アスペルガーの館の掲示板(旧)

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お世話になりました
No.13511  Tue, 30 Jul 2002 00:59:00 +0900  オリーブ [この発言にコメントする]

お世話になっております&ご無沙汰しております。
「おうさまのみみ」のオリーブです。

このたび私事多忙のため、
「おうさまのみみ」のHPを
閉鎖させていただくことに致しましたことを
リンクページでご紹介させていただいている
サイト各位へご報告させていただきます。

3年もの間、
「おうさまのみみ」を支えていただき、
ありがとうございました。

http://www6.airnet.ne.jp/ousama/


Re: 近未来の発達障害倫理学(2) 13503へのコメント
No.13510  Mon, 29 Jul 2002 23:14:20 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

リバーさん wrote:

>多々、非難を、受けることを覚悟しつつ書き込みます。私は、一見5体満
>足な、健常者です。でも実際の、社会的能力は、見かけほど、周囲が、期
>待するほどには、はるかにおよばないという感じです。AS、ADDの問
>題の治療を考えるとき、常に、いかにして、正常範囲に、するかというこ
>とが問題になりますが、私は、自分が、小学校3年生程度の能力しかない
>のなら、知能も、見た目も、そのとおりであったらよかったのにと思いま
>す。つまり私は、今、障害者の中に、自分を、入れたいと思っています。
>できるなら、治療も(?)その線で、してもらいたいと思っています。障
>害に見合った外見と、はっきり形にわかる障害が、ほしいと思います。周
>囲から無理な期待を、かけられなくなったら、生きるのが、ずいぶん楽に
>なると思います。

これも応用倫理学で考察されるべき問題の1つと言えるでしょう。発達
障害者の状態像が見かけ上、正常範囲に入った時、現行の制度ではほぼ確
実に公的支援を受けることのできる見こみを失います。つまり、障害者を
健常化していく活動と、公的支援を求めていく活動は現状では矛盾してし
まう部分があるのです。(完全な矛盾ではないのだが)

 ついでに言えば、「障害者にレッテルを貼るのはやめよう」という運動
と「障害への理解を深めていこう」という運動も部分的には矛盾します。
前者は「多くの人が障害を意識しなくなるようにする」ことを目指す運動
なのに対して、後者は「多くの人に障害へ意識を向けさせる」ことを目指
す運動だからです。

 「障害児を普通学級に入れよう」という運動と「障害児のニーズに合っ
た特殊学級を作ろう」という運動も、やはり矛盾があると言えます。

 障害者やその家族が何らかの支援を求める場合、その支援がどんな方向
性を持っているのかをよく検討して吟味して必要があるでしょう。応用倫
理学という学問がその一助になる可能性はあります。


Re: 大いなる謎(心や精神が癒えるとは、どんなこと??) 13508へのコメント
No.13509  Mon, 29 Jul 2002 22:58:34 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
>シペラス wrote:
>> 私は最近とても疑問に思うことがあります。発達障害者や知的障害・精神障害の人たちの未来を考えていく上で、とても重要な問題の一つであろうと思います。
>>その疑問はこういうものです。

>>心や精神が癒えるということは、そもそもどんなことでしょうか?

ちょっと私の考えを整理してみます。
まず「治ったと判断できるのは、精神の病に陥った本人なのか?それとも、周りの人なのか?」という疑問が生じます。
 ことにうつ病・発達障害の場合は、周りの人から「普通じゃない…」と思われていても、本人から言わせると『本調子』とは言いがたい強い苦しさがあるように思えます。「分裂病の人は、病気になったという意識がない!」ということをよく耳にしますが、これは嘘で、中には「死ね!」という幻聴に促されて、病院の屋上から飛び降りようとして、看護婦さんに呼び止められて助かったという、はっきりとした体験談を語ってくれた人もいます。反対に躁病の人のほうが、本人は当然と思っていることが、実は周りの人に迷惑をかけていることに気づけないので、病識がないように思えます。つまり本人が実感している疾患の治癒度と周りの人が感じている治癒度は、かなりかけ離れたものになっていることが言えます。また障害が重度である場合は、どうしても「治った」の判断は回りの人の側にゆだねざるをえない面があります。

 それから「そもそも心や精神というものは何なのか?」ということも疑問です。もし仮に、人間の赤ちゃんを生まれてすぐに、栄養だけ点滴で与えるようにして、一切の外界からの情報を遮断した状態で育てたとしたら、彼は恐らく正常な心の発達をすることができないでしょう。狼に育てられたというインドの少女は、遠吠えをし・鶏を襲って肉を食い・二足歩行をできた期間は18年間の一生の中のほんのわずかな時間に過ぎなかったということです。つまり人間らしい心というのは、他人という存在つまり形成のモデルや適切な量の感覚刺激なしには、正常に形成されない物だと言えます。これを発展させるとどうも精神の病というものは、1個の脳を薬で調節しても、治るというのは苦しさのうちのほんの限られた部分に過ぎないのではと思います。あとは自らの刻苦勉励と周りの人たちのマナコの蒼さしだいでしょう。


Re: 8月4日オフ会のお知らせ 13501へのコメント
No.13507  Mon, 29 Jul 2002 22:37:21 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

Helixさん wrote:

>ええと、このオフ会って何ヶ月かに1度の割合でやるんでしょうか?

 元々は2ヶ月に1回、奇数月に開く予定だったのですが、最近は発
達障害相互支援ネットワークの別の活動との兼ね合いで、何月に開く
のかがはっきりしなくなっております。

 ひとまず、次回は9月の最終土曜日か11月の最終土曜日に開かれ
ることになると思います。(鯨夢が幹事を担当)

>カラオケパーティールームではやはりカラオケですか?
>すいません。教えていただけますか?

 カラオケルームというのは当初は他人の目を気にせずに発達障害関
係の話題で盛り上がれる空間ということで、利用しておりました。し
かし、前回のオフ会では思いにもよらずカラオケで盛り上がったため
、今回もカラオケはできるようにしておこうという話にはなっており
ます。しかし、参加者の中には聴覚過敏を抱えていたり、カラオケが
苦手な人もいるので、今回はカラオケルームを2つ予約しておいて、
一方の部屋だけは「語りに入りたい人のための部屋」ということにし
ておこうかと思っています。カラオケの方はもう一方の部屋で盛り上
がるということで。

 こんな感じでよろしいでしょうか?


Re: 大いなる謎(心や精神が癒えるとは、どんなこと??) 13500へのコメント
No.13505  Mon, 29 Jul 2002 18:10:29 +0900  タレイヌ [この発言にコメントする]

シペラス さんwrote:
タレイヌです。

>心や精神が癒えるということは、そもそもどんなことでしょうか?

でれぇ――――っと、心身が、境界無くそこらへんに広がって、ボケ―――っと、不安無くごろごろできて、何時間か、あるいは何日間か、その状態を心地よく維持すると、その次にやるべき事柄が迫ってきた時、「サア、取り組むぞーーー!!」っと、前向きな気持ちに『努力せずに』成れたのなら、それは、癒されたことだと思う。(ぁ、もう一つ。何か好きなことに、誰にも邪魔されず、とことん気が済むまでのめり込んで、疲れきって、ころっと寝てしまって、目覚めた時、やはり、次の別の事柄に向けて、やる気がもてていることを自覚できた時)

>薬で脳の状態を制御することでしょうか?

違うと思います。

>放射線トレーサーで染め出された、悪い行いをする脳の部位を切ることでしょうか?

それは、できないと思います。これからもです。なぜなら、『脳』は、ネットワークだからです。(ほら、こうもりさんの物語が、このへんを題材にしています)

>環境に慣れるためストレス体制を養うことでしょうか?

耐性(ね?)を養うことではなく、どう付き合っていくかだと思います。

>一生、施設通い+年金OR生活保護で、生き長らえることでしょうか?
>逆立ちしてもできそうもないことを、ためらわずやれるようになることでしょうか?
>当てにならないロールシャッハテスト・知能検査で、落ちつつきさきが篩い分けられることでしょうか?

達成感や、自分が誰かの役に立っていると自覚できることなどの、自分がここに存在している意味を見出せなければ、無自覚のまま「ストレス」と、なってしまいます。無自覚のストレスは、無自覚であるがゆえに、付き合い方が見出せません。

>自分のあるがままの姿を、恥ずかしい面を含めてそっくりそのまま受け入れることでしょうか?

卑屈にならずに、受け入れられるのであれば、それは、すばらしいことだと思います。卑屈にならずに受け入れられたということは、自己理解(=分析)ができているということですから。それができたならば、自分の個性として生かす方向で考えることの入口に立っていることかもしれません。
何が辛くて、何が恥ずかしいのか、何が楽しくて、何がやれるのか、それを考えているうちに、自分にとっての『ストレス』の本態が、見えてくるのかも、しれません。

ストレスと癒しは、交代でやってくるもの・・・・・・。
どちらかだけだったなら、両方とも、心と、体を、痛めつけます。

 私は、そう思っています。

   (タレイヌ)


帰ってきたぞ、帰ってきたぞ、ウルトラ・・・。
No.13504  Mon, 29 Jul 2002 10:32:18 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

 こんにちは、名加野です。お久しぶりです。

 タイトルは何の事は無く、会社の自みゅ所に帰ってきました。1ヶ月半出張……長かったです(^^;

 でも、また8月中旬から出張かもしれません。決定事項ではないですが。

 何処へ行ってたかと言うと、横須賀にある自*隊です。

 ああ、敷地内に生息している鴨や亀その他の動物はかわいかった(何しに行ったんだおのれは(汗)

 以上近況報告でした(^^;


Re: 近未来の発達障害倫理学(2) 13498へのコメント
No.13503  Mon, 29 Jul 2002 10:22:50 +0900  リバー [この発言にコメントする]

こうもり wrote:
> 再び、ヘンテコな物語を作って、実験的な考察をやってみます。
多々、非難を、受けることを覚悟しつつ書き込みます。私は、一見5体満足な、健常者です。でも実際の、社会的能力は、見かけほど、周囲が、期待するほどには、はるかにおよばないという感じです。AS、ADDの問題の治療を考えるとき、常に、いかにして、正常範囲に、するかということが問題になりますが、私は、自分が、小学校3年生程度の能力しかないのなら、知能も、見た目も、そのとおりであったらよかったのにと思います。つまり私は、今、障害者の中に、自分を、入れたいと思っています。できるなら、治療も(?)その線で、してもらいたいと思っています。障害に見合った外見と、はっきり形にわかる障害が、ほしいと思います。周囲から無理な期待を、かけられなくなったら、生きるのが、ずいぶん楽になると思います。


Re: 精神病院へ入院した経験のある人へQ。 13479へのコメント
No.13502  Mon, 29 Jul 2002 07:23:32 +0900  こりっこ [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
>精神病院へ入院した経験がある方に、お尋ねします。
>
>病院で嫌だったこととして、どんなことがありますか?
>
>またその経験から考えるに、現在ある病院をどのように改善していけば、精神障害者の人たちに対して、真に心が休まる場所になると思いますか?

朝早くからです。おはようございます!
おもしろい漫画をみつけたので紹介させて頂きます。
「NANASE」・原作・筒井康隆・画・山崎さやか
おもしろいというか、ちょっとオカルティックなんですが超能力者のお話です。 人の心が読めてしまうっていう能力です。「サトラレ」(考えが読まれる)とは反対の能力ですね。危険なシーンや暴力的な場面が多々出てきますし、想像の世界とは思えない現実でガツーンとやられているようで正直、すごく気持ち悪くなった事からも満足しました。(やけにリアルじゃないの、やるのお〜って奴です。)
超能力者っているのでしょうか?現在、私個人の意見としてはいないという事になっています。いるという風に考えると世の中の多々ある情報に振り回されて迷惑します。
この漫画を読んでいると精神病院へ入院する時の心境を思い出しました。(2週間位で退院)
悪霊に追いかけられて命を狙われていると本気で思い込んでいました。
その悪霊は生きてる人間の中に入り込んで操るのです。
だから、うおぉ〜先生にとりついたぁ〜!うおぉ〜頑丈な父親までとりつくかぁ〜(面会室でナイフを振り回し、ビビルと直ってないと騒ぐ親父。平静をよそおったのに気付かれた。)
その時は身の安全を求め、警察への保護も本気で考え、自分から入院を希望しました。でもどうやら重症だった。人がいる事にはやすまらんわい。どいつに悪霊がとりついているか判別せないかん。警戒してばっかり。どこにいても同じという結論に達し、次はおとなしくして退院する事を望み静かにしました。被害妄想を話し出すと退院できなくなります。
病院で嫌だった事。入院したのは私の意志なのに退院は意志が通らない事。
ご飯の量が多い事。ダイエット食に変えてくれというとダメだと言われた。
なのにダイエット食にだけヨーグルトがついていたり。不公平だ。
卓球や漫画やテレビがあって部屋にはオルガンの先生がいて楽しくて歌いまくっていると薬を増やされた事。ならば静かにしてやる。
私は重症患者の部屋にいたので楽しかったです。一人事いっている人が多くて安心しました。
入院して暫くすると楽しそうに見えたらしく、「なんで入院しているの?」と聞かれた事もありました。聞いてきた人は時々悪魔がおりてくるんだそうです。でも、もう大丈夫ですよ!というとありがとうございます。と感謝されました。
私は入院中の方が随分意欲的な発想になりました。これは入院がむかないという事でしょう。これからは、オリンピック選手を目指そうとか考えていました。ロクな事考えないです。でも誰にもいいませんでした。
いずれにしろ、短い期間だったので楽しい思い出ができました、というところでした。


Re: 8月4日オフ会のお知らせ 13496へのコメント
No.13501  Mon, 29 Jul 2002 02:42:32 +0900  Helix [この発言にコメントする]

こうもりさん wrote:

>> 発達障害相互支援ネットワーク主催の東京の8月オフ会の正式な告知を
>>行ないます。
>>(集合場所)8月4日(日)AM11:00にJR御茶ノ水駅聖橋口改札
>>      口に集合。

ええと、このオフ会って何ヶ月かに1度の割合でやるんでしょうか?
参加したいんですが、夏は体調管理がつらいので1ヶ月毎とかに決まっているのなら今回は見送って、次参加したいけど、3ヵ月後だったら今回がんばって参加しようとも思います。

>>(会場)昼食を摂った後、カラオケパーティールームに行く予定。場所は
>>    メールでの申しこみのあった方のみにお知らせします。(今週末
>>    ぐらいに)

カラオケパーティールームではやはりカラオケですか?
すいません。教えていただけますか?


大いなる謎(心や精神が癒えるとは、どんなこと??)
No.13500  Sun, 28 Jul 2002 22:54:25 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

こんばんは。シペラス(雑草のカヤツグリグサ属の学名のこと)です。
 私は最近とても疑問に思うことがあります。発達障害者や知的障害・精神障害の人たちの未来を考えていく上で、とても重要な問題の一つであろうと思います。
その疑問はこういうものです。

心や精神が癒えるということは、そもそもどんなことでしょうか?

薬で脳の状態を制御することでしょうか?

放射線トレーサーで染め出された、悪い行いをする脳の部位を切ることでしょうか?

環境に慣れるためストレス体制を養うことでしょうか?

一生、施設通い+年金OR生活保護で、生き長らえることでしょうか?

逆立ちしてもできそうもないことを、ためらわずやれるようになることでしょうか?

当てにならないロールシャッハテスト・知能検査で、落ちつつきさきが篩い分けられることでしょうか?

自分のあるがままの姿を、恥ずかしい面を含めてそっくりそのまま受け入れることでしょうか?

……


Re: いわば自然災害のようなもの 13497へのコメント
No.13499  Sun, 28 Jul 2002 19:20:18 +0900  シロ [この発言にコメントする]

様々なことが原因になって起こる精神錯乱などの激しい精神症状は、人間として生きていれば誰でも遭遇する可能性のあること、いわば自然災害のようなものだとわたしは思っています。自分が体験するかもしれないし、身近な他者が体験するかもしれない。

シペラスさんの問いがきっかけとなって、精神病院のことを語れてうれしいです。
いずれまた。


近未来の発達障害倫理学(2)
No.13498  Sun, 28 Jul 2002 15:07:30 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

 再び、ヘンテコな物語を作って、実験的な考察をやってみます。

 遺伝子や脳の研究が進んだ2015年のこと。ASの診断を受け
ている障害者の1人が病院を受診して、以下のような医療行為を希
望した。

 「周りの人から全然障害を理解してもらえないし、障害者手帳を
取得して公的支援を受けることもできません。仕事をやってもうま
くいかないし、このままでは生き地獄です。どうか、わたしを健常
者に改造していただけないでしょうか。」

 幸い、遺伝子治療や脳の手術の発展により、発達障害者の心身に
あってうまく機能していない部分を、うまく機能するように改造手
術をすることは技術的に可能になっていた。その病院の医師たちは
患者の要望を叶えることにした。その障害者は健常者となって今は
平穏に暮らしている。

 しかし、手術をした医師たちの方はその後は散々だった。その手
術をめぐってAS顔負けの倫理学的な議論に巻きこまれてしまった
からである。(あ〜あ、お気の毒様)その手術に対してあがった疑
問や批判点は以下の通りである。

(意見その1)

「そもそも健常者とはどのような人を指すのかを定義することがで
きない。あまりにも多様であるし、医学的に作られた健常者の概念
など、医学的に健常者とされる人々でさえ実現できない理想モデル
に過ぎない。健常者の定義がはっきりしていないのに、どうして障
害者を健常者に改造することなどできるだろうか?」

(意見その2)

「改造手術を望んだAS人の患部はどこにあったのだろうか?本人
が抱えていた発達障害そのものか?それとも自らが発達障害者の一
員であることを受け入れることができないでいる心の状態なのか?
例えば、人を殺したいという願望を持っている患者に医療行為を加
える場合、わたしたちが行なう医療行為はその人の心の状態に合わ
せて人殺しを実現させてあげることではなく、人を殺したいという
願望そのものを消去ないしは沈静化させることである。健常者にな
りたいと願う障害者の心の状態に合わせて健常者に改造することは
妥当なのか?」

(意見その3)

 「その障害者が抱えていた生きにくさの問題は、果たして本人を
健常者に改造することによって根本的に解決するのだろうか?肌の
黄色い人は差別され生きにくくなる可能性があるので、肌を白くす
べきだ、という考えはどこかおかしいはずだ。問題を根本的に解決
するためにはどんな肌の人でも、生きにくさを感じなくなるような
社会を作る必要があるのだ。今回の手術でも、その障害者が生きや
すいように健常者に改造する前に、なぜその障害を抱えている人が
それほどまで社会の中で生きにくさを感じていたのかが問われなけ
ればならないだろう。」

(意見その4)

 (その3の意見とよく似ているが)「要するにその障害者が必要
な支援を受けることさえできれば、そんなややこしい手術をする必
要もなかったのだ。」

(意見その5)

 「脳を改造してしまう場合、患者の自己決定権は改造される以前
の脳にあるのか?改造された脳にあるのか?例えば、改造された脳
が健常者としての判断で「別に健常者になってもいいことはなかっ
たので元に戻りたい」とか「健常者になってみて、普通になりたい
と願うこと自体が同じ障害を抱えていた人への冒とくであること気
がついた」とか「けっきょく一番大切なことは自分の障害を受け入
れることだったことに気がついたんだ」と言って、再治療を要求し
た場合、どちらの意志が尊重されるべきなのか?仮に元に戻したと
しても改造以前の脳は改造された脳と別のことを考えるかもしれな
いのだぞ。体験したり認識することのできる世界が違っているのだ
から。

 これらの問題が決着する日がやってくるのか…、ちょっと疑問で
ある(おしまい)

 以上のことを踏まえてご意見よろしくお願いします。部分的な意
見全体的の意見いずれも大歓迎。どの意見が正しいと思うかを言っ
てくださっても構いませんし、全ての意見を批判的に検討してくだ
さってもかまいません。

 ただし、「そんなことは医師ではなく患者が決めることだ」とい
う意見は今回はなしです。物語では医師が意見を出すという形式を
取っていますが、じっさいには障害者本人がどんな支援を選び取っ
ていくのかを考えていくことを目的として作られたフィクションだ
からです。では


Re: 激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となると思う 13493へのコメント
No.13497  Sun, 28 Jul 2002 14:50:21 +0900  あんく [この発言にコメントする]

シロさん wrote:
>激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となるのだろうと思います。個人の記憶に深く刻まれ、再び相手の具合が悪くなり始めると、前回の入院騒動時に自分が味わった不安などが強烈に蘇えって自分を苦しめる。わたしも、この何年かにそういう体験をしました。

 ん〜と、これは横レスになってしまうかな。あんくです。
 2年ほど前のこと、私の母が友人の精神科医の病院で、入院治療中の統合失調症者のために、慰安ミニ・コンサートを開いた時の話です。(ちなみに、母はおそらく自覚のないアスペルガー・タイプと思われる)ドクターに頼まれ、母はいわゆる「音楽療法」の一環として、モーツァルトの小曲等を演奏していました。小ホールに集まった人々は、ほとんどが、高齢者で、しかも女性ばかりです。ステージ上の母には、その中の誰が看護婦で、誰が患者であるか、はじめのうち見分けがつかなかったといいます。

 ひとしきり演奏が終わり、いったん休憩が入ると、ドクターは小用があるとかで、病院のホールから離れた自宅へ戻ってゆきました。そのとき母は、ちょっとしたいたずら心を起こし、日本の曲、♪お江戸日本橋〜を、ピアノで演奏しはじめました。
 すると、いままでザワついていたホール内が、一瞬しんとなり、今までおしゃべりを続けていた老婆たちは、ステージに目を向け、ひとりまたひとりと、母の周りに集まってきたそうです。母はこう考えたといいます、このひとたちは高齢者で、しかも日本人だ。いかな音楽療法とはいえ、モーツァルトだのクラリネットだのの西洋の曲で、この世代の人々が癒されようはずもない―その思惑どおり、彼女たちは母の演奏に、一心に聞き入っていました。演奏が終わると、中のひとりのお婆さんが、母に近づき、こう話しかけたそうです。
「おや、あなたのしているブローチは、お趣味がよくていらっしゃいますわねえ」

 コンサートが終わると、母はドクターに言いました、「男の患者さんが、ここには見えませんが、どこで何をしているのですか」ドクターは、「みなさん、末期の患者なので、危険ですので連れてくることはできません」母はさらに尋ねました、「でもここにいるみなさん、けっこう落ち着いた、普通の人にみえますが」「みんな、薬で抑えてあります」
 ドクターは答えました。
 その瞬間、母は、患者たちと、ドクターやスタッフの人たちの、一体どちらがまともなのか、まったく分からなくなった、と、私に話しました。

 このような話を、今現在も精神症状に苦しむ人々の前で、していいものかと思い迷わないわけではないのですが。誇張や創作はないものの多少私のアレンジは入っていますが、もちろん事実を元にした実話です。

 ただ、今、私はこの話の意図したところとは、別のことを考えています。おそらく現代というのは、ドラマ『ダーク・エンジェル』でもそうだけれど、医薬品の開発が、進みすぎていやしないか、と。たとえば近所の誰か、学校の友人、街を歩いている人々、仕事を持って忙しく立ち働いている人々。みんな、日本人の性格上、ちょっと疲れて、不機嫌そうである以外、「けっこう落ち着いている、普通の人」に、見えます。
 ただ、それもみな、「薬で抑えてある」だけの、みせかけの健康さであったにすぎなかった、としたら…。痛み止めを飲んだり点滴を打ってでも仕事に出掛け、自分の家族や同僚には笑顔を向け、なんでもないかのように振る舞う。ちょうど、頭痛薬のCMのように。それでいつか、ほんとうに倒れてしまうわけだね。
 
 われわれAsや、ADD者たちの大部分が、常に抱えていると言われるのは、「同じ障害のない、他の人たちにできることが、自分だけできない」という、あの感覚です。けれども非・自閉者、非・ADD者のなかでも、ほんとうなら貧血でとても立っていられないような疲労状態なのに、病院でちょっと応急処置をしてもらっただけで、「休んでなんかいられない。作業に穴を開けるわけには行かない」と、その日のうちに仕事に戻る。ほんとうは全員が、いまにも倒れそうなのに、全員が、(ほんとうは薬で抑えているのに、そう見えているに過ぎない)元気そうな周囲を見回して「自分一人だけが、なまけるわけにはいかない」と、考えているわけです。これは私の、いささか誇張ぎみの作り話。

 「がまんをするのが美徳」とされていたのは、過去のこととされているけれど、「がまんをしないで、今はこんないいくすりがあるのです」と、TVCMのせりふじゃないが、こう考えていくと、「くすりに頼る」というのも一種のがまんなわけだな。礼儀作法の一環であったはずの「がまん」が、今では単なるストレス増幅剤の役目を果たすものでしかない。ような気がする。

 いったい現代の人々というのは、くすりというものの存在を、一体どんなふうに捉えているのだろう?たとえばリタリンを「それさえ飲めば、<ふつう>になることのできる魔法のくすり」だと、考えるから、飲むのか?「体内の不快感を抑える」ためや、「その人の激しい精神症状を見てしまった者に、深刻な外傷体験を起こさせるのを防ぐ」ためなのか?上の母のエピソードを聞くにつけ、こんな疑問が湧き起こってきてしまうのは、私に強い精神症状や、精神病院への入院体験が欠けているがゆえのものなんだろうか?
 
 ………

 私一人だとちょっと結論が見えてこないな。まあ分かっていることは、「くすりが根本治療の決め手とはなり得ない」ってことぐらいのような気がするんだけれど。
 いずれまた。
 


Re: 8月4日オフ会のお知らせ 13462へのコメント
No.13496  Sat, 27 Jul 2002 22:48:54 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

いちおう再告知です。

こうもり wrote:
> 発達障害相互支援ネットワーク主催の東京の8月オフ会の正式な告知を
>行ないます。
>
>(集合場所)8月4日(日)AM11:00にJR御茶ノ水駅聖橋口改札
>      口に集合。
>
>(目印)わたしが水の中に入れると40倍に膨らむという世にも不思議な
>    ゴム人形を入れたペットボトルを持って、突っ立っています。
>
>(会場)昼食を摂った後、カラオケパーティールームに行く予定。場所は
>    メールでの申しこみのあった方のみにお知らせします。(今週末
>    ぐらいに)
>
>(申込方法)可能な限り、下記のメール・アドレスに参加の旨を明記して
>      送信してください。この掲示板での参加表明でもいいのです
>      が、その場合、緊急連絡先や詳細をお知らせすることはでき
>      なくなります。
>       
>      seijinld@msg.biglobe.ne.jp
>
>(緊急連絡先)メールを頂いた方のみにお知らせします。

 会場もなんとか今日決定しました。現時点での参加予定者は7人です。
皆様のご来賓を心よりお待ち申し上げます。では


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13494へのコメント
No.13495  Sat, 27 Jul 2002 12:20:23 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

Maria wrote:
>シペラスさん wrote:
>> ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。
>
> ×「にのまえを踏む」
> ○「二の舞を演ずる」「同じ轍(てつ)を踏む」
>
> 「二の足を踏む」=「躊躇(ちゅうちょ)する」
>
> (Maria)

校正ありがとうございます。
この場合は「演ずる」なんですね。
勉強になりました。


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13492へのコメント
No.13494  Sat, 27 Jul 2002 10:32:45 +0900  Maria [この発言にコメントする]

シペラスさん wrote:
> ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。

 ×「にのまえを踏む」
 ○「二の舞を演ずる」「同じ轍(てつ)を踏む」

 「二の足を踏む」=「躊躇(ちゅうちょ)する」

 (Maria)


Re: 激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となると思う 13492へのコメント
No.13493  Sat, 27 Jul 2002 10:18:16 +0900  シロ [この発言にコメントする]

シペラス wrote:
> 私自身は入院の経験はないのですが、1年半前のこと私の母が・・・

身近な人の激しい精神症状を目の当たりにしたり、強制入院の場に居合わせたりするのは、本当につらい体験だと思います。そして、症状の激しい時期がおさまり、再び前と同じような感じで交流できるようになったときには、本当にほっとします。

激しい精神症状を身近で見るのは一種の外傷体験となるのだろうと思います。個人の記憶に深く刻まれ、再び相手の具合が悪くなり始めると、前回の入院騒動時に自分が味わった不安などが強烈に蘇えって自分を苦しめる。わたしも、この何年かにそういう体験をしました。


Re: イヤだったのは、治療理論を押しつけてくるところ 13482へのコメント
No.13492  Fri, 26 Jul 2002 23:29:09 +0900  シペラス [この発言にコメントする]

シロ wrote:
>>病院で嫌だったこととして、どんなことがありますか?
 >
>その後、幾つもの精神病院に面会に行く立場になってから思うのは、家族中心主義がイヤだということです。友人の面会をなかなか許可してもらえなかったり、友人の立場だと医師や看護者らとなかなか話せないということに、精神病院というものの壁を感じます。整理整頓や、朝起きることなど、基本的生活習慣と看護者らが呼ぶものの基準に達しないと大問題のようにされることにも憤りを感じます。「安定するまで」「落ち着くまで」という訳のわからない言葉によって、1ヶ月、3ヶ月、半年という時間が過ぎていくことにも、いたたまれない想いをすることがあります。入退院を繰り返すうちに「慢性患者」と呼ばれる存在になって、障害年金と生活保護で暮らしながら作業所に通うというような「精神障害者としての人生」のコースに吸い寄せられていく/寄せ集められていくことにも疑問を感じます。

 私自身は入院の経験はないのですが、1年半前のこと私の母が長年の家族戦争のためにガタが来てしまったせいか、街中で私と一緒にいた時に錯乱状態に陥ってしまい、警察に保護された上で山のふもとの病院に運ばれました。強化プラスチックでできた、警察の保護室の壁を母が激しく叩いている音が、未だに耳の片隅に残っています。
 入院後1ヶ月は全く面会謝絶状態で、手紙も病院の人からは「落ち着くまで出さないように…」といわれたので、ある程度そういった面を覚悟できていた私はそんなに苦にはなりませんでしたが、父はものすごくまいっていました。
 やっと面会できたとき母は、同室の方から習ったという折り紙細工を「疲れるけどがんばった…」とうれしそうに見せてくれました。また私が自転車で1時間かけて生活雑貨を届けたときは、それから1週間後に「荷物を届けてくれてありがとう。」と絵入りの手紙が届き、それがうれしかったです。
 初めて一時帰宅した時母は、「ああやっぱりうちは落ち着く…病院はただ寝て起きての生活だよ…5時には食事でそのあとは薬飲んで寝るの…薬を飲まない人は無理矢理口の中に薬を押し込まれるし…」と言いました。精神病院の凄惨な内部の様子を初めて身近に感じた言葉でした。

 私は今、隣町の精神障害者福祉作業所に通っています。作業所のクルー(通所者)のほとんどの人が、やはり入院経験者です。入って1ヶ月くらいしてから、クルーの人たちから、「通院の人がここにくるのは、ずるいです!」「あなたは、働けるよ…」ということを言われ続けたので、私は今日、とうとう堪忍袋の尾か切れて、「そういうことを言うと、やっとの思いで入所してきた、入院を拒んだうつ病の人が孤立してしまったり、プレッシャーで自殺に追い込まれることもあるよ!」と説教をこいてしまいましたが、ある意味では、クルーの方のその言動は「自分たちのにのまえを踏ませまい。」という暗喩だったのだと思えます。



>精神病院は、何よりも、「安心して休息できる場」であって欲しいと思います。どういう環境であると安心して休息できるかは人によって違うと思いますが、先入観なく、管理のための規則を優先させるのではなく、個々人の希望にできるだけ応えるということを第一に考えるようになって欲しいと思います。

 「ならずもの・きちがいの廃棄場」でなく、「新たな人生の出発点」へと精神病院が生れ変っていくことを私も望みます。

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