アスペルガーの館の掲示板(旧)
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答えを知らないので、解答してみます。
>(2)質量(kg、キログラム):
>1[kg]= 国際キログラム原器の質量
ではないでしょうか?
だって、他の単位は誰が計算しても誤差が生じない、
不変の物を基準にしているように思えますが
「国際キログラム原器」って、これが壊れちゃったらどうしよう!
変質して、腐っちゃったらどうしよう!
困るじゃないか。
そう思ったんです。答えが楽しみです。(^^)。
頭上を漂う
白い煌めき
眩しくて
足がすくむ
影に優しい
光はあるの?
影と光は
触れられるの?
融かさないで
消さないで
追わないで
光の下で
隠れることなく
一人で立ちたかったのに
http://plaza.rakuten.co.jp/minstrel/
スマイリーさん wrote:
> Mariaさんは、どうしたら、本当の意味で「制服検査」な社会を大きく変えられると思う。
あまり関係のない話ですが、あたしが卒業した高校には「制服」がありませんでした。聞けば都立高校には「制服」というものはないのだそうです。正しくは「標準服」。同時に「校則」というものもありませんでした。正しくは「学生生活の指針」。
で、学校側もそういう「立前」にのっとって学生の自主性を尊重し、学生は学生で自治のシステムを自ら構築していました。学校は荒れなかったし学生も適当に息抜きをしてたし、わりとうまくやってたと思うのね。
まあ、うちの学校は親や教師の中にOBがいっぱいいて、「校風」というものができあがっていたから、というのもあるんだけど。
形骸的な伝統主義・形式主義を排するいちばんの方法は、「目標をはっきりさせること」です。あるいは、「進むべき方向を見出すために足掻く」ことです。「必要なもの」と「邪魔なもの」を区別するためには、なんらかの価値なり目的なり方法論なりが必要です。逆に、「自分にとって何が重要で何が重要でないか」が分かれば、おのずと必要なものと邪魔なものの区別がつくということです。
「服装は清潔を旨とすべし」「学生はその本分を忘るるべからず」。校則なんてこの二つくらいで十分、という気がします。
> お姉ちゃんは記憶がぶつぶつ切れているから、自分のクラスメイトや子供の頃の思い出もあまり無い見たいなんだ。それを隠すために、「自分に記憶があるかのように」一生懸命はなしているんだけど、どうもほんとに無いみたい。
> あるとき「向き合ったら、私はもう二度とこっちの世界に戻れないっ」ていうようなこと叫んだことがあった。お姉ちゃんのことを思うと、苦しくて、涙が出るよ。
>> 乖離性障害(「ヒステリー」と昔は呼ばれていました。精神的な問題が肉体的な症状として出るものです)とか、自己同一性障害(多重人格など)を起こしている可能性があります。
> そのこと、もっと詳しく知りたい。教えて。
> 実は私自身も全部で五人くらいいる気がするの。でも演じているんじゃない。
> そのときは、自分そのものなの。違和感が無いんだ。
> 全員価値観が違っていて、問題の対処の仕方も違う。
> 書く文字まで変わる。でも全部自分なの。記憶があるから。
世間で「ヒステリー」と呼ばれているものは、「ヒス」(きしんでキーキーいうこと)のことです。医学用語としての「ヒステリー」というのは古代ギリシャの頃からある言葉で、概念として整理されたのはユング以降です。
「自分のものとして受け入れるのがつらいこと」というものがあります。そういうものが無意識の中にしまいこまれていると、それが出口を求めて暴れるのね。で、自我はそれが意識の中に出てこないように、無意識の中に押し込もうとします。これが、「抑圧」と呼ばれる検閲機構です。
これに対して、無意識をつかさどるエスは、なんとかそれを吐き出そうとして、自我が見張っていないところからそれを表(行動)に出そうとするのね。そうした、「自我の統制の及ばないところから慾動(フラストレーション)が吹出してくること」を、「ヒステリー」、あるいは乖離性障害といいます。目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったり手が動かなくなったりといった症状として出ることが多く、いわゆる「心身症」との区別が難しい部分もあります。
自己同一性障害というのは、それ自身が自我を押しのけて別の人格として立ちあらわれる多重人格が代表的ですが、自分のやっていることが「自分がやっている」感じではなくなっちゃう「離人症」、自分以外の何者かにあやつられているような「被動感」、自分以外の何者かが自分の身体を乗っ取って動いているような「他動感(人狼化現象。リュカントロピー。バーサークとも)」なんていうものもあります。
> この間、五人で交代しあって、紙とペンを使ってロールプレイングみたいに話し合った。
> そしたら、みんな「傷つきたくない」し、五人が協力して「家族で支えあう」必要があったって、それぞれが言っていた。
> でも、ビリー・ミリガンのようなのとは、ちがう気がする。スポットに出るという感覚はないし、記憶もなくしたりしない。暴走することもない。
>
> もしもそうだとしたら、今の五人のままじゃ、まずいのかなぁ。いつか問題が起きるかなぁ・・ でも全部が自分なの。そして私の家族なの。誰も消したくない。
> でも問題なら、そうするしかないよね。
えー、たしかソクラテスだったかな? 「無知の知」ということを言ったひと。あのひとは、そうした別人格を“daemon”(ギリシャ神話に出てくる精霊)と呼んでいました。これはけっこう便利なものです。これが“demon”(ラテン語で悪霊)になっちゃうと、病気の原因になったりして困りますので、うまく飼い馴らしてください。
“devil”(ギリシャ語で「悪口を言う者」)というのがいて、掲示板上のディスカッションなどで「悪魔の代弁者」として知られる役割を果たす善良な“devil”もいたりします。うちのMotoちゃんやあたしの別人格である黒Mariaというのが、これ。自分の中のあんまり向かいあいたくないドロドロのようなものを預かってくれる、便利な存在です。
>> どんな仕事にも「全人的な素質」が要求されるわけではありません。機械で置きかえることのできない単純作業なんていうのもけっこうありますし。
>> ただ、そういう仕事を得ることの難しさは確かにあります。そういう仕事を提供するシステムは必要だと思っています。
> このコメントはなんだかビル・ゲイツの志向に似ている気がした。
> うわさには聞くけど、やっぱり彼もMariaさんの仲間だね。
あたしはあのファッキンな請求書野郎(Bill)が大嫌いです。
> 「利益・不利益の必要性」ではなく、「感情的な必要性」や「愛」(隣人愛)でつながっていたいよ。もちろん半分くらいは損得も、考えなきゃいけないけどね。
澁澤栄一翁は、「金は商売の残り滓である。こだわるべからず」と言いました。
あたしはビジネスの本質はメディアであると考えています。「生産者と消費者の間に、望ましい循環を作りだすこと」があたしにとってのビジネスです。
大森総研が過去に開発したもののひとつとして、『総研文法』という日本語文法があります。これ、“rStone-JE”という電子辞書に使われたんですが、これによって日本語の漢字かな交じり文をガバッとセレクトすると、そこに使われているすべての単語が瞬時に辞書引きされてリストとして並ぶ、ということが可能になりました。
あたしたちは、「こんなもん産業翻訳とかやってる人以外に使う人がいるのかいな」みたいに思っていたのですが、マレーシアやシンガポールや香港のユーザから、「本当にありがとう」というたどたどしい日本語のお手紙を貰ってちょっと感動してしまいました。つまり、漢字の読めない(まあ、中国語圏だから音読みはできるんだろうけどさ、それでも日本語の音読みとはだいぶ違うわけです)ひとたちは、国語辞典というものが引けないわけです。ところが、rStone-JEを使えば、読みと意味がたちどころにわかる。辞書引きの手間がもう何十分の一かになるわけです。
あるいは、聴覚障害者の人からも同じような感謝のお便りが来ました。視覚障害者の人からは、「自動点訳に使えないか」という問い合わせが来ました。
携帯電話のメール機能やバイブレーション機能は決して聴覚障害者のためにつけられたものではないでしょうけれど、それは確かに恩恵だったりするわけですよ。
需要と供給が適切に結びついたとき、そこに愛は生まれる、とあたしは考えています。
(Maria)
こちらこそ、とても嬉しいです。
会えてよかった。
なんだか私の特徴ととても近そう。
すもも wrote:
>どれもとても納得できました。
>わたしも、ハイパーで人が大好きでいろんな物に興味があって…と言う自分と
>うまく人と接することができなかったり、興味も限定されたり、
>と言った自分がいます。他にもいろいろありますけど。
あーそうなんだ、良かった。私だけじゃないんだね。
それだけで心救われる思いです。
>良くあるパターンは、
>好奇心にまかせてあるグループに飛びこんだ後
>「しまった。また人付き合いの輪を広げてしまった…」と
>恐怖するというものです。
あ、それ、高校までのわたし。
私の場合はね、自分に対する自己イメージが低かったから、いつも偽者の自分を演じていないと受け入れてもらえないって気持ちがあったの。
だから、せっかく向こうが好意をもっても、心から受け入れてもらえている実感がわかなくて、好意から仲良しに発展させることに意欲わかなくて。
変な話、皆に仲間に入れて欲しい一方、思われたくないし、壁作って仲良くしたくないみたいな・・。普通の仲良し関係に重荷も感じていた。
「自信を育てる心理学」ナサニエル・ブランデン著
を読んで、努力の歯止めをかけていた、低い自己イメージからちょっと逃れられたよ。自分は自分でいい。その自分をもう一人の自分が受け入れられるようになったときに、人付き合いは「・・しなきゃいけない」というものから、逃れられたみたい。あと一つは、自分とそっくりな前の仕事の上司との出会い。
彼女はみんなから受け入れられていたし、特徴も強烈にでてたけれど、それを差し引いても、みんなから好かれていた。自分の特徴以上に、いい部分が発揮できれば、ひとっておかしな自分のまんま案外受け入れるものなんだ。・・って学べた。・・まだ問題はいろいろあるけどね。
すももさんの恐怖のわけは、私のものとは違うかもしれないけれど、もしもそうだったとしたら、本と、適応している人で一生懸命に生きている手本みたいな人を捜すのも、ひとつの助けになるんじゃないかしら。
>でも、人付き合いが限定されっぱなしだと
>退屈してきます。
そうそう。そうなのよ。
新しい刺激がないとだめなんだよね。
友人達も、「自分のテリトリー」のなかで「常に何らかの目新しさ」がある仕事についています。新しい商品が毎回入荷されるとか、メリハリ・・静と動があることが共通した条件みたい・・。地味さと派手さとか、ね。
じゃないと、スイッチが入らない。白昼夢にはいって、無能になる。
>私は他人が悲しんでいると
>「なぐさめてあげたい」と言う気持ちは起こるけど、心は空虚です。
>というか、もしかしたら
>私の場合、怒りや喜びの感情は、普通より感じやすいようなので
>「この人は落ちついいてて良いなあ」と思っている人が多いのですが
>それで、他の人が見せる爆発的な感情に
>逆に戸惑ってしまうのかもしれません。とか、今思いました。
もしかしたら、その両方なのかもね。
わたしもときどき空虚になってしまうこともあるよ。(笑)
でもそういうときは大概「あれ。この人の感情は筋が通ってない・・」というとき。それはもちろん他の人もそう見たい。でも感情をなだめるために、分かったふりをするときもある。あんまりしすぎると「八方美人」と評価を受ける。(笑)
やっぱり、人は自分の経験から推察して相手の感情を察するから、普通のひとも自分が経験したことのない感情には共感できないよ。(笑)
感情が生まれてから分かったことなんだけど、理屈的にかつ抽象的に言えば、感情は「放出するエネルギー」のようなもの。ということ。「気」みたいなもんかな・・。その流れを読んだり、方向を変えてやったり、そのエネルギーを高めてやったり、そのための行動が「慰める」、ということであったり、「励ましてあげる」、とかいったことであったり・・そういうのが他の人たちが築き上げてる人間関係なんだよね。
こんなことみんなは感覚的に自然に分かっちゃうことだから、言葉で説明なんかしないんだろうけれど、まぁ、そんな感じ。
「友だちとの交流」は「気」のやり取り。「気が合う」とかいうじゃん。
「気」が合う人とは、自分の気と相手の気とがうまく交流できて、与え合っているということ。いつも同じ人と「気」やり取りしていると、そのうち「気」はよどんでしまう。だから、「気」の入れ替えをしなきゃなんない。他人の「気」を取り入れて自分の物にしていくことで、バラエティあふれるひとになれそうじゃん。
強い感情は「強いエネルギー」。私の場合、それをどう治めるかってかんじかなぁ・・強いエネルギーをどう消化させるか。そういうのってもう弱い言葉じゃ、治められない。焼け石に水。多少のものなら、話を聞くということで吸収することもできるけれど、強いエネルギーを吸収するにはこっちもそれだけのエネルギー許容量ってのがあるからね。超えればこっちも疲れきっちゃうじゃない。
「泣かせる」というのも一つの方法だし、「スポーツ」で発散させることもできるし。感情が分かれば方向性やエネルギーの種類もわかるけれど、そのへんは頭で計算するよ。
普通の人も意外にへたくそ、だよ。そういうのは。
「おいおい、そこでそんなこといっちゃあ、あんた・・」ってよく思うもん。共感とはべつものの「気」を読むということは、もう動物的なもんじゃないか、と思うわ・・。猫とかさ、うちの人がけんかしそうな雰囲気だといつの間にか、さとってどっかにいなくなっちゃうじゃん。猫は「気」を読んでるんだと思う。(笑)
>きっと、スマイリーさんにそれを話したということは
>お姉さんも「へんだな」とはなんとなく思っていらっしゃったのでしょうね。
>わたしもよく心の片隅に引っかかっているものがあります。
あ、そうそう、そのとおりなの。
姉もそういってたよ。
>わたしのパートナーも
>なんとなく特徴のある人です。
>友達は音楽関係の人が多いので、変わった人が多く話しやすいです。
>
おぉ、パートナーがいるのかっ
ええのぅ・・
>行きたい時に、あなたも行きたいなら一緒に行きましょうという関係です。
>でも、本質的にやさしい人ばかりです。
そうそう自分も不器用だから、相手の不器用さも許せるんだよね。お互い許しあえる。そういうのが伝わるから、会うとやっぱこいつ、好きなんだよなって思える。
>スマイリーさんは普通の男の人が好みなんですか?
>わたしはやっぱり変わった人が好きです。(笑)
普通の男が好きなんだ。だっていろいろ修正してくれそうじゃん。私は私の至らないところを、助けてくれる人がいいなぁ・・
だけど、私の選ぶ人はみんな変わっているらしく、「えっなんであいつがいいのっ」て普通の人たちは顔をしかめる。それで、私も「・・・そうかも・・。」とかね。あと、同じことができなかったりするわけよ。デートしてると。
そうすると、わがままなことに、自分も出来ないくせに、「なんつー頼りがいの無いやつぅっ」と頭突きを食らわしたくなる・・という・・。
で、けんかするのよねぇ・・ほほほ。
しかも意外と相手があっさりしているから、それも不満になる。(自分があっさりしているくせに、アツイ感情交流したいときに答えてくれないと飽きる。)恋人には自分に無いものを求めるのねェ・・
だから理想は、私の出来ないことをできる人。で、相手が出来ないことを私がしてあげられる人。でもって、したいときに感情的なアツイ交流ができる人。日常の何気ないことに、一緒に感動できる人。(あぁ・・自分勝手。)
あのね、あたし、猫にそっくりなの。ほんっとに。
猫の行動パターンや習性やら、感情やら、もうほんとぴったり。
人につくより家につく、またはそのひとのもつ空気につく、みたいなとこも。
私が猫だとしたら、納得いくのよねぇ・・・
そういえば、過去を振り返ってみると猫好きな男が多かったわ・・
くそぅ・・なんて偶然・・。
あたしは「ムツゴロウさん」のような男はごめんよっ
きぃぃぃっ
SI単位系(国際単位系)では7つの基本単位と2つの補助単位(角度)が定義されていて、その他の単位はこれら9つを組み合わせて作られる組立単位になります。
(1)長さ(m、メートル):
1[m]= 光が真空中で1/299792458[s]の間に進む距離
(2)質量(kg、キログラム):
1[kg]= 国際キログラム原器の質量
(3)時間(s、sec、秒):
1[s]= 133Cs原子の基底状態の2つの超微細準位(F=4,M=0およびF=3,M=0)の間の遷移に対応する放射の9192631770周期の継続時間
(4)電流(A、アンペア):
1[A]= 真空中に1[m]の間隔で平行に置かれた、無限に小さい円形断面積を有する、無限に長い2本の直線状導体のそれぞれを流れ、これらの導体の長さ1[m]ごとに2×10^-7[N]の力を及ぼし合う一定の電流
(5)温度(K、ケルビン、ケルヴィン):
1[K]= 水の三重点の熱力学温度の 1/273.16
(6)物理量(mol、モル):
1[mol]= 0.012[kg]の12Cに含まれる原子と等しい数の構成要素を含む系の物質量
(7)光度(cd、カンデラ):
1[cd]= 周波数540×10^12[Hz]の単色放射を放出し所定の方向の放射強度が 1/683[W/sr] である光源の、その方向における光度
(補1)平面角(rad、ラジアン、ラディアン):
1[rad]= 円の周上で、その半径の長さに等しい長さの弧を切り取る2本の半径の間に含まれる平面角
(補2)立体角(sr、ステラジアン、ステラディアン):
1[sr]= 球の中心を頂点とし、その球の半径を1辺とする正方形に等しい面積を球の表面上で切取る立体角
(組立単位の例)
速度:1[m/s]= 1[s]に1[m]進む速度 = 1[m]÷1[s]
さて、ここで問題です。
これら9つの基本・補助単位の中で、工学の立場から見て最も定義が不合理であって、まっ先に定義の見直しをしなければならないのはどれでしょうか?
正解は数日後。
(答えを知っている人は、しばらく書くのを我慢して下さい。)
Maria wrote:
> 「メートル」には、「単位長さとしての1メートル」と、「単位系としてのメートル系」というものがあります。上の話は「単位長さとしての1メートル」を元にした議論なのね。
なるほど、どこに違和感を感じたかが分かりました。
それともう一つ気付いたのは、
> 『われわれが‘メートル’というのは、メートル原器の長さである。ふつうはこれを m で表わす。
ふつう m では表さないんじゃないかな、ということです。
数字と組み合わせずに m 一文字でという意味ですが。
さきほどの自分の書込みを見ていて、「ちょっと失敗したかも」と思っています。
> メートルの2倍は−いま述べた記法によれば−
> 2m または m×2
> と書かれる。しかし、小学校では、あとの書き方を許さない。
> この長さの3倍は、
> 3(2m) または (m×2)×3
> と書くことができる。しかし小学生たちは、
> 2m×3
> と書くことを強制されている。この書き方は‘混合式’である;2は左から掛け、3は右から掛けている。
田村二郎『量と数の理論』(日本評論社)
「メートル」には、「単位長さとしての1メートル」と、「単位系としてのメートル系」というものがあります。上の話は「単位長さとしての1メートル」を元にした議論なのね。
ところが、「単位系としてのメートル系」という観点からいうと、メートルの2倍は
1+1(m)
の言い換えとしてしか、
1×2(m)
と書くことができないように思います。したがってこの長さの3倍は、
2+2+2(m)
と書く以外になさそうに思います。
こうした「掛け算」というのは、「測定」、つまり、「ある長さを元に、他の長さがその何倍であるかを調べる」という手続きを教えてからでないと、教えることができません。
これとは別に、「個数×1あたり量=量」とか、「長さ×長さ=面積」といった種類の、「量と量の掛け算」というものがあります。ここのところをちゃんと教なければならないと思います。数と数との掛け算は、電卓でできるのですから。
ガウスやフォン・ノイマンのように、コンピュータのような暗算能力を持った人もいれば、ヤコビやアインシュタインのように、三桁どうしの足し算とかいうとそろそろヤバいかも、という人もいます。
そんなわけで、小学校の指導要領について、いろいろ考えているあたしでありました。まる。
(Maria)
Maria wrote:
>
> 「休むべきときに休む」というのは仕事のうちです。だけど、それが分かっていない人が多い。
> ビジネス関係の雑誌とか新聞記事とか読んでいると、「戦い」だとか「生き残り」だとか「戦略」だとかいった勇ましい単語が並んでいます。
あーそれ、すごく心に響いた。
そうだよね、「休むのも仕事のうち」なんだよね。
ただ、他の人よりも休む時間がとっても長いから、怠け者と誤解されるんだよね。
他人の言うとおり、もしわたしが働き続ければ、いい仕事が提供できない。
仕事の質が下がってもいいのか、それとも量より質か、って相手をみて必要なほうを提供するけれど、質より量を求める相手とは余り合いません。
それにそもそも仕事のために生きるっていうのが、私の価値観と合わないの。
個人旅行でタイに行ったとき見た人たちは、「生きている」という実感を得て楽しんでいたように見えた。例えば、「子供が言葉を覚えた」とか「外国人と言葉を越えて交流した」とか、「仕事と遊びを両方大事にしている」とかの喜びを味わうことに生きる意味を見出している。
大きな大人たちが、道で子供に帰ってじゃれあってる。日本人はお酒が入らないと自由になれない。勿論、タイの社会は長所だけじゃないんだけど、先進国の国の人たちとは目の輝きが違うんだ。
皆が好きなことをやってもいい。あつけりゃ、寝よう。涼しくなったら、仕事すりゃいいさ。・・オカマになったっていい。どんなファッションもたぶん・・。「あいつは、あーいうクレイジーなやつだからさ、相変わらずだなぁーあはははは・・」と日本では眉をひそめられるようなクレイジーが好感を持ってみんなに楽しまれている。
日本はそういう点では、許容範囲の狭いところがあるのかなぁ・・だから、人のちょっとした違いに目が行くのかなぁ。
話が飛びすぎかもしれないんだけど、「制服検査」のような社会みたいな気もするんだ。
たとえばスカートの丈が二十センチ皆より長い。ただそれだけで、眉をひそめられる。同じ長さにさせられる。もしかしたら、その子がやけどの跡を隠したいためにやっていたことかもしれない。もしくは、貧乏で誰かのお下がりをもらうしかなかったとか。それぞれが抱えている個人的な状況を察することもなく、形だけ皆と同じであれば満足・安心する。
そういう教師に私はいつも反発してた。
でもそいつらが看板としてあげているのは、「ひとりひとりの個性に合わせた教育を実践している名門校」なのね。
「皆が同じ枠の中にいながら、個性を発揮する」って考えだっていうんだけど、それが私はどうしても納得いかないんだよ。
それって皆が同じ枠に入ることがまず求められるじゃない。
その枠に入れない私たちはどうなるのって思ったの。
わたしは入りたくて頑張っても、入れない。皆が当たり前と思っているものが受け入れられない。理由が納得できない。先生にはそれが反抗的ととられる。
わたしね、外国に行くとちょっとほっとするの。
だって、奇妙なことを言っちゃっても、やっちゃっても、「外国人だから」って理由で許されそうな気がするんだよね。
そして、自分たちのやり方を周りが教えてくれる。逆パターンもあるかもしれないけどさ。
Mariaさんは、どうしたら、本当の意味で「制服検査」な社会を大きく変えられると思う。
お医者さんは私に、そういう活動を勧めてくれた。
イギリス人の英語の先生は、「君にしかできないような社会に認められる仕事をするんだ。そしてそれから自分のことを皆に伝えていけばいい。海外では、自分が何かハンディを抱えていて、それを社会に認知して貰うためにそういう方法をとっているよ」って教えてくれた。
一体私に何ができるだろう・・。
> 女性というのは権威に弱いところがあります。
「だって、『すぐに連絡してほしい』って言われたんだもの」「『いま、大変なことになってる』って言うんだもの」とかいって、自分が問題を抱え込むことを怖れてしまう。
> 会社のほうもそれを知っているものだから、母親とか奥さんとかにガンガン言って圧力をかけるのね。
たぶんね、権威に弱い、じゃなくて、「感情的なプレッシャーに弱い」だとおもうよ。このケースもお母さんは「相手がかわいそうっ」と思って冷静な判断を欠いたんじゃないかとおもうよ・・。大方の女性は、相手に共感しやすい。
だからこそ、子育てが向いていたり、看護婦が向いていたり、といういいところもある。男には先を見通すことを優先する特徴があるけれど、女性には目の前の相手の感情を優先するという特徴がわりとある。(だから、女性の口コミの力はすごい。テレビの情報・権威、より近所のおばちゃんネットワークの情報の方が重要視される。)どっちがいいかは、ケースバイケース。だから男と女は結婚し、助け合う。
・・一般的には、女性に対して、みんなこんな風に考えているよ。
私たちは、一般的な性別というものにとらわれていないから、分かりにくいかもしれないかもしれないんだけど・・。
> 安息を奪われた人間は、脆いです。簡単に自殺します。
> 死ぬほど追いつめられそうになったら、早めに逃げましょう。
そうなの・・。お母さんやお父さんが家にいると、寝れなくて、薬の量をふやしているんだ。お医者さんは生活保護使って逃げなさい、というけれど、たぶん私がここまで追い詰められてることが、理解できなくて、問題が大げさになると思うの・・。だって普通のひとの常識的な感覚では、部屋に一歩入りこまれることがこんなに屈辱を与えるほどのことだろうか・・と思うだろうから。
人は自分が経験したことのないことは、察することができないし、あえて相手を理解し様なんて、思わないものだよ・・。
> うちの Joshyaさんが会社勤めをしていた頃に、「現場の人間がどれだけ悲惨な状況に置かれているか」を上司に訴えたら、その上司は本当におかしそうにげらげら笑っていました。
> テレビ番組の中でお笑い芸人がいたぶられているのを見てげらげら笑っている人がいます。つまり、「自分には関係のないこと」と思えるならば、他人の不幸というのはとても滑稽なものだったりするわけです。
> 「笑い」は、「相手の苦しみを自分のものとして引き受けることの拒絶」である場合があります。
そうね・・私も同感だわ。わたしも前の仕事で上司におなじことを訴えて社長とトラぶった。わたしは松下幸之助さんを尊敬していて、会社は何らかの形で社会に奉仕することでその存在を必要とされるって思っているのね。だから、自分でごみみたいな商品、と分かっているものを福袋に入れて、笑顔で全員に売れっていう社長の考えが理解できなかった。「企業利益」の前に「人間の尊厳」を無視して、それでどうして良いものを社会に提供できるっていうのかしら・・。
> ひょっとしたら、それは「発達障害」なのではなく、人間としての弱さなのかもしれません。
「発達障害」の上に、感情や常識を「理屈だけでも」理解するような環境に育っていなかったことも一因かも・・。お母さんは、「家族は自分の奴隷」「自分のために奉仕するもの」という固まったルールを守っているんだよね。自分のお父さんがそういう風に教えた見たい。それにこだわって・・・ちょっとずつ説明してわかるときもあるけれど、一旦教え込まれたものはなかなか修正きかないから、大変。
ときどき、家族に向かって「頭を下げてお礼をいえ」とか「絶対に服従しろ。反抗するな。」とか怒鳴っているよ。
お姉ちゃんは、だから「反抗」したことがない。額面通り、言われたとおり従う。だから、めちゃめちゃ怖い。
私がお姉ちゃんへの仕打ちに対して、お母さんやお父さんに怒鳴りつけて、お姉ちゃんは初めて「こういう手もあったのか・・」と学ぶみたい。
> それって、「乖離」かもしれません。
お姉ちゃんは記憶がぶつぶつ切れているから、自分のクラスメイトや子供の頃の思いでもあまり無い見たいなんだ。それを隠すために、「自分に記憶があるかのように」一生懸命はなしているんだけど、どうもほんとに無い見たい。
あるとき「向き合ったら、私はもう二度とこっちの世界に戻れないっ」ていうようなこと叫んだことがあった。お姉ちゃんのことを思うと、苦しくて、涙が出るよ。
> 乖離性障害(「ヒステリー」と昔は呼ばれていました。精神的な問題が肉体的な症状として出るものです)とか、自己同一性障害(多重人格など)を起こしている可能性があります。
そのこと、もっと詳しく知りたい。教えて。
実は私自身も全部で五人くらいいる気がするの。でも演じているんじゃない。
そのときは、自分そのものなの。違和感が無いんだ。
全員価値観が違っていて、問題の対処の仕方も違う。
書く文字まで変わる。でも全部自分なの。記憶があるから。
この間、五人で交代しあって、紙とペンを使ってロールプレイングみたいに話し合った。
そしたら、みんな「傷つきたくない」し、五人が協力して「家族で支えあう」必要があったって、それぞれが言っていた。
でも、ビリー・ミリガンのようなのとは、ちがう気がする。スポットに出るという感覚はないし、記憶もなくしたりしない。暴走することもない。
もしもそうだとしたら、今の五人のままじゃ、まずいのかなぁ。いつか問題が起きるかなぁ・・ でも全部が自分なの。そして私の家族なの。誰も消したくない。
でも問題なら、そうするしかないよね。
> どんな仕事にも「全人的な素質」が要求されるわけではありません。機械で置きかえることのできない単純作業なんていうのもけっこうありますし。
> ただ、そういう仕事を得ることの難しさは確かにあります。そういう仕事を提供するシステムは必要だと思っています。
このコメントはなんだかビル・ゲイツの志向に似ている気がした。
うわさには聞くけど、やっぱり彼もMariaさんの仲間だね。
私は感情交流ができるので「分担的単純作業」ではなく、それぞれが「生き甲斐」を感じられる職業選択の自由が欲しいと思うわ。人を部品のようにすぐには取り替えられない、というような人間性の尊重や思いやり、共感の輪が広がる社会のほうがいいな。
例えば、販売でも「この説明書を読んだからこの商品を買います。あなたはレジを打ってくれればいい。」じゃなくて、「いつも私にベストを考えて、良くしてくれるあなたの勧めるものだから、信頼して買います。ありがとう」と思わしめるような社会。
私はひとと思いやりでつながっていたい。
「利益・不利益の必要性」ではなく、「感情的な必要性」や「愛」(隣人愛)でつながっていたいよ。もちろん半分くらいは損得も、考えなきゃいけないけどね。
数と量の間には、
数×単位=量
という関係があります。
で、やまとことばには、数を表わす言葉が基本的に欠けています。
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、い、む、な、や、この、とを……
なんていう、あんまり使われない形があるきりなのね。大抵は、
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……
とか、
ひとり、ふたり……
とか、
(朔日(ついたち)、)ふつか、みっか、よっか……
とかだったりするわけです。
そんなわけで、日本語の中で“数”といえば、
イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク……
という、「漢語」です。
小学校の第1学年では、この「数と量(と単位)」「やまとことばと漢語」について、しっかり教えてほしいのですが、現行の小学校学習指導要領には、この部分がずっぽり欠けています。なぜか。
それは、日露戦争以降、国定教科書である「黒表紙」「緑表紙」といわれる算数の教科書が、一貫して「算数教育からの追放」をめざしていたからだったりします。
そんなわけで、あたしたちは独自に、小学校学習指導要領に欠けている、「量の教育の教科書(あるいは副読本)」を作っておく必要がありそうに思います。
で、たとえば、
1.‘大小’に関する公理
二つの量A・Bがあった場合、
A<B,A=B,A>B
の三つの関係のうち、どれか一つだけが成立つ。
2.‘加法’に関する公理
(A>0,B>0)のとき、
A+B=B+A (交換法則)
(A+B)+C=A+(B+C) (結合法則)
A+B>A
が成立ち、
A<Bならば、A+X=BなるXが、ただ唯一存在する。
とかいったことを理解させておく必要があると思います。
数学者の田村二郎さんは、『量と数の理論』(日本評論社)の中で、こんなことを書いています。
『われわれが‘メートル’というのは、メートル原器の長さである。ふつうはこれを m で表わす。
メートルの2倍は−いま述べた記法によれば−
2m または m×2
と書かれる。しかし、小学校では、あとの書き方を許さない。
この長さの2倍は、
3(2m) または (m×2)×3
と書くことができる。しかし小学生たちは、
2m×3
と書くことを強制されている。この書き方は‘混合式’である;2は左から掛け、3は右から掛けている。この不統一にだれも気がつかないのはふしぎである。−』
こういうのを、文部科学省や教科書会社に「改めろ」と言ってもいつになるか分からないし、教育産業にここまでのフォローを期待するのもたぶん無駄です。
やることがいっぱいあって楽しいな。(←ちょっと自暴自棄かも)
(Maria)
風呂糸 wrote
>自分を許容し、自分自身を受け入れて許してあげるだけでも、
>随分と肩の荷が降りるのではないでしょうか?
うーん・・普通って言うのは、わたしにとっては、「常識」なのね。
その常識を守らない人は、社会から孤立してしまうよ。
常識っていうのは、ひとと人がお互いの気持ちや立場を尊重しあうために自然と出来たものなんだから。
「私はそー言うの障害だからどーにもならないわ。」って言うのは、自分を受け入れるとは、別次元の話だと思うわ。
「私はこういう点でみんなにめいわくかけたり、傷つけたりする特徴があるから、他の人以上に気を使わなければならないんだ」って思うよ。
実際私たちの行動は、よく人を深く傷つけたり困らせたりしているんだから。気がつかないのは大抵、本人だけなんだよ。自分は両方の気持ちがわかる。だからこそ、「普通」になりきれないときに、自分のふがいなさがやりきれなくなるんだ。
でもフロイトさん、自分なりの考えを書いてくれて有難うね。
おこんばんわぁ。皆々様もおひさしぶりです。
知らない名前もたくさん増えてて、ここの盛況ぶりがうれしいです。
こうもりさん wrote:
> ボ〜と考えごとをしている時間もほしいよう…。
ぼ〜っとすることにかけては天下一品の技を持ってる私ですが、
その時間がとれないなんて、ほんとうにお気の毒です。
皆さんもいろいろお忙しいのかしら?ま、年度始めだしねえ。
私の方も、死ぬ程とまではいってませんが、
死なない程度には忙しくやってます。
1時間とかまとまったぼ〜っとする時間はとれなくても、
5分だけでも、意識を解放してあげてね、こうもりさん。
私達の脳みそは普通の労働を強いると壊れてしまいますからね。
うふ。るうでした。
こんばんはです〜、こうもりさん&あさかぜさん。(←すでにフヌケのわたし)
こうもりさん wrote:
>> ボ〜と考えごとをしている時間もほしいよう…。
あさかぜさん wrote:
> わたしも、ほしいよう。ボ〜っとしてなにもしないでいたい。
> こうもりさん、お互い身体を大切にしましょうや……。今日は、寝るぞ! なにがなんでも、寝るんだあぁぁぁぁぁ!!
お2人ともある意味、気力で体を持たせているのが、やっとのようにお見受けします。
「休みたい時に休め!」と言いたいところですが、それが叶わぬ現状とあれば、とにかく休める時に休み、悲鳴を上げられる時に上げる!!これにつきます。
(今さら、わたしが言うことではないことは、百も承知しているのですが。)
こんなことしか言えないやつで、ごめんなさいです。では…(TT)。
私もなにもせずにボーとしているとよく言われます。
その、なにもしないでぼんやり物事を考えてるときが一番好きです。
仕事中でも雑念が沸いてくるのもちょっと困りますが....
> ところが、多忙な状態になるとなぜか「別にいつ死んだっていいや。
>」という気分になってどんどんハマッていってしまうのですから、困っ
>たものです。
私はそれはないなぁ。でも、多忙だったり、仕事になかなかなれずにストレスがたまるときは
よくここの掲示板で愚痴ったりしますけど。
派遣先から「1週間休んでくれ」と連絡が入りました。事実上の"クビ"宣告です。
郵便局にはもう戻れないし、これからバイトしながら作業所通いでしょうね。
初めましてスマイリーさん。
AS+AD(H)Dの
ふろいと、と言います。
とりあえず、”普通”であること
”普通”で居続けようとする事を止めてみたらどうですか?
”普通”という明確な基準なんてないわけだし、
自分が”普通”では無い、”異常”だと思いそれを許せなくなるから苦しくなる事も有るかと思いますので。
”普通”ではない自分、”異常”かもしれない自分を受け入れるのは、
恐いこともあるかもしれないけど、
自分を許容し、自分自身を受け入れて許してあげるだけでも、
随分と肩の荷が降りるのではないでしょうか?
武田好史 wrote:
>あなたが、「福祉家(ソーシャルワーカー・ケースワーカーなど)の人に求めたい!」と思う人物像は、どんな感じのものですか??
いろいろと想像を巡らせてみました。その結果たどり着いた理想の人物像は、「金八先生」です。
とても聡明で常識的で、正義感が強くて、統率力も人一倍。それでいて、一人一人に接する態度が温かくて、思いやりが深くて、わけへだてが無い。そして、とっても強い意志を持っている先生・・、じゃなくて福祉家のかたがいらっしゃったら、ものすごく心強いと思います。
こうもり wrote:
> わたし自身も気になっているのは、その分類によって何か治療方法や教
>育方法に違いがあるのかという点です。ADHDならば薬物治療の必要が
>ある場合もあるので、他の発達障害との弁別は確実に必要でしょう。しか
>し、自閉スペクトル同士の場合はどうなのか?弁別することによって何か
>有意義なことがあるのだろうか?疑問です。
私も同感です。あれやこれやと線引きしてしまうと、かえって障害間での交流が妨げられたり、診断によって受けられる福祉サービスにひずみが生ずるといった危険性が十分にありうると思います。それよりも、これらの障害に関する「共通点」というものを洗い出して、それをもとに治療・教育を考えたほうが、より効果的で・柔軟な対処ができるような気がします。
それには、これらの障害に普遍的に存在している、要素をもう一度吟味する必要があるでしょう。例えば、LDと診断された群とASと診断された群では、言語性IQと動作性IQの散布図での分布に有意な開きがあるのでしょうか?積み木模様課題の評点と算数の評点ではどうでしょうか?こういった統計的な処理をすることで真実の障害像が浮き彫りになって、真の有効的な対処が浮かび上がってくると思います。
スマイリーさん wrote:
> そうか……みんな、疲れて動けない日があるんだね……
「休むべきときに休む」というのは仕事のうちです。だけど、それが分かっていない人が多い。あるいは本人はそれを分かっていて必要な休みを取ろうとしているのに、「人間は休めと言われなくても勝手に休む」「寝なくて死んだ奴はいない」とか言って邪魔をする人がいる。
ビジネス関係の雑誌とか新聞記事とか読んでいると、「戦い」だとか「生き残り」だとか「戦略」だとかいった勇ましい単語が並んでいます。「馬鹿」としか言いようがありません。ビジネスってもっとクールなもんだぞ。
> 私はね、子供のころ、疲れてうごけなくなってたとき、いつもお母さんに蹴られていたの。病気による学校の休みも、私立の中学に行ってたから、学費がもったいないって、寝ているところに物を投げつけられてたよ。「なまけ病」って名前を付けられてね。いまでもばれないように、夜遅くの仕事してるからっていう理由で起こさないでもらって、お母さんが仕事に行っている時間たっぷり十時間睡眠をとってる。
女性というのは権威に弱いところがあります。過労死自殺した人の話を聞くと、会社の上司から電話があると、お母さんなり奥さんなりが、徹夜明けで死んだように眠っている人を起こして電話を取次いでしまうのね。そういうときに、「本人は具合が悪いので、電話に出られません」とか、「『職場の近くのビジネスホテルで仮眠を取ってから帰る』としか聞いてなくて、連絡が取れません」とかいって、適当にごまかして休ませてあげることができない。で、本人が「そんなの放っときゃいいんだよ」「適当にごまかしとけばいいんだよ」とか言っても、「だって、『すぐに連絡してほしい』って言われたんだもの」「『いま、大変なことになってる』って言うんだもの」とかいって、自分が問題を抱え込むことを怖れてしまう。
会社のほうもそれを知っているものだから、母親とか奥さんとかにガンガン言って圧力をかけるのね。
それで死んだ……というか、殺されたエンジニアはいっぱいいます。
安息を奪われた人間は、脆いです。簡単に自殺します。
死ぬほど追いつめられそうになったら、早めに逃げましょう。
> みんなが皆。親は子どもも、単なる物体としてしか見ていない。小学生の私が急に家出しても、お母さんは何も感じないから、一生捜さない。それに人が苦しんだり泣いたりするのが、おもしろい反応として映るらしく、何がおかしいのか、笑い出したり、もっと強い反応を見るために言動を強くして見たり、実験してるみたい。妹以外の家族全員そんなだから、はっきりいって怖いよ。
うちの Joshyaさんが会社勤めをしていた頃に、「現場の人間がどれだけ悲惨な状況に置かれているか」を上司に訴えたら、その上司は本当におかしそうにげらげら笑っていました。
テレビ番組の中でお笑い芸人がいたぶられているのを見てげらげら笑っている人がいます。つまり、「自分には関係のないこと」と思えるならば、他人の不幸というのはとても滑稽なものだったりするわけです。
「笑い」は、「相手の苦しみを自分のものとして引き受けることの拒絶」である場合があります。
ひょっとしたら、それは「発達障害」なのではなく、人間としての弱さなのかもしれません。
> お姉ちゃんは、私よりももっと暴力を受けてきた。だけど、何にも感じないんだって。だから愕然とすることがあるし、サイボーグのターミネーターみたいな姉とは心が通じたと思ったことが無い。
> でも感情がないことも他人が自分をどう評価しているか気がつかなくてすむ意味で本人にとって幸せかなとも思う。
それって、「乖離」かもしれません。
乖離性障害(「ヒステリー」と昔は呼ばれていました。精神的な問題が肉体的な症状として出るものです)とか、自己同一性障害(多重人格など)を起こしている可能性があります。
> 広汎性発達障害のひと全員に特殊な才能があるわけじゃない。誰もがよい環境に生まれるわけじゃない。他の人たちと同じスタートラインに立って人生走り抜くのには、とっても不利だってやっぱり私、思うの。それでも特徴、として自分自身の診断を受け入れられるのかなぁって・・。
どんな仕事にも「全人的な素質」が要求されるわけではありません。機械で置きかえることのできない単純作業なんていうのもけっこうありますし。
ただ、そういう仕事を得ることの難しさは確かにあります。そういう仕事を提供するシステムは必要だと思っています。
(Maria)
武田好史 wrote:
>Rosamonde wrote:
>>どうも私は“普通”の世間様の世界にはとても疲れるみたいで、仮面を被ってないと普通を装う事が出来ない。
>>顔は日本人なのに、感覚は外国人そっくり。
>>人から言われるのは『宇宙人』、『日本人の顔をしているんだから、分からないのはおかしい』、『日本人なのに分からないのは頭が変だ』などなど。
>>
僕は生まれつき縮毛で、しぐさも何か『コイサンマン』のカイちゃん・キリちゃんにそっくりだったようで、小学生の頃はよく『アフリカ人』って呼ばれていました。
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