アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
風呂糸さんのカキコNo.4615の「予防接種と自閉症」をよんで、それに
触発されたかたちで、昔読んだある文章を思い出したので、それをここに書き写します。著者に無断ですが、決して批判するわけじゃなく、とても示唆に富む内容と思ってるんです。ですから許されると勝手に判断して書き込みします(笑)。ただ前もって言っておかなければならないのは、この文章は「境界例」についてのコメントなんです。ただ私は「発達障害」に置き換えてよんでも充分当てはまるように思えるんです。
[引用文]
発達的にみれば、誕生とともに、人間はやがて現実を認知するようになる。
必然的にそれまでは、現実と非現実とが区別されずに、合一的に受け止められ
ていることになる。そこでは自分と自分の受け皿である状況とも区別されず、
合一的に体験されていただろう。誕生後の世界では、認知の程度の展開にはい
くつかの段階があるにしても、まず現実が見えてきたその時には、見えている
ものがすべてで、見ている自分に気付くのは次の段階と考えられる。見ている
ものすべてという段階では、自分は見えているものに合一されている。境界例
の体験の受け止め方は、この段階に対応している。
現在境界例が増加しているのは、生の人間と接する機会が減殺されて、テレ
ビ映像の中で子供が育つ時代になっていることと無関係ではなかろう。生の人
間との関係では、しばしば思いがけない相手の言動に出会う。その時の「エー
ッ」と思わせられる体験は、その事自体が葛藤であるが、体験している当人は
その時自分を実感させられていることになる。機器による映像時代を育つ人間
その体験が欠落し、葛藤を内包して自分を実感し、自分に気付く機会を体験せ
ぬままに、見えている映像が現実であり、それが全てであるような錯覚の中を
育つ可能性が高くなる。境界例の両親の世代が、すでに機器による映像時代を
育ってきている。
「境界例」 出版 日本評論社
編集 河合隼雄 成田善弘
上記は、辻 悟先生の「内面の風景や物語をふまえたうえで」
という文の中からの一部抜粋です。
私は、辻悟先生に、二回ばかりお会いしました。今までお会いした医師のなか
では、一番納得できるお話していただいたんです。だからかしらん先生のこの
発言には、私深くうなづけるものがあるんですね。自分も小さい頃からテレビ子
でしたし。ただ思うんですけど、今やテレビからネット時代へと移行しつつあ
るわけですよね。ネットは相互的関係を作るから、自閉症関係の障害者は減るの かな、減らないにしても住みよい社会になるのかなあと期待したりもするんで
す。ただ随分まわりくどい人間関係になるわけで・・(笑)。
皆さんのなにかの参考になればと思い、引用文書いてみました。
るおうさん wrote:
>掲示板や他の関連の掲示板にADDですとかですとかADHDですとか、LDなん
>ですが、という文字を目にしますが、アスペの人は、他の掲示板にアスペで
>すが、、って書き込みをするのだろうか?って思って、、私はあまりもっと
>他の掲示板を知らないので、わからないのですが、、
わたしが知る範囲の話ですが、LD親の会「けやき」でやっているLDフ
ォーラムにはASの人が多数参加しています。わたしはそのフォーラムでな
ぜかASの人に似ていると指摘されるようになり、それがきっかけでこの館
に遊びに来るようになりました。
他には発達チャットに自閉圏の人がよく訪れているみたいです。
掲示板や他の関連の掲示板にADDですとかですとかADHDですとか、LDなんですが、という文字を目にしますが、アスペの人は、他の掲示板にアスペですが、、って書き込みをするのだろうか?って思って、、私はあまりもっと他の掲示板を知らないので、わからないのですが、、
武田好史 wrote:
>あなたが、「自分には、これが足りない・・・」と思うものは何ですか?
(1)生きる根拠
(2)他人への愛着
(3)経済力
ちなみに、(1)について、特に自殺願望を持っている訳ではありませ
ん。単に根拠がないというだけで、わたし自身は生きていたいと思ってい
ます。
蝶類についてお詳しいというので、ちょっとお尋ねしたいことがあります。
最近明るい薄紫色の羽をもった、親指の先ほどの大きさの可愛らしい蝶(もしかすると蛾)をたくさん見かけます。
この前も畑で、青ジソやニラの花にとまって、さも美味しそうに蜜を吸っていました。春にはあまり見たことはなく、8月の終わり頃からよく飛んでいます。
この蝶々の名前をご存じでしたら、教えて下さい。
たあ wrote:
> 私は、いま1人で暮らしています。でも、近い将来、実家にもどることになりそうです。
> そうなった場合、家族と、うまくやっていく自信がありません。実家に居た頃は、常にトラブルだらけでした。当然のことながら、親からは、叱責されてばかりでした。私は親に対して、恐怖感を持っています。
>
> どうすれば親に責められないですむのか、わかりません。皆さんは、家族とどのように暮らして、あるいは、付き合っていますか?
家族ですか。私にとってもけっこストレスメーカです。
でもよくよく考えてみると、自分も家族に対してかなり迷惑をかけているような気がします。私はとにかく秩序だった行動をすることが苦手で、車の運転ができないので、今は母の通院など車がないと不便なときは、妹が来て車で家族を運ぶ役目をしています。父は今年61になりますが、私と母のためにサラリーマンを続けています。本当に感謝しています。
その気持ちをわずかですが、母を散歩に連れ出したり・食後に食器を洗ったり・家庭菜園の手入れをしたり・買い物へ行ってあげたりということで、私は示しています。
いきなり一生懸命に働いて、出世払いだと何万円も親・兄弟に小遣いをだせる子どもはごくまれです。そんなことはしなくても良いですから、できる範囲で持ちつ持たれつといった関係を作る・外との交流を持つ・根に持たずくらくなく明るく朗らかでいるといったところが、良い家族関係を作るコツだと私は思います。
これは家族だけでなく、人間関係を作る上でも大切です。
(一言多いか・・・・?)
syakuさん wrote:
>Mr.Moto wrote:
>> 「八卦掌」という武術の真伝をめぐっての争奪戦を描いた作品。
>なら、『易経』っけはあるにしても、なんでタオなんでしょう?
>「為無為、事無事、味無味」----為す無きを為し、事とする無きを事とし、
>味わい無きを味わう(『老子』63章 小川環樹訳)
>これほど、非戦平和を説いた思想は無いと、無学な私は思うのですが。
「学を為すは、日々に益す。道を為すは、日々に損す。これを損じてまた損じ、もって為す無きに至る。為す無くして、しかも為さざるは無し。」
太極拳と八卦掌に代表される「内家拳」は、「身体を鍛える」「技を覚える」といった発想とは、むしろ逆の発想をします(とはいえ『セイバーキャッツ』にもちょっとだけ名前の出てくる孫禄堂老師は、軽身功とか鉄砂掌功とかいったトレーニングを究めたひとでもありますが)。
「武術」は基本的に「闘いに勝つために」行なうものですが、「武道」は本来、「戦わないために」行なうものです。黒澤明の映画『椿三十郎』で、主人公の椿三十郎が「いい刀は鞘に入ってるもんだ」と吐き捨てるように言う場面があります。つまり、「武道」は使われないために極められる、という二律背反(ジレンマ)を本来的に抱え込んでいるわけです。
そうして精神性を高めていった結果、内家拳は「健康体操」「民族舞踊」に堕してしまいました。何年も修行しながら、たかだか数カ月空手やムエタイ(キックボクシング)といった「格闘技」を練習しただけの相手に勝てない。筋肉の量や反応速度にものを言わせた「武術」に、「武道」は勝つことができませんでした。
ですが……本当にそうなのでしょうか? 「武道」は、単なる幻想にしか過ぎないのでしょうか? 「達人」は伝説の中にしか存在しないのでしょうか?
そうではありませんでした。やはり「武道」は「武術」を超えていました。それを身をもって示している「達人」が、世の中には存在するのですね。
「非戦平和」は、お題目であってはならないんです。「道(タオ)」は、逃避であってはならないんです。「為す無くして、しかも為さざるは無し」。「平和」は、「戦って勝ち取る」ものだと思われています。そうではなく、「戦い」そのものを解体して無力化してしまうのが「道」なのですね。
合気道では、「対すれば相和す」ということが言われます。相手の「勝とう」という意識に乗っかることで、相手を無力化してしまいます。「合気」をアイキと読めば武術の上の概念ですが、ゴウキと読むと、道教医学におけるセックスの意味になります。
『セイバーキャッツ』は、「武術」を究めた華僑の御曹子・雷仁飛と、その雷仁飛に父親を殺された「武道」家・宿祢光の対決、というのが中心にあります。
これが単純な復讐劇に終わってしまわないところに、『セイバーキャッツ』の魅力はあったりします。
光の師・炎老師が、「武術はね!! ひとつよ!!」という場面があります。
全体は部分の集積ではありません。馬は馬です。世界は、全体でただひとつです。
馬を馬たらしめている本質、世界を世界たらしめている本質、それが道です。
人間を人間たらしめている本質とは、なんでしょう。
(Maria)
『セイバーキャッツ』にはありつけないですが、
Mr.Moto wrote:
> 「八卦掌」という武術の真伝をめぐっての争奪戦を描いた作品。
なら、『易経』っけはあるにしても、なんでタオなんでしょう?
「為無為、事無事、味無味」----為す無きを為し、事とする無きを事とし、味わい無きを味わう(『老子』63章 小川環樹訳)
これほど、非戦平和を説いた思想は無いと、無学な私は思うのですが。
老子も、後に道教に落ちると争いの道具になってしまうんでしょうか?
老子って、わからなさがいいんですよね。わかったつもりは、もう道でない。
ロゴス以前の混沌こそ、命だと。
私に何より必要なのは、常識を超える、いい感覚です。無常の中の無上の落ち着き。そこへ往ければ、ロゴスも自在に得られるのでしょう。
たあさん wrote:
> 一応、私なりには、小学生の時よりは、まともに話せるようになっていると
>自覚しているんですけど。
自分の障害を自覚することができる発達障害者の悲劇です。困難を克服しよ
うと努力していても子供の頃のたあさんの状態を知らない人にはそれが伝わら
ない。逆にうまく困難を克服してしまうと、はじめから障害がなかったことの
ように扱われてしまう…。発達障害者の努力はどこまでいっても水面下の努力
であって、部外者には理解しにくい側面を持っているようです。
たあさんの努力が雇用者側にうまく伝わらないこと、気の毒に思います。
たあさん wrote:
> 経済的に現在の生活を続けるのは難しいです。
>アルバイトの面接を受けても、会話力の無さから失敗してばかりです。求人雑
>誌を見て、事務職の面接を受けたら、面接官から「あなたの話し方は小学生み
>たいだよ」と言われてショックでした。
元々の話題とはちょっと話がずれてしまいますが…。
たあさんは現在、医学的には何か診断がついているんですか?(発達障害でな
くてもよい)
もしついているのであれば、地元の職業安定所か障害者職業センターに相談
をしてみてもいいかもしれません。(どちらかと言えば、障害者職業センター
がお薦め)会話のように目に見えるような困難を抱えている場合、個別に対応
してくれる可能性があります。上記の件について、相談に行ってみてはいかが
でしょうか?
こうもりさん wrote:
>
>> たあさんは経済的に下宿を続けることはできないんですか?
経済的に現在の生活を続けるのは難しいです。
アルバイトの面接を受けても、会話力の無さから失敗してばかりです。求人雑誌を見て、事務職の面接を受けたら、面接官から「あなたの話し方は小学生みたいだよ」と言われてショックでした。人と話していても、言葉が浮かんでこないんです。
一応、私なりには、小学生の時よりは、まともに話せるようになっていると自覚しているんですけど。
I wrote:
>つまり、性意識は中性的(ふつう、こういうのは「女性的」と見なされま
>すが)なんだけど、ジェンダーは男性。で、性別も性的役割も男性。そし
>てセクシャリティも男性なんだけど、エッチの時はなんか「男として」エッ
>チをしている感覚がない。
自分の中の「差別」を意識させられるというのは厭なものです。上記の発言であたしは「そしてセクシャリティも男性」とか書いていますけれど、これは本当なら「男性」ではなく「対・女性」と書かなければいけませんでした。「女性に対して性欲を感じるのが男性」というのは、差別あるいは偏見です。
そんなわけで、あらためて性関係の用語の整理。
「セクシャリティ」というのは、「性的なありようのすべて」を指すことばでした。慎んで訂正させていただきます。
「好きになる相手の性別」は、「セクシャル・オリエンテーション」。「性的志向」あるいは「性的指向」とも言われます。「性的嗜好」というのは、ちょっと別。
「性自認」は、「自分の身体の性の認識」とされますが、これは「身体的性自認」と「心理的性自認」に分けたほうがいいように思います。
「ジェンダー」は「社会的性役割」とされますが、これはすでに述べたように、広義の「ジェンダー」を「性役割」、狭義の「ジェンダー」を「社会的性役割」、「(性行為のときの)性的役割」を「性的役割(男役/女役)」と呼ぶのがすっきりしていていいかも。ついでながらネットワーク社会におけるあたしの(狭義の)ジェンダーは女性。
ついでながら、サディストについては、本物のサディストを単に「サディスト」あるいは「真性サディスト」、「マゾヒストに対してサディストの役割を演じることで代償的な満足を得るマゾヒスト」を「代償的サディスト」と呼ぶのが適当かと思います。
そんなわけで、男性の中にも、「男性としての自分」にアイデンティティを持っている「真性の男性」と、「女性から見た男性」にアイデンティティを持っている「代償的男性」の二種類がいそうに思うんですが……じつのところ、本当に本当の「真性の男性」っていないような気もするんですよね。自分自身の「内なる女性」(たぶんユング心理学におけるアニマ)に対峙する存在としての「男性」でしかないんじゃないだろうかと。それに関することとして、哲学者の中島義道さんは、女はただ女であることができる、みたいなことをおっしゃってます。これは逆にいうと、男は女の対概念としての男でしかありえない、ということなんですね。デッサン教室での経験によれば、男性モデルは常に身構えているのに対し、女性モデルはみんな堂々としていて、中には居眠りをしているモデルがいたりする、と言っています。
自閉症が女性よりも男性に多い、というのにはいくつか思い当たる理由があるのですが、女性の場合、「自己中心的」というと語弊があるかも知れないけれど、「自分」というものを規定する根拠がより自分に近いところにある、ということで、社会との軋轢をそれほど感じなくて済んでいる、という気がします。
えー、これを言うと「自閉症の子供を育てるのがいかに大変か」みたいなことを訴えているお母さまがたには非常に嫌がられるかもしれませんが、うちのJoshyaさんは「非常に手のかからない子供」だったそうです。だってひとりで何時間でも遊んでんだもん。Joshyaさんとこは両親共稼ぎだったので、そういう「放っといていい」子供というのは楽でよかったようです。で、「普通の子供」として「健常者」とつきあうということを求められなければ、自閉傾向強くってもけっこう放ったらかしときゃ育つような気がするんですよ。下手に他の子供とつきあうといじめに遭うし、大人とつきあうとパニック起こすし。
で、自閉症の子供に玩具を与えてはいけないような気がします。Joshyaさんちはおじいさんもお父さんも職人さんだったので、家の中に「道具」がいっぱいあったのね。で、その「道具」を使うところを見て知っていたわけです。だから、最初っから本物の道具を与えちゃうのがいいような気がします。Joshyuaさんは今でも道具マニアで、特に刃物にとても執着しています。それも包丁とかおろし金とかいった調理用具です。キャベツを繊切りしたりとか山芋をすったりとかいうと、目の色を変えて「うふふふふふふふふ」とかいった風情でハマッていたりします。
「ものづくり大学」じゃなくて、「ものづくり塾」とかできないかなぁ、と思うんですよね。おっきな調理場があって、いろーんな道具とか調味料とか揃ってる。おっきな工作室があって、ミニ旋盤とか、卓上ボール盤とか、木工用電動糸ノコとか揃ってる。それだけじゃなくて、ミシンとかがある裁縫室とか、焼物用の釜がある美術室とか、そいういう部屋がいっぱいある。で、「こんなものが作りたい!」とかいうと、自分で考えて、自分で調べて、自分で作ることができる。で、その中で、自分に向いたこと、自分のやりたいことを見つけてゆく。たとえば漆職人だったり、陶芸家だったり、ラーメン屋だったり、パン職人だったり、なべつかみ作家だったり(そうだ。なべつかみだ。なべつかみー!)。
こうなると自閉症がどうこうといった、せせこましい話ではありませんね。「そんな塾があったらぜひ入りたい。いや、今すぐ入る。すぐ作れぜひ作れさあ作れ。ええい作らんか」みたいなひとはけっこう多そうに思います。
いいと思うんだけどな。
(Maria)
一穂ちゃん wrote:
>・・・「セイバーキャッツ」全五巻かぁ。コミックなんだ。
>おもしろい?
>わたしも読んでみようかな。
『セイバーキャッツ』は、地球人が銀河系内の他の恒星系にその生活圏を広げた約百年後の地球が舞台。「八卦掌」という武術の真伝をめぐっての争奪戦を描いた作品。
道教と原始キリスト教の源流になった古代ギリシャのストア派の哲学には、「人間にとってもっとも理に適った生き方が、もっとも健康的な生き方である」といった共通する思想がある。この「もっとも理に適った生き方」の「理」に相当するのが「道教」における「道(タオ)」であり、原始キリスト教における「ロゴス」なのである。なお、「ロゴス」は「言葉」とか「論理」とか「理性」とか訳されることが多い。
日本においてはこの思想はもう一歩進んだ積極的な形で捉えられている。これを私は個人的に「朝メシの思想」と呼んでいる。
「日本人にとっての理想の朝メシ」というものを考えていただきたい。まあ、コメを主食に味噌・豆腐といった豆類、あとは魚・野菜・海草(海苔や昆布)、さらに醗酵食品(味噌・醤油・納豆・鰹節・漬物など)がかなりの比重を占めているはずである。
この「日本人にとっての理想の朝メシ」が、おそらくは健康上もっとも理想に近い朝メシであることは疑いようがない。そして、この「健康上もっとも理想に近い朝メシ」が、同時に「日本人にとってもっともうまい朝メシ」であり、日本人はそういう朝メシがいちばんうまいと感じるようにすでに心身ができあがってしまっている、と言えはしまいか、ということなのである。こういう朝メシを前にすると、日本人は「ああ、日本人に生まれてよかった」と思わず感涙にむせんでしまうのだが、この「日本人にとっての理想の朝メシ」は日本という土地に人間がやってくる以前からあったわけではもちろんなくて、日本人が千年以上の年月をかけて育てあげてきたものなのである。
『セイバーキャッツ』における武術のイメージは、「人間にとってもっとも自然な動き」「もっとも合理的な動き」を追求した果てに「最強の武術」が存在する、といったものだったりする。
『たとえばここに「○×拳」という武術があるとしよう。「修行」とは、すなわちその「○×拳」で暮らすことだ。「○×拳」で顔を洗い、「○×拳」で飯を食い、「○×拳」で糞をする。それは一つには「○×拳」の理論に沿った勁(けい)の……力の出し方で常に動くということであり、そのためには思考法すらそこに持ってゆくということだ。』(同書二巻より)
実際問題として、優秀なシステムエンジニアは「システムエンジニアリングで顔を洗い、システムエンジニアリングで飯を食い、システムエンジニアリングで糞をする」に近い生活をしている。
よく言われるのが、「日本人は顔を洗うときに手を動かすが、中国人は顔を動かす」ということだ。実際にはそうでもないらしいが、日本人はついつい水を流しっぱなしにしてしまうのに対し、「洗面器」を文字通り洗面用に使うのが世界的にいえば普通である。そして日本人は手で顔を洗うが、欧米人は文字通りフェイスタオルを濡らして顔を洗う(「濡らしたタオルで顔を拭く」のではない。念のため)。日本人は米の飯を食うのに茶碗を手に持って箸で食うか皿をテーブルに置いてカレー・スプーンですくって食うが、韓国人は器をテーブルの上に置いて匙で食い、おかずは箸で食う。欧米人はカレーライスをスプーンではなくフォークで食う。日本人の多くは小便と大便の両方が一緒に出てしまうが、欧米人は大便だけをする人も多い。
高度に洗練されたシステムというのは、非常に使いやすいがゆえに意識されない。そして意識されないがゆえに「見えない」のである。そこで、あえていろんな方法を模索し、それを実際に行なってみることで、それを「見よう」とする。その結果、「女性用小便器」なんていう失敗作も生まれたが、「おしり洗浄機」という傑作も生まれたのである。「紙で拭くのがあたりまえ」と思っていたら、「水で洗って温風で乾かす」といった発想は生まれなかった。
で、システムエンジニアにとっては、そういった「理にかなった」スタイル、俗にいう「ロジカル」(日本語では「美しい」と表現されることが多い)なスタイルが、ひとつの美学になっているのである。
ユダヤ教における「戒律」というのは、本来はこうした「もっとも理にかなった」スタイルを集大成したものであった。ところがその戒律がひとり歩きを始めてしまったために、そこから脱し、真に「ロゴス」に拠った生き方をしなさい、と説いたのがイエス・キリストなのである。「大道廃れて仁義あり」と説いた老子も同じことを言っている。苦行を否定した釈迦も同じである。
『セイバーキャッツ』の結末をバラしてしまうことになるのでこの先はちょっと書けない。ただ、こうした「道にかなった生き方」をすることが、現代の日本の中では困難になっている、という現実だけは指摘しておこうと思う。
ひとつだけ例を挙げておこう。越中褌はパンツより合理的である。まずもってゴムで身体を締めつけることがない。ズボンを脱がずに褌を替えることはそう難しくないが、ズボンを脱がずにパンツを替えるのはほとんど不可能と言ってよい。
しかし、褌愛好者は変わり者と見なされる。合理主義者とは見なされない。
(Mr.Moto)
一穂(いちほ) wrote:
>わたしも異常に疲れやすいからだなので、その辛さわかる。
同胞なのね〜
>わたしは慢性疲労症候群(CFS)って診断されてるんだけど
>みどりさんももしかしたらその傾向があったりなんかしないよな・・・。
>微熱とか、リンパ節が腫れることはないですか?
どうもありがとう。実は新聞で初めて読んだときに「これだっ」と思ってかかりつけに聞いてみたら、「リンパが全然腫れてないから違います」ってあっさり却下されちゃいました。
症状はすごく似てるんだけど (だるいだけでなく、筋力が突然異常なほど低下しちゃうとか、休んでも体力が回復しないとか)、確かに診断基準を見てるとかなり違うので、いまは自分でも違うかなと思ってます。
ただ、一穂さんが教えてくれたサイトにあったSSRI が効くとかセロトニンレベルが低下してるとかそういうのを読んでると、今は直接関係なさそうでも、20年後の医学では同じ病気として扱われている可能性もあるかなって思います。
>みどりさんの場合お勤めされてるみたいだから
>慢性疲労症候群ではないと思うけど
幸い勤め先に理解があるおかげで、(というか成果以外の社員の行動に興味がないだけかも…文句も言われないけど心配してくれるわけでもないようだし) なんとかやってますけど、普通の会社だったらとっくにクビになってます。
毎週1〜2日は休むし、休まないにしても夕方から出社する日の方が朝から行く日より多いし。
>ASとかADDだと、そうじゃない人よりも脳が疲れやすいんじゃないかなぁと思う。
>CFSも脳の症状があるんです。
ただでさえASって、脳を酷使してそうだもんね。集中してるときの自分ってまるで別人みたいに効率も質もいいんだけど、これ続けたら身が持たないなって思う。(幸か不幸か当然続かなくって、一年の大半はぼーっとしているわけだけど。続けられたら天才か××か、になれるのかも)
>でも、成人は発達障害を、病院で診てもらえないなんておかしい。
>なんの決まりだかしらないけど改正してほしいと思う。
ADDのことはよく知らないのだけど、ASには高収入で友達の少ない人も結構いそうだから、たとえ保険外であってもそれなりに客はいると思うんだけど(笑)
Jane Doe wrote:
>桂花咲く今年も秋になりにけり
鈴虫が りーんと鳴いて 夕闇へ
Mr.Moto wrote:
> 毎度毎度わかりにくい発言をしておって申し訳ないと(は)思っ>ている。とはいえ一穂ちゃんが考えているのとは、ちと違うように>思うのだ。
わたしも稚拙な表現で、言葉が足りないから
いつもごめんね。
> 結論だけを与えてしまうのは、推理小説の犯人をいきなり教えて>しまうことに等しい、とおれは思うのだ。読者にあっては、まずそ>の「謎」を十分に観賞していただきたいのである。
Motoさんの言いたいことはよくわかったよ。
プロセスを楽しんでるところ、あるんだろうなぁとわたしも思ってました。
でもそれは、Motoさんにとっては、真実を解き明かしていくプロセスなのね。
わたしは傍観者の立場からみて、ものごとが理解されていくプロセス、だと思っていたけれど、
Motoさんはもっと能動的な構えなんだなぁと思いました。
> でまあ、これ以外にも「わかりにくさ」の原因となる点はあった>りするのだ。
>「論(あげつら)わず」「言挙(ことあ)げせず」といった「日本>的美風」というものを、おれはとりあえず否定する立場に立つ。
そうそう、そこがMotoさんのキャラのいいところ。
ひとの気持ちに配慮しない発言はよくないと思うけど、
そうゆうんじゃなければ、がんがんいって欲しい!
> ところが、こういう立場を取ると、しばしば喧嘩腰で向かってく>る奴がおり、結果として議論がディベートに流れる。これがいか
>ん。ただ勝ち負けにこだわってはならんのである。揚げ足取りに終
>始せず、枝葉末節にひっかからず、本質に鋭く斬りこんできてもら>わねば、豊かなディスカッションには発展しない。すなわち発見が>生まれないのである。
だったらこうすればいいんじゃない?
[ここは枝葉末節です。]
[ここは幹です。]
[ここは根です。]
それが一目瞭然にわかるようにする。
たとえばフォントをかえちゃうとか・・・(ってできない?わたしはできないけど(^-^;)
そこまで親切にする必要ないかもしれないけど
なんらかのかたちで、そうゆう風な表示上の工夫をしていただけたら
きっと随分見やすくなるじぇ〜と思う。
(いや、べつに要求はしてないっす!言ってみただけ)
>「お前が気に入らん」という憎悪を隠して、あるいは自分自身が気>づいておらず、「わからない」と言いながら絡んでくる奴がいなけ>れば、おれだってもうちょい素直かつ温厚な人間に(たぶん)なれ>るのだ。
今くらいでじゅうぶんです(^-^;
これ以上温厚になっちゃっても、つまんないしぃ〜。
絡まれるくらいでちょうどいいんでない。
(非常に勝手な意見)
>>「クマのプーさんの〃のんびり〃タオ」
>>(講談社α文庫)
> たぶん、かつて『タオのプーさん』という書名で出版されていた>本ではあるまいか。『踊る物理学者たち』なんていう本と、たしか>同時期に出版された本のように記憶している。Mariaが原書のタイ>トルを見て「ぎゃはははは」と笑っていたのを覚えている。
出てきた。原題は"The Tao of Poof"
これ以上ないほど単純でわかりやすいタイトル(^-^;
ここにもプーさんのタオイズムが表れてるのね。
ひさしぶりに読んでみたけど、やっぱりすごくいい本。
生き方を考えさせられますわ。
今日一日が楽しくなる本。
> タオイズム(道教)についてはいろいろと思うところがあるのだ>が、超俗や隠遁という方面に向かってはいかんと思っているので、>「俗世と向き合いながら道を実践する」ことの難しさと格闘する毎>日である。
> そんなわけで最近の(タオイズム関連の)愛読書は山本貴嗣(や>まもと・あつじ)『セイバーキャッツ』(全五巻、角川書店ニュー>タイプ100%コミックス)だったりする。
> 「『戈(ほこ)を止(や)む』と書いて『武』」なのだそうだ。>私は武士であり武人でありたいと思う。
>
そうね、今どき仙人になりたいってひともあんまりいないだろうし。
・・・「セイバーキャッツ」全五巻かぁ。コミックなんだ。
おもしろい?
わたしも読んでみようかな。
桂花咲く今年も秋になりにけり
マザーさん wrote:
> 一穂さん、久しぶりぶり!(エヘッ) 元気?
>一穂さんのカキコ、ずっと気になっていたんだよん。
>だから横レスしちゃいます。
マザーさん、おひさしぶり〜♪
レスうれしいれす。・・・(o^w^o)
> 『気になる』ってことが自然な感情だと思うよ。
>もう〜全然、『気にならない』なんてことになったらさ“終わっている”って
>ことになっちゃうんじゃないのかな?
おおお!そうだったのか・・・。
じゃあ、いっしょうけんめい、なんともないフリをしていたわたしはいったい・・・。
>一穂さんが彼のことをすごーく愛してる『証し』だったりするのよね。
>もう〜、このぉ〜、このぉ〜と言ってみたくなりました。
言われちゃった。てへ(*^w^*)
(じゃなくって・・・本当にまじで悩んでるんですが・・・。)
>『嫉妬』してしまうことで、自分の本当の気持ちに気づいたりする>のよね。
>だから『気になる』ってことは、大切な感情だと思うのよ。
そうなんですかぁ・・・。
やっぱり、ハハなひとのことばは説得力があるなぁ・・・。
ありがとうございます。
〃嫉妬〃なんてしてる自分が、なんだかすご〜くダメに思えて
こんな汚い感情イヤ!って思ってました。
でも、そうじゃなくって
愛してる証なのか・・・。
(*mm*)))))いや〜ん
> 私の場合、子育てにおいての『嫉妬』はあまり役に立っていない>かも・・・・・・。
>息子(AS)は弟にずっと『嫉妬』している感じで劣等感ばっかし>強くなって、
>上の子(AS)の方が社会性に問題を抱えているため、弟に対する>『嫉妬』は
>上の子を苦しめるだけの感情に思える時もある。
>苦しむだけの『嫉妬』は、つらいよね。
>どんな風に支えてあげたらいいのか分からない。
>
> あ〜っ! もしかしたら暗くしてしまったかも・・・・・・。
でもASのお兄ちゃんにはきっと、なにかすごく好きなものとか、特技があるでしょう?
弟から見て尊敬できるくらい、そうゆうとこを伸ばしてほしいな・・・と思った。
社会にはうまく適応できないかもしれないけど、
そのことだけで自分はダメなんだって思ってほしくないな・・・。
なんてわたしったら。
言うのは簡単ですよね。
実際ASのこどもを持ったオカアサンはたいへんなんだろうな・・・。
しょうがない、歌うか。
闇に隠〜れて生〜きる♪
(o^w^o)
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