アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
まろんすさんwrote:
> こんにちは。
>去年の秋に横浜のある自閉専門クリニックを予約したのですが
>最初は「1年待ちです」と言われてたのですが
>1年経ってもなかなか連絡が来ないので
>確認の電話をすると
>初診の順番が「今年の暮れか来年の始めになる」と伸びてしました。
都心部の病院はどうも待たされてしまうことが多いみたいです。ちな
みに今から予約を入れなおすと、さらに待たされてしまうことがあるの
で、注意が必要です。
>そこで、みなさんにご質問ですが
>横浜か湘南近辺で大人の自閉を扱ってくれる所を知りませんか?
ひとまず、地元の保健所に問い合わせてみることをお薦めします。「
成人の発達障害に対応している医療機関はないか?」と電話で確認して
みてから、教えられた医療機関に連絡しておいた方がいいです。
この確認作業を怠ると、病院をたらい回しになって極めて不快な思い
をする場合があります。わたしがまさに2次障害が深刻だった時にたら
い回しになり、深刻な病院恐怖症と医療不信に陥って事態がさらに悪化
したことがありました。
こんにちは。
去年の秋に横浜のある自閉専門クリニックを予約したのですが
最初は「1年待ちです」と言われてたのですが
1年経ってもなかなか連絡が来ないので
確認の電話をすると
初診の順番が「今年の暮れか来年の始めになる」と伸びてしました。
そこで、みなさんにご質問ですが
横浜か湘南近辺で大人の自閉を扱ってくれる所を知りませんか?
ちなみに今年、東海大学病院に電話で問い合わせしたら
「大人の自閉はやってない」と言われました。
(しかも、うちからは東海大学病院はバスでしか行けない・・)
デボラ・タネンさんという言語学者さんがいて、以下のようなことを言っている。
1)メッセージには、不可避的にメタ・メッセージが伴う。
2)メタ・メッセージとメッセージの関係(これを「表現のスタイル」と呼ぼう)は、人によってそれぞれ異なる。
3)誤解(夫婦間の誤解は特に)は、表現のスタイルの差から生まれる。
ちなみにデボラさんは離婚経験者で、一度めの結婚が破綻したのはこれが分かっていなかったのが原因だった、と言っている。詳しくはデボラ・タネン著/田丸美寿々訳、『「愛があるから…」だけでは伝わらない わかりあえるための話し方10章(THAT'S NOT WHAT I MEANT!)』、講談社を参照されたい。
「まったく、嫌な天気だな!」
「それは私のせいですか?」
とかいった会話の場合、「私は不快感を共有してくれる程度に君が私に共感してくれているものと期待している」「私はあなたに共感していないので、あなたの不快感を共有したくない」といったメタ・メッセージがやりとりされている、と考えても、それほど見当外れではあるまい(←自分で「予防線を張らない」と宣言していてこれだ。我ながら困ったものである。なお、「それほど見当外れではあるまい」というのは、「それは勝手な決めつけだ」というツッコミに対する予防線である)。
あるいは、
「まったく、嫌な天気だな!」
「奥さんと喧嘩したんなら、早めに謝ったほうがいいですよ?」
みたいな会話では、「まったく、嫌な天気だな!」という言葉から、また別のメタ・メッセージを読みとっている。
話をややこしくするのは、メタ・メッセージの部分は主に無意識に担われていて、メッセージの部分は主に意識に担われていることである。そんなわけで、メッセージを発した本人は、そこにどんなメタ・メッセージが込められているか意識していない場合が往々にしてある。
つまり、
「宿題は終わってるの?」
「うるさいな! やればいいんだろ! やれば!」
とか、
「宿題は終わってるの?」
「俺だってたまにはちゃんと勉強することくらいあるんだよ!」
とかいった会話が会話として成立する陰には、「宿題は終わってるの?」というメッセージが、「あなたは宿題が終わってもいないのにのんびり遊んでいるんじゃないでしょうね?」という「猜疑」のメタ・メッセージがそこに込められている、と解釈されたという理由が存在するのである。で、「宿題は終わってるの?」と言ったときには猜疑心があったとしても、それは意識されていないために、「そんなこと言ってないでしょう!」みたいなことを本気で言ったりなんかもするわけなのである。
で、「メタ・メッセージなどという面倒臭いものを考慮するからいかんのだ。そんなものは無視してしまえ」といったことを言う人もいる。「単なる情報提供と思えばいいでしょう」という立場だ。ところがそれではなかなか世の中が渡りづらい。メタ・メッセージを無視された相手が怒り狂うからである。
ある人物の「印象」というのは、この「表現のスタイル」による部分がかなり大きい。これは逆にいうと、自分の印象に合わせた表現のスタイルを用いないと、自分の意図するメタ・メッセージが伝わらない、ということでもある。これはまた「自分は相手にどんな印象を持たれているか」が分からなければ適切なコミュニケーションができない、ということでもあり、「自分のキャラを立てる(堅固な表現のスタイルをアピールする)」ことが重要だ、ということでもある。
ところが、多くの人は、相手も自分と同じ「表現のスタイル」を取っていると判断しがちで、それが男と女の誤解の原因になっている、という指摘がされている。
『人類学者のモールツとボーカーによれば、男と女は異なったスタイルで、聞いていることを示す。たとえば、女は相づちを打つ頻度が男よりも高い。だから男が聞き役だと、信号が少なすぎて、女は耳を傾けられていないと感じる。逆に女が聞き手だと、合の手の度が少なすぎて、男は話をせかされる(または邪魔される)と思う。
さらに悪いことに、相づちの意味が両者で異なる。傾向として、女は単に「聞いている」「理解した」という合図で使う。だが、男は「合意」のしるしで用いる。男の使用回数が少ないのは、男女を問わず、相手への「合意」は「理解」ほど頻繁でないためだろう。
「そうね、そうね」と聞いていた女が、結局は反対意見だったりすると、男はだまされた気になる。一方、耳は傾けても合意できない場合、男は相づち不足となり、女からは聞いていないと責められがちだ。』(前掲書より)
これは日本人にはあてはまらないが、男→アメリカ人/女→日本人と置き換えると、かなりありがちな状況となる。
「あの人の言うことは分かりにくい」というのは、「あの人の表現のスタイルが理解できない」という場合の他に、その人の表現のスタイルを誤解しているという場合がある。あるいは、「あの人の表現スタイルは私と同じではない」ということだったりすることも、往々にしてある。
そんな訳で、話題はこの「表現のスタイル」というものに移ってゆくのである。
(KILROY)
一穂ちゃん wrote:
>Motoさんから見れば、これもポイントをはずしたツッコミなのかもしれないけど、
>わたし、善良なんて言われても、ちっとも嬉しくないです。
>とてもバカにされてるかんじがしてフユカイ。
>
>Motoさんの言ってる意味での、"わざと話を混乱させようとして意図的にはずした
>ツッコミをする"ことが悪意があることだ、とするなら、まぁ、わたしはそこまでは
>考えちゃいない→つまり善良、ということになったんだろうけど、ひとにレッテル
>を張るときは気をつけた方がいいと思うじょ。
法律上の言葉で「善意の第三者」っつー言葉があってだね、「『こいつぁ狙ってやってるな』的ツッコミ」に関しても、尻尾をつかむまでは原則として誠意ある対応をする、ということだったりするのである。
ヒトラー政権を支えたのも「善良なる市民」だった。そういう意味で「善良なメンバー」が一穂ちゃんにとって皮肉に聞こえたとすれば、それはそれで健全な感性だと思う。無定見、付和雷同といった「大衆」の特性というものが「善良なメンバー」という言葉にはイメージとしてまとわりついていそうに思う。
ただし私にはそういう意図はなかったが。
>たしかにわたしはいつもポイントはずしちゃってますよ、悪気はないとしても。
>でもそれを善良だなんて、それこそ誤解です。
本人が認めている以上、一穂ちゃんがときどき(「いつも」ではないと思う)ポイントをはずしている点については私は認めざるを得ないが、非常に「おいしい」という点については私は非常にうれしく思っている。
Maria wrote:
> 蝗(いなご:成虫)、蚕蛾(かいこが:蛹)、髪切虫(かみきりむし:幼虫。
>別名・鉄砲虫)、黒雀蜂(くろすずめばち:幼虫。俗に「ヘボ」)、蜻蛉(かげ
>ろう:幼虫。別名・ざざ虫)、蛇蜻蛉(へびとんぼ:幼虫。別名・孫太郎虫)……
>
> ああっ、ぶたないで。
『虫が好き』、No.7190、4 Sep 2001
といった具合に狙ってハズしている奴もいるのだが、作為が入っているだけによく考えるとサムい。そんなわけで、
>Motoさんこそ善良な人ですよ。
というのは当たらないと私は思っている。私自身も心の奥底にドロドロを抱え込んではいるのである。だからこそ、
>わたしはMotoさんがここで言ってるようなことは、
>わたしなりに解釈していますが、それを言ったらたぶん傷つくと思うので言わない。>というか言えない。ことが多い。
といったようなことも言える……というか、こういうことを言うために私がいる。
>だって言ったことは全部自分に返ってくるからね。
>自分を守ることも必要です、だってそんなに強くないもん。
まあ、おれだって好きで強くなった訳じゃないのだが、自分に返ってくるものはべつに悪いものだけではない。だからこそこういったろくでもない役割(おれ自身はたいそう気に入っている……というより、そのためにこそおれが存在しているのだが)を引き受けているのである。これがJoshya先生やMariaだったら、やはりツッコミを入れる方にも遠慮があろうというものである。
>が、ここまで言ってしまたので、口をすべらしてしまうと、
>わたしは、こうゆうのはすべてMotoさんの、自分に対する言い訳に聞こえて
>しまいます。
>
>なぜ自分の文章がそんなにわかりにくいかを、いちばん大事な点を考えること
>を避けるための遠回りをしているだけ、に聞こえてしまうのです。
私は「そう簡単におれが言っていることが分かってたまるか」と思っているので、中途半端なところで分かったようなつもりになってほしくない、という思いがおれにはある。そんなわけで、私は意図的に「わかりにくい」文章を書いている部分もある。
>なぜ、ポイントをはずしたツッコミをされてイライラするような目にあうのかと
>いえば、それは、 "わかりにくいから"。
>相手の悪意のせいというよりも、それは自分の文章が誤解されやすいから。
>それに気付いているから、わかりやすさについて考えようとしているのでしょう。
>でもそれは、論じて定義づけしてもしょうがないことです。
>"わかりやすさとはなんなのか"
>あなたが出した答えに、ここのひとたちはもしかしたらそれで納得するかもしれ
>ませんが、それこそひとをバカにしています。
すでに述べたことではあるけれど、単一の「わかりやすさ」などというものは存在しないと私は思っている。むしろ、「わかりやすさ」の多様性を論じたうえで、「じゃあ、われわれはどうしたらいいのか?」を考えるないとまずかろう、ということを言っているのである。
>ひとが読んで、わかりにくいと言ったら、それはわかりにくいんです。
>自分の文章はわかりにくいんだ、と認めるしかないと思います。
>まず、それをせずにいくら論じたところで何も解決しないのでは。
「私が読んで、わかりにくいと感じたら、それはわかりにくいのだ」という立場は確かに認める。ただ、「わかりやすい説明」というのは、私の経験上けっこう高い確率でウソであることが多く、「本当のこと」をちゃんと説明しようと思うとけっこう説明はややこしくなるのだ。だから、「ここからは重要なことだから、少し立ち止まって考えてくれ」という意味で、わざと「わかりにくい」表現をすることもある。
>被害妄想っぽい受け取り方、してませんか?
している。
「私が読んで、わかりにくいと感じたら、それはわかりにくいのだ」といったような発言は、だいたいにおいて「<お前>の言うことなんか認めねーぞ」を意味すると思っている(一穂ちゃんのことを言っているわけではない。念のため。Makichanについてはちょっと意識している)。
「少なくとも『私にとってわかりにくい』というのは、私にとって切実な事実だ」ということであれば、KILROY氏にネタを振って「その人にとって分りやすい説明」をすることで対応したいと思っている。KILROYや大槻いつきさんも指摘しているように、「自分にとってわかりやすい説明」が、「他の誰かにとって分りやすい説明」であるとは限らず、「ある特定のグループの人にとって分りやすい説明」であるとも限らない。したがって、「それはわかりにくいのだ」の主語(本当は主語ではない。主語は「それ」である。「主体」というのがおそらく正しい)をはっきりと書かない、というところに意図的なものを感じてしまうのだ。
私自身は「てめえの言ってることなんざ金輪際理解なんかしてやるもんか」と思っている奴でも納得せざるを得ないような説明を求められることが多く、何を言っても「言っていることがさっぱりわからない」の一言で蹴っとばされる、という経験をしてきた。おそらくはこの『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーの多くは同じような経験をしているはずである。
親や教師が「わからない」という場合、「わかりたくない」「わかっちゃうと都合が悪い」の言い換えでしかなさそうなケースがしばしばある。「その言い方はないだろう」とかいうのも、じつは「言い方(表現)」が問題なのではなく、「言っている内容(意味)」が気に入らない、ということだったりもする。
自分が「善良」でないことをよく理解している人間は、実効的な意味でかなり「善良」である。自分が「善良」だと信じ込んでいる人間は、実際問題として「善良」だなととはとても呼びたくない人間だったりもする。
「善良」の一語のみを取りあげてもこれだけ解釈に幅がある。「わかりやすい」ということはどういうことか、についての「わかりやすい」説明などというものはなく、おそらくは結論すらないのであろう。ただし、「わかりやすい」ということはどういうことか、ということを考えることは有意義であると信ずる。
そのための「模索」「手探り」「足掻き」を表現するためには、(不本意ながら)「わかりにくい」表現をとらざるを得ないように思う。まあ、可能なかぎり「わかりやすい」表現を心掛けるにしても(←これは「わかりやすく」表現する努力を放棄しない、という意味である。念のため)。
>良薬口に苦し、ってゆう言葉がありますよね。
「諫言耳に逆らう」のほうが、適切かも。「言わぬが花」「真実は人を傷つける」というのもあるが(^_^;)。
「千振(せんぶり)」を愛飲している私としては、「良薬口に苦し」という言葉はじつに身に迫るものではあるが、自分が好んで飲むぶんにはまことにもっともだと思うのだけど、人に無理矢理飲ませるときに言う言葉ではないように思う。そんなわけで、「言葉が」より「言葉も」のほうが無難な表現だと思う。
(Mr.Moto)
一穂さん wrote:
>Mr.Moto wrote:
>>一穂ちゃんや大槻いつきさんをはじめとする善良なメンバー(「善>良なメンバー」ではなく「女」の間違いじゃねぇのか?)のツッコ>ミに関しては、たとえポイントを外していても極力誠意ある回答を>心掛けるつもりである。
>
>Motoさんから見れば、これもポイントをはずしたツッコミなのかもしれないけど、
>わたし、善良なんて言われても、ちっとも嬉しくないです。
>とてもバカにされてるかんじがしてフユカイ。
私も一瞬そう感じたけれど、「『たとえ』ポイントをはずしていても」って言葉で、
実際にちょくちょくポイントはずしてると言ってるわけじゃない、と解釈しました。
自分でも、ポイントはしょっちゅうはずしてると思うけど。
私がMotoさんの書き込みで気になったのは、自分のことよりも、
最近のMotoさんが「悪意のある」外しかたをしてると思ってる人の中にも、
全然そんなつもりはない人もいるかもしれないなぁ、とゆーこと。
健常者ならば、枝葉末節に拘泥してしつこく追求してくるのは「こいつをちょっといじめてやろう」
と考えてる場合が多いでしょうが、
このアスペルガーの館では、単純に
「ここってどーゆー意味なんだろう? 本題には関係ないけど、気になる気になる気になるーっ!!」
って思って、つっこんでる人も多いと思うのです。
シンタロウ wrote:
> なんで僕を責めるの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を叱るの?・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を傷つけるの?・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんでほめてくれないの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さん僕が嫌いなの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を無能扱いするの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで怒るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで怒鳴るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> 僕はいらない人間なの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕のことを理解してくれないの?・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さん○○○○やる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
2,3年前の自分も同じことを考えていた。ナイフみたいにとがっていた。
そうやっていくにつれて、私の母は追いつめられてとうとう錯乱を起こして、今年の始めから半年間精神病院に入院してしまった。
少しシンタロ君には厳しいことかもしれないが、「くれない族」になるよりも、食事の後必ず家族みんなの皿を洗うとか、そんなささいなことでよいから親孝行をして欲しい。そうすれば、きっとお母さんも君の方を向いてくれると思う。
ねこまんま wrote:
>どんなにがんばっても、目標を達したことを「当たり前」と言い、決して「よくがんばったな」とは言ってくれなかった父。
>私がすること全てに文句を言い、禁止して抑圧した母。
私の両親そっくり。
>二人とも私が何を考えているかわからないと言うくせに、何か相談しても頭から「だめ」としか言わなかった。ほんの数年前まで、私は自宅に住むことを強要されていました。ずっと抑圧され、高校を出るころにはすっかり自分の意志を失っていて、親に反対されてまで「何かをしたい」なんて思うことがなくなっていました。
私の両親そっくり。
>カゴの中の鳥に逃げようとする度に痛みを与え続けると、カゴの外に出る意志を失ってしまう。おなじように、何かをする意欲を持つことができなくなっていました。
>親を殺す夢を何度か見ました。自分の頭が狂ってしまったのではないかと、いつも悩みました。ウツになりはじめたのもこの頃からでした。現実を生きている感覚を失っていました。
私も狂ってしまったかと思いました。
>変わったのは家を出てからでした。
>相談すれば禁止されることがわかっていたので何も言わず、全く知らない人を頼って、家を出ました。
おんなじ。おんなじ。
>とにかく両親から逃げました。
私は束縛から逃れるという幸せを手に入れました。
ココロがとても健康になったので、一時的にでも親から離れてよかったと思ってます。
>そこからの数年間、私は自分の意志を取り戻すことをがんばりました。でも、長年私の身体にしみついたものはなかなか抜けてくれません。したいことを見つけるまでに4年かかりました。そしてまだ準備段階でそれを始められていません。でも、ほんとうに家をでて、彼らから逃げ出せてよかったと思っています。私は「私の人生」というものが存在していることすら忘れていたのですから。
>最近では彼らも私の中ではなくて、自分達の中に、自分たちの生き方を見つけようとし始めてくれてます。
今私は自分の意志を取り戻そうとしています。
自分のココロが書いてあるみたいで、ねこまんまさんの文章に衝撃を受けました。
希望あるかな。そう思いたいです。
シュッツさん、MoToさん。どうも愚問に答えていただきありがとう
ございました。
シンタロウくん wrote:
> お母さん僕が嫌いなの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を無能扱いするの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> 僕はいらない人間なの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さん○○○○やる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今の時点で言えること。
(1)子供が家族を憎んだりする感情は極めて自然であること
(2)「お母さん」がシンタロウくんをどう評価していようと、シンタロウ
くん自身がその価値観に従わなければならない理由はないこと
(3)家族がなんと言おうと、シンタロウくんには生きる価値がある
(4)復讐をする場合は、あくまで法律の範囲内で行った方がいい
(5)シンタロウくんがここに書いたことは、何らかの形で「お母さん」に
伝わることが望ましい。
とんちんかんな質問なのですが…
Mr.Motoさん wrote:
>1)我々はそれぞれ別人格と解釈してもらっていい。ただしすべての責任はオ−ナ−兼シスオペたる所長がひっかぶる。
>4)世の中にはいろんな立場があるわけで、それぞれを代弁する立場として、それぞれのキャラクターが存在する。
> 「じゃあ、どれなのか」といえば、そこは読み手の側に判断の権利があり、そう判断することは正当である、と我々は認めているのである。
これの意味するところは、Mr. Motoさん以下、大森総研の方々を動かしている、現実の社会に生きてコンピュータの前に座ってカキコしている方(名前がわからないのでXさんとさせて下さい)は、ご自分の意志表明をすることを放棄している、ということなのでしょうか?
いろんな立場というものが存在しているのは理解できたのですが、Xさんご自身のご意見は特にどれかのキャラクターに決まって反映されているのでしょうか?
すみません、議論が長引きすぎてこんがらがっちゃいました。解説お願いいたします。
るう
シンタロウ wrote:
> なんで僕を責めるの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を叱るの?・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を傷つけるの?・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんでほめてくれないの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さん僕が嫌いなの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕を無能扱いするの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで怒るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで怒鳴るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> 僕はいらない人間なの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さんなんで僕のことを理解してくれないの?・・・・・・・・・・・・・・
>
> お母さん○○○○やる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シンタロウくん。
お母さんにまたなにか言われたの?
だいじょうぶ?
・・・
親子って、むずかしいよね。
わたしも、ちっともわかってもらえなかった。
たぶん、一生わかってもらえない、と思ってもいいかもしれない。
けど、わかってもらうことがそんなに必要でなくなるときがくるから。
お母さんにわかってもらえなくたって
平気、
って思えるようになるときがくるよ、きっと。
自分を信じて。
・・・
シンタロウくんのお母さんへ。
シンタロウくんのことが心配
なのはわかるけど、
今のやりかたは逆効果なようですよ。
あなたに読んでほしい本があります。
加藤諦三の「思いやりの心理」ってゆう本です。
親子関係のことも
いろいろ書いてあります。
いい本なので是非読んでみてください。
シンタロウくんへ
同じ、とは言わないけど、私もずっとそういうことを思っていました。私の場合は両親に対して。
どんなにがんばっても、目標を達したことを「当たり前」と言い、決して「よくがんばったな」とは言ってくれなかった父。
私がすること全てに文句を言い、禁止して抑圧した母。
二人とも私が何を考えているかわからないと言うくせに、何か相談しても頭から「だめ」としか言わなかった。ほんの数年前まで、私は自宅に住むことを強要されていました。ずっと抑圧され、高校を出るころにはすっかり自分の意志を失っていて、親に反対されてまで「何かをしたい」なんて思うことがなくなっていました。
カゴの中の鳥に逃げようとする度に痛みを与え続けると、カゴの外に出る意志を失ってしまう。おなじように、何かをする意欲を持つことができなくなっていました。
親を殺す夢を何度か見ました。自分の頭が狂ってしまったのではないかと、いつも悩みました。ウツになりはじめたのもこの頃からでした。現実を生きている感覚を失っていました。
変わったのは家を出てからでした。
相談すれば禁止されることがわかっていたので何も言わず、全く知らない人を頼って、家を出ました。
それでもまだ、新しく暮らし始めた家まで押しかけてきて、私の生活を監視しようとしました。
でも、私はそれをはねつけました。逃げ出したと言うほうが正しいのかもしれません。
とにかく両親から逃げました。
そこからの数年間、私は自分の意志を取り戻すことをがんばりました。でも、長年私の身体にしみついたものはなかなか抜けてくれません。したいことを見つけるまでに4年かかりました。そしてまだ準備段階でそれを始められていません。でも、ほんとうに家をでて、彼らから逃げ出せてよかったと思っています。私は「私の人生」というものが存在していることすら忘れていたのですから。
最近では彼らも私の中ではなくて、自分達の中に、自分たちの生き方を見つけようとし始めてくれてます。
シンタロウくんにこれが全てあてはまるとはいえないけど、物理的に離れることはひとつの方法だと思います。まだ、高校生なので、あと何年かの間は動けないかもしれないけれど、その間は重要な準備期間と考えて、これから何をするか計画を立てようよ。親にいちいち知らせなくていいんです。認めてほしいかもしれないけれど、それは後からでもいいじゃないの。シンタロウくんにもシンタロウくんの人生があるんだし。お母さんのことも少し距離をおけば冷静に考えられるようになると思います。
何かできそうかな?母親殺したって、結果的には認めてもらうチャンスを自分で放棄してしまうだけですよね。私は親に認めてもらうことを願うより「誰に見せても恥ずかしくない」と、自分が納得できる人生を目指して生きていくつもり、になっています。
ねこまんま
Mr.Moto wrote:
>一穂ちゃんや大槻いつきさんをはじめとする善良なメンバー(「善>良なメンバー」ではなく「女」の間違いじゃねぇのか?)のツッコ>ミに関しては、たとえポイントを外していても極力誠意ある回答を>心掛けるつもりである。
Motoさんから見れば、これもポイントをはずしたツッコミなのかもしれないけど、
わたし、善良なんて言われても、ちっとも嬉しくないです。
とてもバカにされてるかんじがしてフユカイ。
Motoさんの言ってる意味での、"わざと話を混乱させようとして意図的にはずしたツッコミをする"ことが悪意があることだ、とするなら、まぁ、わたしはそこまでは考えちゃいない→つまり善良、ということになったんだろうけど、ひとにレッテルを張るときは気をつけた方がいいと思うじょ。
たしかにわたしはいつもポイントはずしちゃってますよ、悪気はないとしても。
でもそれを善良だなんて、それこそ誤解です。
Motoさんこそ善良な人ですよ。
わたしはMotoさんがここで言ってるようなことは、
わたしなりに解釈していますが、それを言ったらたぶん傷つくと思うので言わない。というか言えない。ことが多い。
だって言ったことは全部自分に返ってくるからね。
自分を守ることも必要です、だってそんなに強くないもん。
が、ここまで言ってしまたので、口をすべらしてしまうと、
わたしは、こうゆうのはすべてMotoさんの、自分に対する言い訳に聞こえてしまいます。
なぜ自分の文章がそんなにわかりにくいかを、いちばん大事な点を考えることを避けるための遠回りをしているだけ、に聞こえてしまうのです。
なぜ、ポイントをはずしたツッコミをされてイライラするような目にあうのかといえば、それは、
"わかりにくいから"。
相手の悪意のせいというよりも、それは自分の文章が誤解されやすいから。
それに気付いているから、わかりいやすさについて考えようとしているのでしょう。
でもそれは、論じて定義づけしてもしょうがないことです。
"わかりやすさとはなんなのか"
あなたが出した答えに、ここのひとたちはもしかしたらそれで納得するかもしれませんが、それこそひとをバカにしています。
ひとが読んで、わかりにくいと言ったら、それはわかりにくいんです。
自分の文章はわかりにくいんだ、と認めるしかないと思います。
まず、それをせずにいくら論じたところで何も解決しないのでは。
被害妄想っぽい受け取り方、してませんか?
両薬口に苦し、ってゆう言葉がありますよね。
かれこれ十年近くも前になるのだが、『雑魚亭』なる研究的な性格の草の根BBSがあって(嘘ではない。ちゃんと日本ソフトウェア科学会のニューズレターにも載っている)、そこには俺もいたし現在「Joshya」を名のっている所長もいたしKILROYもいた。で、おれたちはお互い別人だった。
そんなわけで、
1)我々はそれぞれ別人格と解釈してもらっていい。ただしすべての責任はオ−ナ−兼シスオペたる所長がひっかぶる。
というのがお約束としてあった。
とはいえ中心的なメンバーは我々の正体を知っており、その意味で同一人が役割分担をしているという捉えかたもあった。すなわち、
2)争点を明確にし、議論が散漫にならないために、議論を適切にコントロールするためのテクニックとしてのキャラクターの使い分けとして捉える。
という側面も確かにあったのである。
とはいえ、
3)個人の中にもいろいろな葛藤というものがあるわけで、それを別個に論じるために、それぞれのキャラクターに割り振った。
という解釈もできる。もっとも、
4)世の中にはいろんな立場があるわけで、それぞれを代弁する立場として、それぞれのキャラクターが存在する。
と考えても悪くない。
「じゃあ、どれなのか」といえば、そこは読み手の側に判断の権利があり、そう判断することは正当である、と我々は認めているのである。
同じことを男が言うのと女が言うのでは意味合いが違ってくる。持つ者と持たざる者の間でも同じことがいえる。人間は「自分」を離れては発言できないのである。ただし……生身の人間であるならば、だが。
こうした内輪の議論は、言ってみれば「欠席裁判」である。たとえばNYのテロ事件について論じたとしても、この場にイスラム原理主義者が登場して意見を述べてくれるわけでもない。その場合、イスラム原理主義強行派の代理人として、おれはこの場に立つ。「『アッルラーの他に神なく、権力なし!』と、最後の使徒ムハンマドは言った。アル・クルァーンは天使ガヴリエルによって神から使徒ムハンマドに告げられたものであり、それ自体奇跡である」。そうした立場に立って議論に参加する人間がおらねばフェアな議論になるまい、というのが我々の考え方である。
とはいえ、あらかじめ論争に負けるつもりで参加するわけにもゆくまい。ならば勝つために全力を尽すべきである。で、負けたにしろ勝っちゃったにしろ、その場合の社会的責任は?ということになると、「私はただイスラムを弁護しただけだ」という訳にはゆくまい。
そんなわけで、われわれはJoshya氏のパーソナリティの一部であると同時に、現実に存在する人々の誠実な代理人でもある。しかしながら、その社会的責任はJoshya氏本人に帰せられるべきものであり、それはJoshya氏の中の相克、というものの中から見い出されたJoshya氏本人の見解であるがゆえにJoshya氏本人が引き受けざるを得ない、ということでもある。
こんなところである。ご納得いただけただろうか。
(Mr.Moto)
今回は、いままで『アスペルガーの館の掲示板』でさんざん議論されてきた、「わかる」ことの多様性について論じたい……と思っていたのだが、まずその前に「言語とはなにか?」というところから始めることにする。
言語はコミュニケーションの道具である。「いや、それ以前に思考の道具である」という意見もあると思うが、そもそもはコミュニケーションのための道具として成立した、という事情がある。
では、コミュニケーションの目的は何か、といえば「情報を相手に伝えること」……だとか言ってはいけない。「情報を相手に伝えること」を、コミュニケーション(情報伝達)というのである。お間違えのないように。
そんなわけで、コミュニケーションの直接的な目的はといえば、「相手を変えることによって相手の状態を変え、その結果として行動を望ましいものに変える」「相手から望ましい行動(反応)を引出す」ことなのである。
「私はあなたを愛しています。」「それは、『あなたはあたしに愛されたい』っていうことなのね?」というのは、ちゃんと会話として成立している。「死にたい奴ぁ、かかって来い!」と啖呵を切ったら、本当に死にたい奴がかかって来てしまったとかいったら、これはコミュニケーションの失敗である。
そんなわけで、相手が自分の言ったことを「わかった」か「わからなかった」かは、おおむね相手が自分の予想した反応を「した」か「しなかった」かによって判断されるのである。
したがって、「なぁ、ちょっと金貸してくれよ。」「私は君にお金を貸す理由はない!」「わかんねぇ野郎だなぁ……」といった形で、「自分の言った通りに行動しない相手」を「わからない」と表現するのには、それなりの理屈があるのだ。
そんなわけで、捕鯨をめぐる国際対立がつねに感情的対立に向かうのには、あれがそもそも漁獲資源としての鯨が増えているかいないかとか、他の漁獲資源に与える影響がどうとかいった科学上の議論ではなく、反・捕鯨国が捕鯨問題を「鯨を捕らせろ」「鯨を捕るな」という結果における対立とみなしているというところに原因がありそうに思うのである。
ぶっちゃけた話、「私はあなたにこれこれこうしてほしいのです」と要求する、というのは、非常に分りやすい態度だと思う。で、この「分りやすさ」の基礎として、「切実な感情や感覚を共有するという意味での『わかる』」と、「『理性で納得する』という意味での『わかる』」があるのではないか、と思うのである。
「理解している」と言いながら自分の求める行動をしてくれない相手に対して、「あなたはわかっていない!」という人は多い。相手がいくら「理解している」ことを説明しても、それはその人にとってなんの意味もないのである。
で、普通の人にとっては、「(心情的に)わかる」→「(行動に結びつくという意味で)分かる」というルートはごく自然のように思える。
だけど、少なくとも私にとっては、この関連は稀薄なのである。あるいは「自然なもの」ではないのである。そこで、「(心情的に、あるいは感性で)わかる」→「理性によって『わかる』」→「コントロールされた状況でやってみる」→「確かにイケる」→「(行動の要因の一部として)わかる」というプロセスを経ないと、「わかった」感覚にたどりつけない。あるいは、「つかんだ」「極めた」という感覚に到達しないと、「わかった」と納得できない。
まあ、これはこの議論の本筋とは関係がないコメントなのではあるが、自閉症方面の人間は「直感的にわからない」というよりも、「それが直接に行動に結びつかない」のではないかと思う。逆にいえば、「直感的にわかった」という多分に稀薄な根拠によって行動を起こしてしまう「健常者」のほうが変な気がする。夏の甲子園とか横山ノックが大阪知事になったとか、そういうところに行ってしまう無防備さがわからない。
次回は、「心情的にわかる」ことの危うさと、「理解する」から「行動」へ以降するプロセスの困難さについて述べることにする。
今回はおいしいツッコミどころが随所にある。辛口のレスを期待する。
(KILROY)
シンタロウくんは、認めてもらいたいのね。
でも親は親の価値観で生きてきてるから、
なかなかむつかしいかも。
あんまり辛いなら、親を心の中で捨てるということも出来るよ。
○○○○やる・・・じゃなくて、
「捨ててやる」というのでもいいんじゃないの。
なんで僕を責めるの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで僕を叱るの?・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで僕を傷つけるの?・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんでほめてくれないの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さん僕が嫌いなの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで僕を無能扱いするの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで怒るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで怒鳴るの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕はいらない人間なの?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんなんで僕のことを理解してくれないの?・・・・・・・・・・・・・・
お母さん○○○○やる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いろいろな色彩を見てみませんか?
ちょっと高いのですが・・・次の本がお薦めです。
渋川育由・高橋ユミ著 The Color ザ・カラー 色と配色の事典
可出書房新社 定価4854+税
大きな本屋さんの美術関係の本のコーナーにあります。
色彩について興味がある人にもお薦めです。
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