アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
みなさんおはようございます。
僕が最近疑問に思っているのは、みなさんが「自閉症の人のケア」というものに
対して、どのような到達点を求めているのかな?ということです。
先週ごろムーミンさんが就労支援に対するアンケートをだしましたが、誰も答えませんでした。
これはそれよりも重要なケアに対する課題があるということなのだろうと思います。
そこでみなさんに質問です。
あなたは「自閉症の人のケアのゴール」というものは、どうあるべきだと思っていますか?
えびす生 さんwrote:
>アスペルガーと診断されたわけではなく
>アスペルガーの状況とよく似ている点が多いとしか言えないのですが
診断は、とても難しいと思います。
ご本人、親御さん、その他、多くの人が時間をかけて行うものですから。
>そのように判断してから
>接し方が変わってきた自分がいます。
診断とは別に、どうやって接していくかは、力量のあるかただと、自力で、ある程度まで、こなす事は可能です。
(えびす生さんは、力量ありと、判断している、タレイヌ)
>そうして
>わがままだ、自己中だと思っていたのが
>素直な子だ
>という見方に変わってきました。
それは、とても素晴らしい事だと思います。視点の変換は、普通、とても難しい事で、どなたにでもできることではありません。
>
>でも、
>今日あまりにも丁寧な私の態度に
>ぎゃくに彼女は傷ついてしまったかもしないと今思っています。
>「わたしはばかじゃないのに」
>「私の障害 私の個性」に中に何度がでていた表現
>そんな気持ちにさせてしまったかもしれないと思って
>いま自己嫌悪中です。
(ちょっと、それますが、彼女が、そう感じる事自体は、これからもあるし、あって当たり前なのです。成長していくのには、必ず必要なステップです。ただ、おなじ状況は、此の先作らないですむほうがいいですよね。でも、自己嫌悪するくらい、えびす生さんご自身が認識できている事は、重要で、大切な事だと思います)
>ううん、教育って難しい。
>先生って難しい。
多くの力量ある先生方が、周りからの圧力や、たった一人で頑張りすぎて、潰れてしまうのを見てきました。
実は、タレイヌの長男は、LDでした。(過去形なのは、今なら、たぶん、アスペルガー症候群と診断されたと思うから)
小学校1年生で、運良く、力量ありの、担任にあたり、カウンセラーとのつながりをもてたことで、彼なりの生き方を、見つけて、今に至っています。(現在22歳)
先生お一人の力では、限りがあると思います。(えびす生さんを、せめているわけでは、ありません。)良い感性をお持ちなので、ぜひ、色々な立場の方と、上手に連携することで、えびす生さんがまず、自信を取り戻し、その上で、彼女の成長に、将来の見通しを持って「今」を接していってもらいたと、願っているのです、切に・・・。
お気持ちがあれば、上部「タレイヌ」の、ブルーの文字をクリックすれば、タレイヌ個人のアドレスに繋がります。もし、おいやでなければ、ご連絡ください。
現在の、えびす生さんの、悩みは、本気になっている先生方の、多くが、模索なさる事です。同様の経過を辿り、頑張りつづけている先生方を、ご紹介できるかと思っております。(因みに、長男の担任だった先生も、退職なさいましたが、いまだに教育にたずさわっておられますし、タレイヌとも親密な付き合いになっております)
(タレイヌ)
この「自然主義的誤謬」とかいうものを防止するには、その「価値」というものに対して、「なぜそういえるのか?」「本当にそれは正しいのか?」「・・・であるものは、どう扱うべきか」という、懐疑・検証・対策ということを
意識しなければならないのではないでしょうか?
みどりさん wrote:
>そういえば、善悪の判断って、どうしてもしなきゃいけないものなんですかね?
>なんで私は (おそらく他の人も?) 普段、「これは悪いことじゃない!」とか、
>そういうことを考えてるんだろう。悪くなかったらなんだっていうんだろう。
もう1つの顔であるこうもりの個人的事情について言えば、あやふやな状態
に耐える耐性が極端に低いためもある…。こうもりは「自分の障害が発達障害
のどこに位置付けられるのか分からず、混乱している」という理由で、とある
病院を受診して検査を受けた…。今月のことである…。
悪の問題についても、善悪のあやふやな関係に耐えられずに学び始めた可能
性が高い…。それがわたし蝙蝠の「悪に対する異常な興味」と結びついて、今
に至っている…。
話は変わるが、「なぜ、悪いことをしてはならないのか?」「なぜ、道徳的
でなければならないのか」というテーマについてはニーチェがすぐれた分析を
行っている…。原典を読むのは難しいが、永井均氏と笹澤豊氏が面白い解説書
を出しているので参考にされたい…。
永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書)
笹澤豊『道徳とその外部』(勁草書房)
こうもり wrote:
>>こうもり wrote:
> 実はこの定義に引っかかるようであれば、立派に自然主義的誤謬に基づく解
>釈をしていることになるんです。上記の1文はあえて自然主義的誤謬に抵触す
>るような形で表現しています。
表現を誤まりました。「この定義に引っかかるようであれば、自然主義的誤
謬の概念を正しく理解している」というのがより正確な表現です。
みどりさん wrote:
>こうもり wrote:
>> ここで使用している正常と異常は
>>(1)正常…通常はこうあるべきである
>>(2)異常…通常はこうなるはずはない
>
>(いきなり話がそれますが、「通常」と「べき」がセットで書かれると、すご
>ーくひっかかるんですよね。警報がなる感じ。)
実はこの定義に引っかかるようであれば、立派に自然主義的誤謬に基づく解
釈をしていることになるんです。上記の1文はあえて自然主義的誤謬に抵触す
るような形で表現しています。
>
>> 当然のことながら、自然主義的誤謬の世界ではこのような価値判断は一切無
>>効になります。それは性による差別の問題とは一切関係なくです。
>(中略)
>> つまり、臨床的な事実から診断を下すという行為も自然主義的誤謬の範疇に
>>入ってしまうのです。
>
>このあたり、なぜかわかりませんが、読んでるとなんとなくトートロジーな感
>じが沸いてきてしかたがないのです。きっとなにかを大きく見落としているの
>でしょう。
自然主義的誤謬も徹底的に排除していくと、トートロジーにつながっていく
のかもしれませんよ。ヒュームは「である」から「べきである」という結論を
導き出すことによって「(これまで論じてきたこととは違う)新しい世界が開
けてしまう」と述べています。
また、ムーアという近代倫理学の祖ともいうべき倫理学者の著作はヒューム
の影響を受けているのですが、トートロジーなのではないかという批判が絶え
ません。だからみどりさんの理解は意外に正しい理解なのかも。
どうも、ややこしい文章ですみません。
蝙蝠 wrote:
> 哲学を学んでいるうちに価値判断が成り立たない領域に入りつつあるため、
>これまで考案してきた倫理思想をもう1回再構成しなければならなかなってき
>たからである…。感情に訴えて善悪を判断する方法はもはやわたしには通用し
>ない…。そして今、理論による善悪の判断も自然主義的誤謬の存在によりいき
>づまりはじめている…。
そういうことでしたか。
そういえば、善悪の判断って、どうしてもしなきゃいけないものなんですかね?
なんで私は (おそらく他の人も?) 普段、「これは悪いことじゃない!」とか、そういうことを考えてるんだろう。
悪くなかったらなんだっていうんだろう。
ああそういうことか。こうもりさん (or 蝙蝠さん) はとっくの昔にこういう道を通ってここへ至るわけなのかな。
(やはりというべきか) 付け焼き刃ではこの話を続けるのは難しそうですね。
本題については本を読んだりしてもう少し考えてからまた (忘れた頃になるかもしれないけど) 出直してきたいと思います。
こうもり wrote:
> ここで使用している正常と異常は
>(1)正常…通常はこうあるべきである
>(2)異常…通常はこうなるはずはない
(いきなり話がそれますが、「通常」と「べき」がセットで書かれると、すごーくひっかかるんですよね。警報がなる感じ。)
> 当然のことながら、自然主義的誤謬の世界ではこのような価値判断は一切無
>効になります。それは性による差別の問題とは一切関係なくです。
(中略)
> つまり、臨床的な事実から診断を下すという行為も自然主義的誤謬の範疇に
>入ってしまうのです。
このあたり、なぜかわかりませんが、読んでるとなんとなくトートロジーな感じが沸いてきてしかたがないのです。きっとなにかを大きく見落としているのでしょう。
> 発達障害の診断ではBの寄り道がどうしても必要です。仮に医学的に健常と
>評価される子供の発達と違いがあったとしても、事実のみを記述する場合は、
>「健常児とは発達においてこの点が違う(あるいは遅れている)」という記述
>しか行うことができません。これに「障害」とか「困難」とか言う価値判断を
>加えた時にはじめて診断は成立します。しかし、「障害」とか「困難」という
>価値判断を加えた時点で、診断は自然主義的誤謬の範疇に含まれてしまうので
>す。
ああ、それだとなんとなくわかる気がします。
しかしまだなにかが気持ち悪い。なにが気持ち悪いのかよくわからなくてさらに気持ち悪い。
>従って、自然主
>義的誤謬は他者に向かって語りかけられた事実ではなく、ヒューム自体が抱え
>ていた違和感なのです。ヒューム自身は真理を追究する学究の徒であったため
>にこの問題にひどく苦悩していたと言われています。
なるほどね。調べてみるのがさらに楽しみになってきました。
> 今のわたし自身はとてもじゃないが、自然主義的誤謬を犯さない形でコメン
>トをすることはできません。わたしのコメントから価値判断を排除してしまえ
>ば、何もコメントすることができなくなってしまいます。
「自然主義的誤謬を犯すコメントをする」というのは、少し前の「間違いであることと実際するかしないかは別だ」という話に見事にマッチしていて素敵です。
どうもあさかぜさん、こんにちは。
あさかぜさん wrote:
> そうなんですよ。効率が効果的なときは、そうするのがいいと感じます。でも、効率がすべてではない事柄って、世の中には多いように思います。人間関係なんかはそれが典型的ですね。夫婦関係・親子関係・家族関係なんかは「濃い」関係なので、時間がかかっても仕方ないと思います。
あ、このあたりは大丈夫です。人間関係に関してはなぜか気が長いですから。
私の詰まる原因って、実はとんでもなく簡単な事だったりするから。どう目的地にどう行ったらいいのかわからないのに、まわりの人に聞けないとか、問い合わせの電話がかけられないとか。特に私は電話が苦手。
後で、「さっさとやれよぉ(自分に)」「もっと早く頼めば良かった」って思うのに、やってしまうんです(現在英語圏で生活しているので、コミュニケーションで、ケッコウ苦労している。あの手この手でかろうじて目的は達しているんですが、落ち込むこともしばしば・・・)。
(ぶち)
武田好史 wrote:
>>>>Cくんは呼んでも返事しない。
>>>>返事をしない子は耳に障害がある。
>>>>ゆえにCくんは耳に障害がある。
みどり wrote:
>ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。
武田好史 wrote:
>>そこなんです!
> Cくんを含めた「呼んでも返事しない子」について、「返事をしない」理由考えてみて下さい。
:
>診断という作業は特定の「ガテゴリー」に患者を当てはめるのではなく、多角的な視点から見ていかないと、患者さんを本当に苦しめてい
るものを見逃してしまうのでしょう。
えーと文脈がまったくわからないんですが…
「考えてみてください」というのは、誰に対して話しかけているんでしょう? 私?
最初の三段論法まがいにはどういう意味があったのでしょう??
自然主義的誤謬の話との関係は続いてます? それとも関係ないこと?
また失業してしまいました。原因は上司と合わなかったからです。みんながなにかをしゃべる。それについてなにか答える。笑う。私はいつもそれに着いていけない。
何で笑うんだろう。おかしくないのに。といつもいつも心の中で何度も何度も繰り返す。なぜ私にはできないのだろう。いつもみんなをいぶかしげに見てしまう。
私はもう43才になる主婦です。でも子どもの頃からみんなを私とはちがう生物のように感じてしまう癖は治らなかった。私は何だか地球人に紛れ込んだ宇宙人のように孤独です。
お返事ありがとうございます。
アスペルガーと診断されたわけではなく
アスペルガーの状況とよく似ている点が多いとしか言えないのですが
そのように判断してから
接し方が変わってきた自分がいます。
そうして
わがままだ、自己中だと思っていたのが
素直な子だ
という見方に変わってきました。
でも、
今日あまりにも丁寧な私の態度に
ぎゃくに彼女は傷ついてしまったかもしないと今思っています。
「わたしはばかじゃないのに」
「私の障害 私の個性」に中に何度がでていた表現
そんな気持ちにさせてしまったかもしれないと思って
いま自己嫌悪中です。
ううん、教育って難しい。
先生って難しい。
すみません。
弱音吐かせてください。
武田好史 wrote:
>みどり wrote:
>>武田好史 wrote:
>>>Cくんは呼んでも返事しない。
>>>返事をしない子は耳に障害がある。
>>>ゆえにCくんは耳に障害がある。
>>>
>>>この論法は明らかにおかしいですよね。
>>
>>ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。
>
そこなんです!
Cくんを含めた「呼んでも返事しない子」について、「返事をしない」理由考えてみて下さい。
回りの子がおしゃべりをしていたために、「...くん」という呼ぶ声が聞こえなかったのかもしれません。
何か楽しいことに没頭してしまって、呼ばれたことに気づかないのかもしれません。
耳は聞こえているけど、言葉が不自由で「ハイ!」と返事できないのかもしれません。
このように「耳に障害がある」以外のいろいろな理由があります。これらはすべて、「返事をしない子は耳に障害がある」という命題の反例になります。
ということから、「呼んでも返事をしないCくんは、耳に障害を持っているとは限らない」ということになります。
診断という作業は特定の「ガテゴリー」に患者を当てはめるのではなく、多角的な視点から見ていかないと、患者さんを本当に苦しめているものを見逃してしまうのでしょう。
みどりさん、こんにちは。
>ただ、それを押して拾い食いしてるのを、他人に文句言われる筋合いはないと思います。
>(周囲にいた友人が他人のフリするのを止めることもできないだろうけど)
僕がやらかした時は、ランドマークタワーの入り口で、人が「たーくさん」居ました。でもその時は、周りは気になりませんでした。
アイスの方が大切らしい……。
一歩間違えれば、ガードマンにつかまってたかもしれませんね、と友達に言われてました……(疲。
みどり wrote:
>後半がよくわかりません。「男らしくなければならない」と「正常異常」って
>どう結びつくのでしょう?
そうか。正常・異常の意味をいつもと違う意味で使用していましたね。ここ
で使用している正常と異常は
(1)正常…通常はこうあるべきである
(2)異常…通常はこうなるはずはない
という意味です。性別の問題に限定するならば肉体的な性が男である人が男と
いうジェンダー(文化としての性に当てはまる行動や挙動,ルックス)に従っ
ていれば、彼は「正常」と見なされてしまう可能性が高くなり、女性のジェン
ダーに従って行動すれば「異常」とみなされてしまう可能性が高くなります。
当然のことながら、自然主義的誤謬の世界ではこのような価値判断は一切無
効になります。それは性による差別の問題とは一切関係なくです。
>たとえば、「あなたは肺炎にかかっています」や「胃がんではありません」
>も「価値判断」ですか?
価値判断と考えています。肺炎や胃がんには詳しくないので、風邪を例にし
て説明します。医学的に風邪と呼ばれている状態について事実だけを記述する
場合は、「せきをしている」「熱が高い」「鼻水がでている」という個別の臨
床像だけは記述することができます。しかし、そこに「これは風邪である」と
いう診断を下した場合は、やはり価値判断ということになります。
つまり、臨床的な事実から診断を下すという行為も自然主義的誤謬の範疇に
入ってしまうのです。
>3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。
>
>A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
>B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
>C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)
>Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
>医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。
発達障害の診断ではBの寄り道がどうしても必要です。仮に医学的に健常と
評価される子供の発達と違いがあったとしても、事実のみを記述する場合は、
「健常児とは発達においてこの点が違う(あるいは遅れている)」という記述
しか行うことができません。これに「障害」とか「困難」とか言う価値判断を
加えた時にはじめて診断は成立します。しかし、「障害」とか「困難」という
価値判断を加えた時点で、診断は自然主義的誤謬の範疇に含まれてしまうので
す。
># 本当は =>C の前には「LDとは〜である」という命題 D が入るし、ここは
>ここで中のボリュームが大きそうですが。
これをやってしまうと今度は規約主義的誤謬という問題が発生してきてしま
うことになります。つまり、診断を行う際に臨床像の観察ではなく、はじめか
らあった解釈体系に、患者を当てはめていっただけなのではないかという問題
です。この場合は「価値判断から事実を導き出す」という新たな誤謬を生み出
すことにつながります。
> 「自然主義的誤謬」論自体を疑うという方法もあるけど。そういう誤謬がた
>くさんあったからといって、なぜ事実から価値を導くのはつねに間違いである
>と言えるのか。それ自体が誤謬じゃないのか。そもそも「つねに間違い」と言
>ったのだろうか、「よくある間違いだから気をつけろ」と言ったのだろうか。
自然主義的誤謬の創始者であるヒューム自体の哲学の特徴は、周囲の人間の
認識と自分の認識のズレを徹底的に考察したことにあります。従って、自然主
義的誤謬は他者に向かって語りかけられた事実ではなく、ヒューム自体が抱え
ていた違和感なのです。ヒューム自身は真理を追究する学究の徒であったため
にこの問題にひどく苦悩していたと言われています。
しかし、長い歴史のなかで自然主義的誤謬に全面的な反論を加えることに成
功した人はいないため、彼の苦悩は哲学・倫理上の一大問題として後世に残さ
れることになったのです。これに全面的に反論することができれば、自然主義
的誤謬の問題は克服されることにはなります。もっともその後にはヴィトゲン
シュタインの世界との葛藤が残されるような気がしますが…。
ちなみに、「それ自体が誤謬じゃないか」という反論はもっともです。哲学
史に残る言説の多くは本人の首を締めるような性質を持っています。逆にそう
言う言説の方が後世に残されることが多いような気がします。
>もとの論文か適当な解説書を読まなきゃいかんかな。理解できるんかなぁ。
>なんかおすすめの本あります?
加藤尚武著『現代倫理学入門』(講談社現代学術文庫)の第7章がお勧めで
す。
(PS)
今のわたし自身はとてもじゃないが、自然主義的誤謬を犯さない形でコメン
トをすることはできません。わたしのコメントから価値判断を排除してしまえ
ば、何もコメントすることができなくなってしまいます。
KILROYさんは以下のように書かれました:
>i wrote:
>> とはいえ魚座のOと蠍座のABには何かある気がしてならない。
>
> Lingkoさん wrote:
>>あのー。ワタクシ魚座のOなんですけど……。
>
> なにせ確率的には四十人に一人しかいないのでそうそう大勢に会った訳ではなく、断定的なことは言えないのだが、なんとなく「常識人で有能で変わり者で自己肯定的」という共通した要素がありそうに思う。見たところ快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひとなのだが、興味の対象がちょっとヘンなもので、いわゆる「普通の人」は「ああっ、わからない」と頭を抱えてしまうのだ。
ふむー。いーじゃーん。信じなくてもなお、励みとして使えそうな気がしますもの。これで信じていたら、プラシーボ効果か何かで、なおさら励み効果が得られそうなのにと思えば残念でもありますが。
有能に関しては能力という要素が関わってくるからまあ置いといて。
「常識人」に関しても、実際に常識を学ぶ能力、学んだことが実践できる余裕といった壁はあるかもしれないにせよ、方向性としては私、常識人志向ですから。
なかなかいつも「快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひと」にはなれないのだけれど、本当はそうありたいと思っているし、努力の方向もそっちをむいています。なぜなら、「快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひと」は、他人から必要以上のエネルギーを奪わないといいますか、人をぎょっとさせる必要のあるとき(どうしても言うべきことを言わねばならないときか、いたずらをするとき)を除いては、人を驚かせる出かたをしませんから。
もしかしたら私自身、驚くのが苦手なだけに、驚かせたい場面以外では人を驚かせる出かたをしない人を見ていると「目やすい」(もしかしたら大阪のことばかも)と感じるのかもしれません。ムダな場所で他人の驚き対応・立ち直りキャパシティを消費せず、自分の驚かれ場面収拾エネルギーも消費しなくてすむでしょう。
ただ、「出かた」ではなく、人にむかっていないときから変わらない、その人の「ありかた」が人に驚かれてしまうのは別ですけども。だいいちこれはムダな場面じゃない上に、「ありかた」が人に驚かれる機会は、「出かた」にくらべたら急場に少なく、お互いゆったり何かの本題を話しているときに多いこともあるし。
この掲示板の別のツリーでも登場している「常識」ですけれど、同じ「常識」ということばで示される範囲の中に、何種類もの素性のちがう概念が同居しているから話がめんどうになっているのではないかと思うのです。その中で、「あえて驚かせる必要があるとき以外に人を驚かせることを減らす方針の一つ」としての「常識」は、お互い省エネのために有用だと私は思っています。
私にとって、「人当たりのいい常識人(複数形)」は、驚き対応・立ち直りキャパシティに響きにくい存在というばかりでなく、一度学んだ知識の汎用性が高い、ありがたい存在でもあります。せっかく覚えたてのことがそのまんま使えたら、だって、うれしいじゃないですか。その上に「自己肯定的」な人とあれば、自己否定的なところをつぎはぎするための小細工が少ないがゆえに、なおさら例外事項が少ないときています。
私は自分が疲れてばかりいるから、人を疲れさせない人がありがたくて、だから、人を(必要なときしか)疲れさせない人になりたいという方向に努力しているのです。
これがもし、私が、別の方針を持って努力している人であったなら、あんまり嬉しくなかったでしょうね。良い悪いじゃなく、行きたい方角を向いてるかどうかの話と思ってくださいね。
武田好史 wrote:
>Cくんは呼んでも返事しない。
>返事をしない子は耳に障害がある。
>ゆえにCくんは耳に障害がある。
>
>この論法は明らかにおかしいですよね。
ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。
もしくは、「返事をしない子は〜」で文に省略されている部分と、最初の文で省略されている部分に相違があります。両方省略してあるから見た目似てますが、全然違います。
ワイドショーに出てるような人たちはよくこういう間違いをします。意図的なんじゃないかと思うほどよくやります。(じゃあなんでそんな番組を見てるんだ? > 自分)
ぷちさん wrote:
>Mariaさん、お返事ありがとうございました。ぶちです。
いえいえ、お役に立てればうれしゅうございます。
>うーん、私は「古狸」だから「まずい」って言わない(言えない)かな?
>事実は事実でも、やっぱり相手を怒らせるか悲しませるかになる、確率が
>高いから。
病気をしているときは食欲もないし、味覚も変わっていますから、それを説明したうえで具体的にどんな風にまずいかは伝えておいたほうがいい……というか、伝えられる関係にはなっておくといいと思います。末期ガンの患者さんが、鎮痛剤のモルヒネを飲むのがしんどいというので、シャーベットにしたら喜ばれた、という話もあったりしますし。栄養を取る、というのは病人にとって大事なことですから、看護してくれているひとに遠慮して無理にまずいものを食べるというのは、看護してくれているひとにも失礼かも、という考えかたもありますし。
“Just a spoonful of suger makes medicine go down.”(映画『メリー・ポピンズ』より)という言葉もあります。
>> ・できれば、普段から、なにかあったときのためにお互いが手伝える
>>ことをあらかじめ予行練習しておく。
>3は半分わかりました。半分っていうのは、例えば限られた友人、同僚、
>家族なんかの場合は、実現可能だから、その部分については理解したと
>いう事です。でも相手が不特定多数の場合は、予行演習のしようがない
>です。
防災訓練に参加するとか、救急法の講習会に参加しておくとかいうのは、いかがでしょうか。
あるいはご町内の行事に参加するだけでもけっこういいんじゃないでしょうか。何十人ぶんものご飯を炊いたり、豚汁とかカレーとかを作れたり、何百個というおむすびを手早く握れるだけでも、これは相当の戦力になります(とはいえ砒素入りカレー事件とかがあったものだから、こういう行事って下火になっちゃったんだよな。あっても仕出し弁当だったりするし)。ご近所どうしの連絡を密にしておくだけでも、たとえば火事になったときに「あそこの家には子供がいる」とか「身体の不自由なお年寄りがいる」とか、その人たちがいつもどこで寝ているとか、そういうことが分かるだけでも消火救援活動の助けになります。
>> 仕事の場合は、「バディ・システム」といって、どっちかが一時的に
>>戦力外になってもお互いがフォローできるような体制をふだんから作っ
>>ておくことがあります(チームの場合は「減員操法」というのがあります)。
>バディにしないでも、情報を一人が溜め込まないという方法は、どこの会
>社でもとっているんじゃないでしょうか? 情報の共有化っていうか……
>そうじゃないと一人欠けると全体が動かなくなるし。
「一人欠けると全体が動かなくなる」ものですから、休めないし辞められない、というので、仕事に追い立てられたり会社に縛りつけられたりということになってしまうわけです。それに、「人から責任をおっかぶせられたくない」みたいな理由で他の仕事を覚えたがらない人もいれば、自分の仕事に口出しされたくないとか、社内での立場を守りたいというので、周囲に自分の仕事について教えたがらない人もいます。
ソフトウェア業界では、他の人に自分の書いたプログラムのソースコードを見せたがらず、開発文書も残したがらない人が少なくとも八割以上いますが、そういう人たちはおおむね職業的プログラマーとしてはクズです。で、残りの二割のプログラマーが、八割の仕事を片付けています。これは多くの分野で「二十/八十の法則」として知られています(本来は「Zipfの法則」といいます)が、システム開発の世界では「五/九十五の法則」が成立つという噂もあります。
「自立性と向上心と帰属意識」というのは、あたしは不断の努力によって涵養されるものだ、と思っています。日本人はその意味で、文化としてこういうものを持っているから、すばらしいと思ってます。アメリカの企業なんかだと、優秀な人間が周囲の使える人間を引き抜いていきなり辞めたりするものだから、組織がガタガタになって崩壊する、ということがしょっちゅうあります。で、残された人も、「どうせ自分たちだけじゃなにもできないから」とさっさと他の職場に移ってしまいます。「残された人間だけでなんとかしよう」なんてことは、あんまり思いません。マニュアル化がしつこく言われ、ノウハウの保護が徹底されているのは、こうした流動的な人間関係の中で企業活動を行なうための智恵です。ヨーロッパと違って、アメリカは「流れ者の国」ですから。
あたしたちは結局、「田んぼの国の人」です。千年おんなじ場所で米作って生きてても不思議のない民族だし。牧畜だとこうは行かないし、畑作でも連作障害とか出ちゃうから無理です。水田というのはけっきょく川の一部なのですね。水さえ止まらなければ千年でも二千年でも継続的利用ができます。まあ、ナイル川流域なんかもそうなんだけどさ、あれは洪水で全部流れちゃうからな。いちいちリセットしてるようなものです。
あたしは「文化が先で制度が後」だと思ってます。「助けあいの文化」を“自分の中に”育てるというのが、けっきょく遠回りのようでいちばん確実なんじゃないかな。
(Maria)
みどり wrote:
>
>「全員を検査した結果、同年齢の子供の99%は一桁の足し算・引き算ができた(事実2)」とかでも構いません。(もちろん実際にはこの分は仮定です。私はそんな数字は知りません)
>
>3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。
>
>A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
>B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
>C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)
>元の話の構成は (A , b) =>B =>C なんですね。で、=>B の部分が自然主義的誤謬。で、ここですでにジャンプがあるので、後半 (B=>C) には意味がなくなっちゃってます。
>つまり、B の導出方法はヘンでした。そこは無視して、もしもBが (単独で) 正しいとしたら、B=>Cは価値判断をもとに価値判断をするという論理になるわけですね。こうやって導かれるLDの診断は、確かにヘンです。これは医学的診断とは思えない。
Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
>医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。
>
ちょっと別の例も考えてみたいと思います
Cくんは呼んでも返事しない。
返事をしない子は耳に障害がある。
ゆえにCくんは耳に障害がある。
この論法は明らかにおかしいですよね。
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