アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
横から入ってしまいます。。
こうもりさん wrote:
>わたしはASの診断を受けてい
>ますが、一切の薬物治療はやっていません。でも、健常者だと言われるのはイ
>ヤなので、障害者という立場を維持しています。
わたしもこの意見に共感で、「自閉症者」が喋っているのは
どんな内容を喋ろうが「自閉症者」であるということがどうも周囲の人間には
理解しがたいらしく、
私が、「だって人と違うんだもん」
と言ってもどうも「あのねえ、僕は「自閉症者」とか初めから診ていないで一個人として星子くんを見ているんだけど」
ってな風に言われてかなり「それってちょっと違うと思う」と違和感感じて困惑し
てしょうがない。
でも「自閉症者」として「観て」くれなきゃ困る。
どうも、そっち側の解釈で扱われても、裏切るとかするつもり無いのに
「ワカラナイ」から毎回それちゃうんです。
当たり前です。
私は「自閉症者」なんですよ。
悪いけど正直な話し、私の毎回言う「ナニ言っているのかワカラナイ」は変らな
い。
哀しいかな百回聞こうが千回聞こうが「ワカラナイことはワカラナイ」。
理屈理論での展開でなくって、無理なことの重要な「中身」を理解しているのかなあ先生。
> 障害を否定された障害者は自分の障害を受容できなくなり、却って他人と対
>等の立場になることができなくなる場合があります。この掲示板に来ている障
>害者の多くの悲劇も、障害者のレッテルを貼られたことにあるのではなく、障
>害を認められないまま生きてきたことにあります。
そうですよねえ。
ほんとうに・・・・・・・ワカッテイルノダロウカ・・・・・・・・・。
発達障害者に適度な環境や扱いを与えずに放っておいている社会は絶対大馬鹿
だ。
星子です。
ときどき思っちゃうことを一つお話。
企業ビル内の書棚裏から発見された、マルコビッチの穴。
通るとマルコビッチという男性の脳内に入り、彼の脳内世界から外界が見渡すことができ、
自由に操れるという、映画 /『マルコビッチの穴』をご存知でしょうか。
最後にマルコビッチが自分の脳の中に入ってしまうのですが、
私は、「星子の穴」に誰か入ったらきっとすごいびっくりするんだろうなって
思う時があります。
自閉症者の脳内に誰か入ってみんか〜いっ?
って思う時あります。
きっとびっくりすると思う。変なツギハギ世界・居心地・視界で。
自閉症スペクトラムという世界を知った時、なぜか初めに「マルコビッチの穴」を
ふっと連想してしまった私でした。
(にしても、人の脳内に入って自分の意識があることって無いと思うんけど・・
あ、でも霊感体験ってそういうやつか・・・・ボソボソ)
川合 哲也くん wrote:
>久しぶりです!またアスペルガー症候群の事で大騒ぎしてしまいました。
>もう家族で分かってくれる人が居なくてもう嫌です!誰にも分かってくれなくて....
初めまして、川合くん。
川合くんは、誰も自分のことを分かってくれないと思って苦しいのですね。
うちにも18歳の息子が居て、アスペルガー症候群と診断されています。
うちの息子も、後で後悔することが多いです。
例えば、ゲームカセットを売りに行って、後でやっぱり売らなければよかったとボヤいたりしています。
川合くんはどんな時に先走っていると注意されるのか、よかったら教えてもらえませんか?(この問いかけは無視されてもかまいません)
私個人的な意見ですけど、先走ってしまう性格は発達障害とは関係ないと思います。今の川合くんは、アスペルガー症候群という病名が重くのしかかって、ちょっとした非難めいた言葉でも敏感に反応してしまっているのではないかという気がします。
川合くんも気持ちを落ち着けて、自分が不満に思っていることや戸惑いを感じていることを手紙に書いてお母さんに伝えてみてはどうですか?(ちょっと、恥ずかしいとは思いますけど…)
てらば wrote:
>思ってることを頭で整理してモノを言えないんだと思う。
>
>質問する時も言葉がまとまらなくて会話が長引いたりすることアリ。。。。
>
Rosamondeです。私は思っている事を言えるんですけど。問題は会話内容なんですけどね。
思っている事を頭で整理して物が言えられない場合は自分のデータに入ってない予想外の会話が出て来た時に起こるんです。
私がしている工夫など:
・新聞や雑誌など読みまくり、自分のデータのキャパを増やしておく事。
・紙に書いて整理する事。
・SSTなど話し方教室に通う。
・連想ゲームをすること。(テーマを作り、自分が浮かぶそのテーマのイメージを上げるだけ上げる。この連想ゲームは私の行っていたデイケアのSSTで実際使われていた)
・無理に話し手の役にならず、聞き役になる。聞き役の方が楽である。
・家で会話のシュミレーション練習をしておく事。
私の場合はデイケアのSSTよりもAS女性にとって最も向かないといわれているお水(水商売)の世界で勉強しましたね。
最近の客は自分から話かけず、聞き役になってしまう客が多いですね。遊びなれている人は結構話してくれる人が多いので、私が聞き役に徹したり、客に乗せられて私が話してしまうことが多かったです。(自分の体験から)
毎日が本番なので、神経を使いすぎるくらい使ったが、今思い出したらSSTの生きたトレーニング実践講座になっていたのかもしれませんが。
かといってお水の世界はお勧めできません。(お水の世界はとにかく混乱するし、過剰な接触もあるからね)
他の人はいかがでしょうか?
てらば wrote:
>思ってることを頭で整理してモノを言えないんだと思う。
>
>質問する時も言葉がまとまらなくて会話が長引いたりすることアリ。。。。
>
Rosamondeです。私は思っている事を言えるんですけど。問題は会話内容なんですけどね。
思っている事を頭で整理して物が言えられない場合は自分のデータに入ってない予想外の会話が出て来た時に起こるんです。
私がしている工夫など:
・新聞や雑誌など読みまくり、自分のデータのキャパを増やしておく事。
・紙に書いて整理する事。
・SSTなど話し方教室に通う。
・連想ゲームをすること。(テーマを作り、自分が浮かぶそのテーマのイメージを上げるだけ上げる。この連想ゲームは私の行っていたデイケアのSSTで実際使われていた)
・無理に話し手の役にならず、聞き役になる。聞き役の方が楽である。
・家で会話のシュミレーション練習をしておく事。
私の場合はデイケアのSSTよりもAS女性にとって最も向かないといわれているお水(水商売)の世界で勉強しましたね。
最近の客は自分から話かけず、聞き役になってしまう客が多いですね。遊びなれている人は結構話してくれる人が多いので、私が聞き役に徹したり、客に乗せられて私が話してしまうことが多かったです。(自分の体験から)
毎日が本番なので、神経を使いすぎるくらい使ったが、今思い出したらSSTの生きたトレーニング実践講座になっていたのかもしれませんが。
かといってお水の世界はお勧めできません。(お水の世界はとにかく混乱するし、過剰な接触もあるからね)
他の人はいかがでしょうか?
名無しさん wrote:
> だんだん世間が競争社会になっていってるよね。そういうなかで、昔だったらたいして問題にならなかったちょっとした不器用さが、落ちこぼれ→学習障害LDと言われるようになった気がするんだ。
おれの記憶が確かならば、「競争社会」という言葉が盛んに言われるようになったのは昭和四十年代、「教育ママ」だとか「四当五落」だとかいった言葉が使われていた時代だと思った。
昭和五十年代にはすでに学校群制度が東京でも施行され(たしか京都が先だったはずだ)、「モーレツからビューティフルへ」とかいった言葉が流行語になっていたハズである。
一九八十年代のバブル時代の馬鹿騒ぎはもはや「競争」とも言えないものだ。そこには共通する伝統的価値観が欠けており、ルールが欠けている。
天下りに与えられたルールに乗っ取った競争に参加しなければ人間として認められない、みたいな時代は、おそらくは三十年も昔に終わっておるのだ。「一中(府立一中。現在の都立日比谷高校)・一高(現在の一橋大学)・帝大(東京大学)」だとか、「番町(小学校)・麹町(中学校)・日比谷・東大」だとかいう言葉はもはや死語である。
そんなわけで、ちょいと脇へ逸れれば競争のない抜け道みたいなものはいくらでもあるのだ。ただ、「世間並み」「一般的」「普通」ということに固執していると、そういった抜け道に逸れることができない。あるいは、そういった「抜け道志向」を「逃げ」として糾弾するメンタリティがまだ支配的ではあるのだ。
> 障害児になることで、無理な努力を課せられないメリットはあるかもしれないけど、その努力って学歴中心主義の社会じゃなかったら、もともとしなくていい努力でしょ? 世の中が進みすぎているから、遅れてみえるだけ。
「学歴中心主義」というが、トップ・プログラマーとして君臨しとる連中の学歴を見ると何がなんだかわからない連中がけっこう多い。官僚・閣僚・医者・弁護士あたりを目指すならともかく、「現在学校で教えられていること」が現場ではすでに時代遅れになっているケースは少なからずあるし、必要なことがすべて学校で学べるかというとそうでもない。
「自閉症だからプログラマーくらいしか職業選択の余地がない」とかいうのはいっそ気楽なもんである。おれらの頃は現在でいう「プログラマー」という職業そのものがなかった。当時の「コンピューターのプログラマー」というのは現在でいう上級システムエンジニアのことで、何億・何十億円もするシステムを維持・管理する、弁護士や医者や物理学者なみの知的エリートだったのである。当時はマイクロコンピュータなどはコンピュータのうちには入れてもらえず、わしらは「『プログラマー』などと名のるもおこがましい」と言われて「マイコン坊や」と馬鹿にされておったのである。
そんな中でコンピュータのプログラマを目指したおれらというのは変わり者でしかなかったが、いつの間にか、かつての大型機世代やミニコン世代と肩を並べて大規模システムの開発なんぞをやっていた。なんでかっちゅーと、分散ネットワークなんちゅー話は昔は存在しなかったから、現在主流の技法なんぞはわしらの領分だからだ。ともあれ現在のように「とにかくインターネットだとかITだとか言っとれば商売になる」みたいな世の中は行き過ぎだと思うが。
> 「落ちこぼれ」ながら人生を健康に過ごせたかもしれない子が、リタリン中毒。
> なのにLDを障害として認定した医者たちは学士先生。
「子どもたちは落ちこぼれているのではなく、“落ちこぼされて”いるのだ」と遠山啓先生が言ったのは三十年以上も昔の話である。
“drop-out(落ちこぼれ)”ではなく“brow-out(吹きこぼれ)”と云われたナード(computer nurd)ども(スティーブ・ウォズニアックやリチャード・ストールマン)がカリスマ・プログラマーとして名を馳せたのがすでに二十年以上前。
日本でも『TRONプロジェクト』や『新世代コンピュータ技術開発機構(第五世代コンピュータ・プロジェクト)』が発足した時代はすでに二十年も昔である。
社会が盲目的主体であった時代はすでに終わっているのだ、とおれは思っている。エリートにも落ちこぼれにも、そこそこ平等に世の中を動かす力は備わっておるのだ。ただ、そうなると実力のない奴には自我を支えるものがなくなってしまう。昔のように天下りに与えられる価値のようなものがないからだ。
そんなわけで、他人の足を引っ張ることで自分を確認することしかできない馬鹿が増えた。困ったことである。で、こいつらがありもせん秩序だとか権威だとかを持ちだして自分を正当化するので、「世の中を動かしている、逆らいがたい大きな力」みたいなものがあるような勘違いをしてしまう奴が出てくるのだ。
世の中を動かしているのも個人ならそれを邪魔するのも個人である。世の中はけっこう個人の力で変えられる。そこそこの才能とそこそこの運とそこそこの要領のよさがあれば、けっこう世の中なんとかなる。
> 早発性痴呆が、精神分裂病と改められたころ「(今でいう)神経症」の青年が青春期の悩みで病院を訪れたとき「分裂病」と診断されて、後の人生を投げうち無為にすごしたという。
> 精神医療や脳神経医療の歴史は、失敗の連続につぐ模索。
> そのことをもう一度考えてみてくれないかなって、思う。
誰とは言わんが第五世代コンピュータ・プロジェクトの参加メンバーの一人は精神病院で論文を書いておったそうな。なかなか居心地はよかったらしい。「ついでに嫁さんも捉まえた」というので「看護婦か?」と訊いたら「いや、患者だ」と言っておった。
昨今は精神病院も精神医療も様変わりしておる。まあ、体質が古いところもあるだろうが、そういうところは避けることだ。
> 俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
> なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
> 競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
> ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
「仕事や生活に支障がない」という場合、「外から見れば正常そのものだが、本人はめちゃめちゃしんどい」というケースを含むのかどうか。
仕事や生活に支障がある、はっきり言って「ずっこけた」生活をしとらんとしんどくてしゃーないというわしらみたいな人間がおって、そういう人間にも仕事が勤まる職場というのが世の中にはあり、ソフトウェア開発の現場っちゅーのはそういうところだった、というのでわしらはこうして生きている。九時五時で仕事をしろだの背広ネクタイで出てこいだの酒を飲むなだの言われたらわしらは生きてゆけない。「診断」というのはある意味「ずっこけてるのはしかたがないのだ」という御墨付きである。電算業界の人間がことさらにおたくっぽい風情を演出するというのも、「世間の規範(コード)っちゅーものに煩わされたくないから、こういう業界にいるのだ」というアピールである。ミュージシャンが反社会的なポーズを取るのも(あまりスポンサーに迎合してもいいことはない)、『暮しの手帖』の花森安治さんがスカートを履いていたというのも、「好きにやらしといてんか」というメッセージなのである。
「わしらは競争に追い立てられたくないのだ」と言っても、世の中はなかなか通らない。「わしらは別の競争をしておるのだ」というのなら、いくらか大目に見てもらえる。とはいえそれには「落ちこぼれ」の立場から脱することが必要になってくる。
「落ちこぼれ」が「わしらは競争なんかしたくないのだ」と言っとると、いろいろ意地悪をする奴がおるのだ。そういう連中を追い払うためには、「診断」が有効なこともある。
身障者手帖を持っていれば、電車の中でも坐っていられる。たとえ具合が悪くても、「そうは見えない。だったら立つべきだ」とかいった訳のわからんことを言う奴がおる。身障者手帖を持っているから具合が悪くなくても堂々と坐る、とかいう訳ではないが、「身障者手帖を持っていなければ、本当に具合が悪くてもなかなかゆっくり坐らせていてもらえない」現実というものがある。
そういうことだ。
(Mr.Moto)
シュッツさん wrote:
>現在の診断基準は外面的なものであるため、障害となるかどうかの境界があいまいであると思います。
>そのために、どのような障害であるかが分かりにくくなっているのでしょう。
>
>そこで、神経や遺伝子といった、実在のものによって定義することができれば、障害の正体が分かりやすくなると考えます。
>だから私は、その分野で障害が解明されることを望みます。
わたしが漠然と考えていたことを、端的に分かりやすく書いてくださって、うれしいです。わたしも、シュッツさんと同じように望みます。
名無しさん wrote:
>俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
>なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
>競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
>ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
う〜む。全体を見て思ったこと。障害者でありたいと願うことと治療を受け
たいと願うことは別の次元の問題なんですよね。少し同居人の考えを細かく確
認しておいた方がいいのではないでしょうか?わたしはASの診断を受けてい
ますが、一切の薬物治療はやっていません。でも、健常者だと言われるのはイ
ヤなので、障害者という立場を維持しています。
また、あるがままというのはちょっと難しい言葉です。名無しさんのニュア
ンスとしては「障害者というレッテルを貼らないこと」という意味なのだと思
いますが、ニーチェという哲学者のニュアンスでは「自分の障害をあるがまま
に受け入れること」という意味になります。わたしは後者の立場を取っていま
す。
障害を否定された障害者は自分の障害を受容できなくなり、却って他人と対
等の立場になることができなくなる場合があります。この掲示板に来ている障
害者の多くの悲劇も、障害者のレッテルを貼られたことにあるのではなく、障
害を認められないまま生きてきたことにあります。
で、同居人の件ですが、診断を受けたがっているというのは、ある意味では
障害をあるがままに受け入れる心の準備が整ったのだと言う事ができます。こ
こは名無しさんがこの掲示板でコメントしていたように、それこそ放っておい
てやった方がいいのではないでしょうか?
名無しさん wrote:
>鬱の相手との距離感って難しいから、こうしたネットでは放置かせいぜい一
>般的に鬱の人にかける言葉(鬱のときは重大な決断をするなとか、休息をと
>れとか)をかけるくらいが、相手にも自分にもリスクが少ない気がするんで
>す。
わたしは鬱の人にかける言葉をかけましたが、別に自分のリスクをさける
ためにそうした訳ではありませんよ。相手のリスクにはならないような配慮
はしましたけど。kakoさんのコメントにレスをつける時は、ひどく葛藤
しました。「放っておいた方がよい(見捨てることは違う)」という言説は
以前からわたしも聞かされていましたからね。しかも、わたし自身が「深刻
に悩んでいる時はただ放っておいてほしい。」という感覚の持ち主です。状
況が状況だけに、自分が望まないことを他人に対して行なっていいものかど
うかひどく悩みました。さらにこの場合は蛮勇を振るって積極的に自殺を阻
止した方がいいのではないか、という考えも頭をもたげました。じっさい、
秘密結社AのMLに参加している人ならば、メール・アドレスが分かる訳で
、自殺のサインを出している人がいるということをプロバイダーなりに通報
して連絡をしてもらうという選択肢もあった訳です。けっきょく、鬱の人に
かける言葉をかけると言う選択肢を選んだのは、kakoさんが落ち着いた
環境でいられるということを最優先したためです。
他人とは自分が思い通りにすることができないし、また思い通りにしては
ならない存在です。他人に対して働きかけをする時は、いつも葛藤していま
す。
(続き)それは、お医者さん先生方なんじゃないかってこと。
早発性痴呆が、精神分裂病と改められたころ「(今でいう)神経症」の青年が青春期の悩みで病院を訪れたとき「分裂病」と診断されて、後の人生を投げうち無為にすごしたという。
精神医療や脳神経医療の歴史は、失敗の連続につぐ模索。
そのことをもう一度考えてみてくれないかなって、思う。
俺は同居人には、仕事や生活に支障がないかぎり診断は受けさせたくない。
なぜなら、不器用でもなんとかやっていけるなら在るがままでいいと思うから。
競争についていけなくても、障害者になる必要はないと思う。
ついていけなくても、それはそれでいいと言っている。
シュッツ wrote:
>自分個人の中でどう受け止めているかといことなら、4「脳の機能障害」または似てるけど「遺伝子の障害(遺伝的障害ではない)」、これは7になるのかな。
>理由は、理解しやすいから、それと私の興味の対象である「自閉症(AS、ADHD)とは何か?」という課題に結び付けやすいから。
理由を追加します。
現在の診断基準は外面的なものであるため、障害となるかどうかの境界があいまいであると思います。
そのために、どのような障害であるかが分かりにくくなっているのでしょう。
そこで、神経や遺伝子といった、実在のものによって定義することができれば、障害の正体が分かりやすくなると考えます。
だから私は、その分野で障害が解明されることを望みます。
最初に謝っとく。発達障害のことには全くの門外漢でゴメン。
ただ同居人が診断を受けたがっているんで、彼女を通して感じたこと・俺なりに発達障害の本を読んで感じた懸念をカキコさせてほしい。
あくまでも無知の門外漢の言うことだから、こういう見方も健常者の中にはあるんだよってとこで。
だんだん世間が競争社会になっていってるよね。そういうなかで、昔だったらたいして問題にならなかったちょっとした不器用さが、落ちこぼれ→学習障害LDと言われるようになった気がするんだ。
でも、それって障害にくくっていいのかな?
障害児になることで、無理な努力を課せられないメリットはあるかもしれないけど、その努力って学歴中心主義の社会じゃなかったら、もともとしなくていい努力でしょ? 世の中が進みすぎているから、遅れてみえるだけ。
なのに、LDのコは障害として扱われて薬飲まされる。
リタリンが効くっていうけど、そんなの当たり前じゃん。覚醒剤だもん。
そして、今 アメリカじゃLD児がリタリン中毒になってる。
成人の間でもリタリン中毒は社会問題になってる。
なのに、LDの診断や治療で荒稼ぎした精神科医達はいまだ診断を求める親から搾取しているという。
「落ちこぼれ」ながら人生を健康に過ごせたかもしれない子が、リタリン中毒。
なのにLDを障害として認定した医者たちは学士先生。
これとおんなじことが将来、このままじゃ日本でも起きるんじゃないかって懸念ね。
今 競争社会で「不器用」や「人嫌い」や「他人についていけない」程度の事がすごくのしかかってくるようになったよね。その不安につけいって、新しい障害(ASとかADHDとか)をつくりだすことで、利益があるのは本当は誰なのかってこと・・(続く)
名無しさん wrote:
>理解しよう、肯定しようって人の意見しか聞かないんだったら何も新し
>い展開ってないと思うがな・・。
この発言を見ると、名無しさんは障害を理解しよう、肯定しようという
立場ではないということなのでしょうか?とすると、名無しさんはどのよ
うな目的があって、この掲示板に来られたのですか?
>鬱の人に安易なアドバイスは危険、共依存は無用ってこと。
名無しさんが鬱に苦しんでいる人にどんな関わり方をするかは名無しさ
んの自由です。でも他の人の関わり方まで干渉する必要はあるのでしょう
か?わたし自身の考えでは鬱の人に対する関わり方はケース・バイ・ケー
スであり、1つの方法しかないというものではありません。それは健常者
と呼ばれる人に対する関わり方が画一的ではないことと同じです。
>俺も@健常者とはつけたけど、鬱の経験はある。健常者だの障害者だの発
>達障害だの言ってたら世間が狭くなっちゃうんじゃないか?っていう考え
>はある。
健常者だとか障害者だと言って、自分と異質なものと関わりを避けるこ
とに問題があることは確かです。しかし、自分の立場を持ちつつ異質な他
者と交流していくことは重要です。現に名無しさんは自分は自閉圏とは異
質な存在な人間であると宣言したうえで発言しておられますよ。これも、
わたしの考えでは自分の立場を持ちつつ、異質な他者と関わっていること
になります。
名無しさん wrote:
>「あたしなんか死んじゃえばいいんだ〜」と言うのと同じこと書いてるんだよ?
>「ぼくはひはんされた〜 もうかけないんだ〜いきがいなのに〜ひどいひどい〜
> ころされた〜 えーん、もういいもんいいもん いじめればいいんだもん」
言いたいことは分かりますけどね。もうちょっと相手に敬意を払った
反応していただけませんか?
名無しさん wrote:
>放置が暖かい場合もあるだろう。Moto氏の言うとおり、放置しよう。
>ただ、最後に私なりの懸念は発表させて頂く。それを置き土産に、あとは
>諸兄で一考していただければ幸いである。
お〜い、自分の言いたいことだけ言って、相手に反論の機会を与えずに
去っていくのはそれこそ議論の放棄ですぜ。ひとまず、名無しさんが書い
ているコメントへの反応が出揃うまで待ってもらえませんかね。
哀れに見える人
哀れだと答える人
人を哀れだと言う人
哀れな人を探す人
他人の中の
哀れさを探す人
他人の中に
哀れという名を付ける人
僕は哀れなの?
君は哀れじゃないの?
哀れじゃない人はいるの?
僕のこと哀れだと思うのは
哀れに見えるから?
それとも君が思いたかったから?
>失いし言葉にて
だから、断筆しろ!なんて一言も書いてないでしょ!!
どうして一意見を全否定に受け取るかな〜
>語られし死を
>音楽で遮る者
それはネットで個人を想定して送るものじゃないでしょ。
俺が言いたいのは、こういう場で自殺やひとの生死に関わるような重大なことを
ポエムっていう「作品」にくくって、自分のHP作品のコレクションの一部にするようなことはちよっと無神経じゃないかってこと!
はっきりいえば!
>この上に我を殺すこと
>何者にも能わず
>我の死を知らぬ者
>知らずともよい
>さらに剣を振るうがよい
あのね、俺は断筆しろとか言った覚えはないんだけど。
「殺された」とか被害者ぶるのも「剣」になること知ってる?
「あたしなんか死んじゃえばいいんだ〜」と言うのと同じこと書いてるんだよ?
「ぼくはひはんされた〜 もうかけないんだ〜いきがいなのに〜ひどいひどい〜
ころされた〜 えーん、もういいもんいいもん いじめればいいんだもん」
どっちもね、一事が万事に思わないの!!
口がある人だけが
助けてもらえますか
手がある人だけが
干渉から逃げられますか
声を出せなければ
見捨てられますか
合図が出来なければ
侵入されますか
見られる人と見られない人
同じかも知れない
違うかも知れない
出せない声を聞いて下さい
口のある人と同じ声を
出しているんです
Mr.Moto wrote:
> 「名無しさん@AS+LD」さんと「(・∀・)(゜Д゜)」さんにお願いする。
本来なら私が言うところを、Moto氏に代弁いただいたようで感謝している。
> おれだってたまには死にたいような気分にはなるのだが、おれが死んじまうと世の中に不都合もあろうかと思うし、くたばるにしたってそうそう楽ではなかろうから死なんだけなのである。自分なんか死んじまったほうが世間のためとか思っとって(鬱のときには確かにそんな気分になる)楽に死ねそうだったらつい死んじまうのが人間っちゅーものなのである。
> とはいえ、「放っておく」というのはあくまで対人心理学でいう「手を離す」ことを言うのであって、決して“見捨てる”ことでもなければ“突き放す”ことでもない。そこんこを弁(わきま)えない外野の人間にぎゃあつく言われたくないわい、という気分はおれにはある。
自殺の心理と、共依存の危険性を共に見抜いたカキコはMoto氏が最も鋭い表現をされていたように受け取る。Moto氏には敬意を覚える。
> そんなわけで、『アスペルガーの館の掲示板』も“放っておいて”いただきたい。
放置が暖かい場合もあるだろう。Moto氏の言うとおり、放置しよう。
ただ、最後に私なりの懸念は発表させて頂く。それを置き土産に、あとは諸兄で一考していただければ幸いである。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami