アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
ayaさん wrote:
>で、考えたことは、
>「そんなにあなたは大変じゃないよ」と彼らは言いたいのではなくて
>これ以上話をするな、という口封じ的なメッセージがこめられているのでは
>ないか、ということです。
少し補足説明しておきます。二次障害が深刻な頃のわたしはどちらかと言
うと、自分の問題に他人が首を突っ込んでくるのをいやがっていました。け
っきょく、どこかで聞いたような一般論しか言ってこないだろうと思ってい
たからです。
ところが、わたしを「励まそうとした」連中はそんなことお構いなしにわ
たしの問題に介入してくることがありました。だから、わたしのことをどう
でもいい相手だと思っていた訳ではないようなのです。
そんなことを言いに来るぐらいなら、なんで放っておいてくれないんだろ
うとげんなりしていました。その当時は。
武田好史 wrote:
以下に示すのは、コマブックスから出版された中島恵子さんの『理解できる高次脳機能障害 脳の障害と向き合おう』の中で、私が「あっ!これASの障害の状態にそっくり・・・」と感じた、22歳の女性のケースです。
彼女は五人姉妹の長女で、小学生の頃より喘息もちだったのですが、大学生の頃には落ち着きほとんど問題なく過ごせるようになり、卓球部に所属して友人もでき、面倒見が良いので後輩からも慕われて元気に活動していました。
ところが思わぬ不運が彼女に襲いかかりました。クラブの合コンでビールを飲んだ直後に、ひどい喘息の発作が再発してしまったのです!
彼女は心停止状態になり、病院に搬送されました。10日間意識が戻りませんでしたが、幸い一命は取りとめました。しかし、低酸素状態にさらされた彼女の脳は確実なダメージを受け、手がスムーズに動かせなくなった上に、次のような後遺症が残ってしまいました。
1.会話への反応が遅くなってしまった。
2.『記名力』の低下のため、同じことを何度も聞き返すようになった。
3.話を上手にまとめることが困難になってしまった。
4.本人は自覚していないが、家族から見ると「物覚えが悪くなった」ように見える。
5.注意力が以前に比べて劣り、WAIS−R検査で「絵画配列」「積み木模様」「組み合わせ」「符号」など、目と手の強調が要求される「動作性課題」の評点が
5点以下と標準を著しく下回る状態になった。
6.しかし言語IQが正常なので、私の推測であるが、療育手帳の交付対象にならず、身体障害者手帳をもらったとしても、「ただ不器用なだけじゃない・・・」と正当に障害を評価してもらえない恐れがある。
さて問題です。彼女の障害はこれでも軽いのでしょうか?またあなたが、彼女の住んでいる町の障害福祉課の職員だったら、彼女に対してどのような対応をしてあげますか??
ayaさん wrote:
> で、考えたことは、
> 「そんなにあなたは大変じゃないよ」と彼らは言いたいのではなくて
> これ以上話をするな、という口封じ的なメッセージがこめられているのではないか、ということです。
毎度毎度同じようなことを言っていて恐縮なのですが(フロイトやユングもそうなんだけど)、「自我がおびやかされる」から、避けようとするのではないかと思うんですよ。
「重い病気になったら、どうしたらいいかわからない」という人は、検査を受けること自体を嫌がったりします。それどころか、「どうしたら予防できるか」みたいな話にさえ、興味を持とうとしません。積極的に立ちむかいたくない。ないことにしてしまいたい。そういう人がいます。
まあ、あたしも気分が落込んでいるときに、極めて不得意な分野の、それも極めて厄介な問題(特に金銭に絡んだ人間関係のもつれとか)が持込まれたりすると、「やめてー!」みたいに思ってしまうのですが、「ベルヌリ数を百項くらい求めたいのだが」「8次の完全ゴロム環の不存在を実験的に証明したいのだが」みたいな話だと、「うーむ、えらいこっちゃ」と思うものの、やる気だけは出たりするのですね(たぶんできないけど(-_-;))。
つまり、「現実的な問題として私のところに持込まれても、私には対処できない。だから、関わりたくない」という、そういうサインなんじゃないかなー、と思うんですよ。べつに、その人になんとかしてもらおうと思って話してんじゃないんですけどね。
世の中には豪気なひとがいて、「まあ、『一緒に死んでくれ』とか『金貸してくれ』とか言われても困るけど、一緒に泣くくらいはできるから」と言って話を聞いてくれたりします。「いつもしんどい話ばっか聞かせちゃって悪いですね」とか言っても、「いや、しょせん他人事だから」とかいって笑ってたりします。こういうひとって、身近にいるとありがたいです。
小説家なんかだと、こういうタイプはいそうに思います。逆に、誰かに言うかわりに自分で書く、というのも手だと思いますが。
(Maria)
学校でこんな事を習いました。
「人は10人ぐらいが死んだというと、イメージできるが、数万人死んだということはイメージがわかないという」。
あと距離や時間によっても判別するみたいですね。
「知人が一人死んだのと、過去に起こった知らない戦争等で何百人死んだのとでは、やはり違う事なのである」。
と、教わりました。これも何か関係しているのでないかと思います。違うかな?
レス遅くなってすみません。
家にPCがないので、、、
こうもりさんの言葉には、
気付かされる事が多いです。
そうなんですよね、直接2人で話すのが
一番良い方法なんですよね。
やはり時間をかけて
少しづつ近付いていくしかないのでしょうか。
この間、書き忘れてしまったのですが、
彼にはお姉さんが作った、
架空の女性が存在していて、
彼との距離が近しくなると、
その近しくなる相手が男女どちらでも、
その架空の女性の話が出てきます。
どうやら彼は男というものを、
勘違いしているようで、
よく『俺の女が、、、』とか、
『俺の事で泣いた女は沢山いる』とか、
これはまだまだ序の口で、
かなりヘビーな話しをします。たとえそれが、
私の母にでも。(苦笑)
私も、母も
「何言ってんだか。」(苦笑)
と、思うのですが、
彼をあまり知らない人(特に男性)からは、
彼の言った事を信じてしまうので、
とても悪い奴と思われてしまいます。
本人も
「自分を好きだった人は、最後には自分を凄く嫌う。」
そう言っていました。
そうする事で
人との距離を保とうとしているのでしょうか?
彼の事を誤解している人が多くて、
本当に悪く思っている人が多いので、
生きにくいだろうと思います。
自分で生きにくくしてる、というか、、、
彼と沢山、言い合いもしたし
泣いたりもしたけど、
私の知っている彼は、
皆が思っているような人ではなく、
むしろ全く逆な人間です。
彼の話す内容は哲学なのに、
バスに乗るのが苦手だったり、
女の子も苦手みたいで、(私は彼の縮小版みたい!?)
そんな所を見ていると、、、
普通の恋愛とはまた違って、
何か『恋』とかを、
超越してしまっている気がします。
でも、こうもりさんの考える、
近い対人関係における脅威は
彼にも言えることだと思います。
だから私は『ふつう』なんでしょうね。
また長々とカキコしてしまいました。
読んだ感想、お待ちしてます。
るか☆
> 恋愛のような距離の近い対人関係自体が脅威になってしまうわたしにはうま
>く答えることができないのですが
>
ayaさん、こんにちは。
>そんなに親しくないひとや、どうでもいいひとのことは真剣に考えないから、ということらしいです。
普通の人はそう感じるのでしょう。周りもそんな感じです。下手をすれば自分自身もそうなのかもしれません。
ちょっと話がずれるかもしれませんが、考えたことを書いてみます。
私もあちこちで、「問題がそんなにないように見える」とか「もっと大変なひとがいるんだから」と言われては問題が軽く見積もられていることに腹を立ててきました。
ただ、最近テレビで見て知ったのですが、例えば悲劇的な事件で、幸い命は助かったけど、深刻なPTSDに苦しんでいるひとなんかにも、「生きているからいいじゃない」「死んでしまった人もいるんだから」と言われてしまうことがあるそうです。
で、ひょっとして世間はそういう発想をするひとが多いのか?またこういう発想の人は自分がひどい目にあったときも、「もっと大変な人がいるから…」と思うのだろうか?と疑問に思ったんです。
そこで、非自閉の友人に聞いてみました。
「難しいねー」と言ったので、ちょっとひらめいて、
「自分にとって大事な人だったら、もっといろいろ聞いたり、一緒に考えたりする?」と聞いたら、そうだと言われました。
で、考えたことは、
「そんなにあなたは大変じゃないよ」と彼らは言いたいのではなくて
これ以上話をするな、という口封じ的なメッセージがこめられているのではないか、ということです。
もちろん、言葉どおりに苦痛を軽く見積もっている場合もあるかもしれないし、もしくはその両方かもしれない。
そんなに親しくないひとや、どうでもいいひとのことは真剣に考えないから、ということらしいです。
私は何かを言われたり、相談されたりしたら、それが誰からであってもまじめに受け止めてしまいますが、どうやらそうではないらしい。
うまく説明できないのですが、なんかすごく驚いたというか、そういう理由もあるかもしれないと思ったので、書いてみました。
こうもり wrote:
> るかさん、こんばんわ。こうもりです。レスが遅れたことと立ち入った質問
>をしてしまったことをお詫びいたします。
>
> 恋愛のような距離の近い対人関係自体が脅威になってしまうわたしにはうま
>く答えることができないのですが、るかさんが好きな男性とるかさんの間の対
>話が男性の姉によって切断されてしまっていることは気の毒だと思いました。
>るかさんとその男性の関係が今後どうなるにしろ、けっきょくは本人同士が直
>接話し合って決めるべき問題でしょう。
>
> お二人が直通で話し合える場があればいいのですが、現時点では思い浮かび
>ません。あまり、役に立たないレスで失礼しました。
こうもり wrote:
>(1)測定された知能が高いか低いか?
>(2)本人の適応状態がいいか悪いか?
もう一つ欲しいです。
●発達障害を特徴付ける能力が高いか低いか
ASの場合であれば、心を読む(曖昧な用語を使っておきます)能力や、コミュニケーションに関する能力などのことです。
上記(2)の前の段階として、環境とは関係なく、本人が持つ能力の部分であり、知能とは別の能力です。
みるさん wrote:
> あねに、「発達障害と診断されたよ。ほら、これがテスト結果だよ。」
> と見せたところ、
> 「だからといって、今の世の中はあんたのことを障害者とは認めないよ。
> そうは扱ってくれないよ。世の中そんなにあまくないんだから。」
> と言う返事がかえってきました。。
あたしは「あんたはなんでもかんでもGHQによる戦後教育のせいにする」と言われているのですが、やっぱり戦後の教育が、子供のプライドや自主性や個性を奪い、「偏りのない」「扱いやすい人間」を育てることを目標としてきたのがけっこう影響していると思います。
で、「客観的な評価」という名のもとに、「序列主義」が持込まれ、自分の社会的な地位に合わせて「身の程を知る」ことが要求されてきた。
「偏ったこと」は、いけないこと。「わがまま」が許されるのは、偉い人。「世間のご厄介になっている人間」は、うるさいことを言ってはいけない。「人と違うからって、偉いわけじゃないんだぞ!」といきり立つ人もいます。
たとえばの話、「セロリが食べられない」というだけで、どうして世間の人は寄ってたかってセロリを食べさせようとするんでしょうか。「セロリを食べなくて死んだ人はいない」とかいうと、「好き嫌いはいけない」とか言われるし、レストランで「セロリは抜いてください」とかいうと、「何様だと思っているんだ!」とかいって叱られるし。
寿司屋で「山葵(わさび)を抜いてください」とかいうと、見ず知らずの客にまで馬鹿にされるというのもあります。だけど、それが「外人さん」だと許されて、「韓国人」だと「馬鹿にしやがって」みたいな目で見られるというのも、なんかおかしい。
「自我が弱い人は、我が強い」という法則があります。自分というものがしっかりしていないから、他者からの働きかけに対する反撥が強い。で、自分の好みを相手に押しつけることで、自分を主張し、自分を確認しようとします。
だから、自分が「あたりまえ」だと思っている規範から外れていて、しかも平然と、堂々としている人を見ると、我慢がならない。攻撃性を抑えることができない。世間様の顔色を窺って、分相応に振舞うのが正しい、と信じているわけです。
学者とか芸術家とか、「世間離れした偉いヒト」というのはそんなに気にならないんです。自分と座標そのものが違うから。だけど、自分と同じ「世間」の中で、自分と違う価値観を持った人、自分の行動原理と違う行動原理で動いている人が、許せない。
これって、けっきょく自分に自信がないからです。
だから、人を威嚇しようとし、人を力でコントロールしようとします。ところが心理学でいう「ブーメラン効果」(あんまりいい名前じゃないんだけど)というものがあって、逆に相手の反撥を喰います。で、ますます威嚇的・攻撃的な態度を取るようになり、そういう関係でしか他人とつき合えなくなっちゃいます。やたらと高圧的な人って、いるでしょう? で、そういう人は、ますます人を信用できなくなり、ますます支配的になります。こうした悪循環にはまってしまう人は、かなり多い。
で、申し訳ないけど、こういう人って、まず間違いなく中身が空っぽです。まあ、「インポスター型」っていって、不当に自己評価が低い人がACの中にはいますが。
こういう人たちを、どうにかするというのは、一朝一夕にはゆきません。教育制度から見直してかなきゃならないしね。本人に自分を掘ろうという気持がなかったら、変わりようがないし。
そんなわけで、なるべく自分に自信がありそうな人を選んでつきあう、というのが、まだしも有効な世渡りの方法かもしれません。
……あたしは自信過剰なのかもしれません。道歩いててよく道とか訊かれるし。困ったなぁ。
(Maria)
名加野 wrot
>
> おや? メールの文章と似てる……ということは、もしかして、pennpenn58さんからメール頂いたのかな?
そうなんです。名加野君、ゴメンね。私はその他に鷲羽丸さんのことも悩ませたのです。名加野君のカキコをみてまた事情説明のメールを送りましたのでよろしく読んでね。
風呂糸です。
はじめまして(^^;?
僕も、おむにさんのチャットに、”風呂”で出没してるのでよかったらどーぞ(^^)
お馬鹿な発言ばかりしていますが。
http://www.netlaputa.ne.jp/~oyama/chat/
です。
誰もいないときは、みんな掲示板のように独り言とか書き込んでます。
会話にこだわらずに来て見てはいかがですか?
すみません。下記のカキコの引用文がすごく読みづらくなっています。申し訳ありません。
こうもり wrot
>
> 以上のことから、発達障害が軽度か重度を論じる場合は
>
>(1)測定された知能が高いか低いか?
>(2)本人の適応状態がいいか悪いか?
>
>という問題を分けて考えておいた方がよかったのです。
>
> 実に多くの人が「障害自体が軽い」ということと、「適応状態がよい」ということを比例関係で捉えようとします。
>
> ASやADHDや非言語性LDが提示する問題はまさにこの点にあると言
>ってもいいでしょう。
こうもりさんのおっしゃることよくわかります。先に名加野君がカキコをしていますが名加野君の場合もまさにこうもりさんがおっしゃる障害は軽いけれど(すみません、正確にはわかりませんが)本人の適応状態は悪いという状態だと思います。
かくいう私もいくつかの精神科巡りをし、「ADHDではないでしょうか、うまくまわりと協調できないので悩んでいます」と言っては「あなたは普通に見えます。ADHDならもっとそのへんを飛び回るとかするはずです」なんて言う医師の心ない言葉に何度泣いたことか。普通の人だけではなく専門家である医師でさえきちんと自分のことを話すことができる言語能力の高い患者のつらさを理解しようとしてない場合が多いと思います。
それは鬱病患者に「がんばれ」と言うに等しいタブーだと思います。長年悩み苦しんできたAS、あるいはADHDの人間にとっては冷たく突き放された思いがします。外からは見えない苦しみを私たちは抱えています。私たちの障害と苦しみは外からは見えないがゆえに無理な「普通であること」を要求されてしまいがちです。そして人はそれが障害者を偏見の目で見ないという美徳と勘違いしているのです。
障害者を偏見の目で見なくても少し変わった普通の人は平気でバッシングする人たちがいます。そして私たちの多くは少し変わった普通の人に見られることがおおいのです。もうASと大きくプリントされたトレーナーでも着て歩きたいです。こうもりさんの言葉を借りれば私たちの多くは社会にでれば普通学級に入ったAS児と同様なのです。つらいです。家族にもわかってもらえないつらさです。
エー、ところで山登敬之さんという精神科医の方が今週の週刊文春にこんなことを書かれていましたので引用します。
「私が思うに、人間は他人の視線に触れて生きている以上演技せざるを 得ない。ここで言う他人とは自分以外の全ての人々を指します。
中略
このように考えると、日常レベルで上手に演技できない人というの が、精神的に苦痛を感じたり、時に病気になっちゃたりするという説
明の仕方も可能です。あるいは、初めから演技が苦手な人ってのがい て、そういう方々は周囲との軋轢が耐えない。自閉症やADHDのよ うな発達障害の人とか。後略」
以前掲示板で演技のことが話題になったことがあったので引用してみました。演技はうまくできているかどうかより本人がそのことに苦痛を感じているかどうかが問題だと思います。
みるさん wrote:
>グレーゾーンの軽い障害を持つ人に対するケアというものは、盲点であり
>いちばん軽視されているかもしれませんね。その人口はとても多いのに。
>白でも黒でもない、目に見えない障害を持ったグレーゾーンの障害。
>そんなことをおもいました。
これについては、ウタ・フリスがはっきり指摘しています。
「障害の軽さゆえに、受けるべき援助も支援も受けられないとしたら、それは悲劇である」と…。(今、手元にその本がないので、大体の記憶で書いています。)実際、発達障害というのは、外見からはわかりづらいだけに、なおさらそういう人は多いのではないでしょうか?(ことに、この国では…。)他の方が、過去のカキコでいろいろ詳しいことを書いているので、そちらを読んでみて下さい。(職場からのレスのため、長く書けなくてごめんなさい。)
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