アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
ご無沙汰しています。
Maria wrote:
>
> ……そうか、町内会っていうのもNPOなんだよな(-_-;)。
たれいぬも、先月、それをはっきり認識しました。今年、7年ぶりの自治会当番になり、資源回収を、手伝ったのです。きちんと、組織化していることは、うすうす知っていました(回覧版がまわるのでね。会費も集めるし)朝、指定場所に集まった見知った顔ぶれを見て、『私って、地元民(ジモチ─)だったんだわ!』と、再認識したのでした。
> 「始める以上は成功させなくっちゃ」とか、「自分が頑張らなくっちゃ」とか、そういうことをつい考えてしまうのですね、あたしは。ですが、これは自閉症方面の人間全般の傾向という気がします。
> だけど、「ちゃんとしている」ことはそれほど重要ではないんじゃないか、と最近になって思ったんですよ。
そうだとおもいます。
> 「外に向かって何かをする」が目的でなくてもいいように思います。ただ、自分たちの親睦や、情報交換でいいと思うんですよ。「つまりは自分たちのため」でも、「不特定かつ多数のものの利益の増進を目的とする」という主旨は、守られているように思うんです。「助けあい、支えあう」という、組織の中に向かっての活動でも、いいんじゃないかと。
>
> どんなもんでしょーか。
その通りだと思います。
必要とされるものは、存続するはずです。必要であるから、だんだんと、組織化せざるを得ない。個々人の負担を*均等*に分配するために。(均等とは、機械的に、『重さ』を振り分ける、のではなく、個々人の向き不向きまでもが、考慮された形で仕事が分担される事を、意味します)
話は、逸れますが、『二人で聖書を』は、たれいぬに、いわば「NPOの原点が何か」を、教えてくれました。そして、これが、支えとなって、『いま』を、動こうとしています。(ただ、宗教の側には踏み入れずに、医療のあたりで、踏みとどまりたいです)
遅れましたが、「発達支援室」なるものを、立ち上げました。(たれいぬは、手伝いですが)「発達共助連」という、NPO団体が、母体になっています。
ココの掲示板のみなさんや、Mariaさんが、イメ─ジしている形が、どういうものになるのかは、いまのたれいぬの目からはみえませんが、具体的に、足場となるところがあるのなら、そして、皆さんに、必要だという思いがあるのなら、けして、不可能ではない様に、思います。
そして、蛇足ながら、不必要であるなら、自然消滅したらよいと、おもいます。
(たれいぬ)
pocks wrote:
>精神保健福祉手帳制度は統合失調症(分裂症)を強く意識して作られており、取得基準からして発達障害とはかなり異なっている。
>不治の障害持ちである高機能自閉人の生活にとって、治療状況や本人の努力より、周囲の対応あるいは環境が受容的かどうかが決定的に重要である点が他の障害者とは質的に異なるので、QOL(生活の質)を判定の要素として重視した「自閉手帳」のようなものが望ましいと思われる。
私の答えはDです。やはり脳の機能障害を全般的にカバーするような感じの手帳のほうが、理にかなっていると思えます。
最近の医学の進歩で、「分裂病は心の病ではなく、ドーパミンという物質が脳の内部で過剰に放出されてしまった結果である」ということが明らかになっています。また知的障害は、染色体異常・分娩時のアクシュデント・ウイルスの感染などで、まだ発達途上ににあった脳の組織が壊れてしまった結果です。てんかんも脳の中で異常な放電が起こることによって発作が発生します。また頭のけがや脳卒中がもとで、分裂病のような恐慌状態になってしまったり、我々のように注意力がなくなったり・著しく不器用になったり・視認知に障害が起きたり・記憶が悪くなったりという後遺症がでる「高次脳機能障害」という障害がクローズアップされてきました。更には痴呆症も脳の機能障害です。運動機能が広汎的にやられる脳性まひ・ポリオもそうです。
脳が体にとってなくてはならず、かつ大変デリケートな組織であるにもかかわらず、その機能を喪失してしまった人たちの中には、偏見に苦しんだり・十分な援助を受けられない人が大勢います。我々もそうです。
もちろんそれぞれの疾病によって、望ましい支援のあり方は異なります。また、
「俺は…とはちゃうぜ!」という、プライドがある人がいると言うことも分かります。けど手帳というのは、あくまで「福祉的な支援を受けるためのパスポート」であって、「障害者の烙印」であってはいけないと思います。その点からも、できるだけ多くの人がためらわずにもてるものであるべきだと思います。
もちろん取得の是非には、本人の意向が十分に反映されるべきでしょう。
。
障害者手帳を持たない軽度発達障害者が障害者職業センターなどで
>受けられる支援は下記の通りです。
>
>(1)職業リハビリテーション
>(2)トライアル雇用
>
> 十分とは言えないかもしれませんが、今受けることのできる就労支援を
>最大限利用して、就労されることをお薦めします。
職業センターにいってるのにも関わらず大急ぎに工場やスーパーのバイトに行ってしまったので、
後で「上手くいかない!」と嘆いて親や職業センターを困らせています。
トライアル雇用があったのなら、急いでバイトに応募することはなかったのに....
後悔してます。
えー、人間マジメであるというのはときにマイナスであるというお話。
このところあたしは健康のために徒歩(かちあるき)というか遠足(とおあし)というか(あまりに古い)、長距離のウォーキングに凝っているのですが、先日江戸七富士詣りのルートである沢田・浅間神社→雑色・八幡神社→六郷・羽田神社→川崎・稲毛神社……と回ってゆく途中で、「町内会からのお知らせ」というのを見つけてしまったのですね。
それは、長年の懸案であった町内会館の建設にあたって、補助金その他を受けやすくするために、特定非営利活動促進法(NPO法)に基づいて町内会を法人化したいので、ついては役員・理事の選出をしたいのでお集り願いたい、みたいな話だったのですね。
……そうか、町内会っていうのもNPOなんだよな(-_-;)。
あたしは、いわゆる「非営利団体」のイメージに囚われていて、「町内会」というのが立派なNPOだということに思い至らなかったのですね。
じつは、NPOというのは、「不特定かつ多数のものの利益の増進を目的とする」ことを条件としています。ところが、対象者がたとえ限定されていようとも、その対象者への働きかけを通じて、社会全体への働きかけを目的としている場合で、その可能性が否定できない場合は、そのような団体は、「不特定かつ多数のものの利益の増進を目的とする」とみなすことができるのだそうです。
そんなわけで、あたしが主催している(過去形じゃないんだぞ)『PoP! セミナー』(オンラインの文章塾)も、じつは(「組織」であるかどうかは別にしても)NPOだったりするわけですよ。
そんなわけで、とりあえず集まって「NPO」として旗揚げしちゃうというのは、どうだろうか、と思うのですね。
『東京スポーツマン・クラブ』というスキークラブがあります。競技スキーのほうでは、けっこう有名な団体で、日本で最初のスキー・リフトを建設した(とはいえ進駐軍が蓼科に建設したのが第一号なんだけど)という歴史のある団体で、日本の競技スキーを牽引してきた団体なのね。現在の会長さんは、たぶんIOC委員の猪谷千春さん。
このクラブは、戦後間もなく、スポーツとしてのスキーがそろそろ認知されてきたころに、交通公社(JTB)がスキー・ツアーを企画して、それで土樽にある『国鉄山の家』(谷川岳登山のルートを開いた“ヒゲの大将”という名物男がいた)というところの二〇一号室に泊まった人たちが、「このまま別れるのはもったいない。このメンバーで、日本でスキーというものを振興してゆこう」というので旗揚げしたのが始まりでした。
それが、たぶん現在日本で最大の競技スキーの団体になっちゃったりしてるわけです。
「始める以上は成功させなくっちゃ」とか、「自分が頑張らなくっちゃ」とか、そういうことをつい考えてしまうのですね、あたしは。ですが、これは自閉症方面の人間全般の傾向という気がします。
だけど、「ちゃんとしている」ことはそれほど重要ではないんじゃないか、と最近になって思ったんですよ。
「外に向かって何かをする」が目的でなくてもいいように思います。ただ、自分たちの親睦や、情報交換でいいと思うんですよ。「つまりは自分たちのため」でも、「不特定かつ多数のものの利益の増進を目的とする」という主旨は、守られているように思うんです。「助けあい、支えあう」という、組織の中に向かっての活動でも、いいんじゃないかと。
どんなもんでしょーか。
(Maria)
今になって(←自分の特殊性,境遇を知った今)と観ている時期も重なって
「ああっ・・・,なんか重なる・・・」という映画がフラッシュバック。
・ジョニーは戦場へ行った
(↑これはかなり考えさせられた映画でした。)
・ブルース・ウィリス主演の「アンブレイカブル」
(↑徐々に自分が不死身の体を持っていてなんか違うことを確認していく過程が重なった 語音だとどちらかと言うと「アンビリーバブル」。)
・あんど、「シックス・センス」
(↑まさか自分が死んでいる人間だとは・・・と知らずに自分の意志を一人勝手に実行してる主人公の姿が重なった)
余談:
私は幼少期から映画は結構ちょこちょこ結構観ている方でして、昨日はゴジラを観たんですが(←父親の影響です)、ジャン・レノ主演の「ガジラ」←発音が違うね
とのスピード感の違いにちょっとたじろいでしまいました。。。背ビレの刺山がチカチカ光っているゴジラはどうみても「生き物」離れしている・・。あと、お目目がとっても可愛くて顎の造りはどうみてもカクカクしているようでもっと骨格から考えてデザインすればいいのになっ・・・と思ってしまった。ちょっと「恐竜」離れしているゴジラはしかし観ていると安心して楽しめるのでした。
そうそう、新潟県の水俣病・過疎化のお話「阿賀に生きる」も身にしみて観れたなあ。。。
付録話:ナスの歯磨き粉で歯を磨いているとイカ墨のようです。
てらばさん wrote:
>私には郵便局が全てだった。郵便局にいる間に全てを諦めれば良かった。
>もう1度郵便局で働きたい。でももう戻れない。
>
>精神障害者の作業所に通所したい。施設に入りたい。とにかく居場所が
>ほしい。
まずは情報提供のみをしておきます。
障害者であり、なおかつ郵便関係の仕事をしたいとなると、最も望まし
い仕事は社内郵便の仕事です。簡単に言えば、大きな会社に郵送されてき
た郵便物を区分し、あて先にある各部署に届ける仕事です。わたしが読ん
だLDの就労支援に関する本の中で発見したので、軽度発達障害者に開か
れた職業なのでしょう。
で、障害者手帳を持たない軽度発達障害者が障害者職業センターなどで
受けられる支援は下記の通りです。
(1)職業リハビリテーション
(2)トライアル雇用
十分とは言えないかもしれませんが、今受けることのできる就労支援を
最大限利用して、就労されることをお薦めします。
(参考文献)
梅永雄二『LDの人の就労ハンドブック』エンパワメント研究所
同 『自閉症者の就労支援』エンパワメント研究所
※付録として全国の相談機関なども掲載されている
てらば wrote:
>私には郵便局が全てだった。郵便局にいる間に全てを諦めれば良かった。
>もう1度郵便局で働きたい。でももう戻れない。
↑こういう意欲は大切にすべきだと思います。なかなか持ちつづけるのは、困難です。えらいです。
僕なんか、はなから一般企業だろうとお役所だろうと、「自分は絶対勤めるのは無理だ…」と心の中に固く結び目を作ってしまっています(+ヽ+)。
>精神障害者の作業所に通所したい。施設に入りたい。とにかく居場所がほしい。
これに関しては、主治医の先生・親御さん・兄弟・保健所の方とよく意見交換をして、考えたほうが良いと思います。
まだまだ『精神障害』に対する偏見が、わが国では根強く、「移転先を探すのに苦労した」「施設の建設に地元住民が反対している」という話も耳にしましたし、子供が可愛いと思う親ほど、「そんな施設に我が子を入れるのは嫌だ!」と思うものです。
Maria wrote:
>あさかぜさん wrote:
> 孤立型に関しては、はっきりしたことがいえません。退避・逃避・避難・退却・逃走といった意味があるのかもしれません。
私は「孤立型=感受性過多群」だと思います。
孤立型の人は光や音に敏感で、それらで参ってしまって、『嫌だ!』という意思表示をすることすらできなくなってしまっているのだと思います。
入力バイトでまた失敗してしまった。
私には郵便局が全てだった。郵便局にいる間に全てを諦めれば良かった。
もう1度郵便局で働きたい。でももう戻れない。
精神障害者の作業所に通所したい。施設に入りたい。とにかく居場所がほしい。
“自己不全感”に目覚めよ。
み仏のお育て受け摂るべし
自力の偏重は罪悪。
共に在る喜びを,糧とするが義務。
節制は正しいが,過度の禁欲を自他に強いるは災い。
>私なんか、散歩したり花を見たりしてる資格ないよなー。
↑ 誰がいじめるんだ?
あさかぜさん wrote:
> 研究者がなぜ積極奇異と受動という分類を用いるようになったのかは知りません。外側(非・自閉者側)から見て“そういうふうに見える”というのではなく、根本的に明らかな違いがあるということなのでしょうか……。
> わたしは子どもの頃から青年期までを考えてみると、積極奇異に分類されると思います。が、現在は受動型をやっているんですよ。本質は変わりません。
積極奇異と受動の型は変化する、あるいは変化させることができると、自分では思っています。循環すると言ってもいい。環境に左右されるという感じがします。
> ことばとして積極奇異型あるいは受動型の意味を考えることのできる高機能の自閉者には、あまり必要のない分類だという気がします。二つに分けてしまってそれをマーカーにするというのは、精神の安定を図るにはいいかもしれません。(自分はどっち寄りだ、というような感じにね)が、積極奇異のほうが社会性に関してより深刻な問題をかかえると思うことは、わたしにはできません。
> 実は↑ここのところが、わたしにとっては理屈で説明できないところなので……多くの方のご意見を伺ってみて、すっきりさせたい部分でもあるのです。
あたしは「積極奇異型」と「受動型」を、「主体性を踏みにじられた人間が相手に抵抗している」のを、「無自覚に主体性を踏みにじっている相手」が観察した結果、相手の反応を二種類に分類したものだと思っています。
たとえば、「言うことをきかないと、殴る」という人間がいるとします。で、命令され殴られている人間は、命令に逆らえば殴られ、命令に従えば「“殴る”ことで相手をコントロールすることができる」と命令する側が学習すると思うわけです。こういうとき、命令され殴られている側は、どう反応するか?です。
1)殴られると動かなくなる。そのまま死んでもそっちのほうがマシ、と思う。
2)殴られると、相手が予想してないか、あるいは相手に不都合な行動に出る。馬鹿や気狂いのふりをして、相手を面喰らわせる。
つまりは、こういうことなんですね。
たとえば、しつこくやってくるたちの悪い宗教の勧誘にどう対応するか、みたいな場合。
田舎のほうだと、その地域全域で影響力のある宗教団体というのがあったりします。職場でも近所付合でも、その教団の人との付合いを断わることができない。
で、そういう土地で身内に不幸があったりすると、そういう家とかを狙って、地縁血縁商売上の取引関係その他いろんなコネを伝って、入れ替わり立ち代わり入信を勧めにやってくるのですね。つまり、弔問だとかお見舞いだとかを名目に、本当にしつこくやってくる。で、「おたくに不幸が絶えないのは信仰心が足りないからだ」とかいって圧力をかけてくるのだな。これでほとんどノイローゼ状態になっちゃう人は少なくありません。とはいえ、仕事上どうしてもそこから離れられない事情があったりすると、引っ越す訳にもいかない。
で、こうなるともう玄関のインタフォンを外し電話器の線を引っこ抜きひたすら閉じこもって玄関に誰が来ようが無視する、みたいなことになってしまう。だけど、そうやって閉じこもってしまうと警察や消防署に通報をされたりして(これも相手の作戦のうちなのだな)、むりやりにでも外部との接触を断てなくされてしまう。職場では同僚に責められ、上司には睨まれ、みたいなことにもなりかねない。
これを引きこもりの子どもの例でいうと、子どもがとりあえず外の世界と距離を置こうとしても、教師だとか学校の友達だとか医師だとかカウンセラーだとかがやってきて、迎え入れるとその背後には親の思惑がからんでいたりするのだな。
こうなると、「誰も信じられない」みたいになってしまう。そんなわけで、物理的にどこかの場所に閉じこもるのではなく、精神そのものを閉じてしまってただの物体のようになってしまうわけです。これが要するに「受動型」のような気がします。
これに対して「積極奇異型」は、相手を「よくいらっしゃいました」迎え入れておいて、敵意を隠しつつ相手を懲らしめる、ということをするわけです。だからこそ「奇異」になるのですね。
ところが、「受動型」にせよ、「積極奇異型」にせよ、そうした態度を取っていると、干渉を断ち切りたい相手以外の相手との干渉も断ち切らざるを得なくなってきます。たとえばの話、他の人と親しくしていると、こんどはそっちにとばっちりが行く。あるいは、「積極奇異」の部分が自分に対する抵抗だということがわかってしまうと、今度は悪意を向けられて苦しむことになる。
似たような状況で、犬がノイローゼになってしまうことがあります。飼い主は自分や自分の親しい相手には、犬が尻尾を振ることを望んでいます、逆に、自分の嫌いな相手には牙を剥いて唸ったり吼えたりすることを望みます。
とはいえ、親しい相手とはいえ、犬が自分よりも相手に懐いたりすると嫉妬します。だから、そうなると犬には唸ってほしい。とはいえ、犬を相手にけしかける訳にもいかないので、犬は相手を威嚇し、自分はそれを叱る、ということを望みます。それは自分の嫌いな相手に対してもそうで、人間対人間の社交のレベルでは親密さを装いたいのだけれど、犬に対する命令としては「攻撃」「威嚇」であり、それに対して飼い主は犬を叱る、というねじれた関係ができあがってします。
そうすると、犬は「攻撃/威嚇せよ」という命令(深層レベル)と「攻撃/威嚇をするな」という命令(表層レベル)の両方を受取るという、ダブル・バインド(二重拘束)の中に置かれてしまうわけです。その結果、無気力・無抵抗になって人間に関心を向けることがなくなる(受動型)か、飼い主を含めて誰彼無しに咬みつく(積極奇異型)のどちらかになってしまいます。
ソフトウェア開発の世界の派遣業務では、客先の上司や同僚やユーザに義理立てすると、自分の会社から睨まれます。派遣先で引き抜かれることは珍しくないし、派遣する側としては、なるべく仕事を出し渋り引き延ばしたほうがお金がよけいに取れる、というメリットもあります。
とはいえ、客先の機嫌を損ねるわけにもいかないので、派遣する側の会社とはいい顔をしたいのだけど、派遣されている人間がなってないのだ、という形にしたかったりします。
その結果、派遣プログラマーは組織の力学だとか人間関係だとかいったことに頓着せず、仕事だけにしか興味のない、世間知らずな技術馬鹿、つまり“ Nurd ”な人間として振舞うことを覚えます(積極奇異型)。でなかったら、覇気がなくて言われたことしかやらない愚鈍で無能な人間として適当に仕事をこなすだけになっちゃうか、です(受動型)。
孤立型に関しては、はっきりしたことがいえません。退避・逃避・避難・退却・逃走といった意味があるのかもしれません。
(Maria)
こうもりさん wrote:
> 以上のことから、この分類自体は支援関係者は必ず知っておいた
>方がいいと考えています。もっとも、障害を自覚している自閉者は
>その時点でこの類型には当てはまらなくなっていると考えていいで
>しょう。
わかりやすい説明をしていただいて、ありがとうございました。
この掲示板にせっせと書かせていただくようになってから、わたしは読解力に難があると気づくことができました。論理的思考能力も低いほうなのです。ことばの解釈も自己流というか、“わたしが法律”的なところがあって、娘もしっかりその血を受け継いでいます(苦笑)
きのうの書き込み後にさらに考えてみたら、わたしは積極奇異型であったし、本質は変わらないと思っているので、分類としてはやはり積極奇異型なのでしょう。(うわわわ、文章表現能力の問題がよくわかりそうな文章だ!) 娘は受動型です。そして……わたしが最も恐れていた“自己不全感”を持ち始めています。
なんとかしなけりゃ、なんとかしなけりゃ、どうすんべー、が毎日の持ち歌みたいに頭の中で響いている、あさかぜでした。
(結婚生活がここまで苛酷だったとは……笑うしかないな。笑おう! はははははのは)
ようやく雨が降った。
〜
〜 〜
lJl
(^O^)
あさかぜさん wrote:
> 積極奇異型と受動型という分け方に何の意味があるのか?
一般的に多くの人が自閉症としてイメージしているものは、この
類型でいう孤立型です。積極奇異型や受動型という類型がないと、
多くの自閉児が見落とされてしまうのではないでしょうか。わたし
自身、3才児検診で自閉の疑いをかけられながら診断されなかった
のは受動型で他者からの話しかけには鈍いながら反応があったため
です。この類型が日本では知られていなかった時代にはこの手の診
断漏れもよく起こったのでしょう。
余談ですが、就学直前の母と保育園の保母さんと園長先生のやり
とり。
母 「この子を学童保育に預けることはできるでしょうか」
保母「身辺整理や施設への移動ができないので、難しいと思います
。」
園長「(2人の話をさえぎって)何を言っているんですか!!この
子は確かに鈍いところがあるけど、とても品がいい子じゃあり
ませんか!!」
多動のないADD児と同様、受動型自閉児は裏問題児化してしま
う危険性が極めて高いと言えます。
以上のことから、この分類自体は支援関係者は必ず知っておいた
方がいいと考えています。もっとも、障害を自覚している自閉者は
その時点でこの類型には当てはまらなくなっていると考えていいで
しょう。
横レスですみません。
Lingkoさん wrote:
>私、この専門家のことは知りませんが、第一印象は、「あ、親向けの告知
>スタイルが身についてる人なんだな」という感じを受けました。
>
>それも、「この子は自閉症じゃないと言ってくれ」「ちがうと言ってくれ
>」とすがるような思いで子どもを連れてくる親御さんに、「自閉症って、
>そんなに恐ろしいものとは限らない、鬼でも蛇でもないんだから」と説明
>するのには向いた言い方だからです。
そう言えば、検査を受ける時の資料を請求しに行った病院で対応した医
師(子供の頃に対応していただいた医師とは別人)がまさにそんな対応で
した。こちらは単にその病院に残っていた幼児期の検査記録を請求しに行
っただけなのに、質問と請求には答えず、「君は普通に見えるよ」とか「
大学院まで行って、塾の講師をしているんだろ?」とか、的外れに聞こえ
る話ばかりしてくるので、ちょっとキレかかっていました。あやうく激怒
型の兄貴が出現しそうに…。
で、本人や親御さんの中で障害を認めたがらない人は確かに多いらしい
ですね。本人やご家族が障害を認めなければ様々な支援を行なうことがで
きなくなる」と悩んでいる専門家の話を聞いたことがあります。
>でも、これからはどんどん「そうだと言ってくれ」の人も増えてくるだ
>ろうし、受ける側にも、早く「そうだと言ってくれ向きの対応」を開発
>して、覚えてもらわないといけないと思うんですよね。
自分が軽度発達障害者であることがモチベーションになっているわた
しにはまさに必要な対応でした。「君のは個性だよ」と言われた時は、
被植民国Bの人間が植民国Aの人間から「今や君はどこからどうみても
A国の人間だよ」と言われたぐらい不快さを経験しました。わたしは生
き延びるためにA国の文化や風習を身につけなければならなかったが、
A国の人間になったつもりはない。また、A国の人間に似た部分を持っ
ているからと言って、なぜそのことを誇りにしなければならないのか理
由が分からない」てな感じで。
>私なんか、散歩したり花を見たりしてる資格ないよなー。
いえいえ、休める時はゆっくり休んでください。この問題は一人で
背負わなければならない性質のものではないし、背負うことができる
ものでもありませんから。
>1.あなたはAS・LD・ADHDなどの軽度発達障害者には、障害者手帳が
>必要だと思いますか?
取得希望者は取得できるようにするのが望ましい。
(取得しない自由も保障する)
>2.手帳はどのようなものが良いですか?
> C.軽度発達障害者専用の手帳が欲しい。
精神保健福祉手帳制度は統合失調症(分裂症)を強く意識して作られており、取得基準からして発達障害とはかなり異なっている。
不治の障害持ちである高機能自閉人の生活にとって、治療状況や本人の努力より、周囲の対応あるいは環境が受容的かどうかが決定的に重要である点が他の障害者とは質的に異なるので、QOL(生活の質)を判定の要素として重視した「自閉手帳」のようなものが望ましいと思われる。
>3.障害者手帳というものは、種々の行政が行う福祉サービスを受けるための
>パスポートになるものです。そこで質問です。
> あなたは行政側が軽度発達障害者に行う支援として、どのようなものを
>望みますか?
自閉人に治ることを要求するのは、盲人に「見る」ことを強要するがごとき無理難題であることを承知していない非自閉人があまりに多くて辟易しているので、そのことを周知する作業が一つ。(自閉人側がこれを言っても、「わがまま」とかの印象を持たれて終わるだけなので、行政等の権威で周知する必要がある。)
もう一つは、我々に合わせた勉学や仕事の場を保証すること。
武田好史 wrote:
>てらば wrote:
> 例え単純労働でもどんな仕事でもいいから、自分の腰を下ろせる場所が欲しい。
それならば、「精神障害者小規模通所作業所」を探すと良いかもしれません。
もよりの保健所に問い合わせてみてください。これは「精神障害者保健福祉手帳」がなくても利用できる施設で、作業訓練・生活訓練をとおして、精神障害の方たちの社会復帰を目指そうという施設です。
ただやはり相性というものがあり、あおび君のような失敗をしないためにも、最低3ないし4軒は見学して、記録を採ってよく比較検討したほうが良いと思います。特にASの人はは念入りに静かさや清潔さ…話し易い指導員がいるか・生活がマンネリ化しないかということを吟味したほうが賢明といえます。
僕は3軒見学して、ようやく『気に入った!』と思える作業所を発見することができました。
でも遠いーッ(〜_〜+)自転車で40分かかる…
よし(陽疾) wrote:
>みなさん、こんにちは!
>武田好史 wrote:
>
>>こんなのはどうでしょう。
>>うめ もも アーモンド さくら りんご
>
>1.アーモンド(種を食べる、唯一カタカナ表記、加熱して食べる、果実酒はなし、ジャムは作れない)
>2.うめ(加工食品として食べる)
>3.さくら(食品の名前でなく、花の名前)
>
>こんなもので、どうでしょうか・・・・。
もう一声!
4.りんご…他の4つは、実の真中に実(さね)と呼ばれる硬い部分があるけど、りんごには存在しない。
みなさん、こんにちは!
武田好史 wrote:
>こんなのはどうでしょう。
>うめ もも アーモンド さくら りんご
1.アーモンド(種を食べる、唯一カタカナ表記、加熱して食べる、果実酒はなし、ジャムは作れない)
2.うめ(加工食品として食べる)
3.さくら(食品の名前でなく、花の名前)
こんなもので、どうでしょうか・・・・。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami