アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: ぐるぐる 6747へのコメント
No.6788  Wed, 22 Aug 2001 23:36:34 +0900  一穂(いちほ) [この発言にコメントする]

オレンジブルー wrote:
>一穂さんはじめまして。

こんばんは!
オレンジジュースと青いボーダーのオレンジブルーさん
だよね(o^w^o)よろしく〜です

関係ないけど、オレンジXってゆう、オレンジの皮からとれた成分で作った万能洗剤にはまってる一穂です。
いいにおいだし換気扇もピカピカになるし〜
(ぐるぐるがピカピカ〜)
防虫防カビ効果もあるし
ネコのシャンプーにも使えるの。
タオルの洗濯にも使っていいにお〜い。
界面活性剤とかいっさい入ってない、天然成分の洗剤なの。


それから最近あらたに購入したエコロンG2ってゆう洗濯機に入れるお手玉みたいなもの。
これもとってもお気に入り。
なんとこの中には備長炭とトリマリンが入ってて、
このお手玉+塩で洗濯ができちゃう、しかもすっごくきれいになる〜♪
(トルマリンの磁性効果で食塩が分離されるので、イオンの効果できれいになるんだそうな)


>ここは、雨、曇りが一年を通しても多いです。
>雪と湿気とカビの国(汗)

それはたいへん!
でもわたしの住んでるところは一年を通して空気の悪い
工場と、白い空の街
でも今日は台風の風のおかげで空気が一掃され、
夕空が澄んできれいだった。


>あー!わかるわ(^^)
>私はコドモの時、台風に興奮して、三輪車を持ち出して座った状態で構えていて、
>風が運んでくれるのを待っていました。確か、ちょとだけ動いたと思う。
>あと、傘をさして、ジャンプ。
>一瞬「ふわっ・・」っと、浮いたようになって、なんか空飛べないかなあ・・・
>って楽しくて、一人でやってました(^^)
>コドモって危機感のある非日常感に、実は好奇心・興味で心がうずくようなところを強く持っているよね。
>なんか、怖くないんだよね。怖いもの知らずー。
>今もかなりあるけど(汗)。でも減ったな・・。

わたしも台風前の波切(なきり)
(紀伊半島のさきっちょ。大王崎ってゆう岬がある。高校時代、美術部の夏の合宿で絵を描きに行ってた。)
で30号のキャンバスを持って歩いたことがある。
歩けないくらいの風をキャンバスにうけていっしょに舞ってしまった!
でもさすがに飛べはしなかった。(!?)
小さいこどもだったら飛んでしまうかもなぁ。


>私は、「君が教えてくれたこと」のまゆこちゃんではないですが、
>気象##っていう所で、データ処理のバイトをしていました。
>データ読むのも超難しくって、なんだかんだと連携プレーみたいなもので大変だったけど、
>でもかなり楽しかったです。
>気象データ、資料がほとんど見れる状況でして、面白かった。
>たった3ヶ月の契約でしたが、アタマはヒート寸前でしたあ。
>いつも走っている緊張状態。偏頭痛や震えやチックも必死状態。
>電話応対はしなくて良かったので、それが唯一の救いだったあ。
>
>地球の北半球地図に、気圧配置や風力・風圧がだされていて、A4サイズの
>紙に出力されるんですが、これが観ててたのしいこと!
>必要無くなった紙はコピー用紙にされてたし、
>「これはもらっても、別に悪用しようが無いしもらってもいいよねー」
>と持って帰って、
>シートに入れて見入ってました。
>ははは。
>私はこの時はこんなアスペルガーの館の存在やら、発達障害の内容やら
>詳しくは全く知らなかったんです。
>その仕事が終了してから、まあ、面談が進んでいき、
>ネット検索したら、「ありゃー一緒ナことが・・」だったんです。。。。

わたしもただいま「ありゃ〜」まっさかり。

まだ検査もなんも受けてないんだけど
そろそろちゃんとしたとこに行ってみようかなと思ってます。
川崎市に住んでるのですが、
どなたか、いい病院知ってたらおしえてください。



>理科・・・気象関係に興味があるのでしたら、
>無線資格とか取ると、また一味色々知識が加わって、楽しいのかもしれない。
>あの資格ってすぐに取れるそうですよ(^^)

なんか、無線てすごく"オタク"っぽくていいわ〜。
無線の資格もってるんですか?
どんなことに使えるの??


Re: 再度論考 6687へのコメント
No.6787  Wed, 22 Aug 2001 23:22:19 +0900  Makichan [この発言にコメントする]


YanさんのカキコNO.6742をもって私のレスといたします。Yanさんうまくまとめてくれました。自分の言葉で語れなくてすみません。


Re: なるほど。 6768へのコメント
No.6786  Wed, 22 Aug 2001 23:17:17 +0900  Maria [この発言にコメントする]

名加野さん wrote:
> 多分、電子文書だと見ないと思いますので、ブックタイプを買おうと思って
>おりますが、お値段はいくら位になるのでしょうか?

 一応の予算(原価)は、千部あたり十万(一冊百円)未満。装本を簡単にし、版下をこちらで用意し、大学近くの同人誌だとか文集だとか論文の紀要集なんかを刷っている印刷所のヒマな時期に押しこめばまだまだ安くなるはず。
 これを書籍扱いで郵送すると、だいたいカップ麺一個分くらいの値段になる予定です。安いでしょ。ほくほく。

 書店に並べるとなると、部数が少なくて単価が安いとなると書店さんが嫌がりそうに思います。パーソナルコンピュータ向けのパッケージ・ソフトウェアがそうだったから。そーすっとやっぱり千円台、ということになるかも。だけどあんまり単価上げたくないんですよね。講談社に押しかけて「ブルーバックスの一冊として出版してください!」かなんか交渉してみようかしら。明窓出版の増本社長には申し訳ないけど、そっちはそっちで『ふたりで聖書を』の続編で儲けてもらうとか……

 そーいえば今日、本屋で酒木保『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』(PHP新書)という本を見つけて、とりあえず買って読んでみました。クソつまらない本でした。「金返せぇ〜!」と言いたくなりましたが、こういう本でも出せば売れると思って出す出版社がある、と思うとそれなりに希望も湧いてくるというものです。

 そういえば、学習研究社の『実践障害児教育』の8月号は自閉症特集だったそうですが、増刷分までさっさと売り切れてしまいました。別冊が出ることを期待しましょう。aya(bau)さん主催のメーリングリストでも本を出版する気運が高まっている、というような話も風の便りに聞きました。いろんな立場、いろんな視点でそういった本が出ると、アスペっ子のお母さまがたやご本人さんがたも、自分の「座標」のようなものが定まって気が楽になるのではないかと……とか他人ごとみたいに言ってっけどさ、あたしもこないだ従姉の子供がどうやらASらしいっていう話があってさ、で、関係者の証言によるとその子が子供の頃のあたしそっくり(^_^;)。ASって血なのかしら。「あたしの血は汚れているのよぉ〜!」とかいって悩んだりしてね。読み筋は横溝正史。映画、『金田一耕介の冒険』。主演は古屋一行&田中邦衛。特別出演の横溝先生と角川春樹さんとの掛け合いがお茶目。「ちと儲けすぎじゃないか?」「へへぇ〜っ!」「私はこの映画だけには出たくなかった。」(←たしか映画『病院坂の首括りの家』のTV-CMのパロディ。『悪霊島』かも知れないけど)。

 従姉は「悩んでない」タイプの人で、「あたしも掲示板で発言しようかしら」とか言っているのでぜひとも参加してほしい、と思ってます。

> 僕は「大人になんてなりたくは無い」と思ってたりします(ピーターパンの話
>では無いけれど)。純粋な心を忘れたらつまらないし、何でもかんでも、自我を
>守るためにおちゃらけた話に持っていく人にもなりたくないです。そういう大人
>ばかりでもないのはわかります。

 以下は、『ふたりで聖書を』からの引用。

---
 「それにさ、たとえば……お嬢さん、結婚相手って何を基準に選びます?」
 「あたしのこと大事にしてくれるひと」
 あたりまえだと思う。
 「いいなぁ、そういう迷いがないのって。ところが世間では、年齢これこれ、身長これこれ、収入これこれ、学歴これこれ、家族構成これこれ、という感じでですね、相応なところに振り分けられるというランク付けのシステムができあがっておるわけです。で、ここには人間性というものはとりあえず含まれていないわけですよ。そこに齟齬(そご)が生まれるんです。女性が男性として私という人間を見た場合、私の本質を見てくれる女性というのは非常にまれなわけ」
 「それって女が馬鹿なんじゃない?」
 「世間ではそういう人たちのことを『大人(おとな)』ということになっていて、『人間としての本質』だとか『人間性』だとか言ってる奴はガキだということになっているわけです」
 「大人なんか嫌いだー、とか言ってしまいましょうか」
 「我々が子供の頃って、『大人』っていうと、『分別のある人』という意味でしたよね。『大人』という言葉には、何か憧れのようなものがあった。それが、いつの頃からか『お前、もっと<大人>になれよな』とかいう物言いばかりが耳に入ってくるようになった」
 「それは、ありますね、確かに」
---

 「大人」ってなんだろう、って気がします。「Made in Japan」が粗悪品の代名詞だった時代があります。だけど、現在は「Made in Japan」は高品質の代名詞です。エドワード・デミング博士に教えを乞い、日本のQC活動を育ててきた西堀栄三郎さんをはじめとする多くの人の努力がそれを実現しました。「大人」という言葉を貶めるかどうかは、あたしたちにかかっています。
 若いひとが、「私も大人になりたい」と思うような大人でありたいと思います。

 そういえば、「お役所仕事」。これも改めてほしいよな。分かったか公僕。

 (Maria)


Re: どうして「下ネタ」なのだろうか…… 6780へのコメント
No.6785  Wed, 22 Aug 2001 23:14:05 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

くると wrote:
>名加野さん wrote:
>
>
>> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、
>>「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでし
>>ょうか?
>(中略)
>> ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」もの
>>だそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきも
>>のであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に
>>古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われ
>>ましたけど。
>
> わたしは、性欲や倒錯愛や同性愛の問題をけっこうまじめに考えている方な
>ので、それを笑いのネタにされると腹が立ちます。(これは特にフランス現代
>思想の重要なテーマの1つです。ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズの研
>究が有名です)
>
なんか不随意的に、卑猥なことをいってしまう「汚語症」という、チックがあるようだが・・・


Re: 再度論考 6742へのコメント
No.6784  Wed, 22 Aug 2001 23:12:17 +0900  Makichan [この発言にコメントする]

 レス頂きましてありがとうございます。とてもうまく纏めていただき感謝します。私のつたない言語力ではここまでできません。おっしゃるとうりだと思います。ただしかし、ただしかし・・・です。

Yan さんwrote:
>
>ええと、それとまたもや横レス。Makichan wrote:
>>私は大雑把な人間ですから、こんなふうにしか言えないんですが、医学的であれ、哲学的・倫理的であれ、解釈体系つくること自体無理だし、しない方がむしろいいのかなあって思ってるんです。いかなる定義づけをしてもいつか訂正修正する時が来ると思うんです。修正の都度混乱まねいてたんじゃかなわないで すよ。それなら初めからないほうが・・。さらに暴論カマシますが、精神医学は結局医師個人の名人芸に頼るしかないんじゃないかしらん思います。相性もあるし。
>
>「医師個人の名人芸」という言葉を見て、Makichan は精神医学に心理学や精神分析のような期待を抱いているんじゃないかと思いました。精神医学は脳を扱う分野だと思います。個人の心の内面を治療するわけじゃないと思うのです。医者と患者の相性はあるだろうし、あまり医者に無愛想にされても困りますが、「医師個人の名人芸」のような才能は、精神科医一般に要求できる類の資質ではないと思います。(診断しておいて診断名を患者本人に明かさないのは問題外)

 おっしゃるとうりです。けど、けど、私の尖がった知性は少しだけ異議挟みたくなるんです。「脳を扱う」ことと「心の内面を治療する」ことをそんな簡単に分けられるか疑問に思うんですけどねぇ。

>「医師個人の名人芸」のような才能は、精神科医一般に要求できる類の資質ではないと思います。(診断しておいて診断名を患者本人に明かさないのは問題外)

 そうです。ですから我々は医師を慎重に選ぶ必要あると言いたいんです。良い
医師を見つけるための情報交換したほうがいいですね。

 私の経験で言いますと、おとなのASタイプの人には精神分析はある程度有効じゃないかと思います。私が今かろうじて定職について働いていられるのは、30歳すこし前にお会いした大阪の辻悟先生のお陰です。(批判するわけじゃないから名前だすのは許されるでしょう。)あの経験が精神分析受けたことになるのかは難しいところですが。ただ精神分析の分野ではかなり有名な方らしいです。今から思えばラカンの影響強く受けた先生じゃないかなと思います。すべてにノーを言う事でかろうじて心のブレをとめる。ああいうのを否定神学いうんじゃないのかなあ。わたしゃラカンなんててんで解かんないけどね。このカキコ見て辻先生に興味持たれた人は一度訪ねてみたらよろしい。(ひどく無愛想な人だけどね。)今どこにいらっしゃるかは知らないが有名な方だから調べればすぐにわかると思います。

 私は自閉症や分裂病をひもとけば、社会全体が見えてくるんじゃないかと思っています。人類の幻想がそれらの障害をつくりだしたんだというYanさん指摘はある
意味正しいと思います。ただし非障害者の幻想がという意味でですが。これらは
脳の器質的障害であり、かつ心理学的問題だと思ってます。


おすすめ 6083へのコメント
No.6783  Wed, 22 Aug 2001 22:28:56 +0900  レイコ [この発言にコメントする]

http://yogananda.hoops.ne.jp/
レイコのおすすめです
かなりおもしろいです


沢木あさみ 本名は何?
No.6782  Wed, 22 Aug 2001 22:27:42 +0900  Chipぱす忘れ [この発言にコメントする]

ニキリンコの本名が 沢木あさみ だと思っている人。
ニキリンコが本当に自閉症だと まだ信じている人。

詳細はこちらへ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/komatta/6549072265625.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/komatta/5465087890625.html


タレイヌさんへ。 6766へのコメント
No.6781  Wed, 22 Aug 2001 22:18:54 +0900  Maria [この発言にコメントする]


 えーんえーん、しくしく、ぐすぐす、えぐっえぐっ。

 タレイヌさんに『「どっちでもいいこと」が決められない』のプロローグ部分をメールで送ろうとしたら、宛先不明で返ってきてしまいましたぁ。めそめそ。

 できればあたし宛、メールを戴きたく存じます。そしたら折り返しお送りいたします。

 (Maria)


Re: どうして「下ネタ」なのだろうか…… 6772へのコメント
No.6780  Wed, 22 Aug 2001 21:56:03 +0900  くると [この発言にコメントする]

名加野さん wrote:


> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、
>「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでし
>ょうか?
(中略)
> ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」もの
>だそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきも
>のであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に
>古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われ
>ましたけど。

わたしは、性欲や倒錯愛や同性愛の問題をけっこうまじめに考えている方な
ので、それを笑いのネタにされると腹が立ちます。(これは特にフランス現代
思想の重要なテーマの1つです。ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズの研
究が有名です)

> こちらは真剣な話をしたいのに、笑いへ笑いへ持っていこうとするのもどう
>かと。つまらない(真剣すぎる)話題を聞くとへこむから、流す。良いのかそ
>れで。真剣だとか言って、笑いを取ろうとするほうがよっぽどつまらないと思
>います。

同感です。

(1)明るいムードの押しつけ
(2)楽観主義の押しつけ

はあまり好きじゃありません。


Re: ひとりごと。 6775へのコメント
No.6779  Wed, 22 Aug 2001 21:53:20 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 ひとりごとにツッコミを入れるというのも不粋な話ですけれど、ひま人さんの提示した問題を見通しのよいように整理してみたいと思います。これに対して、ひま人さんから「いや、私が提示したかった問題はそういうことではないのだ」といった異論がございましたら、そのむねおっしゃっていただきたく存じます。

>論客Aと論客Bが言い争っているとき、外側に回り込んで両者の対立構造を客観
>的に眺めようとする、このとき、もしも言い争いに加われば、客観視するのがむ
>ずかしくなりはしないだろうか。
>かつての物理学者が考えた、「この宇宙に存在するすべての原子の位置と動きの
>方向と速度が判れば、未来を予測することが可能になる」という発想。
>こうゆう発想が出てくるには、俗世間から孤立して沈思黙考するというスタイル
>が、かならずしも必要というわけではないにせよ、そうした発想を生みやすい背
>景にはなっているのではないか。これらの条件とは、ASの特性にぴったりと一
>致すると思うが・・・
>これはたんなる思いつきだろうか。すくなくともそうした傾向があるのは事実で
>はないだろうか。

 古代中国における「隠者の思想」というものが、おそらくはひま人さんのおっしゃるイメージにもっとも近いものだと思います。「当事者」になってしまうことによって、見えなくなってしまうものがあるのではないだろうか。そういう発想です。

 あたしはこうした立場がASの人間に向いている、というひま人さんの意見にNOを言いました。とはいえ、それなら「当事者」の立場がASに向いているかという問いにも、あたしはNOを言います。ただし、その理由はひま人さんの視点とは別のところにあるのね。

 「当事者」の立場に立ってしまうと、「立場上、言いたくても言えないこと」というのができてしまいます。これはASの人間にとっては、つらい。その意味で、私的な立場で当事者となることは、ASには不向きであるように思います。

 ふりかえって「隠者」「助言者」の立場がASに向いているかといえば、これを支持する積極的な理由があたしには見つけられませんでした。強いていえば、「向いていないことはない」という消極的な理由がある、というところでしょうか。

 さて、あたしはさきほど「私的な立場で当事者となることは、ASには不向きであるように思います」と書きました。では、「公的な立場で当事者となること」はどうでしょうか? ひま人さんはこの点について考慮していないように思います。

 仲買人、中卸業者、代理交渉人、審判員、検査員、あるいは公証人、裁判官、鑑定人といった、「私的な立場を取らず、あくまで公正な立場で物事にかかわる人間」というのは、評論家のような「隠者」「助言者」よりもよほど社会的需要が大きいように思います。

 宇宙の外に超然と存在する絶対的な観察者の立場(ニュートン的な、絶対空間における観察者)ではなく、あたかも一個の天体にように存在する相対的な観察者の立場(アインシュタイン的な、局所慣性系に属した観察者)というのも、あっていいのではないでしょうか。

 隠者は必ずしも深山幽谷に住むわけではありません。市に隠れる隠者もいるのです。

 (Maria)


Re: 質問 6740へのコメント
No.6778  Wed, 22 Aug 2001 21:43:40 +0900  くると [この発言にコメントする]

Tienさん wrote:
>突然ですが、私は最近とても驚く体験をしました。
>それは、「僕の事も少しは考えてくれよ。(-_-;)」と言う友人の叫びにも似た
>一言でした。
>相手の事を考えているつもりが、ある意味ほとんど考えてないというのが、そ
>の後私にしては希なる熟考をして、やっと気づきました。まるで頭を殴られた
>ような衝撃でした。
>みなさんはこれに類似した体験はありますか?

最近、その逆の体験が多くてとまどっています。どうも、「相手の気持ちを
理解できている」という誤解を受けてしまっているのです。わたしは人から悩
み事を話された場合

(1)相手の話を聞く
(2)相手の話したことについて分からないことを質問する
(3)相手が話したことについて別の角度から考察する
(4)相手の話にあいずちを打つ
(5)相手の話に関心を持っていることをアピールする

といった行動をします。そのため、周囲の人間からは「他人に共感できている
」ように見えてしまうそうです。これは共感とは違う行動なんだということを
説明したいのですが、あまり理解されないみたいです。

 どうも、「共感をアピールする」ということと「共感する」ということが混
同されてしまっているような気がします。


オカズ整理要員!
No.6777  Wed, 22 Aug 2001 21:37:55 +0900  ミッドランド [この発言にコメントする]

 気が早いですが、食欲の秋が来ようとしています。

 わしは「皿の上にある残ったオカズを、そのままにできない」タチです。
 普段食事をしていても「残したらダメだ、もったいない」という意識が自然と働き、たとえ食欲がないときでも、皿の上のオカズは全部食べなければと思ってしまい、ムリしてでも食べてしまいます。
 食べ物を残すことで「妙な罪悪感」を感じてしまうのです。

 わしは大学時代、何度か飲み会に参加しましたが、そのとき出てくる大皿に盛られた料理は、まさにこの意識を強く感じさせるものでした。
 大皿の上の料理を数人で取って食べますが、決まって若干の量が残ります。それを見ると、わしは皿を手に取って残りを食べずにはいられません。皿の上の料理の残りを手当たり次第に食べていっていたので、わしはいつも「飲むより食べる量のほうが多い」状態でした。
 いわばわしは「オカズ整理要員」だったのです。

 「出された食べ物は全部食べなければならない。」これがわしの意識下にある「不文律」です。

 しかし、この話を親にしたところ、
「そんなことやめなさい。みっともない。」
と言われてしまいました。ムリしてまで残りのオカズを食べる必要ないと言うのです。
 わしは残されたオカズに対し「もったいない」の気持ちがわいてきて、「オカズ整理要員」になるのです。そんなわしの行動は、どうやら「みっともない、恥ずかしい、品がない」と映っているようです。
 そんなにわしの行動はヘンでしょうか?それならオカズを残した方がいいとでも言うのでしょうか?

 食いもん粗末にすると「もったいないオバケ」が出るぞ〜〜〜〜〜〜〜。
 (↑古いネタじゃなー)

 食い意地の張った内容ですいません   ミッドランド


Re: 質問 6740へのコメント
No.6776  Wed, 22 Aug 2001 20:38:49 +0900  かおり [この発言にコメントする]

Tien さんwrote:

>それは、「僕の事も少しは考えてくれよ。(-_-;)」と言う友人の叫びにも似た
>一言でした。
(中略)
>みなさんはこれに類似した体験はありますか?
>「越えて欲しくないボーダライン」を分かってもらうのは難しい。

Tienさんお久しぶりです。
私は逆に「人のことばっかりで自分の事は後回しにしすぎる」といわれました。彼らにとって私は「殉教者」みたいで、自分の人生を自分のために使っていないと見えるらしい。実際は違うとなんどもいっても、結局は分かって貰えないのを分かっただけでした。
「その人といると自分が安心する」だけじゃ駄目なんだろうか?
かおり


ひとりごと。
No.6775  Wed, 22 Aug 2001 20:35:31 +0900  ひま人 [この発言にコメントする]

私はMariaさんほど頭が良くはないし、理論を打ち立てるつもりも能力もありません。そもそも理論的に検証する以前に、自分の言いたいことを的確に言い当てているかさえ疑問です。
しつこいかもしれませんが、再度こだわってみます。たとえば、今話題になっている教科書問題について、これを批判する主として左寄りの人たちと、つくる会の会長の西尾幹二や、小林よしのり、石原慎太郎といった、国家主義者(と思われている)人たちの対立構造があり、その一方で、たとえば経済学の巨匠竹内靖夫は、左の人たちとは別の観点から国家という概念についての批評、相対化を提唱しています(ただ彼は、つくる会めがけて批判しているわけではない)。
この三者が、思想的にどのように位置づけられるのかとかいったことを、知識人になったつもりで思い巡らしいてるとき
投書欄などでよく見かける「なぜドイツは被害者に対して謝罪弁償しているのに、日本はきちんと処理しようとしないのか」といった口吻と、西尾氏が投稿したナチスドイツやヒトラーがやらかした行為と日本軍が行ったとされる残虐行為とを、それぞれどのように分析し考えているかについての論説とを比較対照しているとき、
このような思考スタイルが適合しやすい心理状態とは、人間関係(とくに親友などのべたついた仲間関係)からの隔離ではないか。
論客Aと論客Bが言い争っているとき、外側に回り込んで両者の対立構造を客観的に眺めようとする、このとき、もしも言い争いに加われば、客観視するのがむずかしくなりはしないだろうか。
かつての物理学者が考えた、「この宇宙に存在するすべての原子の位置と動きの方向と速度が判れば、未来を予測することが可能になる」という発想。
こうゆう発想が出てくるには、俗世間から孤立して沈思黙考するというスタイルが、かならずしも必要というわけではないにせよ、そうした発想を生みやすい背景にはなっているのではないか。これらの条件とは、ASの特性にぴったりと一致すると思うが・・・
これはたんなる思いつきだろうか。すくなくともそうした傾向があるのは事実ではないだろうか。


Re: どうして「下ネタ」なのだろうか…… 6773へのコメント
No.6774  Wed, 22 Aug 2001 20:31:27 +0900  Maria [この発言にコメントする]

名加野さん wrote:
> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、
>「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるので
>しょうか?

 えー、「Hネタの女王」を自称するあたしとしては、この問題にコメントせざるをえないのでしょうね、たぶん。ところで武田さぁ〜ん、引用長いってば。

 さて。まずはじめに「下ネタ」と「Hネタ」の違いについてコメントしておきます。

 一般に「下ネタ」というと、これは「排泄物ネタ」でございまして、プロのお笑い芸人の間では「禁じ手」とされています。これは、子供が唐突に「ウンコ!」とか叫んで大人の注目を浴びたがるのと同レベルの話だからです。もっともKILROYさんは、「砂漠の民は何で尻を拭くのか? 砂だろうか?」みたいな話に「石で拭くのだぁ〜!」とかいったレスをつけてこの『アスペルガーの館の掲示板』にデビューした人だからな。その場の雰囲気に即していれば、まあ許されるかもしれない。

 で、名加野さんのいう「下ネタ」というのはセックス関係のネタでございますね。あたしはこれを称して「Hネタ」と称しております。「H」というのは、「変態」の頭文字だから正確ではありませんが、まあ、そういう「記号」だと認識してください。

 この「Hネタの強要」については、中島義道先生の分析がおそらく正鵠(せいこく)を射ているのではないかと思います。新潮社から発売されている『私の嫌いな10の言葉』の中の、「もっと素直になれよ!」の部分をお読みいただけるといいかも知れませんが、そうやって他人にゲタを預けてしまうとどっかに履いてかれちゃうので(←すみません。疲れているのです)、ちゃんとあたしの言葉で語ろうと思います。

 でもまあ、一応引用だけはさせてもらいましょう。No.3524でKILROYさんが引用したものの丸写しだから楽だし。

 『しかも面白いことに、「素直」とは本人が決めるべきものではないというものではないということ。本人がいかに素直な気持を抱いていても、それが本当に素直であるか否かは自分が決めるのです。「きみ、恋人のひとりもいなくて寂しいだろう」と茶化したところ、「いえ何ともありません」と答えると「素直じゃないんだなあ」と来る。酒の席で「おまえ、アイツにさきを越されて悔しくないか」と聞き「いえ、別に」という返事に「素直じゃねえんだからなあ」と来る。
 つまり、人としての<自然な>感情の動きがあり、それが素直なのであって、それから外れている者は素直ではないのです。しかも「自然」とはマジョリティにとっての自然なのであり、マジョリティと感受性を共有しない者は、みんなそれを恥じており、隠蔽しており、無理に平気を装っている。だから「素直」ではないということになるのです。たいした暴力ですが、私はこうした言葉遣いに親和性のある人(「世間度」の高い人)とそうでない人とをただちにかぎ分けられる。』
 (中島義道『私の嫌いな10の言葉』、新潮社、本体1200円)

 あたしはHネタは嫌いではありません。むしろはっきり好きだと申せましょう。だけど、セックスが「真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではない」とはまったく思っていません。愛のないセックスはセックスではありませんが、セックスは愛そのものではないからです。
 とはいえ世の中には「愛のないセックス」というものがあると思っている人々がいて、「セックス」が目的で「愛」は口実でしかない、と信じていたりするのね。で、そういう人々は、それがすべての男の本音だ、と信じたいわけです。

 名加野さんにHネタを強要する人々は、名加野さんの「本音」が、自分たちと同じく『「セックス」が目的で「愛」は口実でしかない』というものであり、それを受入れない名加野さんの態度を「恰好をつけている」「気取っている」「無理をしている」「本音を隠している」というものだと「知っ」て、「納得」したいと思っているのですね。

 まあ、そういう人はいます。あたしは仕事が好きだし、国文法も数学も物理学も好きです。だけど、仕事だの学問だのというのは「嫌々やらされるもの」「無価値なもの」だと信じたい人は大勢いたりするのですね。嫌気がさしてそれを放棄してしまった人というのはだいたいそうです。
 つまり、名加野さんにHネタを強要する人々は、愛に背を向けた人々なのですよ。

 そんなわけで、あたしはHネタが大好きではあるけれど、そのHネタは大きく分けて二つに分かれます。一つは「愛のあるセックス」、あるいは単なるセックスの話。もう一つは、「愛のないセックス」と言われるものの滑稽さを嘲うタイプの話。まあ、「愛のあるセックス」だって、客観的に見ればけっこう(あるいは、当事者が真剣であるだけに、なおさら)滑稽なんだけどさ。それはそれで笑えたりします。

 でまあ、他人に愛のないHネタを強要するような寂しい人々は適当に相槌でも打って無視するに限ります。「中坊じゃあるめーし小便臭いスケベ話で盛り上がってんじゃねえよバーカ」とか思っていても、顔には出さないほうがいいと思います。出ちゃうんだけどさ。

 (Maria)


Re: どうして「下ネタ」なのだろうか…… 6772へのコメント
No.6773  Wed, 22 Aug 2001 16:21:51 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

名加野 wrote:
> 皆さんこんにちは。名加野でございます。
>
> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでしょうか?
>
> 友達や同僚は、大体そういう話で盛り上がっています。下手するとそれだけで2時間ぐらい話しています。僕はそれを嫌悪感あらわに聞いて(耳ふさぎたい)おりますと、必ず「話したくない」と公言しているのに聞いてくるのです。
>
> ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」ものだそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われましたけど。
>
> こちらは真剣な話をしたいのに、笑いへ笑いへ持っていこうとするのもどうかと。つまらない(真剣すぎる)話題を聞くとへこむから、流す。良いのかそれで。真剣だとか言って、笑いを取ろうとするほうがよっぽどつまらないと思います。
>
> また、「人間関係」が良くなるにはこういう話についていけなきゃダメ(要するにクビ)と言われました。
>
> どっか別の所でやって欲しい、と思うのは、ダメなんですか? 別に僕は否定してるわけではなくて、笑いを取るために話さないでくれ、というよりも僕を巻き込むなと言いたいわけです。せっかく僕が(お前らのために)運転してやってるのに、嫌な話題を出さないで下さいと言ってるわけです。結局焼け石に水でした。
>
> どうにかならんものでしょうか? 試練ですか?

 偉い!結構まともな倫理観だ。いくら遊びとかコンパとかでもそういう話されるのは自分も頭にくるほうだ。
 君はそんなことをしないよい上司になって欲しい。


どうして「下ネタ」なのだろうか……
No.6772  Wed, 22 Aug 2001 15:21:14 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

 皆さんこんにちは。名加野でございます。

 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでしょうか?

 友達や同僚は、大体そういう話で盛り上がっています。下手するとそれだけで2時間ぐらい話しています。僕はそれを嫌悪感あらわに聞いて(耳ふさぎたい)おりますと、必ず「話したくない」と公言しているのに聞いてくるのです。

 ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」ものだそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われましたけど。

 こちらは真剣な話をしたいのに、笑いへ笑いへ持っていこうとするのもどうかと。つまらない(真剣すぎる)話題を聞くとへこむから、流す。良いのかそれで。真剣だとか言って、笑いを取ろうとするほうがよっぽどつまらないと思います。

 また、「人間関係」が良くなるにはこういう話についていけなきゃダメ(要するにクビ)と言われました。

 どっか別の所でやって欲しい、と思うのは、ダメなんですか? 別に僕は否定してるわけではなくて、笑いを取るために話さないでくれ、というよりも僕を巻き込むなと言いたいわけです。せっかく僕が(お前らのために)運転してやってるのに、嫌な話題を出さないで下さいと言ってるわけです。結局焼け石に水でした。

 どうにかならんものでしょうか? 試練ですか?


横レス 6730へのコメント
No.6771  Wed, 22 Aug 2001 14:49:40 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

 konetamaさん、こんにちは。(おはつですと言った方が良いかもしれませんが……)

>私は、4ヶ月前診断された後、軽度発達障害の本を読みはじめましたので、
>知識も豊富なほうではないのですが、よろしくおねがいします。

 こっちなんて、本すら読んでないです。本屋行っても、ゲームばかり見てるおこちゃまですので、逆にレベル的に僕の方が教わる事多いと思います。本ぐらい買わなきゃいけないなあと思いつつ。では。


Re: 「生得」と「獲得」 6769へのコメント
No.6770  Wed, 22 Aug 2001 14:16:43 +0900  シュッツ [この発言にコメントする]

Maria wrote:
> あたしもシュッツさんと同じように、「心」の発生的起源には興味があるのですが、『アスペルガーの館の掲示板』では(学校の先生や母親のような、発達心理学の専門家ではないという意味での非・専門家による)発達障害児教育との関連において、(ウタ・フリスの論文に基づいて発達障害児教育に持込まれた)『いわゆる「心の理論」』について論じているのですが。

そうすると、もともと議論している対象が違うということになりますか。

> そんなわけで、あたしは人間の感情というものが、「社会的行動において有害なもの」「押さえつけるべきもの」ではなく、「環境に適応するための適応プログラムの一部であり、単に押さえつけるべきものではなく、適切な形で発達させるべきもの」であるというコンセプト(これが戸田正直氏の基本的立場です)について議論しているわけです。
> 「そのコンセプト自体が間違っているのだ」というのなら、それはそれでまた別の話なのですが。

それはそれでいいと思います。
コンセプトではなく記述法に対して、私は疑問を持っているだけです。

> そんでもって、あたしは「サバイバル技術」としての有効な理論を求めているのですよ。

私が求めているのは、「自分を記述する理論」です。
「記述する」ことで「サバイバル」の半分(個体差あり)は達成できるという考えです。
その点も、噛み合ってない原因でしょうね。


Re: 「生得」と「獲得」 6767へのコメント
No.6769  Wed, 22 Aug 2001 12:38:50 +0900  Maria [この発言にコメントする]

シュッツさん wrote:
>フリスの原文は分からないですが、「心」は上の「mental states」と同じ
>意味なのでしょうか?

 おそらく、より高次の「精神」といったものを考えているはずです。

>ただ、ここでフリスの理論にまで触れるのは、話を複雑にし過ぎるのではあり
>ませんか。
>重要なことではありますが、一つのスレッドにあまり広い話題を詰め込むと分
>かりにくくなると思います。

 あたしもシュッツさんと同じように、「心」の発生的起源には興味があるのですが、『アスペルガーの館の掲示板』では(学校の先生や母親のような、発達心理学の専門家ではないという意味での非・専門家による)発達障害児教育との関連において、(ウタ・フリスの論文に基づいて発達障害児教育に持込まれた)『いわゆる「心の理論」』について論じているのですが。

 そんなわけで、あたしは人間の感情というものが、「社会的行動において有害なもの」「押さえつけるべきもの」ではなく、「環境に適応するための適応プログラムの一部であり、単に押さえつけるべきものではなく、適切な形で発達させるべきもの」であるというコンセプト(これが戸田正直氏の基本的立場です)について議論しているわけです。
 「そのコンセプト自体が間違っているのだ」というのなら、それはそれでまた別の話なのですが。

>>私はまず用語ですが、私は「生得」「獲得」と「生得説」「獲得説」を区別して
>>使っています。
>という前提のもとに、基本的な心理学に話題を絞っているつもりなのですが。

 了解しました。

>> で、あたしは自閉症児でも、「他者の行動を他者の心に帰属させることに
>>よって構築された、行動と心の関係の法則」は獲得していると考えているわ
>>けです。でないと、「行動的ストーリー」を理解するためには、行動学者な
>>みの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」を身につけ
>>なければなりませんから。この点に関しては、非・自閉症児も自閉症児も有
>>意な差はないわけだから、どちらも「自分だったらこうする」という「自ら
>>の行動を自らの心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の
>>法則」に基づいて推論してるはずだし。
>この文章中の「獲得」という語は、普通の意味で生まれてから得たものとして
>読んでいいのでしょうか。

 「普通の意味で」と言われると、なにが普通か、という議論にまた陥ってしまいます。
 「その部分は同程度に達成されている」といった表現を用いたほうがいいかと思います。ただし、「同程度に」であって、その達成方法が自閉症児と非・自閉症児において異なっているという可能性は否定しません。ついでながら、この達成方法の差が、「心理的ストーリー」の理解において決定的な差になっている可能性も否定しません。もっともそのメカニズムについてはなんらのアイディアも持っていませんが。

>私は、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見
>方」があっても構わないと考えます。

 それが誰であれ、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」をすることに対してあたしは反対しません。
 自閉症の幼児が行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」をしているという仮説はけっこう魅力的ですが、あたしは発達障害児童教育の場でそれを主張しようとは思いません。

>「自然に」という言葉に恣意的なものを感じてしまいます。
>平均的人間、あるいは集合としての人間には当てはめられるのかも知れません
>が、実際には個体差が大きすぎると思います。
>本当に「病的」と考えることが「普通」なのか、自己満足が目的ではいけない
>のか、「順位構造」が「自然な」存在なのか……
>これらのように、仮定ばかり重ねている、不自然な解釈に思えます。

 自閉症児のお母さまがたも、コンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』を読んで面白いと思うくらいの教養はお持ちです。したがって、動物行動学における基本的なコンセプトによって、自閉症児のお母さまがたが容易に納得しうる程度の解釈、というのをあたしは想定しています。

>> では、「発達心理学における理論」は、自閉症児が他者の行動予測を行なう
>>有効な道具になりうるでしょうか。もし、「なりうる」というのなら、これは
>>自閉症方面の子供を持つお母さまがたには、大変な福音となるはずなのですが。
>>現状はいかがなものなのでしょうか?

>条件付きで道具になるでしょう。
>その条件とは:
>(1)数学的(具体的な数式と言う意味ではなく、数学における思考方法)な法則を>理解し使いこなせるだけの知能を備えていること。
>(2)それを備えていない場合に、理解させるための教育方法が存在すること。

 その点について、あたしはpocksさんと同意見です。すなわち、「(平均的なレベルの)自閉症の子供にはムリだ」。おそらく「魔術の年代」と呼ばれる幼年期を脱した少年期、あるいはメタ認知を行えるようになった青年期以降、ということになると思います。

pocksさん wrote:
>「心の理論」と難易度が同じくらいの、人間心理以外のことに関する論理的な
>推論の課題を子供が解けるようになる年齢は、非自閉人が「心の理論」課題を
>解けるようになるよりはかなり後で、高機能自閉人が心の理論課題を解けるよ
>うになる年齢と同じくらいではないだろうか、というのが私の推測で、これを
>実験的に確かめることができれば私も採用している生得説の正しさを証明でき
>ると思うのですが、そうした実験の例はないのでしょうか。ないのであれば、
>誰か専門家の方に実施してもらいたいところです。

 あたしが思うに、自閉症児の教育は、「青年期までの時期をどう乗り切り、いかにその後の社会活動に参加してゆくか」に尽きると思います。あたしを含めて、「大人になってから思ったんだけど、あたしって自閉症だったみたい」というひとたちは、この意味で「生き残り(サバイバー)」だったりします。

 そんでもって、あたしは「サバイバル技術」としての有効な理論を求めているのですよ。

 (Maria)

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