アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
皆さん、こんにちは。名加野です。なんだか、元のスレッドに書くのもどうかと思いましたので、別の所で書きました。
僕は幸いにも、皆さんのような先生も交えた集団でのイジメには合いませんでした。ですからせいぜい相手は最大でも5人ぐらいでしょう。ただ、個人間では結構ありました。痛みに敏感なので、ドッジボールでは泣いていたり、注射で逃回ったりなのが、みんなの「あいつはつつけば泣く」というのを刺激した模様です。しかも、給食食べれば戻すと言う事もあったので、弱みはいっぱいさらけ出してありました。本能に従った結果です。
どうやっても、勝てない僕は、憎んでる人の物にあたる事を覚えてしまいました。物を隠す。あるいは、盗む(……最悪ですね)。ということで、ばれてまた殴られました。ただ、前にも書いたように騒ぎ立てます。大泣きします(切れて突撃する事も……)。攻撃する人から逃げます。自分を守るために。そのおかげで、先生方や親にも守ってもらえた部分があります。
後は、僕の場合むかつく時は凄まじくむかつくんで、そのときは、地球破壊を目論見ます。……が、峠を越すと、笑い始めるんです(発作)。元来、憎む事をしたくないので、体が異常を訴えて調整しようとしてくるのかもしれません。
オーバーに表現するのはよくないことかもしれません。でも、他の人をいじめるよりは、まだましというか、新たに敵を作るのは怖くて出来ない。物にあたる事は、今ではずいぶん減りました。カラオケ行って(割れるような声で)発散する事を覚えたからかもしれない。
甘っちょろいかな? ……それにしても舌足らずだ。
働けず いやなまけかと 過ぎる秋
山に入る 夕日見送る 車窓から
沈む夜 夜空を見れば 満ちた月
柔らかな 日差しが伸ばす ハーブの芽
唯一つ 付き合いのページ 覗く夜
私は過去にいじめれっこでした。中学の時のいじめはつらかった。先生にもいじめられました。まるで悪夢の中にいるようでした。そしてそのいじめを自分の中で認めることができなかった私は多重人格になってしまったのです。
でも私ははじめは多重人格に気がつかなかった。ただなぜしようとしていないことをしてしまうのかがよくわからなかった。20才ごろまで私は自分は知恵遅れなのだと信じて生きてきました。
人間不信に凝り固まって自分自身もにくかった。多重人格は20代半ばで本格的になり人にも隠し通せないぐらいの状態になりました。私は他の人格と喧嘩しながら私の体を返してくれるように訴えました。そのためには私が今まで認めることができなかった自分の行為を自分がしたことだと認めなくてはいけなかった。
他の人格がした行為、たとえば中学の時スカートの裾をあげて男の子を誘ったりしたこと。授業中に先生にウィンクして誘いをかけたこと。その他ETC。もっと色々あります。ここではちょっと書きたくない。
私はそんな馬鹿ではないと自分の頭を死にそうになるくらいぶつけたり自分の首を思いきりひもでしめつけたり、でもどうしても死ぬことができなかった。でも全てを自分がしたことだと認めたから多重人格は一応時々記憶の欠落を残す程度にまで軽快しました。
今のほんとうの私は5,6才の子どもです。ほんとうの私はそこから成長することができなかった。
私は人にひどいことを言ったりしたり、人を傷つけて生きてきたとおもいます。私は長い間自分を許すことができなかった。自己嫌悪とともに生きてきた。でもある日気がついたのです。自分で自分を許していることに。
私は神を信じています。神は私を許して下さると思っています。宗教には入っていませんが。
自分がしてきたことを許すのは自分ではなく神ではないでしょうか。人間はそんなに偉くない。そのようにしかできなかったのならしかたがない。自分でそのことを自覚してさえいれば自分を責め続けるのは有害だと思います。でもみなさん、コウモリさんも自覚しつつ自分を許していると思います。神が許して下さっているのです。心の中で告白さえすれば。
ぺりこさん wrote:
>私は、ユーリさんや蝙蝠さんは、自分を守るために必死だったのだと思います
>。確かに加害者になったかもしれないけれど、それは自分を守るための苦肉の
>策だったのでは・・・
しかし、この苦肉の策には必ず、犠牲者を必要とする…。こうもりから被害
を受けた者たちが、「こうもりの奴が身を守るために、君たちがいじめに遭う
のはやむを得なかった」と聞いて納得できるだろうか…?あるいは「こうもり
の奴が善良な人間になるために、過去のいじめは必要であった」と言えるだろ
うか…?こうもりから被害を受けた者たちは、こうもりが生き延び成長してい
くための材料になるために生まれてきた訳ではない…。
>今の蝙蝠さんがタイムスリップしてもう一度いじめの場所に戻って、子供の
>蝙蝠さんに何てアドバイスするのか・・・
>加害者だった罪を償うんだったら、最良の方法だと思うんだけど・・・
償い…。こうもりに可能なのはそれぐらいだろう…。あるいは今いじめの
被害に遭っている子供に対して尽力することぐらいか…?
そして、こうもりの分身であるわたし蝙蝠に可能なのは、過去の加害の記憶
を鮮烈に焼きつけておくことである…。何度も何度も悪夢にうなされ続けるぐ
らいに…。
なお、こうもりは被害の歴史を語ることはできても、加害の歴史を語ること
ができなかった…。だから、この蝙蝠が奴に替わって語らざるを得なかったのだ…。この点について心配をかけたことをお詫びしたい…。また、心配をして
くれたことに感謝したい…。
黒Maria wrote:
> じゃかじゃーん、黒Mariaだっ!
>
> あたしは加害者が「自分も被害者だったんだ」と主張することを認めません
>。被害者にとって加害者は加害者でしかありません。「自分が生き残るために
>はしかたがなかったんだ」と主張するなら、「だったら死ねよ」と言っちゃい
>ます。
そう、それが唯一の正しい結論であると思う…。
蝙蝠さん wrote:
>ゆ〜りさん wrote:
>
>>それ以後も、いじめられっこになった子がクラスに出来ると、
>>私はいつも戦わねばなりませんでした。
>>どちらが、より多く犠牲になるか。
>>どちらが、クラスの生贄になるか。
>>生存競争だったのだと思います。
>>同盟は決して成り立たず、お互いを蹴落とすのに必死でした。
>
> 卑怯者であるこうもりはまさにそうだった…。小学校高学年で悲惨ないじめに遭っていたこうもりは、同時にいじめの加害者でもあった…。こうもりはいじめそのものとは向き合わず、自分より低劣な者を探し出すことによって、安心感を得ようとしたのだ…!!こともあろうに…!!あの卑怯者は自分から積極的にいじめを行うことはなかった…。しかし、、他のいじめを見ている生徒を見ても止めることは
>なかったし、時にはいじめにも加担した…。しかも、その言い訳をわたし蝙蝠にさせようと言うのだから、聞いてあきれる…。
>
> 第2次世界大戦終結からしばらく後、ヨーロッパの戦勝国の一部では被害の歴史だけでなく、加害の歴史と向き合う動きが見られた…。わたし蝙蝠はこうもりに対して、自身の加害の歴史を直視するよう強く警告する!!
>
いじめはいつ何時でも、被害者は悪くなく、加害者が悪い、と思います。
でもいじめが行われる状況では、まず自分を守ることが先決になるのではないでしょうか?(でないと、人を助けることは出来ないと思います。)
私は、ユーリさんや蝙蝠さんは、自分を守るために必死だったのだと思います。
確かに加害者になったかもしれないけれど、それは自分を守るための苦肉の策だったのでは・・・
子供の頃はどんな人でも、自分を守るだけで精一杯です。
Aタイプの子供達は、特に場を読むことが下手だったりするので、自分を守ることも下手だと思います。
そして、Aタイプじゃなくても、長男(第一子)もへたです。(言い切り・・・)
だから、そこを親が心配したりするのです。
今現在の蝙蝠さんの人格で、まだ発達途中の子供の頃の蝙蝠さんがやっていたことを判断し、責めるのはやめましょうよ。
そんなことしたら、まるで自分の思い通りに行かない子供を責める親と一緒じゃないですか?
手段を知らない子供が、自分を守るために精一杯やっていた行為を、否定しちゃうんじゃなくて、じゃああの時、どうしていたら良かったのかを考えた方がいいのじゃないでしょうか?
今の蝙蝠さんがタイムスリップしてもう一度いじめの場所に戻って、子供の蝙蝠さんに何てアドバイスするのか・・・
加害者だった罪を償うんだったら、最良の方法だと思うんだけど・・・
私が、子供の頃の自分にアドバイスするとしたら、”いじめがある状況で、まずあなたがしなければならないのは、人を傷つけない方法で、自分を守ること。・・・具体的に言うと、その場から離れなさい。それから、自分が一番好きな(信頼できる)先生なり、大人に助けを求めること。・・・自分が見たり聞いたりしたことを自分の言葉で説明し、その時自分はどう思ったかを言いなさい。もし、それを言った大人が自分が思ったように分かってくれなかったら、違う大人に同じ話しをしなさい。分かってくれる大人が見つかるまで、何度も話しなさい。あなたがいじめられている人を助けるために一番最初にすることは、助けてくれる大人を探すことだよ。”と言います。
子供の頃の私に出来るのは、この程度だと思います。
昔の事を教訓にしても良いけど、昔の事で自分を責めちゃだめだよ。
って、良く私もやってるんですけどね。
(ぺりこ)
ぐるんさ wrote:
>>るおう wrote:
>>>沢山の屈辱的なことを言われて、ずっと我慢してきました。そしてあまりの暴挙に、切れてしまった私です。誰かが私のことをわかってくれると思っていたけれど、わかってもらえなかった。年よりが何を言っても、がまんしないといけない。それだけ生きてきたのだから。と、、長い年月を生きれば何を言おうが、しようが良いらしい。私は、それを言ったら、また色々といわれた。上司に。論理が一貫していなかったので、訳がわからなかったから色々聞いたら、、いい加減怒るぞと言われた。わからない。
>>>私の大事にしているものに傷をつけても謝らなかったから、怒ったのだが。。最後は。。それも謝罪されなかった。わからない。。
>>>そしてなやんでいたら、人間味や人間性を感じないといわれた。。人間ってなんだろうか?私にはわからない。そして曖昧な部分に大事なことが含まれていると言われたのだが、曖昧な部分が、私にはわからないのだ。皆さんの中にも人間味がないといわれたことがある人いますか?人間味が、ないせいで、きっと私は、人と知合いになっても、、他ノ人のような、知らないけれど繋がっているということが出来ないのかもしれない。ちょっと良くわからない。
>>>
>>>悪いことをされて、嫌なことを言われて、意地悪をされて切れてしまった、
>>>怒った私が悪いことになるらしい。
こんばんは。はじめて書き込みします。私の文が全然出ず、るおうさんの文だけになってしまったところがいっぱいでごめんなさい。(実は、書き込み自体が初めてなので、ミスの連続でした。)文章読む限り、あなたの方が正しいと思いますよ。大体、上記のことされれば、切れたくなるのも当然じゃない?そもそも周囲の人たちも、なぜるおうさんが切れたのかって考えた人いるのかな?と思いました。(とかく表面的なことだけで、その人の全てを捉えたような気になる人もいますからね。まったく!)
私も、皆の前でバカよばわりされてくやしい思いをしたことがあります。(るおうさんとシチュエーションは違いますが。)私自身も、もう我慢の限界かと思うくらい。しんどいです。もーやだ。(しょっぱなからまとまらない上に、泣き言でごめんなさい。)
Maria wrote:
> あたしは加害者が「自分も被害者だったんだ」と主張することを認めません。被害者にとって加害者は加害者でしかありません。
↑これと↓これって、矛盾してない?
> もちろん、そういうことをしたのは中国人や朝鮮人のごく一部だ、というのはわかります。だったら中国・朝鮮がしつこく日本に謝罪を要求するというのはフェアではありません。
もしもこの謝罪要求を日本が「あんたも加害者なんだから」といって拒絶するのなら、その場合は「自分も被害者なんだからと主張する加害者」とは、まさに日本のことになりますよね。
そもそもセットで相殺しようってとこに無理がある。両方が加害者なら、お互いに謝罪や賠償を要求する権利があるってだけのことじゃないかしら。
それと、不用意に○○人はグループで扱うと、必ずといっていいほど「返事をしない子は耳に障害がある」と同じ間違いがおこる。
たとえそこを相手が間違えているからって、じゃあこっちも間違えていいのかという問題もあるし。
てなわけで、ものすごく論旨が雑。最初に読んで Maria ちゃんらしくないなと思ったけど、黒 Maria ちゃんはまた別人なのか。
いま読んでいる本はちょうど、「他人の話を正面から批判するのはやめよう」というところ。
いくら本を読んでも全然自分の性格は変わらないらしい みどり
蝙蝠 wrote:
> 話を元に戻そう…。シンタロウくんが普通学級に編入した時、普通学級の
>生徒は彼に対してむごい仕打ちをした…。シンタロウくんはそれを健常者の
>仕打ちと捉え、健常者を憎悪していた…。しかし、シンタロウくんを踏みに
>じった奴らは本当に健常者だったと言えるのだろうか…?そのなかにこうも
>りのような発達障害の側の裏切り者が混じっていた可能性はいなかっただろ
>うか…?わたしは自問する…。
>
> 第2次世界大戦終結からしばらく後、ヨーロッパの戦勝国の一部では被害
>の歴史だけでなく、加害の歴史と向き合う動きが見られた…。わたし蝙蝠は
>こうもりに対して、自身の加害の歴史を直視するよう強く警告する!!
じゃかじゃーん、黒Mariaだっ!
あたしは加害者が「自分も被害者だったんだ」と主張することを認めません。被害者にとって加害者は加害者でしかありません。「自分が生き残るためにはしかたがなかったんだ」と主張するなら、「だったら死ねよ」と言っちゃいます。
日本が連合国(ちなみに、「連合国」と「国連」は同じ言葉です)に負けたとき、「戦勝国」でも「敗戦国」でもない「第三国」と呼ばれた国がありました。現在でいう中国・朝鮮・台湾です。で、いわゆる引き上げ者に対して、中国・朝鮮人がどれだけひどいことをしたか、あるいは日本国内で在日中国人・朝鮮人の一部がどれだけの非道の仕打ちを働いたかを、あたしは当事者から聞いて知っています。それを考えると、中国人差別・朝鮮人差別というのはむしろ当然のことだと思っています。
もちろん、そういうことをしたのは中国人や朝鮮人のごく一部だ、というのはわかります。だったら中国・朝鮮がしつこく日本に謝罪を要求するというのはフェアではありません。
オウム真理教のメンバーにしたところで、「教祖には逆らえなかった」「マインドコントロールされていた」主張しつつ、おいしい思いをしていた連中というのは、いるわけです。「命令されたから、しかたなくやったのだ」「私は明確な指示は出していない。彼らが暴走したのだ」といった「責任回避の構造」ができあがっちゃうと、わりと好き放題できてしまうんですよ。
自分より弱い人間をいじめることで精神のバランスを取ろうとすることは、「逃げ」でしかありません。あくまで戦わなければならないんです。で、教師はそれをサポートする義務があります。いじめを行なった生徒を罰するだけでなく、いじめに屈することなく戦った生徒を支援しなければなりません。それが教育というものです。
けれど、「建前」「綺麗ごと」が嫌いな人間というのが、世の中にはいます。「自分は正しい」と主張する人間が、その主張の正しさとは別に、とにかく生理的に嫌いな人間というのがいます。
はっきり言っちゃいましょう。いじめがあったときに、いじめる側に加担する教師というのがいます。数学や英語といった受験科目とは違って、受験に関係のない科目の担当者であるががめに、学校内における立場の弱い教師というのがいるんです。そういう教師が組合(はっきり言っちゃいましょう。日教組です)の力をバックに、優等生いじめに加担するんです。
大田区立大森第八中学校の教師だった、体育の小林、美術の千原、音楽の河野。この三人をあたしは一生赦しません。いじめを働いた生徒は馬鹿だから赦す気にもなります。ですが、教師の立場でありながら、いじめに加担したこの三人の教師は、萬死に値すると思っています。泣きながら命乞いをするのを、いたぶりながらたっぷりと時間をかけて殺してやりたいとはっきり思っています。で、この三人を放置していた野村校長も、ついでに同じように殺してやりたいと思っています。
話は変わるけど竹内校長、荒木教頭、体育のうーさんこと加藤先生、英語の治田さんに美術の八田さん、ごっちゃんこと生物の後藤先生に化学の井手のおばちゃん先生、数学の石田先生に歴史の西山先生、感謝してます。国語の島村先生や白子先生もいらっしゃいました。あとはえーと神主さんだった……ってきりがないから止めることにします。荒木さんは本当はあんまり好きじゃなかったんだけどさ、金魚マニアっていう共通点ができたらなんとなく共感できるようになりました。
だけど、それからいろんな人の話を聞き、自分の受けた扱いについてずっと考え、大人になっていろいろと分析した結果、小林・千原・河野の三人組に関しては、絶対に赦すことができない、と結論しました。
あたしは、「よい生徒であること」でいじめに対抗しつづけました。「君にも悪いところがあるんじゃないか?」といった形で終わらせられたくなかったからです。徹底的に正しくあることで、「間違っているのはどっちですか?」と学校(つまり、社会体制)に迫ることで、彼らを罰することを欲したわけです。法治国家というのは、本来そういうものですから。
ですが、「体制側の人間」であるはずの教師が、「いじめ」に加担したわけです。それも、あたしが間違っているからではなく、「正しいから」です。社会秩序意識というものを涵養するための場である学校において、それは赦されざる行為です。「社会に出たら、そんなことはいくらもあるんだ」というのは確かに正しいんですけれど、少なくとも義務教育の場は、そういう理屈が通る場所であってはいけません。
いじめに加担する教師は、単にいじめられた子供に対する犯罪者ではないんです。彼らは「教育に対する信頼」を損ねたという意味で、社会に対する犯罪者なんです。その被害者というのは、日本国民全員なんです。ですから、医者や弁護士や教師がその立場を利用して行なった罪は、ふつうの犯罪者が行なった罪よりも、何万倍、何十万倍も重いんです。そして、それはそうした重責を担ってそうした仕事に打込んでいるひとたちを、冒涜する行為です。
だから、そういう連中は干炙りでも釜茹ででも鋸引きでもやって公開処刑してやるのが当然、とあたしは思っているのね。
でまあ、あたしは「筋を通す」ことで世の中を渡ってきたわけなんだけど、そういう「筋を通す」生き方自体が嫌いな人間の悪意によって散々な目に遭ってきました。こういう相手には論理的説得も、功利的説得も、感情的な説得も効きません。こういう連中は、それが「悪いこと」「間違っていること」を重々承知していて、結果的に自分の得にならないこともはっきり知っていて、被害者が激しい苦痛を感じることを目的に、そういう行為を行なうのですから。
で、そういう奴の行動に乗じて、自分も好き放題しちゃう奴が大勢いるわけです。そういう連中が「私も被害者だったんだ」とかいった言い逃れをするのを、あたしは赦さないのね。だから、あたしは「被害者」「弱者」を信用しません。
みなさんは、たぶん中学校の国語の授業でアルフォンス・ドーデの『最後の授業』を教わっていると思います。あの作品では、ドイツ(プロシア)がフランスのアルザス地方を侵略したように描かれています。ですが、アルザス地方は本来ゲルマンの土地でした。そこを占領し、ゲルマン文化の徹底的な破壊を行なったのがフランスです。
被害者ヅラした奴に気をつけろ。弱者ヅラした奴に用心しろ。
あたしはそう思っています。だからあたしは中国人も朝鮮人も沖縄人も嫌いです。
(Maria)
蝙蝠 wrote:
>
> 卑怯者であるこうもりはまさにそうだった…。小学校高学年で悲惨ないじめに遭っていたこうもりは、同時にいじめの加害者でもあった…。こうもりはいじめそのものとは向き合わず、自分より低劣な者を探し出すことによって、安心感を得ようとしたのだ…!!こともあろうに…!!あの卑怯者は自分から積極的にいじめを行うことはなかった…。しかし、、他のいじめを見ている生徒を見ても止めることは
>なかったし、時にはいじめにも加担した…。しかも、その言い訳をわたし蝙蝠にさせようと言うのだから、聞いてあきれる…。
>
君だけじゃない!俺だってそうさ。
訂正コメント…
蝙蝠 wrote:
> わが名は蝙蝠…。こうもりが語り得ぬことを語るために生み出されてきた者
>…。ゆ〜りさんのコメントを見ているうちに、こうもりの論点には大きな問題
>点があることが発見された…。しかし、卑怯者であるこうもりは自己批判をす
>ることができず、問題をわたしに委ねた…。よって、こうもりに替わって、わ
>たし蝙蝠が批判を行う…。
>
>ゆ〜りさん wrote:
>
>>それ以後も、いじめられっこになった子がクラスに出来ると、
>>私はいつも戦わねばなりませんでした。
>>どちらが、より多く犠牲になるか。
>>どちらが、クラスの生贄になるか。
>>生存競争だったのだと思います。
>>同盟は決して成り立たず、お互いを蹴落とすのに必死でした。
>
> ゆ〜りさんの悲劇は多くの発達的境界人が経験しているそうだ…。一般向け
>のADHDの解説書『のび太・ジャイアン症候群』(主婦の友社)の作者司馬
>理瑛子氏は、ADHDの子供同士が学級においていじめっ子といじめられっ子
>の役割を演ずる構図を指摘している…。また、こうもりの知り合いの知的障害
>児の母親は、普通学級のLD児が子供にちょっかいを出すことに苦悩していた
>…。むろん、普通学級でいじめたりいじめられたりするのは、軽度発達障害児
>だけではない…。しかし、いじめを受けた軽度発達障害児が別の状況で加害者
>に転じてしまう危険性は限りなく高い…。
>
> 卑怯者であるこうもりはまさにそうだった…。小学校高学年で悲惨ないじめ
>に遭っていたこうもりは、同時にいじめの加害者でもあった…。こうもりはい
>じめそのものとは向き合わず、自分より低劣な者を探し出すことによって、安
>心感を得ようとしたのだ…!!こともあろうに…!!あの卑怯者は自分から積
>極的にいじめを行うことはなかった…。しかし、、他のいじめを見ている生徒
>を見ても止めることはなかったし、時にはいじめにも加担した…。しかも、そ
>の言い訳をわたし蝙蝠にさせようと言うのだから、聞いてあきれる…。
>
> 話を元に戻そう…。シンタロウくんが普通学級に編入した時、普通学級の生
>徒は彼に対してむごい仕打ちをした…。シンタロウくんはそれを健常者の仕打
>ちと捉え、健常者を憎悪していた…。しかし、シンタロウくんを踏みにじった
>奴らは本当に健常者だったと言えるのだろうか…?そのなかにこうもりのよう
>な発達障害の側の裏切り者が混じっていた可能性はいなかっただろうか…?わ
>たしは自問する…。
>
> 第2次世界大戦終結からしばらく後、ヨーロッパの戦勝国の一部では被害の
>歴史だけでなく、加害の歴史と向き合う動きが見られた…。わたし蝙蝠はこう
>もりに対して、自身の加害の歴史を直視するよう強く警告する!!
>
>(こうもりからのメッセージ)
>
> ちょっと補足です。
>
> 自分の加害者としての面としっかり向き合われているゆ〜りさんは今回の批
>判の対象に含まれていません。あしからず。
わが名は蝙蝠…。こうもりが語り得ぬことを語るために生み出されてきた者…。
ゆ〜りさんのコメントを見ているうちに、こうもりの論点には大きな問題点があることが発見された…。しかし、卑怯者であるこうもりは自己批判をすることができず、問題をわたしに委ねた…。よって、こうもりに替わって、わたし蝙蝠が批判
を行う…。
ゆ〜りさん wrote:
>それ以後も、いじめられっこになった子がクラスに出来ると、
>私はいつも戦わねばなりませんでした。
>どちらが、より多く犠牲になるか。
>どちらが、クラスの生贄になるか。
>生存競争だったのだと思います。
>同盟は決して成り立たず、お互いを蹴落とすのに必死でした。
ゆ〜りさんの悲劇は多くの発達的境界人が経験しているそうだ…。一般向けのADHDの解説書『のび太・ジャイアン症候群』(主婦の友社)の作者司馬理瑛子氏
は、ADHDの子供同士が学級においていじめっ子といじめられっ子の役割を演ずる構図を指摘している…。また、こうもりの知り合いの知的障害児の母親は、普通
学級のLD児が子供にちょっかいを出すことに苦悩していた…。むろん、普通学級
でいじめられるのは、軽度発達障害児だけではない…。しかし、いじめを受けた者
が別の状況で加害者に転じてしまう危険性は限りなく高い…。
卑怯者であるこうもりはまさにそうだった…。小学校高学年で悲惨ないじめに遭っていたこうもりは、同時にいじめの加害者でもあった…。こうもりはいじめそのものとは向き合わず、自分より低劣な者を探し出すことによって、安心感を得ようとしたのだ…!!こともあろうに…!!あの卑怯者は自分から積極的にいじめを行うことはなかった…。しかし、、他のいじめを見ている生徒を見ても止めることは
なかったし、時にはいじめにも加担した…。しかも、その言い訳をわたし蝙蝠にさせようと言うのだから、聞いてあきれる…。
話を元に戻そう…。シンタロウくんが普通学級に編入した時、普通学級の生徒は
彼に対してむごい仕打ちをした…。シンタロウくんはそれを健常者の仕打ちと捉え
、健常者を憎悪していた…。しかし、シンタロウくんを踏みにじった奴らは本当に
健常者だったと言えるのだろうか…?そのなかにこうもりのような発達障害の側の裏切り者が混じっていた可能性はいなかっただろうか…?わたしは自問する…。
第2次世界大戦終結からしばらく後、ヨーロッパの戦勝国の一部では被害の歴史だけでなく、加害の歴史と向き合う動きが見られた…。わたし蝙蝠はこうもりに対して、自身の加害の歴史を直視するよう強く警告する!!
(こうもりからのメッセージ)
ちょっと補足です。
自分の加害者としての面としっかり向き合われているゆ〜りさんは今回の批判の対象に含まれていません。あしからず。
みどりさん wrote:
>議論で得られることは、「それは一理あるな」と納得すること。賛同はしなくて
>もいいんです。
>ハタからみたら、相手の意見にいちいち文句を言ったりねじふせようとしてるよ
>うに見えても、それは「その説明ではここのところの筋が通らん、本当はなんか
>違う理由があるんじゃないのか」ということなのです。(そうか、この後半を略
>すから誤解されるのか)
>で、そうこうするうちに、思いも寄らなかった視点からの説明が出てきて、
>「おぉそういうこともあるのか」と目からうろこがおちると、むちゃくちゃ嬉
>しくなっちゃうんですねえ。結果的に賛同しちゃうこともあるし、自説がボロ
>ボロだったことに気づいて大ショックを受けることもあります。(そういう相手
>にはなおさら敬意が強くなる)
あたしは「議論」を三つに分類しています。討論とディベートとディスカッションです。
「討論」は、それぞれが自分の支持する説を掲げてぶつかり合い、どっちが正しいか決めること。説得あるいは交渉はこれに近いけれど、功利的な説得や感情的な説得にもとづく交渉というのもあるから厳密にいうと別物です。
ディベートというのは、純粋に相手を論破する技術を競う「競技」です。相手が白といえば黒、黒といえば白という立場で論陣を張るわけです。古代ギリシャのソフィストたちから続く、長い歴史があります。だけど不毛といえば不毛です。
みどりさんがいう「議論」は、あたしのいう「ディスカッション」に相当します。対話を楽しむことの一部としてディスカッションを行なうこともあれば、問題解決の一部としてディスカッションを行なうこともあります。「相談」というのもディスカッションの一種です。また、ソクラテスの言う「産婆術」もこのディスカッションに含めてもいいと思います。
ディスカッションの価値は、そこに発見の悦びがあるかどうか、だと思います。
なお、相手の発言を誤読したり拡大解釈したりして相手にネガティブな人間像を貼付けて攻撃の対象とし、相手が説明ないし弁明しようとするとさらに誤解・曲解して攻撃がエスカレートする、というタイプの人がいます。こういうタイプの人物を「蛸」といい、こういうタイプの人物に関わってしまうことを「蛸釣った」といいます。「私はそんなことは一言も言っていないでしょう?」って言ってんのに、「いや、そういう意味にとれる」とかいって攻撃してきます。
まあ、中には善良なタイプのおいしい蛸もいますけど。にょーん(触手を伸ばしている)。おいしくハズすというのは、なかなかに痴性と狂養を要求されます。
(Maria)
名加野 wrote:
>
> いえ、間違ってはいません。非論理的です。困った者です。
あれ・・・困んなくっていいんですよ。
文章が、そうであるからといって、本人の頭の中が、そうであるとは限らないんですけど・・・??(言ってる意味が、つながらないかしら?)
> 距離感が掴めない、というか、間違ってる感じはします。
タレイヌには、必ずしも、間違っているとは、思えないんですよ、なぜか。そう、何故だか、どうしてだか、よくわからないんですけど、「天性」と感じるのは、その辺なんですけど、バランス感覚としては、絶妙なものをお持ちなのではないか・・・と。(実際あった事ないのにね、変だねぇ・・・考えてみれば?)
>
>とある先生に「大成功するか、大失敗するか、どっちかだ!」とか言われています……(汗。
この言葉は、現実に会っている「大人」が、名加野さんに、言ったんでしょう?だったら、やはり、なんかあると思うけどな・・・。
>
>http://www.charamil.com/report/assoc.php?id=eiPuWQwt0s2so24556p33o78nq7_82r_5so2no121n0o04s9u
この結果はさておき・・・・・・。
実は、タレイヌのダンナは、しし座、AB。(関係無いけど長男は1979年8月生まれ。)ひぇ〜〜〜!!とか、思った!
(タレイヌ)
るおうさん wrote:
>皆さんマニュアルのコメント有難うございます。欲しいですよね。
マニュアルで問題の回避はできても、解決にはならないでしょう。
むしろ、グローバリゼーションで弱いところへ問題が押し寄せられる傾向に貢献してしまう怖れがあります。壁にぶちあたるたびに、さあ、これから自分は壁を破って成長するんだと、見守る気分がいいと思います。
マニュアルより地図として、E・H・エリクソンの8つの発達段階を頭に入れておくといいかもしれません。第一段階は基本的信頼対基本的不信。希望の強さをここで獲得すれば卒業して次へ。この世の重力の中では、ピラミッド型に発達する必要があって下のほうの段階をおろそかにすると不安定になります。根無しのきのこは風の中で立っていられません。頭の重さだけでは、傍目にも落ち着きません。人間味のなさを自慢に感じてしまうのは、下のほうをとばして曲芸ができるという快感なのではないかと思います。快を求め、不快を避けるのが当然だとすると、破壊の快感のために何がどこまで犠牲になるか知れません。
だから、不快な事件や病気は軌道修正の機会として(社会の軌道の問題だけだったりもしますが)足りなくなっていたのは何かをみつけてください。色々な感情を流してみて問題を消化できる方向を、本当に気持ちのいい、自分が伸びて行ける方を探して欲しいです。 思い切り退行してみても、不足を補うことができればいいでしょうし。人は家族を変え、環境を変えて成長します。ようやく手に入れたものを捨て、新たな段階の目標をつかむのです。
芸術家や研究者など、活躍の場を得られる人はまっすぐに伸びていけるのでしょう。でも、基本的信頼が傷ついていると生命力が
心配です。人はシステムによって守られもするし、拘束で歪められもします。病気には、大地の力との結びつきが何よりの薬だったりします。私が弱っていた頃には、裸足で野道を歩くことが心臓にいのちの力をもらうことでした。人と切れても、自然は拾ってくれましたね、私の場合。自然がシビアになると人も厳しくなって(弱い者いじめがひどくなる)、基本的信頼感覚が弱りやすいのでは。
「外国なら異質なものを排除しないでくれる」という期待は、明白なる差別に何度か遭えばあっさり崩れます。(言葉が通じないおかげで差別に気づかずにすむとか、向こうが異質さに気づかないでくれるということはある)
しかも、文化の違いにより、それまで学習してきた「普通はこうするものらしい」というパターンが崩れてしまうのも苦しいものです。私の場合は、英語がそこそこに理解できるようになってから、かえってアメリカ人、イギリス人と接したときになに考えてるんだかさっぱり理解できないことが増えてきました。(他の国の人にはまだあまり縁がない)
そうとはいっても、異文化体験は、日本の狭い世界での「常識」をうちやぶってくれるという点ではすごく貴重だと思うので、ずっと国内で暮らしてきて悩みがある人は、状況さえ許せば是非一度行ってみることをおすすめします。(一般には仕事があれば時間が、なければ資金が問題になるけど、私はそこをかなり無理してでも行く価値があると思っている)
本当のところは、外国までいかなくても、普段自分がつきあわないような人たちと交流するだけでも異文化体験は十分できるはずなんだけどね。でもそれって実際には「普段付き合わない」には「付き合わない理由」があるので、なかなか実現困難だったりする。
Maria wrote:
> あたしの感覚だと、「親しさ」「親密さ」というものは、それだけではなぁーんの意味もないものなのね。それは単なる結びつきであって、そのことによって伝わるものがなにもなかったら、価値のないものだという気がします。単なる「仲良しごっこ」で終わってしまうと思うんですよ。だから、あたしはみどりさんにとって「議論をふっかける」ことがコミュニケーションの中で重要な位置を占めているということが感覚的によくわかります。
議論は、それなりに敬意をもてる相手とでないとうまくいかないのです。逆に、ある相手と楽しい議論ができたとしたら、それだけでその相手には敬意が沸きます。
私にとっての議論は、相手をねじふせたり、賛同させるようなものではないのです。(そういうのは「説得」とか「交渉」とか呼ぶ、別物です。なお交渉術のひとつとして、「相手には議論をしているように思わせおく」というのもあるのでややこしいのですが)
議論で得られることは、「それは一理あるな」と納得すること。賛同はしなくてもいいんです。
ハタからみたら、相手の意見にいちいち文句を言ったりねじふせようとしてるように見えても、それは「その説明ではここのところの筋が通らん、本当はなんか違う理由があるんじゃないのか」ということなのです。(そうか、この後半を略すから誤解されるのか)
で、そうこうするうちに、思いも寄らなかった視点からの説明が出てきて、「おぉそういうこともあるのか」と目からうろこがおちると、むちゃくちゃ嬉しくなっちゃうんですねえ。結果的に賛同しちゃうこともあるし、自説がボロボロだったことに気づいて大ショックを受けることもあります。(そういう相手にはなおさら敬意が強くなる)
でもまあ普通は「なるほど納得した。そういう立場・視点があることは理解できた。でも私自身の意見はやっぱり違う」というあたりで落ち着きます。
「何を言っても受け入れます」という相手は、同時に「なに言われても自分の意見は絶対変えませんけどね」ということが多く、淋しく思います。
自分の意見の土台を揺るがす覚悟でやらないと、話はつまらない領域 (お天気の話と同じレベル) で止まっちゃうんですね。
お互いに敬意をもち、親しくしている相手と的を射た議論をするのは、子犬が噛み合ってじゃれるのと同じ、この上なく楽しいことなのにね。(学会なんかまさにこういう場よね)
逆に、「議論とはねじふせること」だと思っている相手や、こちらを下に見ている相手、単に頑固な相手と「議論」をしようとしても、それこそ相手の真の目的は議論ではなく説得だったり強要だったりして、「なにを言っても私は聞き流すだけだぞ」という抵抗光線がばりばり飛んできたあげく、「こわい」「うるさい」「しつこい」という評価を受けてしまいます。
(親族の年寄りというのは大抵、この多くにあてはまるので、強敵です)
で、議論が目的ならしなきゃいいだけなんですが、場合によっては、こういう相手を「説得」しなきゃいけないこともあるわけです。
その場合は、議論形式で論理的に納得してもらうのはまず期待できないので、別の方法を探さないといけません。
とりあえず仕事上の場合は「利益誘導方式」(「ほらあなたにとってもこんなにオトク」というやつ)でなんとかしてますが、こういうのって感情的なものには意味がないんですよね。
いい方法があったら知りたい。
そうして「あなたは攻撃的すぎる」と複数のアメリカ人英会話講師から言われてしまう みどり
◎用意するもの:ジョーカーを除いたプレイングカードひと組52枚。
◎成功条件:別に用意した四つの台札の席の上にAを出し、すべてのカードをスート(模様)毎に昇順にスタックする。
◎場札の配置:場札の席は八つ。横一列にカードを表にして八枚並べ、残りのカードは下になるカードが見えるように手前に少しづつづらして並べる。七枚の列が四本、六枚の列が四本できる。なお、台札の席は場札の上(向こう側)に横一列にあると考えるのが一般的なようである。
◎ルール:
・場札の天札がAである場合、台札の空席に移すことができる。
・場札の天札は手に取ることができる。ただし、手札は最大四枚。
・場札の天札または手札は、台札の天札が同じスートで数がひとつ“小さい”場合、そこに移すことができる。
・手札は、場札の天札が同じスートで数がひとつ“大きい”場合、そこに移すことができる。
・場札の天にあるシークエンス(同じスートの降順の並び)は、場札の天札が(そのシークエンスの最大のカードが)同じスートで数がひとつ“大きい”場合、そこにまとめて移すことができる。
・場札の空席には、手札から任意のカードを下ろすことができ、場札の天札あるいはシークエンスを移すこともできる。
◎戦略:Aを台札の空席に移すことと、作業用に場札の空席を確保することを優先すること。シークエンスを伸ばしてしまうと、移動が難しくなる。
◎参考文献:野崎昭弘『トランプ ひとり遊び88選』(朝日選書)
◎課題:いかなる方法によっても成功しない場札の配置というものが存在しそうな気がする。そうした配置であることを確かめるためのプログラムを書くにはどうしたらよいか。そうした配置が現れる確率はどれほどか。
(KILROY)
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