アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
あさかぜ さんwrote:
> 今回はMariaさんに呼びかけてみました。懐きたくなるんだわ、この姉さんには。
あははは!よ〜〜くわかるぞ!!
>
> 次はタレイヌさんだっ! 「タッレイッヌさぁ〜ん、ご指名よぉ〜」「ゥオオォ〜〜ン」なんて返事してくれるとうれしいかも。(←冗談ですってば!)
ゥオオォ〜〜ン……(アア、おんなじにするのって大変。)
タレイヌに冗談は通じません、あしからず。
> ドキドキしながら次回を待て!! シュタッッ!(←これは何かというと、ヒーローがその場を立ち去る効果音だ。何?あたり前すぎる? こういうのは決まりがあるんじゃよ。形式が大事なのじゃ)
>
なんか、元気ジャン?どしたの?おばさんたちが、あんまり騒ぐと、男の子達が、ビビルよ・・・(ちと、ふあんげ)
> さらば!
はい、まってる。
(タレイヌ)
ごめんなさーい!
打てば響くようなフォローができませんでした。
『未来警察ウラシマン』は大好きでビデオにとってあるけど……「説明しよう」は別の番組だったような気がします。戸隠流忍術の初見さんは、実写の特撮ものに出演なさっていたこともあったと思うけど、タイトルが思い出せません。うぅ、記憶が……。
実家行ってビデオ棚を探してみるべな。(捨てられてなきゃー、見つかるだろう)
戦隊シリーズのマスクマンでブルーマスク役の男の子は中国武術をやっていました。「型」のほうだったと思ったけど。かっこよかったので、好きだった。ポーズがひとつひとつ決まるのよね♪
掲示板がイカレてると気づいたときから昨日(だったかな?忘れた)カキコした時まで、パソコンの前に座りませんでした。浜に座って海を見ていたりはしたけど……。(←カッコつけてるみたいだな) ホントは必死で投げていたけど。何をって?釣竿さ〜。やっと前に飛ばせるようになってきたのだ。なにごとも練習、練習。しかし、お魚さんの顔を見ていない(ボウズです)。
ここの掲示板の「居着き」状態になってしまったわたしは、次から次の発見で興奮しているのかもしれないです。とりあえず「わからないということが、わかっていなかった」のだとわかったので、舞い踊り〜(るんルンルン)♪
うれしいけれど、困ったちゃん。
どうやら「わたしの本質」に近づきつつあると感じているけど、それにつれて「慎重さ」が欠け落ちていく……。わたしのようなヤツというのは、始末におえんのだな、これが。「気配り」「他者配慮」とかいったものが、ガラガラガラとひび割れてはがれてくる。
「生きる傍メイワク」の復活じゃ〜!! 元気が戻ってきたぞ〜!!
(みなさん、近づかないでください。お気をつけください)
↑と言っているそばから、「あたし、興味のあることにはどんどん近づいちゃうんだもん。それが人だって、おんなじよ」なんて思って近寄って行くのであった。ここの掲示板だって、興味のある人はいっぱいいるぞ!
(実害ないから許してくださる? ホントにそばに寄ってにおい嗅いだり、さすったりなめたりしないから>みなさん。だめ?)
今回はMariaさんに呼びかけてみました。懐きたくなるんだわ、この姉さんには。
次はタレイヌさんだっ! 「タッレイッヌさぁ〜ん、ご指名よぉ〜」「ゥオオォ〜〜ン」なんて返事してくれるとうれしいかも。(←冗談ですってば!)
ドキドキしながら次回を待て!! シュタッッ!(←これは何かというと、ヒーローがその場を立ち去る効果音だ。何?あたり前すぎる? こういうのは決まりがあるんじゃよ。形式が大事なのじゃ)
さらば!
Lingkoさん wrote:
>ときどきはっと我に返るための装置、人が謙虚になるための装置としては、「なにか大きなもの」は有用だと思う。
>
>それが神様であっても太陽であっても水の循環であっても暦であっても生命の不思議さであってもかまわないのだけれど。
同感。
「なにか大きなもの」につつまれている感じは、素敵。
とりあえず今は「しし座流星群」に期待しています。次は、未定。
里辺華 さんwrote:
> 聖書的に云う信仰とは、神の霊の実としての保証された期待なので、人間くさい考え方としての希望、野望、野心、邪心、あるいは敵意悪意憎悪にもとずく期待ではありません。
人間が地球つくったわけはない。でも,そんな態度の人が多い。人は,創造ぬしじゃなくて寄生むしだけど,自分がどうにかできるものだけを信じて,他のものは無視していいと思ってしまう。自力信仰です。信仰だと,全然自覚できないのが怖い。
他力への期待は,自己の限界への謙虚さに基づいて有効になります。拒むのは救いようがないから,ないと思えばないんだろうね。感じ取れる限界を超えた救いの力。
みえないものより,見える人に頼りたいときもあるけども。
武田好史 さんへ
> それは「親亡き後、どこで暮らしていこうか」ということです。
私も主人亡き後、一人になるので困ります。
『グループホーム』は必要だと思います。
しかしプライバシーを守りたい人もたくさんいると思うし
私自身、
同じ屋根の下に他人と長い間暮らすのは苦痛です。
ですから
一つのマンションの各部屋に一人づつ住むとか
近所に自閉系の人達みんなで各家やアパートに住んで、
一つだけどこかに寄り合い所みたいな所を作って
人恋しくなったりしたときや
交流会などのイベントをする時に集まりたい人だけ
集まるというのがいいです。
もし、私や他の自閉のみんなにお金があったら
一緒に「コーポラティブ・マンション」を作って
住みたいです。
名加野さん wrote:
> アルバイトやってた時は、どこへ行っても「お疲れ様です」しか言いません
>でした。というか、内部ではその挨拶しかありませんでした。
「お疲れ様です」というのは、ふつう「お先に失礼します」の返礼として使います。だから、「先に職場を出てゆく人」を送る言葉です。「お疲れ様でーす」とかいって職場に出てくる人はあんまりいません。朝っぱらから疲れていたのでは困ります。「お疲れ様です」とかいって帰宅する人もあんまりいません。残った人がどっと疲れてしまいそうです。
「お疲れ様」には、「ひとつの仕事を分担している」という連帯感のようなものが、ありそうに思います。
「ご苦労様です」というのは、これから仕事を始める人にも、いま仕事をしている人にも、仕事を終わった人にも使うことができます。職場に出てきて、もう仕事を始めている人に「ご苦労様です」。外から戻ってきた人に、「ご苦労様です」。仕事を終えて帰ってゆく人に「ご苦労様です」。で、務めを終えて会社から出てきた人に「ご苦労様です」。最後のは刑務所みたいだけど。
「ご苦労様です」というのには、「あなたと私はそれぞれ別の仕事をし、それぞれ別の役割を果たしていますよ」という思いがあるように思います。よく言えば「個人の尊重」、悪く言えば「他人事」。そういう感じ。
「自閉症方面の人間は、ちゃんと挨拶ができない」ということが、云えるかもしれません。その場の雰囲気に合った挨拶ができないというか、型通りの挨拶にしか聞こえない、通り一遍な感じに聞こえてしまう。「心がこもっていない」とかいう指摘を受けてしまいそうに思います。
ですが、それは「自閉症方面の人間」の特性ということではなくて、「挨拶」というものが、形骸化しているからだという気がします。どういう状況のときには、どういう気持を込めて、何を言うかというところを、ちゃんと教えてくれていなくて、形だけになってしまっています。で、多くの人は形に囚われています。
空手をやっている人どうしだと、「押忍(おす)」というとても便利な挨拶があります。だけど、使える場面が多いだけに、「押忍」の一言に込める情感を声に表わすことに、難しさがあったりします。
欧米の作法では、訪問先で相手が「どうぞお入りください」と言う前にさっさと帽子やコートを脱ぐことは厚かましいこととされています。紹介状や身分証明証があったら、帽子やコートを脱ぐ前に出します。
ところが、日本では「脱ぐ」のが作法に適ったこととされています。日本の場合、蓑笠を着けて訪れてくるのは「神様」なんです。だから、人間の場合は自らを顕(あらわ)して訪問しなければなりません。
ですが、映画『エクソシスト』でメリン神父が登場する場面を見て以来、「狙ってハズす」というやりかたもあると知りました。
礼にも「守・破・離」があるように思います。要は、どう気持を伝えるか、ではないでしょうか。作法というのは、その一側面でしかないと思います。
(Maria)
最近僕は、「働こうか」「働くまいか・・・」ということの他にも、悩んでいることがあります。
それは「親亡き後、どこで暮らしていこうか」ということです。
「それは消極的過ぎる!!!」と非難なさる方がいるかもしれませんが、一案として、「グループホーム」というどっかの施設に入れてもらうのも、やむをえないのかも知れません。いえ軽度発達障害者にとって、場合によっては「グループホー
ム」こそ安住の地になりうる場所かもしれません。
グループホームというのは、「世話人の介助を受けながら、障害者が居住し、彼らができるだけ自立して社会活動を行っていくための拠点となる施設」というシロモノです。でも我々軽度発達障害者は、ほぼ自立しているので、世話人の人が引き受けなくてはならない仕事は、居住者の悩みを聞いてあげる・施設の使用料の徴収・掃除がしっかり行き届いているか監視するくらいだと思います。
我々の側に対してのメリットとしては、もしものときの落ち着き先が確保される・同じ悩みをもった仲間と自分の苦しみ*楽しみを分かちあえる・コミュニケーションの能力の鍛錬ができるがあげられ、デメリットとしては、プライバシーを守ることが難しい・強い行動障害の人がますます嫌われてしまう・居住者みんなが「うつ病」でダウンしないためにかなり規則正しい生活が必要といったところがあります。
さてここまで踏まえたところで、みなさんに質問です。
軽度発達障害者に、グループホームは必要でしょうか?
Mariaさん、こんにちは。
> “examin”:調査。(学問・問題などの)考察、吟味。
> “execuse”:弁明、釈明、理由、申し開き。言い訳、口実、弁解。
> “execute”:制作、著作(を行なう/完成させる)。遂行(を実行/完了する)。
> “explain”:説明、釈明。
> “explore”:探索、探究。
> “expound”:(学説・理念などを)〔人に〕説明する。
失礼しました。正しくは、explore……となりますか? 違うような気も(汗。
……あ、「クエスチョン」ですか……(赤面。
「エクスキューズ ミー」……のちょっとよろしいですか?お聞きしたい事が。……という意味(これも間違ってるのかな?)で使っていました……。
> あたしは「自分が正しくて相手が間違っているとテンから思っているヒト」というのがキライなので、腰を低くして後退しながら自分の土俵に引きずりこんで、ずっぽりと陥穽に落としてしまいます。
僕はそういう人の言葉も全て耳に入れてしまう(脅迫的なのに弱い)みたいで……ACなのかも……。
> 「ご苦労さまです」を目上のひとに使ってはいけなくて「お疲れさまです」を使いなさい、とかいうことをしたり顔でいうヒトとかいるんですよね。名加野さんもそういうヒトにいろいろ言われてげんなりしたことがしょっちゅうおありだろうと拝察いたします。あたしも散々やられました。
アルバイトやってた時は、どこへ行っても「お疲れ様です」しか言いませんでした。というか、内部ではその挨拶しかありませんでした。
> ですが、「ご苦労さまです」というのは江戸ことばであって、「お疲れさまです」と同様に使えるのね。芸能界では「お早うございます」という挨拶が一般的とされていますが、役者さんは「お早うございます」で、落語家さんは「ご苦労さまです」が普通の挨拶だ、と六代目三遊亭圓生師匠が書いておられました。たしかに便利です。「こんにちは」も「さようなら」も「ご苦労さまです」で済んじゃいますから。「ごきげんよろしゅう」もそうですけどね。
毎回毎回凄いですね。調べ方が違うのかな……。辞典見ないのがいけないのか……(汗。
> 居丈高に相手の言葉遣いにいちゃもんをつける奴というのは基本的にイナカモノだとあたしは思います。相手が「目上・目下」の上下間系にこだわってるのか、「ことば」というものを大切にしているかによって、態度を使い分けるのがよろしいんじゃないでしょうか。
いけたかだか……あれ? 漢字出ない……居丈高(いたけだか)ですか。
いたけ-だか ゐ― 【居丈高】
(形動)[文]ナリ
〔「いだけだか」とも〕
(1)(「威丈高」とも書く)人を威圧するような態度をとるさま。
(2)座った時の背が高いこと。
(3)座ったまま体を反らせて、相手を威圧しようとするさま。
なるほど、なるほど。でも、学校の先生がこれやったら、僕なんかはどうしても頭に入っちゃいますね(汗。
僕も特に敬語関係は、教わった内容と違う時は、過敏に対応してしまうので気をつけなきゃいけませんね。
「おる」についてはだいぶ緩和しました。
武田好史 さんwrote:
> 朝7時ごろに起きる。平日恒例僕の日課のごみ出し。今日はプラスチックを捨てる。
(略)
> 家には研究所をたってから1時間40分後の17:30にたどり着く。遠い。朝7時には家を出なくてはならない。「僕にはやはり無理か・・・・」とさらに弱気になってしまった。
ごめんなさいね、なんとなく、気になってね・・・・。
詳しい経歴とかは、よく分からないので、(今まで書き込まれている分でしか・・という意味です)的外れになるはず!!と、確信できるくせに、ちょっと書いてみたい…困った、性分お許しを。
家のコ達を見ていて、武田さんに、重なります。いや、逆かな?武田さんの書き込みが、家の子に重なる・・ということかもしれない。(直接ではないけれど)
「仕事をみつけて、少なくとも自分で食べていけるようにならなければいけない」
武田さんがそう思っている事は、伝わってくる、とてもよく。それは確かにそうなんですよね。
では、仕事って、どうやって、というより、「仕事をする」という事に繋がるためにはなにをどうすればいいのか…ってあたりを、ちょっと書いてみたいと思うのです。(単にタレイヌの感覚だけですから、あしからず、ごめんなさい)
今、19の子が、うちで、うろうろしています。高校卒業して、調理学校に行きました。が、就職活動せず、アルバイトをしていたのです。1年しかない専門学校で資格は何もとれません。彼は、単純に『お金』が稼げれば、なんでも一人でできると思っていましたから、率のいい、お水系にいたのです。そして、それが『自立』と自負もあったのだと思います。でも、世の中暗黙の了解があります。<20歳から大人の仲間入り>ってね。その壁は、守りでもあり、障害物でもあるわけです。だから親としては、まだまだだ、と思っていました。危ない話や、ややこしい事態を、察知して(できたから、とりあえずいいとします)辞めました。その後、下宿を引き払って、現在は我が家に舞い戻っているわけです。今は、放送大学(という学生身分に自分を置いて)少しのバイトで、親依存生活。
もう一つ、22の、長男。こっちは、ややこしい人間関係(って、本人がASらしいから)の中で、大学4年ということになってます。ここからが就職の本番という事で、武田さんと重なるところが、おおい。(こうもりさんにもご指摘いただいています)夏ごろに、翻訳の仕事を貰えて、でも、あまりの難しさにオロオロ困っているところを、ここの、キロイさんに、助けてもらい、2ページ(16000円)という、アルバイト初体験!あと、学校の、図書館の司書的しごと、コンピューターのウイルスチェックのアルバイト、など、学校内でのお手伝い仕事は、少しずつ、やれるようになってはいるようです。
この二人は、人間への対応能力には、両極に近い、開きがありました。だからこそ「人と上手くかかわれる事が、仕事につける重大要素」ではないように思えるのです。
とりあえず、ここまでのところで、この2人を見て、私なりに思う事を書きます。
仕事をもつ=自分で生きていく…ために必要な物(ピース?)を、時間をかけて、自分の中に『つくりためる』ことが、大事なのではないか、どんなに時間がかかってもいいですから。
それは、ちょうど、ジグソーパズルの、「ピース」のイメージかもしれません。
長男に関していうなら、彼は、車が好きでした。ですから、よく知っています。これが、ピース1.それを、より理解したくて英語に、はいっていきます。ピース2.ところが、数学が苦手。ピース3.(技術者・デザイナーは、X)当然人間関係X.ピース4.この4個のピースで、おおまかな、彼の仕事は、決まってきていると思っています。あとは、彼が、凹みながらも、淡々と、やれる、粘り強さが、要求されるのかもしれませんが。
次男は人を逆なでしない生き方を、選んでいる子です。ところが、それをやり続けることは、結局は矛盾を生じます。大きなチームで仕事をしようとする時、自分の役回りが何処までであるのか判断する事はとてもむずかしい。これも、これで、失敗したり、痛い思いをしながら、こっちは、こっちで、1つ1つ、細かいピースを、今、拾い集めながら、いろいろに、組み合わせて考えているに違いない、たぶん・・・
そして、一番分かりにくい、でも、結構大きな影響があるのは、『時期』別名チャンス、あるいは機会…もっと言うと、運、運命(?は、いいすぎか)の要素ってある気がします。
ですから、運が先なのか、努力が先なのかと、問われたら、答えられないです。
で、結論は、無いんですけれど、武田さんも、自分の中で、一度「ピース」を、整理してみて、その上で、自分が出来そうな仕事を、自分なりにイメージしてみては、いかがですか?そうした上で、此の先まだ、必要な「ピース」があるのなら、それを獲得するために動いてみるのはどうでしょうか?
文章上は、お妹さんは自立なさっておられるようですから、ご両親は、武田さんのことを心配な去るのも無理からぬ事。
話が深入りしてしまうので、もう終わりにしますが、仕事とは、現在「求人して、給与を支払います。」という形だけではありません。自分で、作り出す事だって、考えようによっては、できない事ではないのです。(まあ、別の言い方をすると危ない仕事?は、たくさんあるわけですが)例えば、自分で塾をぽつぽつやるとか。ご自分が大変だったことで、『女の子への言葉かけ』が行われている訳でしょう?(そうとう驚いたと思うけど、あの女の子・・)そういう子達は、実際かなりの数に上るのです。そういう子達に、数学とか丁寧に教えてあげられると、親は助かると思いますよ。・・・・・・とかね。
今回のお菓子屋さんは、時間的に無理・・かどうかは別にして、武田さんの中で、もう少し、色んな要素で考える時間が必要な気がした、私でした。
うるさいことたくさん書いて、ごめんなさいね。
では。
(タレイヌ)
こうもり wrote:
> わたしが自身の障害について発達障害に免疫のある非発達障害者に語ると、
>「気にすることないんじゃないの?」という反応が返ってくることが多かった
>ということは、すでに述べてきました。では、自身の障害を自覚することので
>きる障害者本人に「自分の障害を気にしなくなる」ということが果たして可能
>でしょうか?
> わたしはこの点について否定的な見解を持っています。特に発達障害や精神
>障害の場合はなおさらです。話を発達障害に限定するならば、発達障害者が障
>害とうまく付き合って生きていけるようになるためには、病識(自分の障害を
>自覚し検討する能力)が必要です。病識の発現は発達障害者をひどく不安にさ
>せることもありますが、社会と折り合いをつけながら生きていくためには不可
>欠です。発達障害者本人にその場でどのように行動をすればいいのかを示して
>くれるセンサーのようなものだと考えていいでしょう。
> しかし、発達障害者本人が病識を身につけるためには、自分の障害を強迫的
>にならない範囲で意識していく必要があります。そして、障害を気にしなくな
>るという受容の仕方は、この流れとは明らかに逆行してしまうことになります。
>自分の障害を気にすることがなければ、病識もまた発現することがないからで
>す。発達障害者の障害の受容は、、本人が肯定的にせよ否定的にせよ自身の障
>害の存在を認めることからはじめていかなければならないのです。
私も君と同感だ。「自閉症は完治する病でなく、寛解する病である」ということは、自閉症児・者のケアをする側が意識しなければならない言葉であるが、本人も強迫的にならないくらいに意識しておいたほうが良いと、私も思う。
「寛解」とは、単に病気が快方に向かうという意味で、今日は良くっても明日は保障されていないというもどかしい状態のことをさす。我々は健常の人に比べて、何十倍もの枚数の壁を突き破って人生を送らなくてはならない。
壁の向こうにつかの間の幸せがあることを信じて。
里辺華 wrote:
>「愛する者たちよ、これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして、すべて愛する者は神から生まれており、神について知るのです。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。」
ヨハネ第一4章7,8節
>
> どんな聖句が好き?
「神はその嬰児を世に使わされた、それは御子を信ずるものが永遠の命を授かるためである。」
僕の通っていたひかり幼稚園は、ミッション系の幼稚園で、「暗唱聖句」とか言って、みんなでひっしになって聖書の言葉を覚える時間がありました。確かそのときに上のような聖句を覚えたような気がします。
目の前のことに近づきすぎると距離感がわからなくなるし、優先順位がわからなくなるから、わからなくなったときに視線を遠くへ引き離す目当てとして無限遠点があったほうがいい。
ときどきはっと我に返るための装置、人が謙虚になるための装置としては、「なにか大きなもの」は有用だと思う。
それが神様であっても太陽であっても水の循環であっても暦であっても生命の不思議さであってもかまわないのだけれど。
里辺華さん wrote:
> どんな聖句が好き?
聖句はしばしば文脈を離れ、一人歩きを始めてしまいます。そんなわけで、おちゃめで皮肉屋のイエス先生の実像を歪めてしまうように思うんですね。だから、あたしは聖書のどの場面が好きか、というのがあって、はじめて「イエス先生の名科白」が成立すると思ってます。
そんなわけで、『ヨハネによる福音書』における、『「お楽しみはこれからだ」』。じゃーん。
第8章、通称「姦通の女」の場面。姦通は石打ちの刑による死刑、というふうに、立法では定まっています。そんなわけで、「姦通の罪」を犯したとされる女性が連れてこられ、イエス先生に「どう裁くんだ」と迫ったわけ。だけど、たぶんこの「姦通の女」というのは娼婦だったんですよね。でなかったら、さっさと死刑にしちゃったろうし、男だって連れてこられるはずだし。だもんだから、イエス先生は「あんたらの中で、女を買ったことがない奴から、石を投げたらいい」と言いかえした。
そうすると、年長者から始まって、一人また一人とその場を去ってしまったわけです。みーんな身に覚えがあるわけです。
そんなわけで、処刑されるはずの女性が、ぽつんと一人残されてしまった。いわゆる「姦通」だったら極刑に値する罪なんだから、さっさと逃げればいいと思うんですけど、なんでか残ってたりするわけです。これも彼女が娼婦だったという傍証です。
イエス先生「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
娼婦「はい、誰も。」
イエス先生、おそらくは周囲を窺って、この女性の耳元でこっそりと囁いたのだと思います。
「私もあなたを罪に定めない。」
先生、おちゃめ。
じつは、イエス先生にはサマリア地方にある「ヤコブの井戸」というところに行ったときのエピソードがあったりします(第四章)。井戸といっても釣瓶(つるべ)がないから水が飲めません。で、そこに女性がやってきて水を汲もうとするので、「水をください」とお願いをするわけです。
このときに、イエス先生はその女性をエッチな冗談でからかうんですね。そしたらその女性がその気になっちゃって、イエス先生に迫ってきたわけです。だけどイエス先生、「あなたの夫を連れてきなさい」とかいって逃げ腰になってたりするわけです。うーむ、立派だけど結構なさけないぞ。とはいえあたしはこのヘタレな発言がけっこう好きだったりします。
で、宗教革命の英雄マルティン・ルター氏は、イエス先生はこの女性と関係した、と断じております。そんなわけで、イエス先生・前科持ち疑惑というのは、しっかり聖書に残されているのでした。ちゃんちゃん。
第二十章には、大嘘が書かれています。三章で、イエス先生はニコデモさんという律法学者さんに、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と、ちゃーんと言っています。なのに、イエス先生が弟子たちの前に幽霊のように出現して、息を吹きかけて聖霊を授けた、みたいな話が出てくるわけです。あるかっちゅーの。そんなわけで、これはペトロ他の弟子たちの創作です。だもんだから、その場に立会わなかった(ってゆーかもともと作り話なんだけどさ)弟子の一人で理屈っぽいことでは弟子第一のディディモ(トマス)は「この目で見なかったら信じないぞ!」と言ったわけです。
で、先生はそのトマスの前に現われたりするわけです。それも、ちゃーんと肉体を持って。でなかったら傷跡なんかないもんね。で、「こんばんわ」とかいって、ディディモのところにナニゲにやってきたりするわけです。
「ひいいいいいいいい」。まあ、叫んだとは書いてないんだけど。「か、神様。」
「見たから信じたのか。見ないで信じた者は幸いである。」
これ、ぜってーペトロたちに対する皮肉だと思うんだよね、あたしは。
あたしは「納得のゆく説明」を常に求めます。それが「愛情」や「善意」にもとづく判断でもね。ヨットに乗せて「海」という大自然の中に放り出せば自閉症も治る、とか言ってた「戸塚ヨットスクール」なんていうのもありました。ちなみに石原慎太郎現都知事は今でも戸塚支持です。で、親は「子供のため」と思って子供をスクールに押し込んだんだよね。
これを、虫歯になった子供をむりやり歯医者に連れてゆくのと同列に論じるわけにはいかないと思います。
だから、あたしは福音書という「実際に伝わった文書」だけを見ます。その解釈というのはあくまで参考意見であって、「自称キリスト教徒」の解釈を鵜呑みにはしません。
そう思って福音書を読むと、イエス先生ってやっぱ素敵なひとなんだわ。
辻まことさんというひとがいて、「作者を取りのけてなお価値のある作品は、作品を取りのけてなお価値のある作者によって生み出されるように思う」と言っています。
あたしはイエス先生から、奇跡だのなんだのを取りのけて、なおイエス先生には学ぶべきものがいっぱいあると思っています。だもんだから、「奇跡」の部分とかもちょっとだけ信じてみたいなー、とは思うんだけど、そういう「甘さ」はあたしはキライだし、たぶんイエス先生もキライだったんじゃないかなー、と思います。「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」がイエス先生の極め台詞だしな。
現代人の理性、そしてほんのちょっぴりのロマン。現代における宗教というのは、その枠組の中でのみ、とらえることができる、とあたしは思っています。
(Maria)
里辺華さん wrote:
> 「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、みえない実体についての明白な論証です。」
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。
ヨハ 4:22
名加野さん wrote:
>長年のエクスキューズに終止符が打たれようとしています。
“examin”:調査。(学問・問題などの)考察、吟味。
“execuse”:弁明、釈明、理由、申し開き。言い訳、口実、弁解。
“execute”:制作、著作(を行なう/完成させる)。遂行(を実行/完了する)。
“explain”:説明、釈明。
“explore”:探索、探究。
“expound”:(学説・理念などを)〔人に〕説明する。
“execuse”なのか(^_^;)。(←なかなかにヘコんでいる)
あたしは「自分が正しくて相手が間違っているとテンから思っているヒト」というのがキライなので、腰を低くして後退しながら自分の土俵に引きずりこんで、ずっぽりと陥穽に落としてしまいます。
「ご苦労さまです」を目上のひとに使ってはいけなくて「お疲れさまです」を使いなさい、とかいうことをしたり顔でいうヒトとかいるんですよね。名加野さんもそういうヒトにいろいろ言われてげんなりしたことがしょっちゅうおありだろうと拝察いたします。あたしも散々やられました。
ですが、「ご苦労さまです」というのは江戸ことばであって、「お疲れさまです」と同様に使えるのね。芸能界では「お早うございます」という挨拶が一般的とされていますが、役者さんは「お早うございます」で、落語家さんは「ご苦労さまです」が普通の挨拶だ、と六代目三遊亭圓生師匠が書いておられました。たしかに便利です。「こんにちは」も「さようなら」も「ご苦労さまです」で済んじゃいますから。「ごきげんよろしゅう」もそうですけどね。
そういえばどっかの落語家が「古典落語をイロモノと一緒にするな」とかいっていきまいていましたが、講談以外は全部「色物」です。ちなみにソフトウェア業界では、科学技術計算と事務処理以外はすべて「イロモノ」の扱い。つまり、「誤差」と「効率」がちゃんと読めて動作を保証できない「作った」「動いた」「売れた」の「三たシステム」は、基本的にイロモノです。あたしをイロモノ・プログラマーとお呼び。わはははは。
なお、東京だと知ってる人とすれ違うときには「こんにちは」ですが、京都では「さいなら」です。全国共通の挨拶なんていうのはないと思ったほうがいいと思います。「お疲れさまです」なんていうのは薩摩っぽか土佐っぽか、とにかくあっちのほうの田舎侍が使ったに決まってます。ええ、決まってますとも。(←明治以来の日本政府の国語政策にちょっと怒ってる)
東京には東京の言葉があります。東京に住んでるからって、「標準語」を押しつけられる義理はありません。「そんなこと言ったって、方言を踏みにじったのは東京の人間じゃないか」とか言うかもしれないけど、明治政府の連中は東京に押しかけてきたわけで、もともと東京に住んでたわけじゃないぞ。戦後の日本政府の大臣だって選挙区はほとんど地方だし。
いわゆる「学校文法」というのは「規範文法」なんだけど、科学性だとか論理性だとか合理性だとかを離れた相当にグロテスクなものです。佐伯梅友先生も『日本語文法の基礎』(『Re: 続・聴覚認知障害』(No.8733、13 Nov 2001)を参照のこと)でボロクソにけなしています。
居丈高に相手の言葉遣いにいちゃもんをつける奴というのは基本的にイナカモノだとあたしは思います。相手が「目上・目下」の上下間系にこだわってるのか、「ことば」というものを大切にしているかによって、態度を使い分けるのがよろしいんじゃないでしょうか。
(Maria)
Maria wrote:
> 信仰は、「力」と不即不離のような気がします。無力なものに力を与え、力のひとり歩きを防ぐものとして、信仰は機能しているように思います。
「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、みえない実体についての明白な論証です。」
ヘブライ11章1節
望んでいる事柄への権利証書といっても良いでしょう。でも、聖書的に云う信仰とは、神の霊の実としての保証された期待なので、人間くさい考え方としての希望、野望、野心、邪心、あるいは敵意悪意憎悪にもとずく期待ではありません。
NO.8704で蝙蝠(狂人型)が書きかけていたコメントをスレッドを変
えてコメントします。
おおまかに言って障害者が障害を受容する方法は3通りあります。
(1)障害を個性と評価できるようになる
(2)障害をあるがままに認めることができるようになる
(3)障害が気にならなくなる
このうち、(1)と(2)の受容方法は特に排他的ではなく、矛盾なく両立
しうる可能性があることはこれまでに議論されてきた通りです。そして、今日
のテーマは「(3)障害が気にならなくなる」についてです。
わたしが自身の障害について発達障害に免疫のある非発達障害者に語ると、
「気にすることないんじゃないの?」という反応が返ってくることが多かった
ということは、すでに述べてきました。では、自身の障害を自覚することので
きる障害者本人に「自分の障害を気にしなくなる」ということが果たして可能
でしょうか?
わたしはこの点について否定的な見解を持っています。特に発達障害や精神
障害の場合はなおさらです。話を発達障害に限定するならば、発達障害者が障
害とうまく付き合って生きていけるようになるためには、病識(自分の障害を
自覚し検討する能力)が必要です。病識の発現は発達障害者をひどく不安にさ
せることもありますが、社会と折り合いをつけながら生きていくためには不可
欠です。発達障害者本人にその場でどのように行動をすればいいのかを示して
くれるセンサーのようなものだと考えていいでしょう。
しかし、発達障害者本人が病識を身につけるためには、自分の障害を強迫的
にならない範囲で意識していく必要があります。そして、障害を気にしなくな
るという受容の仕方は、この流れとは明らかに逆行してしまうことになります。
自分の障害を気にすることがなければ、病識もまた発現することがないからで
す。発達障害者の障害の受容は、、本人が肯定的にせよ否定的にせよ自身の障
害の存在を認めることからはじめていかなければならないのです。
パックン さんwrote:
>エヘヘ。 ありがとう。 感想を書いて頂いてうれしいです。
わー! よかった! 私もうれしいですぅ。
>うーむうーむ。私の会ったAS君は大学生だけど、結構、言葉は流暢だったしなぁ〜〜。よく話す人だったし。
>私もうまく言えない。自分の生き辛さ。 でも、あそこまで表現できるASはいそうに思うんだけど。
>
あっ!もちろん長男(AS)はおしゃべりですよ。
自分の興味のあることはしつい、しつこい。質問癖もあるから「もう〜勘弁
してくれ〜」状態です。ただ、聴覚情報の取り入れには困難がともなっている
ようです。聴力には異常がないけど、なんとなくぼんやり聞いている感じなので
どうしても、人が多く居る中で発言出来て人の話を聞き取れる人を見ると、言語
能力が高い人だな、と感じてしまうんです。
表現ができるASの人もたくさんおられると思います。すぐに、息子と比べて
しまってごめんなさい。(^^;
>
>#只今、体中が大変なことになってます。 休養を心掛けて過ごしてます。
>#早く直らないかにゃ〜。。と、ウズウズ。ウズウズ。
それは大変だ! しっかり休養してください。(ウズウズ)
pennpenn58 wrote:
> けれど私は教会にも行かないし聖書も今は読みません。ただ自分一人の信仰をたった1人で信じています。
> 自分というものを深く見つめざるをえなかった人は結局神という存在に行き着くのではないでしょうか。
*私の好きな聖句
「愛する者たちよ、これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして、すべて愛する者は神から生まれており、神について知るのです。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。」
ヨハネ第一4章7,8節
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