アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Yan wrote:
>>Makichan wrote:
>>言葉が獲得されていないカナー型は自他未分状態にあるわけです。他者の眼を意識しないし、他人の体も自分の体の一部のように扱うことがあるそうです。
>>でもその感覚のほうが案外正しんじゃないか,自我意識でがんじがらめになっている現代人は彼らの感覚から学ぶべきこと多いんじゃないかと思いますね。
>学ぶべきことはたくさんあるように思います。と同時に、反面教師としても。家畜のように育てられたぼくにとっては現実問題です。上に書いた某氏もサバイバーですが、ぼくもサバイバーです、虐待のね。今年もこれまでに結構死んだね。あの子たちの親を犯罪者としてしか見ないなら、これからもたくさん死ぬと思うよ。
わたしも、こどものころ両親の暴力は日常茶飯事でした。
わたしをどう育てていいかわからなかったのだと思います。
親自身の精神的な葛藤を、弱い存在をいじめることで解消していた部分もあったのかもしれないとも思いますが、
ふつうとちがう子を持ってたいへんだったことは事実だと思う。
二人とも、根はとても真面目なひとです。
自分がASかもしれないと思うようになる前までは
わたしは親を許せませんでした。
でも、このごろは、わたしが苦しんだように、きっと親も苦しんだのだろうと少し親の気持ちが想像できるようになりました。
親がさんざんわたしを傷付けたように、
もしかしたらわたしも親の気持ちを、こなごなにし続けてきたのかもしれません。
>>「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思えば無いものなんです。
Makichanさんはニヒリスト?
逆にとってもユーモアのある考え方の持ち主なのかも、
というようにわたしは感じます。
わたしの単純な解釈は
「ことば」というものにとらわれすぎて真実を見失うな。
と、いうようなこと。
・・・ちょっと単純に略しすぎかもしれません。
これはわたしの解釈なのでちがってたらごめんなさい。
「ことば」にとらわれすぎてしまうことのあやしさ。
そしてその考えにとどまらず、いろんな方向へ話しを展開させてみることで考え方の可能性が広がっていくことの楽しみ。
(結局はことばの力を借りているのですが。)
>>「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思えば無いものなんです。
常識を否定してみるのって
なにか新しい発見があるんじゃないかって気がして
ちょっとわくわくします。
もしそうだと仮定すると、じゃぁ・・・。
この世にもし、ことばというものがなかったら
わたしはだれなんでしょうか。
I wrote:
>どうなんでしょう?
一穂さん wrote:
>どうなんでしょう?
>ってそんな真顔で言われても一穂、こまりんぐ〜。
……(_ _)zzZ(←疲れて寝ている)
こういうときは、律儀にレスを返さなくてよろしい。ただでさえここ数日、似たようなメッセージで掲示板がゴチャついているのだから。
たしかにパーソナル・コンピュータ通信の利点はその大衆性・即応性にあるんだけどさ、最近のケータイにおける大量のゴミメールが常時飛び交っている状況なんちゅーのに、さほど重要な意味があるとも思えないのね。そんな訳でBacaさんの
>だけど傍若無人に、どこでもできるようなお喋りを展開するのと話はまた別です。
>できたら他の人の投稿も読んで欲しい。
といった発言に共感していたりするわけです。
そんな訳であたしの「頭のネジがゆるんでいる」に関する考察は、あさかぜさんの
> わたしは時々アタマのネジが緩む(という表現は許されるのだろうか?)
>ので、あほ〜なコメントを書きます。
という発言にからんでいて、「『頭のネジがゆるんでいる』という表現は、知的障害者に対する差別的表現にはあたらないか?」みたいな意見に対してどう思うか?みたいな議論に向かうことを期待していたのですよ。その意味でシュッツさんの
>バカボンのパパが、くしゃみをした拍子に頭の中の歯車が口から飛び出した
>場面を思い出してしまいました。
という発言は、けっこう近いところをカスッていたりするわけです。『天才バカボン』というマンガは、ある意味「知的障害者を笑いの対象にした」作品なわけですからね。
でまあ、サンタクロースに関する考察も、キリスト教が原理主義に向かった結果クリスマスのサンタクロースまでがが禁止されてしまう馬鹿らしさとか、現在のサンタクロースの衣装の「赤と白」というのがコカ・コーラ社のイメージ・カラーから来ていて、ある意味アメリカ的大衆文化の象徴であり、本来の聖ニコラスの土俗的イメージは現在ではすっかり失われてしまった、みたいなことをこっそりと指摘したかったという意図もあったりします。
とはいえこういう(環境保護とか宗教・民族問題とか社会制度批判とか)言ってみれば「政治的な」話題というのは確かに暗く鬱陶しいわけで、声高に叫ぶような不粋な真似はしたくない。そんなわけで隅のほうで「誰か引っ掛かってくれないかなー」とゴキブリホイホイのようにひそやかに展開していたりするわけです。
他の人の遠慮がちなメッセージの中のナニゲな主張を拾って発展させてゆくのも掲示板の醍醐味。「からむ」「じゃれる」テクニックというのも磨いておくといいですよ。
(Maria)
Maria wrote:
> あたしが思うに、「頭のネジ」というのはビスとかボルトとかの>「螺子」ではなく、機械式腕時計に使うぜんまいのほうの「捩子」>のような気がするのですが。「ネジを巻く」には「気合を入れる」>という意味もありますし。つまりは、「まっきれた」状態が、「捩>子が弛んだ状態」なのではないかと。
>
> どうなんでしょう?
どうなんでしょう?
ってそんな真顔で言われても一穂、こまりんぐ〜。
niina wrote:
>一般人は、「言い切らない」という手法を取るらしいです。
> ↑この場合、「らしいです」という言葉で言い切りをさけて>います。
> これは、「私が言ってるのではなくて、伝聞で書いていま>す」という逃げを入れるというテクニック(?)もあります。
>
>そんなテクニックはいかがでしょうか。
わたしはオミズをやっていたので
ハナシコトバによって自分をどう演出するか、ってゆうのは
仕事上とても大事なことだったから、
いろんなひとの会話してるのを参考にして
自分なりに工夫してつかっていたと思います。
しかしオミズでは、なるべく頭わるそうに見せる!?のがコツ??なんだそうで・・・。
(わたしの場合、大卒というだけでお客さんがひいてしまう場合がよくあったので、なるべくアホっぽさを強調するように心がけてました。
・・・え?なに?もともとアホっぽい性格だから大丈夫だって?、まぁそれはたしかにそうなんですけど。)
なので、普通の一般社会で求められている会話とはまたちがうのかもしれないけど、
ことばを道具としてよくつかう仕事ではあります。
(ただしお仕事以外でオミズモードをはなれた途端、ことば遣いから何からすべてかわってしまうわたしなのでした。)
文章に関しては
imodeのメール(250文字以内)の影響で、
もともと語尾の長い文章をできるだけ簡潔にしようと、
書いたあとでバサバサ省くようになり、
簡潔どころかしりきれとんぼの中途半端な表現をするのが
またなぜか自分で気に入っちゃったもんだから・・・。←こうゆうやつ。
(だから、なに?
ってまた、みどりさんに言われちゃいそうだ。)
(^-^;
>人とのトラブル・特に勘違いで不愉快になられるとかいうのは面倒>なので、
>そういうことに気をつけています。
ちょっとしたことを気をつけるのとそうでないのでずいぶんちがいますよね、本当に。
でも、
ひとそれぞれ個性があった方がいいかなとも思うし、
わたしは多少の誤解はされてもいいときもあると思ってます。
誤解されたくないあまりに自分の言いたいことから遠ざかってしまったりするのはいやだし
指摘されたくないあまり、どこもかしこも防衛しすぎちゃってるひとの文章って、読んでいてもつまらない。
ぬけすぎてもおもしろくないけど、詰まりすぎてもだめ。
(わたしの場合ほぼ、ぬけすぎ。)
・・・
誤解されるかもしれない、と思いつつ書いて、えいやぁ!とう。
それでも理解されたときのうれしさ、ってゆうのもある(ばくちか!?)けど、
わたし自身、誤解を恐れずにそのひとらしいことばでしゃべる朴訥なひとが好きだからかもしれない。
けど、わたしの場合
ぽっと出たことばはやっぱりキツイからダメね。
頭で自分なりに加工しないと。
・・・ぽっと出てもふんわりしてるような
そんなことばが話せたらいいのになぁ。
Maria wrote:
>一穂さん wrote:
>>わたしなんかネジがカラカラいってます。
>>歩いたあとにいっぱい落っこちてそう。
>>・・・ふまないで!!
>>わざわざ拾って持ってこないで!
>>こっそり、お味噌汁に入れといて。
>
> あたしが思うに、「頭のネジ」というのはビスとかボルトとかの「螺子」ではなく、機械式腕時計に使うぜんまいのほうの「捩子」のような気がするのですが。「ネジを巻く」には「気合を入れる」という意味もありますし。つまりは、「まっきれた」状態が、「捩子が弛んだ状態」なのではないかと。
バカボンのパパが、くしゃみをした拍子に頭の中の歯車が口から飛び出した場面を思い出してしまいました。
#ネジじゃないけど
一穂さん wrote:
>わたしなんかネジがカラカラいってます。
>歩いたあとにいっぱい落っこちてそう。
>・・・ふまないで!!
>わざわざ拾って持ってこないで!
>こっそり、お味噌汁に入れといて。
あたしが思うに、「頭のネジ」というのはビスとかボルトとかの「螺子」ではなく、機械式腕時計に使うぜんまいのほうの「捩子」のような気がするのですが。「ネジを巻く」には「気合を入れる」という意味もありますし。つまりは、「まっきれた」状態が、「捩子が弛んだ状態」なのではないかと。
どうなんでしょう?
(Maria)
武田好史 wrote:
>あのうひょんなことを聴きますが、Tienさんはもしかして一人っ子若しくは長女ですか??
こんにちは、武田さん。上記の質問は当たっています。
ほとんど一人っ子状態でしたね。
緑 wrote:
>合成洗剤なんか,30年ぐらい前から恐くて使ってないです。
>環境にやさしい石鹸から,新聞で読んだ数年前からは,塩と炭(匂い気にならなければ塩だけ)です。
>アトピーっ気ありで,感触で断然塩です。合成洗剤は肌触り×です。
>ところで,純度高い塩が安いですが,不純な方が洗濯にいいと聞いてますけど?
緑さんは、みどりさんとは別人ですよね!?
わたしも洗濯と、食器を洗うのに、塩を使ってます。
食器洗いは、ほぼ塩。臭いが気になるときはオレンジXも使ってます。
洗濯には塩と、エコロンG(トルマリンと備長炭の入ったお手玉みたいなもの)を併用してる。
(マユツバ、のカキコをさかのぼっていくと、このふたつについて書いてある)
塩で、すごくきれいになりますよね!
(不純な方が洗濯にいいんですか?それは知らないです。)
わたしはお風呂にも塩(天然塩)を入れて入ってます。
合成洗剤なんか,30年ぐらい前から恐くて使ってないです。
環境にやさしい石鹸から,新聞で読んだ数年前からは,塩と炭(匂い気にならなければ塩だけ)です。
アトピーっ気ありで,感触で断然塩です。合成洗剤は肌触り×です。
ところで,純度高い塩が安いですが,不純な方が洗濯にいいと聞いてますけど?
あさかぜ wrote:
> うほほほほ。ごめんなさいませ。「励ます」だったのでございますよ。
うふふふふ。そうだったのでございますね。
(しかも、もう一回ってとこがミソ。
せ、せっかくはえたのに・・・。)
> 一穂さんの明るさが、わたしは好きです。
あさかぜさん、ありがとう(o^w^o)/~~~♪
素直にうれしい。
でも、自分的には、
もともと根が素直なので逆にちょっとムカつかれるくらいのひねくれキャラでいきたいんだけど
それはサジ加減が難しいっす。
失敗すると敵を作ってしまう!
おーまいがっ。
> わたしは時々アタマのネジが緩む(という表現は許されるのだろうか?)
>ので、あほ〜なコメントを書きます。が、〔書いちゃったモノは仕方ない。
>これもひとつのわたしの姿さ〕と思うことにしています。
わたしなんかネジがカラカラいってます。
歩いたあとにいっぱい落っこちてそう。
・・・ふまないで!!
わざわざ拾って持ってこないで!
こっそり、お味噌汁に入れといて。
なんちゃって。
あさかぜさんありがとう、とってもはげ
まされました。
Tienさん wrote:
>サンタクロースって...(-_-;)。
>私なんか毎年鞭打たれるクチだわ、って思いました。目からウロコでした。
あたしはトルコのミュラ、と書いてしまいましたが、正確には現在トルコ領のデムレに相当するミュラ、です。
聖ニコラスは二七一?(二八〇?)〜三四二頃実在したといわれるひと。当時のミュラはギリシャ人の町で、聖ニコラスもギリシャ人。きっと頑固で理屈っぽいひとだったんでしょう。もちろん宗派は東方系、ギリシャ正教(イースタン・オーソドクス)です。
聖ニコラスが亡くなったとされるのは十二月六日。したがって、聖ニコラスがやってくるのも十二月六日。それがどうしてクリスマスになっちゃったかというと、三二五年にニケーア公会議という宗教会議があって、そこで十二月二十五日をイエス・キリストの誕生日と定めたんですが、そのとき聖ニコラスもその会議に出席していた、というわりといいかげんな理由だったりします。
ついでながら、このとき「イエス・キリストは神の子である」という説が採択されました。あたしはイエス先生は人間である、と主張していたのですが、イエス・キリストの聖性を否定したアリウス派はこのとき「異端」とされてしまいました。くそー。
ちなみに日本の古代宗教にはキリスト教の影響がけっこう含まれているらしいのですが、これが遣唐使・遣随使の時代に日本に入ってきた景教(ネストリウス派)なのか、それとも原始キリスト教が直接入ってきたのか(ケン・ジョセフさんなんていう人が唱えている説です)、それともこのアリウス派やいわゆるグノーシス派がヨーロッパや中央アジアから追い払われてこっちに流れてきたのか、よくわかっていません。古代史マニア、文化人類学マニアにはたまんないテーマです。ナマハゲ(なま剥ぎ)とかトシドン(歳殿)とかメンサマネントウ(面様年頭)とかいった、どう考えても聖ニコラスのご親戚みたいなのが日本にはごろごろいらっしゃるので、調べてみると面白いです。
なお、現在のサンタクロースのイメージは、一九三一年にコカ・コーラのクリスマス・キャンペーンから生まれたそうです。なんかヤダ。
さて、十六世紀の終わりから十七世紀の初頭にかけて、カトリックとプロテスタントが喧嘩してどっちも原理主義に走る、という、まるで現在のアイルランドのような情勢がヨーロッパに生まれました。そんでもってカトリックは宗教行事から異端であるギリシャ正教の聖人を追い出し、プロテスタントは万人司祭説に基づいて聖職者を追い出しました。
そーなんですよ。クリスマス行事から、聖ニコラスが追い出されてしまったわけです。
で、たまたま一六〇四年というのはへびつかい座で火星・木星・土星が会合する年で、そこにたまたまケプラー新星という新星爆発が観測されたものですから、「ベツレヘムの星と三人の東方の賢者」→「キリスト再誕」という連想が働いたらしく、「幼児(おさなご)キリスト信仰」っちゅーのがブームになりました。現在でもドイツやオーストリア、それにスイスのドイツ語圏では、クリスマスにプレゼントを持ってやって来るのはこのクリストキントです。
で、このクリストキントが「赤ずきん」のモデルになったのではないか、とあたしは考えているのですね。そんなわけで、赤ずきんの誕生日は一六〇四年十二月二十五日(ただし、ユリウス暦)。もうすぐ生誕四百年です。記念式典でもやってしまおーか、と思っています。
(Maria)
pocks wrote:
>うーん、同じ成分を「界面活性剤」と言い換えただけでそんなに恐>そうに聞こえるようになりますか?
うん、すごく。
(この感覚って、おかしい??神経質すぎ?)
だって、高校のとき生物の先生(自然保護運動みたいなのやってるような先生だった。)が、界面活性剤はこわいって授業で言ってた。
指の先から浸透して、肝臓にたまるって、すごい顔して言ってたんだもん。
>これでは合成洗剤なんか(成分表示を読むだけで)恐くて使えなく>なるだろうなぁ。
うん、表示指定成分の入ってるものはほとんど使ってないです。
化粧品や、整髪料も指定成分入ってないものを使ってます。
でもシャンプーにはパラベンが入ってるけど。
(ちなみにブルーリッジ チコ シャンプー。このシャンプーめっちゃいいです!使ってるひといる?)
でも・・・・
学生時代に、油絵と版画(リトグラフ)をやってたから
さんざん、からだに毒なもの(人体に使用するべからずって書いてあるようなやつ。)を平気で直接触ってたし
今さら遅いと思うけど(^-^;
>#オレンジなんとかが何として売られているか気になってきたぞ。
何として??かな。
合成洗剤ではない洗剤、と書いてあった気がするが・・・
容器移しかえて捨ててしまったから詳しいことはわからないです。
Makichan wrote:
> 考えるのは言葉で考えるわけです。言葉は所詮他者がつっくたものです。私の
>言葉も考えてみれば、国語辞典にのってる単語の組み合わせでしかないわけです
>よ。なにひとつ新しいことを言ってるわけじゃないです。考えれば考えるほど他
>者を内に取り込む結果になるわけです。このあたりはラカンがいってることです。
>文句あるならそっちに言ってちょ。
「言葉で考える」ことがイコール「考える」ことだとすると、「考える」ことはイコール記号の操作ということになっていまいます。まあ、確かに数式だとか化学式だとか楽譜のような表記体系・記号系というのは思考の道具として欠かせないものだから、ラカンあたりは(あとはウンベルト・エーコとか)そういうことを言いそうな気はします。
ですが、それが全面的に正しいとすると、あたしたちは記号で表せないものを思考することはできないはずなのですが、あたしたちは言語によって表現しえないものを思考の対象としているがゆえに言語表現に苦労しているように思うのですね。
言語の獲得というのは言ってみれば出来の悪い伝言ゲームのようなもので、所詮は「自分」というものを基盤にせざるを得ません。「右」「左」とかいった概念は文章だけでは説明しえないし、「カツ丼」「雑煮」なんていう概念はその人個人の体験を基礎にせざるをえません。丼飯の上にキャベツと一口カツが載り青海苔がかかっているのがカツ丼なのか、関西でいう煮カツが載っているのがカツ丼なのかはほとんど個人的体験によります。あたしは関東風の玉子でとじるタイプ。つゆ辛め。玉子は半煮え。ついでながら雑煮は四角い切餅を焼いて入れた醤油澄まし仕立て。小松菜・鶏肉・蒲鉾または鳴門巻入り。柚子プラス三つ葉添え。三つ葉の代わりに焼き芹も可。
>「自己」なんて言葉があるから「自己」が有ると思ってしまうんです。無いと思
>えば無いものなんです。
唯識論まで持ちだした割にはわりと安易な結論のように思います。『概念としての「自己」に対する実体としての「自己」なるものは存在しない』という主張に矛盾はなさそうだから一応認めざるをえませんが、だとすれば般若経典でいうような、「世の中のすべての現象は、素粒子間の相互作用にすぎない」とかいったニヒリズム的な世界観に行きついてしまいそうに思います。
で、こうしたニヒルな世界観においては、殺人と器物損壊を区別する必要はなく、あえて言うならその社会あるいは社会制度とのかかわり合いのみが問題となってしまうのですね。人間もしょせん元素の集合体でしかないのだから、「殺す」という行為も単に物理的な意味しか持ちえなくて、殺される側の「痛い」「苦しい」「死にたくない」といった感覚なり感情なりには実体がない、ということになります。
あたしはこういう発想をする人とあまりかかわりたくないと思っています。そういう人はわりと簡単に自殺に走ってしまうから。『「自己」なんてものはない』と信じる人間が自殺したところで、残された人間が泣いたり笑ったりする必要はない、と割り切れるほどあたしは人間が嫌いではありません。あたしにとって「あたし」という自己が存在するのは自明なのですが、「ない」という人にとっては「ない」のが自明なのでしょう。それは認めるしかありません。
「自己」の存在を信じるあたしとしてはMakichanさんに死なれたくはありませんが、その反面、本人の意志は尊重するしかないだろうなとも思います。
そんな訳で、万が一にも自殺されるなら、たとえばロボットが壊れるように、なるべくあてつけがましくなく、しかも世間の迷惑にならないように死んでほしいと思います。そのかわりあたしもそういったニヒリストには「自己」なんていうものは存在しないのだ、思うようにするから。
(Maria)
一穂(いちほ)さん wrote:
>↑今さっき突然意味がわかった・・・!!
>
>もう1回禿げます、って
>なんだろうかとずっと疑問でした。
うほほほほ。ごめんなさいませ。「励ます」だったのでございますよ。
一穂さんの明るさが、わたしは好きです。(迷惑だったら、すみません)
わたしは時々アタマのネジが緩む(という表現は許されるのだろうか?)
ので、あほ〜なコメントを書きます。が、〔書いちゃったモノは仕方ない。
これもひとつのわたしの姿さ〕と思うことにしています。
> あたしはどちらかというと詰問される側だったのですが、「冗談を本気にして怒
>る人がいるから、真顔でハズすのはやめなさい」と言われました。
Mariaさん、あなたは私よりましです。私には「真顔でハズす」他に、「笑顔で(=冗談めかして)事実を喋る」という得意技があるんだから。
#事実は小説より奇なり、ってことは結構あるからネタには困らない。
>しらなかった。
>乳化剤って、界面活性剤の一種なの?
>100倍に薄めた液は猫がなめても安全って書いてあるから
>ノミよけスプレーとして使ってました。
>やばいかな。
うーん、同じ成分を「界面活性剤」と言い換えただけでそんなに恐そうに聞こえるようになりますか?
これでは合成洗剤なんか(成分表示を読むだけで)恐くて使えなくなるだろうなぁ。
#オレンジなんとかが何として売られているか気になってきたぞ。
>リモネンはよく知ってます。発泡スチロールにかけると、発泡スチロールがじゅわ
>じゅわっっとみるみるうちに溶けてくの。
有機溶剤が主成分だったのね、というわけで私的には納得。
Maria wrote:
> 思春期においては、単に自分と外界とのかかわりだけでなく「自
>分」というものを見つめるようになります。これが「メタレベルの
>認識」です。つまりは、「ひとつ外に抜けだすこと」だと思ってく
>ださい。
> あるいは、「第三者の自分」と言ってもいいでしょう。「議論を
>する時には、三つ頭で考えろ」という言葉があります。主張する自
>分、相手、それにその議論を見ている第三者。この場合、自分<相>手<第三者とレベルが上がっていることになります。
あ、それならよく知ってます。
Mariaさんにとっての、お師匠さん?ってひとのこと?だね。
一穂ってゆう名前ももともとは
第三者の自分によってプロデュースされ
本人によって演じられていたひとつの役?の名前ですから。
(傍若無人なキャラとはまた別のわたしなんですが。)
> 一穂さんもご存じのように、あたしはあたしとしてここにいるけ
>れど、実際にはあたしには実体がありません。だからあたしは傷つ
>かないのね。だから、一穂さんも自分としてここに立つ必要はあり
>ません。
うん、ありがとう。
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