アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Maria wrote:
> ふーん。「大森研」ねぇ。「大森総合研究所」の略称は「大森総研」なんだけどね。なんか、どうでもいい感じが伝わってくるような気がして不快だなぁ……べつにどうでもいいんだけどさ。
失礼しました。
気を付けます。
#一瞬のうちに入れ代わってる
Maria wrote:
>シュッツさん wrote:
>>では逆に、Mariaさんたちは本当に分かりやすい文章を書いていますか?
>>ただし、世間一般の基準ではなく、「館の掲示板」でという条件においてです。
>
> シュッツさんのいう「本当に分かりやすい文章」というのは何ですか?
(中略)
> あたしたちの「文章のわかりやすさ」に対する考え方は、
>
> 『Re: 文書作成法』、No.3682、26 Mar 2001 by KILROY
> 『Re: 『にんげんゆうゆう』を見て』、No.3947、7 Apr 2001 by KILROY
> 『カキコ向上計画 4512へのコメント』、No.4513、1 May 2001 by Maria
>
>などの書込みに示してあります。
これらを否定するのではなく、他に重要な要素を加えて欲しいのです。
それは
>>ただし、世間一般の基準ではなく、「館の掲示板」でという条件においてです。
とわざわざ書いた条件によるものなのですが
「『暗黙の了解』や『裏に潜ませた意図』などのように、文字に表れない部分に意味を持たせることはしない、必要なことは文字に表す」
ということです。
ただし「館の掲示板」に来る人全てに必要な要素という訳ではなく、ADD、ADHD、LDのタイプであれば『裏』を読み取る可能性が高いかも知れません。
しかしASのタイプにとっては、上記の要素がないと、どうしても分かりにくくなってしまいます。
あるいは、勝手に筆者の意図とは違うことを想像してしまう可能性も高くなります。
発端となったシンタロウさんの記事では、これを満足しているとは言えないので、はっきり書いてくれたらいいのにとは、私も確かに思います。
しかし、書き込みをしたときの心理状態によってはその要求が緩くなるのもしかたないでしょう。
だから私は、自分なりに想像し、かつそれとは決めつけずにいろいろな可能性を考慮しようという立場をとっていることは既に書いた通りです。
それでは大森研の人の心理状態では緩くならないのかという疑問があるかも知れませんが、確かに私には他人の心理状態は分からないので、上記要素を厳密に要求してはいけない状態である可能性も否定できません。
ただ、一回の記事だけではなく、多くの大森研による記事を見ていると、本人が『裏』を存在を認めるような部分もあったりして、条件を緩めるような心理状態ではないだろうと、勝手にではありますが判断しました。
本当なら『裏』はないものとして読みたいのですが、『裏』があることを前提にされると、勝手に想像して分からなくなるし、『裏』がないものとして読んでいくと、中身がつながらなくなって、やはり分からなくなります。
また、逆のことも言えて、こちらが『裏』の意図など考えずに書いて、自分で読み直しても『裏』があるとは思えないので、その文章を「館の掲示板」に書き込んだ時に、思いつかなかったことを読み取られてしまうこともあります。
文章力がないということなのかも知れませんが、私は『裏』を考えずに読んだ時に意味がつながる文章を目指しているつもりです。
それからもう一つ
「例え話しを使うときは、どこからどこまでが例えで、どこが文字どおりに書かれた部分かを明確にして、例えと実際の対応をはっきりさせる」
ということです。
もっとも私自身が先程この点について、ちゃんと守れない書き方をしてしまったので、自分でも反省して気を付けなければとは思っています。
シュッツさん wrote in 『念のため』(No.7385、12 Sep 2001):
> ところがそんな人だと思っていたはずなのに、何故No.7235のような心無い
>発言が突然出てきたのかということが不思議でもあり、ショックでもありました。
>そのため、ついしつこく追求してしまいました。
まず、MotoちゃんはNo.7212において、「あーそーかよそりゃよかったなそれがどうしたバカヤロウ、みたいな気分だ」と、「自分は気分を害された」と表明しました。
それに対して、ひま人さんが、No.7228において、
>なぜ「バカヤロウ」なのでしょう?
と質問しました。
それに対して、MotoちゃんはNo.7235において、
> それでもこの文章に続きがあって、それについて自分がどう思ったとか、具
>体的にどこがどういかん、というのならまだ話もわかる。ところがこれが言いっ
>ぽなしである。後頭部にどこから投げられたか分からん石がゴツンと当たった
>ようなもんだ。
と書いています。「後頭部にどこから投げられたか分からん石がゴツンと当たったような」という表現から、Motoちゃんが「(心の)痛みを訴えている」ということを読み取るのは、そんなに難しいことでしょうか? もちろん、「いや、私は『「後頭部にどこから投げられたか分からん石がゴツンと当たった』場合、その場に昏倒するから何も感じない」とかいう人もいるでしょうが、普通は「痛い」というイメージを連想すると思います。もちろん、「いや、『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーに、『普通』を要求してはいけないのだ」という反論も可能です。なにしろ、シュッツさんによれば、『アスペルガーの館の掲示板』という場所は、
>> シュッツくん、きみは雰囲気が読めていないように見えるぞ。
>ここで雰囲気を読むことを求めること自体が「雰囲気が読めていない」ことに
>なるでしょう。
というような場所なのですから(No.7251による)。
そうすると、「それでもこの文章に続きがあって」云々の文章から、「私は『後頭部にどこから投げられたか分からん石がゴツンと当たったような』気分だから、『言っぱなし』にはせず、『それについて自分がどう思ったとか、具体的にどこがどういかん』とかいったメッセージを書いてほしい」といった意味を読み取ることは、期待してはいけないのでしょうか。
とはいえ、あさかぜさんはNo.7240で、
---
Mr.Motoが、わたしの言いたいことをほとんど言ってくださったので、付け加えることもないと思ってはみたものの……。
「僕のお母さんが〜(中略)〜言ってました」の、その先はどうしたのシンタロウくん? 自分はどう思ったの? 何を感じたの? わたしはそれが知りたいな。そうすれば、コメントのしようもあるから。
---
とおっしゃって下さっているので、少なくともあさかぜさんには通じているように思うのですが、それでは状況証拠として不足でしょうか。
ついでながら、
> 私はヌルい書込みが嫌いだ。
は、「おれはヌルい書込みなんざ書きたかねーぞ」という宣言として受取るべきものだと思います。なぜなら「ヌルい書込みをするな」という命令をしたところで、掲示板においてなんら意味がないことは、シュッツさんもNo.7242で
>個人的に好き嫌いがあるのは仕方ないですね。
>ただそれが掲示板の性質を決定することはないです(管理人を除く)。
のように述べている通り自明のことだからです。にもかかわらず、「ヌルい書込みをするな」と解釈することができる、と主張することは、No.7250でMotoちゃんが
> 私は「ヌルい書込みが嫌いだ。」と言っておるのだ。「ヌルい書込みをする
>な。」とは言っておらん。シュッツくんの発言は、私が個人的な好き嫌いによっ
>て掲示板の性質を決定しようとしている、という可能性を示唆しているように
>私には受取られる。
> 世間ではそういうのも「失礼だ」ということになっているようである。シュッ
>ツくんが知ってるか知らないか知らんが。
と指摘しているように、Motoちゃんへの侮辱と取られてもしかたがないように思います。それについては、シュッツさん自身がNo.7251において
>実際に示唆しているかどうかによらず、そう受け取られても仕方のない書き方を
>しています。
>そうみなされることは覚悟して下さい。
と言っている以上、覚悟すべきものです。
ちなみにMotoちゃんは、「ヌルい書込みをするな。」と受取られる可能性を否定してはいません。ただ、『Mr.Motoは「ヌルい書込みをするな。」と命令している』と決めつけられるのは不本意である、と発言しているわけです。
ということは、シュッツさんは思い込みによる一方的な決めつけによってMotoちゃんを攻撃していたと見なされてもしかたがないように思います。
シュッツさん wrote in No.7385:
> 大森研の人を目の敵にしているとか、敵視しているとか、嫌っているとか、
>そのようなことは一切ありません。
ふーん。「大森研」ねぇ。「大森総合研究所」の略称は「大森総研」なんだけどね。なんか、どうでもいい感じが伝わってくるような気がして不快だなぁ……べつにどうでもいいんだけどさ。
>だから私は学会での討論のようなつもりで書いてきました。
ふぅーん、シュッツさんは学会の討論で、思い込みによる一方的な決めつけによって相手を攻撃しちゃうような人なんだぁ……こういうこと言うと世間では「失礼」だとみなされちゃうみたいなんだけど、こういうのはやっぱり「覚悟」して言ってるんだからしかたないわよね。だけど、どこの学会なんだろ。ひょっとして草加……
黒Mariaさんモードだとお肌が荒れていけないわ。自戒自戒。
(Maria)
シュッツさん wrote:
>では逆に、Mariaさんたちは本当に分かりやすい文章を書いていますか?
>ただし、世間一般の基準ではなく、「館の掲示板」でという条件においてです。
シュッツさんのいう「本当に分かりやすい文章」というのは何ですか?
仮にあたしが「なるべく分りやすい文章を書くように心がけている」と答えても、シュッツさんが「いや、『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーには分かりにくいと私は判断しました」と言えば、水掛け論になってしまいます。
あたしたちの「文章のわかりやすさ」に対する考え方は、
『Re: 文書作成法』、No.3682、26 Mar 2001 by KILROY
『Re: 『にんげんゆうゆう』を見て』、No.3947、7 Apr 2001 by KILROY
『カキコ向上計画 4512へのコメント』、No.4513、1 May 2001 by Maria
などの書込みに示してあります。
(Maria)
Maria wrote:
>1)シュッツさんの文章が、おそらくは『アスペルガーの館の掲示板』の多くのメンバーにとって非常に難解であろうと推定される。
そうかも知れません。
では逆に、Mariaさんたちは本当に分かりやすい文章を書いていますか?
ただし、世間一般の基準ではなく、「館の掲示板」でという条件においてです。
遅れ馳せながら、testしてみました。
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当たってます...。
引続きテクニカルライティング講座です。ここで、Motoちゃんからコメントがありました。前回の書き込み(『Re: 気になっていたこと。』、No.7376、12 Sep 2001)の冒頭に掲げた、
シュッツさん wrote:
---
>『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みたいに見えてしまうのね。
の『』の中と
>「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
です。
後者の様に発言していて、前者は否定している。
私には同じように見えるのに、否定と主張という形をとっているということは違うということなので、何が違うのかを知りたかったのです。
面倒なら説明しなくてもいいです。
---
の部分は、『Re: 伝聞と解釈とその対応』(No.7352、11 Sep 2001)からの引用だということを示しておくように、です。
で、次。テクニカル・ライティングにおいては、「事実」と「意見」をごっちゃにするな、という有名な原則(←「有名な」というのはあなたがそう思っているだけじゃないの? みたいな話にもなりかねませんが、欧米の小学校(「小学校」という名前ではありませんが、日本の小学校に相当する学校では)におけるテクニカル・ライティングの指導においてしばしば強調される原則として、テクニカル・ライターにとっては有名な原則、です)があります。その観点からいうと、
---
> とはいえ、この「悪意」というものが、しばしば通じなかったりするわけですね。なにしろ、「てめーは俺に喧嘩売ってんのかよ(-_-X)」「あーら、そういうふうに読めまして?(-_^)b」みたいな陰険な関係を想定しておりますので、どうしても婉曲な表現になってしまうわけです。
「悪意」は難しいですよ。
簡単な人には読み取るのは簡単かも知れませんが、多くの場合には通じないと思った方がいいんじゃないでしょうか。
---
におけるシュッツさんの
>「悪意」は難しいですよ。
は、
>そのように婉曲な形で提示された「悪意」を感じ取ることは、私には困難です。
といった形で表現してほしかった、と思います。これでは、「誰にとって」難しいかという主語が抜けおちています。「そんなことは文脈から明らかだ」と言われるかも知れませんが、それに続く
> 簡単な人には読み取るのは簡単かも知れませんが、多くの場合には通じないと
>思った方がいいんじゃないでしょうか。
を読むと、この「多くの場合には通じないと思ったほうがいいんじゃないでしょうか」の解釈が困難になります。つまり、
1)多くの場合には「通じないと思ったほうがいい」んじゃないでしょうか。
なのか、
2)「多くの場合には通じない」と思ったほうがいいんじゃないでしょうか。
なのかということですね。
で、(1)の『多くの場合には「通じないと思ったほうがいい」んじゃないでしょうか。』であるとしても、(A)『「多くの人に対しては通じない」と思ったほうがいい』のか、(B)『「通じる」ことが明らかである場合を除き、「通じない」ことを前提として行動したほうがいい』のかが分かりません。
ところが、(A)に対しては、Motoちゃんをはじめとする多くの人々は、「多くの人に対して、悪意は厭んなるくらい通じる。伝えたくなくても通じてしまう」といった感覚を持っていそうに思います。これは「敵意が敵意を呼び、悪意が悪意を呼ぶ」という経験を多くの人がしていることからも明らかであるように思います。
そして(B)に対しては、「悪意をはっきりと表明することは、しばしば対話そのものを破綻させる」という経験則から、「対話を続行するための良好な雰囲気を大きく損ねることなく、悪意を相手方に伝える」という方法自体を否定することになります。
(2)についてコメントをするのは控えましょう。とにかくこれではシュッツさんが何を言いたいのかは不明です。
そこでテクニカル・ライティングの大原則。
「自分が理解していないことは書けない。」
これは、「分かりにくい文章を書く奴は、自分がそもそも理解していない」という経験則としても語られることがあります。
閑話休題。
そんなわけで、
>だから私は学会での討論のようなつもりで書いてきました。
とシュッツさんはおっしゃっていますが、ごく内輪の研究会などでこうした質問の内容が理解しがたい質問をすると、「勉強しなおしていらっしゃい」と冷たくあしらわれることが多いように思います。そうでない、もっと公式な学会の席においては、「その件については簡単にはお答えしかねますので、時間の都合上回答を省かせていただきます」とかいった感じで返答を拒否されることが多いように思います。したがって、「学会での討論」においても、「雰囲気を読む」、特に「相手の不快感・悪意を察知する」という技術はしばしば要求されます。
話は元に戻ります。
---
> 「相手の意図が分からない」あるいは「相手が意図を明確にしない」という事実を踏まえての対話、というものをシュッツさんは想定していないようにお見受けします。
もちろん想定していません。
そんなものを想定してしまったら、主題がぼけてしまって、議論にならないからです。
---
シュッツさんが引用した文章は、以下のような文章の一部です。
---
「相手の意図が分からない」あるいは「相手が意図を明確にしない」という事実を踏まえての対話、というものをシュッツさんは想定していないようにお見受けします。「こいつ馬鹿だな」と思っても、分別ある大人は「あんた馬鹿?」とは言いません。中国政府だって、「南京大虐殺」や「靖国神社・A級戦犯合祀問題」を、「日本から援助を引出すための単なる外交カードでしかない」と思っていたとしても、それは言わないでしょ?
---
『Re: 伝聞と解釈とその対応』(No.7344、11 Sep 2001)
まず、
1)シュッツさんの文章が、おそらくは『アスペルガーの館の掲示板』の多くのメンバーにとって非常に難解であろうと推定される。
というのがあります。「いや、本人にとってはそのような認識はない。私は誰にでも分かるような文章を書いている」とシュッツさんは主張されるかも知れませんが、それを言っちゃうと議論にならなくなってしまうので、置いておきます。
2)その結果、Motoちゃんを含めた『アスペルガーの館の掲示板』の多くのメンバーは、「このシュッツなる野郎は、自分でも何言ってんだかわかんなくて、ただゴネたいだけなんじゃねえのか?」といった疑念を抱きうる。
3)そこで、Motoちゃんがシュッツさんに「てめーは自分でも何言ってんだかわかんなくて、ただゴネてえだけなんじゃねえのか?」と質問したとしても、それが事実であろうがなかろうが、「いや、そうではない」という答えが返ってくることが強く予想され、しかもそうした質問は、対話という行為そのものをぶち壊してしまう可能性がある。
4)したがって、Motoちゃんはシュッツさんの意図がどういうものであるかについての判断をとりあえず保留して、議論を続ける以外に、対話を維持する方策がない、と強く推定される。
5)しかしながら、こうした状況は、Motoちゃんにとってはなはだ不快な状況である。しかしながら、その不快感の原因が(3)に起因するものである以上、その状況を相手方(すなわちシュッツさん)に説明するのがためらわれる。
6)そんなわけで、Motoちゃんとしてはシュッツさんに「もっと分りやすい文章を書いていただきたい」と要請する。このことは、間接的には(3)で述べた状況において、シュッツさんが「自分はただゴネているだけではなく、積極的に議論を進める意志がある」ということを明確に示すことと同等の効果を持つ。しかしながら、それをあからさまに表明することは、対話を維持することにとってマイナスであろうと推定されるので、そのことに対する示唆は行なわれないか、あるいは婉曲な表現によってい示される。
7)ところが、シュッツさんは、
>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
といった発言をしており、それはMotoちゃんの
> 音楽も文章も自己表現の一部であり、おれはその「表現」について問題にしている
>のである。
という発言を受けたものである以上、「私は可能なかぎり『分りやすく』表現をしているので、それ以上の『分りやすさ』を要求されてもそれに応えることができない」と答える可能性がある。
……こんなわけで、議論は堂々巡りに陥ってしまうのね。
で、こういう堂々巡りの議論に落ちこむような論旨の展開をするのは、健全な対話を望んでいるものの態度ではないと判断されてもしかたがないと思うのですよ。ところがそれを、そうした展開をしている当人にぶつけても、「いや、私は健全な対話を望んでいるのだ」と応じられた場合、またしても「相手方が健全な対話を望んでいるかどうかの判断」を保留して議論を進めざるをえなくなる、ということなわけです。
このタイプの堂々巡りを、「再帰的議論(リカーシブな議論)」あるいは「頭山的議論」と呼びます。
教訓。「自己言及はするな」。
(Maria)
自分で例え話のやり方を書いておきながら失敗してしまったようです。
おわびして、説明いたします。
Maria wrote:
>>「100mを20秒で走る」ということは多くの人にはできても、足の悪い人に
>>とっては無理なことですが、「全力で走れ」であれば、他の人から見れば遅くて
>>もその人なりの最速の意味で可能です。
「走る」という言葉は「足の悪い人」の場合です。
その限定が分かりにくかった様です。
>といったようなことを言っているが、うちのJoshya氏は心臓病持ちだから、下手に全力疾走などしようものならばったり倒れて死ぬ危険性がある。したがって、その「全力で走れ」の意味するところを明らかにしてもらわなければ困るのである。火災現場から脱出するために「全力で走る」のと、心臓のリハビリテーションのために「(本当は歩いたほうがいいのだが)もっとも効果的に心臓の機能を回復するために全力を発揮する」のとは別問題なのである。
心臓病を持ち出したのは私ではなく、Moto氏です。
私は「心臓病」と「走る」ことをむずびつけたつもりはありません。
「心臓病」だけでなく、「心」の問題やその他もろもろの、人が抱える問題にむすびつけようとしたのは「全力で」の部分だけです。
その区切りが曖昧だったようです。
> これは、学習と訓練によって手に入れられる「技術」です。「才能」の関わる部分は、それほど多くないように思います。自動車の運転技術と比較しても、難しいものだとは思えません。
「技術」がないと言われればそれまでですが、「難しくない」ことはない技術だと思います。
最近の記事を通じて、私が大森研の人をどう見ているかについて、誤解をされているのではないかと思って、少し書かせていただきます。
誤解などしていないということであれば、私の取り越し苦労ということでかまわないのですが。
大森研の人を目の敵にしているとか、敵視しているとか、嫌っているとか、そのようなことは一切ありません。
私と意見は違っていても、不合理な意見を持ち出している訳ではなくて、ちゃんと論理的に導いた信念を持っていると、私には感じられました。
また言葉は悪くても、優しい視点で見ているとも思っていました。
ところがそんな人だと思っていたはずなのに、何故No.7235のような心無い発言が突然出てきたのかということが不思議でもあり、ショックでもありました。
そのため、ついしつこく追求してしまいました。
ですので、私が議論の対象としていたのは、今回の「お母さんの一言」のテーマについての見方であって、大森研の人を直接批難したものではありませんし、他の発言全てについてもれなく言及するということもありません。
それだけ協調しておきます。
みどり wrote:
>うぅ NY の事件、こわい。
>
今頃アメリカの子どもたちは、すごいショックだろうな・・・
なんせ110階建てのビルが、2棟も跡形もなく崩れ去って、大勢の人が死傷したうえに、ペンタゴンまで炎上するなんて・・・
自分の乗っている飛行機が乗っ取られて、凶器変えられないか結構不安なんじゃないかな・・・
るう wrote:
>すみません、私、関係ないのですが、質問させて下さい。
るうさん,ごめんなさい。〇〇さんwroteとか入れるべきだとは思ったのですが,余裕(色々と)の無さと個人攻撃をあらわにせずに抽象化してしまいたいという欲求のせいで,飛ばしました。夜中にPC点けるのは異例のことで,「夜半に嵐の吹かぬものかは」の性急さ。露骨にADDですよね。つい,飛んでしまい,きちんとした足跡をつけるのはとても苦手なのです。
で,落ち着きを何よりも必要としている私には,AS の人の分析的思考力には羨ましさを通り越してあきれてしまい,配慮するところまでは手が届きません。が,大森研究所の人の饒舌はおもしろくて勉強になり,そしてシュッツさんの頑健さにはついていけないのです。
ところで皆さん,”ASは共感を犠牲にして集中力を手に入れる”は私見ですが,いいのでしょうか?落ち着けないとADD,気に入ったところにはまるとASになるんでしょうか?
>武田好史 wrote:
>
>あなたの思い出のアニメーションは、何ですか?
ほんとうにちっちゃいころ、(それがいつごろだったかもわからないけど)みつばちハッチがすきでした。
ハッチの顔しか覚えてないけど。
それとガッチャマン。
あと、海のトリトン。
それからタイムボカンシリーズが大好きで
ポールのミラクル大作戦の絵のかいてあるタオルケットは大のお気に入りだった。
一番よく覚えているのはヤッターマン。
(ヤッターワンのおもちゃを持っている。こないだ、おしおき三輪車のフィギュアを買ってしまったわたしです。えっさほいさえっさほいさえっさほいさ♪)
あと、デビルマンもすきだったなぁ。
ゲゲゲの鬼太郎もすきだった。
20歳をすぎてハマってしまったアニメは
地獄先生ぬ〜べ〜。あの眉毛に惚れた!!?
ちなみに彼はついこないだまで、おじゃる丸にハマってました。
彼はガチャガチャが大好きで、いっぱい買ってダブるとわたしにくれるの。
なのでちっちゃい電ボとかがうちにはたくさんあります。
今彼がハマっているのは、チョコラザウルス。
アニメは明日のジョー(ビデオ)です。
さきほど、ノドがかわいて、
ジュースの自動販売機に飲物を買いにいこうと外に出ました。
ふと見上げると
台風の去ったあとの夜空に、星がまたたいて、すっごくキレイでした。
(ここ川崎は空気が悪いので、ふだんはほとんど星が見えないんで
す。)
オリオン座や、冬の大円弧が見られました。
・・・
そうそう、ずっと前に書いた、"わたしが道を歩いていると、なぜか向こうから歩いてきた男性にツバを吐かれることがなぜか多い"という件なのですが
最近、そのナゾが解けました。(いや偶然なのかもしれないけど)
わたしの、歩くときの姿勢にもしかしたら問題があったのかもしれません。
それに気を付けるようにしたら、
とたんに唾を吐かれなくなり、自転車などにも自然に避けてもらえるようになりました。
以前のわたしはいつも、空を見上げるような、あごを前に突き出すような顔の角度で歩いていることが多かったようで、
つまり前方からくる人に対しては、下目づかい(?)で見ている(つまり、見下しているというか、ナマイキな態度)というふうにとらえられた可能性があります。(←たんなる憶測だけど)
(不本意ながら)あごを引き、うつむき加減で、上目づかいで前方をまっすぐ見ながら歩くようにしてみたところ、唾を吐かれることがなくなりました。
わたしはこどものころから、自分ではまっすぐしているつもりが首を傾げていたり、あごを突き出すような顔の角度になっていることが多かったみたいで、よく親に注意されていました。
なるべくヒトマエでは気をつけていたつもりでしたが、
意識しない単なる通行人とかの前ではついつい気を抜いてしまいま
す。
いや、でも、本当にそれだけが原因で唾を吐かれていたんだろう
か・・・。
と、思うけど、人通りの少ない道で、ほっとして気を抜いて、首を後ろに倒し、上を見て歩いていたら、向こうから来た人にやっぱりじろじろ見られました。
みどり wrote:
>http://www.da.il24.net/~noby/karisuma/sindan.htm
>
>診断モノが大好きで、見つけるたびについやってみるのですが、上のサイトで性別判断したら、しっかり「男性」にされました。
>
わたしもけっこう好きです、こうゆうサイト。
さっそくやってみたら、
女性50.6%
男性49.4%
ってゆう結果で、かなり男性に近い女性!?だそうです。
まあ、なぜかしら、意外な結果ですこと、おほほほほ…。
syakuさんへ
すみません、私、関係ないのですが、質問させて下さい。
syakuさん wrote:
>壁の中で思考ゲームをしているだけの人がそれにぶつかるのは見るに堪えない。
↑これって誰が何をしてしまったことを指すのですか?
本当にヨコヤリ入れてすみません。
るう
>「だれでも自分の親のことを言われるのはいやでしょう?」というのは
>非自閉の捉え方です。
>しかし本当に親が悪い箇所は、指摘されても不愉快にはならない。
>本当のことなのだから。
このへん同感です。
>その時に「なぜ、この掲示板で、母親からの小言を聞かなくては
>いけないんだ。いつも家で母親から聞いているのと同じような
>ことを書かないでくれ」という反応が強く起こりました。
すると、私が例示した
>「自分の母親が同じような反応を(中略)ただの嫌な言葉」
は、やはりありがちな反応だったのですか。
以下、親御さんたち向けです。
この「ありがちな反応」は、自閉人は非自閉人の「論理」というか、親心が理解できない(と言い切ると誤解を招くが)ところから生まれるものです。そうとわかってしまえばこの種の反応を引き出さない方法は簡単にわかるでしょう。
つまり、心配を前面に押し出すのではなく、常識を理論付けて、理屈っぽいアスペに合う形で提示すれば、少なくとも敵対的な「小言」ととらえられることはなくなります。従って、頭から拒否される可能性は目にみえて下がるでしょう。
もっとも、そうして提示された親御さんの警告が自閉人に受け入れられるかどうかは別問題という悩ましい欠点は残ります。たとえば、自閉人は「他人からどう見られるか」ということに本質的に無頓着ですから、人目を根拠にしても「人は人、俺は俺。俺は我が道を行く」とか言って無視されるのがオチです(少なくとも私はそうしていました)。児童期であれば、アスペルガーがやったように、一般法則として提示する方法(自閉症とアスペルガー症候群』ウタ・フリス編著/冨田真紀訳/東京書籍 120ページ)が有効でしょうが、青年期以降に診断されたケースだと、手の内を見透かされてしまって終わるかもしれません。
それでも、頭から無視されるよりははるかにましだと思うのですが。
もう一つの問題は、常識の理論化は普通の親御さんには荷が重いかもしれないということです。私は自閉人なので、非自閉人にとっての「常識の理論化」はどの程度難しく感じられる作業なのか感覚がつかめないのですが、このへんはどんなもんなのでしょうか。
注意
自閉人が「親心」を理解できないのは、それが感情(愛情?)として提示された場合のみです。社会の現状分析並びに将来予測と、そこからよりよい未来を引き寄せるための対策の提示などの形を取り、感情を排して客観的に理詰めで示されれば、自閉人にも十分親心が通じるでしょう。
申し訳ありませんが、我々はこういう人種なのです。(可能な方は、前掲書99ページ「治療教育への示唆」もご参照下さい。我々と非自閉児との違いが書いてあります。)
「普通のお母さん」にはおそらく大変な、ある種耐え難い作業になろうかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
……唐突ですがJJさん。『Re: 気になっていたこと。(補足)』(No.7320、10 Sep 2001)でご質問のあったテクニカル・ライティングというものが、どういうものであるか、ということについて、実例に沿ってご説明いたします。
シュッツさん wrote:
---
>『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みたいに見えてしまうのね。
の『』の中と
>「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
です。
後者の様に発言していて、前者は否定している。
私には同じように見えるのに、否定と主張という形をとっているということは違うということなので、何が違うのかを知りたかったのです。
面倒なら説明しなくてもいいです。
---
これを「理解しろ」というのはいささか無茶という気がします。できれば、(あくまで「それが可能ならば」です。念のため)、せめて以下のように書いていただきとうございました。もっとも、シュッツさんは「そういう意味で書いたんじゃない」って言うかもしれないけど。
---
私が『Re: お母さんの一言』(No.7304、10 Sep 2001 by シュッツ)で書いた、
>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
という文章を、『Re: お母さんの一言』(No.7318、10 Sep 2001 by Maria)において、
>>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
>
>と書いています。これを読むと、Motoちゃんが『結果的に鍛えた状態が、他人から
>見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みた
>いに見えてしまうのね。だけど、Motoちゃんは、『結果的に鍛えた状態が、他人か
>ら見て低いレベルであるならば、結果から「鍛え方が足りない」とみなされること
>が往々にしてあり、それは場合によっては正当でもある』ということを言っている
>だけなの。
と否定しているにもかかわらず、『Re: お母さんの一言』(No.7254、7 Sep 2001 by Mr.Moto)において、
> 音楽も文章も自己表現の一部であり、おれはその「表現」について問題にしている
>のである。「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
>うちのJoshyaに至っては心臓病持ちだから下手に走るとばったり倒れて死ぬ。「どう
>結果を出すか」について論じるのは悪いことではあるまい。
のように主張しています。
この二つは私には同じように見えるのに、否定と主張という違った形をとっているということは、おそらく「違う」ということなのでしょう。そこで、何が違うのかを知りたかったのです。
もしも説明が面倒ならば、説明してくださらなくても結構です。
---
まあ、これでも何を言いたいのかはあまりよく示されていないように思うのですが、それでも、
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『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであるならば、結果から「鍛え方が足りない」とみなされることが往々にしてあり、それは場合によっては正当でもある』がゆえに、結果を出すべく訓練を積むなり技術を磨くなりしたほうがいい、ということをおれは言っているのである。
シュッツさんは『Re: お母さんの一言』(No.7251、7 Sep 2001)において、
>「100mを20秒で走る」ということは多くの人にはできても、足の悪い人に
>とっては無理なことですが、「全力で走れ」であれば、他の人から見れば遅くて
>もその人なりの最速の意味で可能です。
といったようなことを言っているが、うちのJoshya氏は心臓病持ちだから、下手に全力疾走などしようものならばったり倒れて死ぬ危険性がある。したがって、その「全力で走れ」の意味するところを明らかにしてもらわなければ困るのである。火災現場から脱出するために「全力で走る」のと、心臓のリハビリテーションのために「(本当は歩いたほうがいいのだが)もっとも効果的に心臓の機能を回復するために全力を発揮する」のとは別問題なのである。
つまり、「目標設定」→「努力」→「結果」という関係がそこには存在するのであり、「本人が求める結果」と「他者が期待する結果」が異なっているならば、『「努力」→「結果」』という関係のありようも、また異なってくるということなのである。
「他者が期待する結果」に対して本人が結果を出さず、「他者が期待する努力」を本人がしていないならば、おそらくは「努力が足りないから結果が出ないのである」と判断される。それは他者が期待する結果において正しい。しかし、本人は別の結果を求めて努力しているのである。その努力を他者に「認めよ」と要求したとしても、「私はそうした結果を求めているのではなく、そうした努力を求めているわけでもない」と言われれば、それまでなのである。
「私は、自分がASであることをまず認めたうえで、自分にとって最善の生き方をすることによって幸福になりたい」と望む子供に対して、「『ASであること』を認めたうえで幸福になる方法などは存在しない。まず『ASであること』を克服し、『普通の人間であること』になることで、幸福になるしかないのだ」と反論する教師は、少なからず存在するように思う。
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くらいの反論は、できるのですね。で、こんな感じで書いてあれば、他の『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーにだって分りやすいし、ツッコミだって入れられる、ということなわけです。
これは、学習と訓練によって手に入れられる「技術」です。「才能」の関わる部分は、それほど多くないように思います。自動車の運転技術と比較しても、難しいものだとは思えません。
(Maria)
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