アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 血液型 8258へのコメント
No.8277  Wed, 24 Oct 2001 09:04:27 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

pennpenn58 wrote:
> ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?

 それはお医者さんに任せるしかありません。現在日本では、まだ「言えば処方してくれる」とか「ADDの症状の改善薬=リタリン」といったことは、極めて慎重でしょう。
 これはリタリンというものが、アンフェタミンという神経興奮剤の誘導体であり、依存性が高いという特徴を持っているからです。リタリンはアメリカで子どものADHDの改善薬として広く用いられているのですが、その点を心配してクリントン元大統領の夫人のヒラリーさんを中心として、「子どもに乱用すべきではない!」というキャンペーンが行われたといいます。また「飲んだら自殺したくなった!」と言った人もいます。
 ですがかなりの有効な治療成績をあげた薬でもあります。「集中力がついた!」「まるで傷ついた私の脳味噌をおおってくれる絆創膏のようだわ・・」「子どもがちゃんということを聞いてくれるようになった。」という意見もあります。また岐阜県にすんでいるお医者さんは、ピクノジェールというヨーロッパ産の松の木からとれる成分を併用することによって、有効的なリタリンの量を患者さんの体内でコントロールすることに成功したとのことです。
 このようにリタリンは「諸刃の刃」と言わざろうえない薬です。私がそういったのは、あくまで「本当に困った場合の最終手段として」ということだと思って下さい。
 
 


Re: 自然主義的誤謬 悪について 8271へのコメント
No.8276  Wed, 24 Oct 2001 08:54:00 +0900  みどり [この発言にコメントする]

蝙蝠 wrote:
>わたしが不思議に思うのは、「なぜ
>、人を殺してはならないのか?」という議論が流行した時、ほとんどの論者
>は「人を殺すのは悪である」という価値判断1の結論を導き出せば、問題に
>終止符が打たれたと考えていたことである。善悪の判断と実行するか否かの
>判断は別問題のはずなのに…。

ああそうか。
こういう論理飛躍を見たときの私の反応は「それじゃ説明になってないだろ!」とか「なにいってんだこいつ」くらいのもので、論者が阿呆なのだと思って終わりだったのですが (もちろん自分が阿呆なこともよくあるけどそれは別問題なのでさておく)、そういう「よくある混同」があって、それがベースになっている場合があるのですね。
いままで、そういう視点で「ずさんな論理がなぜこんなにもまかり通る理由」を考えたことがありませんでした。話し手も聞き手も同じように混同してたらそれでお互い納得できちゃうわけか。

(今まで考えていた方向というのは、「実は正しい理由付けなんて誰も必要としてなくて、自分の信じたい事項についてそれらしい関連事項を提示してくれれば、それだけで裏づけが取れた気分になるのだろう」というものです)

今度そういう機会(?)があったら、「自然主義的誤謬」の分を抽出してみます。その誤謬の起こりかたにも興味があるけど、抽出したあと残っている飛躍分がなにかというのも、おもしろ(?)そう。

# "(?)" をつけたのは、単語の選択が間違ってる気がしてる部分。


Re: アスペルガーかも? 8257へのコメント
No.8275  Wed, 24 Oct 2001 08:53:48 +0900  タレイヌ [この発言にコメントする]

えびす生 さんwrote:

>パニックの時の原因もなんとなく分かるようになった気がします。

その事に気づける先生はなかなかいらっしゃらないのです。
恵まれたお子さんです。えびす生さんも、力量あり!!


>教師としてはそのように関わるように努力しているのですが、
>周りの子へはどう指導したらいいのでしょうか。

彼(あるいは彼女?)が、パニックした時には、その場からちょっと切り離して、何故、困っているのかを問いかけ、本人なりの理由を聞き取った上で、こちら側の状況を説明してあげられると、いいと思います。先生のその対応が、見ている子ども達を刺激して、徐々に、先生と同じ様な対応を、その子に対して心がけるようになると思います。


>親御さんにどうつたえればいいのでしょうか。

カウンセラーのような人を、間に立てて、説明してもらうといいと思います。

>親御さんもなんか変な子だなと思っているみたいです。
>本人も自分がなんかへんだと思っているみたいです。
>
>ぜひいろいろ教えていただきたいのですが。よろしくお願いいたします。

先生方の勉強会のようなものがあります。また、学会もあります。(教師、医者、カウンセラー、親なども関わっている組織です)もしお知りになりたいのでしたら、ご連絡くださいませ。(東京近郊ですが・・・・)


一人の子に、上手くかかわっていただく事で、周りの子は、多くのことを学びます。子供は、先生によって、大きく育てられます。ぜひ、頑張っていただきたいです。

  (タレイヌ)


Re: 間接的殺人について 8272へのコメント
No.8274  Wed, 24 Oct 2001 08:16:55 +0900  るおう [この発言にコメントする]

ケイン wrote:
>
>あなたが幼い頃に、いじめにあっていたとします。
>そのいじめでの精神的な傷により、あなたが子育てを断念するとします。
>
>そうすると、いじめっ子によって子供の命を間接的に奪われたことになりませんか?
>
>《今の社会では このような考えは受け入れられていませんが、、》


そういう考え方もあるのですね。未来に居るはずの子供が居ないんですものね。精神的傷で、子供を生み出して行くことが出来ない。とてもわかります。


Re: helpについて 8270へのコメント
No.8273  Wed, 24 Oct 2001 07:36:55 +0900  みどり [この発言にコメントする]

ぶち wrote:
>みどりさんは「こうして」って
>具体的に要求を言える方ですか?それだったら、全然問題ないん
>じゃないのかな?

言えないのよ〜。問題が小さいときはなんでも言えるんだけど。本気でへこんでるときにはまず説明する気力からしてないし。
言えるような相手がいないという問題なのか、言えない性格だという問題なのかどっちかよくわからないけど。

もう一つは、なにが必要なのか自分でわかってない場合も多いんですよね。他人が困ってるときにどうしてあげたらいいのかわからないのよりはましでも、でも自分が困ってるときもどうしたらいいのか、やっぱりよくわからない。

> 前にみどりさんが「人は自分が信じたいものを信じる」(だっ
>け?)って書いてらっしゃったけど、私は「人は自分のために行
>動する」って思ってます。

そう思ってる人はすごく健全だと思います。


間接的殺人について
No.8272  Wed, 24 Oct 2001 07:06:09 +0900  ケイン [この発言にコメントする]


あなたが幼い頃に、いじめにあっていたとします。
そのいじめでの精神的な傷により、あなたが子育てを断念するとします。

そうすると、いじめっ子によって子供の命を間接的に奪われたことになりませんか?

《今の社会では このような考えは受け入れられていませんが、、》


Re: 自然主義的誤謬 悪について 8265へのコメント
No.8271  Wed, 24 Oct 2001 06:29:18 +0900  蝙蝠 [この発言にコメントする]

補足と訂正…。

蝙蝠 wrote:

> なお、価値判断1と価値判断2を区別したのには理由がある…。両者は一
>見すると矛盾するような結果を導き出すことがあるからだ…。

 つまり、「人を殺すのは悪である」という価値判断からは「故に人を殺す
べきではない」という価値判断も「故に人を殺すべきである」という価値判
断も導き出すことができるのである…。わたしが不思議に思うのは、「なぜ
、人を殺してはならないのか?」という議論が流行した時、ほとんどの論者
は「人を殺すのは悪である」という価値判断1の結論を導き出せば、問題に
終止符が打たれたと考えていたことである。善悪の判断と実行するか否かの
判断は別問題のはずなのに…。

> 話をまとめておこう…。事実から価値判断を導き出せないのと同様、価値
>判断から価値判断を導き出すこともまた不可能である…。ある程度、周囲の
>人間と共通感覚を持つことができる者であれば、感覚的に善悪を判断すると
>いう道も残されているだろう…。しかし、周囲との感覚の不一致に悩まされ
>ている者にとってこれは至難の業である…。犯罪の危険性が遠のいた今でも
>、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。


Re: helpについて 8239へのコメント
No.8270  Wed, 24 Oct 2001 05:41:22 +0900  ぶち [この発言にコメントする]


どうもこんにちは、ぶちです。
みどりさん、お返事ありがとうございました。

みどり wrote:
>私はすごくわがままで、本当に放っておいてほしいときと、構ってほしいときと両方あります。しかも、問題が大きいときには許容できるhelpの方法がすごくせまかったりして、そうか、だから私はあまりhelpが受けられないのか。

わがままとか、「偏屈」(いい響きですね)とかって、自分の
事を掴もうとしている人って、いいですよね。私としては、向か
い合いやすいタイプです。変にぐちゃぐちゃしてない分だけ、聞
きやすいですもん。「何かある?」って。放っておいてって言わ
れれば、放っておけば良いんだし。聞かれるのすら嫌って言われ
ちゃうと、困るんだけど・・・。みどりさんは「こうして」って
具体的に要求を言える方ですか?それだったら、全然問題ないん
じゃないのかな?

ある程度親しい人だと、ペラペラ何でも言えちゃうんで、「私、
時々すごーく人嫌いになっちゃうの。意外な反応する時もあるか
とは思うけど、ごめんね。そういう時はしばらく放っておいて」
って、先制攻撃で言っておきます。そうすると、みんな放ってお
いてくれます。

私もわがままですよ。突き詰めて言えば、私だって「人の事は
どうでもいい」人間なんだし。

前にみどりさんが「人は自分が信じたいものを信じる」(だっ
け?)って書いてらっしゃったけど、私は「人は自分のために行
動する」って思ってます。
私は、近くに「困っている」とか、「怒っている」っていう感
情を持った人がいるのが、苦手なんです。パートナーには「感じ
るな」って言われるんですが、どーにもこーにも気になるんです。
しかも困っている人がなぜか近づいてくる・・・私に強い興味を
示す人って、何かあることが多いです(特に小さい子)。
手伝ってあげたり、人と人との間を取り持つような事をするの
は、私がそうしたいからしたわけです(私も人に助けてもらって
生きているわけだし。お互い様)。

パートナーや子供のために何かするのも、彼らが喜ぶのを見る
と、私が満足できるからしているわけで・・・こう考えると、私
は私のために生きているんだなぁ・・・と思ったりするわけです。


あ、また違う方向へ話しがそれました。ごめんなさい(ぶち)


Re: helpについて 8236へのコメント
No.8269  Wed, 24 Oct 2001 04:52:42 +0900  ぶち [この発言にコメントする]


こんにちは、ぶちです。
pennpenn58さん、初めまして。お返事どうもありがとう
ございました。

pennpenn58さん wrote:
>おしつけがましくないHELPならokかなあ。私は人に助けられたことはあるような気がしますが考えてみると人を助けてあげようとはあまりおもったことがないようなきがします。はっきりと何かしてといわれたらやってあげるけど人の状態を推測してHELPするのはぜんぜんだめです。どうしたらいいのかわからない。

ちょっと話がずれちゃいそうですが、うちのパートナー
(非自閉圏の人。あの性格診断だとタイプ2。そのまんま)
も、やって欲しい時には、言葉で伝えないとだめです。どん
なに困っていても、ほとんど気が付きません(私の事がどう
でもいいというわけではないらしい)。

だから何か要求がある場合には、必ず言葉で伝えるように
しています。なんとなく・・・っていうのは、少ないです。
これがお互いをよく理解するための方法だと思っていますし。
パートナーも「僕は鈍感だよ。君の心の中にある事を読め
って言われても、それは無理だよ。だから僕に動いて欲しい
時には、ハッキリ動いて欲しい内容を伝えて欲しい。これが
すれ違いをなくす一番の方法だと思う」って言ってます。
「言われないと分からない」っていうのは、普通の事だと
思います(そう思わない人も多いけど)。

共感力の話をこうもりさんがなさってますけど、よくある
「非自閉圏の人間は共感力がある」っていうのは、誤解だと
思います。もちろん共感する力の大きい人もいますが、そう
じゃない人もたくさんいます。
人間同士、察してわかる部分ってすくないんじゃないのか
な? 分かり合えてるって勝手に誤解して、そのうちすれ違っ
て、そのすれ違いが元でケンカになるとか、そういう事、と
ても多いんですよ。

「何かあるなら、言葉で伝えて!」っていのは、ごく当た
り前の事だし、頼まれてもいない事はしなくてもいいんじゃ
ないかな?・・・(私って変わってるかしら?・・・)


Re: ちょっと聞いてもいいですか? 8238へのコメント
No.8268  Wed, 24 Oct 2001 04:22:28 +0900  ぶち [この発言にコメントする]


どうもこんにちは、ぶちです。
あさかぜさん、お返事どうもおありがとう
ごさいました。


あさかぜさん wrote:

> 困っているとき助けてもらえるのはとてもありがたいので、わたしは人に尋ねることも人を頼ることもします。具体的な内容を端的に伝えて、相手ができる範囲で助けてもらえればそれでいいので。

それって良い考えですね。
うちの兄(小学生の頃他動と診断された)は、弱音を吐か
ないし、頼らないし、困っている感情すら外に見せないので、
時々どっかでつっかえてたりよくしました。聞いてみると、
彼には苦手で大変な事でも、私にとっては何でもない事だった
り(得意分野の違い)するので、「私がやるよ」ってやったり。
得意不得意があるんだから、そんなに大変なら、頼めばいいの
に・・・って思う事もあるんです。私だって、兄の得意分野で
兄の力を借りる事があるんですから。

得意不得意もありますから、相手にとっては何でもない頼み
事ってあると思うんです。そういう時には、そういう人の手を
借りるのは、すごく良い方法だって、私は思います。

> ただ、こちらの困難の内容が正確に伝わっていない(あるいは相手がなにか誤解している)こともありますので、何度か説明してみてダメなようなら……他の人を探します。人に頼ることが恥ずかしいとか思ったことは、ほとんどないです。
> 「困っている」とは、つまり「自分でできる範囲を越えた困難をかかえている」という意味にとらえての話ですが。

やっぱ、あさかぜさんって、バイタリティーありますね!
すごい! 私は自分の能力を超えているのを知りながら、悶々
として止まってしまう事が時々あるようです(ちょっと兄に
似ている部分もある。パートナーによくそれを指摘される)。
でもそういう時に、なぜか助けてくれる人が来てくれる場合
が多いので、なんとか大事に至らず乗り越えて来ました。

人の力を借りるのって、そんなに恥ずかしい事じゃないし、
それで効率よく事が進むなら、その方が便利な事も多いです
よね(って私も詰まるくせに)。

どうもありがとうございました(ぶち)


Re: 自然主義的誤謬 悪について 8265へのコメント
No.8267  Wed, 24 Oct 2001 01:17:25 +0900  みどり [この発言にコメントする]

蝙蝠さんはじめまして、ってのも変か。

蝙蝠 wrote:
>もっとも、大人になってしまったら生きるための
>したたかさが身についてしまい、そのまま妙に倫理に口うるさい人間になっ
>てしまったのだが…。

身勝手なことを言わせてもらえば、死刑にならないでいてくれて私はとても嬉しい。こんなにおもしろい話をしてくれる人はなかなかいないもの。
こうもりさんの話は大抵、「漠然と感じていたけどちゃんと考えたことがなかったので言葉やまとまった概念にはなってなかった」ことを、ずばっと説明してくれるので読んでいて気持ちがいい。

ただ、話がこうもりさん自身のことに及ぶと、いつもいきなりわからなくなってしまうんだな。
「話はだいたいわかった。私個人としてはとても楽しく読んだ。でも核心部分はさっぱりわからない。こうもりさんがこの投稿をした理由が隠れてそうなんだけど?」という感じ。
で、今回もそうで、話の大半は「うんうん、なるほど、そうだよなあ」という感じで読み進んできたのだけど、最後の一行で悩んでしまった。

というわけでまたも質問。

>、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。

ここでいう、「のしかかる善悪の問題」って、どういう種類のものなんでしょう?


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8262へのコメント
No.8266  Wed, 24 Oct 2001 00:46:59 +0900  みどり [この発言にコメントする]

おもしろそうな話ですね。これを読んで初めて知った概念なのですが、いま調べたばかりの付け焼き刃状態でコメントします。

こうもり wrote:
> こうして考えていくと、医学的な発達障害の診断はどこまで行っても自然
>主義的誤謬の範疇から抜け出すことはできません。ここで「全ては解釈だか
>ら」と言って相対主義に逃げ込むことは可能です。しかし、それは第三者の
>論理であって当事者の論理ではありません。当事者にとって、医学的な診断
>に基づく所属は本人の人生に大きな影響を与えるからです。現在、この問題
>に葛藤しています。

ここでいう「価値」とはなにか、が気になります。事実以外のものは全て価値なのか、それとも善悪の判断に限るのか。医学的診断は「価値判断」になるのでしょうか?
最初の説明のように、『「〜である」は「〜でなければならない」ではない』の後半は、善悪の判断ですよね。
もしも診断の話の最後のところが、「LDとして対処しなければならない」とかなら、この誤謬の範疇に入りそうなんですけど。
「善意の第三者」みたいに、日常語彙とは違う意味の「価値判断」という用語があるのでしょうか?

もう一つ。

> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)

この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながりにおいてどれだけ違いがあるのでしょうか。


みどり自身の場合だったらどうかというと、私は基本的に医者や医学をあまり信じていない (科学が人間の精神はおろか肉体を正しく理解するにはまだ1000年早い、と思っている) ので、医学的な診断は間違いだろうが仮定にすぎなかろうが割とどうでもいいと思っていたりします。(変な投薬されたり必要な治療がされなかったりするのは嫌だけど、診断そのものはどうでもいい)


自然主義的誤謬 悪について 8262へのコメント
No.8265  Wed, 24 Oct 2001 00:39:31 +0900  蝙蝠 [この発言にコメントする]

 蝙蝠参上…

 今回は精神的には安定している状態であるが、少しきわどいテーマを扱う
ことになるので、こうもりの分身「蝙蝠」がコメントをする…。なお、蝙蝠
は悪や狂気の事例を扱いながらコメントしていく事が多いので、ご注意を…

こうもりwrote

> 自然主義的誤謬とは簡単に言えば事実から価値判断を導き出すことができ
>ないという話です。
(中略)
> 精神医学の世界の診断にも自然主義的誤謬は深刻な影響を与えます。例え
>ば、精神科医が厳密な検査や臨床像の観察に基づいて診断を下す場合でも、
>最後はやはり価値判断を必要としています。その場合の価値判断は「通常の
>健常者はかくかくしかじかである」という事実から、患者本人がそれから逸
>脱しているという価値判断を導き出さなければなりません。そして、その逸
>脱に対してさらに価値判断をすることによって、「〜障害である」という診
>断が導き出されるのです。(これをわたしは二重の価値判断と勝手に命名し
>ております。これが三重の価値判断,四重の価値判断になっても話の構造は
>変わりません)

 こうもりはここでヒュームの学説から離れて、事実から価値判断を導く場
合だけでなく、価値判断から価値判断を導く場合があることを指摘した…。
(二重の価値判断)数年前に流行した「なぜ人を殺してはならないのか」と
いうテーマを例に挙げれば次のような構造になる…

(例1)
・人は人を殺すことができる(事実)
       ↓
・人を殺すのは悪である(価値判断1)
       ↓
・故に人を殺すべきではない(価値判断2)

 つまり多くの人は事実から価値判断を導き出すだけではなく、「人を殺す
のは悪である」という価値判断から「故に人を殺すべきではない」という新
たな価値判断を下す場合があるのである…。価値判断から価値判断を導き出
すのもある種の誤謬の一例と言えよう…。

 なお、価値判断1と価値判断2を区別したのには理由がある…。両者は一
見すると矛盾するような結果を導き出すことがあるからだ…。例えば、不肖
蝙蝠は青年時代に「人を殺すのは悪である」(価値判断1)という価値観を
持ってはいた…。しかし、それでも「わたしは人を殺すべきだ」と考えてい
たのである…。蝙蝠は子供の頃、いじめによる自殺が流行した時に、同級生
から「お前が自殺すればいいのに…」と言われ続け、自殺をすることすらで
きない状態にあった…。蝙蝠は自殺をせずに死ねる方法を考え続けた…。誰
にも同情されずに死ぬ方法を考え続けた…。それこそが「社会的に悪と見な
される殺人を行うことによって、死刑になること」だったのである…。しか
し、蝙蝠は成人になる前に人を殺しても死刑になることができず、少年院に
しか行くことができないことを知っていた…。だから、大人になってから人
を殺そうと思っていた…。もっとも、大人になってしまったら生きるための
したたかさが身についてしまい、そのまま妙に倫理に口うるさい人間になっ
てしまったのだが…。ともかく、「人を殺すのは悪である」という価値判断
から必ずしも「人を殺すべきではない」という結論を導き出せる訳ではない
ことはお分かりいただけたと思う…。よく、「やっていい事と悪い事の区別
も分からんのか!!」という説教を耳にするが、両者の区別がついていても
あえて悪の道を選ぶことはあり得る…。

 逆の場合を想定してみてもよい…。

(例2)
・人は人を殺すことができる(事実)
・人を殺してもよい(価値判断1)
・ゆえに人を殺すべきである(価値判断2)

 この場合も、「人を殺してもよい」という価値判断1と「人を殺すべきで
ある」という価値判断は必ずしも結びつかない…。仮に「人を殺してもよい
」という価値判断が与えられたとしても次のような反論が想定されるからで
ある…。

(1)例え、どんな理由があっても人を殺すことは許されない。
(2)特に人を殺さなければならない理由を持っていない。
(3)人を殺してもよいと思うが、法律や制度や多数派の支持を後ろ盾にし
   て、実現すべきではない。
(4)社会的に許容された行為には一切魅力を感じない。
(5)社会にどんな決まりがあろうと、わたしがそれに従わなければならな
   い理由はない。

 おそらく、今のわたしが他人から「人を殺してもよい」とほのめかされた
場合でも、上記の理由のうちのどれかで拒否してしまう可能性が高いと思う
…。どの理由で拒否するのかは秘密だが…。「人を殺さなければ、お前を殺
す」と脅されても事情は変わらないと思う…。

 話をまとめておこう…。事実から価値判断を導き出せないのと同様、価値
判断から価値判断を導き出すこともまた不可能である…。ある程度、周囲の
人間と共通感覚を持つことができる者であれば、感覚的に善悪を判断すると
いう道も残されているだろう…。しかし、周囲との感覚の不一致に悩まされ
ている者にとってこれは至難の業である…。犯罪の危険性が遠のいた今でも
、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。


Re: 質問(あなたが自閉症の子どもに最初に伝えたいメッセージはどんなものですか?) 8256へのコメント
No.8264  Wed, 24 Oct 2001 00:31:36 +0900  ミッドランド [この発言にコメントする]

シンタロウさん wrote:
> あと、「健常者をぶん殴ってもいいんだよ!」「健常者が意地悪してきたら殺しなさい!」「健常者にムカついたら殴り殺しなさい!」「俺達自閉人は健常者より優れているんだ!」「下等な健常者を皆殺しにしろ!」「この腐った世界をぶっ壊せ!」

 そりゃあいくらなんでもマズいでしょう。そんな言葉は「アスペルガーはとんでもないことを考えるヤツだ」と思われてしまうだけで、ますます「いわゆる普通の人」との距離を広げるだけのような気がします。
 あと、軽軽しく「殺せ」などと言わない方がいいですよ。

>>     #生きるための書
>>#君は生まれてきてよかった。
>>#みんなは本当は君が生まれてきたことを本当はよろこんでいる。
>>#生きるのだ。
>>#君にとって楽しいことは、きっとある。
>>#それが私にはわかる。

> てゆうか、健常者には↑の本を読んでも俺達の気持ちなんて分かる分けネエよ!!

 前々から気になっていましたが、その「いわゆる普通の人」(健常者)を「悪」と決め付けて罵倒するのは、もうやめにしてもいいのでは? 
 その考え方は「障害者」と「いわゆる普通の人」の間にすれ違いを生じさせるだけで、ひとつも進展がないと思うんですよ。
 いまのシンタロウさんには難しいことかもしれませんが……。

 もし気を悪くしたようでしたらごめんなさい   ミッドランド


自然主義的誤謬 発達障害
No.8262  Tue, 23 Oct 2001 23:23:31 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 対して目新しい哲学上の見解ではないけど、わたしが気になっているテー
マの1つに自然主義的誤謬というものがあります。これについて、発達障害
を題材にして考察を加えてみたいと思います。なお、ここでは自己評価の問
題ではなく、医学的評価の問題のみを扱うことにします。

 自然主義的誤謬とは簡単に言えば事実から価値判断を導き出すことができ
ないという話です。このことにはじめて気がついたのは17世紀のイギリス
の哲学者デービッド・ヒュームでした。彼は「〜である」(事実)から「〜
べきである」(価値判断)を導き出せないという形で問題を提示しました。
この論理でいけば、「男である」という事実から「男らしくなければならな
い」という価値判断を導き出すことはできないし、「人間である」という事
実から「人間らしくなければならない」という価値判断を導き出すことはで
きなくなります。

 自然主義的誤謬は現在存在する諸学問にとって鬼門のような存在です。ど
んなに客観性を重視する学問でも、資料やデータ(事実)を解釈分析する場
合には価値判断が必要になるからです。もし全ての学問から価値判断を取り
除いてしまったら、諸学問に可能なのは資料とデータの集積だけになってし
まうでしょう。最も重大な影響を受けた学問は善悪という価値判断を扱う倫
理学でした。例えば「人を殺した」という事実から「人を殺すのは悪である
」とか「人を殺してはならない」という価値判断を導き出すことさえ無理だ
という話になってしまうのですから。現在でも自然主義的誤謬に対する全面
的な反論は打ち出されていません。唯一サールという哲学者が制度,習慣,
約束,義理,黙約などの拘束下の置かれている場合にのみ、事実から価値判
断が可能になるということを証明しているに過ぎません。

(例)

・AさんはBさんにお金を5ドル借りて、「必ず返す」と約束した。(事実
 )
                ↓
・AさんはBさんにお金を返すという義務の拘束下に自分を置いた(事実)
                ↓
・ゆえにAさんはBさんにお金5ドルを返さなければならない(価値判断)

しかし、この例はあくまで義務が発生している時だけに成立する関係であり
、学問の世界ではほとんど役に立ちません。

 精神医学の世界の診断にも自然主義的誤謬は深刻な影響を与えます。例え
ば、精神科医が厳密な検査や臨床像の観察に基づいて診断を下す場合でも、
最後はやはり価値判断を必要としています。その場合の価値判断は「通常の
健常者はかくかくしかじかである」という事実から、患者本人がそれから逸
脱しているという価値判断を導き出さなければなりません。そして、その逸
脱に対してさらに価値判断をすることによって、「〜障害である」という診
断が導き出されるのです。(これをわたしは二重の価値判断と勝手に命名し
ております。これが三重の価値判断,四重の価値判断になっても話の構造は
変わりません)

 話を発達障害に限定しましょう。発達障害もまた価値判断なしに診断を行
うことはできません。例として医学的LDを挙げておきましょう。当然の事
ながら、この例は他の発達障害の例に置き換えても当てはまります。

(例)

・Aくんは10才で一桁のたし算・ひき算ができない(事実)
                ↓
・通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判
 断1)
                ↓
・故にAくんはLDと診断される(価値判断2)

 こうして考えていくと、医学的な発達障害の診断はどこまで行っても自然
主義的誤謬の範疇から抜け出すことはできません。ここで「全ては解釈だか
ら」と言って相対主義に逃げ込むことは可能です。しかし、それは第三者の
論理であって当事者の論理ではありません。当事者にとって、医学的な診断
に基づく所属は本人の人生に大きな影響を与えるからです。現在、この問題
に葛藤しています。


Re: 血液型 8258へのコメント
No.8261  Tue, 23 Oct 2001 23:12:29 +0900  るおう [この発言にコメントする]

pennpenn58 wrote:
> るおうさん。レスありがとう。うれしいです。今酔っぱらってる?私は気持ちよくなる前に気持ち悪くなる。

itido haite mata nonndemasu

> ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?

soreniそれについては、私は存じませんがm他ノ人がわかるでしょう。


健常マジうぜーーーーーーーー!!!!
No.8260  Tue, 23 Oct 2001 22:35:05 +0900  シンタロウ [この発言にコメントする]

健常マジうぜーーーーーーーーーーーーー!!


どーしたら?
No.8259  Tue, 23 Oct 2001 22:18:21 +0900  hirochan [この発言にコメントする]

はじめまして、子供とかかわる仕事をしています。教室に入れず、人間関係がうまくとれず、母親自身もASと言われている中3の女の子がいます。かかわり始めてから、1年半児童相談所にもかかっています。小児精神科の診断では、ASとのことでした。今引きこもろうとしていますが、大人として、何が彼女に必要で、何ができるか???それともこのままほっておいていいものなのかどなたか教えてくださいませ。


Re: 血液型 8250へのコメント
No.8258  Tue, 23 Oct 2001 22:04:12 +0900  pennpenn58 [この発言にコメントする]

るおう wrote:
>pennpenn58 wrote:
>>でも大事なのは人を尊重する姿勢があることかな?
>あれま!同じですね。私はそういう人が好き。そしてそのかわり私のことを尊重しない人は嫌いになってしまいますが。。
>>でも私は友人が少ない。
>同じく。。
>人を大事にしない人が多いから。私も縁を切るし。
>大事にしたいと思うと、少なくなるのだろうか?
>まあ。
>しかし
>以前
>、、私に電話をするのは、電話に出て欲しいからなのか。と言われたときには絶句しました。色々な知人がいるものです。
>
>因みに。ストレス性飲酒の真っ最中。

 るおうさん。レスありがとう。うれしいです。今酔っぱらってる?私は気持ちよくなる前に気持ち悪くなる。

 ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?

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