アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
遅れ馳せながら、testしてみました。
◆あなたの本当の性別は女性です◆
男性度 44.2%
女性度 55.8%
[コメント]
あなたは女性ですが、実際は限りなく男性でしょう。まだ、あなたは気が付いてないかも知れませんが、あちらの傾向が高いです。これから女として生活するかどうかはあなたの気持ち次第です。頑張ってくださいね。
当たってます...。
引続きテクニカルライティング講座です。ここで、Motoちゃんからコメントがありました。前回の書き込み(『Re: 気になっていたこと。』、No.7376、12 Sep 2001)の冒頭に掲げた、
シュッツさん wrote:
---
>『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みたいに見えてしまうのね。
の『』の中と
>「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
です。
後者の様に発言していて、前者は否定している。
私には同じように見えるのに、否定と主張という形をとっているということは違うということなので、何が違うのかを知りたかったのです。
面倒なら説明しなくてもいいです。
---
の部分は、『Re: 伝聞と解釈とその対応』(No.7352、11 Sep 2001)からの引用だということを示しておくように、です。
で、次。テクニカル・ライティングにおいては、「事実」と「意見」をごっちゃにするな、という有名な原則(←「有名な」というのはあなたがそう思っているだけじゃないの? みたいな話にもなりかねませんが、欧米の小学校(「小学校」という名前ではありませんが、日本の小学校に相当する学校では)におけるテクニカル・ライティングの指導においてしばしば強調される原則として、テクニカル・ライターにとっては有名な原則、です)があります。その観点からいうと、
---
> とはいえ、この「悪意」というものが、しばしば通じなかったりするわけですね。なにしろ、「てめーは俺に喧嘩売ってんのかよ(-_-X)」「あーら、そういうふうに読めまして?(-_^)b」みたいな陰険な関係を想定しておりますので、どうしても婉曲な表現になってしまうわけです。
「悪意」は難しいですよ。
簡単な人には読み取るのは簡単かも知れませんが、多くの場合には通じないと思った方がいいんじゃないでしょうか。
---
におけるシュッツさんの
>「悪意」は難しいですよ。
は、
>そのように婉曲な形で提示された「悪意」を感じ取ることは、私には困難です。
といった形で表現してほしかった、と思います。これでは、「誰にとって」難しいかという主語が抜けおちています。「そんなことは文脈から明らかだ」と言われるかも知れませんが、それに続く
> 簡単な人には読み取るのは簡単かも知れませんが、多くの場合には通じないと
>思った方がいいんじゃないでしょうか。
を読むと、この「多くの場合には通じないと思ったほうがいいんじゃないでしょうか」の解釈が困難になります。つまり、
1)多くの場合には「通じないと思ったほうがいい」んじゃないでしょうか。
なのか、
2)「多くの場合には通じない」と思ったほうがいいんじゃないでしょうか。
なのかということですね。
で、(1)の『多くの場合には「通じないと思ったほうがいい」んじゃないでしょうか。』であるとしても、(A)『「多くの人に対しては通じない」と思ったほうがいい』のか、(B)『「通じる」ことが明らかである場合を除き、「通じない」ことを前提として行動したほうがいい』のかが分かりません。
ところが、(A)に対しては、Motoちゃんをはじめとする多くの人々は、「多くの人に対して、悪意は厭んなるくらい通じる。伝えたくなくても通じてしまう」といった感覚を持っていそうに思います。これは「敵意が敵意を呼び、悪意が悪意を呼ぶ」という経験を多くの人がしていることからも明らかであるように思います。
そして(B)に対しては、「悪意をはっきりと表明することは、しばしば対話そのものを破綻させる」という経験則から、「対話を続行するための良好な雰囲気を大きく損ねることなく、悪意を相手方に伝える」という方法自体を否定することになります。
(2)についてコメントをするのは控えましょう。とにかくこれではシュッツさんが何を言いたいのかは不明です。
そこでテクニカル・ライティングの大原則。
「自分が理解していないことは書けない。」
これは、「分かりにくい文章を書く奴は、自分がそもそも理解していない」という経験則としても語られることがあります。
閑話休題。
そんなわけで、
>だから私は学会での討論のようなつもりで書いてきました。
とシュッツさんはおっしゃっていますが、ごく内輪の研究会などでこうした質問の内容が理解しがたい質問をすると、「勉強しなおしていらっしゃい」と冷たくあしらわれることが多いように思います。そうでない、もっと公式な学会の席においては、「その件については簡単にはお答えしかねますので、時間の都合上回答を省かせていただきます」とかいった感じで返答を拒否されることが多いように思います。したがって、「学会での討論」においても、「雰囲気を読む」、特に「相手の不快感・悪意を察知する」という技術はしばしば要求されます。
話は元に戻ります。
---
> 「相手の意図が分からない」あるいは「相手が意図を明確にしない」という事実を踏まえての対話、というものをシュッツさんは想定していないようにお見受けします。
もちろん想定していません。
そんなものを想定してしまったら、主題がぼけてしまって、議論にならないからです。
---
シュッツさんが引用した文章は、以下のような文章の一部です。
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「相手の意図が分からない」あるいは「相手が意図を明確にしない」という事実を踏まえての対話、というものをシュッツさんは想定していないようにお見受けします。「こいつ馬鹿だな」と思っても、分別ある大人は「あんた馬鹿?」とは言いません。中国政府だって、「南京大虐殺」や「靖国神社・A級戦犯合祀問題」を、「日本から援助を引出すための単なる外交カードでしかない」と思っていたとしても、それは言わないでしょ?
---
『Re: 伝聞と解釈とその対応』(No.7344、11 Sep 2001)
まず、
1)シュッツさんの文章が、おそらくは『アスペルガーの館の掲示板』の多くのメンバーにとって非常に難解であろうと推定される。
というのがあります。「いや、本人にとってはそのような認識はない。私は誰にでも分かるような文章を書いている」とシュッツさんは主張されるかも知れませんが、それを言っちゃうと議論にならなくなってしまうので、置いておきます。
2)その結果、Motoちゃんを含めた『アスペルガーの館の掲示板』の多くのメンバーは、「このシュッツなる野郎は、自分でも何言ってんだかわかんなくて、ただゴネたいだけなんじゃねえのか?」といった疑念を抱きうる。
3)そこで、Motoちゃんがシュッツさんに「てめーは自分でも何言ってんだかわかんなくて、ただゴネてえだけなんじゃねえのか?」と質問したとしても、それが事実であろうがなかろうが、「いや、そうではない」という答えが返ってくることが強く予想され、しかもそうした質問は、対話という行為そのものをぶち壊してしまう可能性がある。
4)したがって、Motoちゃんはシュッツさんの意図がどういうものであるかについての判断をとりあえず保留して、議論を続ける以外に、対話を維持する方策がない、と強く推定される。
5)しかしながら、こうした状況は、Motoちゃんにとってはなはだ不快な状況である。しかしながら、その不快感の原因が(3)に起因するものである以上、その状況を相手方(すなわちシュッツさん)に説明するのがためらわれる。
6)そんなわけで、Motoちゃんとしてはシュッツさんに「もっと分りやすい文章を書いていただきたい」と要請する。このことは、間接的には(3)で述べた状況において、シュッツさんが「自分はただゴネているだけではなく、積極的に議論を進める意志がある」ということを明確に示すことと同等の効果を持つ。しかしながら、それをあからさまに表明することは、対話を維持することにとってマイナスであろうと推定されるので、そのことに対する示唆は行なわれないか、あるいは婉曲な表現によってい示される。
7)ところが、シュッツさんは、
>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
といった発言をしており、それはMotoちゃんの
> 音楽も文章も自己表現の一部であり、おれはその「表現」について問題にしている
>のである。
という発言を受けたものである以上、「私は可能なかぎり『分りやすく』表現をしているので、それ以上の『分りやすさ』を要求されてもそれに応えることができない」と答える可能性がある。
……こんなわけで、議論は堂々巡りに陥ってしまうのね。
で、こういう堂々巡りの議論に落ちこむような論旨の展開をするのは、健全な対話を望んでいるものの態度ではないと判断されてもしかたがないと思うのですよ。ところがそれを、そうした展開をしている当人にぶつけても、「いや、私は健全な対話を望んでいるのだ」と応じられた場合、またしても「相手方が健全な対話を望んでいるかどうかの判断」を保留して議論を進めざるをえなくなる、ということなわけです。
このタイプの堂々巡りを、「再帰的議論(リカーシブな議論)」あるいは「頭山的議論」と呼びます。
教訓。「自己言及はするな」。
(Maria)
自分で例え話のやり方を書いておきながら失敗してしまったようです。
おわびして、説明いたします。
Maria wrote:
>>「100mを20秒で走る」ということは多くの人にはできても、足の悪い人に
>>とっては無理なことですが、「全力で走れ」であれば、他の人から見れば遅くて
>>もその人なりの最速の意味で可能です。
「走る」という言葉は「足の悪い人」の場合です。
その限定が分かりにくかった様です。
>といったようなことを言っているが、うちのJoshya氏は心臓病持ちだから、下手に全力疾走などしようものならばったり倒れて死ぬ危険性がある。したがって、その「全力で走れ」の意味するところを明らかにしてもらわなければ困るのである。火災現場から脱出するために「全力で走る」のと、心臓のリハビリテーションのために「(本当は歩いたほうがいいのだが)もっとも効果的に心臓の機能を回復するために全力を発揮する」のとは別問題なのである。
心臓病を持ち出したのは私ではなく、Moto氏です。
私は「心臓病」と「走る」ことをむずびつけたつもりはありません。
「心臓病」だけでなく、「心」の問題やその他もろもろの、人が抱える問題にむすびつけようとしたのは「全力で」の部分だけです。
その区切りが曖昧だったようです。
> これは、学習と訓練によって手に入れられる「技術」です。「才能」の関わる部分は、それほど多くないように思います。自動車の運転技術と比較しても、難しいものだとは思えません。
「技術」がないと言われればそれまでですが、「難しくない」ことはない技術だと思います。
最近の記事を通じて、私が大森研の人をどう見ているかについて、誤解をされているのではないかと思って、少し書かせていただきます。
誤解などしていないということであれば、私の取り越し苦労ということでかまわないのですが。
大森研の人を目の敵にしているとか、敵視しているとか、嫌っているとか、そのようなことは一切ありません。
私と意見は違っていても、不合理な意見を持ち出している訳ではなくて、ちゃんと論理的に導いた信念を持っていると、私には感じられました。
また言葉は悪くても、優しい視点で見ているとも思っていました。
ところがそんな人だと思っていたはずなのに、何故No.7235のような心無い発言が突然出てきたのかということが不思議でもあり、ショックでもありました。
そのため、ついしつこく追求してしまいました。
ですので、私が議論の対象としていたのは、今回の「お母さんの一言」のテーマについての見方であって、大森研の人を直接批難したものではありませんし、他の発言全てについてもれなく言及するということもありません。
それだけ協調しておきます。
みどり wrote:
>うぅ NY の事件、こわい。
>
今頃アメリカの子どもたちは、すごいショックだろうな・・・
なんせ110階建てのビルが、2棟も跡形もなく崩れ去って、大勢の人が死傷したうえに、ペンタゴンまで炎上するなんて・・・
自分の乗っている飛行機が乗っ取られて、凶器変えられないか結構不安なんじゃないかな・・・
るう wrote:
>すみません、私、関係ないのですが、質問させて下さい。
るうさん,ごめんなさい。〇〇さんwroteとか入れるべきだとは思ったのですが,余裕(色々と)の無さと個人攻撃をあらわにせずに抽象化してしまいたいという欲求のせいで,飛ばしました。夜中にPC点けるのは異例のことで,「夜半に嵐の吹かぬものかは」の性急さ。露骨にADDですよね。つい,飛んでしまい,きちんとした足跡をつけるのはとても苦手なのです。
で,落ち着きを何よりも必要としている私には,AS の人の分析的思考力には羨ましさを通り越してあきれてしまい,配慮するところまでは手が届きません。が,大森研究所の人の饒舌はおもしろくて勉強になり,そしてシュッツさんの頑健さにはついていけないのです。
ところで皆さん,”ASは共感を犠牲にして集中力を手に入れる”は私見ですが,いいのでしょうか?落ち着けないとADD,気に入ったところにはまるとASになるんでしょうか?
>武田好史 wrote:
>
>あなたの思い出のアニメーションは、何ですか?
ほんとうにちっちゃいころ、(それがいつごろだったかもわからないけど)みつばちハッチがすきでした。
ハッチの顔しか覚えてないけど。
それとガッチャマン。
あと、海のトリトン。
それからタイムボカンシリーズが大好きで
ポールのミラクル大作戦の絵のかいてあるタオルケットは大のお気に入りだった。
一番よく覚えているのはヤッターマン。
(ヤッターワンのおもちゃを持っている。こないだ、おしおき三輪車のフィギュアを買ってしまったわたしです。えっさほいさえっさほいさえっさほいさ♪)
あと、デビルマンもすきだったなぁ。
ゲゲゲの鬼太郎もすきだった。
20歳をすぎてハマってしまったアニメは
地獄先生ぬ〜べ〜。あの眉毛に惚れた!!?
ちなみに彼はついこないだまで、おじゃる丸にハマってました。
彼はガチャガチャが大好きで、いっぱい買ってダブるとわたしにくれるの。
なのでちっちゃい電ボとかがうちにはたくさんあります。
今彼がハマっているのは、チョコラザウルス。
アニメは明日のジョー(ビデオ)です。
さきほど、ノドがかわいて、
ジュースの自動販売機に飲物を買いにいこうと外に出ました。
ふと見上げると
台風の去ったあとの夜空に、星がまたたいて、すっごくキレイでした。
(ここ川崎は空気が悪いので、ふだんはほとんど星が見えないんで
す。)
オリオン座や、冬の大円弧が見られました。
・・・
そうそう、ずっと前に書いた、"わたしが道を歩いていると、なぜか向こうから歩いてきた男性にツバを吐かれることがなぜか多い"という件なのですが
最近、そのナゾが解けました。(いや偶然なのかもしれないけど)
わたしの、歩くときの姿勢にもしかしたら問題があったのかもしれません。
それに気を付けるようにしたら、
とたんに唾を吐かれなくなり、自転車などにも自然に避けてもらえるようになりました。
以前のわたしはいつも、空を見上げるような、あごを前に突き出すような顔の角度で歩いていることが多かったようで、
つまり前方からくる人に対しては、下目づかい(?)で見ている(つまり、見下しているというか、ナマイキな態度)というふうにとらえられた可能性があります。(←たんなる憶測だけど)
(不本意ながら)あごを引き、うつむき加減で、上目づかいで前方をまっすぐ見ながら歩くようにしてみたところ、唾を吐かれることがなくなりました。
わたしはこどものころから、自分ではまっすぐしているつもりが首を傾げていたり、あごを突き出すような顔の角度になっていることが多かったみたいで、よく親に注意されていました。
なるべくヒトマエでは気をつけていたつもりでしたが、
意識しない単なる通行人とかの前ではついつい気を抜いてしまいま
す。
いや、でも、本当にそれだけが原因で唾を吐かれていたんだろう
か・・・。
と、思うけど、人通りの少ない道で、ほっとして気を抜いて、首を後ろに倒し、上を見て歩いていたら、向こうから来た人にやっぱりじろじろ見られました。
みどり wrote:
>http://www.da.il24.net/~noby/karisuma/sindan.htm
>
>診断モノが大好きで、見つけるたびについやってみるのですが、上のサイトで性別判断したら、しっかり「男性」にされました。
>
わたしもけっこう好きです、こうゆうサイト。
さっそくやってみたら、
女性50.6%
男性49.4%
ってゆう結果で、かなり男性に近い女性!?だそうです。
まあ、なぜかしら、意外な結果ですこと、おほほほほ…。
syakuさんへ
すみません、私、関係ないのですが、質問させて下さい。
syakuさん wrote:
>壁の中で思考ゲームをしているだけの人がそれにぶつかるのは見るに堪えない。
↑これって誰が何をしてしまったことを指すのですか?
本当にヨコヤリ入れてすみません。
るう
>「だれでも自分の親のことを言われるのはいやでしょう?」というのは
>非自閉の捉え方です。
>しかし本当に親が悪い箇所は、指摘されても不愉快にはならない。
>本当のことなのだから。
このへん同感です。
>その時に「なぜ、この掲示板で、母親からの小言を聞かなくては
>いけないんだ。いつも家で母親から聞いているのと同じような
>ことを書かないでくれ」という反応が強く起こりました。
すると、私が例示した
>「自分の母親が同じような反応を(中略)ただの嫌な言葉」
は、やはりありがちな反応だったのですか。
以下、親御さんたち向けです。
この「ありがちな反応」は、自閉人は非自閉人の「論理」というか、親心が理解できない(と言い切ると誤解を招くが)ところから生まれるものです。そうとわかってしまえばこの種の反応を引き出さない方法は簡単にわかるでしょう。
つまり、心配を前面に押し出すのではなく、常識を理論付けて、理屈っぽいアスペに合う形で提示すれば、少なくとも敵対的な「小言」ととらえられることはなくなります。従って、頭から拒否される可能性は目にみえて下がるでしょう。
もっとも、そうして提示された親御さんの警告が自閉人に受け入れられるかどうかは別問題という悩ましい欠点は残ります。たとえば、自閉人は「他人からどう見られるか」ということに本質的に無頓着ですから、人目を根拠にしても「人は人、俺は俺。俺は我が道を行く」とか言って無視されるのがオチです(少なくとも私はそうしていました)。児童期であれば、アスペルガーがやったように、一般法則として提示する方法(自閉症とアスペルガー症候群』ウタ・フリス編著/冨田真紀訳/東京書籍 120ページ)が有効でしょうが、青年期以降に診断されたケースだと、手の内を見透かされてしまって終わるかもしれません。
それでも、頭から無視されるよりははるかにましだと思うのですが。
もう一つの問題は、常識の理論化は普通の親御さんには荷が重いかもしれないということです。私は自閉人なので、非自閉人にとっての「常識の理論化」はどの程度難しく感じられる作業なのか感覚がつかめないのですが、このへんはどんなもんなのでしょうか。
注意
自閉人が「親心」を理解できないのは、それが感情(愛情?)として提示された場合のみです。社会の現状分析並びに将来予測と、そこからよりよい未来を引き寄せるための対策の提示などの形を取り、感情を排して客観的に理詰めで示されれば、自閉人にも十分親心が通じるでしょう。
申し訳ありませんが、我々はこういう人種なのです。(可能な方は、前掲書99ページ「治療教育への示唆」もご参照下さい。我々と非自閉児との違いが書いてあります。)
「普通のお母さん」にはおそらく大変な、ある種耐え難い作業になろうかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
……唐突ですがJJさん。『Re: 気になっていたこと。(補足)』(No.7320、10 Sep 2001)でご質問のあったテクニカル・ライティングというものが、どういうものであるか、ということについて、実例に沿ってご説明いたします。
シュッツさん wrote:
---
>『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みたいに見えてしまうのね。
の『』の中と
>「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
です。
後者の様に発言していて、前者は否定している。
私には同じように見えるのに、否定と主張という形をとっているということは違うということなので、何が違うのかを知りたかったのです。
面倒なら説明しなくてもいいです。
---
これを「理解しろ」というのはいささか無茶という気がします。できれば、(あくまで「それが可能ならば」です。念のため)、せめて以下のように書いていただきとうございました。もっとも、シュッツさんは「そういう意味で書いたんじゃない」って言うかもしれないけど。
---
私が『Re: お母さんの一言』(No.7304、10 Sep 2001 by シュッツ)で書いた、
>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
という文章を、『Re: お母さんの一言』(No.7318、10 Sep 2001 by Maria)において、
>>結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方
>>が足りない」とみなすのはおかしいと言いたいのです。
>
>と書いています。これを読むと、Motoちゃんが『結果的に鍛えた状態が、他人から
>見て低いレベルであり、結果だけから「鍛え方が足りない」とみなしている』みた
>いに見えてしまうのね。だけど、Motoちゃんは、『結果的に鍛えた状態が、他人か
>ら見て低いレベルであるならば、結果から「鍛え方が足りない」とみなされること
>が往々にしてあり、それは場合によっては正当でもある』ということを言っている
>だけなの。
と否定しているにもかかわらず、『Re: お母さんの一言』(No.7254、7 Sep 2001 by Mr.Moto)において、
> 音楽も文章も自己表現の一部であり、おれはその「表現」について問題にしている
>のである。「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
>うちのJoshyaに至っては心臓病持ちだから下手に走るとばったり倒れて死ぬ。「どう
>結果を出すか」について論じるのは悪いことではあるまい。
のように主張しています。
この二つは私には同じように見えるのに、否定と主張という違った形をとっているということは、おそらく「違う」ということなのでしょう。そこで、何が違うのかを知りたかったのです。
もしも説明が面倒ならば、説明してくださらなくても結構です。
---
まあ、これでも何を言いたいのかはあまりよく示されていないように思うのですが、それでも、
---
『結果的に鍛えた状態が、他人から見て低いレベルであるならば、結果から「鍛え方が足りない」とみなされることが往々にしてあり、それは場合によっては正当でもある』がゆえに、結果を出すべく訓練を積むなり技術を磨くなりしたほうがいい、ということをおれは言っているのである。
シュッツさんは『Re: お母さんの一言』(No.7251、7 Sep 2001)において、
>「100mを20秒で走る」ということは多くの人にはできても、足の悪い人に
>とっては無理なことですが、「全力で走れ」であれば、他の人から見れば遅くて
>もその人なりの最速の意味で可能です。
といったようなことを言っているが、うちのJoshya氏は心臓病持ちだから、下手に全力疾走などしようものならばったり倒れて死ぬ危険性がある。したがって、その「全力で走れ」の意味するところを明らかにしてもらわなければ困るのである。火災現場から脱出するために「全力で走る」のと、心臓のリハビリテーションのために「(本当は歩いたほうがいいのだが)もっとも効果的に心臓の機能を回復するために全力を発揮する」のとは別問題なのである。
つまり、「目標設定」→「努力」→「結果」という関係がそこには存在するのであり、「本人が求める結果」と「他者が期待する結果」が異なっているならば、『「努力」→「結果」』という関係のありようも、また異なってくるということなのである。
「他者が期待する結果」に対して本人が結果を出さず、「他者が期待する努力」を本人がしていないならば、おそらくは「努力が足りないから結果が出ないのである」と判断される。それは他者が期待する結果において正しい。しかし、本人は別の結果を求めて努力しているのである。その努力を他者に「認めよ」と要求したとしても、「私はそうした結果を求めているのではなく、そうした努力を求めているわけでもない」と言われれば、それまでなのである。
「私は、自分がASであることをまず認めたうえで、自分にとって最善の生き方をすることによって幸福になりたい」と望む子供に対して、「『ASであること』を認めたうえで幸福になる方法などは存在しない。まず『ASであること』を克服し、『普通の人間であること』になることで、幸福になるしかないのだ」と反論する教師は、少なからず存在するように思う。
---
くらいの反論は、できるのですね。で、こんな感じで書いてあれば、他の『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーにだって分りやすいし、ツッコミだって入れられる、ということなわけです。
これは、学習と訓練によって手に入れられる「技術」です。「才能」の関わる部分は、それほど多くないように思います。自動車の運転技術と比較しても、難しいものだとは思えません。
(Maria)
>これは「ゲーム」なんですか?
>「ゲーム」だとは思わなかったので「裏」は無視しました。
思考は現実とは言えない。現実の境界を無視した思考ゲームは、資料として以外、人間性を高める役に立たない。
現実の境界を知ることが、私達に必要だ。生命は現実に生かさねばならない。
ASは共感を犠牲にして集中力を手に入れるが、その上に、生命を酷使し、多重人格を駆使して現実を生きる人がいる。
曲芸は楽しめるが、壁の中で思考ゲームをしているだけの人がそれにぶつかるのは見るに堪えない。
>「全力で走る」のはいいが、それ以前に身体を鍛え技術を磨けといいたい。
の意味はわかってもらえたろうか?「身体を鍛え」は心臓でなく、精神を鍛えだろう。
私も怒りを覚えました。
ミッドランドさん wrote:
> 今日、ネットで「自閉症」の検索をしていたら、強い怒りを覚えたページがありました。
> ↓こちらです。
>
> http://www1.odn.ne.jp/~aaa08190/Well-Being/mizunara/mizunara1.htm
>
> 内容は、小学校の特殊学級の担任教師が、自閉症の児童の母親に向かって、
>「あなたの子の暴力的性格は、親によりつくられたもの」「だから、わたしが直してやっている」
>と発言(しかも他の児童の親たちがいる場で)、これに怒った児童の両親が教育委員会に実態調査を要望する、というものです。
普通学級の教員(勉強も運動もできる優等生で、いじめを経験したことなく
社会に出るまで学校で立場の弱い生徒と全く付き合いのない地球人(非自閉圏の人)
たちが圧倒的に多い)は、連邦市民(自閉圏)の子どもたちを変わった子扱い
するものとして最初から信頼してないのですが、特殊学級の教員は皆、思いやり
のある人だと信じていました。
特殊学級の教員でこんな差別発言をする人がいたなんて・・・ショックで
なりません。
> 「養護・特殊学級(校)」の教師がすべてそうだとは思いませんが、少なからずこんな教師が潜んでいるように思えてなりません。思い過ごしだといいのですが。
残念ながら、特殊学級の教員は、必ずしも教育学部教員養成課程の養護・特殊
教育科出身ではないようです。
#教員免許を取るのに必要な教職科目に「発達障害学」を必須とする必要性を感じます。
みちる さんwrote:
またしつっこくレスつけてすみません。私はどちらかというと、自閉タイプに
感心もたれている、非自閉タイプの方とお話したいことのほうが多いんです。自分はここでもちょっと異端児かなと思うこともありますし。それにみちるさんは、神経症経験してらっしゃるらしいから、純NタイプというよりANタイプでしょうね。そういう人が自分のまわりにいたらなとはよく思うんです。
でしゃばりかもしれないけど、私がつねづね、自閉圏の人間といっしょにいて
>ここをこうすれば、他の人とうまくやれるのに・・・とか、こういう言い方しなければ傷つかないのに・・・。と思うことが多いのでその辺のことをテクニックとして身に付ければAS他の皆さんも無用に傷つかないのにと思うことがあるものですから。傾向と対策ですよね。
>そう言い方は傷つくよ。とはっきり夫にもいっていたら、最近気をつけていますしね。仕事でも、ミスった人間に突き詰めて逃げ道をなくし、相手がひいてしまって仕事上影響がでたりしているんですよ。その後自分が言い過ぎたとわかって自分で傷ついている夫をみているものですから、みなさんもそういうことってあるだろうなあ。とおもうんですよね。みんないい人なのにね。テクニック不足で変な人って
>思われてしまう。みんなピュアな可愛い人たちなのに。
ふところのせまさゆえに知らずに傷つけたり、していると思います。
>お互い様だと思う。私の発言で、もし傷ついた人がいるなら許してくださいね。
そうなんですよ。好きな相手、自分には大切な人をこそ傷つけてしまうんですよね。相手に過剰な期待をもつから、必要以上のことを言ってしまい、相手を傷つけてしまってることに後で気が付き自分も傷つくんですね。わかってるんだけど、やっぱり同じこと繰り返しちゃう。不器用で、いや不器用以上のものがありますよ。やっぱりビョーキかなあ。
みちるさんは疲れてらっしゃるでしょうから、このカキコのレスは結構です。ただ今後もこの掲示板には出てきて頂きたいです。私もとっぴょうしもないことをよく言いますから、からかわれること多いんですけど本気で言ってる事なんです。文学を真剣かじった人になら簡単にわかってもらえるのになあって思うんだけども。
私のヘンなカキコへのレスでもいいですからまた来てください。ではまた。
みちる wrote:
>Tienさんありがとう。
>わたしも、みんなのお陰でどんなに救われたか。それから貴方の優しさになんど
>慰められたか・・・。ここのお陰でASの夫への傾向と対策を練ることが出来たのだし、武田さんやくるとさんのカキコで息子のことが理解できたりしたのよ。
>ありがたいとおもっています。本当に。
こんばんは、みちるさん。お礼なんてとんでもない。
>カブトムシの件ありがとう。
>ご報告遅れてごめんね。買うことができる状況なのはわかったのだけど、
>北海道ではこれから飼っても、すぐ死んでしまうこと、卵を産ませるにはもう少し
>早くから飼わなければいけないということが解りました。
>結局時期をのがしたということで、息子に説明をして、来年は早い時期に
>手を打とうということになりました。
>ありがとうございました。わたしが国産カブトムシで検索しても探せなかったのに
>助かりました。ありがとうございます。
北海道は寒くなるのが違いますから、ざんねんでしたね。
>今、私は週末ごとに鮭釣りです。
>先日は四キロのメスをつり、いくらは醤油漬けにして食べました。
>今日は塩しておいたアラや身を石狩なべにする予定です。
>アイヌ民族のように鮭の神様に感謝していただきたいと思っています。
自然に触れるというのは意外な特効薬=リラックス出来ますよね。
>Tienさん ありがとうね。元気でたよ。
>身体に気をつけて、がんばろうね。お互いにね。
立場が違っても、年齢が違っても、優しい気持ちが通じるのはありがたいこと
ですね。私はなおみさんのカキコを見て、非ASであろう母にもっと優しくすることが出来るようになったんですよ。私も随分母を苦しめたのだろう、そして、
それに気づかず、ずっと、辛いことが起きたら、人のせいばかりにしてきた
己の身勝手さに気づきました。みちるさん、ご迷惑でなかったら、
これからもよろしく。
そして、環境が変わられたから、体調には気を付けて下さいね。
うぅ NY の事件、こわい。
Maria wrote:
> ううううう、不覚。しくしくしく。
説明よくわかりました。余計にしくしくさせてしまってごめんなさい。
くるとさん wrote:
>なんで悲しんでいるんですか、Mariaさん?
みどりさん wrote:
>> あたしが正直に答えたということだけは、信じていただきたいと思います。
>>しくしく。
>
>それは信じてます。
>でも「しくしく」の理由が気になる。
えー、このあたりの気持を説明するのはかなり難しいのですが、みどりさんが
>「人間を二種類に分けてみる」のはおもしろいと思うんだけど、それに「男」と
>「女」というラベルを貼るのはやめてほしいなと思うのね。
>そりゃ、分けた結果が「男性に多い」と「女性に多い」ということはあるだろう
>けど、それにラベルを貼ってしまうと、「女性はこう」「男性はこう」という逆
>のラベルになって独り歩きして、差別の根拠になってっちゃうわけ。例外なんて
>たくさんあるのに。
>
>差別の基本は、「ずれたグルーピング」だと思っている みどり
と書いてくださっているので、がんばって説明してみようと思います。
端的にいえば、あたしは自分の中の内なる差別を嘆いているのですね。
「男の発想」と「女の発想」というものが、あるというふうに、されています。たとえば男性が女性に対してある主張をしたときに、「それは男の発想よ!」と言い返されて、ぐっ、と詰まってしまうことがあります。つまり、多くの人は、「男の発想」「女の発想」というものがあるということを認めざるを得ないように、社会的に強制されているといっていいでしょう。「いや、私は別に、自分が男だからというのでそういう主張をしているわけじゃない」「それが男の発想だというのよ! 自分が男であることに対して、男は無自覚でいられるのよ!」みたいな議論というのは、たぶん今日もどこかでされているはずなのですね。
「じゃあ、同じことを女として発言したらどうか?」みたいなことも考えてみるわけです。「サラリーマンが『会畜』なら、専業主婦は『家畜』だ」みたいなことを言っているフェミニストの方にだったら、「あなたは男性が望んでいる女性のメンタリティを取りこんじゃってるのよ!」「『女の敵は女だ』っていうけど、あんたみたいな女が女の敵なのよ!」くらいのことは言われかねません。そんなわけで、男であれ女であれ、「男の発想」「女の発想」という二分法から自由であることはできないんですね。
で……具体的にあたしがなにについて嘆かわしいと思ったかというと、あたしが、「自分が女性と判定されたこと」に驚いたことを嘆かわしいと思ったのですね。あたしはずっと「男の発想」で喋っていたつもりでしたから。あたしは「男の発想」からも「男が女性に期待する『女の発想』」からも「男の期待を取込んじゃった女の発想」からも自由であるつもりでありながら、そういったものからニュートラルである自分の発想を、「男のもの」だと信じ込んでいた自分にちょっと愕然としてしまったわけです。つまり、男であるとか女であるとかいったものから自由になった発想というのは、たぶん世間では「男の発想」と呼ばれるものに近いものであるだろう、とうっかり信じこんでいたあたしは、「あなたは女です」と言われてびっくりすることで、その思い込みを意識させられてしまったわけです。
ううううう、不覚。しくしくしく。
あたしはメル友さんに「Mariaちゃんはさいきん男っぽくなった」とか言われていたので、それだけあたしは男だとか女だとかいった分類から精神的に自由になったのだと思っていたのですよ。だけど、女性自身が「女らしさ」「女の発想」だと思っていたものが、「女としての特性」ではないかもしれない、ということに、あたしは思いいたらなかったのですね。
あたしは女性は管理職に向いているようにずっと感じていました。ただ、その理由がはっきりしなかったんですね。で、ひょっとしたらなんですけど、「男の男っぽさ」というのは、偽物なのではないでしょうか。「女の中の男っぽさ」というものが、本来の「男っぽさ」であり、「男の男っぽさ」というのは、「女の中の男っぽさ」を取込んだだけのものなのではないでしょうか。遺伝子レベルの話まで考えちゃうと、なんかそれって理屈に合ってるような気もするんですよね。
まあ、この予想が正しいかどうかは別として、そいう発想に思い至らなかった自分というものを、あたしは恥じています。そんなわけで「しくしく」なのでした。まる。
(Maria)
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