アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
Mr.Moto wrote:
>>二つの文で整合がとれていません。
>>また、後者の文章にしても、この範囲内だけで前者と区別するのは難しいことです。
>
> できれば二つの文について整合性がとれていないと判断する根拠を分りやすい形で述べていただきたい。できれば「難しい」と判断した理由も。
まず整合性の問題から。
No.7250では「侮辱」も「怒り」もそれぞれ一人の人物の立場について書かれている文章になっています。
そのため私は「ルーズベルトですか、伝えた人ですか」という問いをして、対象を一人に絞って考えようとしたのです。
>>「侮辱」したのはルーズベルトですか、伝えた人ですか。
>
> ル−ズベルト。伝えた人物は、侮辱したと見なされる可能性が高そうに思う。
これによると、一つ目の例文では、ルーズベルトが「侮辱」の立場をとっていることをNo.7250では書いていると判断できます。
しかし「伝えた人物は」以下の部分はNo.7254で始めて出てきたものであり、No.7250には現れていない、少なくとも私にはそのように読めます。
>>「怒り」を持っているのはルーズベルトですか、伝えた人ですか。
>
> 伝えた人物。おそらくは侮辱された(と感じるであろう)人物が持つであろうと思われる「怒り」を共有(しようと)しているという意味で、伝えた人物は侮辱をしていないと受け止められる。
二つ目の例文では、伝えた人物の立場についてNo.7250で書いてあるということであり、ルーズベルトの立場に関しては書いていません。
「前後のつながりから分かる」と言われそうですが、つなげて解釈してしまうと二つの例文及びそれぞれに対するMr.Motoさん(Mr.と『さん』が重なってますか?)の見方(この言葉でいいんでしょうか、適当な言葉を思いつかなかったので、あいまいだとは思いましたが取りあえずこの言葉を使っておきました)を比較する上での対称して見る点があいまいになってしまうので、適当ではないと考えます。
そこでそれぞれの例文に関する解釈を独立に扱って比較することで、その違いをはっきり表すことができます。
細かく書けば、もちろんMr.Motoさんの解釈でいいのですが、それぞれの例文におけるルーズベルトの立場、伝えた人の立場をはっきり書いて、二つの例文でのそれらの共通点と相違点を抽出し、それが例文のどこに起因しているかを説明してもらえたら、ちゃんと伝わったと思うのです。
一つ目ではルーズベルト、二つ目では伝えた人の立場を取り上げるというのでは比較のしようがないので「整合性がとれていない」と考えるのです。
私が「この範囲内だけで」と書いた「範囲」ですが、これもあいまいに書いてしまってすみませんでしたが、上に書いたようにそれぞれの例文に関して独立に扱うと言う意味で「一つの例文に関わる部分の範囲内で」ということであり、それを超える前後関係は対象としないという意味です。
そして「『難しい』と判断した」と書かれていますが、判断するというより私にとってはそう感じられるということです。
例えば一つ目の例文について
>>「侮辱」したのはルーズベルトですか、伝えた人ですか。
と尋ねたことにはもう一つ理由があって、私から見れば、伝えた人がルーズベルトを皮肉をもって「侮辱」していると受け取れるのです。
だからわざわざこのように尋ねたのであり、同じ「伝えた人」に関して「侮辱」することと「怒り」を表すことの区別をつけるのは「難しい」と書いた訳です。
>>一方的な見方ですね。
>>「バカだと判断するなんておかしいですね」
>>「バカという言葉を平気で言う人をどう思いますか」
>>さらに前の状況によっては
>>「(あなたは私のお母さんのことを知りたがっていましたが)こんな人です」
>>「(あなたは自分がどう見られているか知りたがっていましたが)こういう例
>>があります」
>
> 言いたいことがよくわからん。もっと分りやすく説明してはくださらぬか。
この部分は確かに分からない書き方でしたね、失礼しました。
改めて説明しますと、
>それが正しいかどうかは分かりませんし、受け取り方は人によって違うでしょうけど
と書いたことに関連しています。
つまりいろいろある受け取り方の例を、思いつくままに書き連ねてみました。
その中でどれが正しいかは、もっと多くのデータがないと分からないので、自分はこう解釈したけど、それ以外にも多くの可能性があるのだということを考慮しなければなりません。
私自身の受け取り方にしても、信じてはいますがそれが絶対と言うのではなく、Mr.Motoさんの受け取り方の方が近いという可能性を否定している訳ではありません。
そして次に、いくつもの可能性がある時にどのように対すればいいかという問題になります。
私は「最も安全側」の態度をとればいいだろうと考えています。
それを表しているのが
>少なくとも辛い状況の人に追い討ちをかけるような、いわゆる「死者
>をむち打つ」ような非難はするべきではないと思います。
の部分です。
この場合には、シンタロウさんを傷つける可能性がなるべく引いように対応するということです。
そうすれば、仮に
>シンタロウさんはけっこうしぶといタイプであると私は見ている。
が正しかったとしても、実害は少なくてすみますが、その逆は成り立たないのです。
>Maria wrote:
>> バンドをやってると、しばしば「技術屋」と言われるメンバーのいるバンド
>>を見かけます。だいたいドラムスかベースといったリズム隊なんだけど。
>>Xanadiiさんもemmaさんも、そのタイプなんじゃないでしょうか。
>
>シンタロウさん wrote:
>> 僕はベースをやってましたけど、バンドの練習の時ドラムとリズムが合わな
>>くていつもヘマばかりしてました。そんなある日、僕や僕のバンドを嘲笑した
>>他のバンドの人(彼もベース)がいろいろアドバイスしてくれました。そのおか
>>げで、ライブはなんとか(ちょっとミスしちゃったけど)成功しました。あの時、
>>アドバイスが無ければ爆笑の渦になってたかもしれなかったです。
>
>みたいな発言をしていたりもするのである。
私には、ここから「しぶとい」というのが読み取れません。
もっとも
>「あんたは鈍感なんだ! 人の心の痛みというのが分からないんだ!」とか言われたら「そうかもしれん」と思うが。
というのは私も同じですが。
また、もしこの部分に「いぶとい」ことが現れていたとしても、バンド仲間に対する時と、親に対する時との精神状態が大きく異なるのは自然なことです。
> 音楽も文章も自己表現の一部であり、おれはその「表現」について問題にしているのである。「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。うちのJoshyaに至っては心臓病持ちだから下手に走るとばったり倒れて死ぬ。「どう結果を出すか」について論じるのは悪いことではあるまい。
これはどういうことでしょうか。
心臓を鍛えて、心臓病でも走って倒れない技術を磨くべきだということですか。
鍛えたり磨いたりするのはいいですが、その目標が他人の基準に合わせた数値目標であるならば、不可能な目標を立てているとも言えるでしょう。
私が「全力で」という言葉を使ったのは、他人(あるいは「世間一般」)の基準による絶対的な目標値ではなく、個人単位での相対的な目標によって鍛えるべきだ、という意味です。
結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
>>> 私は「ヌルい書込みが嫌いだ。」と言っておるのだ。「ヌルい書込みを
>>>するな。」とは言っておらん。シュッツくんの発言は、私が個人的な好き
>>>嫌いによって掲示板の性質を決定しようとしている、という可能性を示唆
>>>しているように私には受取られる。
>
>>実際に示唆しているかどうかによらず、そう受け取られても仕方のない書き
>>方をしています。
>>そうみなされることは覚悟して下さい。
>
> 私の原文では、「示唆している」の主語はシュッツさんである。それに対して「実際に示唆しているかどうかによらず、そう受け取られても仕方のない書き方をしています。」ということは、「シュッツさんが示唆していると受取られても仕方がない書き方をしている」ということであるらしい。
失礼しました、抜き出す部分を間違えました。
「実際にその可能性の通りかどうかによらず」
訂正とします。
「覚悟して」と書いたのは
> 「『偉大なる領袖・金××様は、」以降、「おれは疑問を感じる。」までは、「受けとった情報を他者に伝える場合においても、そこにおのずと伝達者の立場の表明というものがすべり込んでくる場合が存在し、そのことはしばしば感情的にデリケートな問題に発展するがゆえに、その自覚を持つべきである」ということを、理解しつつも真摯に受取らない連中に言っておるのだ。
>
> で、そこより後は、「私は言っただけだ」「私は言われた通りにしただけだ」みたい相互無責任構造に寄っかかってる連中は、共犯者として同罪とみなせ、あるいはみなされることを覚悟せよ、と言うとるのである。
というところからそのまま拝借しました。
「好み」であって「決定しようとする意志」ではないというのは、「伝達」しただけであった「立場」ではないと言っているのと同じです。
始めから明確に分けていない限り、「好み」の中に「意志」の「表明というものがすべり込んでくる場合が存在」するので、その違いを「理解しつつも真摯に受取らない」ままに発言すれば「ヌルい書込みをするな。」と言っているのと同等であるとみなされても仕方がないのです。
このことは
> 私はシュッツくんが、雰囲気が読めていなように見える、という情報を提供しているだけである。べつに「雰囲気を読むことを求めている」わけではない。
という部分でも全く同じことが言えます。
ところでMr.Motoさんがどのような立場に立って発言しているのかが、今一つ読み取れません。
それは
>世間ではこういうのを「失礼」だということになっているようである
と書かれていることによります。
このような世間の立場を肯定しているのか否定しているのか、単に伝えただけだとしても、伝達者の立場がどのような形で含まれているのか。
他の部分で書かれていることから私が読んだ「立場」と、この文章とが矛盾しているように思えるのです。
いかがでしょうか。
Maria さんwrote:
> 背中を揉んでいるときに、
> 「ここ?」
相手の背中をもんでいる自分の手元を指しているので、”ここ”。
> 「ああっ、そ、そこ!」
>というのは、なぜなのでしょう。
もんでくれている人が指す”ここ”に対しての言葉なので、”そこ”。
> 相手の身体なのにね。
> (Maria)
全くね。
(ぺりこ)
こんにちわ〜、Mariaさん。くるとです。
Mariaさん wrote:
>『なぜ女性に間違えられる???』
>『なぜか女性に間違えられる(???)』
(中略)
> で……思うにですね、「話している自分」「自分を振り返っている自分」
>「自分を見ている他者」という三つのレベルにおける記述を、区別せずに書
>き並べているところに違和感があると思うのですよ。
正確には区別していないのではなく、意識していなかったのです。
> で、「(笑)」「(爆笑)」というのは、そもそも発言(演説とか対談とか
>)を文章にする場合に使われてきた表現なのですね。それでかどうか知らない
>けれど、なんとなく「他者」「第三者」から見た記述という感じで、「自分で
>自分を笑っている」という感じに見えないんですよ。だから、なんとなく「自
>分で自分を痛めつけている」みたいな感じで、痛々しく感じてしまう。
ああ、(笑)のマークですか?これはわたし自身が文脈から相手の感情を読
み取るのが苦手だから、他にもそ〜ゆ〜人がいるんじゃなかろかと思って使っ
ているんです。絵文字を使ってもいいのですが、表情の読み取りに困難を抱え
ている人には理解しにくいと思ってあまり使っていません。わたし自身、最初
のうちは絵文字が単なる記号の羅列に見えてしまって理解できませんでしたか
ら。
ついでに言えば、わたしが絵文字を使用するとわたしを女性と間違える人が
さらに増えてしまいそうで怖いです。
しかし、読字に困難のある人に対して配慮しているのか、と言われるとそれ
ができていないのが辛い所っす。
でも、「話している自分」「自分を振り返っている自分」「自分を見ている
他者」の区別には少し気をつけてみます。では
名加野です。思い切り場違いな質問(だとおもう)です。
Maria wrote:
> 「普通」の人々には、「常識」が「常識」であるがゆえに、「常識」というものが見えません。その意味では、「常識」が見えるあたしたちは、強いと思います。
「常識が見える」ということは一体どういうことなんでしょうか?
僕には世間一般でいわれている「常識」と言う物がさっぱり解りません。と言うより「興味が無い」というのが現状です。某番組「赤っ恥〜」はよく見ていて、自分が「高校の時には」知っている言葉で、「その時にはもう習っているはず」だろう言葉を知らない人を見ると、「マジで知らんのか!?習ったろ!?(と馬鹿にしている自分がいる)」とTVに向かって言う事があります。本当に学校いってるんだろうか? と思いたくなります。
これは「常識」が云々の話になるのですか?
次に行動に関して。これも「常識」が基準では無いように思えます。強いて言えば「自分が行っていて、恥ずかしいかどうか(良心含む)」が基準になっていると思います。
例えば
落とした物を拾い食い=それを食べたい欲求が強いため、他の人がいても恥ずかしくないです。
この話をすると、大抵の方は「常識云々以前の問題だ!」といわれます。
そうなのですか? ……という事は、少なくとも僕は「常識」が見えていない。という事になりますが、どうお考えになりますか?
十数年くらい前から、やたらと地域の崩壊だとか地域の連携がどうのとか、近隣の助け合いの風潮がなくなってきたといったようなことがメディアを通して唱えられるようになり、学校でいじめや校内暴力が起きると、「学校と地域の連携を強化」したり「地域に開かれた学校」を目指すべく地域のおじさんおばさん達に学校行事への参加を呼びかけたり、地域の人たちとの交流を深める行事をしたりするが、けっきょくたいした成果も上がらないまま何か事が起きるとまたもや「地域の力」がどうのこうのといった話が盛り上がるのである。
このほか、子どもが親に虐待される事件が起きると、「昔は地域の人たちが一体となって子育てをしていた」のに、今は核家族化して母親は孤立して誰からも支援を得られず云々といった評論が出てくる。
そもそも地域の人たち(具体的に言うと、近所に住んでいる連中ということか?)が役に立つことなどあるのだろうか? たとえば自分がいじめられたり自分の子どもがいじめられてると判ったとき、地域の人たちや地域の連携でいじめを解決できるのだろうか? あるいは、まだ地域社会が崩壊していなかった一昔前までは、地域の人たちの連携でいじめを予防していたり解決していたというのだろうか?(昔だっていじめ現象はあったはずである)
これらはみなうそであろう。そもそも地域の人たちが自分の生存にとって役に立つことなどほとんどないのではないか。たとえば失業したり、犯罪の被害に遭ったり、家族が自殺したとき、地域の人たちが役に立つだろうか? せいぜい庭や畑で採れた野菜やくだものを持ってきてくれるくらいである。これとて、もらったままだと気まずいのでいずれお返ししなければならず、この行為も負債の押し付けだと解釈できなくもなさそうである。
そもそも同一の地区に住んでいる人間たちは、何らかの目的があってそこに集合しているわけではない。それなのに、何かそこに共同の集合の場や共同体のようなものがなくてはならないなどと考えるのが間違いではないか。
地域社会の一員として地域活動に参加しなくてはという強迫観念に苛まれるよりも、ASの親御さんには、スペシャルインターレストを共有する仲間を見つけるなどして、ほんとうに心から楽しんだり感動したりできる場を作りましょう。と言いたいです。健常児が近所の子ども達と遊ぶのは、たまたま話題や興味が一致しているからに過ぎないでしょう。
ぺりこさん wrote:
>この・・・自分に近いところのものを指す。
>その・・・相手に近いものを指す。
>あの・・・遠いところのものを指す。
>どの・・・どれかはっきり分からないものを指す。
自分にとっての「あの」は相手にとっても「あの」。
自分にとっての「その」は相手にとっては「この」。
相手にとっての「その」は自分にとって「この」。
で、自分にとっても相手にとっても「この」という場合がある。
問題は、
>隣の人の前に転がっていった消しゴムを取りに行きながら”この消しゴムは私
>のなんだよ。”って絶対に言ってしまう。
>本当は”その消しゴム”と言うのが正しいんだけれど、意識が相手の所に行っ
>てしまうものだから、”この消しゴム”と言ってしまうのでしょう。たぶん・
>・・
の場合なのだけれど、「他の奴は手を出すな!」という意味で、「これ」を使う場合があるので、「この消しゴム」は変ではないかもしれない。むしろ、なぜ「この」ではなく「その」のほうが使われるのかのほうが、謎。
ひょっとしたら、「相手にとっての<この>」であることを表わす言葉が「その」なのかもしれない。よくわからないけど。
(Maria)
背中を揉んでいるときに、
「ここ?」
「ああっ、そ、そこ!」
というのは、なぜなのでしょう。
相手の身体なのにね。
(Maria)
ここ名古屋では、雨風増してきて外出向きではありません。
こんな台風の日は掲示板日和かと思います。きっと見ているでしょうから、
「オレンジブルーさん、戻っておいでよ。あれからずっと待っているよ」
二人の「引きこもり」の定義(含まれる範囲)が違っていたのも一因なのでは。
議論・討論など白熱したやりとりは読んでいて面白いけど、ののしりはちょっとね。
白土三平の「カムイ伝」の中に、山奥の湯治場の話があります。その湧泉はあらゆる動物(人間も含む)が怪我や病等を癒しにくる場所です。捕食・被捕食の関係から離れ、一つの温泉の中に共にいるのです。そして治癒すれば山に戻ります。
この掲示板もそんな場所だと私はとらえています。
Mariaさん wrote:
> 直感によって得たイメージを構成的に表現するのはかなり難しいと思います。あたしも、『気になっていたこと』(No.7288、9 Sep 2001)で述べたような例を分析するのにはずいぶん苦労しました。
やはり、そうでしたか。でも、よくわかりました。
ですが、構成的に組みあげたイメージを直感的に説明するのはそれほど難しくないように思うのですよ。
タレイヌは、こちらもまた、難しい。(理由は、活字が<好き>じゃないから。簡単な線描の絵とかを使って面と向かってなら、いくらでも説明するんですけどねぇ・・・
仮に内面の「認識の話」であっても。)
それは(その過程を意識している)あたしたちにとってはけっこう容易ではあるものの、(その過程を意識していない)普通の人にとってはかなり困難なものではないかと思うのですよ。
>
> でまあ、少しは歩み寄ってあげないといけないのかなー、と思うあたしでした。まる。
>
そうですね。そうなんですよ。そうしましょう。そうして上げましょう。そうしてください。(訳わからなく、うっとうしい文章でごめんなさい。でも、これは自分がいったい、どっちに居るのか判らず、混乱しているのです)
(タレイヌ)
ミッドランド wrote:
> 内容は、小学校の特殊学級の担任教師が、自閉症の児童の母親に向かって、
>「あなたの子の暴力的性格は、親によりつくられたもの」「だから、わたしが直してやっている」
>と発言(しかも他の児童の親たちがいる場で)、これに怒った児童の両親が教育委員会に実態調査を要望する、というものです。
>
残念ながらこの問題はなにも教育現場に限ったことではありません。
私自身の経験談ですが、以前私の部署の課長を務めていた方が、私の人間関係の拙
さに腹を立て、あれこれ指図をはじめ結果的に私自身躁鬱や過食といった症状が悪
化したことがあります。
ようはこの方も含め、自分の知識という引出しの中にある選択肢で勝手に解釈して
しまっていることが原因だと思います。
私の上司の場合は、私の社会性の乏しさは経験不足と私の努力不足と解釈してたよ
うで、自閉症の字すら頭の中にはないようです。
悲しいかなこのような問題は、心の病といった問題を多少知っている人が陥りやす
い問題です。
たしかに自閉症者から見れば、腹立たしいことだと思いますが、大切なことはこう
した早とちりした人に対してネガティブなるのではなく、きちんと問題を列挙した
上で、自閉症に対する理解と勝手な自己解釈が自閉症者を苦しめていることに気づ
いてもらうことではないかと思います。
悲しみや怒りにまかせて行動するのは逆効果です。まわりくどいようですが冷静に
相手に正しい情報と心情を理解してもらうことが一番大切だと私は思います。
子供は、自分を保護すべき立場の相手を自動的に愛し、愛されたいと願います。命に関わることですから必死です。いまはなにかの理由によってそうではないけれど、いつか自分を理解して愛してくれるのではないかと、何度もぶつかってはまた傷つくんです。
自分を守るためのしくみから来ることなので、理性で脱却するのは並み大抵なことではないと思います。だからこそ、るおうさんの傷が深ければ深いほど、直接対峙するのは避けてほしいのです。
もしも今でも直接の被害を受けつづけているのなら、裁判所で中止命令をもらうことができるかもしれません。過去のことでも刑事告発が可能なら、それもいいかもしれません。民事であってもお金であれば、相当の苦労とひきかえにいくらかもらうことができるのかもしれません。
でも自分自身の気持ちのやりどころを探すのなら、相手にそれを求めるのではなく、違うところを探してほしいのです。
確かに過去だけでなく未来も傷つけられたかもしれません。だけど、相手が持ってないものをねだり続けても、未来を今よりさらに深く傷つけるだけです。
本人にとっては大抵「わかっちゃいるけど、とてもじゃない」ということだと思います。他人ごとでなきゃ言えないことですが、だからあえて言うことにしました。
余計なお世話でごめんなさい。 るおうさんの気持ちが早く自由になれるよう、祈ります。
ミッドランド wrote:
> 今日、ネットで「自閉症」の検索をしていたら、強い怒りを覚えたページがありました。
> 内容は、小学校の特殊学級の担任教師が、自閉症の児童の母親に向かって、
>「あなたの子の暴力的性格は、親によりつくられたもの」「だから、わたしが直してやっている」
>と発言(しかも他の児童の親たちがいる場で)、これに怒った児童の両親が教育委員会に実態調査を要望する、というものです。
> このページを読んでいるうちに、この教師の「差別意識」「人を見下す態度」に怒りが込み上げてきました。
> こんな人間が「教育者」だとは……
> 「養護・特殊学級(校)」の教師がすべてそうだとは思いませんが、少なからずこんな教師が潜んでいるように思えてなりません。思い過ごしだといいのですが。
そうです。世間一般の認識はその程度のものです。そもそも大多数の大衆はものごとを考えたり調べたりしないものです。エネルギーを浪費しますから。偏見とか迷信とかいうのも、頭脳エネルギーの節約のために生じたものであろうという意見もあります。
それに教師というのも、河上亮一氏が言っているように、ただのおっさんおばはん連中にすぎません。不当なことをされてそのことに対抗処置をしようとするのはけっこうですが、そもそも教師が聖職者であるとかあるべきだとかいう認識も改めるべきでしょう。
英検廃止論が新聞に出ていましたが、いずれ文部省と教育委員会の廃止論も出てくるかもしれません。教育委員会など実体としてはただのアリバイで、たいした役目も果たしていません。学校給食の民間への委託などに象徴されるように、今後は教育の民営化へとシフトいくでしょう。そのへんを睨んであれこれ考えていくのがいいのではないでしょうか。
ぺりこです。
小学校の国語のテキストに書いてあった”こそあど言葉”についての説明です。
この・・・自分に近いところのものを指す。
その・・・相手に近いものを指す。
あの・・・遠いところのものを指す。
どの・・・どれかはっきり分からないものを指す。
これに従うと、机の上の私の目の前にある消しゴムは”この消しゴム”になり、隣の人の前に転がっていった消しゴムは”その消しゴム”になり、少し離れたところに落ちてしまった消しゴムは”あの消しゴム”になります。
簡単なようでも、意識を自分の所に置いておかなくっちゃならないんで、わたしには、混乱しやすいのです。
隣の人の前に転がっていった消しゴムを取りに行きながら”この消しゴムは私のなんだよ。”って絶対に言ってしまう。
本当は”その消しゴム”と言うのが正しいんだけれど、意識が相手の所に行ってしまうものだから、”この消しゴム”と言ってしまうのでしょう。たぶん・・・
でも、取りに行きながら、のぞき込んだり自分の手に取ったりすれば、”この消しゴム”で正解。・・・たぶん。
”消しゴム”がなんだってんだ〜。
(不条理落ち)
えー、なんだか前段と結論が整合していないヘンな書込みになってしまいました。
ごめんなさい。ぺこぺこ。
> それは、自閉症方面の人には、感情表現に関する、共通する独自のスタイル
>があって、それがいわゆる「健常者」にとって誤解のタネになっているのでは、
>という仮説です。
と言っておきながら、
> で、あたしはこれを安易に自閉症方面の人間の「他者」概念の獲得の困難と
>いうところに結びつける気はないのですね。単に文章上のテクニックの欠如、
>と見ていいと思います。
というのは何事でしょうか。くそー。
あたしの場合、そういう訓練を受けた……というか、テクニカル・ライティングというものを追求する上で、自らに課した、という特殊な事情があります。だからこそ気づき、だからこそ気になる、という部分があります。
それに対して、多くの「健常者」は、「気づいていながら、それを明確な方法論のようなものにまで高めることができず、『文才』といったようなものに帰属させ、訓練によって身につけようとしない」ような気がします。(←自分で言っててちょっと言い過ぎな気がすると思っている)
で、テクニカル・ライティングというものを学ぶうえで、普通の人がもっとも苦労するのが、たぶんこの部分なんですよ。それが意識せずにできる人と、できない人がいる。で、それを「才能」という言葉で説明し、「書ける人」と「書けない人」に分けてしまい、自分を「書けない人」に分類してしまう。
だけど、そうではないように思うんです。そこには明確な方法論というものが存在しうると思います。もちろん「書ける人」にはそういった方法論なんていうのは必要ないんですけどね。
ただ、方法論によって「書ける」側に移行する、というアプローチは、あたしたちAS人にはごく自然なアプローチではあるのですが、「普通の人」にとってはかなり不自然というか、習得に努力が必要なものであるような気がしないでもありません。もっとも、それは「文章を書く」という、高度に抽象的で複雑な活動が対象だから、という理由もありそうに思います。
うちのJoshyaさんは、全制動(プルーク・ボーゲン)で直進することしかできないスキーの初心者の女の子(小学校の、たしか三年生。喘息がひどくて、運動はまったくダメだと本人が言ってました)に、三日でパラレル・クリスチャニア(最近はパラレル・ターンというのか)をマスターさせちゃった人だったりします。だけど、その手法たるやひどく分析的で、それを見ていたインストラクターにとっては、かなり「謎」なレッスンでした。だけど基本は「スキーの真ん中に乗る」「外向外傾姿勢」という、スキーの基本中の基本そのものなのですね(猪谷さんもそこんところを力説していました)。
おそらくは、あたしたちは目標とすべきイメージを、「構成的」に作り上げることに慣れているのですよ。普通の人が「直感的」に作り上げるのに慣れているのと対称的にね。そのイメージを獲得した後の進度というのは、おそらくはそれほど違わないと思います。だからあたしたちは本が好きで、活字が好きなんじゃないかと思うんです。
実験医学の始祖、クロード・ベルナールは、「先入観を持って実験してはいけない。それならば知らないほうがまだましだ」と言っています。そのベルナールの弟子にあたるパスツールは、蚕の病気ペブリーヌを研究するために、ファーブル先生を訪ねました。ファーブル先生は、『昆虫記』に「パスツールは蚕の繭がどんなものか知らずにやってきた」と書いていますが、その蚕の病気を根絶したのはけっきょくパスツールでした。
直感によって得たイメージを構成的に表現するのはかなり難しいと思います。あたしも、『気になっていたこと』(No.7288、9 Sep 2001)で述べたような例を分析するのにはずいぶん苦労しました。ですが、構成的に組みあげたイメージを直感的に説明するのはそれほど難しくないように思うのですよ。
で、その場合のギャップになるのが、感情表現に関するスタイルの差、なのではないかと思うんです。あたしたちにとってしっくりくる感情表現が、普通の人の感情表現にマッチするとは限らない。そのあたりのギャップを埋める努力は双方にとって必要なのだろうけれど、それは(その過程を意識している)あたしたちにとってはけっこう容易ではあるものの、(その過程を意識していない)普通の人にとってはかなり困難なものではないかと思うのですよ。
でまあ、少しは歩み寄ってあげないといけないのかなー、と思うあたしでした。まる。
(Maria)
コメントに「健常者」という言葉をあえて出す必要はないのではないかと
言いたかったのですが・・・。
そういう「分ける言葉」をここで使われる必要はないのではないかとも
言いたかったのです。
「同じ母として」という一言で、事足りるのではと思いましたので、
なぜあえて「健常者の母として」という言葉を使われるのかと疑問に思い、
書き込みました。
せっかく答えて頂きましたが、そのことにつきましては
いまいち理解できませんでした。
失礼がありましたらお許しください。
niina wrote:
>>健常者の母としてひとこと。
>
>自分のことを健常と言えてしまうのはどうしてですか?
>
>そういう感覚が、子供さんを追い詰めるのでは?
>
>私は健常、あなたは(反対語として)異常・・・、そういう感覚ではなくて、
>もう少し違う視点で考えてみられたらどうでしょうか。
>あなたも多分、障害とは言えないまでも、弱い部分がおありでしょう。
>そういう視点から発せられる言葉の方が、
>子供さんや私達の心に届くと思います。
ここの掲示板にいらして、まだ日の浅い方だからご存知なかったと思いますが、
私はずっとここで数少ない健常者として書き込みしてきました。
と、いっても今年からですが・・・。あえて健常者といっているだけで、健常者をかさにきているわけでもなんでもありません。ここにカキコなさっている方は、ご存知ですよ。
私はASの夫とその子AS1と境界の子1普通児1ADHD1と六人で暮らしていました。
ASの夫との生活に心身ともにつかれはて、現在別居中。
ASとはなにか、いかにASを理解したらいいのかということを、ここの掲示板によって、またみなさんの励ましでなんとかがんばってきた・・・。
という経緯があります。
いま私は、あえて健常者としてみなさんに(ここでいういわゆる普通の人と言う意味での健常者なんですが)
普通の人はこう思う。こう反応する。ということをしらしめたいのですね。
ASの反応を理解することが大変だったわたしに、みなさんが私の発言になんでー
とかふざけんなと、思うのもわかりますよ。
ただ、わたしはここで、ともすれば健常者いわゆる普通の人をばかにしたり
理解できないとか、なに考えているんだというような非難の書き込みが増えている事を悲しく思うんですよね。
そうじゃなく、御互いを理解しあうためにこの書き込みはあったような気がします。最初のころは・・・。
博識のキロイさんにわらいながら楽しんだり、Tienさんのやさしさにこころすくわれたり。あさかぜさんのそこぬけの明るさに心洗われたり。
私はそのお礼の気持ちもあって、健常者のここがしりたいコーナーの一人として
ここにこようと思っていたのです。
みなさんのお母さんは普通の人ですか
シンタロウくんのお母さんだって、普通に生活を営んでいる方でしょ。
私はシンタロウくんのお母様をとやかく言う発言が悲しかっただけ。
子供を心配するのは当然です。そのことを解って欲しいと思っただけ。
私は健常者だとか、ASだからとかもともと思っていない。
みんな個性なんだから。
以上
Tienさん wrote in 『台風』(No.6739、21 Aug 2001):
>台風は、そう被害をもたらしていないみたいです。風の強い曇った日は、割と
>好きなので、今日は堪能したいと思います。耽美派?なTien。(爆笑)
『なぜか女性に間違えられる???』(No.7231 by くると)
『怒りを覚えた!』(No.7283 by ミッドランド)
えー、今回はちょっとだけ気になったことを。べつに「文章講座」というわけでもなく、深く考えた結果というものでもなく、前々から気になっていたことについて、ちょっと。
それは、自閉症方面の人には、感情表現に関する、共通する独自のスタイルがあって、それがいわゆる「健常者」にとって誤解のタネになっているのでは、という仮説です。
こんなことを思いついたひとつのきっかけというのは、手話において、「表情がその手話の一部をなす場合」に、健常者がその意味を誤解する、というケースが存在する、という話を知ったことです。で、もうひとつがMotoさんとひま人さんの「バカヤロウ」発言をめぐる論争だったりします。
冒頭に掲げた三つの文。それをあたし的なスタイルで書くと、こうなります。
>台風は、そう被害をもたらしていないみたいです。風の強い曇った日は、割と
>好きなので、今日は堪能したいと思います。耽美派?なMaria。爆笑。
>好きなので、今日は堪能したいと思います。耽美派(ぎゃはははは)なMaria。
>好きなので、今日は堪能したいと思います。耽美派なMaria(^_^;)。
『なぜ女性に間違えられる???』
『なぜか女性に間違えられる(???)』
『怒った!』
『怒りを覚えたこと』
なぜか。ここで悩みます。えー、これは「なぜか悩む」ではなく、「なぜ」かについて悩む、ということなのですね。お間違えのないように。
で……思うにですね、「話している自分」「自分を振り返っている自分」「自分を見ている他者」という三つのレベルにおける記述を、区別せずに書き並べているところに違和感があると思うのですよ。
ついでながら、「話している自分としての発言」←「話して自分を振り返っている自分としての発言」←「話している自分を振り返っている自分を振り返っている自分としての発言」←「話している自分を(中略)としての発言」というふうに、この階層はどんどん上がってゆくという点についてはコメントしておきたいと思います。
で、「(笑)」「(爆笑)」というのは、そもそも発言(演説とか対談とか)を文章にする場合に使われてきた表現なのですね。それでかどうか知らないけれど、なんとなく「他者」「第三者」から見た記述という感じで、「自分で自分を笑っている」という感じに見えないんですよ。だから、なんとなく「自分で自分を痛めつけている」みたいな感じで、痛々しく感じてしまう。
ついでながら、標準的な「(笑)」「(爆笑)」の用法をひとつ。ソニーの井深大さんのアメリカにおけるスピーチの冒頭から。
「……当地アメリカでは、通例、スピーチはジョークで始めるものとされています。しかしながら、日本ではエクスキューズ(謝罪)によってスピーチを始めるのが習慣とされています(笑)。私は、日本の習慣に従って、エクスキューズによってスピーチを始めることにします(爆笑)。このスピーチをジョークによって始めないことをお許しください(大爆笑)。」
で、『なぜか女性に間違えられる???』では、「なぜか女性に間違えられる」くるとさんがいて、さらにそれを「なぜだろう?」と振りかえるくるとさんがいるわけです。そんなわけで、『なぜか女性に間違えられる???』は、『なぜか女性に間違えられる。なぜだろう???』の省略形、と見ることができるのですね。それで、その二つの文の間で階層がひとつ上がっているわけです。それを明示的に示すには、『なぜか女性に間違えられる(???)』とするのが適切なのではないか。そう思うわけです。あるいは、最初から「なぜだろう???」と自分を見つめるくるとさんの立場から、『なぜ女性に間違えられる???』『なんで女性とまちがえられるんじゃー!』といった書き方をするという方法があります。
『怒りを覚えた!』の場合は、もっと複雑です。「怒りを覚える」という表現自体が、おそらくは「(笑)」「(爆笑)」と同じように、すでに「怒った自分」を離れた、他者・第三者の視点を表わすのですね。だから、「怒りを覚えた!」と書いてしまうと、「怒りを覚えたことに驚いた」みたいな意味になってしまいます。まあ、それは本文を見れば解釈として誤りだというのは分かるのですけどね。
こうした、「他者・第三者の言葉」に類するものとしては、「かぐわしい」とか「美しい」とか「美味な」とかいったものがあります。「かぐわしい!」とか「美しい!」とか「美味だ!」とかいうふうに、ワレワレのようなシモジモの人間は言わないのね。やんごとない方々というのは、「まあ、とてもかぐわしゅうございますわね」とかいってニッコリされるかもしれないけど。あたしらの場合は「おー、すっげーいい匂い」「うわー、きっれー!」「うめぇ!」であり、ひょっとしたら「ぐぉー!」「ぎゃー!」「殺せー!」だったりするわけです。
江戸前のギンポの天丼(知らないだろうな)とか松葉蟹の焼き蟹とか食べて「げー、これ何だよマジやべーよ嘘だろおいふざけんじゃねーよバカヤロ」とか怒りながら感動している人がいたりするのね。「うおー! 殺せー! 殺してくれー!」とか物騒なこと言ってる人もいるし。
で、こういった「『私』の言葉」の上に、「(←興奮している)」「(←ヘコんでいる)」とかいった、「見返り自己注釈文」ともいうべき表現があり、さらには「(笑)」「(爆笑)」あるいは先に挙げた「かぐわしい」「美しい」「美味なる」とかいった「他者・第三者の文章」がある。
で、あたしはこれを安易に自閉症方面の人間の「他者」概念の獲得の困難というところに結びつける気はないのですね。単に文章上のテクニックの欠如、と見ていいと思います。
だけど、健常者の人だったら、「そんなうるさいこと言わなくていいじゃん。分かるんだからさ」と言いそうな気がします。あたしの場合、意図はしていなかったにもかかわらず明確に使い分けていて、しかも使い分けていない文章を見てなんとなく引っ掛かるものを感じ、なんとかそれを論理的に説明しようという衝動がありました。
これって、たぶんAS的な感性だと思います。
(Maria)
くると wrote:
> お母様から見れば、偏っていて役に立たないコメントしか書けないわたしで
>はありますが、自分なりに気がついたことをコメントしてみたいと思います。
>これからも、よろしく!!
こちらこそよろしく!!!(^w^)
どらみさん wrote:
> 勝手に思い込んでたくせに、「なんだぁおとこかぁ 早く行ってよ!」
> と 内心少し がっかり、というか 女同士で かたってたつもりなので
> ちょっぴり 恥ずかしかった。
ですよね〜。わたしもわたしのことを女性と間違えていた女性からずいぶん
赤裸々なことを語られてちょっとショックを受けていました。
しかも、わたしが男だということに気がついたら、ちょっと距離を置かれて
しまった…。複雑な気分っす。
I wrote:
> こうした、「なんか気に入らない」「やってみたらぜってー面白い」と
>いった、「興味のままにものごとを掘り下げる」ことを、コンピュータ業
>界では「Hack」といいます。そう。本来「ハッカー(Hacker)」という
>のは、「徹底こだわり屋」みたいな意味なんです。
タレイヌさんwrote:
>そうだったんですか!
『ハッカー英語辞典』(自然社)によれば、
HACK VALUE noun. 一見無用な目的に努力をついやす理由または動機づけとして使われる語。達成された目的が hack であることがポイントである。
hacking の特徴は、「創意工夫の才を適切に応用すること」にあるといってよい。結果が拙速型のやっつけ仕事であっても、あるいは入念な職人芸であっても、その中で示された才気を賞賛しなければならない。
ということなのだそうです。
そんなわけで、「適切な方法で自己実現をしている人」はすべからくハッカーなのですね。イチローはバッティング・ハッカーだし、ジャック・マイヨールはダイビング・ハッカーです(映画『グラン・ブルー』あたりを参照のこと)。
(Maria)
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami