですね。
竹内久美子さんなんちゅー人は、どっか勘違いしてるというか、自分のアイディアに酔っているというか、そういう感じがします。彼女を見ていると、あたしはウィリアム・ゲイツ(「あの糞ったれの請求書(bill)野郎」くらい言ってしまいたいぞ)を思い出してしまうのね。
「思いつき」をあたしは尊重するのだけれど、それは「単なる思いつき」を「検証に耐えうるアイディア」にまで高める努力と不可分なのね。そういうところをサボッておいしいところだけを持ってっちゃう果実主義的な態度をあたしは軽蔑します。H.G.ウェルズみたいなSF作家だったらアイディアをばらまいて第三者の検証に委ねる、というありかたもいいと思うんですけどね、なーんかこう言いたいこと言って言いっぱなし、みたいな風情が気になるのよ。あ・た・し・は。
で、そこんとこを「考え方の違い」とか、「見解の相違」とかで逃げてほしくないと思っています。あるいは、「私はそういう説を紹介、あるいは提示しただけだ」みたいに、自分のものとして引き受けない態度というのがあたしは嫌いだ、ということだったりします。べつにひま人さんやシュッツさんがそうだと決めつけるつもりはありませんが、ねっ。
発達障害児童に限らず、たとえばアトピー性皮膚炎のようなアレルギー性疾患なんかについては、むやみやたらに「なんとかが効く」みたいな説が出てきます。で、藁にもすがるような思いでそれに頼ろうとし、振り回されるひとたちというのが存在するのね。だから、「試してみてダメだった」では済まないわけです。で、そういうものに対する対応や批判に追われて肝心なことへの対処ができなくなっちゃってる、心あるひとたちというのもいたりするのね。
で、そういう迷惑なアイディアというのは、ステレオタイプな発想と無批判な精神から生まれてくるものだったりするわけですよ。
あたしは純粋理性に対する実践理性の優位性を説いてしまいます。リスク対ベネフィットを考慮しない理論というものを、あたしは評価しません。
(Maria)
「強く」というのはなんなのか、ほんまのところ、わからんようになってきました。
今日会ったおっさん
→ズボンの前全開で、道行くおねえさんをつけまわして、なんかぶつぶつ話しかけてくる。男の人が近づくと、さーっと逃げる。
で、案の定、私もつけまわされたので、負けちゃいかんと思った。
しかし今日は時間がなくて急いでた。
とりあえずかなり大声で「へんしつしゃ〜っっっっっ!!」と叫んだ。
そこでおっさん逃げちゃった。
でも他の女性も被害(?)にあっているようなので警備の人にいいつけてしまった。
しかし、ああいう性的ないやがらせをする人というのも、やはり「障害者」か?
自分のくちからとっさに出た「変質者」という言葉は「普通でない質」なんだったら、私も変質者なのか?
だれか教えてください。
ほんとーーーーーっに、お久しぶりです。
別に、ここの掲示板忘れたわけじゃないけど、よくいく掲示板の「荒らし」に巻き込まれたり、お盆の手伝いだったり、(ちなみにうちの父は長男)してたわけですよ。
さて、本題。
皆さんは「千と千尋の神隠し」ご覧になりましたか。
たしかに、これで宮崎監督は引退する、とおっしゃっていますし、何より番宣でもクオリティーも高そうだし、うちの田舎の映画館でもいまだに立ち見が出ているくらいだし、ってんで認めましょう。
ただね、すごく納得いかないの。気持ち悪いシーンがあるの。
千尋の両親がね、無人の料理店に入っていって、飲み食いするでしょう。
豚にするための伏線だろうけれど、よく考えたらあれって、「無銭飲食」でしょう?何で、断りもなく口に出来るの?子供の前で少しは大人の威厳をみせてよ。
なんだか、子供ほぉりっぱなしで、自分の本能全開にして、なんだか、後味(?)わるい。
家族がバラバラになっている、という象徴的なシーンを狙ったのだと思いますけど、アスペのせいで、人前で飲み食いが出来ない人間から見ると、普通の人の鈍感さ、というか、語弊があるかもしれないですけど、傲慢さが見え隠れして、マイナス10点!音楽、美術がいいだけにね、う〜ん。
それにね、ワイドショーとかに出てるコメンテーターの人たち、この点に誰も言及しないのね。あれだけ普段から若い人のマナー(歩きたばこするな、歩き食いするな等)にうるさいのにね。
Maria wrote:
> 「単なる思いつき」とあたしが評したというのは、ひま人さんの理論というのが、基本的なアイディアにそれを補強しそうな事実をつけ加えた段階にまだ留まっており、十分な検討を加えられないまま提出されているように思える、ということを言っているのですね。で、研究者の礼儀としては、そういう理論は叩いて叩いて叩きまくるのが親切というものだったりするわけです。サー・ジェフリースはウェゲナーの大陸移動説を五十年にわたって叩きつづけ、「プレート・テクトニクス理論の普及を半世紀遅らせた」と云われたひとですが、こうした試練をくぐり抜けてきたからこそ、現代人は「大陸は移動する」というアイディアを安心して受容れることができるのだな。
ここで言っている「検討」というのが、自分で行ったものか、第三者が行ったものかによって意味合いが違ってきますね。
プレート.テクトニクスの例は第三者による検討です。
しかし、考えた理論を始めて公表するときには、当然のことながら第三者の評価はまだなく、自分自身による検討の結果があるだけです。
自分なりの検討を十分に加えたかどうかと、その検討内容が十分に深くて洗練された結果になっているかどうかは、まだ別ものだと思います。
ひま人さんがどれだけの検討をしたかは私には分かりませんが、Mariaさんが「思いつき」と書いたのは、その検討内容が浅いということだと解釈しました。
私が書いた「思いつき」もその解釈に基づいています。
余談になりますが、自然科学では実験的検証が結構重要になります。
プレート・テクトニクスは地球が相手ですから簡単に実験するわけにもいかず、長い時間がかかってしまったのですね。
逆に、先に実験的に見つけられた現象に理論的解釈を与える場合はまたちょっと違う考え方をすることになるでしょう。
ノーベル賞の、江崎氏のエサキ・ダイオードや白川氏の導電性プラスティックなどは、実験で偶然に発見されたものですし。
武田好史さん wrote:
> 例えばです。聾学校では、つい最近まで手話の使用は禁止されていました。
>「社会に出てから、そんな動物みたいなことはしないで、口を見て人の話が判
>るようになってほしい・・・」という親の意見からだったということです。つ
>まり無理矢理健常化させられてしまったのです。学校の授業というものは、口
>話で行われていたのでほとんど判らなかったようです。手話を使用すると、厳
>しく罰せられたようです。それでも手話が絶えなかったのは、聞こえない仲間
>同士での交流で互いの手話技術を切磋琢磨したからだということです。
この点については2つの問題がありそうです。
(1)保護者と障害者の欲望を混同してしまっていること
この点についてはこれまでもコメントしてきたので省略します。
(2)方向性を誤まっていること
医学的に「障害者」と評価される人が「健常者」と評価される人と折り合いを
つけていきていく技術を学んでいくことは大切だが、「健常者のように見えるよ
うになること」は本人にとってあまり意味がないと思います。
ひま人さん wrote:
>そこで博識なMariaさんに伺いたいのは、もしも現在のあなたが幼児期の
>あなたに口出ししたりアドバイスしたり教育できるとしたら、あるいはこ
>ういうふうにしておけばもっと自分の可能性を広げたり能力を伸ばすこと
>ができたと思われるような事はありませんか?
えー、あたし自身に対しては、特に言うべきことはありません。ただ、学校の先生を含む「教育者」についてはひとこと言いたいことがあります。
目的は行為を正当化しないぞ。結果は行為を正当化する場合もあるけど、それも狙って出した場合によります。たまたま結果がよかったからといって、行動が正しかったわけではありません。
子供がちゃんと育ったからといって、育て方が正しかったとは限らない。
教育は洗脳だ、と考えているとしか思えない教師がいるんですよ。もっとも、ひょっとしたら教師自身が洗脳されていて、自分が信じていることをそのまんま生徒に信じさせようとしているだけなのかもしれないけどさ。
詳しいことはよく知らないのだけれど、欧米では日本でいう小学校の頃からテクニカル・ライティングの指導があって、事実と見解をちゃんと分けて書きなさい、と教えられるそうです。ところが日本の教育って、「事実」として教えられることの中に、「こう考えるべきこと」という「見解」がすべりこんでいるのですね。で、その「見解」を素直に受けいれる子供が、「よい子供」だったりするわけです。
I wrote:
> うーん……こう言ったらなんですけど、単なる思いつきの域を出ていない
>ような気がするぞ。
ひま人さん wrote:
>そうですか? 私としては、「思いつき」ではなく、よく考えたつもりなのです
シュッツさん wrote:
>この場合の「思いつき」とは思考過程ではなく、その内容についてのことで
>しょう。
>自分の持つ理論体系とは違った形で組み立てられた体系は「思いつき」に見え
>ることがあるようです。
>
>例えばMariaさんが支持しているアージ理論も、私には「思いつき」に見えて
>しまいます。
>実際は何十年もかけて、作られてきたものなのですが。
数学(論理学を含む)なんかと違って、自然科学では厳密な演繹法というのはなかなか適用しにくかったりします。だから、数学のように、「ただ一つの証明が得られれば、それが正しいことが確認できる」といったようなものではなくて、その理論の反証と思われるものをひとつひとつ念入りに潰してゆくことによって確からしさを増してゆく、という手続きをくどくしつこくねちっこく、執念深くいやらしく続けてゆくことによってのみ、「タフな理論」というのは構築されてゆくのですよ。
「単なる思いつき」とあたしが評したというのは、ひま人さんの理論というのが、基本的なアイディアにそれを補強しそうな事実をつけ加えた段階にまだ留まっており、十分な検討を加えられないまま提出されているように思える、ということを言っているのですね。で、研究者の礼儀としては、そういう理論は叩いて叩いて叩きまくるのが親切というものだったりするわけです。サー・ジェフリースはウェゲナーの大陸移動説を五十年にわたって叩きつづけ、「プレート・テクトニクス理論の普及を半世紀遅らせた」と云われたひとですが、こうした試練をくぐり抜けてきたからこそ、現代人は「大陸は移動する」というアイディアを安心して受容れることができるのだな。
>私がいいたかったのは、観察する対象としての自然界と、観察者の自分とが干渉
>しないということです。
確かにこれは「なんでもかんでも微分方程式」みたいなニュートン的宇宙観とはマッチしてますね。ただ、これだと個人の尊厳というのはどこへ行っちゃうんだろう、という問題はあるわけです。人間は宇宙の摂理に乗っかってただ踊らされているだけなので、宇宙と合一することによってのみ真の実存を勝ちとることができるのだぁ、とか言ってると、わりと卑小な全体主義に取込まれてしまったりもするわけです。
教育というのは、やっぱり「個」と「全体」との葛藤(コンフリクト)を意識するところから始まるんじゃないのかな。
>Mariaさん自身天文学者なのでしょうか?
>「太陽の直径とはいうものの、どこまでが本体でどこまでが大気かというのは
>議論の余地がある」という指摘は、たしかに厳密に定義しようとすれば問題に
>はなるでしょうが、こういうのは通常屁理屈といいませんか?
天文マニアではありますね。で、天文の世界はプロとアマチュアの間の垣根というのが非常に低かったりします。
すでに何度も指摘はしたことなのだけれど、「天動説」も「地動説」も、どちらも間違っているといえば間違っているわけです。ニュートン的世界観やアインシュタイン的世界観というのがあるわけですからね。だけど、あたしたちは「日が昇る」「日が高い」とか言っているときは天動説という世界観の中に生きているし、日蝕や月蝕という事実にふれる時は、「地球が太陽の周りを回っていて、月は地球の周りを回っている」という地動説の世界観に生きています。
ガリレオの間違いは、天動説を否定して地動説を絶対の真理だと主張したことなのね。で、バチカンはガリレオの説を否定したわけじゃなくて、ガリレオの態度を問題にしたわけです。だから、「それでも地球は回っている」とかいう話は後世の創作なのであります。ガリレオは投獄もされなきゃ拷問もされませんでした。だけど、「中世の暗黒時代」から「光の時代としてのルネッサンス」への移り変わり、みたいな歴史観を生徒に教えこむために、そういった捏造されたエピソードがあたかも事実であるかのように教え込まれてしまうんですね。
だから、みんな「魔女狩り」とかいうと中世の出来事だと思っちゃうし。あれって本格化したのはルネッサンス時代のことなんだぞ。
>> だけど、自閉症方面の人間ってさぁ、「他者」っていう認識、薄いんです
>>よね。ニュートン的な創造主というか、造物主というか、絶対者というか、
>>そういう観念には到達するのはなかなかに困難なわけです。だから乗り物に
>>乗っていたとしても、「自分が移動する」というよりも、世界のほうが移り
>>変わってゆくような気がする。
>そうなのですか? それはMariaさん自身がそうだということでしょうか? それ
>とも大多数のASの人がそうだということなのでしょうか。
たとえばの話、窓を接してすぐ隣に停車しているトラックや列車が発進したときに、自分のほうが動いているような気がしてびっくりする、ということがあります。自分自身が歩いたり走ったりしているときは別として、乗り物にただ乗っている人間には絶対的な速度の感覚はありませんから、基本的に「外界の変化」から「移動」という結果を推論しているわけです。この「外界の変化」→「移動」という推論は多分に文化的なもので、自閉症方面の人間には身につけることがちょっと困難です。
そんなわけで、自閉症方面の人には「電車や飛行機に乗っていると、自分が移動している感じがあんまりしない」という人は多いようです。統計を取ったわけではありませんが。
なお、映画『クロコダイル・ダンディー』でも、主人公のミックが生まれて始めてエレベーターに乗ってびっくりする場面があります。あれも「自分が他の階に移動した」のではなく、「箱の外の世界が変わった」ように感じたから、ということだと思います。
あたしは自閉症方面の人間は、中世的な素朴な世界観、経験主義的な世界観というものの中で生きている部分が大きいと思うんですよ。言ってみれば等身大の世界観。そこに、正しいのか正しくないのかはっきりしていないような、理屈で捏ね上げた世界観をいきなり天下りに押しつけてほしくないのね。教育の効率とかいった点からいえばこういう方法は効果的なのかもしれないけど、消化不良起こしちゃうんですよ。それだと。あたしはひとつひとつ自分で納得しながら受入れてゆきたいのね。
だから逆に「記憶」を発達させてきたのかも知れません。いっぺん「記憶」というかたちで冷凍保存しておいて、あとでちょっとづつ解凍しながら消化してゆく。だけど、そこに「見解」みたいなのが混じってると、「記憶」だけでは保留ができなくなっちゃうのね。そこに「理解」というものが必要になってきます。だけどさぁ、それってまるっきり洗脳と同じ手口じゃないですか。そうやって「見解」を丸呑みさせられちゃうのがあたしは厭だ、といってるわけ。
「鰻は山芋が化けたものだ」と信じるのも、けっこう科学的な態度だと思います。だって鰻の卵って見たことないでしょう? 何十年と鰻を捌きつづけてきた鰻屋さんだって見たことがありません。で、海とはちょっとつながってなさそうな場所にも鰻はいたりするのね。じゃあ、鰻はどこから生まれてくるのか?と考えたら、山芋、というのはそれなりに有力な仮説という気がします。むしろ本質的なのは、魚類学者が水産学者が過去に集めてきた証拠に基づいて構築された説を、正しく評価できるかどうかだったりします。で、心の底から納得できるかどうかは、また別なのね。サンタクロースや歳神様や鬼の存在を信じることと、クリスマスやお正月や節分を祝うことはとりあえず別だし、そうした年中行事を「科学的根拠がない」とかいって排除することもないと思います。
出発点は、自分の感性。で、無批判に他人の見解を受け入れることはしない。これです。
(Maria)
pocksさん wrote:
>しかし、開発された才能も、周りに合わせられず社会から浮いているために就
>職には結び付かず、結局無駄になるのだった。ああ、自閉者は悲しからずや、
>かくもむなしき究極の選択。
ちなみにわたしは職業に結びつくような才能や興味は持っていません。ちょ
っとだけ調整能力は必要かも…
Maria さんwrote:
>くるとさん wrote:
> うーむ、『ツァラトストラはこう言った』と訳されると、多少つんのめって
>しまうぞ。できれば『ツァラトストラかく語りき』と訳していただきたい。ち
>ゃーん・ちゃーちゃ・ちゃあーん・だんどんだんどんだんどんだんどん。(←
>『二〇〇一年・宇宙のオデッセイ』のテーマとしてつとに有名な『ツァラトス
>トラかく語りき』)
こども向けだと思ってつい単純な訳語をえらんじゃいました。(反省)
>
> エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』『悪につい
>て』あたりはたぶんファンも多いはず。『愛するということ』は、本屋さんで
>平積みにされていました。うーむ、みんな悩んでいるぞ。
今、わたしが読んでいるのは『破壊』です。けっこう長くて苦戦しています。
Mariaさん、こんにちわ。黒マリア全開ということは、お調子が
悪いということですね。
>「自分をごまかしてるバカはいじめていい」くらいに思っとくのが精神
>衛生上よろしいかと思います。
これが発達障害の支援に深く関わっている人との間で発生したやりと
りだったから、けっこう辛いものがありました。
ひま人 wrote:
>Maria wrote:
>>ひま人さん wrote:
>>>ASのための(特殊な)指導の手掛かりのひとつが、今述べた事柄に潜んでは
>>>いないか?
>>
>> うーん……こう言ったらなんですけど、単なる思いつきの域を出ていないような気がするぞ。
>
>そうですか? 私としては、「思いつき」ではなく、よく考えたつもりなのです、、
この場合の「思いつき」とは思考過程ではなく、その内容についてのことでしょう。
自分の持つ理論体系とは違った形で組み立てられた体系は「思いつき」に見えることがあるようです。
例えばMariaさんが支持しているアージ理論も、私には「思いつき」に見えてしまいます。
実際は何十年もかけて、作られてきたものなのですが。
くるとさん wrote:
>その他、哲学の原典を読むんだったら、ニーチェもお薦めかな。個人的には
>
>『ツァラトストラはこう言った』
>『道徳の系譜』
>『力への意志』
>
>が好きです。
うーむ、『ツァラトストラはこう言った』と訳されると、多少つんのめってしまうぞ。できれば『ツァラトストラかく語りき』と訳していただきたい。ちゃーん・ちゃーちゃ・ちゃあーん・だんどんだんどんだんどんだんどん。(←『二〇〇一年・宇宙のオデッセイ』のテーマとしてつとに有名な『ツァラトストラかく語りき』)
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』『悪について』あたりはたぶんファンも多いはず。『愛するということ』は、本屋さんで平積みにされていました。うーむ、みんな悩んでいるぞ。
コミックスではございますが、「現代のディオゲネス」と呼ばれた川原泉さんの作品がお薦めでございます。『はみだしっ子』の三原順さんがお亡くなりになってから、川原さんはほとんど作品を発表されていません(『ブレーメン』くらいでしょう、たしか)。残念なことです。
残念といえば、岡崎京子さん。『pink』『リバーズ・エッジ』等、愛しております。噂によれば交通事故に遭われて、現在療養中とか。復帰を心よりお待ち申し上げております。
三原順さんの作品としては、『X-Day』と『ムーン・ライティング(1・2)』がおすすめ。コンピュータ・プログラマーのDDT(ディヴィッド・ダドリー・トレヴァー)氏がおちゃめでございます。
(Maria)
ニキリンコに Tシャツ代金 渡した人へ
昨年のオートリートの時期、Tシャツのお金をニキリンコに渡してしまった人。
お手元に、Tシャツは届きましたか?
もう今年のオートリートの時期。しかし、今年はオートリートの話はナシ。
おかしいねぇ。
詳細は
http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/komatta/5465087890625.html
に記入済み。
Maria wrote:
>ひま人さん wrote:
>>ASのための(特殊な)指導の手掛かりのひとつが、今述べた事柄に潜んでは
>>いないか?
>
> うーん……こう言ったらなんですけど、単なる思いつきの域を出ていないような気がするぞ。
そうですか? 私としては、「思いつき」ではなく、よく考えたつもりなのです、、
>>ハンス・アスペルガーの論文にも書いてあるとおり、ASの子どもは、他者と
>>自分・自我の相互関係を察知しており、これらが互いにどういう位置関係にあ
>>るのか知っている。これは物理現象などを眺めるときも似たようなものであり、
>>アイザック・ニュートンがとった自然を観察するときの態度と重なってくるの
>>である。
>
> ひま人さんはたぶん「万有引力の法則」を意識しておられるのだろうけど、アイザック・ニュートンといえば「最後の錬金術師」と呼ばれた「構成主義おたく」「絶対主義おたく」で、造幣局長まで勤めたけっこうしぶといおっちゃんです。その意味で父性原理に基づく「神」としての宇宙の摂理、みたいなものを信奉してたひとなのね。だからあんまり相対主義者という感じはしないぞ。
私がいいたかったのは、観察する対象としての自然界と、観察者の自分とが干渉しないということです。
>>宇宙の果てはどうなっているのかとか、時間の始まりといったとてつもないス
>>ケールでの空間的時間的な話題や、太陽は巨大な水素爆弾であるとか、太陽の
>>直径は地球の直径の109倍もあるとか、表面から吹き上がるプロミネンスの
>>高度は、地球の直径の数倍もあるとか、地球型惑星がどうの、赤色巨星は太陽
>>の数百倍もあるとかいった、浮世離れした話題に夢中になっているときの状況
>>とは、専門家と称する先生方がおっしゃるような、たんなるファンタジーとか、
>>あるいはよく芸術家とか科学者とか哲学者とかいった人種について言われる、
>>子どもの心をもった大人たち、とか、子どもの純粋な心を失わないでいる大人
>>たちといった説明で片づけられるものであろうか。
>
> 一般の人々というのは、たぶん天文学者や数学者や論理学者といった人々に、願望を含めた幻想を貼りつけていらっしゃるのだと思います。研究者の多くはごくふつうの人々で、宇宙は有限であるけれども果てはないとか、時間というものは空間の性質の一部(正確にいうと、時空連続体のスケールの一部)であって空間のないところには時間もないとか、恒星はp-p反応とかCNOサイクルとかいったメカニズムで核融合を起こしているとか、太陽の「直径」とはいうものの、どこまでが本体でどこまでが大気かというのは議論の余地があるとか、そういった研究者にとっての「日常」レベルの話に落っことしてようやく安心するという意味で、けっこう「普通」の人々です。
Mariaさん自身天文学者なのでしょうか?
「太陽の直径とはいうものの、どこまでが本体でどこまでが大気かというのは議論の余地がある」という指摘は、たしかに厳密に定義しようとすれば問題にはなるでしょうが、こういうのは通常屁理屈といいませんか?
> ですから、『こういった、宇宙の果てとかブラックホールとかタイムマシンといった日常生活からかけ離れた話題は、ロマンティクな心情の現われであると受け取れなくもないが、同時に非常に現実主義的(リアリズム)な面もはらんでいるような気がするのである。(これはあくまで小生についてのことであり、ASのひとたちについてどこまで汎化できるのかは知りません)』というのはひま人さんが言っている通りあくまでひま人さんの視点であって、ASないしその傾向を持つ人々について何かを言及しているようには思えないのですね。
>
>>これについてもひねくれ者のワタクシはこう反論したくなるのです。一般相対性
>>理論によれば、極度に重力の強い場所では、時空が曲がってしまい、空間が湾曲
>>すると同時に時間の経過も遅くなる。そしてその時空間の曲がり方が極限に達す
>>るのがブラックホールの表面である。つまりブラックホールの表面(これを事象
>>の地平線、あるいは地平面などという)に近づくにつれ時間の経過がどんどん遅
>>くなっていき、表面に達するととうとう時間が停止してしまう。
>
> えー、これは確かに「凍結」現象として知られているものであり、赤方変移の観測によって実験的に証明されてはおるのですが、相対論による「同時性の否定」によって、観測者にとっては時間経過が遅くなるように見えはするものの、落下する対象にとっては時間は通常通り流れているわけです。
そのとおりです。
> ですから、
>
>>SF的な話ですが、もしブラックホールが地球に接近してきたら、ブラックホー
>>ルに吸い込まれる恐れがある。ということを指摘する人がいます。これも同様に、
>>たとえブラックホールが接近しても、われわれはブラックホールに吸い込まれる
>>ことはありません。なぜなら、一般相対論によれば、ブラックホールに接近する
>>につれて時間の経過が遅くなるということですから、吸い込まれる人間にとって
>>は、ブラックホールから離れた場所の時間の経過はどんどん速くなっていき、事
>>象の地平線に到達するに及んで時間のスピードは無限大になってしまいます(と
>>いうことは、事象の地平線には到達し得ない)。
>
>というのは、単に第三者から観測した場合にそう見える、というだけのことだったりします。
>
>>なんでこんな話を持ち出したのかというと、これらの話を読んでもらうと解るよ
>>うに、このようなSF的な話題に浸っているように見えるときでさえ、読者(私)
>>は、これらの話を外側から客観的に眺めているのであって、その話に参加しては
>>いないのではないかということなのです。(世界の外側にいる)
>
> つまりは、ひま人さんは(ひま人さんが言っている意味とは違う、本来の)「ニュートン的な視点」、すなわち「絶対的観測者としての神の視点」ということなのだろうと思います。で、それは、
>
>>ついでに言えば、AS的な性格の人がコレクションや模型に熱中するのも、ロマ
>>ンチストであるだけでなく、似たものの性質を持つものを収集(集合)したり、
>>縮小版の偽物をある種の現実と認識することによって、その世界を創造し、自分
>>の存在を世界の創造主の立場に投影させるという心理が働いているのではないか
>>と考えることもできそうなのです。(創造主すなわち神は、あくまで世界の作り
>>手であり、世界には参加しない)
>
>という発言にも表れているのですね。
>
> だけど、自閉症方面の人間ってさぁ、「他者」っていう認識、薄いんですよね。ニュートン的な創造主というか、造物主というか、絶対者というか、そういう観念には到達するのはなかなかに困難なわけです。だから乗り物に乗っていたとしても、「自分が移動する」というよりも、世界のほうが移り変わってゆくような気がする。
そうなのですか? それはMariaさん自身がそうだということでしょうか? それとも大多数のASの人がそうだということなのでしょうか。
> 絶対的な「個」の視点と絶対者の視点はよく似てるんだけどさ、外から自分を見つめる自己省察の視点を持たない点で明確に違います。そこを考えると、ひま人さんの分析には無理があると思うぞ。
>
> (Maria)
私は宇宙やタイムマシンのことそのものを採り上げたかったのではなくて、どこかに可能性の手掛かりがないものかとあがいているわけです。
そこで博識なMariaさんに伺いたいのは、
もしも現在のあなたが幼児期のあなたに口出ししたりアドバイスしたり教育できるとしたら、あるいはこういうふうにしておけばもっと自分の可能性を広げたり能力を伸ばすことができたと思われるような事はありませんか?
ニキリンコに Tシャツ代金 渡した人へ
昨年のオートリートの時期、Tシャツのお金をニキリンコに渡してしまった人。
お手元に、Tシャツは届きましたか?
もう今年のオートリートの時期。しかし、今年はオートリートの話はナシ。
おかしいねぇ。
詳細は
http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/komatta/5465087890625.html
に記入済み。
>>>皆と服装とか趣味、思考を合わせようとしたり、
>>
>>これを実行しようとすると想像を絶するエネルギーを使わなくてはならないこ
>>とがわかったため、早々に諦めざるを得ませんでした。拷問を受けるような思
>>いまでして周りに合わすための勉強をするくらいなら、六法全書を暗記する方
>>がまだ楽です。
>
>そう、これは本当に時間の無駄使い。その分の労力と費用を才能開発にあて
>た方がましです。
しかし、開発された才能も、周りに合わせられず社会から浮いているために就職には結び付かず、結局無駄になるのだった。ああ、自閉者は悲しからずや、かくもむなしき究極の選択。
>そうでないのがアメリカ規格のヤード・ポンド法によるネジ
通称を「インチネジ」と言います。
ISOネジはISOになる前は「ミリネジ」と言っていました。いずれも長さの単位が略称になっています。ミリネジにはポッチがありません(ないものもある、だったかもしれない)ので、古いネジの中にはポッチがない同士なのに山が合わないものが存在します。
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