アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Maria wrote:
> Mさんが、心臓の病気にかかりました。心臓の筋肉が腫れて、膨らんでしまう病気です。医学的には突発性拡張型心筋症、それも非常に特殊なもの、という診断を受けました。
>(中略)
> Mさんはみるみるうちに痩せ、筋肉や骨格が浮き出し、鼻が高く飛びだし、目だけがぎょろぎょろと光り、同時に水分が減ったためにしわしわのカサカサになってしまいました。ですが、とりあえず危機的な状況は脱しました。
ここでの質問は、Mさんが病院にかかった時、明らかに具合が悪かったからか、それとも何となく疲れやすくなって念のため病院に行ったらいきなり聞いた事も無い病名を言われ、入院の運びとなったか、です。
危機的な状況を脱したというのは、Mさん本人が自覚するほどの改善だったのでしょうか?それとも、検査の結果上は良くなっただけのことで、体重が減ったためと喉の渇きで本人は返って状態は悪くなったと思っているのでしょうか?
>(略)
> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
ここで言う十分な水と栄養という意味があいまいです。食べ物の中にも水分は含まれている訳で、別にお茶とかコーラとかわざわざ飲まなくてもカロリーメイトの様な食事でないかぎりは病院食というのは必要な栄養と水分を栄養士さんがわざわざ考えてメニューを作っているものと私は理解しています。味については、期待しちゃ駄目です。少なくとも病院側は必要最小限の水分、栄養はMさんに摂ってもらっている筈です。じゃないと今度は腎臓やら肝臓やらに負担がかかりますから。
>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違っていたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないのですか?
> とりあえずの選択肢は三つ
>1)医師の指示通り、カロリー制限と水分制限を守りつづける。ただし、その結果、お母さんと病院との間で深刻なトラブルが予想される。
お母さんの入院費支払い拒否ですか?
>
>2)お母さんの指示通り、お母さんの持ってきた食事を取る。ただし、その結果、Mさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想される。
当然強制退院ですね。
>
>3)お母さんの持ってきた食事を取ったふりをして、お母さんにわからないようにどこかで吐く。この場合、病気のために活動が不自由であるMさんがお母さんの厳重な監視の目を逃れて食事を吐くことに関するかなりの困難があり、(2)と同様にMさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想され、しかもMさんの健康にも深刻なダメージを与える危険性がある。
これは当然却下です。両方に良い顔をしようとしてすべてを失う一番ばかげた考え。
> Mさんはどうしたらいいでしょうか?
>
私の考え、
Mさんは自分の治療に専念だけしてください。もし、Mさんが担当医の先生を信頼しているのであればその指示にしたがって頂きたいと思います。もし、信頼できないのであれば(大概は医者の説明不足、知識不足から生じる事が多い)、、、ちょっと話は難しくなりますね。
いづれにせよ私がいいたいのはなぜに具合の悪い病人にそんな負担をかける?本人は自分の命を掛けて病院にいるんでしょ?医療サイド(医者、および看護士、栄養士、ソーシャルワーカー)は患者とその家族に十分な説明(相手がちゃんと納得するまでの)を与えるべきだし、「上司の医者の指示」という、言い訳にもならない言い訳を患者に与えるくらいなら、担当医になるな、と言いたい。そんな言い訳をするから、お母さんはその医者に信頼が置けなくて自分の考えに固執するのでは?
信頼できない医者に一人娘を預けるお母さんの気持ちも分からんでもないけど、、
Mさんのお父さん側の親戚で頼りになるひととか、Mさんの親友とか、お母さんのとても親しい友達とかはMの代わりにお母さんと病院の間に入ってくれる人はいないのですか?
そういう人がいなくても、病棟の看護婦さんとか、同じ科に入院している人の家族とかにお母さんの話を聞いてもらうとか。どの点がはっきりしていないのか、なぜやせただけでお母さんはそんなにうろたえるのか。Mさんと妹さんの相似点はやせたというある一点だけで、そこに至る経路は全く違う事をはっきりさせないと。
(ちなみに、お母さんは妹さんの事をMさんや周りの人に話しているのですか?)
医者は自分は理解し易いように言ったつもりでも、ある1点が理解できないために全体の理解が阻まれるという事を理解していない生き物である事を念頭においてわからない事はしつこく訊ねるべきです(でも、感情的になっては駄目)
あと、病院側でもメンタルケアをちゃんとすべきでしょう。
因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ないのですか?
最近Mariaさんしかお見掛けしませんが、大森研のみなさまはお元気ですか?
(かおり)
Maria wrote:
>
> 「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
>
> (Maria)
そうなんですよね!!Mariaさん。「誰が」ではなく「何を」発言したかを重要視する風土であればもっとこの社会は住みやすいものになりますよね。
でもたとえば会社なんかだとおそらくどの会社でも同じだと思うけれどグループまたは派閥というものがあってもう徹底的に「誰が」が重要視される世界。そんなとこだと孤立しやすいASの人なんかもう何を言ってもだめという感じ。人脈、根回しそんなものが大事な今の日本ではほんとうのことをいっても受け入れられない人たちが大勢います。
ちなみに私は会議なんかではわからないことは必ず発言者に説明を求めるタイプでした。「よく聞けるね」とよくいわれたけど公の場での発言は私には楽だった。まわりへの影響を考慮しないASなので。会議とか集会だと結構「何が」が重要な場合もあるし。むしろ普通の一般会話がだめ。
でも私は結局、社会の落ちこぼれ意識が強くMariaさんのように『「何を』発言したかを重要視する風土というのを、あたしたちは育てていく必要がある』という風になかなか考えることができない。そうしなければいけないのだとは強く強く思うのだけれど。
Mariaさん。そんな風土をつくって下さいなんて他力本願なこことをいったらおこりますか?
自分に絶望しているpennpennでした。すみません。
Mariaさん wrote:
> とても悲しいことですが、算数の答えや学問においてすら、「純粋に理性的な解決」というのはありえなかったりするわけです。
> 「人の喋っていることがわからない」というのは、自分以外の人は理解しているのに自分だけが理解できない、ということを意味しているわけですが、実際のところ、他の人も解っていないんだけど解っているふりをしているだけで、ただ、それを他のメンバーの前で認めることに心理抵抗があるだけかもしれない。そういうときに、いちばん偉い人が「私にはいま説明されたことがまったく理解できなかった。できれば私にも解るように説明してくれないか?」と発言することで、問題が解決しちゃったりということもあるわけですよ。
ふむふむ、確かにそうだ。
ただ、偉くは無くても、とりあえず、「説明してくれ」といえる人は、強いかな(?)でも、そうなると、ここで、話がまた、いじめの振り出しに、戻ってしまう・・・いや、次の段階に踏み込んでしまうのかもしれません。
> そんなわけで、「立場」というものを離れて一般論として論じるだけで、しばしば問題は解決してしまうわけです。で、問題は、どうやってその「立場」の呪縛を逃れるか、ということだったりするわけですよ。
確かに、そうですね。
「立場」の呪縛から、少しずつ上手い事逃れて、どこかにいってしまう人もいますよね・・。
> で、「相手の発言の意図を相手の利害に帰着させることで、相手の発言の是非を問わずにその影響力を殺ぐ」ということをする人が多かったりするわけです。誰かが「こうしたらどうだろうか?」と意見を述べたときに、「それで得をするのはあんただろう!」というのがこのパターン。
もう一つは、「言い出した、あなたが、やってみれば?」式もある気がしますけど・・・・。
> 「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
ああ、そうやって、ポイントを絞るべきなんですね。
(ありがとうございます・・かな?)
(タレイヌ)
pennpenn58さん wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。
おはようございます。慎言居士さんへ、に続いての、横レスごめんなさいね。
NO.8945で、慎言居士さんに、横レスしているタレイヌです。
NO.8883の、タレイヌのカキコを、見ていただけると嬉しいですが・・・。
言葉が、勝手に一人歩きをはじめてるようなので、気に成り始めたタレイヌです。
こうもりさんの名誉(?)のために申し上げますが、分類したのは、こうもりさんではなく、タレイヌですので、お間違えなきよう、お願いいたします。
こうもりさんへの、説明のために、無理やり、タレイヌがわけました。
「生産者群」「非生産者群」ではありません。
分けた目的に、言葉どおりの意味が込められているのではありません。(NO.8883での、こうもりさんと、タレイヌとの、やり取りをお読みいただきたいです。よろしくお願いいたします。)
(タレイヌ)
タレイヌさん wrote:
>つまり、多くの、この手(いじめ)の問題は、どんな場合でも、算数の答え(?)
>や、学問(?)のようにある程度のみんなが納得するような「解決」あるいは
>「結論」には、至れないんですよね。(むしろ、至ってはいけないかも?)時
>間的な「スパンが長い解決(?)」をめざすことが、せいいっぱい・・という
>ことが、多いように思います。
とても悲しいことですが、算数の答えや学問においてすら、「純粋に理性的な解決」というのはありえなかったりするわけです。
算数の答えにおいては指導法に対する考え方の差によって同じ答えが○になったり×になったりするし、学問においては学派間の政治的闘争というものがあったりもします。
「人の喋っていることがわからない」というのは、自分以外の人は理解しているのに自分だけが理解できない、ということを意味しているわけですが、実際のところ、他の人も解っていないんだけど解っているふりをしているだけで、ただ、それを他のメンバーの前で認めることに心理抵抗があるだけかもしれない。そういうときに、いちばん偉い人が「私にはいま説明されたことがまったく理解できなかった。できれば私にも解るように説明してくれないか?」と発言することで、問題が解決しちゃったりということもあるわけですよ。
そんなわけで、「立場」というものを離れて一般論として論じるだけで、しばしば問題は解決してしまうわけです。で、問題は、どうやってその「立場」の呪縛を逃れるか、ということだったりするわけですよ。
たとえばの話、肥満というのは消費したカロリーよりも多くのカロリーを吸収することで起きるわけですから、「肥満の原因はカロリー吸収の超過にある」ということは言えるわけで、摂取カロリーがゼロのときは痩せざるを得ないわけですから「食べなきゃ痩せる」というのも確かなことではあるわけです。
ですが、中程度のやせ〜肥満に関していうならば、肥満している人のほうが、やせているか平均体重に近い人に比べて、摂取しているカロリーは平均的にいって少なかったりするわけです。つまり、太っている人は燃費がいいんです。で、ダイエットをすることでますます燃費がよくなっちゃったりするんですね。
この場合、太っている人がこの事実を指摘したときは「それはダイエットをさぼる言い訳でしかない」と反論されるだろうし、痩せている人が「だったら、私はたくさん食うとかえって体重が減っちゃうんだが、これはどうしたことだ?」と発言したとしても、「やせと肥満は別だ」と反論されちゃうわけです。
で、「相手の発言の意図を相手の利害に帰着させることで、相手の発言の是非を問わずにその影響力を殺ぐ」ということをする人が多かったりするわけです。誰かが「こうしたらどうだろうか?」と意見を述べたときに、「それで得をするのはあんただろう!」というのがこのパターン。
「誰が」発言したかではなく、「何を」発言したかを重用視する風土というのを、あたしたちは育ててゆく必要があると思います。
(Maria)
truth さんwrote:
はじめまして。タレイヌです。
Mariaさんの、レスのほうに、先に答えている失礼をお許しください。
pennpenn58 さんが、おっしゃっている事は、結構当たってるかもね、と思ったタレイヌです。
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
私が話し掛けているのに、答えてもらえない・・とか思う相手は、確かに、結構いますよ。でも、実は、タレイヌ自身も、そう思われていたらしい・・・と、子育てし始めて、気付いたりしてるわけですよ、これが。
仕事とかでは、大きな問題に膨れ上がるのなら、大変な事ですが、そうでない範囲で、何とかなっているのならば、疲れないようにしながら、この後も、続行ですね、いままでどおり。
別の部分で、最近タレイヌは、耳が、悪くなったと、明らかに感じています。これが、老化なのだとおもっています。非常に微妙な事なのですが、話し掛けられた言葉が、言葉どおりに意味が繋がって入ってこなくなってきています。話し掛けられた言葉を、もう一度、再生してみて、それから意味を考えて、答えを組み立てていたのですが、最近は、話し掛けられた言葉を再生しようとすると、その時点で、??と成るのです。たぶん、言葉のいくつかを聞き取れなくなってぬけてしまっているので、再生しても意味不明になってしまうのですね。当然、「いま何て言った?」と聞き返すことが、多くなってきています。
聞き返しが出来る関係でしか今のところ、生きていないので、恵まれているのかもしれませんけれどね・・。子供なんて、強制的に、こちらのペースで、合わせていますし、子供は子供で、聞かれたくない事とかもあるみたいで、聞こえない事は、いまや、都合がいい(?)部類に入っているかも、しれません・・?けど。
(答えになってないタレイヌ)
鷲羽丸 wrote:
>
> それはさておき、わしはこのマンガで強く疑問に思う点がありました。それは、
>
>「千兵衛(アラレを作った人)が、アラレはロボットであることをしきりに隠す」
>(中略)
> これ、「見た目にわからない障害を抱える子供を、普通であるように見せる」親の考えとダブって感じてしまうんですよねえ……。
>
> 鳥山氏の考えはどうだったか 鷲羽丸
私は「究極超人あーる」(ゆうきまさみ著、サンデーコミック)が好きでした。まあ、基本的にアニメのパロディをそこここに散りばめたのりの軽いマンガではありましたが。このマンガでは「あーる」君がロボットであることはいとも簡単に明らかにされます。でも、何の不都合も起こりません。あーる君がちょっと変なのはロボットだからと周りが納得してるから。これもある意味ちょっと考えてしまう事ではあるかもしれませんね。でも、ある点においてはあーる君は抜群の能力を発揮します。
(あさかぜさん、「究極超人あーるの歌」ってご存知ですか? 実は山本正之さんの作品の中で私はこれが一番好きだったりします。)
あられちゃんが明らかに常人ばなれした能力(これを障害とみるか才能ととるかも思案のしどころでは)を持っていながら周りが彼女を人間と信じているってのはちょっと無理があると私は思っていました。昨日まで一人暮らしの所にいきなり妹じゃねぇ。ほんとは皆知っていて、ただ千兵衛さんだけはばれてないって思っていたんじゃないかなぁと。でも、天才科学者を自任する彼が、その最大の作品を世の中に発表しないほうが、私には納得がいかなかったのも事実です。まあ、あくまで、この作品はギャク系なので、シリアスにとらない方が良いのかも、ってことですか?
そう言えば、「ヴァーチャル ガール」というSFがありました。4-5年ぐらい前に早川SFから出版されました。枝葉を覚えるのは苦手なのでちょっと違うかもしれませんが、ここの世界では移動型ロボット、あるいは進化型人工知能は作るのが許可されていない。で、主人公のロボットちゃん(名前忘れた)は、とある事故で制作者と逸れた後自分がロボットである事を隠して何とか彼の元に辿り着くのです。その理由はメンテナンスのため、で彼に隷属していたからではありませんでした。とても自立したロボットでした。自我に目覚めていたとも言えます。見た目も可愛いから彼の奥さんは彼女に嫉妬します。彼女が彼を愛がゆえに追いかけて来たと思い込んだから。まあ、二人の間には誰にも邪魔されないある種の絆というものがあった訳ですね。で、彼は奥さんに彼女がロボットである事を証明します。その後奥さんが見せたのは確か異質の物に対する嫌悪だったと覚えているのですが。
「Five Star Stories」はちょっと理解するのに縦糸と横糸が絡みすぎて複雑ですが、ここではロボットというよりもクローン技術で作られた人工生命体ファティマの話です。で、彼女らはファティマであるがゆえに受ける差別があります。とはいうものの、6巻あたりから読むのが止まったのでどういう展開になったかは定かではありませんが。
アン マキャフリーの「クリスタルシンガー」「キャラサンドラ」「クリスタルライン」は元は普通の人間がいわゆる「よーかい」になる(というと作者に失礼でしょうが)殆ど不老不死の肉体を得る変わりに記憶力がとっても悪くなってしまう、という、クリスタルシンガーのお話です。
「超人ロック」なんても特殊能力が故の苦悩の少年の物語だったような。彼の求める幸せって年取って老衰で死ぬって事かなと思ったりします。記憶が無くならないっていうのは時として残酷なのかもしれない。
話がずれてしまったらすいません、 (かおり)
pennpenn58さん wrote:
> 私はなんか頼りない母親で時々落ち込んで気弱になってつい言われるまま中3の娘に携帯電話を買ってやってあとでいくら何でも与えるには早すぎたなんて落ち込んでめそめそ泣いたりなんて・・・・・。
>元気なときには何とかやっているのですが。
レスありがとうございました。
わたしだって頼りない母親ですよ〜。元気なときにはできるだけ動いて、元気がないときには何も考えずに寝ている(横になるだけでもOK)という状態を繰り返しています。それでもなんとかなるものだということを知りました。
いろいろと引き受けなくちゃならない(子育てのほかにも家族の健康管理とか、ご近所親戚のお付き合いやら、日常生活の細かいことあれこれマルチに)ことの多い「母親」というのはかなり疲れる仕事なので、休みもたくさん取っていいんだと気づくまでに何年もかかったわたしです。
できるだけ無理をせずにマイペースを心がけるのが、遠回りなようで回復への早道かもな〜と思う今日この頃です。うつから抜け出すと、元気もわいてくるのでメソメソしなくなります。メソメソしてたらまだうつかもしれないので、思いっきりひたりましょう(笑)。
最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピンとこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理という段階に来ているような気がします。
人を生産者だからこうだ非生産者だからこうだと決めつけるのが難しいと思うのです。たとえば昔なら障害者は不幸なことが多かった。でも今ではきっと不便はきっと色々あると思うのですが現状に満足している障害者もいれば現状に満足することができない健常者もいる。
例外的なことが多すぎて人を外面的に分類して対立的にものを考えるのが難しいように思うのです。
私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるということです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくても幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思うし、不幸せな人もいる。私は・・・・・幸せではありませんが・・・・・。
いつも思うのです。世の中はなんで不公平なんだろうと。でも人によっては私が幸せだと思う人もいるかもしれない。結婚して3人の子供がいる。世の中には子供を産みたくても産めない人もいるのに・・・。
私はこの世の中を2分類するとしたら大脳生理学的にセロトニンの多い人と少ない人に分類したい。自分の状況に幸せを感じることができる人とできない人。私の問題はASかどうかではなく幸せを感じることができないことにあるような気がします。たしかにASであることでいじめられたこと、苦労してきたこと、悩んだことは多かったけれど今の私の状況は人によっては幸せという人もいます。自分の実の親と同居できていいねなんて・・・・・・。沈黙・・・。
このページでも幸せな人ってきっといますよね。考え方がポジティブな人。うらやましいです。それはきっと脳のセロトニンが多いせいに違いないなんて思考の拒否でしょうか。それとも鬱が改善しないせい?
武田君は散歩して農作業をしている老夫婦をみて安らぎを覚えたとのこと。そうなんですよね。些細なことに安らぎと幸せを感じる。それが大事。セーターを裏返しに着たっていいじゃないですか。でもASってそうなんですよね。些細なことでショックを受けるような気がする。些細なことでも繰り返しが続くとストレスになるのですよね。長々とすみません。ではまた。
更にずれてしまいますが・・・。
Maria さんwrote:
> あたしは、「こうした論理的に閉塞した状況において、人間が理性的にふるまうことが本当にいいことなのか?」についてちょっと疑問に思っています。キレて大暴れをして、収拾がつかないほど大きなトラブルに発展させて、「当事者みんなの問題」にすることによってしか、こうした問題は解決しないんじゃないだろうか、とあたしは思っています。
そうだと思います。当事者は、上手に(?!)騒ぐ努力(!)が、必要です。しつこく、しつこく・・・。
> ただ、みんなが「これはわれわれ全員の問題だ」と納得してくれるとは、とても思えませんが。
実際的には、『みんな』は無理ですが、運がよければ、そのうちの、何人かが気付くので、時間をかけて、解決・・・ではなく、「変化させていく」しかないのかもしれません。
つまり、多くの、この手(いじめ)の問題は、どんな場合でも、算数の答え(?)や、学問(?)のようにある程度のみんなが納得するような「解決」あるいは「結論」には、至れないんですよね。(むしろ、至ってはいけないかも?)時間的な「スパンが長い解決(?)」をめざすことが、せいいっぱい・・ということが、多いように思います。
(タレイヌ)
truth さんの状況は、私が英語ネイティブに取り囲まれた状況にすごく似ているようです。
私の場合はそういうときは仕事のことが多いので、わからないときには「わからない顔」をしているのがいちばん問題は起きないように思います。
# お仕事の場合は、わかったフリをしているとあとで必ず困る。
# でもお仕事内容が交渉ごとの人にはおすすめできるかどうか??
でも、その場その場はなんとかなっても、頻度が上がるとだんだんつらくなってくるんですよね。
お気持ちはすごくわかります。
どう対処していいかはよくわからないんですが。
truth wrote:
>あまり書き込みをしていないのに、すみません・・・。
>
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>
>そんな時は、「うんうん・・・」と聞く努力をして、分かっているように頷いたりするのですが、全然分かっていない時があります。一対一だと比較的相手の話が分かるのですが・・・。後、概念的な話とか・・・物とかに対する話だったり、単純な話だと理解出来るのですが、全体を把握したりする話・・・現実的にどうするかという話だとほとんど全然分かりません。
>
>メールや文章だと理解でき、又、人間対人間でない方が理解しやすいです。人間だと、その人の印象とか・・・相手の存在感みたいなものに気を取られてしまい、言葉が出てこなくなってしまいます。
>
>無理して合わせるより、そういう時は、「分かりません」と言うべきでしょうか?又、「よく分からないので、ゆっくりもう一度言って下さい。」と言うべきでしょうか?
>
>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>
>そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処しているんでしょうか?
私も全くその通りの症状で悩んできました。ほうぜんとしたのは大学の授業のとき。授業は一時間半だったのですがその時間を私は集中力を維持することができなかったし、教科書のない教師の話すことを理解してノートを取ることができませんでした。
社会生活ではtruthさんのおっしゃるとおりの状態です。どうしたらいいのかについては私もわからないのですがそれはこのページで聴覚認知障害と言うものらしいということを知ってなにか気が楽になりました。症状があることはつらいことだけれどそれが病気だということが分かればいくらか耐えるのが楽なような気がします。仕方がないのだ、それは自分の病気なのだからと人とのコミュニケーションのまずさを自分で許すのが私は楽になりました。
どう対処したらいいのかはわからないのですがでもそこは年の功でひたすら図々しくいろんな話しに「あー、それはねえ」とか「エー、何何々?」とかいって話の輪に混じってしまうのが結構有効のようです。
人って気さくに接すれば受け入れてくれるけどお高く(そんなつもりは全然なくても)とまっているように見える人とはつきあいが深まらないもののようです。
なんかお互い大変だけれどこのありがたいホームページで気楽におしゃべりできるのはうれしいですね。
みどり wrote:
>あれは本当におかしな話でしたねー。
>鶏を殺すのが残酷だっていうなら、給食は菜食にするんかいっ。
>
それを言うなら、「自分の親指を傷つけて、血液を採取して自らの血球の様子を顕微鏡で観察する」生物学の実験も、なぜだめなんでしょうね。(自分で自分の病気<例えば白血病>とか見つけちゃったら、確かにショックでしょうけど・・・)
僕もこの実験をやりましたが、自分の身体の中で酸素を運んでいる赤血球の小さな玉のような姿が、今でも目の奥に残っています。本当に小さな細胞で400倍の倍率でもわずかしか構造が判りませんでした。
確かに親指を傷つけるのは痛かったけど、その代償として、自分の身体の真実・神秘を知ったことは、潜在的にどこかで、その後何度となく私の心に巻き起こった「自殺願望」を抑えてくれていたと思います。
truthさん wrote:
>そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処
>しているんでしょうか?
ちょっとポイントがずれているように思われるのを承知でコメントします。
この問題は、以下のような形で、いくらか一般的に捉えられるのではないでしょうか。
複数の人間関係にまたがる問題ではあるけれど、直接にトラブルを抱えているのは本人である。
ところが、本人には問題解決能力がない(つまり、自分一人の努力で解決することができない)。問題解決には他の当事者の協力が不可欠である。
さらに、本人が問題解決に向けて他の当事者に働きかけたとすると、それが感情的反撥を招き、さらに問題解決を困難にするおそれがある。
本当なら権威ある第三者によって解決すればいいのだけれど、それすらも他の当事者の協力が不可欠であり、同じように感情的な反撥を招き、問題解決を困難にするおそれがある。
たとえば、「優等生が先生にひいきされていると感じた生徒が、その優等生に対して『むかついた』結果、いじめを働く」みたいなケースも、問題構造としては同じです。優等生本人が暴力的な手段でいじめに対抗したら、親や教師は困ってしまいます。かといって、説得や買収(つまり、いじめっ子にお金を払って許してもらうわけです)といった「平和的な手段」で解決しようとしても、いじめをエスカレートさせるだけです。親や教師に「いじめをなんとかしてほしい」と要請しても、親や教師は決定的な解決策を持っていないし、それはいじめを激化させるだけの結果しか招かなかったりします。優等生は黙っていじめられ続けるか、さもなければいじめ以外の理由を持ち出して親に転校を申し出るか、いじめを避けるために登校を拒否して引きこもるかといった手段しかありません。この場合、親が子供の転校や登校拒否を認めてくれるとは思いません。必ず理由を問い質すと思います。かといって黙っていじめられ続けていると、うつ症状を引き起こし、発作的に自殺してしまう危険性があります。
あたしは、「こうした論理的に閉塞した状況において、人間が理性的にふるまうことが本当にいいことなのか?」についてちょっと疑問に思っています。キレて大暴れをして、収拾がつかないほど大きなトラブルに発展させて、「当事者みんなの問題」にすることによってしか、こうした問題は解決しないんじゃないだろうか、とあたしは思っています。ただ、みんなが「これはわれわれ全員の問題だ」と納得してくれるとは、とても思えませんが。
(Maria)
ちょっとした思考実験です。
ここに、Mさんという、ぽっちゃりとした若い女性がいます。Mさんはお母さんと二人暮しです。
Mさんが、心臓の病気にかかりました。心臓の筋肉が腫れて、膨らんでしまう病気です。医学的には突発性拡張型心筋症、それも非常に特殊なもの、という診断を受けました。この病気に関していくばくかの治療経験のある病院は、日本では一ケ所しかありません。Mさんはそこに入院しました。
とはいえ、この病気は原因不明で、治療法も確立されていません。医師にできることは、症状を抑えて、経過を観察することだけでした。そこで、以下の二つをとりあえずの治療方針として出しました。
カロリーを制限し、体脂肪を減らすことで、心臓への負担を軽くする。(安静、血管拡張剤の投与と酸素吸入を併用)
心臓の周りや肺に水が溜るのを防止するため、水分の制限と利尿剤の投与を行なう。
ただし、これらはあくまで対症療法でしかありません。
Mさんはみるみるうちに痩せ、筋肉や骨格が浮き出し、鼻が高く飛びだし、目だけがぎょろぎょろと光り、同時に水分が減ったためにしわしわのカサカサになってしまいました。ですが、とりあえず危機的な状況は脱しました。
ところがMさんのお母さんは、妹さんを神経性食志不振症で亡くしていました。家族(Mさんのお母さんのお母さんと、Mさんのお母さん)は妹さんになんとか食事をさせようとしましたが、妹さんはどうしても身体が受けつけないといって、出された食事をほとんど残していました。業を煮やした二人は、妹さんの食事につきっきりで、最後まで残さず食べるように促しつづけました。ところが妹さんは、食事を全部食べはしたものの、気分が悪くなって、家族にわからないトイレの中で食べた食事をみな吐いてしまっていました。その結果、体内のイオンのバランスが崩れ、トイレの中で心臓の発作を起こし、発見が遅れて亡くなってしまったのでした。
そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分な水と栄養」を与えるよう要求しました。で、それが担当の医師に断られると、Mさんの病室に食べ物と飲物を運び、それを残さず食べるように迫りました。Mさんが「それは病院の治療方針に反するから」と断ると、お母さんはますます激昂して、担当の医師に喰ってかかりました。
担当の医師は、病院の方針(というより、上司にあたる医師の指示)に逆らうことができません。それと同時に、家族の同意が得られなければ治療を行なうことができません。そんなわけで、病院側から、「なんとかお母さんに治療方針に同意してもらうこと」を求められています。
Mさんのお母さんは、Mさんが「ほとんど飲まず食わずでいる」という現実を受け入れることができず、痩せ細ったMさんが食事を採ろうとしないことや、担当の医師がそれを認めていることが我慢がなりません。また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違っていたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
そんなわけで、担当の医師も、Mさんのお母さんも、自分で自分の態度を変えることができません。つまり、何かを判断できるとすれば、Mさん自身でしかないわけです。
とりあえずの選択肢は三つ(ただし、これ以外の方法があるかもしれないことは考慮していいでしょう)。
1)医師の指示通り、カロリー制限と水分制限を守りつづける。ただし、その結果、お母さんと病院との間で深刻なトラブルが予想される。
2)お母さんの指示通り、お母さんの持ってきた食事を取る。ただし、その結果、Mさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想される。
3)お母さんの持ってきた食事を取ったふりをして、お母さんにわからないようにどこかで吐く。この場合、病気のために活動が不自由であるMさんがお母さんの厳重な監視の目を逃れて食事を吐くことに関するかなりの困難があり、(2)と同様にMさん本人と病院との間の深刻なトラブルに発展することが予想され、しかもMさんの健康にも深刻なダメージを与える危険性がある。
とはいえMさんが何もしなければお母さんと病院との間のトラブルはますます深刻になり、またMさんがお母さんの食事を頑として拒絶すれば、お母さんはますます度を失って、同じようにトラブルを深刻化させます。
Mさんはどうしたらいいでしょうか?
(Maria)
牽強付会と判断されることを承知で書くことにしました。なお、ごくごく個人的な理由(あたし以外の誰とも関係がありません。御心配は御無用のこと)で黒Mariaでございます。くろぐろ。
生徒の前で鶏を潰すのを教育委員会が禁止した話。
他人にはまったく気にならない音が気になってしょうがない人がいること。
『Dr.スランプ アラレちゃん』で、博士がアラレちゃんがじつはロボットであることを隠す理由。
これらは、たぶんすべて同じ理由で、そして、その(表向きの理由ではない)本当の理由は、生徒の前で鶏を潰すのを禁止した教育委員会の人々にも、他人にはなんということもない音が気になってしょうがない人にも、『Dr.スランプ アラレちゃん』の作者である鳥山明さんにも、おそらく解っていないと思います。
この問題について、具体例についてもっとも詳細に分析した人は、おそらく哲学者の中島義道先生だと思います。ですが、その「理由」については、中島先生も明らかにはできませんでした。
ついでに一冊紹介。中島義道『騒音文化論 なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』講談社+α文庫。これ以外にも、偏食に関する著作があって、こちらもチェックしていただけると嬉しく思います。
で、あたしがこの件について「これだ!」と思ったのは以下の一冊。
やまうち・ひさし(姓は「山内」、「ひさし」は偏が「永」で旁が「日」)『タブーの謎を解く 食と性の文化学』ちくま新書
で、その中の以下の一文。
『「タブーとは、カテゴリーの明確な対立に関して異例なカテゴリーに適用されるというのが一般理論となろう。AB二つの言葉のカテゴリーがあるとして、Bは《Aでないもの》として定義され、その逆もまた真であるとき、この区別を仲介する第三のカテゴリーCがあって、AB両方の属性を共有すれば、そのときCはタブーであるだろう」というのが、リーチの命題だった。』
つまり、「既存のカテゴリーの境界(リーメン)を犯す存在がタブーとなる」ということなんですね。
まず、なぜ生徒の前で鶏を潰してはいけないか。
多くの小中学校では、生徒の情操を育てるため、つまりは「命の大切さを教えるため」と称して、ニワトリを飼育しています。つまり、これらのニワトリは「家畜」ではなく「ペット」として飼われていました。
さて、日本では、長いあいだ鶏を食用にする習慣がありませんでした。日本産の鶏の品種は、明治以降に食肉用に開発されたものを除き、ほとんどすべてが「愛玩用」「観賞用」品種でした。唯一例外と言えるのが、闘鶏に用いられた「軍鶏」です。
つまり、(社会的な意味)での人間として未完成である子供に、「家畜」と「ペット」のカテゴリーを混乱させるようなものを見せてはいけない、という教育上の配慮が、おそらくは無意識のうちに働いたのだと思います。
江戸時代に人間にとって「鶏を食う」というのは、「いかもの食い」を通り越して「変態」あるいは「秩序の破壊」以外の何物でもなかったと思います。ところが軍鶏の場合、ある種の食人習慣のように、「その生命力・活力を受継ぐ」という形で、通常の「食事」とは別の、「宗教的儀式」としての意味があったからではないか、と考えられます。
次、騒音。
あたしは暴走族の騒音が気になりません。「やかましい」とはもちろん思うんですけどね。ですが、彼らは「自分たちが社会にとって迷惑な存在である」ことを承知しており、自分たちがそうした存在だとみなされることをも引き受けたうえで、騒音を発しているわけです。
これに対して選挙カーの騒音はめちゃめちゃ頭にきます。連中は自分たちが「正しいこと」をしていると見なされたがっており、自分たちの出している騒音がある種の人々に対して単なる騒音でしかないことを「当然のこと」あるいは「しかたのないこと」と(おそらくは)見なしているからです。
あるいは降下する旅客機の中で子供が泣きわめいたとしても、あたしは気になりません。子供は内耳道が通じにくいため、気圧が上昇すると耳が痛くなることがしょっちゅうあります。で、泣きわめくと涙やら鼻水やらをすすり上げるため、その「呑み込み」の動作によって内耳道を通じて空気が中耳に入り、鼓膜の内外の気圧差が解消して耳の痛みが消えるので、一時的に泣き止みます。そんなわけで子供が泣くのはあたしにとって無害かつ無関係な物理現象であることがあたしには納得できているのね。ところが、子供の親にしてみれば、「子供を泣かせっぱなしにしている親」であることが不本意である、ということがあります。そんなわけで、親が騒ぐほうは鬱陶しくてしょうがない。レモン味とか梅干味とかのキャンディーでも与えておいて、「耳が痛くなったら、唾をゴックンしなさい」とか教えてやる親だったらぎゃあぎゃあ騒がないでしょうし。
つまり、「騒音を発している→本人はそれが他人に不快感を与えていることを認識し、自身が不快な存在だと見なされるであろう事実を(なんらかの形で)引き受けている」という「文化的騒音」のカテゴリーから外れた音こそが、あたしにとっての真の「騒音」、つまり「タブーとしての騒音」なんです。
最後に、人間そっくりのロボットについて。
『宇宙戦艦ヤマト』には、アナライザーというロボットが登場します。で、このアナライザー、艦長に「最新式にしては型が古いな」と言われて、「コウシナイト ロボットラシクナイト 制作者ガヌカシヨリマシタネン」と答えています。
「男だったら男らしくしろ!」「あーら、あたしがオカマだからって、あんたに迷惑かかる?」という会話も何かのマンガに出てきました。つまり、「男は男らしく、女は女らしく、ロボットはロボットらしくしろ」というカテゴリーがあり、これに反するから「タブー」になっちゃうわけです。
「障害者は障害者らしくしろ!」というのは、「自分を含めた一般人=日常/障害者=非日常」というカテゴリーを犯すがゆえにタブーなわけです。で、「家族」は日常そのものであるのに対し、そこに「障害者」という非日常が侵入してきちゃったわけで、タブーになります。だから、家族は「障害」を隠そうとし、本人にも「健常者」として障害を隠して生きることを要求するんですね。
障害者にとっては障害は日常の一部ですから本来タブーにはなりえません。したがって、他者から押しつけられることによってのみタブーになりうるわけです。
そんなわけで、変わり者であるあたしは、日常と非日常の区分について、つねに社会との軋轢を感じていたりするわけです。くろぐろ。
(Maria)
あまり書き込みをしていないのに、すみません・・・。
仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
そんな時は、「うんうん・・・」と聞く努力をして、分かっているように頷いたりするのですが、全然分かっていない時があります。一対一だと比較的相手の話が分かるのですが・・・。後、概念的な話とか・・・物とかに対する話だったり、単純な話だと理解出来るのですが、全体を把握したりする話・・・現実的にどうするかという話だとほとんど全然分かりません。
メールや文章だと理解でき、又、人間対人間でない方が理解しやすいです。人間だと、その人の印象とか・・・相手の存在感みたいなものに気を取られてしまい、言葉が出てこなくなってしまいます。
無理して合わせるより、そういう時は、「分かりません」と言うべきでしょうか?又、「よく分からないので、ゆっくりもう一度言って下さい。」と言うべきでしょうか?
沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処しているんでしょうか?
>> えーと、まんがで知ったのですがざわざわしているとことでも不思議に自分の悪口を言われたりしているとすぐに気がつくしはっきり聞こえると言うことのようです。
>> たしかにそういうことってあると思います。左耳失聴の他にも聞き取り能力に難のある私でもそういう体験をします。(もしかしていつも悪口ばかり言われているのだろうか・・・・)体中にアンテナが張ってあって耳ではなく体全体で自分に関することの話題を聞き取っている感じです。
全然・・・ここの掲示板に参加していないのに、突然にすみません・・・。私もかなり遠くでしている自分のうわさ話とかを聞き取る事が出来ます。でも、いつも、自分の錯覚とか・・・勘違いなのかな・・・と思ったりもします。
他の人達は・・・必要な事だけを聞き分けて、必要じゃない情報は遮断しているのかもしれません・・・。でも、私には色々な音というか、声とかが聞こえてしまうため・・・肝心の仕事の方がうまくいかなくなってしまう事があります・・・。
耳が聞こえなかったら・・・後、目も見えなかったら・・・(見えるものに対してねとても過敏だから・・・。)それはそれでとても大変な事なんだろうとは思うのですが、どんなに楽だろうって思います。
変なこと書いていたらすみません・・・。失礼しました・・・。
百日紅(さるすべり) wrote:
>例えば学校の試験の時、他の学生の鉛筆を走らせているほうに気が行って、そっちの方に集中してしまったりします。
あ、、小さいころ、、そういうのがいつも気になって、となりのこにうるさい
と言って、、ということが良くありました。思い出しました。
やたら、そういう点で気に障る人が居ました。。他の人は気になっていないのだからと、、先生に注意されたりとかね。。
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