アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
しばらくこちらにこられません。会社の仕事が忙しすぎて、へとへとです。
家に帰っても、寝るだけの毎日を送っています……肉体労働きつい。
今日はたまたま、ネットできましたけど……(苦笑。
みどりさん wrote:
>がん告知はもっとフクザツよねえ。なんせ最初から本人の知らないところで
>話が進んじゃうんだから。
>あれは医師の守秘義務違反だと思うんだけど。(本人の許可なく家族に病状を
>話すなんて非常識だ)
心臓病でも同じことでした。家族には「突然死のおそれがあるので覚悟をしておいてください」とか言ってたりします。それを言っておかないと、何かあったときに家族に「どういうことだ」って責められる、というのがあるから保険の意味もあって、めったにそんなことはなくても一応言っておく、みたいなのもあるし。
とはいえ、そういう場合、担当医にそれとなく水を向けるとたいていあっさりゲロっちゃいます。やっぱり、秘密を抱えているというのは人間プレッシャーになります。若い人ならなおさらね。それを表に出さないことができるお医者さんは、相当に練れたひとです。それでも「君にだったら言っておいたほうがいいと思うから言うんだけど」みたいな形で話してくれたあとっていうのは、やっぱり肩の荷が下りてほっとしてるの分かるもんな。
>でもなんで病人がそんなことせにゃあかんのだ。
お医者さんは本人に負担をかけたくないから、本人ではなく周囲の人に言うんですけどね。ところが、周囲の人が「立場としてはその人を保護する立場なんだけど、心理的には頼っている」、つまり何かにつけて頼りになる娘(息子)や部下だったときに、「どうすりゃいいんだ」って逆に本人を煩わせちゃうんです。
>私だったら離縁する (親と離縁するにはどうしたらいいんだろう?) とかそういう
>手段に出かねないな。
十四歳以上で身元引受人がいるか経済的に自立している場合、勘当の手続きが取れます。民生委員か法律事務所にでも相談してください。
>即座に「ほっとけばいいじゃん」と思った私は、親子関係に問題があるのかも
>しれない。
「ほっとけばいいじゃん」というのは、むしろ「親子関係に問題がない」場合に多い反応だと思います。「ほっといてくれ」と言ってもほっといてくれない、突き放そうとすればしがみついてくる、いわゆる「蛸釣った」状態の相手をどうするか、というのがこの問題でのテーマですから。
「蛸釣っちゃった」場合によくやる手は、「飴玉をしゃぶらせる」という手です。別名を「デコイ」とも言うんですが。
たとえば、こういうケースだと、患者と医者が口裏を合わせて、お医者さんに「患者さんが病院の食事は量が足りないとおっしゃってるんですが、病院では栄養その他を考えて必要にして十分なものを出しているわけですから、お母さまのほうからそうおっしゃってくださいませんか?」みたいなことをお母さんに言ってもらう、という手があります。
ただ、これでお母さんがその通りにしてくれるんならいいんです。医者に隠れてこっそり差入れを持ってくる、とかいうのでも、貰うだけ貰っといて捨てちゃうとか、看護婦さんの喜びそうなものをリクエストしといて看護婦さんに食べてもらうとかすればいい(患者の治療に協力するんだから、医療に従事するものとして正しい行為ですよね?(^_^))んですが、これが『痩せているのを見かねて食べさせようとする』ところまで行っちゃうから問題なんだったりします。
>放っておけばいいとはいっても、近い人間にあれこれ言われるのはストレスに
>なるんですよねー。
>
>鬱の薬を飲んでいたとき、なにがいちばん嫌だったかといえば、親しい相手か
>らの「薬はよくない」という前提の発言でした。
>
>(食後3種類くらいの薬を取り出すと) 「そんなに飲むの?? よくないよ」 よく
>なくても飲まなきゃもっとまずいんだから、余計飲みたくなくなるようなこと
>言わないでよねー。
>「薬減ったんだ」「よかったねえ」 私の方は、薬を減らしてしまって今後が心
>配だというつもりの発言だったんだけど。
>
>赤の他人ならともかく、親しい人にあれこれ言われると、こたえます.。
高橋祥友『中高年の自殺を防ぐ本』(法研)には、「家族が注意すべきこと」として、
1)励まさない
2)未遂行為を軽視しない
3)服薬や治療に否定的態度を取らない
4)患者さんには支持的態度で
の四点が挙げられています。
ところが、心の病、とくに鬱に対しては、家族というのがおおむね否定的態度を取るんですよね。「頑張れ」「頑張んなきゃ駄目じゃないか」「しっかりしろ」「しゃんとしろ」「君は頼りにされてるんだから」「家族のことを考えたことがあるのか」「そんなことでどうする」「世間がどういう目で見てるかわかっているのか」「気力で治せ」「泣き言を言うな」「しつこい」「くどくど同じことを言うな」「もう済んだことじゃないか」「苦しいのはあんただけじゃない」「周囲の人間がどれだけ迷惑しているか分かっているのか」と、延々とやられちゃいます。(←読んでて自殺したいような気分になっちゃったひと、ごめんなさいm(_ _)m)
『【がんばろや WE LOVE KOBE】
精神医学を少しでもかじった人なら常識だが、一般の人にはさっぱり普及していない知識として「鬱状態の人に、ぜったい『がんばれ』と言ってはいけない」ということがある。
精神科医やカウンセラーはじつに注意深くこれらの言葉を避ける。その理由は『鬱』の人が自殺をするきっかけは、多くの場合、周囲の人による「がんばれ」という励ましや「しゃきっとしろ」のような叱咤激励であることがわかっているため。
当然のことながら神戸はかつてないほど「鬱」の人があふれていた。言ってみれば、「がんばろう」は禁句だった。にもかかわらず街じゅうにダイエーによる『がんばろや WE LOVE KOBE』のポスターが貼られまくり、気晴らしにテレビをつけるとキャスターは「がんばって」と言い、イチローで注目されたプロ野球の神戸オリックスは全選手が片愚痴に『がんばろうKOBE』というワッペンを付けていた。これでは精神医学的見地からは街をあげて『死ね死ねキャンペーン』を展開しているようなものであった。
避難所に大量に貼り出されていた、〔全国の小中学校から送られてきた寄せ書き〕など、一つ一つを読むと前半は「みかんを食べると風邪をひきませんよ」とか「今までの自分の生き方を反省しています」とかバラエティに富んだ心温まるものばかりなのに、最後の締めは九九パーセント「ではがんばってください」と例外なく『死ね死ねキャンペーン』に参加しているものだった。
年末には「新語・流行語大賞」の一つに『がんばろうKOBE』が選ばれる始末。選考委員会は『ああ言えばジョウユウ』などオウム関連の言葉はいずれも対象から外し、
「反社会集団の残した言語はいかなる賞にも値しない」
と意気軒高だったが、『がんばろうKOBE』の残酷にはいっこう気づいていないようだった。』
藤尾潔『大震災名言録 次の災害を乗り越えるための智恵』(光文社・知恵の森文庫)
こういうことを書いていると、「あんたはそういう暗いひねくれた考え方しかできないのか?」とか言われるんじゃないかと思ってまた鬱がひどくなる。ううううう……
そんなわけで、「通り一遍の、薄っぺらな優しさ」や「自己陶酔的な、本質的な理解から遠く隔たった優しさ」「熱狂的かつ盲目的な優しさ」がキライなくろぐろMariaでした。まる。
追伸:猫はいいです。身勝手でこれっぽっちも思いやりの気持なんかないんだけど、すりすりすり、と寄ってきて、ごろごろごろ、とか甘えられると、「そうかそうか、ありがとうね、うんうん」とかいって抱きしめてあげたくなります。癒されます。ここに「優しさ」を感じとるのは錯覚とか妄想とかの部類だけど、それでも「優しさ」というのを感じてしまいます。
「優しさは気持じゃない、結果だ」。うちのMotoちゃんはそう言ってました。それも一つの立場だと思います。
(Maria)
こうもり wrote
>
> わたしのコメントの主旨を少し説明しておきますね。わたしが「社会とは何
>か」というスレッドで扱っていたのは主に社会という言葉の二義性の問題でし
>た。つまり、社会という言葉は
>
>(1)存在する対人交流の全てを含んでいる場合
>(2)いわゆる社会人と呼ばれる集団に限定して使用される場合
>
>という2つの意味が混同されているために、一言で社会と言ってもどのような
>範囲を扱っているのがあいまいであるというのがそもそもの問題提起だったの
>です。で、わたし自身は社会というのは(1)の意味で捉えていて、(2)の
>意味に限定して捉えることについては批判的ですから、当然のことながら生産
>群と非生産群という言葉も批判的に使用しているのです。
>
> 夜と昼をよりよく理解するために両者を便宜的に区別したからと言って、
>その人が夜と昼を対立的なものと考えているかどうかまでは判断できないと
>思います。
タレイヌさん、コウモリさん、私に誤読があったようでどうも申し訳ありませんでした。話をややこしく混乱させてしまいました。たしかに分類と対立構造は違うものですね。分類は、ものを見る視点がはっきりするので思考に必要なものですが対立とはたしかに別物でした。
正直言ってタレイヌさんとコウモリさんのお話は私にはちょっと難しくて全体を読みとらず言葉尻だけとらえて自分の主観的な意見だけ述べてしまいました。
「社会」という言葉がタレイヌさんのおっしゃるように(1)の存在する対人交流全てを含む意味で使われていたならこの世の中はきっともっとタブーの少ない住みやすいものになると思います。
でもつい自分の利害関係を考えて社会を広い意味でとらえているように錯覚しつつ、ごく狭い自分の所属する小社会を社会と考えがちな私。私が社会という言葉を使うときはそうですね。自分の子供の説教には使いませんが私は社会には受け入れてもらえない人間だと落ち込んでいるときに私の思考の中でよく使います。私は非常に主観的な人間のようです。今改めて感じています。すみませんでした。これに懲りずまたなにかありましたらご指摘下さい。
話は違うのですが私は今日、はじめてリタリンという薬を処方されました。いつも眠くて眠くてとてもつらくて車の運転もかなり危なくて車に乗る前にということで処方されたのですがなんか飲んですごく楽なのです。落ち着く感じなのです。薬って色々あるんだなと思った今日の私でした。
ぷちさん wrote:
>とにかくMさんのお母様は安心したいんですよ……だから気持ちを和らげて
>こらえるように、Mさんのお母様が受け入れやすい人を総動員して、話を
>聞いてもらったり、説明してもらったりするのが良いと思うんですが……
掲示板でいろいろなご意見をいただいて、あたしはこの問題を『〈子〉のつく女の子は頭がいい』でいう<シンデレラ>型の親と<ヤマトナデシコ>型の子供の関係における典型的な問題ではないかと思うようになってきました。
つまり、「親を安心させること」で疲れきっちゃう子供というのが、いるんです。それも、「親を安心させる」努力をしていることを親に悟らせず、適度に「心配させる」ことまで含めてやっちゃう「いい子」が多いんです。で、その結果、潰れてしまう。
「思春期神経性食志不振症」の原因のひとつに、「主体性の回復」というのがあります。自分が自分であることに、自信がもてない。だから、主体性の最後の砦である自分の身体を自分でコントロールすることで、自分を確認するわけです。これは<ヤマトナデシコ>型の典型的な反応です。これが<シンデレラ>型だったらファッションやジュニア小説や恋愛といった方面に走ると思います。
親が「理想の子供」を求め、子供が「理想の子供」に近づこうとする努力を続けること自体が悪いことではありません。ただ、その親の期待が、現実離れした<シンデレラ>型の願望だったりすると始末に悪いんです。
同じ現実離れでも、父親が朝の五時に息子を叩き起こして体操だの乾布摩擦だの木刀の素振りだの掃除だのにつきあわせ、正座して向かい合って四書五経の素読をさせる、とかいうんなら、そうそう悪いこっちゃないと思うんですよ。そこには具体性があって利得がありますから。ただ、ほんわかした、具体性を伴わない、「いい子」であることを望んじゃうと、ややこしいことになる。
聞いた話だから本当にあったことかどうかはわかりませんが、こんな話があります。
将来は昆虫学者になりたい、という子供がいました。成績もよかったそうです。
ところが、中学二年だか三年だかになったときに、親がその子の昆虫図鑑だとか標本だとか観察ノートだとか一切合切を子供がいない間に捨ててしまって、愕然としている子供に向かって、「あなたはもう大人なんだから、勉強に専念しなさい」と言い渡したそうです。
で、その子は親に言われた通りに猛勉強したんですが、高校の半ばごろからだんだんノイローゼ気味になり、勉強も手につかず、成績も落ちて、学校にも行けずにぼーっとしているだけになってしまいました。
困り果てた親が医師に相談すると、「何か好きなことをさせなさい」と言われました。そこで子供に「なんでも好きなことをしていいのよ」と言うと、「何をすればいいの?」と逆に訊きかえされてしまったそうです。
その後、絵だとかピアノだとかバイオリンだとか(要するに、それが好きになることで親が喜びそうなもの)をやってはみたものの、「本格的にやるには才能の上でも年齢的にも無理」みたいなことが分かると興味をなくしてしまう、の繰返しになってしまったといいます。
うちにもそういうタイプのひとがいます。JoshyaさんとKILROYさんとMotoちゃんです。
この三人、同一人物であって同一人物ではない、というフシギな関係です。とにかくプログラムを書いたらまったく別人。Joshyaさんはバランスの取れた設計が売りで、「頭のええ奴っちゅうのは、けっきょく同じことを考えるんやなぁ」と言われたひと。こういうひとがプロジェクトリーダーになると、部下はとても楽。
KILROYさんはカチカチの技術者。プロが見ると、「うーん」と唸ってしまうような、かっちりとしたプログラムを書きます。だけど、頑固一徹の職人気質という風情が、プログラムからにじみ出てきちゃうんですね。
Motoちゃんは「やんちゃ」なBASICハッカーです。遊んでます。悪ガキです。
「聡明で、温厚で、それでいて指導力や決断力も備えた、バランスの取れた人」というのは、たぶんひとつの理想です。ですが、その反面仕事のできる「技術屋」というのも、男にとってひとつの理想です。前者が創価学会員にとっての池田大作や北朝鮮の国民にとっての故・金日成総書記やかつての中国国民にとっての毛沢東主席みたいな存在であるのに対し、後者はイチローみたいなものです。その両方を要求されたら、分裂するしかありません。
ですが、そもそも「プログラマー」という職業を選んだ時点で、親が望んだステータスと、自分の趣味を両立させることを考えていた、というのがあるんですね。で、仕事一辺倒のソフトウェア開発に嫌気がさしちゃった。だからといって、それを放り出すわけでもなく、プロとしての仕事はちゃんと貫いているわけです。
そこんとこの無理がたたって出てきちゃったのがMotoちゃんだったりするのだな、たぶん。
なにもそこまで「いい子」でいなくても、とあたしなんかは思っちゃうんですが、なまじ「いい子」なものだから、会社の上司に「120%いい子」「200%いい子」を求められたあげく過労死しかけていまや廢人同様、いまも水毒(すいどく)のケが出てうんうん唸ってます(気温が下がってきて汗をかかなくなるとダメみたい)。あたしがくろぐろしているのもそれが理由だったりします。
「安心させてもらいたがる人」というのは、同時に「キレたら何をしでかすかわからない人」だったりします。いわゆるワンマン経営者なんかにこのタイプは多いんですね。毀誉褒貶が激しくて、気に入られるとどんどん引っ張り上げてもらえるんだけど、逆鱗に触れたらいきなり斬られる、というタイプ。
武田好史さん wrote:
> 今月の17日、私が住んでいる入間市の隣町の狭山市で、悲しい事件がありました。
> 知的障害のある女の子のお母さんが、その子が「普通学級に入るのは、困難で
>しょう」と就学前検診で言われたことを苦にして、子供を道連れに車に火を放って
>無理心中をはかり、その子とその妹の姉妹が焼死し、お母さんも全身に大やけどを
>負い、車の前で途方にくれていたところを発見されたというものです。
このお母さんも、たぶん、とても「いいお母さん」(あるいは、「理想的な『いいお母さん』」として扱ってほしいお母さん)だったのでしょう。ですが、ユング心理学におけるグレートマザーに二面性があるように、「いいお母さん」こそが、「子供の頚に巻きつく蛇」でもあるんです。
問題は、そういう「いいお母さん」と、うまくつきあうにはどうしたらいいか、ということなんです。徹底的に「いい子」でいたら死んじゃいますし。で、「入院中で自由がきかず、生殺与奪の権利を握られている」という、かなり子供側に不利なケースを想定してみたわけです。
「どこかのエラい人」に頼るというのは、本来あるべき「理想の父親像」に近い存在を持ってくる、ということだと思います。ですが、「亭主元気で留守がいい」という時代で、自分を「理想の『素敵な奥さん』」として扱ってくれない男性に幻滅している<シンデレラ>型女性に、こうした方法が有効なんでしょうか。けっきょく本人の願望を満たすことでしか対処できないというのでは、ただ甘やかすだけになってしまうと思うんですよ。とはいえ、中年以降の女性に「人間的成長」を促したところで効果があるかどうか、という問題もあるんです。
こうした問題は、「子供の『反抗期』とどう向き合うか」に通じます。困ったことに「うちの子供には『反抗期』がなかった」とか言って喜んでいるお母さんは、たいてい<シンデレラ>型のお母さんで、「子供が反抗するようになって嬉しくってしょうがない」というお母さんは、<ヤマトナデシコ>型のお母さんです。
そんなわけで、「障害のある子供を持った<シンデレラ>型お母さんの心のケア」というのが、ひとつの重要な課題としてあると思っています。これって難しいぞ。「イヤな現実」を押しつけられることには慣れていても、「イヤな現実」っていうものに自発的に向き合い、そこから喜びを得る、とかいった前向きな発想って出てきにくいから。
(Maria)
即座に「ほっとけばいいじゃん」と思った私は、親子関係に問題があるのかもしれない。
放っておけばいいとはいっても、近い人間にあれこれ言われるのはストレスになるんですよねー。
鬱の薬を飲んでいたとき、なにがいちばん嫌だったかといえば、親しい相手からの「薬はよくない」という前提の発言でした。
(食後3種類くらいの薬を取り出すと) 「そんなに飲むの?? よくないよ」 よくなくても飲まなきゃもっとまずいんだから、余計飲みたくなくなるようなこと言わないでよねー。
「薬減ったんだ」「よかったねえ」 私の方は、薬を減らしてしまって今後が心配だというつもりの発言だったんだけど。
赤の他人ならともかく、親しい人にあれこれ言われると、こたえます.。
自分だって悩むところはあって、それでもあれこれ検討した結果投薬という方法を選んだのに、よく考えもせずにその検討をくつがえさせることを言えるのが信じられない。
私に薬をやめさせて、私に自殺してほしいってことかいって。ちゃんとそこまで考えて言うのなら許せるのだが。
ま、説得したいのであれば、ほかの医者にセカンドオピニオンを求めるとか、妹に近かった別の近親者で説得できそうな人を探すとか。
でもなんで病人がそんなことせにゃあかんのだ。
私だったら離縁する (親と離縁するにはどうしたらいいんだろう?) とかそういう手段に出かねないな。
がん告知はもっとフクザツよねえ。なんせ最初から本人の知らないところで話が進んじゃうんだから。
あれは医師の守秘義務違反だと思うんだけど。(本人の許可なく家族に病状を話すなんて非常識だ)
Mariaさん、ぶちさん、話をどっちに向けたら良いのか判らないまま書いていますので読みにくかったらごめんなさい。
意識の無い人の生存権は家族にあります。でも、意識がはっきりしている、普通の会話が出来るのであれば、折りに触れ自分がいざという時どうされたいのかを家族や入院しているのなら医療チームに話しておくというのは、最近の傾向だと思いましたが。もちろん、法的強制力は全然無いので、もし、意識がなくなった時、親が子の意志に反しても親の意志を貫くことはできるでしょう。普段の会話が大切なんでしょうね。でも、残された者は後で良かれ悪しかれ、近所の人や親戚にいろいろ言われます。ここでも「何が普通なのか」が出てくることになります。
それはさておき、
多分Mariaさんは、私やぶちさんの考えの趣旨は理解されていると思います。
で、私が考える一番難しい点は、「患者サイドと医療サイドに相互の信頼関係が築かれているか」だと思います。まあ、「信頼してたのに裏切られた」というのが多々あるのがいかんともし難いですが。
でも、盲目的な信頼(相手が医者だから信じた的な)は本当に信頼と呼べるものなのでしょうか?逆に、「若いから信じられない」も、盲目的な不信頼と言えるのかも。相手が信頼するに足るのか自分なりのデーター(出来るだけ客観的な)を揃え、それで信じれるとなったら下駄を預け、どうしても信じられないとなったら他を当たるしかないでしょう。
でも、もう一つは人は自分が信頼されていると感じるとそれに答えようとする、面があるのでは。最初から「信頼してない」光線を出されるとやる気がなくなる事ってありません?
じゃあ、お母さんはどうしたら研修医の先生を信頼できるようになるのか?最初の躓きで(上司の先生うんぬん、ですね。これじゃお使い小僧でしょう)私にはその研修医の先生はよっぽどの事がない限りはお母さんの信頼を勝ち得ない気がします。
まあ、しばらくは上司の先生とやらがMさんを見て、治療方針を研修医の先生に2人の前で出させてみて、誉めるところは褒め、必要なアドバイスは付け足し、自分が後ろで支えている事を見せれば(トラの威を借るきつね作戦)少しはお母さんも言葉を聞く気になるかも。
上司の先生が医者の権威を嵩にする人でなければ良いのですが。
ただただ、この研修医の先生がこれを教訓にもうちょっと学んでくれると良いのですが。
医者を育てるのは医者じゃなくて患者なのかもしれない。でも、医者としての自分を育ててくれた患者を助けるのにその医者は若すぎて、その恩は次の患者を助けることで報い。でもそれを忘れた医者はどうなるのかな?
栄養に関しても、例えば穀類は燃焼されないと脂肪になって体に溜まるし、果物は水分が多いのが多いし、塩気の多いのも水分貯留を引き起こして心臓に負担を掛けるけどって感じで何もかも駄目ではなく、何かしらお母さんが持って来ても良いものを提案するとか。取りあえずチーズは良さそうかも。海草とかは?あとは、Mさんの大好物のなにか。量よりも質を重視してもらって。心臓病では減塩、高蛋白食を推奨していると思いましたが。水分量はとにかく守って。体重は今を最低ラインと取りあえず定めて(むくみが取れて、水が溜まっていない状態)、それよりは減らす必要はないけど、元の体重はむくみが元で本来よりも多くなったいた事を納得させて。急な体重増加は心臓に余計な負担を掛けてまた水が溜まる原因になるから、急ではなく徐々にと念を押しつつ。食事量はMさんの運動量とも関係するのではと思いますが。
とにかく、お母さんはMさんを心配しているという点を考慮してもらって、医療サイドも頭ごなしにあれも駄目、これも駄目ではなく、どっか接点を見つけてもらいたいです。でも、これもMさんが間に立つのでなく、誰かしら看護婦さんなり隣りのベットのおばさんなりがちょっと中を取り持ってくれると良いのだけど。
あるいは、退院後の事を考えてってことで、栄養士さんの栄養教室を受講してもらうとか。
ぶちさんの考えは概ね私も賛成ですが、「いずれ良くなるから今だけの我慢」のくだりだけはMさんの場合は当てはまりにくいのでは?悲観的過ぎる話ももちろん良くないのですが、楽観的すぎると悪くなった時に反発が余計に来そうな気がします。でも、これは難しいです。
Mさんがもし、体調が改善したと感じ、そのままその病院で治療を続けたいのであれば、お母さんの前で、主治医の先生を信頼している事をはっきり言えばどうなりますか?
お母さんを好きなのとお母さんの言う通りにするのは別であることを言ったらだめなのですか?
これを私の母親に当てはめて考えると、、、、、めまいがしてきたのでここで止めておきます。
(かおり)
グルンサさん wrote:
> 私も、かつて外回りをしていたときに、大宮公園や熊谷市内で(だったかな?)
>桜を見かけたり、秋になると黄金色の稲穂を見たり(これはまた、別の所で)、
>他の所では小さな町工場といったところで家主(?)と思われるおじさんが仕事を
>していたり、畳職人さんが畳を作っていた風景を見て、心がほっとしたことを思い
>出しました。(人も緑も、暖かさを感じさせてくれるものって好きです。)
あたしも熊谷市内で麦の花が咲いているのを見て感激したことがあります。麦秋というのもよかったです。うどんもおいしゅうございました。ほくほく。
熊谷には虹鱒の養殖場があって、そこでは汲み上げた地下水を使って虹鱒の養殖をしており、その「廃水」が一年中摂氏十四度〜十六度くらいの小さな川を作っています。で、そこがムサシトミヨというトゲウオの一種の日本唯一の自然生息地として知られていました。魚は見えなかったけどいいところだぞ。
大森は堤灯屋さん・経師屋さん・建具屋さん・畳屋さんといったご商売のうちがいっぱいあっていいところです。
武田好史さん wrote:
> 畑が全く無くってビルばかりで、食料自給率パーセンテージ一ケタ台の国だっ
>たら、みなさんは暮らしやすいと思いますか?
グルンサさん wrote:
> 断じてNO!私は、コンクリート・ジャングルが大の苦手です。食料を外国に
>頼ってばかりというのにも、どう考えても限界(というより破綻)がある(来る)
>と思うし……。
香港島やシルクロードの一部や原子力空母の中なんていうのはそれに近いものがありますが、人というのはそれなりに生きてゆくものだなぁ、と思っています。
JR大森駅前には「白鳥パッキング」というゴム製パッキングや金型を製造している会社があるのですが、ここのビルは別の意味で「コンクリート・ジャングル」です。つまり、「世界の七不思議」のひとつ「空中庭園」じゃないけど、ビルそのものが森であり畑になっているんですね。
北海道やカリフォルニアあたりの広々とした大地というのが好きな人は、東京の見通しの悪さ、ごちゃごちゃした町並なんかにはちょっと絶えきれないものがあると思います。だけど、ニューギニアや南米のジャングルみたいなところに住んでいるひとの気持がちょっと分かっちゃうようなあたしは、赤ずきんのお婆さんじゃないけど、「山深いところ」「森の奥深く」みたいなところが好きだったりします。
そういう意味では、あたしは都市の「界隈」の雰囲気がとても好きです。「そうよ銀座はあたしのジャングル 虎や狼怖くはないのよ」(『東京カンカン娘』)じゃないけど、下町のごちゃごちゃしたところが好き。
で、東京のひとは、昔のお屋敷町だったころの伝統が生きているのか、緑を大切にします。あっちこっちに緑があるのでとてもうれしゅうございます。落ち葉だとか毛虫だとか鳥のフンだとかを毛嫌いする人がたまにいるので困るのだけど、都市の中にはまだまだ自然は増やせると思うんですよ。だから公園もヘンな遊具なんて取っぱらっちゃって、自然公園にしてほしいと思います。土蜘蛛つかまえたりどんぐりやぎんなんを拾ったりだんごむしを捜したりありを観察したりアゲハを育てたり、そういうのが遊びだと思うんだけどな。砂場や滑り台やぶらんこやジャングルジムが面白いかぁ?と思っちゃうんですけどね。
人間が都市にごちゃごちゃ集中して住んでいるから、この狭い日本列島にも自然林がいっぱい残っていたりするわけです。
そんなわけで、あたしは潜在自然(もともとそこにあったはずの自然、あるいは人間の手が入らなかった場合、本来そこにあるべき自然)に即した都市緑化や水耕栽培なんかを利用した都市農業、「江戸川の金魚」のような都市における養殖漁業みたいなものに、ちょっと興味があったりします。
ポリバケツ一個あればお米は作れるしトンボも来ますし、プランター一個のスペースがあれば鳥や蝶も呼べます。
都会も捨てたもんじゃないですよ。
(Maria)
シンタロウ wrote:
>
> 今日、ネットでいろいろ検索したら、興味深い文章を見つけました。そこには差別のことがいろいろと書いてありました。
>
> そしてもっとも印象深かった言葉が『差別を受けている人々の中には逆に健常者差別が生まれてきていることも事実です。強い人は健常者社会を敵視し、弱い人絶望する。
わたしは、以前、LDという言葉を不用意に何回もしゃべってしまったら、本当にLDの障害を持っている人から、ものすごい恨みを買ったことがあります。こちらとしては、勿論、悪気はなかったのですが、LDの為に辛い思いをしてきたその人にとっては、私の発言は無神経極まりないことだったのでしょう。私だって、AS傾向で、普通じゃないのだから、障害者を表現する言葉使いや、そのことの話には充分な思いやりを示して気をつけなくてはと、この時のことは随分と反省しました。シンタロウさんのカキコで、つい、思い出してしまった昔のことです。
Mariaさん、かおりさん、こんにちは。ぶちです。
私も「医師の指示に従う」に1票。
Mariaさん wrote:
> 問題は、本人や医師にとって「改善された」と感じられたとしても、それが単に本人の感覚や医学的データでしかなく、直接的に示せないことにあります。
> 医学的には、心臓の周囲に溜っていた水が抜け、肝臓の肥大も正常に戻りました。
レントゲンとかデータをお母様に見せて説明してもらっても、理解は得られないのでしょうか?
入院していれば筋力が弱ってよたよたするのは、運動を禁じられている患者さんみんなそうなんじゃないでしょうか?(入院経験者は語る)
Mariaさんwrote:
>> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が
>>死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分
>>な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
かおりさんがおっしゃる通り、病院食は完全に栄養士によって管理されています。足りないように見えてもちゃんと必要な物はあるはずなんですけど・・・(特に今は管理栄養士の資格がないと、病院の食事にはたずさわれない場合が多いそうですから、それなりにしっかりした物のはずなんですけどね)。たしかに心臓のための水分管理とかすごいらしいですから、見ていてお母様が辛く思う気持ちは分かりますが・・・
これはもうお母様の感情的な問題なんでしょうね・・・
Mariaさんwrote:
>>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違って
>>いたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
かおりさんwrote:
>>これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作
>>を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないので
>>すか?
Mariaさんが言うのは、「お母様は妹さんがやせていった時に食べろと勧めた事」が、心臓病の食事制限を見ていると「違ったんじゃないか?」って思うって事でしょうか(ボケボケなんで理解悪くってすいません)。
かおりさんの言う通りだと私も思います。
Mariaさんwrote:
> それと同じように、「自分の家族ががりがりに痩せ細っている」という現実の前には、理性は無力だったりします。
やっぱり感情的な問題なんでしょうね。Mariaさんのお母様がどういうタイプの人なのか分からないんですが、人には理性と気持ちのようなものがあって、感情の強い人は理屈を話してもダメです。理性的でも、それを超える感情の波が押し寄せている時は、やっぱり「頭で理解する」だけでは難しいようです。やっぱり気持ちをなだめる方法をなにか取らないと駄目みたいです。
かおりさん Wrote:
>>因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を
>>認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ない
>>のですか?
かおりさんの言う通り、本当はお母様がMさんの意見を尊重してくれれば、それにこした事はないんですが。
親から見ると、子供って予想以上にすごく重みのある存在なんですよ・・・私、前に書いたけれど、結婚するつもりもなければ、子供を持つなんて考えた事もなかった人間なんです。それに「感情派」のうちのパートナーの家族から見ると、「ぶちってロボットなんじゃないの?感情あるの?」って聞かれたくらいの人間なんですけど、それでも娘の事となると血迷うんです・・・(いやー、情けない)
だからMさんの妹さんが、同じようにやせ細って亡くなった過去があるとしたら、「この子も同じように死んじゃったらどうしよう!」って思う気持ちは分かります。「同じような状況で、また死なせてしまった」って思うでしょうね。別に自分が死なせたわけじゃなくても、「何か方法はあったはずだ。それをしなかった私がいけなかったんじゃないか?」って責めるんですよ。きっと「なんであの時食べさせなかったのか?あの子が死んだのは私のせいだ」って自分を責める気持ちがあるから、お母様はMさんの状態を見ると、冷静ではいられないんだと思います。
Mariaさん Wrote:
> ダメな親でも親は親、なんです。それは尊重しなければなりません。
でも事情を聞くと、決して「ダメな親」なんじゃないと思いますよ。心配なだけです。
> どうしたらいいんでしょうか。
これはあくまで私だったらですが・・・
1.Mさんが病院の治療に納得しているなら、医師の指示を守る事(これが一番)
2.できればお母様にも治療を理解してもらう。
2−1.できるだけデータを揃えて、「良くなった」事を強調する。担当医が若くて信用できないというのなら、もっと偉そう(馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど、案外「雰囲気にやられる」って事はある)な人に説明してもらう。
2−2.栄養士さんからもデータをもらって、食事も管理されている事を説明する。
2−3.その食事制限や入院がどのくらい続くのか分からないんですが、もし退院できるとか、食事制限が少しやわらいで行くものだったら、そのスケジュール(見込み)を提示して、「今はこうかもしれないけど、そのうちこうなる」って説明する。「今頑張れば今に家に帰れる」とか「食べられるようになる」とか「今だけだ」と、相手に希望を持たせて、気持ちを和らげ、同意しやすくする。
2−4.同じような病気の患者さんから、自分もこうやってる、これで良くなったと話してもらう。もし随分改善した退院した患者さんでもいてくれると、助かります。
2−5.お母様が意見をいれやすい人がいるのなら、その人に説明してもらう。
とにかくMさんのお母様は安心したいんですよ・・・だから気持ちを和らげてこらえるように、Mさんのお母様が受け入れやすい人を総動員して、話を聞いてもらったり、説明してもらったりするのが良いと思うんですが・・・
上手くいくかどうかは保証の限りではないですけど・・・それに誰でも考えつくあたりの事ですから、お役に立てなくてすいません。
うちも(Mさんのような大変な病気じゃないですけど)娘の周辺で同じような事がありました。その経験から「医師の指示は守るべし」がルールになってます。
(ぶち)
武田好史さん wrote:
>ルールとは・愛とは・大人とは・仕事とは・社会性とは・・・と悩みまくりながら過ぎ去っていく日々!もう、10年以上だ。
>
>がんばって生きよう!それでも!こんな僕でも、いつかどこかで幸せにめぐり合えると信じて。
人生の最後に笑って満足して死ねる...そんな人生になれるよう、1歩ずつでも近付けるようにがんばろうね。それでは、おやすみなさい。
武田好史さん wrote:
> 今朝私は散歩に出たのですが、これまで一度も通ったことのない道を通ったら、
>がけの下に農家があって、その前の畑でおじいさんとおばさんがなにやら掘り出している姿に、何かすごい安らぎを感じました。畑の傍らの赤紫の小菊の花も見事でした。
私も、かつて外回りをしていたときに、大宮公園や熊谷市内で(だったかな?)桜を見かけたり、秋になると黄金色の稲穂を見たり(これはまた、別の所で)、他の所では小さな町工場といったところで家主(?)と思われるおじさんが仕事をしていたり、畳職人さんが畳を作っていた風景を見て、心がほっとしたことを思い出しました。(人も緑も、暖かさを感じさせてくれるものって好きです。)
> 畑が全く無くってビルばかりで、食料自給率パーセンテージ一ケタ台の国だったら、みなさんは暮らしやすいと思いますか?
断じてNO!私は、コンクリート・ジャングルが大の苦手です。食料を外国に頼ってばかりというのにも、どう考えても限界(というより破綻)がある(来る)と思うし...。
この間のいろんなカキコを読んで。「お宮入り」では、Mariaさん、Toxさんからの詳しい内容におどろき!(「お宮」の一言にも意味は深かった!!) 認知障害について。前にこうもりさん(だったかな?)が、「視覚に認知的障害のあるAS」と医学的所属が決まった、と書いていましたが(確か、そうだったと思いますが、間違いだったらごめんなさい。)発達障害者というのは、一見してそうだとわからない人が多いもの。数日前、私と同い年くらいのお母さんが、読売新聞に「発達障害者だとわかるようなマークか何かないでしょうか?(この方も、1級の発達障害者のお子さんがいらっしゃるとか。)」というようなことを投稿されていましたが、よくわかる、と思いました。(この掲示板でも、誰か書いていた方、いませんでしたっけ?武田さんでしたか?)
話は変わりますが、適職について。この間の、武田さんや某院生さんたちのカキコを読みながら、また、自分の学歴、職歴を思いながら、「私の能力って何だろう?」と思います。大学については、前に書いた通りですが、世間に出されてこのかた、「大人の世界」というものに慣れたためしがない。前の職場では、幾分子供っぽいところがあっても見逃してくれた時もありました(場合にもよりましたが)が、今の職場がまるっきりそーはいかず、今になって初めてホントの「大人の世界」に放り込まれた(というよりほっぽられた?!)感じです。上司からは、「分別相応に動かなければいけない大人なんだから...」といった感じのことを言われた事がありましたが、どーしても根回し、女性だけに課される事等未だに慣れません。(こういう事を、世間では「いい大人になって云々...なんていうんでしょうけどね。)世間に出されて9年以上経ちますが、未だに自分がわからない。というよりますますわからなくなった感も...。 来年度の人事のことを考えているうちに、「私は何ができるのかなあ...」と思ったら、ついキーボードを叩いていました。(人事の希望の方を先にやらなくてはならないことは、わかっているのですが...。) 最後になってしまいましたが、Mariaさんへ。「ふたりで聖書を」届きましたよー!これから、展開を楽しみにしています。
truthさん wrote:
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>
>そんな時は、「うんうん・・・」と聞く努力をして、分かっているように頷いたりするのですが、全然分かっていない時があります。一対一だと比較的相手の話が分かるのですが・・・。後、概念的な話とか・・・物とかに対する話だったり、単純な話だと理解出来るのですが、全体を把握したりする話・・・現実的にどうするかという話だとほとんど全然分かりません。
>
>メールや文章だと理解でき、又、人間対人間でない方が理解しやすいです。
>
>無理して合わせるより、そういう時は、「分かりません」と言うべきでしょうか?又、「よく分からないので、ゆっくりもう一度言って下さい。」と言うべきでしょうか?
>
>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>
さっきの続きです。私も会議の時は、すごく頭を抱えます。最初のうちは話を飲み込めても、だんだん話が進んでくるとワケがわからなくなってきたり...。
答えになっているかわかりませんが、例えば会議でしたら、終了後誰か(上司でも同僚でも)をつかまえて、改めて聞いてみるのも1つの方法ではないでしょうか?(ただし、親切に教えてくれる人というのが必須ということはいうまでもありません。私は、しょっちゅう「的外れな事を言う」と上司に言われ続けて、例え話の内容がわからなくても、人前で聞くのが嫌になってしまったクチなので。)
truthさん wrote:
>他の人達は・・・必要な事だけを聞き分けて、必要じゃない情報は遮断しているのかもしれません・・・。でも、私には色々な音というか、声とかが聞こえてしまうため・・・肝心の仕事の方がうまくいかなくなってしまう事があります・・・。
はじめまして。実は私もです、これ。電話の会話1つとっても、電話以外の他人の声が耳に入って来たりして。耳をふさいだりして、必死(!)に対応はしてるのですが、それでも相手の言いたいことを掴み取れなかったりすることも...。
>
>変なこと書いていたらすみません・・・。失礼しました・・・。
全然変だと思いませんよ。前に、私自身、聴覚認知(障害)のことで「アドバイスを下さい!」と書いたら、同じような悩みを持っている人、アドバイスをくれた人、これについてのURLを見つけてくれた人...といろいろな人が出ました。(変な書き方ですが。)ここの住人の皆さんは、親切な方が多いようですから、たとえ小さなことと思っても、本気で悩んでいることがあれば相談してみるのも1つの方法ではないでしょうか?(かくいう私自身も、このホームページを知って、まだ1か月くらいです、実は。えらそーに書いてしまいましたが...。)
pennpenn58さん wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試
>みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったり
>している。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピン
>とこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理と
>いう段階に来ているような気がします。
わたしのコメントの主旨を少し説明しておきますね。わたしが「社会とは何
か」というスレッドで扱っていたのは主に社会という言葉の二義性の問題でし
た。つまり、社会という言葉は
(1)存在する対人交流の全てを含んでいる場合
(2)いわゆる社会人と呼ばれる集団に限定して使用される場合
という2つの意味が混同されているために、一言で社会と言ってもどのような
範囲を扱っているのがあいまいであるというのがそもそもの問題提起だったの
です。で、わたし自身は社会というのは(1)の意味で捉えていて、(2)の
意味に限定して捉えることについては批判的ですから、当然のことながら生産
群と非生産群という言葉も批判的に使用しているのです。
> 例外的なことが多すぎて人を外面的に分類して対立的にものを考えるのが
>難しいように思うのです。
自閉的境界人(AS)であるわたしも分類が難しいという点については同意
します。ただし、わたしは「分類する」という事と「対立的にものを考える」
という事は別の次元の問題だと考えています。わたしが分類を行なうのは多く
の場合問題を一時的に整理するためであり、「対立的な考え方をしている」か
らではありません。
この点について、pennpenn58さんとの意見の相違がどこにあるの
か、理解しかねています。わたしが分類をするのは全体を部分に分解しながら
理解していく方法(分類)が自分に1番合っていたからに過ぎません。
>
> 私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるという
>ことです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくて
>も幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思
>うし、不幸せな人もいる。
この点についても、「障害が持っているという事実から、障害者は不幸で
あるという価値判断を導き出すことはできない」「健常者であることが本人
の幸福を保証している訳ではない」という観点から同意します。
ただし、ここでも障害者と健常者を便宜的に分類することが、健常者と障
害者を対立構図で捉えているということにつながるのかどうかという疑問が
残ります。
夜と昼をよりよく理解するために両者を便宜的に区別したからと言って、
その人が夜と昼を対立的なものと考えているかどうかまでは判断できないと
思います。
ふれさん wrote:
>Mariaさんのカキコはとても難しいことがあります。理解するのに一苦労・・・。
>私のあたまが悪いだけかも。気にしないでください。
いえいえ、あたしの方も心苦しく思っています。
問題が抽象的すぎると実感が湧かず、具体的すぎると問題の構造が見えないという相反する要素があるものですから、あたしとしても苦慮していたりします。
あたしがいま考えているのは、「セルフケア」と「自己決定権」についてです。つまり、「『自分で自分のことができない人間(セルフケアが困難な人間)』は、自分のことを自分で決めることはできないのか?」です。つまり、「他人様のお世話になっている人間が、あれこれ煩いことを言うな」という形で、自分が受けているケアに対して疑問や不安、あるいは苦情があっても、それを訴えることが許されないことが多い、ということなんです。
たとえば、身体に麻痺がある人や、安静を求められている人が、車椅子を押してもらっている場合。
こういうとき、予告なし、予備動作なしに、いきなり急発進・急停止をする人がいます。車椅子というのは視点が低く、しかも見通しがきかないため、スピードが速く感じられて、とても怖い思いをします。それから、他の人とおしゃべりをしていたりいて、前方を注意しているかどうかが押されている人間にわからない場合もあります。これも怖い。曲がり角で、向こうから来た人とぶつかりそうになることもあります。なにしろ位置が低いですから、向こうも気づきにくいんですよ。で、普通の人なら人にぶつかられてもそうそうひどいことにはならないでしょうけど、点滴を受けながら車椅子に乗っている人間に誰かがぶつかった場合を考えると、とても恐ろしいです。
そんなわけで、急発進・急停止をしないとか、「出まーす」「止まりまーす」「右、曲がりまーす」とかいったように、車椅子がどう進むかをちゃんと教えてくれたりとか、曲がり角では大きく回って衝突事故を防ぐとか、前方に車椅子に気づいていなさそうな人がいたら、「車椅子、通りまぁす」と声をかけるとかいった心遣いというのをちゃんとしてくれるひとは、とても信頼できたりするわけです。
ですが、こういうことを車椅子を押している人に訴えても、「面倒をみてもらっているくせに、いちいちうるさいことを言うんじゃない!」という形の感情的反撥を喰ったりするんです。
こういったことが、インフォームド・コンセントとか、そういったものにつながってゆくんじゃないでしょうか。
こういう「ケアをする側とされる側の相互理解」というのは、ケアをする側にとってもいろいろとメリットがあるんですよ。
まず、ミスが減ります。ケアをする側とされる側の両方によってチェックが行なわれるわけですから。投薬なんかのときに、患者さんに名前を訊く、というのも、こうした相互チェックのひとつです。
それに、ケアに避けがたく伴う苦痛によって、ケアする側とされる側の人間関係が悪くなることが避けられます。
たとえば、動脈採血なんていうのは、とても痛いです。しかも、なかなかうまくいかないことも多い。ですから、する側も緊張しますし、そのあげく何度も失敗されると「いいかげんにしてくれ」と言いたくもなったりするわけです。
ですが、「あまり慣れていないので、うまくいかないかも知れませんが、許してください」とあらかじめ言われれば、「じゃあ、あたしも練習台になったつもりになりますから、思いっきりやってください」ぐらいのことは言っちゃうわけです。「ああっ、また失敗した」「大丈夫、落ちついてください」とかいいながら何度もチャレンジして、ついに真っ赤な動脈血が採取できたときなんか、「やったね(^_^)」とかいって二人してガッツポーズを決めてしまいたくなります。急いでガス濃度を計んなきゃいけないからあんまり感慨にもふけってられないんだけどさ。
こうしたコミュニケーションがうまくいくと、戦友意識みたいなものが生まれてきたりなんかもするわけですよ。特に難病なんかの場合は、医療側のスタッフと患者の間に、「同じ病気と戦っている仲間」という意識が芽生えてきます。こういう関係が医療の中で生まれれば、たとえ結果が思わしくなくても、「私たちはやるべきことはやった」という形で納得でき、「ご苦労さまでした」と素直に言えるようになるんです。
ですが、実際の医療や介護の現場では、「言いたいことが言いにくい雰囲気」というのが、重く重くのしかかっているわけです。
そのうえ、病人に対しては「自己管理もちゃんとできない迷惑な人」というイメージが一方的に貼付けられることが多い。その「病気」というものが外から見えない場合はなおさらです。「単なるわがまま」と見なされて、患者側の訴えを無視されたりとか、あるいはつらく当たられたりもします。
そんなわけで、ケアする側はケアされる側の発言を「わがまま」と決めつけずに是々非々に受けとめ、ケアされる側も忌憚のない意見を述べることが、必要だと思っています。
もっとも、ケアする側には「そんなこと言われたって、こっちは手一杯だし忙しいんだよ。いちいち文句を言うな」みたいな人が多いんですけどね。
(Maria)
るおうさん wrote:
>
>自分で生み出しました。そういう言葉遊びで、遊ぶのが好きです。
>でも後で気がついたのですが画家のルオーというのの響きとも最初のところが似ているから面白いと思っています。
この文章を見て。もしかしてるおうさん、アナグラムもお好きかな?
>遅くなってスミマセンでした。
いえいえ。こちらこそ、お返事ありがとうございました!
ひま人 wrote
>
>このような、「いろんな生き方や考え方があっていい」というたぐいの口吻を最近よく新聞などで見かけるのですが、これはある種無責任ではないでしょうか。
>それが、そうした意見が出てくる背景が、場合によっては当事者の責任ではないという慰安感をあたえる範囲内なら結構でしょうが・・・
ひま人さん、レス、ありがとう。私もひま人です。だからひま人さんのHNにはなんとなく親近感を覚えます。でもこのページであまりお名前を拝見しないのでほんとうはお忙しいのかな。
私は要領が悪く20代の頃は自分は一見普通に見えるけどほんとうは知恵遅れに違いないと思っていました。左耳が聞こえないので日常生活に不便は感じるけれど障害者手帳をもらうほどではないし、障害者と健常者に分けた場合自分は頭の悪い健常者なのだと信じていました。
中学生の頃からの私の夢は30才になるまで私は普通の人になりたいというものでした。普通の人になって誰にもわからない理由で自殺したいと思っていました。それほどこの社会は私にとってつらかった。ASであるということはむき出しの子供の心のままで生きるようなもの。つらかったのは当然だったと思います。
徒労に徒労を重ねるような人生を送り続けて鬱病になったのですが他の人には私は幸せに見えることがあるらしいのです。他の人には見える自分の幸せが私には見えない。自分の幸せに気がつくことができないのは不幸だと思います。
つらいことが多かったので今の私にはもう幸せを感じる心の機能が失われたような気がするのです。そのことが今一番つらい。だから私は逆境にあってめげない人を見ると尊敬してしまうしうらやましいなあと思うのです。
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