アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
こんにちは、ミルラです。
オフのお話が早速具体化の運びとなりましたようで嬉しく思っております。
こうもりさま、鯨夢ミグさま、お手数をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。
1月26日、ぜひ参加いたしたく思います。
2月23日も開催とのことになりましたら都合がつけばぜひにと思います。
17:00まえにはお暇せねばなりませんので
11:30もしくは13:30の早い時間のスタートを希望いたします。
ぴーまん、大歓迎です。しばらく足を運んでおりませんが
自然食好きとしては好きで、ありがたいお店ですので・・・。
それでは楽しみにしております!
今さらながらの質問ですみませんが、「レス」と「ログ」って、どう違う(もしくは、使い分け?)んでしょうか?というのは、白くん宛のカキコの文中(No.10341での「最新のレスの上に(以下略)」)を読み返して(投稿後というのが情けない…)、「あれ?これってもしかして『レス』でなく、『ログ』?」とやっとこ思ったわけです。お手数ですが、どなたか教えていただければ幸いです。
P.S.白くんへ。引用部分では「さん」にしたまま、気づかなかった…。失礼!
まずはおめでとうございます。
悩んでいらっしゃるようですが、まずはやってみましょうよ。
ただストレスで気が変になりそうになった時、周囲の雑音が入らない所(私の場合「トイレ」)を探さないといけないのかな?と思います。
競うわけでもないですし、マイペースが大事ですよ。
では。
白 wrote:
>他のレスして下さったみなさんにも、少しづつレスしていきますので、遅くなりますが、どうか許してください。
まあ、ゆっくり考えて下さい。
私は思ったことを、ゆっくりと書くまでです。
参考になるか、ならないか。
それは、全く分かりません。
白くんは、彼女はASではないかと思って、ここにたどり着いたんだと思った。
違ったかな?
私的には、どんな理由からであれ、ASという障害を認識し、理解しようと努める白くんが、こちらのH.P.に書き込みをして下さることは、とても良い刺激に、また、勉強になります。勿論、嫌だとは思いません。どんどん、果敢に考えていって下さい。
白くんは、高校生です。
私からみれば、青春真っ盛り、白くんも周りも。
それは置いておいて、白くんはASと女性心理の違いを認識しているか、ということが少し気になったんです。
ひどく率直に言えば、白くんは女性心理とASを勘違いしていないか、ということです。
もちろん、白くんも彼女も、先ずは人間です。
そして、白くんは男の子で、彼女は女の子です。
勿論、彼女がASだったり、自閉傾向のある性向であったりはするかもしれません。
白くんは、ASという性向の全体を掴もうと、頑張っていてくれます。
それは、この世の中の動きの中で、大いに歓迎すべき傾向だと思います。
ただ、その前に、気に掛かったことがあります。
>またまた私的な例になってしまって申し訳ありませんが、僕だって、例の彼女のこと、「なんとなく」わかっているつもりだったし、今彼女の友達の女の子なんかに聞いてみても、彼女のことを、僕以上に何か理解しているとはとても思えません。
>それはそれでいいんでしょうけれど、実際、僕だって、深く付き合おうとしなければ、それまで普通に楽しく話していたのだから、そのときは、多分、お互いちょっと変っているけど、オモシロイやつかなくらいの感覚だったんじゃないかとも思います。
それで良し、としていないのね、白くんは。(^_^;
女性にとって、特別な関係を求める人間にはある程度、カンも働きますし、警戒しますよ。さりげなく。あるいは無意識に。(男の人だって、そうだと思うけど)
特に、自分にとって、特別な感情を抱いていない相手の場合は、余計な波風は避けたいところです。
特に恋愛好きであったり、モテることが大事な人の場合は違うでしょうが、知り合いか友達の中で、特には望まない相手が、自分が思うより近い距離に入ろうとすれば、人間には縄張り意識というのがありますから、警戒態勢に入りますよ。
特に、正面から入ってくる相手に対しては、「敵」としての位置付けに入りますし、人によって、縄張りの広い人と、少ない人がいます。物理的な例を挙げれば、ラテン系の人間の距離で日本人が体を寄せられれば、間合いを取るため後ずさります。
それと同じように心理的距離、というものもあります。
卵を思い描いてみて下さい。
白身と黄身を包む膜(殻)があります。
まず、白身の部分は友達、という枠です。
黄身の部分は、親友、あるいは恋人、という枠です。
黄身の中心に彼女の心があります。
まず、白くんは卵を外側から彼女の心に近づき、白身の部分に入ります。
人によって、白身と黄身の分量、殻(膜)の硬さが大きく異なるわけですが、多分、白くんは彼女の黄身の部分に入ろうとして、その殻の硬さに戸惑っているようです。
>でも、最初はそれでも、人間である以上、僕は深く人と関わりたいんです。
それは、お互いの距離のとり方の違いです。
彼女が無視している、イコールこれ以上距離を詰めないで下さい、のサインです。
今までと同じに接する分には問題ないのですから、それを維持したら、どうでしょう?
将を射んとすれば、馬から。
彼女に詰め寄って、正面からぶつかるのも、若くて清々しいと言えなくもないけれど、今までどおりに話をし、その距離を保つことは重要では?
その上で、彼女の周りに声を掛け、全員と彼女以上に親しくし、自分をさりげなく売り込んでもらう。
直に自分一人でぶつかるより、勝率は上がるかも知れません。
彼女に、白くんの良さに気付いてもらうことも大切です。
なぜ、ここまで彼女の話を持ち出すか。
AS全体の話をしないか。
出来ないから、です。
もし、白くんの好きな彼女がASだったとしても、それ以前に個人という、パーソナリティーがあります。
>それは、彼女に対しての特別な感情の話をしているのではなく、誰にせよ、深く関わりたいと思えば、やっぱり根本的に分からないと、どうしようもなくなってくる部分ってあると思います。
>それは無理なことなんでしょうか。
無理だと思いますよ。
と言うか、そういう考え方は止めたほうが良いんじゃないかしら?
白くんは、若くて、ロマンチストで熱血なタイプだと推測します。
情熱は、大事です。
けれど、人間関係で、深く関わりたいタイプは往々にして、男同士ならいい関係が築ける性格ですが、こと、男女間の係わりに関しては、そうでもないほうが多い。
なぜか?
男同士では良しとされることが女性社会ではそう、取ってもらえるとは限らない。
多分、白くんの躓きの原因はその辺にもあるのではないでしょうか?
>だから実際の経験で、慣れるべきだと仰っているのはわかっています。
>でも、今のところ、模擬演習は難しく、即実戦に出るしか道がありません。
だからこその、ボランティアよ。
お互いのボランティア。
あさかぜさんの仰るように、動いてみるのが一番。
本当に、ASだと診断され、生きている人間を見て下さい。
彼女は本当にASですか?
>分からないまま接していくのは、すごく不安です。
人間同士、お互い様です。
>いちいち反応や態度を気にして、何かまた悪いことをしたんだろうかとか、なにか気に入らないんだろうかとか、やっぱり考えてしまうし。
考え過ぎ。
人間、機嫌伺いされて喜ぶ人もいますが、そうでない人も同じくらい多い。
自分の機嫌を取ろうとしている相手なんて、下心ありありで気持ち悪い。
あんまりにご機嫌取り激しいと、畜生、こいつ、何か貢がせて挙句に振ってやろうか、くらいに考えたくなるくらい、人間としてのプライドを疑う。
いままで通りが一番だと思うけど。
どうかしら?
>でまた、彼女はそんなふうに、気を遣われ過ぎることが嫌だとも言っていたらしいんですね。
まあ、そうよね。
それは、当然よね。
>ただ、適当に話をして、適当に付き合う関係なら、問題はないと思うんですよ。
良いじゃない。それで。
>でも、真剣に関わりたいと思えば、どうしても慣れるだけではすまないことがあります。
その、「真剣」が問題。
恋愛とか、はれた惚れたの次元では、人間つい、そう「真剣」とか、「必死」になってしまいがちだし、それで恋人を手に出来る人もいる。
だけど、恋愛小説じゃないんだから、そんなに根、詰めないほうが良いと思うんだよね。そういうのって、「重い」から。
ライトな感覚の友達関係から、なんとなくの恋人関係を目指したほうが、いいような気がするのは、白くんより人生10年ほど、長く生きているせい、かしらね。
それとも、今の彼氏のせいかしらね。
>慣れるまでに、決定的に関係が壊れてしまうこともあると思うし。
>(すでに僕の場合、そういうパターンですけどね。)
>唐突ですが、バベルの塔の話を思い出してしまいます。
バベルの塔の話は忘れてしまったけど、無理して積み上げないほうが良い、って言うのもあるんじゃないかしら?
あるいは、白くんの描く理想図に無理があるから、とか。
あ、それから。
得てして男性の方と言うのは、女性に対して、幻想を抱くように出来ています。
それは、なくてはならないものですが、あまり誇大な幻想だと、押し付けられる側は溜まったものじゃありません。美化するのは構いませんが、行き過ぎがないように、気をつけて。手に入りにくいものほど、欲しくなるものでは?
かなり、キツイ物言いで、ごめんなさいね。でも、言い切りなのは、あくまで、私個人の現時点での意見だから、です。文を短くしようと端的に書いた結果ですので、悪しからず。
ASである以前に、人間である、鯨夢ミグより。
やたら長くて、皆様、ごめんなさい。m(__)m
あんく wrote:
> そのかわり運動能力の発達は遅い方で、這い這いは一度もしたことがなく、シャッフリングの状態から、立ち、歩くまでは2歳を超えてからだったそうです。
「シャッフリング・ベビー」の情報は、こちら。
http://www.wise.or.jp/yuchan/new_ikuji/hatatsu/body/020.html
ボトムシャッフリングをする赤ちゃんすべてが、発達障害になるということはないということだが、発達系の専門機関において、その「兆候」としての判断基準になりうることはないんだろうか?
幼少期の私の「お尻這い這い」は、いにしえの8ミリ映写機に収められているのだが、デジタル処理化してくれるところを探して、観返してみようかな。
風呂糸さん wrote:
>また主観などに左右されそうなテストなどでの判定よりも、動かぬ証拠の画像、写真などによる判定、と処方を期待しております。
>
>僕は診断にはこだわりませんが、「わかってるのに〜」に書いて有るように、薬などで自分をサポートして、よりよい状態にもって行きたいと考えているので。
>
>そんなわけで、どなたか知っていたら教えていただけませんか?
さくらいクリニック>http://homepage2.nifty.com/ADD/data/map.htm
。。。というところがありますが、わたしはここに行ったことはなく、どういう検査をするのか知りません。ただ、ADDの専門病院ということで教えてもらっただけなので、電話で受け付けに確認してみてください。
I wrote:
>ここの、「ほかの掲示板へ」をダブルクリックすると、上から3〜4行目くらいのところに「おためし掲示板」の項がありますので、ここをダブルクリックすると、「おためし掲示板」が出てきます。
追加です。「ほかの掲示板へ」をダブルクリックすると、『掲示板Menu』という画面が出て、このタイトルの下(上から3行目)に、「おためし掲示板(書き込み練習用)」という項目があります。ここをダブルクリックすれば、「おためし掲示板」になります。
白さん wrote:
>(前略)実はグルンサさんの書き込みを見たときから、そうレスしようとしたんですが、「おためし掲示板」と言うのが何のことか分からなくて、ここのサイトにそういうものがあるのかと思って探したんですが、結局分からないからレス出来ませんでした。(^_^;)
>一回見てみてください。
こんばんは。せっかく丁寧に教えてくれたのに申し訳ないのですが、我が家のPCには、ATOKがないのだ。(しくしく。)また、「おためし掲示板」については、最新のレスの上に、《アスぺルガーの館に戻る〜WZ BBS対応について》という1行があります。ここの、「ほかの掲示板へ」をダブルクリックすると、上から3〜4行目くらいのところに「おためし掲示板」の項がありますので、ここをダブルクリックすると、「おためし掲示板」が出てきます。(ここで、カキコの練習ができます。最近、私もやりました。)
>それから、
>>本当はこれも、ここに引用したかったのですが、やり方がわからない…。
>
>これは僕は単純に、コピーでここに貼り付けていますが、それが一番いいのかどうかは、ちょっと・・・。
>でも、このやり方で、一応めんどくさくなく、どこの文章でも引用できます。(^.^)
>
>(中略)前にも一度質問したんだけれど、どなたかもう少し楽な方法を教えてくださると嬉しいんですが。m(__)m
↑これは私も知りたいです。
白くん、レスありがとう!(グルンサ)
P.S. 私も、ここに来るようになってまだ2ヶ月半くらいでしかないのです、実は(笑)。で、ここでしかカキコしたことがないというのも同じ。(というわけで、皆さんにいろいろ教わりながらやっています。)だから、緊張しないでね。
pennpenn58さん wrote:
>多重人格で被害妄想と自意識過剰があり、鬱病でナルコレプシーで引きこもりのpennpennです。
へえ、こんにちは。他人のレッテルを、そこまでていねいに貼り付けなおす必要というのは、どこにもないんですって。まあ、No.10276の発言は、Motoのおやじに「純情」呼ばわりされた、私への「援護射撃」と思って、前向きに受け取らせていただこうと思っている私も、相当な被害者意識の持ち主だあな(^o^)。
> 娘に言ったらお母さん、今度は嫌われないようにねと言われました。嫌いな人でもしゃべってみるとそんなでもないもんだよとのこと。お母さんは一人っ子だから人間関係を作るのが下手だよねと。トホホ。娘に説教される親。返す言葉がありません。
親というのがすべて、子供を救えるもんじゃないし、いまじゃ親の方が子供に救われる事だってめずらしくはないんだよね。いやどちらにしても、特別歴史の新しい話じゃない。うちの父なんて、その父親が、当時16歳だった父(つまり自分の子供)に死亡保険かけて、特別攻撃隊に出兵させるところだったんだから。日本が敗戦したことで、ほんの数日ちがいで、父は出撃を逃れ、保険は下りず、そうこうしてるうちに昭和天皇はゴネちゃって、あらゆることがどさくさまぎれになり、青春をめちゃめちゃにされた父に対して、責任とってくれる存在は、結局誰ひとりいなくなっちゃったわけ。
子供が、いろんな救いの言葉かけてくれているうちが花であり、あなたにとっての最大の幸せであるわけですよ。いつか機会を見て、「あんなこと言ってくれて、私を気遣ってくれてありがとうね」と、ひとこと微笑みつつ娘さんに言ってみましょう。
> ドキドキドキドキドキしてます。はあ、なんか運命って皮肉。ああ、迷う。ああ、どうしよう。ドキドキドキドキドキ。生き方をかえようかな。図々しく会社なんていくら首になったっていいんだと。そういう覚悟でないととても勤められない。ああ、どうしよう。ひきこもりで自分の部屋から出るのもトイレの時だけという状態なのに。
別にいいじゃないですか、多重人格だろうが淫乱だってなんだってさ。受付の人と目が合って採用なんていうのは、通常でもなかなかありえない縁ですよ。あんまり期待せず、中ぐらいに頑張ってみてはいかがなものでしょ。ぜんぶに頑張るというのがいけないんですよ。たとえば「仕事先でこれこれこういうことがあった」とか、家族との対話を絶やさないということは、頑張った方がいいけれど、イヤな思いしてまで、仕事場の人間の期待に添えるまでしがみつくっていうやり方はいいことない。娘さんにしゃべってもらえるということは、あなたの状況が、それほど悪いものだとは、私には思えないんですけどね。これで2つもラッキーなことがあったじゃないですか。仕事も決まった、子供に励ましてもらえた、幸せすぎて怖いってやつですかね(笑)?
グルンサさん、僕もPCはつい最近始めた素人なので、余計なことは言わない方がいいかもしれませんが、うちのPCでは、「かお」と入力すると、顔文字の一覧が出てきます。
うちの仮名漢字変換のソフトは「MS IME」なので、グルンサさんちのPCが「ATOK」を使用していたら、事情が違うので分かりませんが、そういう機能が着いていませんか。
僕も前は半角入力でやっていましたが、もしこれで出来たら、ずっと楽ですよ。
実はグルンサさんの書き込みを見たときから、そうレスしようとしたんですが、「おためし掲示板」と言うのが何のことか分からなくて、ここのサイトにそういうものがあるのかと思って探したんですが、結局分からないからレス出来ませんでした。(^_^;)
一回見てみてください。
それから、
>本当はこれも、ここに引用したかったのですが、やり方がわからない…。
これは僕は単純に、コピーでここに貼り付けていますが、それが一番いいのかどうかは、なんせど素人なんで、ちょっと・・・。
実は、ついこの間も、尊敬する人に送ろうとしたものすごく気合の入った長文のメールが、どこか闇のかなたへ消えてしまって、届いてないし、残ってないしで、再現不可能になってかなりメゲた、なんてこともありまして。(T_T)
でも、このやり方で、一応めんどくさくなく、どこの文章でも引用できます。(^.^)
それよりも僕は、レスするときに何故か引用部分(勝手にコピーした部分じゃなくて)が黒字になってしまい、毎回、引用部分の全てに、手で>マークを入れなおしているので、それで結構時間を取られてます。
皆さんこんなことをなさっているのかな?
前にも一度質問したんだけれど、どなたかもう少し楽な方法を教えてくださると嬉しいんですが。m(__)m
今日は、とある老婆の話を書く。
私が今働いている飲食店(勤続3年目)には、小さなイートインがあり、彼女は、店まで足繁く通ってきては、食べて行くのだが。小柄でひどく痩せており、いつもひとりきりで、よたよたと危なっかしく入ってくる。本当は真っ白なのであろう頭髪は、茶色に染め分けられていて―おそらく「おしゃれ」のつもりでもないのだろうが、その染め方というのがじつに、まあ、なんと言うか「独創的」で、私はひそかに“スカンク染め”と名付けている―返された食器は、トレイ中に紅茶がこぼれて海になっていて、販売員の人たちは、「遊んでんじゃないの?」などと、噂するほどだ。
ある日、店に、女子中学生の一団が入ってきて、イートインの一角を占領し、にぎやかにおしゃべりをはじめた。くだんの老女は、そこから1メートルほどはなれた席で、食事をしていた。女子中学生の、華やかなおしゃべりが最高潮に達したとき、老女は、まったくだしぬけに彼女達に声をかけたのだ。「あんたたち、ここに紙落ちてる。ほら紙。これあんたたちの」老女としては、彼女達の若やいだにぎやかで愉し気な雰囲気に誘われ、「自分もなんとかしてその雰囲気に関わらせてはもらえないか」と望んだあげくの行動で、けして悪意はなかったと思われるが、もちろん若い彼女らは、そのような動機など思い至りようがなかったと見えて、そんなふうに声をかけられた途端、あれだけ騒がしかった少女達は、ぴたりとおしゃべりをやめ、まじまじと彼女の方を注目した。老女は、さらに、「あんたたち、急に静かになったね。静かになった」としゃべりかけたのだが、(おそらくとにかく会話を続け、収支をつけようという彼女なりの努力?私はそちらへは背を向ける形で調理しているため、背中越しに雰囲気を察知するほかなかったのだが)少女達は、気味悪そうに老女の方を見返し、それほど時間をおかずそそくさと店を出てしまったのだった。
以上が私の見て取った、とある日の事実の一部始終だ。ほんとうにささいな出来事だったのだけれど、実をいえばこのバーサンというのは、この自分にとって“うちの店に来てほしくない奴ワースト”の一人なのだが(笑)(もう一人、こんどこっちにちょっかい出してきたら叩き出してやりたい、“カラオケおばさん”というのもいる)。自閉系の人間が、「変な奴はどこにでもいて......」などとエラソーに語るのは、笑止千万なのかも知れないけれど、実社会で働いている以上、きれい事じゃなにも語れたもんじゃない。もとより私は偏見だらけの差別主義者だしね。
しかしだ。上のエピソードによって、このスカンク頭のバーサンというのは、その性質行動において、この私という人間が、しばしばやらかしていた失敗の状態と、実にそっくりなのだと気付かされてしまったのでした(ただし、かれこれ5年くらい前までの)。
「人に関わろうとする、積極的な意思はあるのだが、その人に接するやり方が不適切であるため、結果的に相手に撥ね付けられてしまうことになる」老女は、店の者と、金銭のやりとり等をするときにも、けして相手と視線を合わせようとはせず、それでいてなにかしらしきりと話し掛けたがる。いまでは私は、話し相手は地面に埋もれているのかというような、目線をうつむけたまま、年が変わって最初の入店で、「おめでとうございます」のひとことも言わず、だしぬけに「マツモト※ヨシ、もう開いてるねえ、マツモト※ヨシ」などと話し掛けても応じられる人間は少ないということも知っている。今までの自分の人生のうち、数人(非自閉者のグループに混ざって)でしゃべっている中で、自分がしゃべり出した途端、その場の人間全員が、「えっ?」といった感じで固まったまま、異常に気まずい沈黙が流れてしまう原因というのが、話し出すタイミングの見極めがまずかったこと(たとえば誰かが話し終わり、言葉の流れが切れるのを待つとか、誰かの視線が、応答を求めるかのように、自分に当てられているのに気付くとか、「え〜っとあのさあ」みたいな、“クッション言葉”を、前置きに使うとか)、とにかく目を使う、アイ・コンタクトというものが、非自閉者達とのスムーズで好ましいと言える会話には、ぜひとも必要な技術なのだということも、知ってる(いつも100%実践できているかどうかは別として)。ただこの自分と、かのオバーチャンというのは、そういったことを知っていたか知らなかったかというだけの違いだったってことも、いまではようく知ってる。これは知りたくなかったけどな(^oT)。
私は自閉者よりも非自閉圏にある者達の方(「かた」でなく「ほう」と読んでいただきたい)に、さんざん義理があると思ってる。助けられてきてもいるんだ。だから「健常者をすべて消却してしまえ」などと思っている人間ではない。アスペによるアスペへのいじめもある?あって当然じゃないの。人間同士なんだから、3人以上集まれば、イヤな奴というのがひとりも出現しないという保証はどこにもない。どんな摩擦だってあるはずなのだ。そういうことに関しては、私はいっこうに動揺しないし、アスペ同士のイジメの話(個々のエピソードが真実なのかどうかは別として)で、私が傷つくこともないのだ。だから最後に一言だけ、言わせていただきたい。
「ババア、もう店来んな!!(大笑)」
風呂糸さん wrote:
>日本で、脳のSPECT検査をしてくれて、それをADDなどの検査に使ってくれる病院をさがしています。
>
>以前僕も3軒くらい精神科を訪ねましたが、僕の外見とかを見て、テストなどもせずに医者から「あーキミは違うねー」とかいわれ、そういうアホな医者に1から10まで説明して理解してもらう気力も失せて「あーそうですか(-"-x)」と帰ってくる状態で、未診断です。
>
>また主観などに左右されそうなテストなどでの判定よりも、動かぬ証拠の画像、写真などによる判定、と処方を期待しております。
>
>僕は診断にはこだわりませんが、よりよい状態にもって行きたいと考えているので。
私の経験になりますが、大学病院に問い合わせをしてみたところ「まずは診察をして、その上で医師が必要と判断すれば、脳SPECT検査をします」と回答されました。(で、1軒[というのも変ですが]某大学病院に行ったところ、相談したいことの要点にもたどりつかず、返されてしまう始末。[やれやれ。]てなわけで、私も未診断です。)他の方についてはわかりませんが、どうやら診察の方が優先されているのではないだろうか?と思います。でも、気持ちの上では私も同じです。(答えになっていなくて、すみませんが…。)
第1章 「自閉症」の謎を解く
ここで、「自閉症」という「病気」のことをお話ししておくことにします。ただし、自閉症が一般的な意味で病気といえるのかどうかは、とりあえず横に置いておきましょう。よいしょ。(←置いている)
「自閉症」は、「先天性」、すなわち生まれつきの病気だとされています。だから、成長の段階のどこかで「発病する」わけではなく、成長するに従って、普通の子供との「違い」がはっきりしてくる、とされています。
診断のきっかけは、おおむね「言葉の遅れ」です。つまり、三歳くらいになっても、ほとんど、あるいはまったく喋んないんですよ。ですから、最初は「ひょっとして、耳が聞こえていないのでは?」とか思ってしまいます。だけど、物音には反応するので、耳は大丈夫。
そうすると、「智恵遅れ」とか「失語症」とかいった言葉が頭にちらついてしまいます。だけど、態度を見ていると智能はそんなに遅れているわけでもなさそうだし、脳の検査をしてみても、多くの失語症に見られるような脳の損傷も見つかりません。はてさて、これはいったい何なのでしょう?
で、ここで「自閉症」の子供には特徴的な「症状」が出ます。これが、「視線が合わない」ということなんですね。「避ける」のではなく、「合わない」。とはいえ「無視する」のでもない。「関心がない」というのでも、ありません。話しかけたりあやしたりしても、なんだか相手にされていない……というか、なんだか「通じてる」という手ごたえがない。物理的・機能的な存在としては認めてくれてるみたいなんだけど、それ以上のものではなかったりします。
これが何度口で説明されてもさっぱりわからない、という人はとても多いです。自閉症の子供とじっくりつきあってみて、ようやく「おお!」と納得するくらいのものです。なにしろ「自閉症」の治療にたずさわっている小児科の医師の中にも、この「視線が合わない」ということがどういうことなのかが分かってない人がいたりします。で、「『自閉症』の子供は、自分の殻の中に引きこもっている」とかいったことを言い、「子供たちの心に訴えかける」とかいったことを真面目に提唱なさってたりします。
困ったなぁ。ぽりぽり。(←頭を掻いている)
「普通の人」は、自閉症の症状を「普通の子供」のリクツで説明しようとします。そんでもって、結果として間違った結論に至ってしまうんですね。ですから、「自閉症の症状」というのは、「普通の人」の振るまいと似てはいても、まったく別物と考えたほうがいい。
そんなわけで、この「視線が合わない」ことを、あたしたちは「アイ・コンタクトがない」と呼んでいます。まあ、「自閉症方面における俗語」くらいに思っててください。
で、次が自閉症名物(←名物なのか?)、「クレーン現象」。口で言わないのはともかく、せめて指差すなり身ぶり手ぶりで知らせるなりすればいいのに、と思うのだけど、しません。そもそも、自閉症児は「指差す」ということがありません。目の前の「これ」を示したいときには、相手の手を取って、「これ」という感じで、そのものの上に置く、ということをします。
ですから、「お母さん、冷蔵庫に入っているプリンを食べていいですか?」なんていうときは、けっこう手間がかかります。お母さんの手を引いて、台所まで連れていって、冷蔵庫を開けて、プリンに「これ」という感じでお母さんの手を置く、ということをします。
たいていの人は、ここまで来る前に「うちの子は病気なんじゃないだろうか」と思って子供を病院に連れてゆきます。で、「お子さんは『自閉症』です」と医者に言われます。とはいえ「自閉症」の診断を受けるまでの紆余曲折というのは並大抵のものではなかったりします。なにしろ、「この子は『自閉症』だ」と自信を持って診断をつけられるお医者さんというのは、本当に数えるほどしかいないからです。こっちの先生とあっちの先生で診断が違う、なんていうのはザラで、「詳しい診断がつきかねるから別のところへ行ってください」といった形でたらい回し・門前払いされるなんていうのも珍しくはありません。
で、診断されたらされたで、「自閉症」という病気は一生治らないこと、大人になっても一言も言葉を話さないケースがあること、現代医学ではほとんど解明されていないことなんかを告げられて、大きな衝撃を受けてしまったりするのですね。
まあ、あたしみたいに「だれも病気だとは思ってなくて、放っといたら治った」みたいな人間もけっこういます。で、大人になってどーも対人関係がぎくしゃくするので調べてみたら、どうやら自閉症だということに気がついて、「おお、そうだったのか」と思わず手を拍(う)ってしまったりもするわけです。もっとも、こういう場合は「自閉症」ではなく「高機能自閉症」とか「アスペルガー症候群」とかいった診断名がつくわけなんですが。
さて、「自閉症」の子供だからといって、まったく喋らないわけではありません。大きくなってくると、ほとんどの子供はそこそこ言葉を喋るようになります。だけど、ここでまたヘンな「症状」が出ます。それが「クレーン現象」と並んで自閉症名物と云われる「鸚鵡(おうむ)返し」です。
で、これは、単に同じ言葉を繰返すということではなくて、本当にテープレコーダーのような「鸚鵡返し」なんです。ですから、
「これ?」
「これ?」
「これでいいの?」
「これでいいの?」
みたいな噛みあわない会話になってしまいます。ふつうは「鸚鵡返し」といっても、
「これ?」
「これ。」
「これでいいの?」
「これでいいの。」
でしょ? こういうのは、相手と同じことを言っていても、「自閉症の症状としての『鸚鵡返し』」とはまったく別です(そんなわけで、「自閉症の症状としての『鸚鵡返し』」を一般の「鸚鵡返し」と区別して「エコラリア」と呼ぶこともあるんですが、「鸚鵡返し」のほうが定着しているのでそっちを使いましょう)。
ですから、猫とお話しする様子を見ても、自閉症の子供は違います。
「にゃー」
「にゃー」
「にゃぁぁぁあ」
「にゃぁぁぁあ」
「にゃー!」
「にゃー!」
……こんな感じで、やっぱり噛みあってません。ですから、
「にゃー」
「にゃ?」
「にゃああああ」
「にゃあ。」
「にゃー!」
「にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ!」
みたいなのは、自閉症かそうでないかの規準でいうと、「正常」な人間の会話と判定されます。まあ、猫とお話しする人間が「正常」かどうかは意見の別れるところでしょうけど。
さて、この「鸚鵡返し」の段階を脱して、普通の言葉を喋るようになる子供もいます。ですが、自閉症の子供は「赤ちゃん言葉」をすっ飛ばしていきなり大人のような喋りかたをします。
で、こうした「自閉症」の子供が大きくなって幼稚園や小学校のような集団生活の中に入ると、二つの大きな問題が出てきます。「こだわり」と「人間関係というものがよくわからない」です。
「こだわり」というのは、一見無意味に見える動作を何度も何度も(本当に何時間も、そして何日も)続けてみたりとか、お気に入りの物しか身に着けないとか、決まった道しか通りたがらないとか、そういうことです。毎日花壇に水をやるのが習慣だったら、雨が降ってよーが雪が積もってよーが断じて水をやる、というのが「自閉症」の子供です。
「人間関係というものがよくわからない」というのは、なかなかに説明が難しいものがあります。筋は通ってるんだけど、説明不能な「わからなさ」がある。これでは説明になってないような気がするけど、「なにか変」「どこか不自然」「妙にちぐはぐ」「ああっ、わからない。」こういう感じの「おかしさ」があります。そのせいで、家族にも馬鹿にされたり、面と向かって「キチガイ!」とか言われたりとかいった経験をしている人も多かったりします。
さて。
現在、「自閉症」という「病気」は、「先天性」、すなわち生まれつきのもので、成長の段階のどこかで「発病する」わけではなく、成長するに従って、普通の子供との「違い」がはっきりしてくる、とされており、しかも「治らない」とされています。
ところがです。ときどき「自閉症」の症状が、子供が成長するに従って、外見上消えてしまうことがあるんですね。で、多くのお医者さんは、これを「『自閉症』が治った」とは考えずに、「もともと『自閉症』ではなかった」と考えます。へ〜ん〜な〜の〜。じゃあ、それまで存在していた「自閉症様の症状」の原因は何だったのか、と訊いてみたくなります。
ここで、もういちど自閉症の「症状」についておさらいをしておきましょう。
1)言葉の遅れ。
2)アイ・コンタクトが欠如している。
3)クレーン現象。
4)指差しをしない。
5)鸚鵡返し。
6)赤ちゃん言葉がない。
7)こだわり。
8)人間関係というものが、よくわからない。
こうした症状を、統一的に説明する仮説がありうるだろうか、ということを考えてみてください。つまり、「あなたが仮にそうであったら、自閉症患者とまったく同じことをするだろう」と考えられるような原因、というのがあるとしたら、それはどんなものか?ということです。
……まあ、いきなり訊かれても困ると思います。そもそも、こういう疑問を持った人というのが、過去半世紀以上、ほとんどいませんでした。「自閉症」というものは、「ごくまれにしか存在しない、まったく異質なもの」であると考えられていましたので、「ふつうのひと」の延長で考えられることが、あんまりなかったようです。
しかしです。世の中には、成長する過程で自閉症の症状を克服し、「ふつうのひと」とまったく見分けがつかなくなっちゃった自閉症方面の人というのがいるわけです。そんなわけで、「普通の人間」と「自閉症の人間」のギャップというのは、そんなご大層なものではないのではないか、と結論するに至ったのですね、あたしは。
で、あたしが思うに、自閉症というものは、以下のようなものだと思うのですよ。
想像してみてください。
あなたがもし、宇宙のどこかにあるべつの惑星、自分以外の動物……人間を含めて、鳥や獣(けもの)といった動物がまったく存在しない環境で、生まれてからの何年かを過ごしたとしたら。
そして、ある日突然、この地球で、ふつうの子供として育てられることになったとしたら?
あなたは、あなたの周囲で動きまわり、規則的であるようなないような音を発する「何か」がなんであるか分かりません。その何かはあなたに近づいたり遠ざかったりします。
そのうちに、あなたはその「何か」が自分の動作に反応することを理解します。ただ、自分の何に、そしてどのように反応するかは謎です。
あなたは、その「何か」があなたの声に反応するのに気がつきます。そこで、あなたは「何か」の発する音を真似てみます。すると、「何か」はあなたに強く反応するようです。
あなたは、その「何か」が「人間」というものであることをまだ知りません。そしてあなたもまた「人間」であり、その「何か」もあなたと同じように、何かを感じ、考え、理解する存在であることを、まだ知りません。
その「何か」の上端にある構造の一部である二つの透明な部分が「目」と呼ばれるものが、あなたを「見て」いるということにも、あなたはまだ気がついていません。
……そう、これが<私たち>の出発点だったんです。
自閉症の子供にはアイ・コンタクトが欠如している。つまり、「視線が合わない」と云われます。
これはべつに、「視線を避けている」わけではないのですね。<私たち>は、そもそも視線というものを感じていない、あるいは「見られる」ということを理解していなかったんですから。
ですから、「見られる」ということを理解したあとでも、「視線というものを意識する」ということがどういうことなのかが、具体的にというか、感覚的にというか、そういうレベルではよくわかんない、というひともいます。だから、「薄化粧」とか「ストリップ・ティーズ」とか「勝負下着」とかいったら、ほとんど説明不能な概念のような気がします。「見せるのか見せないのか、はっきりしていただきたい」みたいなもんです。
あるいは、ときどき「見られる」ということを忘れちゃうひともいます。ぼんやりしているときに、人前でいきなり着替えを始めてしまうひとというのは、いそうに思います。どーせ誰も見てないんだから家の中では裸、という女性も、いるんじゃないでしょうか。そのまんま応対に出て、「あら、ごめんなさい」なんていう話もありそうです。「見られたら恥ずかしい」という感覚は、なかなか理解しづらかったりします。むしろ、「必要がない限り、人に見せてはいけないものだ」と説明されたほうが、わかりやすい。
ただし、電車の中でケータイで大声で喋ったり、お化粧したり、食事したりしている人が「自閉症」だという訳ではありません。念のため。
そんなわけで、「自閉症の子供は、指差しをしない」というのがあります。あたりまえです。注意を向けたい「他者」といものを意識してないんだから。あなただって、自分以外の誰かを意識してなかったら、指差しなんかしないでしょ? 「いや、私は鉄道会社に勤務していて、指差し・声上げは日々励行している」というひともいるでしょうけど、それはまた別の問題です。
指差しをしないもうひとつの原因は、「自閉症の子供は、障害者として育てられる」ということにある気がします。
最近の研究では、「『指差し』は『つんつん探索行動』から保護者の誤解を媒介にして派生する」という説が脚光を浴びています(『子どもはことばをからだで覚える』中公新書)。つまり、子供が何か未知のものを発見したときに、それを「つんつん」することで、その正体を知ろうとします。そんなわけで、自閉症の子供は「だんごむし」がだいすきです。「わらじむし」はつんつんしても丸くならないので、あんまり好きではありません。
でまあ、普通の子供だと、子供が何かをつんつんしていると、つんつんしているものについて興味があるのだな、と思って、保護者も子供と同じものに注意を向けます。
ところが、相手が「障害児」だと、親の注意は「子供が何かをつんつんしようとしていること」そのものに向かってしまって、「つんつんしようとしている対象」に向かわないんですね。まあ、果物屋さんの店先に並べられている桃を「ぶちゅー」とか潰されてしまったら、お母さん大弱りですから気持はわからないでもありません。ストーブをつんつんして火傷しても困ります。そんなわけで、「『つんつん探索行動』を模擬することで、他者の注意を探索対象に向けることができる」ことを学ぶ機会が奪われてしまうわけです。
次、「クレーン現象」。人の手を取って、よっこらしょ、と目的のものに導いてゆく行動です。
これはたとえば、ぜんまい仕掛けの玩具の自動車を自分の思った方へ走らせようとするのと同じことですね。ただし、これが亀だとかヤドカリだとかだとうまくいきません。頭と手足を引っ込めて、動かなくなってしまったりします。で、忘れたころになって、思ったのとぜんぜん違う方へ歩いていってしまったりします。<私たち>としては、「うーうーうーうーうー!」とかいって、やり場のない怒りに身悶えしてしまったりも、するわけです。
亀やヤドカリには、「亀の都合」や「ヤドカリの都合」というものがあります。だけど、あたしたちにはそれが理解できないから、イライラする†。
(†これと逆のケースが、コンピュータの初心者がコンピュータに抱く怒りだったりします。「おのれはわしを馬鹿にしとんのかぁ!」とかいって怒ってる人がいるけどさ、相手は機械なんだもん。怒ったってしょうがないと思うんですよね。「自閉症者は機械に対する親和性が高い」という話がありますが、その理由は「機械を機械と見る」というところにあるのかもしれません。)
そんなわけで、いま一度「自閉症の症状リスト」をチェックしてみましょう。これです。
1)言葉の遅れ。
2)アイ・コンタクトが欠如している。
3)クレーン現象。
4)指差しをしない。
5)赤ちゃん言葉がない。
6)鸚鵡返し。
7)こだわり。
8)人間関係というものが、よくわからない。
まず、(8)の「人間関係というものが、よくわからない」というのは、そもそも「他者」というものの認識が直感的にできなかった結果であるといえます。そうすると、(1)の「言葉の遅れ」も、語りかける対象としての他者のイメージに問題があったり、あるいは自分と他者の区別がはっきりしない、ということの帰結であると考えることができます。で、このうちの「『他者』のイメージに問題がある」ことと「自分と他者の区別がはっきりしない」ことについては、別の章でまとめて扱うこともします。で、(2)の「アイ・コンタクトの欠如」、(3)の「クレーン現象」、(4)の「指差しをしない」、(6)の「鸚鵡返し」も、同じ「自己」と「他者」の関係の問題でわりと簡単に区別することができます。
ところが、「赤ちゃん言葉がない」「こだわり」の二点に関しては、なぜそういう形で障礙が現われるのかが、わかりにくいんですね。
この二点はおそらくあたしたちが社会に適応してゆくアプローチのしかたに由来するのではないか、と考えています。で、次章はその点について詳しく述べてみることにします。
えー、ここで、余談ながら、この本が書かれるに至った事情についてちょっと述べたいと思います。
あたしたちの中には、それなりにいろんな方法で社会に適応して、中にはあらゆる検査によってもいわゆる「健常者」と見分けがつかなくなっちゃったひともいるわけです。だけど、「どっか違うんだよなぁ……」みたいな感覚は常に残っていて、たとえば恋愛関係みたいな「人間関係が深刻な影響を与える局面」においては、かーなーりー悩みのタネだったりするわけですよ。
だけど、そのギャップを埋めるものがありませんでした。いわゆる「健常者」と、<私たち>の間の橋渡しをするような手引き、というものが、ありませんでした。まあ、「まったくなかった」というと嘘になっちゃうだろうけど、少なくともふつうの人が読んで「なるほど」と納得できるようなものは、ありませんでした。あったら教えてください、ってなもんです。
いままで、『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』に関しては、「それが何であるか」というのがほとんど論じられてきませんでした。その意味であたしの見解はけっこう無謀かつ大胆、そしてひょっとしたらかなり画期的なものだったりします。
そもそもあたしは小児科のお医者さんでもないし発達心理学の専門家でもありません。「自然言語処理」という、あまり一般にはなじみのない分野で研究開発をしている一介の研究者でありエンジニアです。
だーけーどー、なんでか知らないけどいわゆる「自閉症」の原因に関する仮説を思いついちゃったのね。で、よぉーく考えてみたら、あたしも「そっち系のヒト」だったらしいのですよ。で、思いついたことを「そっち系の子供さん」のお持ちのお母さまがたに対してわりと無責任にくっちゃべっていたら、「わかる! 自分の子供がやっとわかった!」みたいに感謝されて面喰らってしまったわけです。
そんなわけで、「<私たち>が世の中で快適に生活でき、<私たち>以外の人たちとうまくやってゆくための手引き」みたいなものを書いてはくれないか、みたいな話になったわけです。
「な、なぜあたしが」みたいな思いはあるのですけれどね。「『誰かちゃんとした専門家に書いてもらいたい』とか言ってると、いつまで経っても出ない。『とりあえず書く』でいいから、叩き台だと思って書け」とあるひと(あたしが所属する、大森総合研究所というところの所長である、Joshyaさんというひとです)に言われて、こうして書くことになりました。しくしく。(ちなみに、この章のタイトルは、映画『博士の異常な愛情:またはいかにして私は心配するのをやめて、核爆弾を愛するようになったか』のタイトルのパクりです)
思うに、<私たち>というのは、本能というのがちょっと不足しているのだと思うのですよ。
人間が文明化してゆく過程で、「文化」というものによって前の世代から次の世代に行動原則を伝えてゆくようになり、それに従って「本能」というものを捨てさってきたわけです。本能に忠実に行動してたら、文化からは排除されちゃいますからね。
ところが、<私たち>というのはちょっと気が早かった。まだ捨てるべきじゃない本能まで、捨ててしまったわけです。で、この世に生まれてきた。
逆にいうと、時代を引っ張ってきたのは<私たち>みたいな人間だった、という自負も、ちょっとあったりします。えっへん。
そんなわけで、この本ができました。お役に立てれば光栄です。ダメだったら、せめて笑ってやってください。あはははは。
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☆コラム/「障碍」と「障害」と「障がい」と「障礙」☆
「障害」という言葉は、昔は「障碍(しょうがい)」と書きました。「障」も「碍」も、「さえぎる/立ちふさがる」という意味です。
ところが、「碍」という字はあまり使われないというので、「障碍」→「障害」という置換えが行なわれたんですね。とはいえ、電気の絶縁に使う「碍子(がいし)」は「害子」になったわけではなく、「がい子」。いやだなぁ、こういうの。「ガイシ」と片仮名で書くこともありますけど、これだとぱっと見て意味がわからない。
それに、「碍」と「害」では明らかに意味が違います。「害」というと、なにやら攻撃的な性格を帯びてしまうではありませんか。「障碍物競争」というと、「走路の途中に、さえぎったり立ちふさがったりするものがある」という感じになりますが、これが「障害物競争」だと、槍襖(やりぶすま)だの吊天井だの陥穽(おとしあな)だのが仕掛けてありそうでコワいです。
(ただし、「はっきり症状と呼べるような機能の低下や喪失があり、本人が苦痛を覚えている」場合は「障害」と呼んでもいいと思います。そこである種の“disease”に対しては、「障害」という言葉を使っていいと思います。)
だから、本当は「障害者」という表記は使ってほしくないのね。なんか、「邪魔になったり迷惑になったりする人」みたいなイメージになってしまいます。そこで、一部では「障がい者」という表記を使おう、みたいな動きもあります。だけど、はっきり言ってこういうのは「胡麻菓子(本来の表記はこれ。「誤魔化し」は当字)」でしかありません。
そんなわけで、“disorder”に相当する日本語として「障碍」という字を使おうかなー、と思ったんですが、<私たち>の多くはいわゆる「新字体」が嫌いなのですね。それより「旧字体」のほうが好き。だってなんか筋通ってないんだもん。
たとえば、「佛教」→「仏教」、「拂拭」→「払拭」という「弗→ム」の置換えが行なわれたのに、「沸騰」の「沸」がそのまんまというのはどういうことか、とか思ってしまうわけです。あるいは「廣大」→「広大」というのも気分がよくありません。
他にも、日本語表現にはいろいろと思うところがあったりします。
「日蝕」→「日食」、「波瀾」→「波乱」、「叛乱」→「反乱」なんていうのも気持悪いし、「えん罪(冤罪)」「すい星(彗星)」「ら致(拉致)」なんていうのもイヤです。「女子高生ら致さる」とかいう新聞の見出しとかを見ると、「女子高生ら」がイタされてしまったのかと思ってしまいます。不謹慎な話だけど。
あと、「行った」が「いった」なのか「おこなった」なのか、「入れない」が「いれない」か「はいれない」なのか、こういうところにもイライラします。ちゃんとルビを振ってくれぇー、とか叫んでしまうぞ。
そんなわけで、“disorder”を日本語で表現するときは、そもそも意味が違う「障害」でもなく、略字を使った「障碍」でもなく、正字を用いた「障礙」を使うことにします。
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プロローグ:あなたも「自閉症」?
だれかに突然、「あなたはひょっとして、『自閉症』なんじゃないですか?」と質問されたとします。
あなたはどう思いますか?
「私はひょっとして、馬鹿にされているのかな?」そう思うと思うんですよ、やっぱり。ですが、相手はあくまで真面目だったりします。うーむ、困ったな、これは。「自閉症」というのは、あんまり一般性のある話題ではありません。「あなた、何かスポーツをおやりになりますか?」とか、「何か格闘技をおやりになりますか?」というのなら、「自分にはそういう雰囲気があるんだろうな」と思うし、共通の話題にもなりそうに思います。だけど、「自閉症」っていうのは……ねぇ?
ところが、「自閉症」の人というのは、けっこう多いらしいんです。
「自閉症」というのは、統計上はかなり珍しい病気です。ただし、それは「はっきりと『自閉症』という診断を受けた人」に限っていえば、です。潜在的な自閉症者は、ひょっとしたら、数十人に一人、あるいはそれ以上、いるかもしれないんです。
「私は、普通の人とは、どこか違う」という違和感を、ずーっと抱えているひとというのは、少なからずいたりします。だけど、その「違和感」の正体が、どうにも掴めない。中には精神科のお医者さんにかかったりするひともいます。だけど、診断は「正常」。
で、そういうひとが、ある日突然、「……そうか、私って『自閉症』だったんだ。」と、劃然と悟ってしまうことがあったりするわけです。
だけど、「私が『自閉症』!?」。そう感じると思うんですよ。
で、問題は次のステップなんですね。
「だって、私はべつに引きこもっている訳でもないし、引っ込み思案でもないし、人間ぎらいという訳でもないし……」
これはいただけませんね。べつに「自閉症」は引きこもりの病ではありません†。子どもの頃に「自閉症」と診断された人でも、べつに「引っ込み思案」とか「人づきあいが悪い」とかと限ったわけではありません。実際には、「他人の気持を直感的に理解できず、その結果コミュニケーションがうまくいかない」というのが自閉症の典型的な症状だったりします。
(†もちろん自閉症の患者さんを隔離して、社会に出さないようにする家族が少なからず存在する、という哀しい現実はありますけど、そういう問題ではなかったりします)
「とはいえ私はそういう意味では人づきあいは苦手ではないし、社交的だし、ユーモアのセンスだってちゃんと持ち合わせているし……」
うーん、そう言いたくなる気持はよく分かるんですよ。だけど、あたしだって、「この人とは合わないなー」と思いながら笑顔でそつなく応対することだってできるし、落語を聞いて「うーむ、さすがは六代目圓生」とか唸ってしまうくらいの感性はあります。問題の重点はむしろ、「他人の気持を“直感的”に理解できない」の『直感的』の部分にあると思ってください。逆にいうと、「社交性」とか「社会性」とか「常識」とかいったものを身につけることで、「自閉症」の症状が表から見えなくなる、つまり、「自閉症の症状が覆い隠されてしまう」ということが、あるんです。
たとえば、あなたにしたって、「人間関係」や「ユーモア」というものをある程度客観視することで、「人づきあい」を円滑にしてるわけですよね? 理屈抜きの、人柄や感性だけで人間関係に対処している訳ではないと思います。社会に出れば、どうしたって「気づかい」「気配り」というものは必要になってきます。
ですから、「自閉症」だからといって、けっして「人の気持がわからない」わけではありません。ただ、「直感的に」把握するのがむつかしい。「頭で理解する」ことで対応する部分が大きい。だから、社交的なおつきあいではなく、友人とか、夫婦とかいった、飾りのない素朴な関係が、ぎくしゃくしてしまうんです。つまりは「裸のつきあい」というのがむつかしい。
こうした影響は、「人間的成長」の部分に大きく影を落とすことがあります。そんなわけで、自閉症は「発達障害」「学習障害」といった形で問題にされます。ですから、その「障害」を乗りこえちゃった場合、「自閉症」というのは「ごく親しいひとにだけ微かに感じられる、ちょっとした違和感」程度のものでしかなくなってしまいます。
ただ、自閉症的な傾向というのは家族的(遺伝するのか、それとも周囲に同じような傾向の人がいると出やすいのかわかりませんが)であるらしく、親子で自閉症っぽい例が珍しくありません。こうなると、親も子も「こういうもんだ」と思っているから、家庭の雰囲気がなんか事務的で他人行儀でも、べつに悩まない。その「自閉症傾向」というのは、単なる「その家の雰囲気」とか「性格」で片付けられてしまう(べつにそれで片付いちゃうんならなんにも問題ないんだけどさ)場合がけっこうあります。「うちは家風が古いというか、厳格でして」と言われれば、まあ、そうなのかな、という感じになってしまいます。で、それが普通であると思っている場合、結婚してみたら夫婦で自閉的傾向の持ち主だったとか、そういうことが珍しくありません。
そんなわけで、「私は子供の頃に『自閉症』と診断されたことがある」という「普通の人」はけっこう多かったりします。現在、「自閉症」は「治らない病気」とされていますから、そうした人は「間違った診断を下された」と解釈されて統計からは排除されています。ですが、あたしは「潜在的自閉症者」、つまり「隠れ自閉症者」というのはそこそこ多いのではないかと思っています。
……というわけで、あなたは現代医学において現在「自閉症」と診断されないからといって、あなたに「自閉症」の要素がない、ということにはならないんですね。
「じゃあ、具体的にはどこで見分けるんだ?」
基本的には、「社会のきまりごと・約束ごとを頭で理解し、身につける以前」、つまり「子供の頃はどうだったか」によって診断されるんですけどね。だけど「自閉症」の診断というのは、けっこう難しかったりします。「難聴」だとか「緘黙」だとか「軽度の智恵遅れ」みたいに判断されて、そのうち症状が目立たなくなっちゃったもんだから、誰も気にしなくなっちゃった可能性だって、ないことはないし。だから、いま現在、「自閉症」の症状に苦しめられていなければ、あなたは「自閉症」ではないと言っていいかもしれません。
「だったら大丈夫。私は日常生活になんの不自由も感じていない。」
うふふふふ、そうかな? 本当にそうなのかなぁ〜?
「『自閉症』の診断は、非常に難しい」と言いました。これは二歳からせいぜい六歳くらいまでの幼児に対する診断規準があって、それに当てはまるかどうかを判断するのが経験のない医師には困難である、ということだったりします。
で、少年期以降、精神的発達によって自閉症の症状が「覆い隠されてしまう」と、診断は「非常に困難」どころか「ほとんど不可能」です。まあ、一応は知能テストや発達歴の分析を含む長期のカウンセリングによって、だいたいの診断はつくということになっていますが、これも実際のところはどうかわからない†。
(†だいたい、お医者さんというのは「病気」を相手にする商売だから、日常生活にあんまり苦痛や困難を感じていなかったりすると、そもそも相手にしてくれなかったりします。だから、まっとうに社会生活をしている人が、「私はひょっとして『自閉症』なんじゃないでしょうか?」とかって精神科にかかると、体よく門前払いを食わされてしまいます。あるいは、「気分障害」(つまりは「鬱」です)とかいう診断を下されてしまったりします。)
そんなわけで、知能テストのパターンを見ると「自閉症」に近いパターンを示してはいるんですが、見たところそういうふうには見えない(専門的には「臨床上の特徴が見られない」と言います。「臨床」とか言ってるけど、「自閉症」って寝込むような病気なんでしょうかね?)なんていうひとも、けっこういます。
じゃあ、「いま現在「自閉症」の症状を示してない人に対して「自閉症」うんぬんを論じても意味なんかないんじゃないの?」みたいな話になるんです……が。じつは、「自閉症」というものが、あなたの精神のわりと根深いところに存在していて、その「自閉症っぽさ」という傾向を把握しておくとしておかないとでは、けっこうあなたの人生、生きやすさが違ってきたりなんかもするわけです。
で、このあなたの精神の奥底に根を下ろしている「自閉症っぽさ」を発見するための、けっこう顕著な「自閉症っぽさ」の判断規準というものを、あたしはわりと最近発見してしまいました。
これ、医学的根拠とかははっきり言って全然ありません。「おいおい、なんつーいいかげんな話だ」と怒る人もいるかも知んないけどさ、これって結構、自閉症方面の方々(あたしたちは、「ご本人さん」と呼んでいます)に評判いいんですよ、じつは。
で、その「自閉症っぽさ」の判断規準というのが、
『「どっちでもいいこと」が決められない。』
だったりするわけです。
たとえば、あなたが喫茶店で昼食を取ることになったとします。で、メニューを見る。すると、こんなオプションがあったりします。
ビーフカレーにするかエビピラフにするか。
飲物はアメリカン・コーヒーにするか冷たい烏龍茶にするか。
サラダのドレッシングは和風か中華かフレンチかサウザンド・アイランドか。
「うわっ、やばい!」と思ったひと。あなたはお仲間です。あたしは、「こっちへいらっしゃい」と川の向こう岸でおいでおいでをしてしまうぞ。こっちの水は甘いぞー。人生楽になるぞー。うふふふふ。
自閉症傾向の持ち主は、こういった本当に「どっちでもいいこと」が決められない。どっちを選んだところで、あなたの人生になんの支障も変化もないような、『本当に「どっちでもいいこと」』が、「どっちでもいいこと」であるとはっきり理解していながら、なおかつ「どっちでもいいこと」であるがゆえに決められない。
しかたがないから「じゃあ、<本日のおすすめ>は?」とか訊いて、「じゃあ、それを」とかいって済ませようとか思うと、ウェイトレスが「済みません、いま店長に訊いてまいります」とかいって引っ込んじゃって、「ま、待ってくれぇ〜! そんな重大な話じゃないんだぁ〜!」みたいなことになってしまいます。
これは結構イライラします。本当に「どっちでもいいこと」が決められないんですよね。実際問題として、サイコロかなんか持ち歩きたい気分です。
いちばん困るのが、「自閉症」っぽいひとがふたりいて、目の前にケーキが二つある。それがまたモンブランとサヴァランみたいな、「はっきりした差があるのだけれど、どちらがいいともいえないもの」だったりなんかして……どっちが好きという訳でもない。これは困るんですよね、ホント。
「せっかくですから、お好きなほうをどうぞ」
「いや、そちらこそお好きな方をどうぞ。」
「いやいやいや、どうぞどうぞ。」
「まあまあまあ、どうぞどうぞどうぞ。」
そうなんですよ。「別にどっちでもいい」とは、まっとうな社会人としては言えないわけです。いっそふたりともどっちかが明確に好き、というのなら「ジャンケンで決める」ということもできます。「コインをトスして決める」。それだっていいんです。だけど、そういうの抜きで、「どっちでもいいこと」を決めるのが、ものすごく苦手。
そうすると、こんどは「迷わないように、あらかじめ決めておく」ということをするようになります。これは別に「どっちがいい」とかいった明確な根拠があるわけじゃないのね。とにかく、理由はなんでもいいから「こっち」と決めておく。
ハンバーガーはマクドナルドではなくバーガーキング。
コーラはコカ・コーラではなくペプシ。
ティシュー・ペーパーはクリネックスではなくスコット。
丼物は親子丼ではなくカツ丼。
ああ、これで安心、と思うでしょ? だけど、今度はそこから外れることがなかなかできない。「あと、ビールはヱビス、なければサッポロの黒ラベル」「申し訳ございません。アサヒ・スーパードライかキリン・一番搾りになりますが」みたいなことになると、「うおおおおおお」みたいに頭を抱えてしまいます。で、脂汗流しながらビールの銘柄を決めている。「そんなの、どっちでもいいじゃん」と思うでしょう? だけど、「どっちでもいい」から悩むんですよ。
そうなんです。「そこに何の意味もないのだ」と頭ではしっかり分かっていたとしても、一度決めちゃったら、なかなか動かせない。これが、「自閉症者のこだわり」と呼ばれるものです。「どうでもいいことに執着する」という、正真正銘の「こだわり」。だけど、「こだわり」が「こだわり」であると解っていても、やっぱり「こだわり」が捨てられない。
たとえば、「儀式的行動」なんて言われるものがあります。靴紐の通しかたはきっちり左右対称になってないと気分が悪い。家を出るときと、横断歩道を渡るときに車道に下りるのは左足から。お風呂ではまず頭から洗う。朝起きたらまず神棚の水と仏壇のお茶を替えてから朝食を取る。で、朝食は必ずご飯と焼き魚と葱・豆腐・わかめの味噌汁。水曜日は定時に仕事をしまって家族全員で夕食。こういった、「これだけは守んなきゃいけない」みたいな習慣が、山ほどあったりします。
こうした行動は、よく「脅迫神経症」の一部として捉えられることがあります。だけど、脅迫神経症における脅迫行動と、自閉症における儀式的行動とでは、質的な差があります。「脅迫行動」の場合は、固着しちゃったら理性によっては変えようがありません。それに対して、「儀式的行動」は、ちゃんとした理由があれば、簡単に変えることができます。
つまり、「脅迫行動」は「ある特定の行動」をすることに意味があるわけですが、「儀式的行動」はとるべき行動が「決まっていること」に意味があるわけです。
こうした「こだわり」あるいは「儀式的行動」というのは、一種の「フェティシズム」です。本来ならば目的があって手段があるのだけれど、手段が目的化してしまう。つまり、手段と目的が逆転しているわけです。だから、他人にとっては無意味なものに執着するように見えるわけです。
この手のフェティシズムの一種に、アクアリストに怖れられる「換水病(かんすいびょう)」という病気があります。水を換えると水槽の状態がよくなる。で、その「よくなること」にハマッてしまい、水を換えるべき水槽がなくなるともう一台水槽を買ってきてセッティングしてしまったりするわけです。「鑑賞する」ために「水換えをする」はずなのが、「水換えをする」ことが目的になってしまう。あるいは水草のトリミングにハマッたりします。ピンセットを使って水草をちまちまちまちまちまちま植えていると、明らかに精神状態がどっか違っているのがわかります。完全に「うふふふふふふふ」状態。楽しいぞ。
(なお、こういった一種のフェチは、自閉症患者に限ったわけではありません。ただ、巨乳フェチとか脚フェチとか下着フェチとかいったまだしも分りやすい(「変態性欲者」とかいった明確なジャンル分けが可能な)ものではない、という差があります)
だから、明確な目的がある場合、自閉症者はあんまり悩みません。明確な目的があるんなら、それに対して最適化することで、合理的行動として発展的に決定を下すことができるわけです。完全主義者で仕事の鬼で職人気質で融通は利かない、みたいな「頑固職人」タイプのひとが仕事上の判断で悩む、みたいな悩みかたはそんなに苦手じゃありません。「本質」というものを突き詰めてゆけばおのずと結論は出る、みたいな信念がありますから。
だけど、「どーでもいいこと」だと、けっきょく「どっちでもいい」わけで、そこでどうしたらいいかわからなくなってしまうのですね。奥さんに、「ねぇ、どっちが似合う?」とか訊かれると、「俺が知るかっ!」みたいなことに、なってしまいます。うーむ、ありがち。
そんなわけで、予告なしに生活習慣が変わってしまう、というのは、重度の「自閉症」の患者さんにとってはけっこう大変なことだったりします。重度の自閉症の患者さんの中には、「毎週水曜日の朝食に、いつも出てくるはずの鯵の開きではなく、塩鮭が出てきた」といったような理由で、「いやぁぁぁぁぁぁあ!」とかいってパニックを起してしまうひとがいたりします。
ヘンな話だと思うでしょう? だけど、あなただって会社に行ったらなぜかコンピュータのディスプレイの上にみかんとカップ酒がぽつんと置いてあったりしたら、ちょっと考えこんじゃうでしょう? で、おもむろに周囲を見回してみると、同僚が当たり前のような顔をしてみかんを食べている。「これ、何?」「だって、今日は十一月八日だろう?」「それが?」「男・紀伊国屋文左衛門、命を賭けた蜜柑船、目指すは、江戸だぁ〜……って、知らない?」。何を言ってるんだ。今はもう十二月じゃないか。なんなんだ。なんなんだぁー!
ちなみに旧暦の十一月八日は「鞴(ふいご)祭」といって、火に関係する業種では、みかんやお酒をお供えして、お稲荷さんにお詣りすることになっています。
……さて、そんなわけで、「知らないうちに『治って』(本当は覆い隠されて見えなくなっているだけなんだけど)いた軽度の自閉症」みたいなものは、おそらくけっこう多いと思います。
いわゆる「自閉症の症例」というのは、「自閉症」と医学的に診断される人がだいたい五〇〇人に一人(日本には、だいたい二十万人以上いると言われています)、「アスペルガー症候群」と診断される人まで含めて多めに見積もると、百人に一人くらい、と言われています。けれど、「自閉症っぽい人」まで含めると、実際にはその数倍はいそうに思います。
以下ではその「自閉症」について、詳しく説明してゆきたいと思います。
白さん wrote:
> 皆さんを苦しめているのは、周囲の「普通人」が悪いからですか。
> 僕は過去ログや何かをずっと読んできて、「普通人」に対する皆さんの憎しみや怒り> の表現に出くわすたびに、すごく辛い思いがします。
> 僕たちの存在そのものが、皆さんにとってはウザイということですか。
> それは、僕たちが皆さんを理解できないからですか。
このあたりの不快さについては人それぞれだろうと思うので、誰かが自閉症方面の人間を代表して「こうなんだ」と断定的なことを言うことはできないと思います。だから、あたしはあたし自身の立場から何かを言うことしかできないのね。
で、それを踏まえた上で言わせてもらうと、「普通人」だから不愉快、というわけではなくて、「私はそうなんだ」と言うべきところを「普通の人間はそうなんだ」と言う奴が不愉快、ということだったりします。別の言い方をすれば、「普通人」であることにあぐらをかいている人間が不愉快、ということ。
もちろん「普通のコミュニケーション」における困難がある場合というのはあるわけですが、思春期以降の、そこそこ社会に順応した人間にとっては、コミュニケーションそのものに関する困難というのはそうそう重大なものではない……っちゅーか、相手が普通人だろうがお仲間だろうが、相手の言ってることはだいたい分るしこっちの言ってることもだいたい通じるようでなきゃ日常生活生きてゆけないわけです。
そんなわけで、あたしには「普通人」の友人というのもいるし、べつに相手に合わせてもらっているという訳でもなく、あんまり普通ではないかもしれないけれど居心地のいい関係というのを築いているわけです。
ただ、傲慢さや無神経さというものが、自分が世の中の「多数派」であり「主流派」であり「正統派」であるという妄信と結びつくと非常に不愉快で残酷な人間ができあがる、ということです。謙虚で繊細で聡明な人間に、不愉快な人はあんまりいません。あるいはそういうひとに対しては、お互いの認識の食い違いがあってもそのことによる不快感というのはほとんどないし、お互いの立場を尊重してやりかたを変えればいいだけの話です。そういうときに、「私は普通だ。お前はおかしい」と言われりゃあたしらでなくても頭に来るというものです。「普通人」の不愉快さは、あたしたちに対して「私は普通だ。お前はおかしい」と言って恥じることがない、ということに集約されそうに思います。
> でも、次にもっと複雑な問題を出されれば、根本が分かっていないから手も足も出ない。
> これでは、一から十まで、「アスペの人との付き合い方マニュアル」と言うようなものでもなければ、立ち往生してしまいます。
> 実際、僕はここに来るまで、そういうことを求めて、自閉症児の扱い方を書いた本とか、教育の仕方を書いた本とか、手当たり次第に読みまくって、どういう風に接すればいいのかを、必死になって覚えようとしたことがあります。
> でも、それでは結局、現場の役に立たないんですよ。
> 唐突ですが、バベルの塔の話を思い出してしまいます。
早い話が「会話集」ではなくて「文法書」が欲しいというわけですね?
実際のところ、「自閉症の中心概念は、学問的にはまだ理解されていない」ので、それはないものねだりだ、ということに公式にはなっています。
……あくまで、「公式には」ですが。うふふふふふふふふ。
つまるところ、
1)言葉の遅れ。
2)アイ・コンタクトが欠如している。
3)クレーン現象。
4)指差しをしない。
5)赤ちゃん言葉がない。
6)鸚鵡返し。
7)こだわり。
8)人間関係というものが、よくわからない。
という自閉症方面の人間の特性を、きれいに説明するコンセプトは今まで存在していなかったし、当然「広く認められた学説」としても存在しなかった、ということです。でまあ、それは今後の発達心理学や精神医学や大脳生理学の進歩を待つしかない……ということになるわけです……が、そんなことを気の長いことを言われても困るので、早急になんとかしてくれ、っちゅーことにもなってるわけです。
じゃあ、とりあえずあたしが何とかしてみようか、ということだったりします。
「あんたバカ?」とか言われそうだけどさ、そもそも大森総研のスタッフがこの掲示板でごそごそしているそもそもの発端というのが、「『自閉症』っていうものは、こういうものなのではないだろうか?」という仮説を何年か前から持っていて、その仮説の正否を確かめたかった、ということだったりします。で、ここでごそごそしているうちに、「そーか私ってば自閉症だったのか」と気がついた、ということだったりするのね。
でまあ、その「仮説」っつーのは今や「確信」に近づいているのだけれど、とはいえ専門家の目から見れば「妄想」でしかないかもしれない。とはいえそのまんまにしておくのもアレなので、それがいいかげんなものであったとしても、とりあえず世に問うてみようではないか、ということになったわけです。
で、書いてみた文章というのがあるわけです。題して『「どっちでもいいこと」が決められない。』。
まだ未完成なものですし、量もけっこうなものなので、ちょっと発表するには早いかな、とは思うのですが、まあ、これを機会に発表しちゃうことにします。とりあえずは、プロローグの『あなたも「自閉症」?』と、第一章の『「自閉症」の謎を解く』。
「えー、これって違うー!」というご意見とかあったら、どんどんお寄せください。よろしくm(_ _)m。
なお、この文章、版権解放、コピーフリーです。著者に許可なくあらゆるメディアに無断転載・引用可です。ただし、あたし、「大森総合研究所の“Maria”」が著者であることだけは、はっきりと明記しておいてください。連絡先はもちろん、あたしのメールアドレスです。
では、行きます。(←「アムロ、行きます」の口調で読むこと。なに、ガンダムを知らない?)
(Maria)
Mr.Motoさん wrote:
>>単純に「(-_-X)」とか「(^_^;)」とかいった顔文字が入力できん、という話なのだろう。それは文字入力で半角アルファベットの入力方法を調べればいいのだ。
その通りです。(しかし、半角アルファベットの入力方法とは予想もしませんでした。)
> うぉおおおおおおお。自分のRESを読み返していて気がついた。ひょっとしてグルンサさんは「(^_^)」というのが一文字だと思っていたのか?
あ、違いますよ。さすがにそれはなかったのですが、ここでの顔文字スレッドを例に取ると、口に当たる短い横棒の入れ方がわからなかったんですね。(実は、おためし掲示板でもやってみたのですが、うまくいかずに諦めました。口入り顔文字は、レス[ログ?]として残しませんでしたが。)しかし言葉足らずな点、申し訳ありませんでした。
> じつは白くんの書込みをその直前(つまり自分の文章を読み返す直前)に読んでいて、「とはいえ同じ『わからない』でも、何を分っているつもりでいるのかによって説明も違ってくるのだよな」と感じていたのである。「普通の人」が「あたりまえ」だと思っていることが、我々にとっては全然「あたりまえ」ではないところに問題があったりするので、何かを「付け加える」ことで説明することでは説明にならず、逆に「ここんとこの点についてこう思ってはいまいか?」と「あたりまえ」の部分を崩してゆかないといけないということが、あったりするのである。
この点、同感です。また、No.10322の『電話を含めて(中略)だから書け。書くのだ。』のくだりは、よーく胸に刻み込んでおかねば、と思います。(本当はこれも、ここに引用したかったのですが、やり方がわからない…。初歩の初歩向けのPC入門書を探した方が早いでしょうか?)
いろいろご指導、ありがとうございました!(グルンサ)
けいさんへ。
I wrote:
>(私は、この点で不便を感じています、というふうに。)
「不便」→「困難」に訂正です。すみません。
本題から外れますが、オフ会でお会いできるといいですね。(実は私も、埼玉在住です。)
Milkyway wrote:
>Lingkoさん wrote:
>
>>「実践障害児教育1月号」を私は読んでいないのですが、幼い頃から療育を受けて来て、周囲の手厚いサポートの元に就労できている若い人たちの座談会をお読みになって怒りを感じられた方々、どうか、彼らを許してあげてください。小さいときに診断されたことも、療育を受けられたことも、彼らが就労にあたって周囲の理解やサポートを受けられていることも、療育の結果、対談ができるくらいに言語能力が発達したことも、彼らの罪じゃないんです。
>>その専門家の目的は、置き去りにされている人たちに、恵まれている人たちの姿を見せつけて、見せびらかして傷つけることというよりは、全体的なサービス水準を底上げしたいということの方がメインだったのじゃないかと推測するわけにはいきませんでしょうか。
私の母は、音楽家でもあるかたわら、某才能開発研究グループに所属しているのだけれど、私は幼少時代、そのグループの才能教育プログラム(主に音楽)を受けさせられていた時期がある。その内容というのは、けして「英才教育」ではないし、かといって必ずしも「障害児療育」を、主たる目的にしたものでもない。
ちなみにさわりだけ紹介しておくと、その研究機関の創設者が、若いころ海外で研修をしていて、「文盲」と呼ばれる人間でも、それぞれの母国の「話しことば」だけは、普通に教育を受けた者たちと同様に使いこなすことができる、この現象は世界どこでも共通である。これは一体どういうことなのか?といった疑問から発し、研究を重ねた結果「どの子も育つ、育てかたひとつ」という理念のもと開発され、今も世界中でこのプログラムが実践されているものだ。
私の言語の獲得は、比較的早い方で、ゼロ歳8か月のころ、ある日の朝、睡眠からむっくり起き上がって、「おっき〜(起きて、または起きたよ)」と、はっきりしゃべったそうだ。そのかわり運動能力のはったつは遅い方で、這い這いは一度もしたことがなく、シャッフリングの状態から、立ち、歩くまでは2歳を超えてからだったそうです。上記の才能教育プログラムでいえば、そんな私の場合、最も効果があったといえるのは、私の場合、「聴覚をみがくこと」だったんだと思う。
覚えているのは、教材のうち『たのしい英語あそび』という、“英語をリズムに乗って、からだで覚える”趣旨のカセットテープがあって、母がそれを与えたところ、それこそ毎日毎日一日じゅう、テレコにかじりつくようにして、聴きながら遊んでいた(正確には「あそぶ」という形で「教育」を受けていた、つまり「勉強していた」ってことなんだけど)。対人ゲーム型のものもあったけど、もとより私にはともだちがいなかったので、親が相手している時間のないときは、ほとんどすべてひとりきりでこなしていた記憶がある。
‘あい・ごー、あい・ごー、あい・ごー・とぅ・すくーる、ばい・ば〜す!(I go, I go, I go to school, by bus!)’
そんなリズムの感触が、いまでも私の中に残っている。
>「悔しい」だなんて浅ましい感情です。できれば持たないに越した事はありません。
>実際、そうありたいと思っています。
>「悔しさをバネ」にするという、良い使い方もできますが、私にはもうそんなエネルギーはありません。年ですから。
悔しいという感情は悔しいで、「それはそれ」って考えていくしかないんじゃないのかな。Milkywayさんという存在まるごとが、あさましように、卑しいようにできているから「悔しい」感情を持つようになったってわけでもないだろうと、私には思えるしね。知性を獲得していればいるほど、精神構造ってやつは複雑にやっかいになってきて、だからこそたとえば恵まれてる誰かのことを「悔しい」とか思ったりすることができるわけで。あとはそれをどう処理してゆくかってことだけじゃないですか。「悔しい」という感情を持ったことのない人間なんていうのは、私から見たら退屈なだけの欠陥野郎だなあ〜。
「幼い頃から療育を受けてきて、周囲の手厚いサポートの元に就労できている若い人たち」ったって、Milkywayさんはあたかもそういう連中に追い抜かれていっているかのようにお感じになっているということだけれど、彼らだっておんなじ。社会的に恵まれているといったところで、非自閉社会というものに免疫のない、それこそ「赤子の手を捻るような」単なるアホッタレであるという事実に、われわれと何ら変わりはしないのだから。一度、そいつらと勝負してみてぇよ、あたしは!(←何の勝負だよ(^_^;))ほんとうにうらやましい存在かどうか、この目で確かめてくるほかないんじゃないのかな、いくらおもてむき「きちんとしたシステム」とおぼしきもであろうと、結局どこだって人間関係というものの内部事情は、目も当てられないことに変わりはないのだから。どこもうらやましくなんかないの。ほんとうにご苦労様なことなんだし、理想化しすぎるほどのことでもない。
こんにちわ風呂糸です。
最近「わかってるのに出来ない脳」を読んで、
日本で、脳のSPECT検査をしてくれて、それをADDなどの検査に使ってくれる病院をさがしています。
以前僕も3軒くらい精神科を訪ねましたが、僕の外見とかを見て、テストなどもせずに医者から「あーキミは違うねー」とかいわれ、そういうアホな医者に1から10まで説明して理解してもらう気力も失せて「あーそうですか(-"-x)」と帰ってくる状態で、未診断です。
また主観などに左右されそうなテストなどでの判定よりも、動かぬ証拠の画像、写真などによる判定、と処方を期待しております。
僕は診断にはこだわりませんが、「わかってるのに〜」に書いて有るように、薬などで自分をサポートして、よりよい状態にもって行きたいと考えているので。
そんなわけで、どなたか知っていたら教えていただけませんか?
グルンサさん wrote:
> ↑上2つの顔文字スレッドをできる方は、方法を教えていただけないでしょうか?
I wrote:
> そもそも「顔文字スレッドをできる」というのが意味不明なのだ。「『アスペルガーの館の掲示板』で、過去に顔文字について話題になったスレッドがいくつかあったということは知っているのだけれどそれが見つからない。どうやったら見つかるのか教えてほしい」ということなのか? そうじゃあるまい。単純に「(-_-X)」とか「(^_^;)」とかいった顔文字が入力できん、という話なのだろう。それは文字入力で半角アルファベットの入力方法を調べればいいのだ。
うぉおおおおおおお。自分のRESを読み返していて気がついた。ひょっとしてグルンサさんは「(^_^)」というのが一文字だと思っていたのか?
そうではない。「(^_^)」というのは、「(」+「^」+「_」+「^」+「)」、つまり、開き括弧+ギュメ+アンダースコア+ギュメ+閉じ括弧でできているのだ。
じつは白くんの書込みをその直前(つまり自分の文章を読み返す直前)に読んでいて、「とはいえ同じ『わからない』でも、何を分っているつもりでいるのかによって説明も違ってくるのだよな」と感じていたのである。「普通の人」が「あたりまえ」だと思っていることが、我々にとっては全然「あたりまえ」ではないところに問題があったりするので、何かを「付け加える」ことで説明することでは説明にならず、逆に「ここんとこの点についてこう思ってはいまいか?」と「あたりまえ」の部分を崩してゆかないといけないということが、あったりするのである。
ADDというのも「不注意」「早とちり」「粗忽」「おっちょこちょい」「与太郎」と決めつけられやすいものだろうと拝察する。せめて予測能力と自己省察能力を鍛えることで対応しようではないか。ASも突発的な事態によってパニックを起こしやすく、「他人にどう見られているか」と判断するときに「他人」のイメージが現実の他人とはずれやすいので、そこそこ苦労はあったりするのである。だから他人事ではない。
とはいえ「気をつけてなんとかなるもんでもないから苦労をしているのだ」と言えばその通りなのだが。
(Mr.Moto)
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