アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
かおりさん wrote:
>横レスの概念は分かっているのだけど、これの正式名称がわからない
漢和辞典で「横」を引いてください。
「横行」「横柄」「横道」「横溢」「横領」など、「横」には「道筋から外れる」という意味があります。
>そう言えばレスってレスポンスの訳でいいのだろうか? それともレストとか、
>レスリーとか?
いいはずです。辞書を引いてください。“response”には「反応」とか「応答」とかいった意味があります。
>日本語って変。って変にしているのはわたし?
日本語は千数百年かけて醸成された世界で最も完成度が高くシステマティックな言語のひとつです。日本語にはギリシャ語とラテン語と中国語を合わせたくらいのパワーが日本語にはあります。「コンピュータの文字コードの世界が八ビット系から三十二ビット系に移行し、構造化されたデータ構造を自然に扱える処理系が普及したら、日本語が情報の世界を席巻する」とJoshyaさんは断言しています。
なお、Joshyaさんは日本語処理のエキスパートで、動詞活用や文構造理論に関するちょっとした権威だし、KILROYさんは日本語処理の世界ではちょっとした有名人です。
日本語文法に興味がおありでしたらメールを下さい。折り返し、HTMLで記述した日本語文法関係の資料(『日本語文法の「なぜ」に答える』)をお送りします。対話形式で書かれていて、あたしが登場するんだぞ。
(Maria)
一穂さんwrote:
>メタレベル・・・ってなんですか?
思春期においては、単に自分と外界とのかかわりだけでなく、「自分」というものを見つめるようになります。これが「メタレベルの認識」です。つまりは、「ひとつ外に抜けだすこと」だと思ってください。
役者さんは、自分が演じる役に「なりきる」ことで演技をしているわけですが、それを冷静に観察している「役者としての自分」がどこかにあるわけです。それがメタレベルの自分。
「ああ、どうしよう!」とうろたえる演技をしているときに、「役になりきって本当にうろたえている自分」と、「役者として、『うろたえている自分』を見つめている自分」があるということなんですね。たとえば慌ててセリフを噛んでしまったり、小道具をひっくり返してしまったときに、「しまった」と思う役としての自分と、「よしよし、これはいいぞ」と思う役者としての自分がいたりするわけです。
あるいは、「第三者の自分」と言ってもいいでしょう。「議論をする時には、三つ頭で考えろ」という言葉があります。主張する自分、相手、それにその議論を見ている第三者。この場合、自分<相手<第三者とレベルが上がっていることになります。
>傍若無人。
>それがいつも、ひとを遠ざけておくわたしのやりかた。
>
>それを見破られてしまったら
>はがされてしまったら
>中にあるのはこなごななわたし。
猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが、
猫が三味背負って杖突いて、
絞りの浴衣で来るものか……
あたしの防壁は、「真摯」と「上機嫌」です。誰しもそういった防壁というものを持っているのですね。こういうのを、「三味線を弾く」といいます。どこまでが本気でどこまでが冗談かがよくわからない。
で、防壁が防壁に見えなくなって、それ自体がパーソナリティとして存在しているように見えるようになった(なってないか?)のがあたし。
一穂さんもご存じのように、あたしはあたしとしてここにいるけれど、実際にはあたしには実体がありません。だからあたしは傷つかないのね。だから、一穂さんも自分としてここに立つ必要はありません。
だけど、あたしは『ふたりで聖書を』のマリアとして、あるいは『アスペルガーの館の掲示板』のMariaとして、ひいては現在書いている自閉症方面の本の編者/筆頭著者の蘇好美として、ここにいます。あたしには実体がなくても、あたしにとって大事なひとにとっての「あたし」は存在するし、あたしはその「あたし」として生きるために戦ってます。
「誠実であること」には、いろんな意味があります。「自分」と「相手」で、裸で向き合うことはないんじゃないかな。そこに「役割」というものを挟んで、間接的に向き合うことでも、「誠実であること」はできると思います。「組織の一員として生きる」とか、「医者として生きる」とか「弁護士として生きる」とか「母親として生きる」とか「妻として生きる」とかいうのはそういうことだし。
焦ることはありません。自分がどう生きるか、ゆっくり考えてみてはどうでしょうか。自分のポジションが決まると、わりと自然に言葉って出てくるもんですよ。
(Maria)
一穂(いちほ) wrote:
>Maria wrote:
>
>> 「雰囲気が読めない」「空気が読めない」が、自閉症方面の人間>の特性であるのは仕方ないとして、その結果として相手に与える一>種の「無神経さ」「傲慢さ」「だらしなさ」という印象を放置して>はいけないと思います。
>
>それはわたし自身気にしていることなので、直せるなら直したい。
>でも具体的にどこがどう悪いとはなかなか言ってもらえません。
>こういった細かい指摘をもらえるのはありがたいことです。
一般人は、「言い切らない」という手法を取るらしいです。
「○○です」と言い切ると、そうは思わない人には不愉快・傲慢に
思われてしまう恐れのある時には「○○だと思います」や
「○○だと私は思っていますが、そう思わない人もいらっしゃるのでしょうね」等と言う言葉を使う。らしいです。
↑この場合、「らしいです」という言葉で言い切りをさけています。
これは、「私が言ってるのではなくて、伝聞で書いています」とい
う逃げを入れるというテクニック(?)もあります。
そんなテクニックはいかがでしょうか。
文章だけではなく、実際でも「言い切る」ということを、あまり一般人は
しないらしく、私はいつも「言い方がきつい」だの「命令口調だ」等、
人に言われていたので、色々と考えてそういうテクニックを使うように
しました。
人とのトラブル・特に勘違いで不愉快になられるとかいうのは面倒なので、
そういうことに気をつけています。
あさかぜ wrote:
>みちるさん wrote:
>>まだ、あまり元気がでなくて、安定剤飲んでいます。
>
> 同じで〜す。SSRIの服用量が増えました。安定剤ではないけど、セロトニン再吸収抑止剤です。ついでに入眠剤も増えたよ〜ん。
>
>>このごろ車のスピードがこわくなってパニックになりそうになっています。
>>自分で運転するのはいいのですが、スピードだされても怖いなんてことなかったし
>>むしろよろこんでいたのに、なにかが変わってしまった。
>
> 去年の秋くらいは、わたしも車の運転ができませんでした。調子が悪いと、時々ものすごく怖くなります。感覚が狂うみたいな感じです。無理をしないで、車以外の交通手段を考えましょう。時間はかかるけど、安心して外出するには仕方がないです。都会と違って、田舎は車がないとつらいけどね……。
>
>>とにかく、いままでの私に戻るまで、静養しようと思っています。
>
> ゆっくりやってください。生活は……きっとなんとかなる!と信じましょう。うちは米のまんまと庭でとれた野菜と、たまに釣れる魚があれば、なんとか生きていける気がします。ネット使用料だけは死守するぞ〜(^^;;;
>
>>また、元気になったらゆっくりカキコします。
>
> 待ってますよ〜♪くれぐれも無理は禁物ですからね。
ありがとう
すっごくねむい。吉本ばななさんの小説のようになぜかわかんないけど
とにかく、眠い。
心も寝たいと言っているみたい。
また、カキコできるときにしますね。
ありがとう あさかぜさん。おやすみ・・・・。
i wrote:
>そもそも「界面活性剤」という言葉は、「石鹸以外の洗剤」、すなわち「中性
>洗剤その他の合成洗剤」がいろいろと登場し、あるいは「洗剤」以外の用途に
>使われる界面活性剤(くもり止めなど)が登場したことによって、その機能を
>果たす物質を包括的に表わす言葉として「界面活性剤」という言葉が生まれた、
>という経緯がありそうです。
みどりさん wrote:
>この経緯って結構信じがたいのだけど、事実とおもわれるもの? それとも
> Maria ちゃんの推測?
よくわかんないけど、“過去の経験上から”事実と思われます。少なくともZunkoさんはそう判断すると思うぞ。
「石鹸」の「鹸」の字と、「鹹水(かんすい)」の「鹹」の字はどちらも「しおからい」の意味です。で、「歯」という字は地面から結晶化した成分がいがいがとそそり立っている様子を表わしていたのですね。ちなみに「鹹水」というのは、中華麺を打つときに使うあの「かんすい」です。
そんなわけで、「鹸」「鹹」は共に「天然塩」あるいは「天然アルカリ(あるいは天然アルカリ鉱物およびその成分)」の意味で用いられています。だから「鹹水(かんすい)」の原料となる天然アルカリ鉱物は、「石鹸」なんですよ。で、現在でも中国の一部では洗濯用に使われています。
で、アルカリ+脂肪酸という反応で、現在あたしたちが洗剤として使用している「せっけん(シャボン)」の成分が合成されるのですね。で、「アルカリ+脂肪酸」という化学反応を、「鹸化」というのですよ。こうして作られたものを、かつて洗濯用に用いられていた天然アルカリ鉱物にならって「石鹸」と呼ぶようになった、という経緯はありそうに思うのですね。で、石鹸そのものはかの織田信長も手にしたことがあるという記録が残っています。問題は「石鹸」という用語がいつごろから使われるようになったかなんですが、少なくとも明治時代以前には用語として定着していたようです。
これに対して、「界面活性」あるいは「界面活性剤」という概念があたしたちの生活に定着したのは、戦後、それも昭和三十年代半ば以降の、いわゆる高度成長期以降です(なにしろ、電気洗濯機が普及したのがこの時期以降です)。それ以前は、洗濯用石鹸が主流でした。ちなみに横溝正史原作・市川昆監督・豊川悦司主演の映画『八つ墓村』の冒頭に、戦後間もなくの石鹸工場の様子が描かれています。
つまり、一九六〇年代以前には、石鹸をはじめとする(物質としての)界面活性剤そのものは存在していたのだけれど、「界面活性剤」という言葉が存在しなかった、あるいは一般に普及していなかった、という状況があったわけです。
で、昭和四十年代以降、台所用洗剤が原因と思われる手荒れだとか、洗濯用石鹸に含まれる燐酸塩が原因と見られる水質汚染(具体的な被害としては赤潮の発生など)だとかいった被害が生まれたことで、洗濯用洗剤・台所用洗剤の成分表示がなされるようになった、ということみたいです。
なお、現在大森総研は大忙しなので、資料の類はまったく参照せずに、大森総研の所長であるJoshyaさんのうろ憶え(ただし、「Joshyaさん本人にとって」です。Joshyaさんにとって「正確な記憶」というのは、「だれそれが書いたどういう論文に書いてあった」程度以上の精度を持った記憶です)の記憶だけに頼ってこの文章を書いています(それでもこれだけ書けてしまうのだから困ったものです。ZunkoさんはそういうJoshyaさんを子供の頃から知っているので、「わかんないことはアスペに訊け」みたいに思っているかもしれません。確かにものすごく便利です)。したがって事実関係に誤認があるかも知れません。あらかじめご了承ください。
そんなわけであたしは仕事に戻ります。いそいそ。 (Maria)
Maria wrote:
> 「雰囲気が読めない」「空気が読めない」が、自閉症方面の人間>の特性であるのは仕方ないとして、その結果として相手に与える一>種の「無神経さ」「傲慢さ」「だらしなさ」という印象を放置して>はいけないと思います。
それはわたし自身気にしていることなので、直せるなら直したい。
でも具体的にどこがどう悪いとはなかなか言ってもらえません。
こういった細かい指摘をもらえるのはありがたいことです。
> 注意すべきことは二つあるように思います。
> ひとつは(メタレベルでない)「思い込み」「思いつき」の排>除。
メタレベル・・・ってなんですか?
>1)(メタレベルでない)「思い込み」「思いつき」の排除
> 「Bacaさんの発言はここの掲示板をとても大切に思ってるからこそのものだと思います。」というのは一穂さんの意見だから>○。>だけど、「その気持ちはわたしにもよくわかります。」と書いてし>まうのはどうかな?と思います。「私はそういうつもりで言ったん>じゃない」という反論を、予想していないから。
反論があったら、そこではじめて相手の人(この場合Bacaさん)の存在をリアルに感じられるような気がして
そのときはじめてわたしも恐れずに話すことができるように思えるので、反論されるのはいやじゃないのですが、
自分の正直な気持ちに直接触れられることがこわいので、どうしても自分の核心に触れるようなにおいのすることばをあちこち省いて曖昧にしてしまっている。
はじめはもっと丁寧に、なぜそう思ったかの説明などいろいろ書いていたんですけど、そうゆうのを書いているとだんだんこわくなってくる。
・・・・その結果、誤解されてしまうことも多く、あとで途方に暮れることもある。
けれど、今こうやって客観的にみて読み返してみると
なるほど、不躾で、よくなかったと思います。
たぶん、触れられたくない、ひとに見られたくないわたしの正直な気持ちというのは
この場合
Bacaさんに対する怒りだったんでしょう。
それだけBacaさんの言ったことがわたしの言われたくないことだった・・・つまり本質をとらえてたってことだと思います。
傍若無人。
それがいつも、ひとを遠ざけておくわたしのやりかた。
それを見破られてしまったら
はがされてしまったら
中にあるのはこなごななわたし。
・・・・
・・・・
・・・・
・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・
・
・
・
・・
・・
・
・
・
・
Tien wrote:
>るおう wrote:
>>千と千尋で、顔無しがでてきましたが。。
>>皆さんの中で、顔無しと自分の共通点を感じた人は居ますか?
>
>こんにちは、武田さん。私は共通点を自分と感じました。
>1.実態がない
>2.寂しい
>3.いろんなものを取り込むくせに、吸収せず吐き出してしまう。
>(取り込んだのに、経験等良いことを取り込めない。)
>
>最近急に自分が硝子みたいに感じられてなんだか、しぼみ気味です。
>いろんな事が自分を通り過ぎるけれど、結局は自分の将来とか人生が
>変えられらない、みたいで。努力はしているのに...。
>たとえば好きな人が出来ても、反対とかされるとあっさりと離れてしまう。
>砂漠みたいな(風は通り過ぎてくれるけど砂漠には何も根付かない)
>人間かな、私...。
あのうひょんなことを聴きますが、Tienさんはもしかして一人っ子若しくは長女ですか??
横レスの概念は分かっているのだけど、これの正式名称がわからない
横から口を挿むレスポンス
横道に外れるレスポンス
横車をいれるレスポンス
横槍を突っ込むレスポンス
横に置いておいて欲しいレスポンス
横にうっちゃれレスポンス
(だんだん変な日本語になってきたぞ)
横、横、横 あーもう。
そう言えばレスってレスポンスの訳でいいのだろうか?それともレストとか、レスリーとか?
日本語って変。って変にしているのはわたし?
(かおり)
話が難しくなってよくわからなくなってきた。ちょっと考える時間をもらうけど、出発点の疑問をいくつか解いてから考えたいので質問。
Maria wrote:
> みどりさんは「物質としての界面活性剤」と、「概念としての『界面活性剤』」とをごっちゃにしているようにお見受けします。
えー、どっちがどっち? (読んでもよくわからなかった)
> 「石鹸」は代表的な界面活性剤ですが、そもそも「界面活性剤」という言葉は、「石鹸以外の洗剤」、すなわち「中性洗剤その他の合成洗剤」がいろいろと登場し、あるいは「洗剤」以外の用途に使われる界面活性剤(くもり止めなど)が登場したことによって、その機能を果たす物質を包括的に表わす言葉として「界面活性剤」という言葉が生まれた、という経緯がありそうです。
この経緯って結構信じがたいのだけど、事実とおもわれるもの? それとも Maria ちゃんの推測?
> たとえば、「宇宙人」は「地球人」を含み、あたしたちにとってもっとも身近に存在する「実在する生命体としての宇宙人」は「地球人」であるにもかかわらず、「地球人」は「狭義の『宇宙人』」には含まれず、「代表的な宇宙人」、「あるいは明白な対象としての宇宙人」というと、「火星人」とか「ウルトラマン」とか「E.T.」とかになるわけです。
うん、「狭義の宇宙人と言ったときに地球人は含まない」という言葉づかいはありだと思う。
でも界面活性剤はまだなにか違う気がするので、もうちょい考えます。
Yan さんwrote:
>No.6910 Makichan wrote:
>>考えてるのは「我」じゃないかも知れません。「他者」かも・・・。
>
>その他者を想定しているのは誰?
考えるのは言葉で考えるわけです。言葉は所詮他者がつっくたものです。私の
言葉も考えてみれば、国語辞典にのってる単語の組み合わせでしかないわけですよ。なにひとつ新しいことを言ってるわけじゃないです。考えれば考えるほど他者を内に取り込む結果になるわけです。このあたりはラカンがいってることです。文句あるならそっちに言ってちょ。
「自己」とか「他者」とは言葉です。我々はその言葉に行動が規定されているんじゃないかと思うんです。言葉が獲得されていないカナー型は自他未分状態にあるわけです。他者の眼を意識しないし、他人の体も自分の体の一部のように扱うことがあるそうです。でもその感覚のほうが案外正しんじゃないか,自我意識でがんじがらめになっている現代人は彼らの感覚から学ぶべきこと多いんじゃないかと思いますね。
「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思えば無いものなんです。
「ヴィクトル・ユーゴーは自らをヴィクトル・ユーゴーと信じた狂人であった。」
byジャン・コクトー
niinaさん wrote:
>自閉症の人ってエコラリアが好きな人多いでしょ?
>ということもあって、好んで引用部分(人の文章)を長くしている人も
>いるようですよ。
自閉症における鸚鵡返しは、幼児期の発達の過程において、言語獲得の試みの一部として現れるように思うのですよ。したがって、好きとか嫌いとかいった問題ではおそらくなくて、まして成人ネットワーカーの書込みにおける引用の長さとは、いちおう別物として考えるべきもののように思われます。
>自閉症本人のメーリングリスト(USA)だと、
>長い引用部分+一言、また他の人が同じような
>返事を書く……って遊びで、盛り上がってたりするようですよ。
>ということを聞いたことがあります。
あたしたちが高校生の頃に、「三人小説」というのが一部で流行りました。つまり、前の人がちょっとだけ書いた文章を受けて、次々に書き足してゆくのです。
で、このときに、文脈意図的に逸脱してゆくのですね。つまり、言語表現の多義性・曖昧性というのを逆手に取るわけです。
あたしはNo.6366の『Re: 話し合う・議論する』の中で、似たようなことをしています。
「カレーというのは手で食べるのが正式だそうだ。」
「足で喰う奴がいるのか?」
「あんたならやりそうな気がする。」
「いや、試したが無理だった。」
「試したんかいっ!」
この場合、「手で食べる」は「箸やスプーンやフォークなどの道具を使って食べる」の反対概念であったものが、次では「手以外の身体の部分を使って」の意味に横すべりしています。で、それが一般論から個別性に横すべりし、さらに通時的問題な話から経験上の問題に横すべりしていたりするわけです。
連歌なんかも、これに近い世界ですね。
自閉症方面の人間の引用が長くなる理由があるとすれば、ある文章の一部を取りだすことで、その文章の本来の意味が失われてしまいそうな感じがする、ということがあるかもしれません。で、逆に文章の全体から部分を、文脈から表現を取り出すことによって、そこに現れる意外性を楽しむ人もいる、ということであるようにも思います。
そういえば、山道を歩いていて『落石に注意』という看板を見つけ、「これは、『落ちている石に注意しなさい』という意味なのかな? それとも『落ちてくる石に注意しなさい』という意味なのかな? それとも『石を落とすな』という意味なのかな?」みたいな話をしました。
「きっと、猛毒のストーン・フィッシュが石に化けているんだね。」
「怖いなぁ……」(←違うって)
で、しばらくすると石が落ちていました。
「これこれ、こんなところに落ちていてはいけないよ」
(↑落石に注意している。)
「そうではないでしょう。やはり落ちてくる石に向かって……」
「『こらぁ〜っ! 落ちてくるなぁ〜っ!』」
「『子供の飛び出しに注意』。」
「ナイフを持った子供が物陰から飛び出してくる。」
「『猛犬に注意』。」
「やはり十二ゲージの散弾銃かなんかで武装して。」
「そーそー。OO(ダブルオー)バックかなんかの弾使って。」
「意外につまんなかったですね。」
「じゃあ、その恰好で松茸狩りにゆく。」
「体長九メートル、体重二十トンの巨大松茸。」
「『松茸の産地・京都で手負いの松茸に襲われて六名が死亡、二名が重傷』。」
……こういうお馬鹿な会話ってついついハマッてしまうのよね。
こういうのは、あたしたちだけなのでしょうか。
(Maria)
みどりさん wrote:
>だいたい「狭義の界面活性剤」って、相当ヘンだとおもわない? 狭義か
>どうかの境目はなに? 明白なものを除くんだったら、「狭義の」じゃな
>くて、むしろ「周辺の」じゃない?
みどりさんは「物質としての界面活性剤」と、「概念としての『界面活性剤』」とをごっちゃにしているようにお見受けします。
たとえば、「食べ物」と「食材」っていう言葉がありますよね? で、「なんか食べ物なぁい?」「七色唐辛子ならある」「『食べ物』じゃねーって。」みたいな会話は筋が通っていそうに思います。つまり、調味料や香辛料、それに水なども「食材」ではあるのだけれど、いわゆる「食べ物」とは違うわけです。これは、「食べ物」という言葉でくくれない「食品の材料」が料理の世界で取り上げられるようになり、それらを総称する、より広い意味での食品材料を表わす言葉として、「食材」という言葉が用いられるということになったわけです。その場合、「天然にがり」のような、むしろ「代表的な食材」ではないものが、典型的な「食材」の例として適切だったりもするわけです。
ですから、「狭義」と「広義」の差は、単に「狭義」が「広義」の部分集合であるということだけですね。で、これは「代表的なもの」であるとは限りません。「中心概念」、すなわち「その概念が形成されるにあたって重要な役割を果たしたもの」である場合もあります。
「石鹸」は代表的な界面活性剤ですが、そもそも「界面活性剤」という言葉は、「石鹸以外の洗剤」、すなわち「中性洗剤その他の合成洗剤」がいろいろと登場し、あるいは「洗剤」以外の用途に使われる界面活性剤(くもり止めなど)が登場したことによって、その機能を果たす物質を包括的に表わす言葉として「界面活性剤」という言葉が生まれた、という経緯がありそうです。だから、この場合は「石鹸」は「明白なもの」ではなく、むしろ「台所用中性洗剤」か何かを例にあげるべきなのですね。
たとえば、「宇宙人」は「地球人」を含み、あたしたちにとってもっとも身近に存在する「実在する生命体としての宇宙人」は「地球人」であるにもかかわらず、「地球人」は「狭義の『宇宙人』」には含まれず、「代表的な宇宙人」、「あるいは明白な対象としての宇宙人」というと、「火星人」とか「ウルトラマン」とか「E.T.」とかになるわけです。
ご納得いただけましたでしょうか。 - Maria -
Maria wrote:
> 文章を丸ごと引用して、チョロっと感想を述べる、というスタイルはあたしの好みではありません。自分が言及したいポイントを示す配慮があってほしいと思います。「いや、この文章全体を問題にしたいのだ」というときは、「(中略)」とか使えばいいし。
ここの部分だけに反応して書き込みます(^^)/
自閉症の人ってエコラリアが好きな人多いでしょ?
ということもあって、好んで引用部分(人の文章)を長くしている人も
いるようですよ。
自閉症本人のメーリングリスト(USA)だと、
長い引用部分+一言、また他の人が同じような
返事を書く・・・って遊びで、盛り上がってたりするようですよ。
ということを聞いたことがあります。
Baca wrote:
>謝ります、ごめんなさい。
謝られるようなことはなにもないです。
そういえば鬱がひどかったころは、電車のとなりの車両で声を荒げて言い争っているのや、テレビの中で赤ちゃんが泣いているのを耳にするだけで耐えがたかったことがありました。
気力がそこそこあるときにはほとんど気づきもせずに聞き流せる他人同士のできごとが、なぜかいちいち自分につきささってくるのです。
鬱と言えば、抗うつ剤があまり効かないようなので、それに長年いろいろ試したけど結局どれも調子とのよい因果関係が見いだせないので、この際全部やめようと思って減量中。(おかげでめまいぐるぐる)
るおう wrote:
>きちんと分析していらっしゃるんですね。すごいな。
そうでもないです。一番自分がわからないとよく思います。
>なんだかあの。。あーーーとかいう声が。。妙に。。。
そうですよねー(笑。ただ、彼は彼なりにがんばっている所が、泣けてきました。
>話題は変わりますが、、どうして論理が摩り替わって行くのか気持ち悪くて
>とても気持ち悪い。。
僕の場合、最初から(自分の中では一貫しているのですが)内容把握していないらしく、「論点を変えるな」と言われます。みんなが話している「重要だ」と思う部分が違うため、話が変わっているものだと思われているようです。じっくり話せばなんとなく伝わりますが、「誰もそんなくだらない事に論点は置いてない」と。「矛盾」もよくあります。そんな自分が最大の謎です。理由がわかったとしても、感情レベルが「追いついていない」でしょう。
一穂(いちほ) wrote:
>乳化剤って、界面活性剤の一種なの?
>100倍に薄めた液は猫がなめても安全って書いてあるから
>ノミよけスプレーとして使ってました。
>やばいかな。
ああそこが誤解の出発点。間違いのモトは「界面活性剤だからあぶない」ってところ。
純石鹸もそうだけど、それこそマヨネーズの卵黄も界面活性剤だし、ゴマなんかも界面活性剤の働きをすることがあります。もちろん卵黄もゴマもなめようが食べようがOK。
界面活性剤だからといって危ないとは限らないのです。 (だからそういう宣伝されると「アヤシゲ」なわけです)
>>洗剤のときと、発泡スチロール溶かすときと、濃度はどのくらい違>うんだろう?
>電話口のおねえさんは、小量の乳化剤って言ってました。何%ですかとまでは聞かなかった。
リモネンはたぶん乳化剤じゃないです。
>何時間もかかって書いても消してしまったりするのは、
>実はわたしもそうなのです。
見に覚えありあり。
(で、それを消したあとまた思い直して5分で書き直したものを投稿するから波紋を呼んでしまうのだろうか?)
Maria wrote:
> かおりさんのNo.6908、『思いっきり横レスですが』を見れば明らかという気がしますが、みどりさんにとっては「明らか」ではなかったようですね。
うん。全然わかんなかった。
> そういうわけで、「卵黄」は広義の乳化剤で、同時に広義の界面活性剤でもあります(髪を洗うときに使う人がいます)。だけど、マヨネーズの成分表示には、「乳化剤(卵黄)」あるいは「界面活性剤(卵黄)」というふうには書いてはありません。
この場合は卵黄と具体的に書いてくれれば十分だし、それで卵黄が界面活性剤の働きをしていることを妨げるものじゃあない。
だいたいい「狭義の界面活性剤」って、相当ヘンだとおもわない? 狭義かどうかの境目はなに? 明白なものを除くんだったら、「狭義の」じゃなくて、むしろ「周辺の」じゃない?
> ついでながら、ラードの成分表示には、「酸化防止剤(ビタミンE)」と書いてあることがあり、ペットボトル入りの緑茶には「酸化防止剤(ビタミンC)」と書いてあることがあります。これなどはけっこう良心的だと思います。
この場合は、人間の身体に対してビタミンEやビタミンCとしての機能は果たさないぞという宣言なのでは。
「(メタレベルでない)「思い込み」「思いつき」の排除」
→「『メタレベルで解消されていない「思い込み」「思いつき」』の排除」
では?
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