アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
りるさん wrote:
>> 2)1桁の数の足し算を教えたあとに、繰り上がりのない2桁の数どうしの加算を経由して一気に3桁の数の足し算に行ってしまい、「3桁の数の足し算」を「一般的な足し算」のモデルとして、そこから「特殊な形の足し算」として2桁の数の足し算を教えるというのは、指導法として有効だろうか。
> この文章だけではイメージが浮かばないので、何か例をあげてみてもらえませんか?
つまり、「26+32」とか「54+13」とかはやらせるけど、「57+64」とか「74+29」とかいった計算はやらせないで、三桁の足し算まで一気に行ってしまうということです。とくに後者の「74+29」は、繰り上がりが「玉突き的」に起きるので、「93」とか答えてしまう子供がいそうなので。
「57+64」は「057+064」、「74+29」は「074+029」といった具合に、「三桁の足し算のうち、最上位が0の場合」と解釈すれば、「三桁どうしの足し算」のパターンの一つとして考えられるし、『「三桁どうしの足し算」には、「多数桁どうしの足し算」に必要な要素がすべて含まれている』と考えられるので、『「三桁どうしの足し算」を「多数桁どうしの足し算」のひとつの典型として捉える』のが有効ではないだろうか、ということです。
(Maria)
ぽんこさん wrote:
> 昨日あったのですが、トイレで座っていて、用が終わったとき(小)でした。
あたしの場合、アメリカのアニメ(『トムとジェリー』とか)で頭をぶつけた時に出るような星が飛びます。とはいえ星形をしている訳ではなく、「小さくて明るい人魂」見たいな感じですが。
(Maria)
もっと他にも居るはずだと、思うけどなー。
タイトルでりる wrote:
×「今さからのレスですが」→○「今さらのレスですが」
恥ずかシー。
シロさん wrote:
>くりあさんは、「目を閉じていてもきらきらしている」とは、残像が、ということですか。「糸」と「針」と、どちらに近いものでした? やはり上から降っていましたか。
私の場合は「糸」でも「針」でもなく「ラメみたいな粒」です。自分に向かってゆっくり飛んでくる感じです。今でも年に2,3回の頻度で起こりますが,ほけーっとしてしまいます。
目を閉じても真っ暗な中に,きらきらしています。もっと長く見ていたいという気持ちからすぐ目を開いてしまうので,残像なのか分かりません。
私もお二人のレスを読んで「ついに仲間発見」
なんだかうれしいです。
すごく今さらなレスですみません。
とても興味深いお話だったのですが、算数の指導法スレッドで書いたように、私は「さんすう」レベルで苦手なので、
数学の証明問題の例が出てきたところで読解困難スイッチが入ってしまったのでした。
Mariaさん wrote:
>基本的には「考えるのが好きな人/嫌いな人」で別の文化を持っている(考えるのが嫌いな人が果たして文化と呼べるものを持てるのかどうか疑問なんだけど)ことに理由があるように思います。
「考えることに関して一定以上の能力を持ち、かつ好きな人/そうでない人」かなあ、とも思います。
念のためですが、「発達障害者とそうでない人とのコミュニケーション」についての話題で出てきた話なので、後者はもちろん知的障害等の問題ではなく「発達障害を持たない多数派の(普通の)人」ということです。
> 人間には、なにか「証明」なり「解決策」なりのイメージがあって、そこから外れたものを排除する傾向があるように思います。
>(中略)
>多くの人は、その機序を詳(つまび)らかにすることを怖れているように思います。「そうだから、そうなんだ」というところから、外に出るのが怖い。
>(中略)
>普通の人にとって、「理性」というのは、「自分の外にあるもの」として位置づけられているのではないかと思います。だから、理論で説明されてしまうと、自分のもの(自分の一部)ではなくなってしまうような気がするのではないでしょうか。あたしの場合は、逆に「すっきりと説明される」ことで、真に「自分のもの」になるような感じがするのですが。
「証明」なり「解決策」なりのイメージ=その人の持っている「固定観念」「一般常識」と考えていいのならば、
その枠組みを外すこと=「自身の拠って立つ根本的な何か(自分の日常生活や思考を支えているもの)を否定/解体すること」は、自我の確保(保持)を揺るがすような危機感を感じるものなのだろうなと思います。
通常、日常生活では、こなさなければならない仕事が多いから、いちいち「考えること」をやっていたら生活が立ち行かない。また、日常生活の中で、いろいろと思考を要する重要な案件を抱えている場合は、「何か根源的なものについての考え」まで考える余裕がない。ですから、その部分は「そういうことになってる」「そういうものなんだ」で済ましておく、というのは確かにひとつのスキルだと思います。
ですが、「理性」が「自分の外」にあったら、私は逆に怖いのですが…。それはまぎれもなく「自分の一部」であり、私の自我を形成するものの中でも非常に重要な部分だと思うからです。
私は、上に書いたような「スキル」はスキルとして納得できますが(それは説明してもらったからなのですが)、「説明がつかないものは理解できないのですっきりしなくて気持ちわるい」です。なので、私も「説明がつくことで自分のものになる」という感覚です。
逆に、「私が理解できないことは、それが私には重要でないから/必要でないから」と感じているのですが、これはどうなのだろう…。
「理解できる/できない」の話を、このスレッドで話題にしていたような「思考」とはまた違った「能力」のレベルでいえば、
私は数学や物理学がほとんどわかりませんしできませんが、特に「できたい」とは思っていません。
(それは、自分には、数学や物理学のほかに、標準的に、または標準以上に「できる」能力があると自覚している安心感から来るものなのかもしれませんが)
例えば、私が日常会話程度の英語を話したというだけでいじめに遭ったことがあるのですが(かなりあとになってから気づきましたが)、妬んだりいじめたりする=「自分はそれができない」ことに「コンプレックス」を持つ、ということは、それが「できたい」からではないのか?と思っています。で、「できたい」なら「できる」ように努力すればいいのに、と思ってしまいます。
逆にいえば、「その分野は特にできたいと思わない」なら、「できる」人に対してコンプレックスや妬みも生まれようがないと思うのですが。
特に英会話なんかに関しては、「できたい」よりも、「仕事上それを要求されてしまっている」「『できるのがイイ』という社会通念に振り回されている」という側面もあるのかな。
くりあ wrote:
>それって,何もしていない状態の時に突然現れるのですか?それとも,何かをした拍子に現れるのですか(例えば,立ち上がったり,動いた時とか)?
この問いへのぽんこさんのレスを読んでから書いていますが、わたしも、特に何もしていないときに起こりました。立っているとき。道を歩いているとき。思い出すのは、学校からの帰り道や、庭で。座ったり横になったりしているときには起きなかったです。いつも戸外で起きていたような気がしますが、自信はありません。
と、これを書いている間に、さらにぼんこさん、くりあさんから投稿が。「ついに仲間発見」とは、わたしもまさにそんな気持ちです。そう、確かにひどく誰かに訴えたかったり謎解きをしたい気持ちはなかったけれど、このことは自分の体験としてずっと心に残るもの、また、関心のあることの一つでした。
くりあさんは、「目を閉じていてもきらきらしている」とは、残像が、ということですか。「糸」と「針」と、どちらに近いものでした? やはり上から降っていましたか。
Maria wrote:
> ただ、日本ではあんまり指導されないんですよね。「5=3+□」「9=4+□」とかいった穴埋め問題も教科書には出てこないし。文部省は指導方法そのものには口出ししないらしいので、教師のほうになにか指導上の理由があるような気がします。
そういえば、アメリカに行って下のケタからおつり出されると、思いっきり混乱してしまいます。
しかたないので自分で上のケタから数えなおして嫌な顔されるんですが。
>> ……で、最初の質問なんですが、上と下の計算はどう違っていたのでしょうか?
> 「5を超える数どうしの和で、答えが10を超えるもの」と、「5未満の数と5を超える数の和で、答えが10を超えるもの」です。
> 「5+5=10」という関係が頭にあると、前者で繰り上がりがあるのは自明ですが、後者では繰り上がりがあるのは自明ではありません。
なるほど。区別はわかりました。
しかしなぜそんなに5に注目しなければならないんでしょう。なんの必然性もないのに。5フェチの人は別として。
いちいちその数字が5より大きいかどうかを比べる方が面倒(で、しかも本来の道筋ではないので混乱の元)に感じます、私の場合は。
> >>> 16進ヒトケタどうしの繰り上げ計算の場合、Mariaちゃんは 8 を取り出して使いますか? それともやっぱり5を使いますか?
>>> 2^10≒10^3
>>>です。
>>「ヒトケタどうしの繰り上げ計算」なんですが… 0xA + 0xB とか。
> ですから、あたしの頭の中には、言ってみれば
>という二進法の「そろばん」があるわけです(本当はオン●とオフ○)。
なるほど、2進法換算でやるということですね。……でも 2^10=10^3 といったいどういう関連があるのかやっぱりわからないんですが。
ぽんこさん wrote:
> 何もしていない時に、現れた事がほとんどだったと記憶ししています。校庭で起きたときには、たいてい立ち止まっていた時にだったと思います。昨日あったのですが、トイレで座っていて、用が終わったとき(小)でした。このとき、特別気分が高揚するとか、逆に気持ち悪いとかはなかったです。あえていうなら、あまりストレスのない、少し気の抜けたときに、といえるかもしれないです。きれいだなーと思っているうちに終わるので、もっと続けばいいなとは思います。
私もトイレの時,数えられる回数程度に,起きたことがあります。
あとは,少し気の抜けた状態のときに,何かの拍子で無意識に眉間,こめかみ,目元のあたり,自分でもどこなのかあいまいなのですけれど,ほんの少し力が入ると結構起こります。
きらきらしていて奇麗ですよね。目を閉じてもきらきらしてます。
シロ さんwrote:
>これを読んで驚きました。かなり似ています。わたしは自分に起こるそのことを、「銀色の針が降る」と呼んでいました。やはり小学生のときに体験しましたが、その後も体験が皆無ではありません。わたしの場合は、ウエーブはかかっていませんでした。銀色の短い針のようなものが上から下に降るのですが、やや斜め(右から左へ)に降っていました。針という言葉を使っていましたが、かたいものとは感じていませんでした。非常に細い針ではなく、やや太さがありました。ミシンの針みたいな感じです。持続時間の記憶はありませんが、ごく短かったのは確かです。降ってくるものの数の変化には気づいていませんでした。きれいでした。
>
あぁ!仲間をついに発見!この話ほとんど人に言ったことないです。1回夫に昔、少しだけ言ったことがあるだけかな?わたしは、未診断です。AS傾向はあるけども、おそらく健常者に分類されると思います。内閉性で、交際が得意ではなく(できないということではない)、ASに共感するが、まったくそうだともいえないようなタイプの人間です。
Mariaさん wrote:
>1)指導法としては、「1桁の足し算」→「1桁の引き算」と指導するのではなく、
> 「繰り上がりのない1桁の足し算」
>→「足して10になる足し算」
>→「引き算」
>→「(結果が10より大きい)繰り上がりのある足し算」
>というふうに指導してゆくのが適切かもしれない。
他の方の方法を見ていて、「足し算しようとしてるのになんでいきなり引き算が出てくるんだ??」とびっくりしました。
一ケタの数を自分はどう認識してるか?と考えてみたのですが、
2は「1がふたつ」。
3と4は、一応3、4として認識できてると思います。
5は「ふたつで10になる数」、繰り上がりや引き算のときは「2と3でできてる」。
6は「3がふたつ」または「2がみっつ」。
7は「3と4でできてる」。8は「4がふたつ」。
9は「あと1で10になる数」、繰り上がりや引き算のときは「5と4でできてる」。
ということは、私の把握できる数は、「1、3、4、10」ってことか??
>2)九九の指導をする前に、「倍」という操作(概念)を教えておくのは有効かもしれない。1+1=2 2+2=4 4+4=8 …… とか、1+1=2 2+2=4 3+3=6 4+4=8 5+5=10 …… とか。
それはたぶんとても有効なのではないかと思います。
九九はとにかく必死で暗記したので(これもたぶん「音で」らしい)、4の段以上になると今もときどき思いっきり間違えます。
小学生のときは「勉強した」という感覚はなかったけど全教科だいたい満点だったので、すべて暗記で済ませたのかもしれない。
>1)子供にとって、「2+333」と「333+2」は別物のような気がするのだけれど、どうだろう。
さんすうに関しては私はりっぱに子どもだと思うので考えてみました。
「2+333」→「あ、2だ。うんうん。何ィ333?!うわどうしよう。」
「333+2」→「333!数学だな!(身構える)→あ、+2か。なら一桁のとこだけ考えればいいから、333の一桁部分は3だから繰り上がりもないから3+2(+その上の桁の数)だな。→2+3(+330)で335だな。うんうんよかった。」
+「あ、なら考えたら2+333もいっしょじゃん。びびっちまったぜ。」
…別物ですね。
>2)1桁の数の足し算を教えたあとに、繰り上がりのない2桁の数どうしの加算を経由して一気に3桁の数の足し算に行ってしまい、「3桁の数の足し算」を「一般的な足し算」のモデルとして、そこから「特殊な形の足し算」として2桁の数の足し算を教えるというのは、指導法として有効だろうか。
この文章だけではイメージが浮かばないので、何か例をあげてみてもらえませんか?
ちなみに、別スレッドでしたが、ディックの小説の話で出てきた「代数」は、ことばとしてよく聞くし習った覚えもある気がするんだけど(中学?)、どういう系統の問題なのかからしてわからない。(当時もわからないままこなしてたのではないかと思う)例を見たら暗記した計算式とか思い出して解けるかもしれませんが。「Xを使って『代入する』」ってやつでしょうか?
くりあさんwrote:
>それって,何もしていない状態の時に突然現れるのですか?それとも,何かをした拍子に現れるのですか(例えば,立ち上がったり,動いた時とか)?
何もしていない時に、現れた事がほとんどだったと記憶ししています。校庭で起きたときには、たいてい立ち止まっていた時にだったと思います。昨日あったのですが、トイレで座っていて、用が終わったとき(小)でした。このとき、特別気分が高揚するとか、逆に気持ち悪いとかはなかったです。あえていうなら、あまりストレスのない、少し気の抜けたときに、といえるかもしれないです。きれいだなーと思っているうちに終わるので、もっと続けばいいなとは思います。
りるさん wrote:
> で、私の場合は、
>
> 2+9 → (1と1)+9 → 1と(1+9) → 1+10 → 11
>
> 7+8 →
7と8は1しか違わないから8×2に近いな → とりあえず8×2をやってみよう=16
→ 8がふたつじゃなくてかたっぽは7(8より1少ない)だったよな → 16-1=15
→ほんとかなあってるかな自信ないな →たしか7+8とか8+7は15と暗記した覚えがあるからたぶんあってるよな
> で、最終的には電卓で確かめたりします…。
……と、いうことは、
1)指導法としては、「1桁の足し算」→「1桁の引き算」と指導するのではなく、
「繰り上がりのない1桁の足し算」
→「足して10になる足し算」
→「引き算」
→「(結果が10より大きい)繰り上がりのある足し算」
というふうに指導してゆくのが適切かもしれない。
2)九九の指導をする前に、「倍」という操作(概念)を教えておくのは有効かもしれない。1+1=2 2+2=4 4+4=8 …… とか、1+1=2 2+2=4 3+3=6 4+4=8 5+5=10 …… とか。
3)(2)に関係して、「乗算」を「累加」として教える指導法には、(遠山啓さんが言うように)確かに無理があるかもしれない。「数×[1あたり量]=量」のほうが、概念的にはすっきりする。
これ以外に気になること。
1)子供にとって、「2+333」と「333+2」は別物のような気がするのだけれど、どうだろう。
2)1桁の数の足し算を教えたあとに、繰り上がりのない2桁の数どうしの加算を経由して一気に3桁の数の足し算に行ってしまい、「3桁の数の足し算」を「一般的な足し算」のモデルとして、そこから「特殊な形の足し算」として2桁の数の足し算を教えるというのは、指導法として有効だろうか。
ちなみに、現在3桁までの足し算の分類を遠山啓先生にならってやっているところ。
(Maria)
ぽんこさん wrote:
> 子供のころ、小学生(1〜4年生)くらいのことですが、こんなことがありました。よく校庭で起きたことなのですが、銀色のきれいな光が2,3センチメートルの短い糸のようになって、キラキラしながら自分の回りを取り巻く現象があったのです。上から下へ、降りるのですが、少し軽くウエーブがかかっていました。そして次々に消え、また降ってくるのです。時間にして5〜10秒ぐらいです。糸の数は少ない時と、多いときがあり、時間も長い時(10秒)と短いとき(一瞬)がありました。成人してからは、ほんのたまに瞬間的にわずかに現れました。つい先ほどもありました。ちょっぴりですが。
シロさん wrote:
>これを読んで驚きました。かなり似ています。わたしは自分に起こるそのことを、「銀色の針が降る」と呼んでいました。やはり小学生のときに体験しましたが、その後も体験が皆無ではありません。わたしの場合は、ウエーブはかかっていませんでした。銀色の短い針のようなものが上から下に降るのですが、やや斜め(右から左へ)に降っていました。針という言葉を使っていましたが、かたいものとは感じていませんでした。非常に細い針ではなく、やや太さがありました。ミシンの針みたいな感じです。持続時間の記憶はありませんが、ごく短かったのは確かです。降ってくるものの数の変化には気づいていませんでした。きれいでした。
それって,何もしていない状態の時に突然現れるのですか?それとも,何かをした拍子に現れるのですか(例えば,立ち上がったり,動いた時とか)?
あんくさん wrote:
> いかに最新の機器が開発されたとしても、LD者自身が持っている内面を表現することまで、逐一機械に代行させることは不可能であるというジレンマ
そうです。
療育、詳しくは(?)感覚統合というのかもしれませんが、内面を表現する前に、必要なのは、内面に経験と感覚を溜め込む(?)ことです。溢れるほど、溜め込ませておいて・・・・今度は、外側から、言葉かけをして、『その瞬間』を逃さずに、感覚と言葉とを、同時に『引っ張り出す』=『つなげる』
これは機械にはできません。やれるのは、多分、人間だけでしょう。
(補足ながら、内面に溜め込むためには、たくさんの楽しい『体験』を、必要とします)
> 某サイトの流儀から抜け出せないままでいる者達が、この掲示板では、あのように彼らの「脆弱さ」をさらけ出すことにしかならない結果となっているように、「最新設備」という、現代文明の産物は、しばしば人間を甘やかすことになってしまいがちであるという危険も、見逃してはならないと思います。
本当に、そうだと思います。自分の体を、使ってみなくては、知る事のできないことが『世界』には、満ち満ちているのです。満ちていることのほうが、はじめにあるのです。人間自体が動く事で、得られるべき情報を、『設備』が、遮断している可能性を、疑って欲しいです。
(タレイヌ)
みどり さんwrote:
>実際には頭のなかに横に倒した、長さ10の棒っぽいものが浮かびます。10のうち2が塗りつぶされていて、塗り残しのところに9を持ってくると右端に1の分が飛び出る、という感じです。
>もちろん16進のときには長さ16の棒です。
ありがとうございます!タレイヌです。
算数塾をやっているので、子どもに、色々な働きかけをするんですが、この、視覚的(って言うかな?でも、言う事にする。)方法を、ちょっと試してみたいので、使わせてください。
まだ、何年後かもしれないので、結果が出たら、書き込みます。
(かなり学べる掲示板に感謝している、タレイヌ)←長すぎ!!
みどりさん wrote:
> しかし、Mariaちゃんの方式だと、約数である必要もないわけですよね。(4+6)=10に思い入れのある人なら、左の数字から4を持ってきて、右の数字から6を持ってきてもいい。
> で、私はもう少し臨機応変に、左の数字に呼応するもの、つまり2+9なら、(2+8)=10を使うわけです。
「足して10になる組合せ」に着目する方法も確かにあります。
ただ、日本ではあんまり指導されないんですよね。「5=3+□」「9=4+□」とかいった穴埋め問題も教科書には出てこないし。文部省は指導方法そのものには口出ししないらしいので、教師のほうになにか指導上の理由があるような気がします。
> ……で、最初の質問なんですが、上と下の計算はどう違っていたのでしょうか? どちらが難しいかと言われても、私にとっては小学校1年の時点でどれも同じでした。
「5を超える数どうしの和で、答えが10を超えるもの」と、「5未満の数と5を超える数の和で、答えが10を超えるもの」です。
「5+5=10」という関係が頭にあると、前者で繰り上がりがあるのは自明ですが、後者では繰り上がりがあるのは自明ではありません。
>>> ところで、私は職業柄16進の数字を足したりひいたりすることも多いのですが、きっとMariaちゃんもそういう機会がある人じゃないかと思います。
>>> 16進ヒトケタどうしの繰り上げ計算の場合、Mariaちゃんは 8 を取り出して使いますか? それともやっぱり5を使いますか?
>>>
>>>#私は16を直接扱いますが、場合によっては途中で補助的に10を使うかもしれません。
>>
>> 2^10≒10^3
>>
>>です。
>
>「ヒトケタどうしの繰り上げ計算」なんですが… 0xA + 0xB とか。
ですから、あたしの頭の中には、言ってみれば
|| |||| ||||
◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
という二進法の「そろばん」があるわけです(本当はオン●とオフ○)。ついでに右手と左手の両方で、正論理(立っている指が1)と負論理(折っている指が1)の二進法の数え上げができます。
アラビア数字(正しくはインド数字)を見ると自動的に十進法の構造が頭に浮かんでしまって混乱してしまいます。十六進数を扱うときは、A→●○●○、B→●○●●、C→●●○○、D→●●○●、E→●●●○、F→●●●●と早々に変換してしまって、数字は忘れることにしています。
(Maria)
ぽんこ wrote:
> 子供のころ、小学生(1〜4年生)くらいのことですが、こんなことがありました。よく校庭で起きたことなのですが、銀色のきれいな光が2,3センチメートルの短い糸のようになって、キラキラしながら自分の回りを取り巻く現象があったのです。上から下へ、降りるのですが、少し軽くウエーブがかかっていました。そして次々に消え、また降ってくるのです。時間にして5〜10秒ぐらいです。糸の数は少ない時と、多いときがあり、時間も長い時(10秒)と短いとき(一瞬)がありました。成人してからは、ほんのたまに瞬間的にわずかに現れました。つい先ほどもありました。ちょっぴりですが。
これを読んで驚きました。かなり似ています。わたしは自分に起こるそのことを、「銀色の針が降る」と呼んでいました。やはり小学生のときに体験しましたが、その後も体験が皆無ではありません。わたしの場合は、ウエーブはかかっていませんでした。銀色の短い針のようなものが上から下に降るのですが、やや斜め(右から左へ)に降っていました。針という言葉を使っていましたが、かたいものとは感じていませんでした。非常に細い針ではなく、やや太さがありました。ミシンの針みたいな感じです。持続時間の記憶はありませんが、ごく短かったのは確かです。降ってくるものの数の変化には気づいていませんでした。きれいでした。
> ドナ・ウィリアムスが小さい頃きれいな光の玉を見たようなこと書いていましたよね。本が手元にないので記憶が不確かですが。私は、小学2年生のときだったと思うのですが、色付きのきれいな透明の玉を下校途中に何度か、見ました。植え込みの草木に緑の透明な玉がポンポン並んでいました。(音はしません。)空にはピンクや黄色の玉が浮かぶのです。この色付き玉の現象は数ヶ月でおわり、それから後は2度と見ていません。
色付き玉を見る経験は、わたしはしていません。
> このようなことは、眼の病気か、栄養不足のせいだと思い、長い間あまり気にしていませんでした。それとも、ASに関連する症状なのでしょうか?どなたか、同じような経験のある人、あるいは医学的に説明できる人、何でも結構ですから、この現象に関して、レスを下されば幸いです。
「銀色の針が降る」ことは印象深かったので、現在に至るまでひとりでは時々「あれは何だったのだろう」と考えていました。今年になって自分が高機能自閉症・アスペルガー症候群らしいと知り始めてから、そのことと関連するのだろうかと思い、この掲示板で過去に誰かが書いていないかと(途中まで)調べたりしました。見当たらなかったので、自分が書こうかどうしようかとたまに考えていました。
子どものとき、「銀色の針」を現れるのには何か法則性があるのか考えてみようとした記憶はありますが、追求はしませんでした。それよりも、それは「ふいに現れる不思議な自分だけの体験」でした。苦痛を伴わなかったので病気とは特に感じていませんでしたが、目や脳の異常かもしれないと、うっすらと気にかかることがありました。
>
> 5未満の数と5以上の一桁の数を足すのと、両方とも5以上の一桁の数を足すのとの違いだと思っていたの。ちがうかな?
5以上ではなく、5より多い一桁の数と言った方がいいかも。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami