アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
え〜、こんちわでやんす。ちょっかい小僧でござんす。
蝙蝠さん wrote:
> 「蝙蝠」というハンドルネームで投稿している時の
>わたしの取り扱いにはお気をつけください。では
便乗しやすが、ごめんなせぇよ。
おいら、めったに出てこないんでやすが、あさかぜの野郎の一部(ってぇのもナニだがなぁ)でござんしてね。「荒らし」と勘違いされちゃあコトなんで、ちょっくら顔だすていどなんすよ。
長く書いた割にはいろいろ抜かしてしまいました。
みどり wrote:
>同じ方向にずれた人だけ集めれば、ひとまとまりになっていて集団として扱えますが。(これが個々の障害という意味)
こうもり wrote:
>>ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐらいの意味です。
個々の障害を認めてもらうというのは、「私は○○人だ」という主張するようなものになるわけです。「日本人じゃない」とだけ主張するより、副作用が少なそうに思いません?
「日本人じゃありません」「ああアメリカ人か」みたいなヘンな短絡もよくあるし、勘ぐる人だと「日本がそんなに嫌なのか」みたいな方向に行ったりします。
みどり:
>主旨とずれた方便の割には、効果が薄そうで、副作用が大きそうな気がします。
「対症療法の割には」という意味でした。
み:
> 「人は自分の信じたい事だけを信じる」
憶測になりますが、相手にとって、こうもりさんのイメージと障害者のイメージがかけ離れすぎているので、こうもりさんを障害者と認めることは、その人の中の障害者のイメージを打ち砕く必要があるわけで、それには当然心理的抵抗があるのです (もちろん本人は無意識)。それでなかなか理解してもらえないのではないかと思います。
こうもりさんと似たようなイメージの人で、こうもりさんと似たような困難を持つことが広く知られている著名人を見つけられたら、その人をダシに使えば、相手の心理的抵抗が少なく受け入れてもらいやすい説明ができる、なんて可能性があるかもしれません。
とっくに試してたらごめんなさい。
こうもり wrote:
> わたし自身、障害者と健常者の間に「発達的境界人」の存在を想定している
>ので、健常者と障害者の2つに分類することは無理だという点についてはみど
>りさんの意見に同意します。
こうもりさんは線をイメージしていらっしゃるようですが、私のイメージは円、もしくは球です。
中心部に近いほうの人が健常者、いろんな方向にはずれた人が障害者。
健常者の集団は、境界のあいまいさはあれど、まあひとつにまとまるのですが、障害者の集団というのはまとめて扱うには扱いにくい形状をしています。(中心が抜けてるから)
同じ方向にずれた人だけ集めれば、ひとまとまりになっていて集団として扱えますが。(これが個々の障害という意味)
> ただし、わたしの今の状態を見て「健常者だ」と評価されることが多いと言
>うのは心外なんですよね。異常だと思われてもいいので、健常者と認定されて
>いる人とはっきりと区別してもらった方がいいです。
> これは、別にわたしが健常者と認定されている人に反発をしているからでは
>ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐ
>らいの意味です。
どちらがいい悪いという話をしているわけではないので、その点は (私については) ご心配なく。
まあ、現状ではしかたない部分もあるとは思うのです。世の中には「障害者=助けが必要な人」「健常者=助けが必要ない人」みたいな考え方も多いようなので。
こういう考えだと、助けが必要な人は障害者認定を受けるか、歳を取るかしかない。
でも実際は助けといっても必要な内容も量もばらばらだし、健常者と言われる人たちだって、一時的に助けが必要になることはよくあるわけです。
(説明の都合上わかりきった内容をくどく書いていることをお許しください。)
友人が妊娠初期の通勤中、たっていられなくてシルバーシートに座っていると、お年寄りたちから散々嫌がらせを受けたそうです。
じゃあ妊娠中の人も「障害者・老人・妊婦」として弱者グループに入れればいいのかというと、そういう問題ではなくて、見えないところに大けがしてる人とか、その日やたら体調が悪い人なんかもいるわけです。私も「電車で座っていたら目の前のお年寄りににらまれたけど、降りたあと階段をよっこらよっこら登っていたら、そのにらまれたお年寄りに軽やかに追い越された」なんてことはよくあります。
助けが必要な人と必要でない人の境界線は、助けが必要かどうかでしかひけないんです。弱者だからどう、弱者じゃないからどう、とグルーピングするのは、差別のもとになるだけです。
でもそこがどうしてもわからない人がやはりいて、、新聞の投稿欄に「身障者用エレベータを周囲に誰も居ないからって使ってる若者がいた、許せない!」みたいなのが堂々と載ったりするわけです。
> 「個々の障害そのものを認めてもらう」というあり方は、どうしてもこの問
>題には答えてくれないのです。
で、やっと理解したんですが、こうもりさんがもともと必要なのは障害の認定よりも、障害による困難を他人に理解してもらう方策、なわけですよね。(そういえば手帳が欲しいって言ってたのはこうもりさんでしたっけ)
確かに障害者として (医者なり役所なりの) お墨付きをもらうのは、もしかしたら方便としては有効なのかもしれません。特に理解してもらいたい相手が行政なら、間違いなく必要になるでしょう。
でも、一般の人が相手なのだとしたら、う〜んどうかなあ。
説明して理解できないのに障害者手帳を見せれば納得してもらえる人が相手だとしたら、そういう人の「障害者観」ってのはどういうもので、いったいどういう理解をしてくれるのか、心配になってしまいます。
それに、説明して理解できない人は、障害者である証拠を見せても、 「でも○○さん全然普通だもん大丈夫だよこんなものいらないよがんばって」みたいな、見当ちがいな反応をもらって終わりになっちゃいそうな気がするんですけど…
主旨とずれた方便の割には、効果が薄そうで、副作用が大きそうな気がします。
# あれ、なんかデジャヴ。同じこと前にも書いてたらご勘弁。
まあ私はちょっと悲観的すぎるのかもしれません。
そうそう、私が目からウロコが落ちた言葉がこれ。
「人は自分の信じたい事だけを信じる」
(で、私はこの言葉を信じました) (誰の言葉なのかはさっぱり忘れました。どなたがご存知?)
この言葉で、周囲の理不尽な行動のうち、かなり多くの部分に納得がゆきました。なにを言っても聞き入れてもらえなかったり、わかりきった内容をいつまでも誤解している人がいるのは、その内容がその人の信じたくないことだからなんだなあ、と。
と同時にあきらめというか、悲観的な考え方が強くもなっちゃったんですが。
> pocksさんはコミニュケーション障害のために”かんしゃく”になることが
>あると言われました。純粋にアスペだけであれば、”かんしゃく”という形の
>感情表現をしても、その責任は非アスペの側にあるということになりますか?
あえて「責任」という捉えかたをするなら、どちらにもないとしか言い様がないように思います。なぜならば、お互いのことを知らない、わからないゆえにすれ違いが起きているだろうからです。
>それとも”かんしゃく”の範疇の憎しみ表現だったのか
具体的にどうだったか見えないので断定しかねますが、自閉者の「かんしゃく」は、多くの場合コミニュケーションがとれないことへのいらだちの表現です。憎むとか愛するとかいう対人関係の認識や表現は、一般に自閉者が最も苦手とするところです。
いま、あたしは『ドラマ理論』というのを勉強しています。
これは難しくいうと、「多主体複雑系モデルの理論」というのですが、具体的にいうと、「『正常な人たち』はなぜズルをしたことを自慢するのか?」ということだったりします。
あたしたち……というか、あたしとあたしのごく親しいひとたちは、まずそれぞれに適用される「ゲームの規則」があって、それぞれの「勝利条件」があり、その「ゲームの規則」の中で最善を尽して勝利条件を満たす、という形でゲームを進めています。で、そうして得た勝利にこそ価値がある、と思っているのですね。
ですが、「正常な人たち」はそうではありません。ただ、「勝ちたい」ために、カードを隠し、チェス盤をひっくり返し、果ては相手に殴りかかったりします。優等生を殴っても成績が上がるわけじゃないし、「学歴社会への痛烈な批判」だとかいって誰かが誉めてくれるわけでもありません。
「自分の参加しているゲームに勝つ」わけでもなく、「勝てるゲームに参加する」わけでもなく、「自分の参加しているゲームとは違うゲームをプレイすることで、『自分のゲーム』に勝つ」ということをしてしまうわけです。ふつう、こういうのを「妄想」というのですが、その勝利条件が本来のゲームの勝利条件と一部重なっているので、あながち「妄想」と決めつけられないところに問題があったりします。「試合に負けて、勝負に勝った」とかよくいうけど、よく考えるとよくわかんないぞ。
たとえば会社のお金を何億円も私的に流用していながら、「横領ではなく、会社の資産を効率的に運用しようとしたのだけれど、不可抗力によって利益が上がらなかっただけだ」みたいなことを言っちゃう人がいます。実際は株で失敗して大損をし、借金の穴埋めに会社のお金を横領して注ぎ込んだだけの話だったりするんですけどね。
あたしたちは仕事をしている時に、「労働基準法」という制約の中で、どれだけ効率よく、どれだけ効果的に働き、会社に利益をもたらすか、というゲームをプレイしています。で、その結果あたしたちが勝利した場合、特別賞与とか昇級とか労働環境の改善とかいった報酬が得られるのですね。
ですが、このゲームの中に、「出世競争」なんていう訳のわかんない概念が入ってくると、ややこしくなってしまいます。
だいたい派遣業務なんかだと、リーダーのほうがメンバーより単価が安い、なんてことは珍しくありません。つまりは誰がどんなポジションにつけば利益を最大化できるか、というテクニカルな問題でしかないわけです。野球でいえば、リード・オフ・マン、先発投手、ストッパー、キャッチャーといったポジションに対して給料が決まっているわけではありません。研究職なんかだと、研究者ごとの給与格差というのは微々たるものです。全体の業績が上がったのに特定の個人の給与が下がった、なんていうことは、その人物がモラルに反したことをしない限りはありえません。
ところが、『正常な人たち』は、「職場内の順位構造」なんていうものにこだわって、組織全体の効率を落としてしまいます。あのー、「こだわり」って自閉症方面の人間の専売特許みたいなものなんですけれど、と言ってあげたくなります。「目標」が、「目的」を離れてひとり歩きしてしまっています。そして手段と目的の関係が逆転してしまっています。こういうのを「フェティシズムの病」というのですね。
下着は女性の生身の肉体を包むがゆえにセクシーなのだけど、女性の生身の肉体よりも下着に興奮してしまう人がいます。地位だけ上がってなんか意味があるのかなぁ、とあたしなんかは思うのね。だから「生涯一プログラマ」というのをあたしは標榜しておりました。だけど、そうした社内抗争みたいなものに巻き込まれて、仕事がうまくいかないことがやたらに多かったりします。
あたしなんかは自分より有能なひとが来てくれたら、なむなむなむ、と拝んでしまいます。それで仕事が進むんなら文句はありません。お山の大将になるつもりはありません。だけど、「お山の大将おれ一人 後から来るのは夜ばかり」みたいな人が多かったりします。
とても悲しいことですが、「正常な人たち」にとっては、「有能な人間」は、「権力者」か「暴君」でなければいけないのだと思うんです。「正常な人たち」の一人である親は、有能な子供を「謙虚な」人間に育てようとして、「へりくだる」ことを要求します。ですが、それはひょっとしたら、とても危険なことのように思います。「権力者(力がある)」か「暴君(何をするかわからない)」か、とにかくそうした「攻撃性に対する歯止め」がなかったら、戦後民主主義における「平等」を叩きこまれた「正常な人たち」は、嫉妬による攻撃性を抑えきれないのではないか、と思うんです。
目の前にいる人間に対する「勝ちたい」という欲求が、全体的な利益を無視して暴走してしまうのが「正常な人たち」です。だとすれば、有能な人間は、従順であってはいけない、と思います。社会全体の利益を考えたときには。
こうした見方は、「正常な人たち」に対する偏見に囚われた見方だ、という反論はあると思います。だけど、有能であるがゆえに嫉妬され虐待されたひとたちに対して、多くの「正常な人たち」は、「それが普通だ」と主張してきました。優秀な人間は嫉妬され、真面目な人間は馬鹿にされる。それが当たり前だ、と主張してきました。
だからあたしはそういう「正常な人たち」に、きっちり責任を取ってもらいたいと思っています。有能な人間、ちゃんと仕事をする人間が求められる時代が、そろそろ近づいてきた気がします。「正常な人たち」には、エリートを軽蔑し、真面目な人間を馬鹿にしてきたツケを、きっちり払ってもらいたいと思います。
(Maria)
こうもりさん wrote:
> そして、わたし自身が「彼ら」との違いをはっきり自覚して、思考錯誤を
>しながら接点を探っていくことしか、残された道はないと思っています。
はい、そうですね。
こうもりさんの場合とは、反対に、親自身が自分を「健常では無い」と気づかずに偏りつつ、あちこちに文句を飛ばしながら、我が子を育てた場合、も、似たような事になるのです。
これは、いわば、誰も認めないでしょうが、『虐待』の、一つの形です。
(タレイヌ)
こうもりさん wrote:
> ここでみなさんに質問です。医学的・教育学的に高機能の軽度発達障害者と
>認定されている人と健常者と認定されている人の違いはどこにあると思われま
>すか?
ものすごく、愚問かもしれませんが・・・・→またもや、ずれてる、かも?
「医学的に、健常者と認定されている」また「教育学的に健常者である」(こちらのほうがまだ、わかる気がしますが…そう、教育学的にです←問題を解かせて平均値からどれだけ隔たっているか示せば皆が簡単に納得するからね、数値化しやすいし)には、一体どのような基準があるのでしょうか?心理検査の事かしら?(こちらも、数値化なんだけど、傾向しかわからないと思うな…だって、本気でやらなきゃ、如何にでもなるし相手は、大人なのだし)
ここからはタレイヌの単なるイメージなんですけど。
医学的に「健常者と認定される」って、とても範囲が広い気がします。どちらかといえば、支障さえなければ、どんなに偏っていても、健常範囲内となって、健常側に、分類されるのではないのかしらねぇ・・?(コレ!という症状があるからこそ、その症状に「病気」を認め、その病気ゆえに、健康ではない…とはじめて診断できる。精神科=医学的には、その程度までしか、関わらないんじゃないかと・・・)
それをあえて、「非健常」である・・と本気で訴えてくる場合は、何故、そう思うのかについての検証が必要となって、「通りいっぺんの病気分類上で、診断はできない事」に、逆転してしまいませんか?
だからこそ、「発達障害」のところまで、逆戻り(=深入り?)する事になってしまうんでしょうけれど。(というよりは、そこに、原因を探そうとしている、というべきかしら?)
タレイヌ、なんか自分でもよくわかんないけど、ややこしいこと言ってる気がする。すみません・・・変な文章で、その上、答えになってないかもぉ・・?
(タレイヌ)
シンタロウさん wrote:
>>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ場
>> 合が多い
>>
> 僕は小学校2年から4年まで特集学級に通ってました。そのおかげでいじめ
>られました。そんな自分が嫌でいつも「普通になりたい」と思い続けてました。
>でも、いくら普通になろうと努力しても普通にはなれなかったです。
わたし自身、普通になろうという努力は20代前半まで続けていました。「
普通の人の猿真似ができるようになるために生きていてなんになる!!」とい
う絶望的な気持ちを抱えながら…。
シンタロウくんには味わってほしくない気持ちです。
ARAさん wrote:
>これは、「私を障害者してあつかえ」ということではなく
>「普通」への距離感だと思います。
たぶん、この距離感については、わたしはわたしより深刻な困難を抱えて
いる障害者より、はるかに溝を抱えていると思います。
家庭ではかなり強制的なノーマライゼーション(健常化)が行われました。
(親自体が多くの発達障害系の相談機関に門前払いを食らい続けていたので
、この件について非難することはできないでしょう)そして、健常者と認定
されている人に近づいていくにつれ、「彼ら」との間に深い溝ができていき
ました。家族はノーマライゼーションによって、わたしが健常者の世界に融
けこむことを期待していたのでしょう。しかし、わたしは健常者に近づいて
いくにつれ、「彼ら」との違いに嫌というほど気がつかされるようになって
いったのです。
そして、わたし自身が「彼ら」との違いをはっきり自覚して、思考錯誤を
しながら接点を探っていくことしか、残された道はないと思っています。
みどりさん wrote:
>>(1)大人になってから障害を認定された人は障害者の側に所属意識を持つ
>>場合が多い
>>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ
>>場合が多い
>
>つまり、どちらも「場違い」な感じですごしてきた、ってことでしょうか??
この理由は今でもよく分かりません。ただ、この掲示板でもそうですが、軽
度発達障害について、盛んに発言を繰り返しているのは
(1)大人になってから軽度発達障害と認定された人
(2)未診断のまま大人になったが、自分自身が軽度発達障害であることを疑
っている人
が圧倒的に多いんです。自閉者本人の手記を書くのも(1)のタイプがほとん
どですしね。
>個人的には、二つにわけること自体無理があると思うので、健常者か障害者か
>というよりは、個々の障害そのものを認めてもらうという方向の方がいいので
>はないかと。
わたし自身、障害者と健常者の間に「発達的境界人」の存在を想定している
ので、健常者と障害者の2つに分類することは無理だという点についてはみど
りさんの意見に同意します。
ただし、わたしの今の状態を見て「健常者だ」と評価されることが多いと言
うのは心外なんですよね。異常だと思われてもいいので、健常者と認定されて
いる人とはっきりと区別してもらった方がいいです。
これは、別にわたしが健常者と認定されている人に反発をしているからでは
ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐ
らいの意味です。
「個々の障害そのものを認めてもらう」というあり方は、どうしてもこの問
題には答えてくれないのです。
一本のすみれが牧場に咲いていた、
ひっそりとうずくまり 人知られずに
それは可愛いすみれだった
そこへ若い羊飼いの少女がやってきた
軽やかな足どりで 晴れやかな心で
こっちの方へ近づいてくる
牧場の中を 歌をうたいながら その歌はいかにも楽しげだった
ああ と すみれは思った もしも自分が
この自然で最も美しい花だったらと
ああ、ほんのちょっとの間だけでも
あの少女に摘みとられて
胸におしあてられて やがてしぼむまでの
ああ ほんの ああ ほんの
四半時だけでも
ああ それなのに 少女はやってきたが
そのすみれには目もくれないで
あわれなすみれを踏みつけてしまった!
すみれは倒れ 息絶えたが それでも喜んだ
だって死んでも たとえ死んでも
あのひとに あのひとに ふまれて
その足のしたで 死ぬんだもの
かわいそうなすみれよ
それは可愛いすみれだった
〔ゲーテ+モーツアルトのすみれ〕
ミッドランド wrote:
>アトラさん wrote:
>>http://www.anzu.or.jp/com/byoki/byoki08.htm
>
> ↑これ、見てみました。愛知県一宮市にある「杏嶺会」という医療法人のHPらしいです。
>
> 「自閉症」の項、はっきり言ってムチャクチャです。
> 「精神病の代表的なもの」?「青年期に発病することが多い」??「次第に非社交的になり、自分の世界に閉じこもる」???
>
> 早速、メールで訂正要望してきました。 ミッドランド
ありがとうございました
アトラさん wrote:
>http://www.anzu.or.jp/com/byoki/byoki08.htm
↑これ、見てみました。愛知県一宮市にある「杏嶺会」という医療法人のHPらしいです。
「自閉症」の項、はっきり言ってムチャクチャです。
「精神病の代表的なもの」?「青年期に発病することが多い」??「次第に非社交的になり、自分の世界に閉じこもる」???
早速、メールで訂正要望してきました。 ミッドランド
こうもり wrote:
>(1)大人になってから障害を認定された人は障害者の側に所属意識を持つ場合が多い
>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ場合が多い
つまり、どちらも「場違い」な感じですごしてきた、ってことでしょうか??
個人的には、二つにわけること自体無理があると思うので、健常者か障害者かというよりは、個々の障害そのものを認めてもらうという方向の方がいいのではないかと。
もとの質問「医学的・教育学的に高機能の軽度発達障害者と認定されている人と健常者と認定されている人の違いはどこにあると思われますか? 」について言えば、「認定されたかどうかの違い」という (相手によっては怒りだしかねないような) 解答しかうかびません。
たぶんこうもりさんが本当に聞きたかったことは、この文面とはちょっと違うのでしょう。
アトラ wrote:
>http://www.tv-asahi.co.jp/bigwave/hanran/01.html
http://www.anzu.or.jp/com/byoki/byoki08.htm
こうもり wrote:
>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ場
> 合が多い
>
僕は小学校2年から4年まで特集学級に通ってました。そのおかげでいじめられました。そんな自分が嫌でいつも「普通になりたい」と思い続けてました。でも、いくら普通になろうと努力しても普通にはなれなかったです。
ARA wrote:
>新しくはじまった金八先生の新シリーズ
>3年B組の中に 製作者サイドが「軽い自閉症」(?)として
>キャラ付けしたいのかな?風の生徒がでてきました。
>
確かに居たね〜。なんか「知恵の輪」(?)らしき物をいじってたな〜。
>前シリーズでは、中3の後半になっても超多動な子がいましたが
>(まるで、小学校低学年の多動児をモデルにしているみたいな)
>今回はどうなるんでしょうね・・・。
う〜ん・・・・どうなるんでしょうかね〜?
peko さんwrote:
> 誠に申し訳ございません。 すっかり思い込んでました。根拠もなく
いえいえ、全然、かまわんのでございます。黙っていても、よかったんですが・・・
それもナンなので・・・一応、子は3人産めましたから。
LDの子が、おりまして、8歳の頃から、カウンセラーに、つきました。当然、父母も関わるわけですが、『お宅は、父親と母親の役割が、逆転しているから…』と、謎のようなことを言われて、おりました。どうも、どこかが、一般的でない・・らしい。
でも、全然困っていません!私が私を生きるのには、何の不自由もないので。どうぞ、お気になさらずに。(そういえば、みちるさんも『父』と思っていたっけ。アドレスのせいだとタレイヌは思っていたけど、それは、間違いかなぁ・・??)
(タレイヌ)
新しくはじまった金八先生の新シリーズ
3年B組の中に 製作者サイドが「軽い自閉症」(?)として
キャラ付けしたいのかな?風の生徒がでてきました。
前シリーズでは、中3の後半になっても超多動な子がいましたが
(まるで、小学校低学年の多動児をモデルにしているみたいな)
今回はどうなるんでしょうね・・・。
こんにちはARA(LD)です。
社会的な「障害者」か「健常者」かという区分けでは
たしかにグレーゾーンに属しているかもしれませんが
個人的尺度だと「真っ黒」です。
これは、「私を障害者してあつかえ」ということではなく
「普通」への距離感だと思います。
「障害者⇔健常者」という尺度ではなく
「普通⇔特異」という尺度かな・・・
行政上「障害者」に区分される人でも、パラリンピックなんかで頑張っている人
なんかは特に、ご自身を「マトモ」だと認識されていると思うし
たとえば、乙武さんなんかを私は「身体に障害のある普通の人」という
かんじでみていると思います。
社会の中ではボーダー的立場にいるのかもしれないけど
軽度発達障害の人は「障害者⇔健常者」の尺度では、はかれない問題を
かかえていると思います。
白か黒かではない、「水色」とか「ピンク」みたいなもの
水色やピンクを白黒TVでみたら、多分「グレー」に見えると思うし・・・。
LDであることは、私にとっては「人種」みたいなものです。
もちろん「障害」として大変な部分もあるけど
こうもりさん wrote:
> ここでみなさんに質問です。医学的・教育学的に高機能の軽度発達障害者と
>認定されている人と健常者と認定されている人の違いはどこにあると思われま
>すか?
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