アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
訂正。
>『「人の子が来る場合も、このようである。夜に一つの寝室に二人が寝ていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。男が畑に鋤を入れていても、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。女が臼をひいていても、一人は連れてゆかれ、もう一人は残される。」』
しかし、こっちの方がよさそうに思う。
>『「人の子が来る場合も、このようである。夜に一つの寝室に二人が寝ていたとすれば、男が畑に鋤を入れていようが、女が臼をひいていようが、連れてゆかれる。」』
ついでながら、「石臼」については、
『「しかし、私を信じるこれら小さき者の一人でも躓かせる者は、大きな石臼を頚に懸けられて、深い海に沈められるがよい。」』(マタイ:18・6)
がある。
いかん、キャラがJoshyaとごっちゃになっておる。 (Mr.Moto)
えーいこの話題はまだ続くのか、女と男と来たら次はなんだ、とお叱りの言葉を受けてしまいそうだが、われわれA-Type人間(という言葉を最近昔のログを読んで覚えた)は気の弱りから似非宗教に引っ掛かって痛い目にあうことが多い(ただでさえ「エホバの証人」がしつこく仕事の邪魔をしやがる。くそ)ので、正しいキリスト教理解を進める意味もあって本日は『福音書研究』である。
さて、あなたはお好み焼きをひっくり返すあの道具をなんと呼びますか。「へら」と呼ぶのはだいたい関西人。われわれ関東の人間はあれを「こて」と呼びます。「へ〜ん〜な〜の〜」と言われそうだがそれが文化というもので、どっちが正しくてどっちが間違っているとは言えません。
「スコップ」と「シャベル」は関西と関東では名称が入れ替わります。関東では大きいのがスコップで小さいのがシャベル。「そんなこと言うたかて、パワーショベルちゅうのは大きいやおまへんか」と言われそうだが刃が台形をしたスコップはたぶん関西でも「角スコ」のはずである(未確認)。じゃあ英語ではどっちが正しいのか、と思って辞書を引くと、驚くなかれ(少しは驚けよ)あの大きい方のスコップのことを英語では「spade」というそうだ。日本語では「鋤」、すなわち「すき焼き」の「すき」である。「spadework」といえば「(骨の折れる)予備工作・下準備」。そして何故か「call a spade a spede(「スペードをスペードと呼ぶ」)」には「あからさまに言う」という意味がある。
はて、なんで「スペードをスペードと呼ぶ」のが「あからさまに言う」なんじゃろか。なんか気になると思いません?
で、ここでいきなり福音書の話になる。
『「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけたものは、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」』
(マタイ:13・44)。なんでじゃ。なんで畑に宝が隠されていなければならんのじゃ。
『人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される』(マタイ:24・40−41)。これは、「いきなり来る」というたとえなのだけれど、なぜ一人は連れてゆかれ、一人は残されるのかがよく分からない。で、同じ部分が、『ルカ』では以下のようになっている。
『言っておくが、その夜に一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れてゆかれ、一人は残される。』(ルカ:17・34−35)。言っておくがユダヤの戒律では(男の)ホモセクシャルは犯罪である。何が悲しゅうて男二人がおんなじ部屋に寝なきゃならんのか。だいいち、畑の話はどこへ行ったのか。
さて、ここで新約時代の石臼の話になる。当時は確かに回転式のミルというものもあり、福音書の別の場所では不心得者を海に放りこむときに首にくくりつけて重しにする、という豪儀な使用法をされているところから、これは回転式のミルだということがわかる。しかし、こんなものは一般家庭にはふつう置いてないわけで(だからこそ女二人で挽くのだ、という説があるのだが)、一般的なものは窪んだ平たい石の上に手頃な大きさの丸石を置き、跪いてその石に体重を乗せてごりごりごり、とやるのが普通であったはずである。
そこでまたスペードの話に戻る。現在のシャベルは「踏み鋤」といって足で踏んづけて地面に挿すが、昔はあんな鉄製のものではなく、把手がT字状態の舟のパドルのような木製のものだったと推測される。それを地面に挿そうとすればどうなるか。当然股間のあたりに把手を持ってきて、体重をかけてぐいっと押込む、という形になるはずである。
さて。「spadework」というのは何のためにするか。もちろん「種を蒔くため」である。そのために鋤の尖端を畑に押し当て、腰を入れて挿入するのである。
つまり、福音書の本来の記述は、こんなものだったのではなかろうか。
『「人の子が来る場合も、このようである。夜に一つの寝室に二人が寝ていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。男が畑に鋤を入れていても、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。女が臼をひいていても、一人は連れてゆかれ、もう一人は残される。」』
「その時が来た。来なさい。」
「ああっ、だめ、あと少しなの!」
つまり、新約聖書の時代にも女性上位が……
そう言えば、これ読んでるメンバーの中にもクリスチャンがたぶんおるんだろうな。まことに申し訳ない。しかし私は真面目に言っておるのだ(←なお悪いわ by Joshya)。
福音書にはいいことが数多く書いてある。ぜひとも読んでいただきたい。だけど、眉間に皺寄せて読むようなものでは決してない。主人公はわれわれと等身大のスケベオヤジなのである。
(Mr.Moto)
私の苦手なものは、お風呂場やプールなどのタイルです。足の裏が気持ち悪くてビリビリとしてしまうので、つま先で歩いてしまいます。部屋とかでも(たまに気がつくと)つま先で歩いていることがあります。
足の感覚が敏感で、足首を捕まれると動けなくなります。くすぐったいのを通り越して金縛り状態になります。
Maria wrote:
>武田好史さん wrote:
>>ちょっと調べてほしい言葉があります。
>>「うらぶれて」
>
> 文語)気落ちして。
> 現代語)身分・経済上強が落ちぶれること。
>
>
> − Maria −
うらぶれて 出会いなき寂し 若葉時
えー、大森総研内部で「結婚について語れる人間」というのを探したところ、あたしがいちばん適任、ということになったので、あたしが一応代表ということで発言します。
まず、Xanadiiさんの発言内容(No.4148)を整理しましょう。
Xanadiiさん wrote:
>30になって、やはり私も「独身でいるのは女にとってよろしくない」と親には
>責められるが、幼いころからの記憶によって、人間に対する恐怖感というもの
>が拭い切れなくて、結婚するのは身の破滅以外のヴィジョンが浮かばないのね。
>自分が子供を産んだなら、次こそ本物の自閉症に生まれてきてしまうのでは……
>という気がしてしょうがない。自分がいままでたどった道を考えたら、そんな
>の考えただけで人間が崩壊してしまいそうでさ。
>もう女ってだけで、長年「ほお〜ら、結婚してないと、社会生活ではこんなに
>不利なことになるんですよぉ〜。お金もなくなってくるでしょ?あとは年とって
>くだけよ?やっぱ結婚よね〜」といったたぐいの“兵糧攻め”に遇いつづけてい
>ると、“屈辱より死!”と叫び出したくなってきてしまう。
……というわけで、大きく分けて問題は三つ。
1)結婚しないでいるというのはよくないことである、という社会通念がある。
2)だけど、結婚したら自分が不幸になりそうな気がする。
3)(2)という現状があるにもかかわらず、周囲は「結婚したら幸福になる」という「常識」と(1)という「社会通念」を根拠に、結婚を押しつけてきて、その押しつけが苦痛である。
で、(1)には「本人にとってデメリットがある」というのと、「社会に対する義務を果たしていない」というのと、ふたつの意見がある、ということなんですね。
で、Xanadiiさんの問いは、
1)なんで結婚しなきゃいけないか。
2)ふつうの人はなんで結婚したいと思うのか。
3)結婚すると何かいいことがあるのか。
のみっつに集約されると思います。
だけど、この件についてはっきりと意見を述べるといわゆるフェミニストに袋叩きにあっちゃうんですよね。ですから大森総研の男連中はみな敵前逃亡してしまいました(^_^;)。
じゃあ、分析してゆきましょう。
「結婚しないでいた場合、本人にとってデメリットがある」。男性の場合は、「生活が不自由」「一人だと親の面倒をみるのが大変」「老後の面倒をみてくれる人がいない」みたいな理由が挙げられます。だけど、こうした「本人にとってのデメリット」というのは、男性には「家(親)」を守るという義務があり、「嫁」という労働力を確保する義務がある、という考え方だったりするんですね。
所長さんの場合、結婚というものはまず「自分と相手」の関係なのだけれど、親にとっては「家と嫁」の関係であったわけです。さらに相手が仕事を持つ女性で、自分の家にもお金を入れていたために、労力をかけて育て上げた労働力としての娘を他の家に奪われたくないという思惑もあって、すったもんだをはじめてしまったと。で、仕事上のトラブルで多大な心身の負担を抱えていた所長さんは、心臓を壊してぶっ倒れ、仕事ができなくなってしまったと。
つまり、「結婚する」ということは、「大量の人間関係のトラブルの原因を背負い込むこと」であり「山のような義務を背負い込むこと」なんですね。で、その「対価」として得られるものといえば、「相手と一緒に生活できる」ことでしかないわけです。この状態で二人が幸福をつかむ可能性は絶望的に低いように思います。ですから、ほとんどのAS者にとってこれは耐え難い状況である、ということがいえます。
現在、「長男」「長女」が結婚相手として避けられる傾向にある、というのは、つまりはこういうことだと思います。
じゃあ、そういったややこしい家庭環境がなければ問題はないかというとさにあらず、「結婚して家庭を持った人間には社会的な責任がある」とかいって、これまたいろんな義務が社会から押しつけられてしまうんですね。つまり、結婚した人間は社会的に信用されるから(「するなよ」と言いたいです)、それだけ多くのことを社会から期待されるのだ、という理屈です。で、逆に独身者は、常に貧乏籤を引かされます。
このあたりの物言いはいわゆるフェミニストによく似たものになっちゃうんだけど、「結婚」という制度は搾取のシステムとして成立していて、被搾取側の人間がその搾取のシステムから逃れようとした場合は厳罰に処せられる、ということなわけです。
でまあ、法制度というのはそのデメリットを補うためにいろいろと結婚した人に対するサービスを行なってはくれているんですが、国家は家庭環境にまで立ち入っちゃくれないから、われわれのようにぶっ壊れた家庭に育った人間には、社会的恩恵という面ではあんまりいいことはない、というのがあります。
そうすると、あたしたちが結婚する唯一のメリットというのは、精神的・肉体的なメリットということになるんですね。
ですから、はっきり言って結婚に向かないタイプの人がいます。「相手のものになりたくない」という人です。ちゃんとした家、ちゃんとした結婚だったら、搾取のシステムとしての結婚というものにすんなり乗っかっていられるから、べつに夫婦の愛情が冷えきってようがなんだろうが結婚生活にそれほど支障はないんですよね。あるいは嫁というのは一種の奴隷だ、と考えてそういう立場に甘んじるというなら、それも一つの選択なんだから認めます。
だけど、肝心なときに「自分」を守るために相手を見捨てて逃げるっていうのは、もう言語道断だと思います。「だって私は弱いんだから」なんていうのは、言い訳にもなりません。
つまり、ふたりがそれぞれ個別に対処していたことに対して、ふたりが協力することでトータルに楽になる、というのが結婚における第一のメリットです。で、その時に「どっちが」「どっちの問題の解決に対して」「どれだけ苦労したか」みたいな事を言い出したら、確実に破綻します。ふたりが一緒になった時点から、すべての問題は「ふたりの問題」です。で、それに対して「ふたり」が事に当たる、というのが原則です。
だから、「役割分担」というのは縦割りだとまずい。それぞれがお互いの許容範囲程度には同じことをこなせるよう鍛えあっておくことが必要です。で、少なくとも相手の仕事の出来不出来くらいは判断できる程度にお互いが理解しあってないといけません。
これが世界中の軍隊で採用されている「バディ・システム」です。仮に自分が死ぬことで相手が助かるとしても、相手が「相棒を見殺しにするくらいなら、自分が死んだほうがまし」と考えているのが分かっていたら、一緒に死ぬか、相手に殺してもらうか、どっちか相手と相談して決める、というのがこのシステムの本質です。ここまで覚悟決めちゃったら、たいていの相手はびびって引っ込むんだけど、肝心なところで腰が退けちゃうカップルというか……そこまで結婚相手に入れこめなくてびびって逃げちゃう、というケースが多々存在します。
所長さんとKILROYさんは、ソフトウェア開発の現場では「自分」よりも「仲間」と「仕事」を優先する態度というものを絶対に崩しません。で、とにかく全員に「見せ場」を作る配慮を欠かしません。お馬鹿な課長が「帰ってくれっ! あんた、邪魔なんだよっ!」と思わず口走ったら、一緒に入ってた各社のリーダーが「そぉかぁ。じゃあ、おれも辞めちゃおっかなー」「それじゃ品物納まんないもんな。うちも撤退しちゃお」「そーかぁ、うちも対応考えなきゃなんないな」とかいってみぃーんな人を引きあげちゃって、そのせいでその課長は失脚、もともと官需で食ってる会社だったもんだから出世コースから外されたらどこの派閥にも入れてもらえなくて、地方の事業場に飛ばされたあげく奥さんに離婚届けを突きつけられ、その後会社を辞めて行方知れず、みたいなこともありました。
とはいえ、「兄貴と呼ばせてください!」「一生従いてきます!」というひとは多かったんですが、「男に言われても嬉しくねーや」とふて腐れています。
つまるところ、「自分より大事な相手」を持っているひとというのは、強いんです。欧米と違って、日本では「自分の権利を守ろうとする」行為は「悪」なんです。だから独身の人というのは「仕事」だとか「プロとしての責任」だとか「ユーザの利益」だとかいったものにしか掴まることができず、けっきょく会社に利用されて過労死しちゃったりするんです。
「結婚する」というのは、「夫婦」という組織の代理交渉人になるということです。そうすると、あらゆる組織に対して対抗できるんですね。ところが……多くの家庭では、妻が会社の見解を受入れてしまって夫を糾弾する立場に立っちゃうわけです。会社の上司なんていうのは、自分こそが正義だと思っています。ですから家族に、「あんたがたが甘やかすからいけないんだ!」みたいなことを、夜中過ぎまで(午前一時二時まで電話がかかってきました)何度も何度も言うわけです。
そうすると、家族は「なんで私がこんな酷いことを言われなきゃならないの? 私がどんな悪いことをしたの?」みたいな気分になって、疲れ果てて帰ってきた人間を徹底的に責めたててしまいます。その結果心臓発作を起こして病因にかつぎ込まれ、「かなり危険な状態です。仮に生命は取りとめたとしても、今後、普通の生活はできないと思います」くらいのことを言われちゃったら。「なんでそこまで無理したの? どうしてもっと身体を大事にしなかったの?」とかいって本人に当っちゃうわけですね。だって、そういうことにしなかったら、「けっきょくここまで追い込んだ自分が悪い」ということを認めるしかないし、会社は会社で「ちゃんと健康管理をしなかったから、会社に迷惑をかけた」ということでガンガン言ってくるわけですから、それを否定する気力も、すでに尽きているわけです。それに、それを受け入れることで、自分の責任から目を逸らすこともできますし。
ですから……夫婦というのは、お互いが「自分であること」を放棄できる相手である、ということに尽きると思うんですよ。「自分がどうしたらいちばん幸せになれるか」は、相手がちゃんと考えてくれます。だから、考えなくていいと。ただし、「自分にとって何がいちばん幸せか」ということは、本当に真剣に考えなければいけません。でないと、相手はどうしたらいいか分かんなくなっちゃいますから。で、自分は自分で、「相手にとって何がいちばん幸せか」を必死で理解しようとして、「どうしたら相手がいちばん幸せになれるか」だけを考えて行動する。ここまで居直っちゃうと、周りの人間は何も言えなくなってしまいます。
とはいえ……こういうときに、双方の家でなんとかこの二人を思い通りにコントロールしようとして、主導権の奪い合いや「あんたは騙されてるんだ」の大合唱大会になってしまい、女性のほうが精神的に耐えられなくなって一方的に婚約を破棄してしまい、そういう事態を予想していなかった両家が罵りあいの大喧嘩になってしまい、縁談がぶっ潰れたあげく本人たちが結婚から遠ざかってしまって両家ともども青くなり、「自分たちは悪くないんだ。本人が悪いんだ。だいいち周りの人間がなんか言ったくらいで壊れるような愛情は、本当の愛情じゃないんだ」とかいって本人たちを責めまくる……みたいな結果に往々にしてなってしまいます。
「婚姻は、両性の合意<のみ>によって成立する」(憲法二十四条)なんていうのは、大嘘です。社会は、「気に入らない結婚をぶっ壊す権利を保証している」としか思えません。
だから……「とりあえず、この人と一緒だったら生きてくのが楽かもしれない」というひとで、エッチの相性がいい、というひとを見つけたら、とりあえず通い同棲して、お互いの生き方(仕事を含めて)にプラスだったらとりあえず入籍して、友達とか仕事関係にぜんぶ根回しして、それから「結婚します」っていうのがいちばん確実なんじゃないかな?
ただし、所長さんはそこまでやっていながら、会社が徹底的な妨害をしたりしたものだから人生をめちゃくちゃにされてしまいました。ですから確実な方法は何もない、と言えるでしょう。
なお、キリスト教では、「結婚できる者は結婚しなさい」と説かれています。ですから本当はカトリックの司祭さんでも結婚できるはずなんですが……結婚というのは「基本的人権」ではなく、「ご褒美」だということに、世の中ではなっているようです。だから、「お前はダメなんだ! だから結婚なんかしちゃいけないんだ!」とかいって人の結婚をぶっ壊し、それが正しいことだと主張する人が後を断ちません。困ったことだと思います。
− Maria −
BISさんwrote:
>犬の声に関してはASの方には本当に多いようですね。
>でも、そうとも言ってばかりはいられないので、聴覚過敏などの解決方法が
>あれば私も知りたいです。
Xanadiiさん wrote:
>犬そのものは怖くないんですよ。問題はあの吠え声ね。
中島義道さんの『うるさい日本の私』『うるさい日本の私・それから』というのを読むとわかりやすいのだが、私は暴走族の騒音はうるさくないが選挙カーのわめき声には「あの野郎、絶対落選させてやる」と拳を握ってしまうし、仕事場近くの小学校のガキの声はまったく気にならなったが、学校側の注意放送のやかましさには本気で抗議を考えたくらいである。
以前どこかに旅行したときに、降下中の飛行機の中で子供が泣きわめいていたことがある。『うーむ、よしよし』とニヤつきながら眺めていたら、着陸してからお母様がわざわざ「申し訳ございませんでした」と謝りにきてくださった。「いえいえ、あれは泣くのがいいんです。子供というのは内耳道がちゃんと開いていないものだから、耳が痛くなりやすい。ところが泣くと涙を飲みこむことになって、その瞬間に耳抜きができる。そうすると耳の痛みが消える。だからあれは思いっきり泣かせたほうがいいんです」というと、「そうなんですか!」と目を丸くしておられた。それで、「で、予防法としては『小梅ちゃん』や『グレープフルーツ・キャンディ』のような、スッパい飴をしゃぶらせておくことです。でなかったら欠伸をする。あるいは鼻をつまんで『んっ!』と息を詰める」「なるほど」みたいな会話をした。
規則的な音のほうは私も生理的にダメ(無意識のうちに引きこまれてしまう)だが、健康・健全な犬の吠え声に関してはこうした「認知の組換え」によって対処することができる。ところが都会の犬というのはストレス溜まりまくりだから、ヤケを起こして無駄吠えを続けているのが如実にわかるような吠え声が聞こえてきたりするともう駄目だ。そうなると、「ええいわかった! おれが散歩に連れてってやるっ!」というのが唯一残された解決法である。左手にボロ毛布、右手に丸めた新聞紙かなんか持って、芝生の上で一対一の真剣勝負。ルールは簡単(でないと犬が覚えられない)。新聞紙の攻撃をかわしつつ毛布を喰いちぎるなり引ったくるなりすれば犬の勝ちである。燃えるぞぉ?
で、こうやってストレスを抜いてしまうと犬は扱いやすくなるし、吠え声も気にならなくなる。要はその犬の飼われかたではないだろうか。
KILROY
さくらかのえさん wrote:
>わたしの苦手なものは、人間の発する空気音です。
>人の身体から出た粘液系のもの(ヨダレなど)を見たくないので、
なるほど。
こういう音への配慮って、見落とされがちですよね。
でも、この点に関しては、私は、逆方向で、好みだったりするんです。
(このテイスト、どちらにしてもアスペ的かも)
歌を聴くにも、声の質にこだわっちゃう。
ブレス音とかリップノイズとかが色っぽいと、
もう、とろけちゃいそうになります。
っていうか、これって、フェチですね。
Motoさん wrote:
> というわけで、『アスペルガー共和国』では「カッコいい介護用品」の開発に力を注ぎたいと思っているのである。おわかりいただけたか。
らじゃー。
そうなんだよね。
「使いたくないデザイン」のものを、むりやり使わされるのって、
まさに拷問だもんなぁ。。
私も、「カッコいい介護用品」の開発に1俵入れます。
Moto wrote:
>『アスペルガー共和国』の輸出品としては好適ではあるまいか。
ぴよさん wrote:
>いまの季節だったら、「かしわもち」と「ちまき」かな。。
すまん、誤解を与えた。「輸出品」と言うておるのは「あわび皿」のことなのだ。
たとえばの話、平べったい皿の上の固形物をスプーンで掬おうとすると、引っ掛かりがないからうまくスプーンに乗らない、ということがある。そこで、介護用品のお店にゆくと、皿の片側(向こう側)が、ぐぃっ、と立ち上がった形の皿というのを売っているのである。
で、私はつねづね思うのだが、洋食のスープディッシュというのはじつに不自然な食器だということである。あの透明なコンソメを作るのに料理人は命を削らんばかりの努力をしている(槙村さとるの『おいしい生活』でも読んでくれ)にもかかわらず、あれではどうしても皿にスープが残らざるを得ない。いっそ皿をひっつかんでぐびぐびぐび、とやってしまいたい気もするが、わざわざそれができないように縁が水平に近くなっているという底意地の悪さである。
ところが「あわび」の殻というのはじつに嬉しい形をしている。いちばん深い部分を左手前になるように置いて手前にスプーンで掬えば実にすくいやすく、最後に残った汁も角のところからぐびぐびぐび、と飲んでしまえばよい。介護用の皿というのはいかにもわざとらしいが、あわび貝の殻を模した器となると和食器として十分に通用する。
以前「介護用のおはし」についてMariaが書いていたが、「介護用品はカッコよくなければならない」と思う。介護される側、というのは常に社会的な劣等者としての視線を浴びせられている。そのうえダサイものを押しつけられてはたまらんだろうと思う。
だから、料亭なりレストランなりに赴くと、「要介護者」だけがうやうやしく特注の蒔絵だの伊万里だのの鮑皿で食事が供され、手のこんだ「和箸」が添えられ、若くて美人の仲居さんかなんかがつきっきりで世話をやいてくれる、というのがあるべき姿なのである。で、「健常者」が同じ待遇を望むと三倍なり五倍なりふんだくられるのだな。で、その「健常者料金」の半分くらいは福祉のための費用に使われるのである。
さて、そういう特別待遇をされて「要介護者」が喜ぶだろうか。喜ばないのである。しかしそこはぐっと堪えていただいて、その特別待遇を楽しんでいただきたい。するとそこに認知的不協和が起きる。はて、私はこのような待遇に値する人間であろうか。私はそれだけのことをしてきただろうか。人間たるものそう悩まざるを得なくなる。するとそこにはむくむくと自尊心が湧いてくる。そうだこのままではいかん、という、「介護される側」にとってもっとも必要な気持というものが湧いてくるのである。
というわけで、『アスペルガー共和国』では「カッコいい介護用品」の開発に力を注ぎたいと思っているのである。おわかりいただけたか。
Mr.Moto
Motoちゃん wrote:
> 『アスペルガー共和国』の輸出品としては好適ではあるまいか。
いまの季節だったら、「かしわもち」と「ちまき」かな。。
えー、女性器ときたら男性器というのが順序である。とはいえこういうこと書いててほんとにいいのか?といった批判は当然のごとく予想はしているのである。だけど、「あれだけ馬鹿なことを書いても許されるのだったらあたしも一言」というひとが出てきてくれると私はうれしい。掲示板というのは単なるバカが好き勝手なことを書いても「ああいうのヤだな」と思うだけで後が続かない。「そーかあのひとでもああいうことやっちゃうんだぁ」と思われるようでなければ牽引車とはなり得ないのである。だから私は下品を貫く。いろいろ言いながらそのじつ期待してるひとも数人いるようだしな(^_^)。
考えたら現代語の中には男性器を表すやまとことばが存在しない。魔羅は仏教語だし珍宝(幼児語だと「おちんちん」)も外来語。うーん困ったな、と思ったら、あまりに一般的すぎてそれが男性器の名称として用いられていた(らしい)ことが忘れられている言葉があった。
「たけ」である。
「たけ」とは勢いよく上に向かってそびえ立つものである。「八ヶ岳」「駒ヶ岳」の「岳」もそうなら「竹」だって成長が速いところから来た名称であろう。「背丈」の「丈」だって同じことである。「たけり狂う」の「猛る」もやはり同源。
そう考えると「松茸」「椎茸」「榎茸」というのはまさにそのものズバリのネーミングであるといえる。そういえば「エリンギ」の和名は「あわびたけ」である由。「あわび+たけ」というのは考えれば意味深である。
そういえばアメリカ西海岸、ロサンゼルス近辺の寿司屋には「ダイナマイト」というメニューがある。すなわちホタテの身とマッシュルームのスライスをアルミフォイルにのせてマヨネーズをかけ、上火で焼いて軽く焦げ色をつけたものである由。ところがこの料理、1985年ごろに、アルミフォイルで作った箱をベッドに見立て、そこにレモンの輪切りを並べてミル貝とマッシュルームを切ったものを交互に並べてオーブンで焼き、レモン汁をかけたものを「ハニムーン・スペシャル」と称して客に出したというのが発祥であるらしい。
とはいえいささか料理を齧った身としては、これでは本来の味わいが出ないような気がする。私ならヤナギマツタケかエリンギあたりを用い、クラム(ハマグリは高いのでマテ貝など)をホワイトソースで和えて合わせたものをオーブンで焼いてコキールにすれば、バターと茸と貝という相性の良さを生かした逸品となる。
そうなると皿だって凝りたいではないか。そこで鮑の貝殻を模したコキール皿を考えた。それがどうした、と言われそうだが、実は握力の落ちたお年寄りなんかには、あの鮑のような形の皿が使いやすい。もちろん右利き用と左利き用(というより左側麻痺か右側麻痺かの差ということもあるのだが)の両方を用意しておくのである。とろみがついているから呑みこみやすく、同時に皿の熱容量が大きいから食べるのに時間がかかっても冷めにくい。
『アスペルガー共和国』の輸出品としては好適ではあるまいか。
(Mr.Moto)
ボウルターさん wrote:
>早く帰りたい
金剛界曼陀羅はご存じだとおもいます。
人間は、自分と世界が一体である、ユング心理学でいう「原初ナルチシズム」の段階から、「自分の思い通りにならないもの」としての「外界」と向き合うことで「自己」を形成し、初めての他者であり食物でもある母親を認識し、それを足掛かりに他者との関係を築いてゆきます。そして盲目的主体としての「世界」「宇宙」に対して挫折を経験し、その挫折体験を克服しようとして「宇宙」を理解しようとします。
ボウルターさんはこの時点で仏教と出会ったわけですね。
ですが、人は「ほとけ」になっただけではダメなんです。衆生とともに、「宇宙」と一体化することこそが、最終目的なんです。
もうお分かりでしょう。「宇宙」とは「大日如来」であり、「阿」は大日如来の種字……すなわち、単なる記号ではなく、大日如来そのものの「化身」である神聖音なのです。あるいは、「大日如来と一体化するための入口」と言ってもいいでしょう。「阿字観」は、「ただ阿字のみと観ずる」ことにより、宇宙に身を委ね、宇宙と一体化することです。そして、その結果としてあなたは「生まれる以前の、宇宙と一体化した状態」、すなわち「阿字の故郷」に戻ることができます。
この過程は、「往って、還る」というプロセスではありません。「阿字から阿字へ」という無限の階梯の、無限のステップのうちの一段階にしか過ぎないのです。
金剛界曼陀羅は、それを表現しています。
日本文化の精粋は、「さび」と「わび」にあると言われています。人間は、成長の過程で多くのものを失ってゆきます。「相見ての 後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」。何も知らなかった、ただ幸せだって子供時代を脱して、われわれは大人になりました。ですが、だからといって子供の頃に戻りたいと思うでしょうか? 魅かれこそすれ戻りたいとは思わないその郷愁、それが「さびしさ」、すなわち「さび」です。また、求めても求めても決してたどりつけず、にもかかわらず求めざるをえない、「永遠の未完成」。その諦観と、「にもかかわらず」という渇望が、「わびしさ」、すなわち「わび」です。
世界に、宇宙に、目を向けてください。「般若」は「智恵」です。科学はあなたに自然を見る目を与えてくれます。そして自然に触れてください。そう、いつかあなたは涙を流しながらげらげら笑っちゃうはずです。なんでこんな当たり前のことに気づかなかったんだろう? そうだ、みんなこここにあったじゃないか。「尽天地、一軸の経巻」。そうか、そういうことだったんだ。そう思える日が来るはずです。
……だけどこんなの佛道の基礎の基礎、山門の敷居みたいなものなんだよね。だけど、だぁーれも気にしないでまたいで通っちゃう。情報化社会って、なんなんだろうね。足下見ないで歩くと転んじゃうのにね?
だけどあたしはキリスト教徒なのさっ! Maria
武田好史さん wrote:
>ちょっと調べてほしい言葉があります。
>「うらぶれて」
文語)気落ちして。
現代語)身分・経済上強が落ちぶれること。
おそらくは、「うらぶれて」=「落魄して」といった認識があるのだと思います。
「落魄」の「魄」は「魂魄」の「魄」ですが、「魂」は意識をつかさどる「たましい」であるのに対し、「魄」は身体をつかさどる「たましい」です。人が死ぬと「魂」は上に昇り、「魄」は下に降りることになっています。この世に妄執があると、「魂魄この世に留まりて」、丑三つ時に化けて出ることになります。
− Maria −
わたしの苦手なものは、人間の発する空気音です。
息の音とか、おならとか、唇でたてる破裂音とか、いびきとか。
しかし悲しいかな、さすがに「息をしないでくれ」とは言えない。
それに自分も音をたてます。
寝ているとき、自分のたてる音でよく目が覚めます。うっとおしい。
犬の吠える声は平気ですが、
人の声は種類によっては、きくたびにいらいらするものがあります。
それからわたしは「緑の匂い」が嫌いです。
五月頃、若葉の匂いがしますが、あれがダメです。
人の身体から出た粘液系のもの(ヨダレなど)を見たくないので、
赤ん坊は嫌いです。何言ってるかわからなくて恐いし。
Xanadii wrote:
>
こんにちは。私は最近Xanadiiさんにばかりレスしているが決してストーカーしてるんじゃないです。あなたの文章とてもよくできていて読みやすのでついレスしちゃいました。
> ―このような文章を、私は自閉症専門のカウンセラーに診てもらうまえに書き送ったのね(それも便箋12枚に渡る長大な文章。いつか全文掲載することもあるかも知れない。でもやっぱやめとくか。かえって自己嫌悪に陥りそうだし)。そしたら「このような整然とした文章が書けるだけでも、本当に症状の重い人々よりははるかにうまくいっているという証拠です」だって。こりゃ私にとっては全くのやぶへびっちゅーか、先生もう私が何を言いたいのか飽き飽きしていて、早く追い出したかったんだろうか?
この医者はちょっとデキが悪すぎますね。こんな医者はともかく大抵の医者は、多くの軽症自閉症者が社会でうめき声あげているのを経験上知っています。ただ彼らもそれをはっきり認めるわけにはいかないのです。何故って教科書に載ってないからです。彼らの検査基準はICDー10でありDSMであったりしますが、どちらも曖昧で簡単な記述でしかないです。それに日本で作られたものじゃないし。勝手な判断が許されないというのは解からんわけではないんだけどね。
教科書つくる立場の大学教授連に期待するのもちょっと無理でしょう。日本の教授というのは派閥のボスでなければいけないわけで(これは知り合いの医者が言ったこと)ボスである資質とASのそれとは正反対なんですね。(外科であればチームプレーだからリーダーシップも必要でしょうけど。)それに診断基準作るには莫大な時間と金がかかる。そんなゆとり医者にも厚生省にもないでしょうね。
> とにかく、As者ももっと頭使って、作戦を練り直して、日本の専門家自体にもも
っと勉強してもらうんでなければ、解決の日はまだまだ遠いことでしょう。
同感ですね。決め手はやっぱり「外圧」を利用することでしょう。今すでにやってる事らしいが、アメリカあたりの著名研究家を呼んで教授やら官僚をバンバン教育してもらうことですね。日本のお偉方は、本当ヨコ文字に弱いんだから。(笑)
SUN wrote:
>横レスです。
>
>昔、広辞苑を買ったころ、「あ」から読んでいって、
>みょうなことば(いわゆるたほいや的ことば)を見つけては興奮しながら書き出していました。
ちょっとしらべて欲しい言葉があります。
「うらぶれて」
WRIS−R式知能テストでこれを聞かれて、答えられなかったので・・・
しばらくつまらない理由で鬱状態に落っこっていたら(だいたい鬱になる理由はつまらない。それが鬱というものだ)、バック・ログ(宿題)が自己増殖してしまったので、そろそろ動きだすことにする。そう、私はKILROYだ。
「推拿」および「感情」について書く予定が、以前話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」や「ふれあい」という問題と絡んできたので、そのことについても含めて整理しようと思った。
まず、「なぜ人を殺してはいけないか?」の話。そもそもの問題提起はXanadii(No.3850)さんで、これに対してMr.Moto(No3855、KILROY名義)が、「殺してもかまわないんだけど法治国家だから」という理由と「生物としての歯止めがかかっているから」述べ、さらにNo.3857で「歯止め」の理由として生態学的要素以外に文化的要素としてのタブーが作用している、という説明をしております。で、ここから先はMr.Moto VS ぴよ 二大怪獣南海の大決戦、みたいな形に展開していったのでございますが、よく考えるとこの理論はわれわれ人間が西部劇やチャンバラを楽しむことができ、殺人事件や戦争が頻発している理由をなんら説明していないのですね。
そこでコンラート・ローレンツの『攻撃』他の著作を読もうとおもったら図書館が休みなんだコレが(^_^;)。それからもう一つ、戸田正直(とだ・まさなお)さんの『心をもった機械 ソフトウェアとしての「感情」システム』(ダイアモンド社)と『感情 −人を動かしている適応プログラム−』(東京大学出版会、認知科学選書24)を読もうと思ったら『心をもった−』のほうしか見つからない。なにしろここ数年うち続く鬱状態のせいで我が大森総研は乱雑を極めており(「片付けられない症候群」だなこりゃ)、いちど大掃除をせんことにゃどもならん、という状態で、とりあえず手持ちの材料だけでこの「なぜ人を殺してはいけないか?」という問題に取組んだわけです。
で、結論は、社会的な動物には「協力衝動」があるからだ、ということになりました。
つまり、「人間はなぜ協力しあわなければならないのか?」とかいったことをゴチャゴチャ考えていると訳がわからなくなってしまうので、とにかく「協力させる」という衝動が人間の中にはあるんだト。で、そうやってみたら結果がよかったト。で、みんながどんどん協力するようになったら、協力しない奴が滅んで協力する奴が生き残っちゃったんだト。こういう「協力衝動天与説(天下り説)」っちゅーものがまず前提になるのね。
で、協力するためには、相手のイメージってぇのが固定化してないといかんわけです。これを「通時性」っていうんだけど、昨日と今日で見かけは同じなんだけど中身は別人、とかいったら堪ったもんじゃない。「昨日の敵は今日の友」ならまだいいけど、その逆だったら堪んないわけです。そこで「性格」みたいなものを人間は相手に貼りつける訳だし、なに考えてんだか分かんない奴はいじめたくなるし、人の悪口を入って相手のイメージを傷つけるのは悪いことだし、「どういう時にどういう奴を殺してどういう奴を殺さないか」がはっきりと分かっていれば殺そうが殺すまいが関係ないから昔の兵隊さんは尊敬されたけど沖縄の米兵はどっか行っちゃってほしいと思うわけです。
で、こう考えるといじめや児童虐待が固定化するのもすっきりと説明できて、つまりは本来暴力に対する歯止めなんていうものはないんだから、それが関係として固定しちゃったらもはや日常になってしまうわけです。で、子供が親になつくのは、「親が子供を保護する」という関係をスタートさせるためにまずそういう「良好な関係」を親に対して押しつけることから始める、ということであり、それが「甘え」の正体であるト。で、親がその「甘え」を拒絶しようとしたら、子供は死にもの狂いで親との「良好な関係」を維持しようとしてしがみつくのだト。そういうことなんですね。
そうすると、「ふれあい」というのはイコール「甘え」なんだト。だから、「甘え」を受容されなかった人間は「ふれあい」を持つことができないんだト。で、「相手に対して無防備に自分の大事な部分をさらす」というのも、「甘え」の一形態なんだト。
で、セックスによる性反応は、防衛機構のスイッチを切って、相手に自分を無防備にさらしてしまうのだト。で、そうした状態で可愛がられてしまうと、「有効的でない関係」と「相手に無防備に自分をさらしている私」の間に「認知的不協和」という奴が起こり、それを解消するために、「あたしたちは愛し合っているんだわ」と信じこんでしまうんだト。
……わかりやすい。
こう考えると、頸動脈の周りの交感神経叢をしゃぶっちゃうだけでイッちゃうのも、エッチの最中に女性がやたら首筋にむしゃぶりついてくるのも、頼まれもしないのにフェラチオを行ない、男性が淫々と悶えているのを陶酔したような目で見つめているのも(あんなもの、本気になったら簡単に食いちぎることができる)、すべて説明がついてしまうのである。女は甘ったれな男が好きで、しかも自分にだけ甘えてくれて、それを他人に見せびらかすのが大好きだったりする。それもまったく同じ理由である。
となれば、「推拿」についても、単に物理的にどうこうという問題以上に、コミュニケーションの問題を重要視しなければならないのではないか。そう考えたのである。
そんなわけで、「甘え」とマッサージの関係を重視しつつ、ふたたび「推拿」について語ろうと思う。で、今回は予告だけ。待て続報。
愛の電動こけし、じゃなかった愛の伝導師 KILROY
こんばんは。えー私が嫌いな物はほこりを被っている物全て、と
ピアノの音・電子警告音(スピード感知器等)です。
犬は平気です。どちらかと言えば猫派なのに、なつかれて困ります。
ロンドンで虎毛(ブリンドル)のピットブルになつかれまくったとき、飼い主の
おじさんに「可愛いわんちゃんで。」って、しょうがないのでお世辞に言ったら、
「噛みついたら離さないよ!いいやつさ!」と言われ、困りました。
ロットワイラー、サモエド、バーニーズ、ボクサー等大型犬もたいていは
抱き合うほどの友好関係になれます。顔がぐちゃぐちゃになりますけど。
動物嫌いのひとがよく分からない、ななはでした。
Q:犬から好かれる人って共通しているタイプとかあるんでしょうか?
お粗末様で。
KILROY wrote:
>BIS さんwrote:
>
>>ちゃんと読んでるよ。しかもツッコみたい事いっぱいさ!
>>だから、こっそり古っるぅ〜いスレッドに突然レスしても、笑って赦してやって
>>ください。
>>うーん……普通はどれくらい古いスレッドにレスつけていいものなんだろうか?
> 新聞じゃないんだから(^_^;)。一ヶ月以内はオッケーでしょう(所長)。
>
>BISさん wrote:
>>ネチケットってむずかしい……
>ミサコさん wrote:
>>書き込みって難しい!
> 「あっ……だめ、あたし怖い!」
> 「……大丈夫。どう反応したらいいかは、君の身体が知ってる」
> 「そんな……ああっ! いやぁ……」
> こういう馬鹿なことを書いていると明日あたり抗議のカキコの山(-_-)。
> 案ずるより産むが易し(産んだことないけど)。ヤッちゃえばなんとかなる。
> (Mr.Moto)
>
> 所長が『初心者のためのカキコ入門』企画中 Presented by 大森総研
ぐぁははははは。やっだああ、Motoさんげっひ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!
ぐらい反応いたせばよろしゅうございますか。(もっと機嫌がよければ悪ノリも辞さない私なんだが、ドロ沼と化しそうなのでやめとく)
まあそれはいいとして、BISさん、No.3876にも拙いながら私なりの解決法を提示してありますんで。これはまったく自分用のルールで、でもそのへんの境遇が、BISさんに近いような気がしたもので。
ではこれにて。
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