アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
6月末日を以って3年間勤めた研究室をお払い箱になった。研究室そのものが移動になったため、何人かは既に新しい就職先を見つけて6月中頃までには研究室にはほとんど誰もいなくなった。その中で私は最後の日まで言われた仕事以上の仕事をした。2つのプロジェクトを終わらせ、データーを整理し、コンピューターに入力し、必要な物品をまとめ、有給休暇の代わりに2週間の給料が払われるという話だったから新しい就職先の仕事始めを2週間待ってもらった。
後2週間を残すところで有給休暇分の給料が支払われないことがわかった。私の研究室での身分は有給休暇が公式にはなく、あくまで上司との相談で決まるものであったらしい。これは私に限ったことではなく、ここの研究員の殆どが同じ条件であった。でも、彼らは休みを取れた。私だけが最終日まで仕事のスケジュールが殆ど一杯だった。
最後の2週間は不幸のどん底にいた気がする。人前で泣かないのがやっとだった。仕事をしながら泣いていた。私の一所懸命さが反ってあだになったのはわかったが、仕事を放り出しても誰も幸せになれないのはわかった。予定してない休みは反って気分を滅入らせるのも経験上から知ってた。給料がもらえないのを理由に仕事を放り出しても誰も私を非難しないのはわかったがそれで自分は幸せを感じるところか不幸のどん底の更に下に沈みそうな気がした。仕事を最後まで続ければ少なくとも私以外の何人かは幸せかもしれない、この考えだけで仕事を続けた。
私の仕事を芸術にするには自分の名前の乗った論文を作ることである、でも私のどこかで論文に自分の名前が載るのを嫌がる部分がある。その部分が「職人気質」なのだろうか?
仕事の依頼を「あなただから信用できる」と頼まれ、嫌といえずどんどんスケジュールが過密になったのは融通の効かない「頑固さ」から来たのだろうか?
自分が引き受けた仕事を自分が大変だからという理由だけでは他の人に頼めなかったのは、頼んで「えーちょっと」と言われて、簡単に引き下がったのは「コミュニケーションの障害」からだったのか?
この館にお邪魔するようになって、自分だけじゃない他にも人とのコミュニケーションが苦手な人がいるというのは、気持ちがちょっと、何というか、安心した。
この私を本当は私の周りの人に理解してもらいたいとも思ったが、それは無理なのかもしれない。この3年間3人ほどに期待を賭けたが、「単に怖がっているだけ、人は人に噛み付いたりしない、何回も繰り返せば馴れる」慣れるどころかだんだん言葉の溝が深まるのを感じただけだった。2人は完全に私を理解する努力を放棄した。一人からは直接に、もう一人からは態度で。彼らは彼らなりに私と接触しようとしたのだが、ひたすらタイミングが悪かった。私の言葉の使い方も悪かったのかもしれないが、一回出た言葉を訂正するもしくは言い訳する気力が湧かなかったし、それで事態が改善するとはぜんぜん思えなかった。改悪するのが関の山だったろう。彼らを嫌いになれたら楽なのかもと思うことがあったが、嫌いになれなかった。まだ、大好きな友達でいたい。私がお行儀よくしてさえいれば友達として扱ってくれる。でもそれで良いのかが分からなくなった。
「すべてのジャックには彼のジルが、すべてのジルには彼女のジャックが必ずいる、あなたにも必ずいる」と言われたことがある、「どこに、誰が」と聞いた私に「自分で探しなさい」と言われた。私に誰か居るのを信じているのは彼女であって私じゃないのになんで私が彼(ほんとに「彼」かなもしかして「彼女」だったりして)を見つけれると思えるんだろう?「出来れば私のジャックは別な誰かと巡り合って幸せになって欲しい」と言ったことがある。もし、彼が私の魂の半身ならば、自分と一緒になって二人とも不幸になるより、片っぽだけでも幸せになって欲しいと思うのは「傲慢」なのだろうか?
ミッドランドさんの職人気質とTienさんの悲しい心境と それぞれに対するレスを読んで (かおり)
Maria wrote:
>由佳子さんwrote:
>> パートナーをさがしている方、きっと、いや必ず逢えますよ。出来そこない
>>じゃない!ただ、こんなに大勢の人間があふれる中で、あなたにとって特別な
>>「たったひとり」の人に出逢うのに、少しばかり時間がかかっているんだと思
>>います。・・・・・・それが「いつ」かわかっていれば、こんなに苦しまない
>>のにね。
> ようやく本題。
>「必ず遭える」っていうのは、優しいようでじつはとても危険な考えなのね。じゃ>あ、遭えなかったらどうするのか。「それは本人に何か問題があったのに違いな
>い」という「被害者非難心性」に、簡単に結びついてしまいます。
>「人生をともに生きるパートナーを求めています」っていうひとに、「いつかいい>人が現れますよ」とかいうのは、それが保証されていない以上、無責任な発言でし>かないわけです。言ってる本人は慰めのつもりなんだろうけどさ。かといって、
>「だったら私がパートナーになってあげます」というのも、傲慢。相手にだって選>ぶ権利というのがあります。
正論です。
でも、「あんたじゃ相手は現れないよ。」というより温かいかも。(爆笑)
>「考慮の対象として立候補します」というのは、かなり誠実な対応だと思います。>だけど、それで交際してみて「やっぱり嫌だ」とか言ったら、相手はますます深く>傷ついてしまう可能性があります。
>そんなわけで、なんにせよ「人生をともに生きるパートナーを求めています」って>いう発言にコメントするというのはかなりの覚悟が必要なことなのね。
>まあ、理想を言えばですね、「私はあなたが望むなら、パートナーとして一生を共>にします」と選択権を放棄しちゃうのが正しいありかたなのね。こんなの、おとぎ>話の中にしかなさそうなお話だけどさ。だけど、正しいことは正しいわけです。
>で、そうなると、相手だってそのひとに無理強いはしたくないから、「なにがなん>でも」みたいな話しではなくなります。で、そうやってつきあってみると、やっぱ>りお互いの誠意というものは通じ合うのね。で、なんとなくうまくまとまっちゃっ>たりするわけです。
ああ、まとまりたい!
>昔は家の都合とかでなんとなく縁談がまとまっちゃったりすることって、あったじ>ゃないですか。だけど、そういう形でまとまっちゃった夫婦がみんな不幸だったか>というと、そうじゃなかったりするんですよね。逆に選んで選んで選びぬいて失敗>する、みたいなケースが意外に多かったりします。
うっつ私そうかも。(TT)
> そーいえばあたしのよく知ってるひとにもいたもんな。自分から掲示板で「結婚>宣言」して、選択権を放棄しちゃったひとが。「あれじゃ、あたしがひどいブスみ>たいじゃないかぁ! ばかぁ!」とかいって相手の女性に叱られて土下座してたり>するんだけど。だけど、土下座する価値はあると思うな。相手の女性がまたいいひ>となのね。美人だし。こういうおとぎ話みたいな恋、というのが現代にもあったり>します。男女逆、っていうのが、いまどきといえば、いまどきです。
えっつ?それ、ダメになったわけじゃないんですよね?
> 信念を持つのはいいことですけど、人の生き方というのはそれぞれです。
> 押しつけにならないように気をつけましょうね。お互いに。
そういえば思い出した歌詞があります。
「おとぎ話を聞かせるなら、ありえないことと付け足しておいてよ。
おとぎ話はみんなずるい。どこにも日付を書いていない。」
中島みゆきさんの歌だったかな...。
そのうちいい事あるかなあ、なんて思うTienでした。
由佳子さんもレス&励ましありがとうございました。
pocks wrote:
>それ、下手すると性欲のはけ口にされて終わりますから、おすすめできません。
こんばんは、pocksさん、レスありがとうございました。
それは確かに言えますね。
>社会的に認められた「こだわり」をお持ちなら、趣味のサークルとかに入る
>手が考えられますけど。
>鬱の治療を並行した方が良いかも知れません。
お言葉ですが、鬱はずーっと一緒です。薬を飲むとあら不思議、なのが
自分でも憎たらしい時があります。映画エイリアンで
「エイリアン達はずーっと一緒だよ。」というセリフがありましたが、
私の場合にも遺伝的にも共生体かな、とも思います...。
いつもきれいなうたに感動しています。
様々な障害と特徴について、いまだよく分かっておらず心苦しいのですが。
武田好史 wrote:
>LDすなわち学習障害の子どものなかには、次のような特徴を持っている子がいます。
>
>1.火山の絵を見せると「VOLCANO!(ヴォルケノー)」と答えるが、「VO・L・C・A・N・O」というアルファベットを見せると「何のことか判らない」という。
中学の頃、母に「英語の授業で先生に指されると、皆penをペンと言う。そのことがわからない」と言っていたそうです。今となっては自分でも意味不明ですが。
>4.漢字を写し取ったり・写生が苦手であり、絵を描いても実物とにつかないもの
>になったり、文字が汚かったり・細かい所に間違えがみられる。
字は練習しても汚かったし、「遠足で乗ったのりもの」の絵がどうしても画けなくて泣きました。 先生の話は皆目わからなかったし、算数と社会科に至っては「何の意味も」なさなかった。
ところで私は「いつも独り」になるのがほとほと嫌で、「ふつうになる」為に、中学時代を人間観察に費やしました。
・人はどのような時、どのように怒るのか。どのような怒りが認められるのか?
・いつ、何の「意見」をいう?
・いつ、おなかがすく?
・どうやって、「けんか」する?どうやって「仲直り」する?
・どうやって「好意」をしめす?どうしたら「好感」をもってもらえる?
・どんな「服」を着る?「髪型」は?「身だしなみ」って、なに?
等等。
私は、これらを「持たなかった」あるいは「わずかにしか感じなかった」ので、初めは人まねで「演技」しました。演技を繰り返すうちに、何時の間にか本物の感情・意見が生まれて、今では「私のもの」と自信をもって言えますが、10年近くかかりました。(本当の感情をつかむまで、どうしても演技できなかったのは「人の為に泣くこと」です。)
これらの事に時間とエネルギーを費やしたので、中・高時代勉強はしませんでしたが、不思議と成績は(とても)伸び続けました。
何か私の脳に足りないところがあって、それを補おうとしたことが、能の働き全般を活発にしたような気がします。・・・根拠があるわけでは、ないのですが。(そういえば、好んで苦手なことばかりしてきたなぁ。運動部に入ったり、レストランやホテルでバイトしたり。「能無し」気分をたっぷり味わいました。もっと「出来ること」を伸ばせばよかったと後悔します。)
個人的な経験、かしら?長々、失礼しました。
昔の私にとって、世の中は「私のまわりで移りゆくもの」でしたが、今は「人を傷つけることがあり、自分も傷つくことがあるが、感動的なもの」です。・・・またズレてきました・・・
ミッドランドさん wrote:
> 工芸の世界に生きる人は「職人」とは呼ばない、ということでしょうか。なん
>か無理に「職人の世界」と「芸術の世界」を線引きしているように思えます。
> 僕はそうは思わないのです。「職人業」と「芸術」はある程度フレキシブルで
>はないかと思うのです。確かにお互いの領分は守られるべきであるし、「こちと
>ら職人でぇ。『芸人』じゃねぇんだ」と言うのも自由であるべきです。
> しかし、「職人は『芸術』とは無縁」と言った風に、「頑なな聖域」をつくっ
>てしまって、果たしてよいものでしょうか。そんな考え方が、職人と呼ばれる人
>たちは「頑固で融通がきかない」と言われる一因になっているのではないでしょ
>うか。
ミッドランドさんとKILROYさんの話が徹底的に噛みあわない原因がわかってしまいました。ミッドランドさんは、「職人」という言葉が「蔑称」だということをご存じないようですね。
「牛馬職人通るべからず」なんていう看板があった時代もありました。「職人」は牛や馬より身分が下。「職人」という言葉はそういう言葉でした。「職人風情が」「職人の分際で」なんていう言葉が、ものすごく重かった時代というのがあったんですよ。
「職人に学問はいらない」みたいな風潮もありました。
ですから、「伝統工芸家」や「芸術家」に対する反発というものがありました。技術は職人のほうが上でも、社会的地位や作ったものの値段は天と地ほどの差がありました。職人が作ったものはあくまで「道具」であり、「作品」ではありません。
木地職人が木地をひき、漆職人が下地塗りをほどこしたものに、「漆芸家」が蒔絵をほどこすと、何倍、何十倍という値段になってしまいます。ただし「職人」の名前は出ないどころか「ないもの」として排除されます。「伝統工芸家」や「芸術家」が勲章を貰ったとしても、「職人」にはそんなものとは無縁でした。
戦後、製造業の世界ではエドワード・デミング博士を祖とする信頼性工学(QC)が押し進められました。QC運動は「職人」自身による「職人芸」からの脱却でもありました。
黎明(れいめい)期のソフトウェア業界には、そういった「職人」意識のアンチテーゼみたいなものが横溢(おういつ)していました。「ソフトウェア開発は職人芸であってはならない」。確かな方法論と理論的な裏付けをもち、高品質のソフトウェアを安定的に供給することが、プログラマーにとっての使命だとされました。
こうして職人の世界からは悪しき精神主義だとか悪しき経験主義だとかが排除され、「職人芸」というものは製造の現場からほとんど姿を消してしまったんです……が、このことは逆に「本物の職人」というものを注目させることになったんですね。
機械化による大量生産、科学技術による分析、そういうものが到達しえない領域を担うのが、「本物の職人」なんです。
「職人」の作ったものには、たしかに「作品」「芸術品」と呼べるものがあります。だけど、「職人魂(クラフツマンシップ)」の中には、「無名性」「客観性」というのがあると思うんです。それは「芸術性」とは確かに相反するものではないのですが、少なくとも「職人」は「芸術家」であろうとしてはならない、という思いが、「製造」の現場に携わる人間にはありそうに思います。
それは「職人の美学」と言っていいかもしれません。
(Maria)
こんにちわ〜、武田さん。複合型LDのくるとです。
武田好史 wrote:
>LDすなわち学習障害の子どものなかには、次のような特徴を持っている子
>がいます。
>
>1.火山の絵を見せると「VOLCANO!(ヴォルケノー)」と答えるが、
>「VO・L・C・A・N・O」というアルファベットを見せると「何のこと
> か判らない」という。
>
>2・鏡文字を書いたり記号のような文字を書いてしまう。
>
>3.本を読ませると行を飛ばして読んでしまう。
>
>4.漢字を写し取ったり・写生が苦手であり、絵を描いても実物とにつかないもの
>になったり、文字が汚かったり・細かい所に間違えがみられる。
わたし自身は小学生の頃に、2.と4.の問題を抱えていました。4.について
はまだ完全に克服できたとは言えません。
> もしみなさんの中にかつてはそうだった・今もという人がおりましたら、どのようなことで困ったのか・いかにしてそれを克服できた・しようとしているのかというレスを頂きたいと思います。
(どのようなことで困ったか)
2.については、書字というよりは左右や東西南北の区別がつきにくいことの方が深刻でした。(視空間認知の異常)この問題は20才ぐらいで測量のアルバイト
をした時に深刻な問題をおこしました。指示された方向に移動することができず、
1ヶ月ぐらいでクビになりました。
4.についてはとにかく学校の授業で困りました。特に「字は人の心を映す」という精神論をぶってくる教師にあたると最悪でした。どうあがいてもうまい字を書くことはできませんでした。また、図面書きが苦手で、技術の授業で赤点を取ってしまうは、測量のバイトで図面をうまく書けないはで散々でした。
(いかにして克服したか,しようとしているか)
2.については書字に関して言えば、中学になるころには克服されていました。いや、正確には自然に問題が消滅していたと言うべきでしょう。残された問題は方向感覚の問題ですが、これは方向感覚を必要としない仕事(塾の講師)になったた
め問題にならなくなったという感じです。
4.についても同様です。けっきょく、手先の器用さを必要としない仕事をして
いるから、あまり問題になっていないという感じです。
一見すると逃げに見えるかもしれませんが、必要に迫られない限り、苦手なもの
にとらわれすぎないというのも大切なのではないでしょうか?また、得意なものを
伸ばしていく時間も十分に確保しておくべきだと思います。
武田好史さん wrote:
>LDすなわち学習障害の子どものなかには、次のような特徴を持っている子がいます。
>
>1.火山の絵を見せると「VOLCANO!(ヴォルケノー)」と答えるが、「VO・L・C・A・N・O」というアルファベットを見せると「何のことか判らない」という。
>
>2・鏡文字を書いたり記号のような文字を書いてしまう。
>
>3.本を読ませると行を飛ばして読んでしまう。
>
>4.漢字を写し取ったり・写生が苦手であり、絵を描いても実物とにつかないもの
>になったり、文字が汚かったり・細かい所に間違えがみられる。
武田さんが書かれた一例には当てはまらないかもしれませんが、僕は子供の頃、次のことで苦労しました。
1・活字だけの本の内容がつかみとれない
僕は小学・中学・高校と、読書と言うものが苦痛でなりませんでした。というのは、当時の僕は文章というものが「字の配列」にしか見えず、いざ読もうとしても、目で字を追っているだけの状態でした。やっとの思いで読み終えても、内容よりも書かれていた文章を覚えていたに過ぎず、読書感想文を書くときとても苦労しました。
そのため国語、とくに現代文は成績があまりよくなかったです。古典もあまりよいとはいえませんでしたが。
でも、なぜか英語はずば抜けて成績がよかったのです。これは文の中の一語一語それぞれが意味を持っていて、意味をとらざるを得なかったからだと考えられます。
その点を生かそうと、大学は外国語学部へと進みました。すると、どんな言語であろうと言語は「生き物」であることを実感できるようになり、日本語の読解テクニックを身につけました。今では活字の本はほとんど苦痛なく読めます。
2・人が遊んでいる姿の絵が上手く描けない
僕は基本的に、絵を描くのは好きな子供でした。しかし、ひとつだけ上手く描けずにイヤ気がさした題材がありました。それは「人が遊ぶところ」です。
僕は「人と遊ぶ」ことを「楽しい」とあまり思ったことがないのです。たまに心底楽しい、と感じはしましたが。
もともと協調性に欠けていましたから、「人と楽しく遊ぶ方法」もよくわからず、ひとりで遊んでいたことが多かったようです。よって、「楽しく遊んでいる姿を描け」と言われても、「どこが楽しい!?」と思ってしまい、上手く描けませんでした。
今はもう、このような事態に遭遇することはもちろんありませんが、もしそうなったら、多分今でも上手く描けないと思います。
ちなみに、小学校の時は落書き帳には絵よりも地図記号や音符などの記号類を良く描いていて、人の絵はほとんど描いていませんでした。
これは、LDの特徴と呼べるものなのでしょうか? 僕はLDに関しては自覚がないのですが。
自分で書いてて自分がわからなくなってきた ミッドランド
ミッドランド wrote:
> どうも僕は「こだわり」という言葉を考えなしに使ってしまい、職人とASをごっちゃに解釈してしまったようです。これからは気をつけなければ。
> でも、ASに関しては「こだわり」がダメならばどう言えばいいのでしょう? 「入魂」じゃ変だし、「没頭」これもダメ、「自己聖域化(おー久々の造語)」……うーむ……。
こだわりは確かに悪い意味ですよね。ASのこだわりと言われるものも、ハタから見れば「つまらないことにこだわって....」のまさに悪い意味なんでしょう。
ただ、言葉の意味に裏表があるのは当然のことなので、「アンタから見たら単なるこだわりなんだろうけどさ」って意味を含めて、自分のとことんさを「こだわり」と表現するというのもアリだと思います。
テレビでよく見る、よく知らない他人に「こだわってますねー」ってのは論外ですけどね。あれは単にことばを知らないだけでしょう。
私なら「徹底してる」とか、「完全主義」とか「入念」とか言うでしょう。
LDすなわち学習障害の子どものなかには、次のような特徴を持っている子がいます。
1.火山の絵を見せると「VOLCANO!(ヴォルケノー)」と答えるが、「VO・L・C・A・N・O」というアルファベットを見せると「何のことか判らない」という。
2・鏡文字を書いたり記号のような文字を書いてしまう。
3.本を読ませると行を飛ばして読んでしまう。
4.漢字を写し取ったり・写生が苦手であり、絵を描いても実物とにつかないもの
になったり、文字が汚かったり・細かい所に間違えがみられる。
みなさんのなかにも、「昔そうだった・今でも・・・」という人がいるかもしれません。
私がふと疑問に思ったのは、「これらの子たちはどのように世の中を見ているのだろうか?」ということです。
もしみなさんの中にかつてはそうだった・今もという人がおりましたら、どのようなことで困ったのか・いかにしてそれを克服できた・しようとしているのかというレスを頂きたいと思います。
KILROYさん wrote:
> 「こだわり」という言葉がいい意味で使われるようになったのは、一種の「流行」みたいなもので、本来はいい意味ではない。だから、褒めたつもりで職人さんに「こだわってますね」とか言ったら、ぶん殴られても文句は言えない。
ならば、「入魂」という言葉はどうでしょう? これならばぶん殴られるなんてことはないと思います。
> 『AS特有の「こだわり」』というのは、医学上は「症状」であって、「個性の一部」とはみなされていない。したがって、否定されているのである。
>
> 『AS特有の「こだわり」』と呼ばれるものは「こだわり」ではなく、本質にかかわるものであり、「個性の一部」である、という主張はあって当然だが、それが認められたとすると「こだわり」という言葉を使うことは不適切とみなされると思う。「固執」や「執着」でもまだ悪い意味になる。
> なお、「頑固」というのも「頑(かたく)な」だから、やっぱり悪い意味。
どうも僕は「こだわり」という言葉を考えなしに使ってしまい、職人とASをごっちゃに解釈してしまったようです。これからは気をつけなければ。
でも、ASに関しては「こだわり」がダメならばどう言えばいいのでしょう? 「入魂」じゃ変だし、「没頭」これもダメ、「自己聖域化(おー久々の造語)」……うーむ……。
> 「パフォーマンス性」というのは、即時的であり、記録・保存がきかないという意味である。舞台芸術や料理が、パフォーマンスの代表といえる。
> 工芸の世界では、「これと同じものは二度と作れない」というものが確かにある。ところが「職人業」の世界だと、「同じものを安定的に供給する」という要求があるので、それでは困るのである。
> だから、職人は「芸術」とは無縁である。「こちとら職人でぇ。『芸人』じゃねぇんだ」と言ったひともいた。
これについてはもう一言だけ言わせてください。
工芸の世界に生きる人は「職人」とは呼ばない、ということでしょうか。なんか無理に「職人の世界」と「芸術の世界」を線引きしているように思えます。
僕はそうは思わないのです。「職人業」と「芸術」はある程度フレキシブルではないかと思うのです。確かにお互いの領分は守られるべきであるし、「こちとら職人でぇ。『芸人』じゃねぇんだ」と言うのも自由であるべきです。
しかし、「職人は『芸術』とは無縁」と言った風に、「頑なな聖域」をつくってしまって、果たしてよいものでしょうか。そんな考え方が、職人と呼ばれる人たちは「頑固で融通がきかない」と言われる一因になっているのではないでしょうか。
> アートは「機会」と「才能」が出会ったところに生まれる。だから寺社建築、つまり宮大工の世界はアートの世界である。したがって宮大工というのは「職人」とは呼ばれない。仕事がないときでも、一般の「職人」の仕事である大工仕事には、「腕が穢れる」といって手をつけなかったという話がある。
そう考えるのも自由です。それこそ「入魂」と呼ぶべきでしょう。でも一方で「頑固で融通がきかない」と言われそうですね。
> 「職人魂(クラフトマン・シップ)」というのは、「美」を求めるのではなく、「わざ」を突きつめたところに美は立ちあらわれる、と信じるところから始まる。戦闘機や戦闘車輌の無骨な美しさは、求めて得られたものではない。機能・性能を追求した結果、そこに立ちあらわれたものである。こういうものを「機能美」と呼ぶのだが、それを信じるのが「職人魂(クラフトマン・シップ)」である。
「機能美」を生み出すことも「芸術」のうちに入る、と僕は考えます。
「芸術」というのは単に「美を生み出す」ことに大きな意味があり、「パフォーマンス性」や「美の追求」といったものは二の次だと思います。
たとえ意識していなくても、「美」を生み出せたら、それは「芸術」と呼べる、僕はそう考えます。
> ラ五型戦闘機、というソ連の戦闘機がある。ラボーチキンという設計者が設計した機体で、フェノール樹脂で固めた木でできた「木製戦闘機」である。戦争中のことゆえ生産設備が不足しており、家具職人や楽器職人にも作れるというのですぐに量産体制に入れた。
> このラ五型は第二次対戦末期のスターリングラード攻防戦においてドイツ空軍相手に一歩も退かぬ戦いを演じ、『スターリングラードの小さい木の救世主』と呼ばれた。
> こういうものを作っちゃうのが「職人」なのである。ここに「芸」の入り込む余地はない。
その場合はそうでしょう。「職人の世界」に「芸術」が入り込まないことだってあるでしょう。それは僕も認めます。
しかし、僕が言いたいのは「それがすべてではない」ということなのです。
僕はKILROYさんと争いをしたくはありません。ですから、今回の投稿がこのテーマの「僕自身の最終的な考え」とさせていただきます。
ミッドランド
ひま人さん、みなさん、おはようございます。くるとです。
ひま人さん wrote:
>手元のNLDの本には、NLD児は計算(殊に暗算)が困難だと書いてあり
>ますが・・・
これは、医学的LDと教育学的LDのどちらの本ですか?ひとまず、医学
的LDの方だけ説明しておきます。
現時点で医学的LDとは、読字障害,書字障害,算数障害が原因になって
学力困難をおこしている障害者のことを指します。で、学力困難以外の困難
(例えば、器用さ,社会性,多動,注意欠陥など)を抱えている人について
は別の診断がつけられることになります。むろん、医学的LDの人が他の障
害を合併していることもありますが。(自閉圏の障害と合併している場合は
自閉圏の診断が優先されることになっています。)けっきょく、医学的LD
は学習だけの問題に限定された障害ということができます。
しかし、学習困難がおこる原因は人によって様々です。上記の暗算の問題
を例にして説明をしてみますね。医学的LDで暗算ができない場合は
(1)数字や記号が理解できない
(2)量や繰り上がりの概念が理解できない
という2つの原因が考えられます。そして、(1)のタイプのLDは言語
性LD、(2)のタイプのLDが非言語性LDです(NLD)です。NLD
というのは、(2)のような理由によって学習困難が生じるタイプのLDの
ことを指します。
>それと、単に読み書きの能力に問題が無いのではなく、単語レベルでの読
>みの能力発音能力、そしてスペルの能力が優れ、かりにスペルが間違って
>はいても、音声学的には合っているそうです。
おそらく、これらは医学的なNLDに発生しがちな学習困難のタイプだと
思われます。わたしはNLDが「学習困難を持たないLD」だというつもり
はありません。「言語性LDとは異なる理由で学習困難を持つLD」だと言
いたいのです。
でも、もしかすると前回誤解を招く表現をしてしまったかもしれない…(
ちょっと冷や汗…)
>書字が下手で、しばしばミミズが這ったようになっているそうです。
この問題はわたしも抱えているのですが、「協応動作」「微細運動」「視
空間認知」に困難を抱えているために発生しているそうです。この場合、発
達性協調運動障害(DCD)の人も同じ困難を抱えていることになり、判断
が微妙ですね。
結論を言いますと、武田さんが上記に挙げたような学習困難を抱えていた
のであれば、NLDと診断することも可能だと思います。しかし、NO.5
752で武田さんがコメントするように「体の器用さ」「注意集中」「社会
性」に困難がある場合は
(1)ASか高機能自閉症→社会性
(2)ADD→注意集中
(3)DCD→体の器用さ
と診断されることになると思います。そして、診断の優先順位はDSMの基
準では(1)にあります。
どうも、誤解を招くような説明をしてしまってすみません。(くると)
I wrote:
> 「こだわり」というのは、「本質的でないことに拘泥すること」をいう。
ミッドランドさんwrote:
> そんな否定的な意味なのですか?
そんな否定的な意味なのだよ(^_^;)。
「こだわり」という言葉がいい意味で使われるようになったのは、一種の「流行」みたいなもので、本来はいい意味ではない。だから、褒めたつもりで職人さんに「こだわってますね」とか言ったら、ぶん殴られても文句は言えない。
> ならば、AS特有の「こだわり」もそんな風にとられるものなのでしょうか?
> なんだかASの「個性の一部」を否定しているように思えます。
『AS特有の「こだわり」』というのは、医学上は「症状」であって、「個性の一部」とはみなされていない。したがって、否定されているのである。
『AS特有の「こだわり」』と呼ばれるものは「こだわり」ではなく、本質にかかわるものであり、「個性の一部」である、という主張はあって当然だが、それが認められたとすると「こだわり」という言葉を使うことは不適切とみなされると思う。「固執」や「執着」でもまだ悪い意味になる。
なお、「頑固」というのも「頑(かたく)な」だから、やっぱり悪い意味。
「こだわり」という言葉は、「手抜き」を「手抜き」と指摘できない世の中において、「手抜きをしていない」の言い換えとして使われはじめたのではないかと思う。
もっとも、「結果に影響しない部分で手を抜く」というのも技術の一部なのだが。
>> 「必要なことを徹底する」のは、「こだわり」でも「頑固」でもない。また、
>>製造の現場で必要とされるものは、「芸」などのような評価不能なものではない。
>>確かな「わざ(技/業)」である。
> これにも一言言わせてください。
> 確かにそれも一理あります。でも、その考え方は「職人は『技術屋』でいい」
>と言っているようで、なんか寂しいですね。
「芸」というのは「パフォーミング・アート」と言い換えると分りやすいと思う。
「パフォーマンス性」というのは、即時的であり、記録・保存がきかないという意味である。舞台芸術や料理が、パフォーマンスの代表といえる。
工芸の世界では、「これと同じものは二度と作れない」というものが確かにある。ところが「職人業」の世界だと、「同じものを安定的に供給する」という要求があるので、それでは困るのである。
だから、職人は「芸術」とは無縁である。「こちとら職人でぇ。『芸人』じゃねぇんだ」と言ったひともいた。
アートも「芸」だが、こちらは「技芸」。「第一の芸」と呼ばれたのは、「医術」である。「芸術は長く、人生は短い」というのもたしかヒポクラテスの言葉で、この場合の「芸術(アルト)」というのは医術のこと。「武術」もマーシャル・アーツだから「武芸」という言葉がある。
アートは「機会」と「才能」が出会ったところに生まれる。だから寺社建築、つまり宮大工の世界はアートの世界である。したがって宮大工というのは「職人」とは呼ばれない。仕事がないときでも、一般の「職人」の仕事である大工仕事には、「腕が穢れる」といって手をつけなかったという話がある。
ところが一般の人間が求めるものというのは、「芸術」ではない。家にしろ物にしろ、つまるところ「道具」である。それを適正な価格で、安定して手に入れたい。それを供給するのが「職人」である。
「職人魂(クラフトマン・シップ)」というのは、「美」を求めるのではなく、「わざ」を突きつめたところに美は立ちあらわれる、と信じるところから始まる。戦闘機や戦闘車輌の無骨な美しさは、求めて得られたものではない。機能・性能を追求した結果、そこに立ちあらわれたものである。こういうものを「機能美」と呼ぶのだが、それを信じるのが「職人魂(クラフトマン・シップ)」である。
だから、職人はおおむね昆虫が好きだ。機能を集約したところに立ちあらわれる美の代表が、ミヤマクワガタやオニヤンマやクマゼミの形態である。あとは蟹の形が好きだという職人も多い。
ラ五型戦闘機、というソ連の戦闘機がある。ラボーチキンという設計者が設計した機体で、フェノール樹脂で固めた木でできた「木製戦闘機」である。戦争中のことゆえ生産設備が不足しており、家具職人や楽器職人にも作れるというのですぐに量産体制に入れた。
このラ五型は第二次対戦末期のスターリングラード攻防戦においてドイツ空軍相手に一歩も退かぬ戦いを演じ、『スターリングラードの小さい木の救世主』と呼ばれた。
こういうものを作っちゃうのが「職人」なのである。ここに「芸」の入り込む余地はない。
> 僕は、職人というのは「技術屋」になってはならない、と考えます。人間味に
>欠けた、技術至上主義の人間がつくったモノに果たして魅力があるのでしょうか?
「限界までの能力を積み上げた両設計者が、最後に競り合うときは、もはや人間性だけが発言権を持つように思われる。」
佐貫亦男『設計からの発想 比較設計学のすすめ』、講談社ブルーバックス、P.249
人間性が問われるのは、技術の上で為すべきことをすべて為したその後である。
>> 本質を見ろ。
> 「本質」を100%見られる人間がいるとは思えない
私もそう思うが、本質から目を逸らす奴がけっこう多いので。
「こんなことをやってなんの意味があるんだぁ〜!」
「口を動かすのはいいが手を止めるなっ!」
みたいな経験はけっこう後で生きる。
「何をやったらいいか分からない」で悩む奴というのは、何をやったらいいのか教えてやるとすぐ伸びる。
「何をやればいいのかは分かっているのだが、ついついサボる」奴は、着実に脱落してゆく。
そういう残酷な部分というのは、誰しも見たくないのである。
(KILROY)
もしか袋って、私の生きる原動力だ!
「ヤなこといっぱい。でも、もしかしたら一つくらい、いいことみつかるぞ」って。
くると wrote:
> 複合型LDのくるとです。武田さんとひま人さんのコメントに横レスします。
>
>ひま人さん wrote:
>>武田好史 wrote:
>>
>>> 結果は院長先生より発表されました。私はやはりAS+ADHDで、言語
>>>性IQは高く106であり、反対に動作性IQは低く66で、平均してIQ88と
>>>いうことでした。
>>この言語性IQと動作性IQとのアンバランスは、NLD児・者の知能の特徴だと>思われます。とくに動作性IQが言語性IQよりも100も低いというのは、NL>Dである可能性がきわめて高いのではないでしょうか。
>
> ここで、医学的LDと教育学的LDの問題を分けておく必要があります。
>
>(医学的な意味でのNLD)
>
> あくまで、学力だけの問題を扱います。ここではNLDとは、脳機能障
>害が原因ではあるが、読み,書き,計算意外の分野に問題があって、学力
>困難をおこす人のことです。
手元のNLDの本には、NLD児は計算(殊に暗算)が困難だと書いてありますが・・・
それと、単に読み書きの能力に問題が無いのではなく、単語レベルでの読みの能力発音能力、そしてスペルの能力が優れ、かりにスペルが間違ってはいても、音声学的には合っているそうです。それと書字が下手で、しばしばミミズが這ったようになっているそうです。
KILROYさん wrote:
>ミッドランドさんwrote:
>>(僕は「堅気」よりも「気質」と書くほうが好きです)
>
> 「堅気」は「やくざ」の反対語だったような気がするのだが。
あとでよく調べてみたら、そのようですね。僕の認識不足でした……。
しかし、つぎの一文には一言いわせていただきます。
> 「こだわり」というのは、「本質的でないことに拘泥すること」をいう。
そんな否定的な意味なのですか? ならば、AS特有の「こだわり」もそんな風にとられるものなのでしょうか? なんだかASの「個性の一部」を否定しているように思えます。
> 「必要なことを徹底する」のは、「こだわり」でも「頑固」でもない。また、製造の現場で必要とされるものは、「芸」などのような評価不能なものではない。確かな「わざ(技/業)」である。
これにも一言言わせてください。
確かにそれも一理あります。でも、その考え方は「職人は『技術屋』でいい」と言っているようで、なんか寂しいですね。
僕は、職人というのは「技術屋」になってはならない、と考えます。人間味に欠けた、技術至上主義の人間がつくったモノに果たして魅力があるのでしょうか?
> 職人修行の第一は、おおむね「掃除」である。これは精神論ではない。それが「必要だから」だ。精密加工、精密塗装の世界では、「必要でないものを徹底的に排除する」ことがぜひとも必要である。それは半導体産業などに顕著に見られる。
これについては納得。かなり的を射ていると思います。
> 本質を見ろ。
「本質」を100%見られる人間がいるとは思えない ミッドランド
そうかぁ。書いてしまったもの「ごめんなさい」だけじゃ申し訳ないけど、ごめんなさい。私の気持ちも、なかなか変えられないが、
>
> 信念を持つのはいいことですけど、人の生き方というのはそれぞれです。
>
>ですよね。
やっぱり私、「傲慢」だ。ふぅ。
>
>
>次回起動できることを祈ってて下さい。(泣)
とりあえず起動成功。
コメントありがとうございました。
◎Tienさんへ
>私は通勤・帰宅時に一駅ずらして散歩運動する、または
>起床時に完璧に日光を浴びるようにする(光線療法みたいに)
>とからだの起床・入眠リズムを取り戻すようにしたら、少しづつか回復しました。
このご意見は参考になりました。帰りに、一駅ずらして帰宅しようと考えて
います。励まし、ありがとうございました。
◎makichanさんへ
> 私も入眠障害ひどくって眠剤に頼る生活13年ばかり続いています。朝きちんと>起きられても午前中は頭が重くってスッキリしません。元気がでるのは午後かra
> で、仕事が終わる夕方頃が一番調子がいいです。
まさに私がこのパターンです。朝眠くて、午後から少しづつ元気が出て、夕方に
は仕事ができます。そのため、今月から会社を午後だけの勤務にしましたが。
西洋オトギリソウも、入手できたら使ってみたいです。
最近は2時までには寝ようと、ハルシオン0.25gを処方量の1つではなく
2錠飲まないと、寝れないです。シエスタのある、イタリアやスペイン
のような国が羨ましいです。
リタリンが欲しいです。
武田好史 wrote:
>あなたは、このような「心の闇」を撲滅するためには、何が必要だと感じていますか?
閉ざされた心・性格のひずみ・人格障害・反抗挑戦性障害、これら「心の闇」を
もった人々を社会の成員とすることです。その人々を含め社会なのです。そうい
う人々を含めみんなでうまくやっていける社会をみんながそして行政は目指すべ
きです。現在「心の闇」をもつ人々は社会の非成員として、がゆえにその「奇異」
なる行動は刑法立案の相手にされず、今回の事件も刑法は犯罪行為の抑止力となっ
ていなかった。行政・社会は「怪異な人々」が存在することを認知する必要があり
ます。そして社会の成員として迎え入れ、公共的便宜の授与と自己の行動の最終的
責任者たることを認めなければなりません。そして理解、このような人々が成員と
して存在することも考慮し、たとえば社会防衛としての刑法を立案時は「怪異」な
市民がいることも忘れちゃいけません。でなければ有効な犯罪抑止はできないでし
ょう(一般人には有効でも「怪異」な人に無効であったらしょうがない、刑務所の
男女房分けはゲイの犯罪者にとっては喜びとなってしまう)有効な刑罰は役人に
頭を(柔らかくして)しぼってもらいます
今「心の闇」をもつ一部の人々は隔離された社会の非成員です。今のような刑法の
手直しは今回のような犯罪に対し空回りするばかりでしょう。「刑事責任能力がな
い者に有罪判決を下す」という法的矛盾は際立っていくばかりです。
> 原因の究明、および対応をお願いいたします。
半角カナは句読点なども含め使用していません。
Netscapeで書くと時々化けることがあることがわかっていて、他の
掲示板でも同様の症状が確認されています。
IEだと化けませんので、ホストのCGI側に問題があるか、端末側・ホスト側
いずれかの漢字コード認識に問題がある可能性があります。
ではIE使え、という話もあろうかと思いますが、私の環境でIEを使うと
システムがコケることがあるため、ちょっと難しい状況です。
今回使おうとしたら、漢字変換が働きませんでした。
前回別の掲示板でカーネルが読めなくなってえらい目に遭いました。
次回起動できることを祈ってて下さい。(泣)
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