アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
かおりさん wrote:
>でも、ドイツ、オランダではまだ、クリスマスよりも聖ニコラスの日を祝う
>習慣がありますよ。Holidayではないらしいけど。特別なお菓子を食べるら
>しい。(でも美味しくないとか)ドイツが12月5日でオランダが6日だった
>かな。同じ日じゃない。同じ日にドイツ、オランダはまわれないから、かな?
十六・十七世紀の聖ニコラス追放はルター派とのからみで起きたので、シュトゥットガルトからストラスブールあたりがもっとも過激だったようです。現在フランス領のアルザス側はマダム・ノエル、シュトゥットガルト周辺だとクリストキントみたいな感じですが、アメリカ風のサンタクロースも最近では出没しているようです。
聖ニコラスの日は一種の収穫祭で、豚を殺して食べる習慣が各地にあるようです。豚の血で作ったソーセージはこの日に食べるのが正式とか。豚の形をした貯金箱も、この聖ニコラスの日に開けるようです。
聖ニコラスの日に食べるお菓子というのは、トイフェルスカッツェ(悪魔の雌猫)とビスク(二度焼きのパン)ではないでしょうか。あたしが『赤ずきん=クリストキント説』を思いついたのも、このビスクが気になったからだったりします。
ドイツとオランダで日付が違うのは、たぶん習慣の違いだと思います。ちなみに聖ニコラスの日は「薮入り」みたいな日であったようです。『女工哀史』や『ああ野麦峠』みたいに、糸つむぎ小屋で働いていた女の子たちが帰ってくる日なのね。で、糸つむぎ小屋で働いている娘が肝試しに行って行方不明になったり死んじゃったり、という怪談のパターンが、ヨーロッパにはあるようです。このパターンの怪談はそのまま日本に伝わり、小泉八雲の『怪談』に収められている『幽霊滝』というお話になりました。
「赤ずきん」というお話は、もともとこうしたタイプの怪談だったようです。そんなわけで、「赤ずきん」に登場するのは本来は狼ではなくて「人狼」。つまり死霊・悪霊の類です。
なお、ハロウィン(万聖節)と聖ニコラスの日とクリスマスは、どうやらごっちゃにされているようです。この日はあの世とこの世がつながる日で、あっち側からこっち側へいろんなものがぞろぞろやってくる、という日。つまりは「死者の祭」なのだそうです。日本ではお盆ですね。この日は地獄の釜の蓋が開く日、とされていて、その音まで聞こえちゃうのが「地獄耳」だという話を聞いたことがあります。
サンタクロースがプレゼントを靴下や木靴に入れるのは、「死者だのなんだのがうろついているから、ノエルの夜には子供はベッドから出てはいけない」ということであったようです。昔は靴下や靴を脱ぐのはベッドに入るときだけでしたから(で、赤ずきんはそのタブーを犯したために罰せられる、というのが本来の怪談のパターンだったようです)。なお、昔のヨーロッパには「夜は出歩かない(とくに子供は)」という習慣はなかったみたいです。明るかったらいつでも生活時間帯。月夜とかいうと、昼間と同じ感覚だったようです。
その後、当時裸で寝ていた習慣から、性的な意味が出てきたという話もあります。で、この部分が「赤ずきん」の類話によくある、赤ずきんが服を脱いでベッドに入る場面につながっているように思います。
(Maria)
「時間」...(わかっているよ!)ゴメンナサイ。
でも、自分を否定しないで。
るう wrote:
>私はずっとサンタクロースを信じてました。小学校5年の12月まで。これってかなりめずらしいことらしい。
>すごくショックで、人間不信におちいった。たったそんだけのことで。
>
わたしも小学校6年生までサンタさん信じてました。
まわりの子はみんな、サンタクロースなんていないって言ってたけど、わたしはかたくなに信じてた。
なのに・・・。
本当のことを知ったときはものすごくショックで泣きました。
人から拒絶されるのは慣れているつもりだけれど今度はこたえた。
強くなるしかないと思うけれど。
あまりにショックなせいか、食欲ないし耳鳴りもするし。
回復に良い方法誰か教えてください。(-_-;)
かおりさん wrote:
>クリスマスといえば、子どものころクリスマスプレゼントに電気毛布を貰ったことがあった(実家は岩手の田舎)。別にサンタクロースを信じていた訳じゃなかったけど、これって、と思わず考え込んだ覚えがある。
私はずっとサンタクロースを信じてました。小学校5年の12月まで。これってかなりめずらしいことらしい。その年、母がデパートに連れて行ってくれて「プレゼントは何がいいの?」と聞くまで、「疑う」ということがなかった。だって毎年朝起きたらプレゼントが置いてあったし、兄も何も言わなかったし、友達ともサンタの話したことなかったし。
すごくショックで、人間不信におちいった。たったそんだけのことで。
最近このことを思いだして、やっぱり「純粋培養のバカ」と言われるのは仕方ないかもと思いました。
Maria さんwrote:
> 聖ニコラスは二七一?(二八〇?)〜三四二頃実在したといわれるひと。(略)
> 聖ニコラスが亡くなったとされるのは十二月六日。したがって、聖ニコラスがやってくるのも十二月六日。それがどうしてクリスマスになっちゃったかというと、三二五年にニケーア公会議という宗教会議があって、そこで十二月二十五日をイエス・キリストの誕生日と定めたんですが、そのとき聖ニコラスもその会議に出席していた、というわりといいかげんな理由だったりします。
(略)
> そーなんですよ。クリスマス行事から、聖ニコラスが追い出されてしまったわけです。
でも、ドイツ、オランダではまだ、クリスマスよりも聖ニコラスの日を祝う習慣がありますよ。Holidayではないらしいけど。特別なお菓子を食べるらしい。(でも美味しくないとか)ドイツが12月5日でオランダが6日だったかな。同じ日じゃない。同じ日にドイツ、オランダはまわれないから、かな?実在の人物らしいね。私が聞いた話では、聖ニコラスはスペインからきて人々を助けてまわったんだと。
CDもあります。「Regend Of St.Nicholas」だったかな?Anonymous4という女性4人組みのアカペラCD.
クリスマスといえば、子どものころクリスマスプレゼントに電気毛布を貰ったことがあった(実家は岩手の田舎)。別にサンタクロースを信じていた訳じゃなかったけど、これって、と思わず考え込んだ覚えがある。その外の年に何をもらったか忘れたことを考えると、かなり衝撃的だったのだろう。まあ、母の誕生日が12月24日ということもあって、中学校あたりからはみんなで気を使って誕生日を祝うようにしていたような、、、、でも、結局料理を作るのは母だった。
(かおり)
みどり wrote:
>>でもシャンプーにはパラベンが入ってるけど。
>>(ちなみにブルーリッジ チコ シャンプー。このシャンプーめっちゃいいです!使ってるひといる?)
>
>シャンプーもまず大抵は界面活性剤よん。(でも危ないかどうかはまた別の話ね。ブルーリッジの中身は知らないからわからない)
ブルーリッジ チコのシャンプーは、石油合成成分の入ってないアミノ酸シャンプー。
これ一本でシャンプーとトリートメントができる。
たまに普通のシャンプー使うと目に入ったときに痛くてびっくりする。
チコのシャンプーは目に入ってもあんまり痛くない。
わたしはゴワゴワのくせっ毛だったんだけど、このシャンプー使うようになってから髪質が全然かわった。手触りがいい。くせもほとんどなくなってまっすぐになった。
そして洗ったあと乾くのが早い。これはとっても不思議。
>一時期私も「合成界面活性剤怖い状態」になって、石鹸シャンプーしてました。
>3年間くらいかな。あれはなかなかよかった。旅行中でもリンスだけ持ち歩けば、固形石鹸でも洗えるし。
>
>でも最近は「ぐうたら」の方が優勢なので、普通のシャンプー。髪が薄くなってきたらまた考えねば。
昔、菜の花石鹸のシャンプー使ってた。
頭皮がさっぱりするかんじがしてよかった。
わたしは髪が薄くなっちゃったので、チコを使いはじめました。
お、おでこがひろい・・・。
年代記憶ができないために歴史が嫌いだった、当てにならないことで有名な私の記憶によれば、合成洗剤も、普及当初は「粉石鹸」と呼ばれておりました。おおむね60年代初め頃だと思います。
石鹸(脂肪酸ナトリウム・脂肪酸カリウム)と、いわゆる合成洗剤が主婦レベルで区別して語られるようになったのは洗濯機の普及に伴って生分解性の悪いABS洗剤(アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム)が普及し、河川に大量に流されることで起きた泡公害が社会問題になって以降でしょう。
界面活性剤という言葉自体は成分表示の義務化以前からあったものと思われます。
「界面活性剤」という言葉の普及は洗剤の成分表示と関係しているのは間違いないでしょうが、泡公害の時分に表示に注目していたわけではないのでよくわかりません。
なお、石鹸分のみから作られている粉石鹸(笑)の成分表示も「界面活性剤 脂肪酸ナトリウム(○%)」というノリになってたりしますから、界面活性剤だから全部恐い、ということにはなりません。
Maria wrote:
> そんな訳であたしの「頭のネジがゆるんでいる」に関する考察は、あさかぜさんの
>
>> アタマのネジが緩む(という表現は許されるのだろうか?)
>
>という発言にからんでいて、「『頭のネジがゆるんでいる』という表現は、知的障害者に対する差別的表現にはあたらないか?」みたいな意見に対してどう思うか?みたいな議論に向かうことを期待していたのですよ。
> とはいえこういう(環境保護とか宗教・民族問題とか社会制度批判とか)言ってみれば「政治的な」話題というのは確かに暗く鬱陶しいわけで、声高に叫ぶような不粋な真似はしたくない。そんなわけで隅のほうで「誰か引っ掛かってくれないかなー」とゴキブリホイホイのようにひそやかに展開していたりするわけです。
暗く鬱陶しい話題だとは別に思わない。
(むしろネタにしたい!?
・・・こないだのMariaさんのカキコを読んで、小人プロレスのことを彼に話したら、彼も「今は小人プロレスって言わないみたいだね」と知っていて、彼は「障害者を笑うこと」は悪いことじゃないってゆう意見だった。)
差別的表現に神経質になりすぎることはないとわたしは思ってる。
そのコトバ自体に罪はない。どうゆう目的で発っせられたかが問題だと思う。
差別用語狩りってどうなのかな。
意味あるの??
わたしはちびくろさんぼになりたいと思ったよ〜。
だって、虎のホットケーキ、めっちゃおいしそうだもん。
ミッドランド wrote:
> 「電子ブロック」知っている人いますかね?
うちの兄(AS)がよく子供の頃にやってました。そして机の上においたまま部屋を出て行ったすきに、私(ADHD)がいじくって、壊す。
私には、遊び方が理解できていなかったので、ダイヤブロックのほうが楽しかったようです。
るう
Mariaさんへ
ながいけど、わかりやすい言葉でのレスありがとうございました。(正直に言うと、いつも、難しくて半分も理解できてなかったりします)
他の掲示板でそういうことをすると確かに「キチガイ」と言われそうです。でも、ここの特殊性を前提において「こたえ」を追求するためには、いろんな論点、必要なのでしょうね。
あと、「プライバシーの保護」というのは大切なだと思います。ここ、日本ですからねえ。イジメこわい。
るう
Xanadii さん、はじめまして。
Xanadii さん wrote:
>こんどの発言の主でいらっしゃるので、Bacaさんに敬意を表してここにレスしたつもりなんですけれど。謝ることが出来るというのは、知性も、人間性も高い証拠だと思いますよ。
はい、ぼくは知性も人間性も高い人間です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冗談です。(照)
Xanadii wrote:
> もし、「ネカマ」という呼称がおいやでしたら、‘e-half’というのは
>いかがでしょうかね。あ、でも、それだと「下の修正済の男性」とかいうイメー
>ジになっちゃうか。じゃあ‘i-gay’ならどうかといったら、「女性に興味
>のない、マッチョな男性」だしなあ… ブツブツごにょごにょ…
……ちょいと身体貸せや、この際、念入りに耕したる!とかいって凄んじゃったりして。まあ、あたしは「生身の肉体を持っていない存在」として、この『アスペルガーの館の掲示板』に存在しているわけだから、手の出しようもないんだけどさ。
「ネカマ」という侮蔑的な言葉があってそれに対応する「ネナベ」という言葉がないことに関しては、いささか不都合を感じてはいるのですよ。ジェンダーとセックスとセクシャリティに関する組合せの呼称が整理されていない、という問題点はあるのですね。
で、さらに問題なのは、「感性が女性で、ジェンダーが男性で、性(セックス)が男性で、セクシャリティが対・女性」みたいなケースをなんと呼ぶか、ということだったりします。
たとえばの話、母親が夫に対して不満を抱いていた場合、息子に「女性から見た理想の男性像」を押しつけてしまうのですね。で、「男性から見た理想の男性像」を否定してしまうわけです。そうすると、その息子は、常に「もし私が女性だったら」という視点から、「女性から見て望ましい男性はどうあるべきか」ということを考えてしまうのですね。その場合、感性としてはあくまで「女性」であることを要求されるわけです。だけど、役割としては「男性」であることを要求される。
高度成長期は、同時にフェミニズムの時代でもありました。こうした、「女性のメンタリティを押しつけられた」(フェミニストの立場としては、「押しつけた」のではなく、「理解させた」だけでしょうが)男性は多かったと思います。とはいえ、「母親」という絶対的な生存権を委ねざるをえない存在にそういった要求をされた子供としては、それを受入れざるをえません。時代は「一家の長としての」息子を育てる時代ではなくて、「(女性にとっての)理想の男性としての」息子を育てる時代になっていたのですね。
で、時あたかも高度成長期。父親は育児から疎外され、企業活動に追い立てられていたのでした。まる。
そんなわけで、「男」としてのメンタリティを発揮できる時代はとうに終わってしまったのですね。「男」として何かを発言しようとすれば、「だから『男』っていうのは!」と、それだけで切り捨てられてしまいます。
そんな時代の中で、「いわゆる旧来の『男』に都合のよい『女』を演じつつ、現代の男とうまく折合ってゆく女」というのも新しくていいんじゃないかな、と思います。
『ふたりで聖書を』に登場する納屋さんというひとは、女性恐怖症だったりします。生物学的にいえば、男は女の家畜であり、発生的にいえば、男は「女の腐ったの」でしかありません。
あたしは「女は弱い」なんていうのは嘘だと思うのね。だから、あたしは女として発言することによって、かろうじて「ちゃんと自分を主張できる」立場を得たような気がします。
男って、可哀相な生き物なんだぞ。
(Maria)
オレンジブルーさん wrote:
>Bacaさんはじめまして。
>目茶苦茶の遅れ返事です(汗)すみませんです。
>アルバイトでへばってました。
はじめまして、オレンジブルーさん。お疲れ様です。(笑)
>bacaさんの訴えアピールは私なりに引っ掛かってキャッチさせて頂きしました。
>(でも私なりに、「え!名前指定で!よほどあかんかったのか・・・」と驚いたた。。)
別に驚かすつもりはなかったんですが・・・。反省。
>手が動かないって大変ですよね。
>実は私、今のバイト2日目で手が上手く力を入れて動かせなくなってしました。
>周囲のふつうの大人には当然できることが猛烈にエネルギーが要る。
>頭痛で頭もぐらんぐらん。
>
>麦茶を飲もうとグラスをもったらうまく持てなくて、
>両手で持ってもスルッと抜け落ちそうでした。
これまでにそういうこと何回も経験あります。
筋肉がついてコツがつかめたら、そのうち楽になりますよ。
>その後で「ああ、掲示板・・・・」と思ってBacaさんの投稿を読んだので、
>私なりにその不快感を「だっこ」しましたです
Baca のたわごとですから、あまり気にしないでください。
バイト、怪我しないように気をつけてください。応援してます。
(今度からはYan の方へどうぞ)
Makichan wrote:
>じゃYanさんはtoriさんだったのかあ。わたしゃ京子先生かとばっかり思ったよ。(ゲラゲラ笑い)
ううぅ、ばれたか・・・。 (なぜにゲラゲラ笑い?)
Xanadiiちゃん wrote:
> まちがいなく自分も傷つく。しかし全くの孤立無援のままで放置されれば、
>いずれは「何だってかまわない、もう何もかもめちゃめちゃにしたる」とい
>う、“妖怪”のような存在に、育っていってしまう。
>
> 本当に危険な精神障害者による犯罪が、クローズアップされるたびに、世
>の中の大部分の、罪もない精神障害者までが、セットで語られてしまい、こ
>れが世の人の偏見を助長する結果となることが避けられないというのなら、
>私は、その風潮を「逆利用して」、「もし私が、いつかほんとうに発狂して、
>完全に良心を欠いた行動をとるようになってしまったら、そのときは迷わず
>この私を射殺してください」と、健常者の人々に告げておこう。これは本当
>の気持ちだ。これは自閉うんぬんという存在としてではなく、人間としての、
>私の最後の良心のつもりなのだ。
たまたまうちのMariaがその手のテーマの小説を書いているのでコメントさせてもらう。
人間というのはしごく簡単に「瞋恚」に囚われてしまう。医学的に言うなら脳の扁桃核という部分から発する怒りであり、脳腫瘍ができたとか覚醒剤中毒になったとかいった原因でしばしば通り魔的殺人に走るのも、それが割合に単純なメカニズムによることの証左である。
Mariaは心臓を悪くして何度か入院したことがあるので、病み崩れて病苦のうちに死んでゆく患者を何人も見ている。絶え間ない苦痛というのはいとも簡単に人間の精神を崩壊させてしまう。安息を奪われた人間は、じつに脆い。
人間としての尊厳を保ったまま死にたい、というのは人間にとって基本的な権利だと思う。ところが日本においては、そうした選択肢は公的には用意されていない。
とはいえそれは私的には用意されているのである。依願殺人は刑法二〇二条によればたかだか七年以下の懲役でしかない。「死ぬ」のではなく、自らの存否を委ねられる相手の手にかかって殺され、相手がその罪を引き受けてくれるとすれば、この刑は決して重くないように思う。同時に、遺書なりなんなりで殺される側がその意志を表明し、殺した側が自首した場合、おそらくは執行猶予つきの判決が下るはずである。とはいえその「罪」を引き受ける覚悟があるとするならば、「後追い心中」といった形になりかねず、むしろ実刑判決を下したほうが恩情判決という気がしないでもない。
とはいえそうした覚悟なしに畜生道なり餓鬼道なりに落っこちてしまう奴もいたりする。生い立ちその他に同情すべき点は多々あるのだが、そういう連中はポアしちゃったほうが世のため人のためという気がしないでもない。そうした「前頭葉の怒り」が「忿怒」である。「忿り」と書いたほうが正確だろう。
バブル経済の崩壊のさなか、人を破滅させることでかろうじて自我を保っていた連中というのが少なからずいた。最近では、自分自身が遠からずリストラの対象になると知りつつ、リストラ担当者として多くの人々を必要以上に破滅的な形で(それは同時に企業にとって有利な形でもあることで自己正当化される)離職に追い込むことにサディスティックな快感を得て、「お前らより俺のほうがまだしもマシだ」と思いこんでいる輩がいるという。こういう輩は企業にとって確かに都合のいい存在であり、法はこれを裁くことができない。
とはいえこういう輩は、過去の好景気の企業においては真面目で勤勉な「優良社員」であり、家庭においては「良きパパ」だったりするのである。彼は全身全霊を捧げて「自分の役割」を果たしてきたのであり、そのことが評価されて会社という「体制」に近い位置に置かれたのである。しかしながら、結局は自分もまた体制によって無慈悲にも切り捨てられる存在にしかすぎない。その現実から逃れるために、「切り捨てる側」と「切り捨てられる側」の境界線を、自分よりも外側に、より明確に引くことによって、自我を守ろうとしているのである。
彼は確かに哀れな存在ではあるのだけれど、彼の直接の被害者が彼に同情する理由はない。そうした「無垢な悪人」を苦しみから解放してやることも、慈悲ではないのだろうか?
敢えて「殺す」側に立つ覚悟が、世の中に欠けてはいまいか。そう思う。
(Mr.Moto)
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