アスペルガーの館の掲示板(旧)
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<FONT COLOR=#0066FF>リュウさん wrote:
>たびたび、私は、「自分には、感情がないのではないか。」
>と思うんですが、今日は特に感じました。
私は逆に、一時の感情に流されて周りにが見えなくなるタイプです。
本当に自閉なのか?って疑いたくなるくらい、衝動的で感情に突き動かされ易い人間です。
>皆が、それぞれに死を悼んでいる中、
>私がしていることは、「私は、なぜ、悲しくないの?
>ここにいてもいいの?」という心配だけでした。
>自分が情けなくなりました。 </FONT>
去年、祖母の葬式が有ったのですが、葬式が終わって親戚どうしで集まって食事をする時になっても、まだいつまでも涙が止まらない状態でした。
ぺんぺんさん wrote:
>普通の人でも全然悲しくない人、悲しみを出さない人、
>いろいろいます。
>だから淡々としかできないのなら
>淡々としていいと思います。
>
別スレでは、レスどうも有り難うです。
葬式が終わった後、東京から叔母がうちに来てくれた時、「葬式の時はバタバタと忙しくて、あまりピンと来なかったけど、しばらく経って落ちつてから、(地元に)帰って来てももう居ないんだなって感じに、後から(悲しみが)沸いて来る」と言ってました。
>ただいくら葬儀への参列を繰り返しても
>どうしても線香をあげる手順が覚えられませんでした。
>先にチーンと鐘を叩くんだったか、後から叩くんだったか、
>お香を額に持っていくのは一回だったか3回だったか
>それが覚えられず
>いつもちょっとどきどきどきどき・・・。
私も、そうでした。
>動揺すると変なことをしてしまいます。
有る有る、そう言う事って。
ぺんぺん wrote:
>わたしはお葬式で悲しんでいる人に向かって
>非難されるようなことは言っていません。
あなたの事を非難しているのではないですよ。
あなたが人を無神経に傷つけているとは私の文章からは
言っていないことを読み取ってほしいです。
わからないということを書いておられたので
パターン的に覚えてはいかがかとお話させていただきました。
人が悲しんでるときに、自分を混乱させないためにと
そっけない態度をとってしまうと「冷たい人」と見られてしまいます。
だから周りに合わせて悲しんでる「振り」だけでも
したほうがいいと思うと言ったまでです。
時としてASでなくても、悲しみが湧かない場合があります。
時として、相手の悲しみがわからない事があります。
しかしASでない人々は、こういう時は悲しいものなんだと
思い「お察しいたします」と、ねぎらいの言葉をかけています。
その言葉だけで、悲しんでる人は「ありがとう」と気持ちが
やすらぐものなのです。
私が指摘したのは、息子の反応です。
そして、相手の気持ちがわからなくても
それを正直に口にしてしまっては駄目ですよねってことを
言いたかっただけなのです。
>無理をして共感しようとすれば
>自分を混乱させると思いましたので
>葬儀の話を出しました。
これはちょっと例題とすべき話題の選択が悪かったと思いますよ。
葬儀、つまり人の死については、大変デリケートな問題です。
そういったデリケートな問題は一般的に
人によって反応の仕方が大きく違ってくると思いますし
例題とすべきでは無いと思います。
なぜなら、扱い方がとても難しい話題だからです。
たとえば、私のように身内を失ったばかりの者は
大変強く反応してしまいます。
できれば、この場でそういうものらしいという事を
参考にして覚えていただければと思います。
説教じみてごめんなさい。
しかし、私はあなたを非難は全くしていません。
ASを持つ人々は独特の世界で物事を見ていると思います。
私はココで私の息子も含めてASを持つ人々がどういう事を
日ごろ考えているかを知りたいと思い参加させていただきました。
人それぞれ、いろんな考え方があっていいと思います。
しかし、世の中を生きていくためにはルールが必要です。
誰が決めたわけでもない、一般常識というやつです。
自分が嫌でもそのルールに沿って生きていかなければならないことがあります。
こんなに偉そうに物を言っている私でも、かつてはその常識とやらが
わずらわしいと思ったこともあります。
しかし、年齢を重ねているうちに、それらのルールに沿って生きて
行かなければ社会に相手にされなくなってしまうという事を覚えました。
面倒くさくて、馬鹿馬鹿しいこともありますが、
世の中ってそういう部分があるらしいのだということを
私は息子に教えていかなければ。。と思っています。
以上が私の所見です。参考までに。。
わたしはお葬式で悲しんでいる人に向かって
非難されるようなことは言っていません。
儀式の場でどの程度その場に応じた態度をとることができるのかは
その人のそれぞれの能力だと思います。
人を傷つけようとしてひどいことを言う人はいない思います。
望まずに人を不快にさせることを
恐れている人が多いと思います。
だから悲しむことができないことについての
投稿があったのだと思います。
無理をして共感しようとすれば
自分を混乱させると思いましたので
葬儀の話を出しました。
ぺんぺん wrote:
横レスですが失礼します。
人が泣いていたり、悲しんでいるとき
相手の気持ちがよくわからないとしても
こういうときは、人は悲しいものらしいのだと
パターン的に覚えて
『悲しそうな振り』だけはしてあげてください。
私は去年、父を亡くしました。
喪中、葬儀のとき、息子であるアスペ君は
おろおろして騒いでいました。
世間の目のため、息子を葬儀に参列させることができませんでした。
その後、喪に服していた私に
あっちに連れて行け、こっちに遊びに行きたいと
息子はせがんだのですが、
悲しみのあまりからだが動きませんでしたし
喪中だから遊びほうけるわけにはいかないと息子に話ました。
すると、「たかだか人が死んだくらいで俺の楽しみ取るな!」と
息子は怒鳴りました。
自分の肉親である祖父が亡くなったというのに
自分の母親の父が亡くなったというのに、『たかだか』『死んだくらいで』
いくら息子でもショックでしたよ。
たとえ、そう思っていたとしても、自分が生んだ子にいわれたくなかったです。
相手の気持ちがわからなくても、
自分がそういう気持ちになれないとしても
時と場合によっては、『同情している振りをする』ことは
人間社会で生きていくうえでは必要な事だと思いますよ。
人が泣いているときに泣けないと
ちょっと動揺します。
他の方が何がおかしいのかうれしいのか悲しいのかが
いつもよくわからないのです。
でもお葬式に関しては・・・。
仕事も含めると100回ぐらい参列し、
その他線香上げとか
臨終に立ち会うとかはかなり経験しました。
そして思うのはそれほど周りの感情に
動揺しなくてもいいということです。
普通の人でも全然悲しくない人、悲しみを出さない人、
いろいろいます。
だから淡々としかできないのなら
淡々としていいと思います。
動揺すると変なことをしてしまいます。
ただいくら葬儀への参列を繰り返しても
どうしても線香をあげる手順が覚えられませんでした。
先にチーンと鐘を叩くんだったか、後から叩くんだったか、
お香を額に持っていくのは一回だったか3回だったか
それが覚えられず
いつもちょっとどきどきどきどき・・・。
他の人の真似をすればいいのですが
でもたとえまちがっても、
どってことはないようです。
シュッツ wrote:
>特に親に対しては、「親」と「親以外の他人」との差をそれほど感じていないので、ことさらに「親だから……」という感情はありません。
>もっとも、私の両親はまだ生きているので、実際に死んだときにどう感じるかはまだわかりませんが。
シュッツさんのレスを読んで、うなづきました。
私には、姉がいます。
私の母親は、わけ隔てなく子供に接してくれていると感じます。
けれど、姉と母の距離は、私と母の距離よりも近いと感じます。
というより、私が、母とさえもコミュニケーションが
とれていない気がします。
シュッツさんのレスを読んで、気持ちをラクにもてました。
は〜い、ネットを解約しようかと思っているのに
相変わらずハイパー律儀のペンペン草です。
空気が読めない
ほんとなの
だからよけいなことするの
よけいな一言まかせてね
よけいなお世話はお手の物
おこらせ嘆かせあきれさせ
それでも
少しはましになったかな?
スーパー主婦です
優雅な毎日
お仕事なんてしないです
けっしてあほでまぬけで
仕事がクビで
主婦と言ってる訳じゃない
(そこんとこよろしく!!)
優雅な主婦は家事なんてしないのよ
たまにしたらば
魚は焦げて
肉は炭
タマネギいつか芽が出ます
ガーデニングをやりたいな
キッチンガーデンニングをはじめます
どうぞ来てください
我が家まで
すてきな家です
純和風
かたづけすんだら
お茶を出しまする
へ〜い!
待ってま〜す!!!
来てねっ!
おこらない友だち募集中!
じゃっ!
はーい、こうもりさん!!
……つーのは冗談でPOLINECIA。
出血大サービスでちーとばかしコメント補足しておくぜ。
いちおう、片田舎の自助グループで姉御をやっている身なんでな。
こうもりさん wrote:
>(3)研究協力
(中略)
> ただし、研究協力は手放しでは喜べない側面があります。一部の支
>援関係者が先走りして当事者のプライバシーを尊重しなかったり、十
>分な説明をした上での同意を怠っていたり、活動の内容を無断で報告
>書や雑誌に掲載するという事例が増えているためです。中には裁判沙
>汰になりかけた事例もありました。去年度は自助グループでそう言っ
>たトラブルの後始末に翻弄され、非常に疲れました。発達障害当事者
>の場合、そう言った交渉ごとをすること自体を苦手とする人も多く、
>一般的にはわたしよりも苦手な場合が多いと考えておいた方がいいで
>しょう。ましてや8〜9割以上の人は学会の内情みたいなものは知ら
>ない訳ですから、交渉は困難を極めたものになります。ある程度当事
>者と支援者双方が納得できるルール作りが必要になってくるだろうと
>予測しております。
研究協力にはもう1つ穴がある。以前こうもりさんはこの世界で、
「学問のフリをして科学で理論武装した研究も多い」って言っていたよな?
支援関係者と自閉人の研究協力もそうなっちまうことがある。
こっちの方の手口では「当事者の中でそういうニーズがあるから」
つー「民主主義」とか「少数者の擁護」みてえな理論武装が行われる。
同じ発達障害を扱っている余所の学派とか
そもそもASなんかを認めてねえって学会とドンパチやるためのな。
そして今の流れならば敵からつっこみを受けても、
「そんなことを言っても困っている当事者がたくさんいるんだ」
「当事者の間にニーズがあるんだ」という反撃も可能になる、と。
要するに学術的権力闘争に新しい闘争手段の道が開かれたってことを意味する。
確かに「ASなんか認めん」という意見なんかは、
支援者だけでなくAS人にとっても癇にさわる意見なんで、
支援者との共同戦線を張りやすい。また、共同戦線を張っておくと
少なくともAS人にとっては得をすることも多いな。
だが一方で、AS人が学術的権力闘争の道具になっちまって、
後で自分のケツに火がつくってこともよくある。
よくカルト教団であるだろ?
マスコミやらに叩かれた教団幹部どもが「我々は弾圧を受けている」
って、批判の間口を広げて信者と共同戦線を張るって話。
支援者やピア・カウンセラー主導のメンタル系グループでも使えるんだよな。
この手口は。
ま、そんな悪質な支援者ばかりでもねえんだが、
研究協力する相手はよーく選んでおくこった。じゃあな。
リュウ wrote:
>皆が、それぞれに死を悼んでいる中、
>私がしていることは、「私は、なぜ、悲しくないの?
>ここにいてもいいの?」という心配だけでした。
私もこのような場面で悲しみを感じない人間です。
たぶん「自分以外の人間」という概念が一般人と違っているからなのでしょう。
共感というものを持たないので、他人が悲しんでいることは外部の事実であって、自分の感情にまで入り込むものではないようです。
特に親に対しては、「親」と「親以外の他人」との差をそれほど感じていないので、ことさらに「親だから……」という感情はありません。
もっとも、私の両親はまだ生きているので、実際に死んだときにどう感じるかはまだわかりませんが。
人の死で、動揺していない自分がいます。
「自分が人と違う」という心配だけをしている私がいます。
サチコ wrote:
> その場で悲しいって思えなかったのは、周りにいっぱい人がいて余裕がなかったからだと思えるようになりました。
私の世界には、私しかいない。現実の世界には、私がいない。
私が死ぬまでには、サチコさんのいる側の世界にいきたい。
北の湯さん へ
はじめまして。
調停もう始まっちゃったのでしょうか?
ご主人がアスペかもって疑われている場合は
ご主人に医療機関にいって調べてもらうしかないですよね。
それで、そうであるという事が判明した場合と
そうでないと判明した場合では調停での判断のされ方が
違ってくると思うのです。
でも、本人に病院に行って調べてもらってこいと言うのは
調停中の場合、こじれる基ですから注意が必要ですよね。
私の前夫もおそらくアスペだったと思われます。
こだわりや決め付けが酷くて、暴言が激しく、
独り言ばかり言ってるような人でした。
俺は俺、世間は世間。他人がどう思おうと俺が違うと思えば違うんだ。
いつもそう考える人でした。
自分が真ん中にいて相手の気持ちを察する事ができないので
人との深い付き合いは出来ない人でしたね。
私も病院に行って欲しくて、言った事があるのですが、
逆に私が精神病者だと言い出されてしまい、
近所や知人、友人に私は気が触れていると言いふらされたりしました。
ですから、ご本人に話して病院に行ってもらうのは
とても難しいと思いますし、十分な注意が必要だと思いますよ。
私は前夫の態度や考え方に耐え切れなくなって
自分から離婚を申し出た方ですが、
北の湯さんは、ご主人とやり直したいといわれている。
それはとても偉いと思います。
あまり、無理をしない程度に頑張ってください。
はじめまして。お邪魔します。
家の息子は中1でアスペ君です。
ADHDもLDもトゥレットも持ってます。
うちのアスペ君のアスペはおそらく、祖母→父親→息子で
遺伝したんだと思います。
だって、この三人、考え方行動がそっくりです。
極論言っては人をめちゃくちゃにしてしまいます。
しかし、よく観察していると本人は言った後
覚えてないし、人をそこまで追い詰めて傷つけたことはわかってない。
息子がアスペだってわかる前は、単なるADHDだって言われてました。
そのころ、夫の暴言に耐え切れなくて離婚しました。
今は別の人と再婚しています。
離婚してから、前夫もアスペだったんだろうな。。って思いました。
でも、私は暴言、極論を言った後30分もしないうちに
ケロッとして、俺はそんなこと言ってねぇよお前の聞き間違えだろって
言われて、挙句、私は精神病者だと近所や友人に触れ回ってるのを
知って許せませんでした。
前夫のことはこの辺でおしまいにしておきます。
今、うちのアスペ君のことで困ってる事があります。
中1ともなると、将来のことが気になってきます。
なんとかして自分で働いたお金で食べていけるようになってほしいと
親としては強く思ってしまうがゆえに、
日々、ゲーム、パソコン、テレビに漫画と明け暮れている息子をみると
ついつい口やかましく言ってしまいます。
中学生になったのだから、せめて自分の部屋の片付けはしてほしい。
せめて、学生服はハンガーにかけてつるしてほしい。
せめて、人に頼まれた事くらいは伝えられるようになってほしい。
学校から帰ってきたら、せめて今日やったところくらいは見直すくらいの
気持ちになってほしい。。
そう思うためについ言ってしまいます。
すると、息子が言いました。
「俺は特殊クラスだから、勉強なんてやらなくていいんだ!」
親としてはショックでしたよ。
また、そういうふうに考えてたんだ。って。
幼い頃から、お友だちと同じように帰りの準備ができないからと
お友達が世話をしてくれても当たり前の顔してやってもらってました。
それじゃいけないことを指摘すれば
「僕はやらなくていいんだよ。だって誰かがやってくれるもん」
そういっては平然としていました。
小学校に入ってもそうでした。ですから、小学校では
息子がしなくちゃいけないことは代わりにやってあげるのは
やめて欲しいとお願いしました。
すると、学校ではそのようにしてくれたのですが、
教室は散らかり放題で先生に言われては先生にはむかっていって
暴言吐いたり、先生に噛み付いたり。。
やっとの思いで、中学に入ったら特殊の子は勉強をしなくてもいいんだって。。
そりゃ、息子と同じクラスに居る先輩たちは知的遅滞の子たちばかりです。
でも、その子たちは努力してもそこまでのレベルしか行けない。
息子は怠けていてそのレベルで居られる。
この差はとても大きいし、それじゃいけないって親としては思うんです。
ドラえもんののび太と自分を比べて、
のび太は勉強が嫌いで、宿題をしないで、テストはいつも0点。
俺はのび太に似てるって言われることあるけど、
でも、勉強は嫌いじゃないし宿題が出ればやるし、テストは0点なんて
取ったことがない。『だから俺は賢い、勉強できる』
そう思い込んでしまっている部分があったりで
これもまた、何かずれてるんじゃないかなあ。。。っと。。
こういった認識のずれ。
そこがアスペなのよって言ってしまったらそれまでですが、
こうったずれを直すことってできないんでしょうか。
ぺんぺん wrote:
>“どうせなら もっとばかなら よかったわ”
> こんな言い方すみません。でも普通だといろいろ指 導や注意や叱責がきびしいのです。わからないって悲しいです。
同感です。中途半端に知能が高いから、余計にあれこれ悩むんだ。いっその事、もっと重度な精神遅滞をともなう自閉症に産まれてた方が、よっぽどマシだったと思う。
あっ、↑は自分の事を言ってるんです。
すなふきん wrote:
>例えばアメリカの場合は個人の自立が強調されますからね。
>自立が困難な人は日本より甘えが許されない状況に置かれやすいと思います。
>ある意味、過去において日本でアスペなどが浮き上がらなかったのは、もと
>もと障害者に対して比較的寛大な文化があったからだと思われます。
>中世においては障害者はある種の畏敬をもって迎えられていたとも言われま
>す。隠遁者という言葉もありましたし、軽い精神遅滞者は寺に預けられたり
>して生きていたようです。
>
>器質的に障害のある人の割合が変化しているとは思えないので、昔は何らか
>のバッファーが存在し、それが覆い隠していただけではないでしょうか。
>ところが今は科学の発展や社会の意識の変化により、より認識がリアルにな
>り、さらに効率性が重視されるので、問題が浮き上がってきた。そういうこ
>とだと思います。
>
>昔の障害者の生活というのも、一般の通念ほど困難なものではなかったのか
>も知れません。普通の人の生活自体貧しかったので、相対的には今と同じこ
>とだと言えるからです。むしろある意味落差は小さかったかもしれません。
う〜んιでも私だったら、昔の障害者みたく寺に預けられたりとか、臭いものに蓋をするみたく、コソコソ隠(さ)れながら生きるなんて、やっぱり嫌だなぁ…。
どちらが良いかは、人それぞれだけど、やっぱ堂々と世の中に出ていたいと思うしね。
シペラスさん wrote:
>新緑より 渚見たしか 父涙
この内容のばあい、短歌のスタイルでゆったり表現したほうが
やりやすいかもしれません。
病床の父は涙を浮かべおり新緑よりも渚見たいと
#上の短歌は、音数(57577)を合わせただけです。
#まぁ、参考程度にということで。
はじめまして。
私も、リュウさんと同じような経験をしました。
叔母が亡くなった時、周りの皆が悲しみに暮れてる中で、自分が悲しんでるのか、よくわからなかった。それよりお葬式の間、自分が人とどう話せばいいのか、とか、私ここにいてもいいのかな?って、心配でした。
自分の叔母の葬式なのに、ここにいてもいいのかな?って思うのもヘンですよね?
その場で悲しいって思えなかったのは、周りにいっぱい人がいて余裕がなかったからだと思えるようになりました。
リュウさんは、どう思いますか?
新緑より 渚見たしか 父涙
うれしいのでわたしも・・・。
“投票を してみたけれど 関係ない”
なんかやっぱり生きづらいっす。
“面談の 生活指導 つらいです”
今日はPTAでした。
“いいのよね あきらめました それでいい”
でも先生に叱られます(涙)。
“どうせなら もっとばかなら よかったわ”
こんな言い方すみません。でも普通だといろいろ指 導や注意や叱責がきびしいのです。わからないって悲しいです。
“春の雨 ストーブ焚いて けっとばせ”
涙の数だけつよくなるのさ♪
街頭の躑躅は持たぬ選挙権
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