アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
武田好史さんwrote:
>ヨーロッパでは、古くから薬としてもちいられていたようです。
紀元前約千五百年前に書かれたエーベルス・パピルスには、柳の葉が外傷に伴う炎症に効果があると記されています。
武田好史さん wrote:
>今日の質問も結構答えにくいかもしれません。
>
>あなたの理想の生活の場は、どんな雰囲気のところですか?
(1)廃墟の一角
(2)人里離れた山の中
(3)時計台の中(ノートルダムの鐘つき男カシモドが住んでいたような
場所)
Jane Doe wrote:
> 元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで各々様のお手に入れまする此の薬は、昔、元(げん)の国の唐人・陳外郎(ちん・ういろう)と申す者我(わが)朝(ちょう)へ来り、帝へ参内の折から件ん(くだん)の薬を深く秘して冠の内に籠(こ)めおき、用ふる時は一粒ずつ冠のすきまより取出す(とりいだす)。よって帝よりその名を透頂香(とうちんこう)と賜はる。即ち文字には頂に透く香と書いて「透頂香」と申す。
> 時の帝より叡聞(えいぶん)に達し御所望遊ばされしに、此の妙方を調合いたし持薬に用ひてござる、神仙不思議の妙薬。透頂香という名は御意なされず、世上一統にただ「ういらう」「ういらう」と及びなさるる。
> 近年は慮外ながら在鎌倉のお大名様方、御参勤御発足の折からお駕籠をとめられ、
ういろうならぬ「ウィロー」という名のハーブがあります。ベネラピさんというイギリスのハーバリストが作ったハーブの図鑑によると、このウィローは、学名がSalixs albaという柳の仲間の木のことで、
樹皮や葉をせんじて、リュウマチ痛・頭痛などの緩和や解熱のために内用するようです。ウィローの樹皮には、サリシンというアスピリンの原料になる物質が含まれているそうです。ヨーロッパでは、古くから薬としてもちいられていたようです。
名古屋の銘菓として有名なウイロウは、同じ名前の苦い薬の口直しとして食されたお菓子だったようです。ハーブのウィロウのエキスは苦味を持っているので、ひょっとするとウイロウという人の名前が薬の名になったというのはまゆつばで、ヨーロッパからウィローがシルクロードを伝わって元朝の中国にもたらされていたのかもしれません。
拙者親方と申すは、御立合の中(うち)にも先達ってご存知のお方もござりましょうが、お江戸を立って二十里上方、相州小田原一色町(いっしきまち)をお過ぎなされて、青物町(あおものちょう)を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪いたして円斎竹しげと名のりまする。
元朝(がんちょう)より大晦日(おおつごもり)まで各々様のお手に入れまする此の薬は、昔、元(げん)の国の唐人・陳外郎(ちん・ういろう)と申す者我(わが)朝(ちょう)へ来り、帝へ参内の折から件ん(くだん)の薬を深く秘して冠の内に籠(こ)めおき、用ふる時は一粒ずつ冠のすきまより取出す(とりいだす)。よって帝よりその名を透頂香(とうちんこう)と賜はる。即ち文字には頂に透く香と書いて「透頂香」と申す。
時の帝より叡聞(えいぶん)に達し御所望遊ばされしに、此の妙方を調合いたし持薬に用ひてござる、神仙不思議の妙薬。透頂香という名は御意なされず、世上一統にただ「ういらう」「ういらう」と及びなさるる。
近年は慮外ながら在鎌倉のお大名様方、御参勤御発足の折からお駕籠をとめられ、
此の薬何十貫(なんじゅっかん)とお買ひなされ下されまする。
只今は此の薬、殊の他世上(せじょう)にひろまり、やれ売れるはやるとあって、 方々に贋看板を出し、小田原の炭俵のほんだはらのさんだはらのと名付け、ほうろくにて甘茶をねり、それに鍋すみを加へ、或ひはういなんういせつういきょうなどと似たるを申せども、平仮名を以って「ういらう」としたは親方円斎ばかり。
若しやお立合(おたちあい)の内に、熱海か塔の沢へ湯治にお出でなさるるか、又は伊勢へ御参宮の時分は、必ず門(かど)違ひをなされますな。お上(のぼ)りなれば右の方(かた)、お下りなれば左側、町人でござれども屋づくりは八方が八つ棟、表が三つ棟玉堂づくり、破風には菊に桐の薹(たう)の御紋を御赦免あって、系図正しき薬でござる。
見世は昼夜の商ひ、暮れて四つまで四方に銅行灯を立て、若い者共入替り立替り御手に入れます、尤も値段は一粒一銭百粒百銭、仮令(たとひ)何百貫お買ひなされても、いっかないっかな負けも添へも致しませぬ、さりながら振舞ひまするは百粒二百粒でも厭ひは致さぬ。
イヤ最前から家名の自慢ばかり申しても、ご存知のない方には胡椒の丸呑(まるのみ)、白川夜船、 さらば半粒づつ振舞ひませう、ご遠慮なしにお手を出して、摘んで御覧じ(ごろうじ)ませい。第一がご一同(いっとう)の早気付、船の酔、酒の二日酔をさます、魚鳥茸(きのこ)麺類のくひ合せ。其の外痰を切りて声を大声に出す、六ちん八進十六ぺん、製法細末をあやまたず、寒冷温(かんれいうん)の三つを考え、温方(うんぽう)の補薬(ほうやく)御口中に入って朝日に霜の消ゆる如く、しみしみとなって能き(よき)匂ひを保つ。鼻紙の間に御入れなされては五両十両でお買ひなされた匂ひ袋や掛香の替りが仕る。
さらば一粒喰べかけて其の気味合(きみあい)をお目にかけましょう。先づ、この薬をかように一粒舌の上に載せまして、腹中(ふくちゅう)へ納めますると、イヤどうも言えぬは、胃肝肺肝(いかんはいかん)が健(すこ)やかになって、薫風喉(のんど)より来り口中微涼を生ず。
さてこの薬、第一の奇妙には、舌のまわることが銭独楽がはだしで逃げる。ひょっと舌が廻り出すと矢も盾もたまらぬ。さてこのどのやうなむつかしい事でもさっぱりと言うてのける此の薬の奇妙、証拠のない商ひはならぬ。
そりゃそりゃそりゃ、そりゃそやまわってきたわ、まわってくるわ。アハヤ喉(こう)、サタラナ舌(ぜつ)に、カ牙(げ)、サ歯音(しおん)、ハマの二つは唇の軽重(けいうう)、開合(かいごう)爽やかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろを。
いっぺきへぎに、へぎほしはじかみ。盆豆盆米盆牛蒡。摘蓼(つみたで)つみ豆つみ山椒。書写山(しょしゃざん)の社僧正(しゃそうじょう)。小米(こごめ)の生噛み小米の生噛みこん小米のこなま噛み。繻子々々(しゅすしゅす)緋繻子(ひじゅす)繻子繻珍(しゅちん)。親も嘉兵衛(かへえ)、親嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛。古栗の木のふる切口。雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆(きゃはん)も皮脚絆、我らが脚絆も皮脚絆。しっ皮袴のしっぽころびを、 三針(みはり)針長にちょと縫うて縫うてちょとぶん出せ。河原撫子野石竹。のら如来のら如来、三(み)のら如来に六(む)のら如来。一寸のお小仏(こぼとけ)におけつまづきやるな。細溝(ほそどぶ)にどぢょにょろり。京の生鱈生学鰹(まながつお)、ちょと四五貫目。お茶たちょ茶たちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶煎でお茶ちゃと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山のおこけら小僧。狸百疋(ひゃっぴき)、箸百膳(ひゃくぜん)、天目(てんもく)百杯(ひゃっぱい)棒八百本(はっぴゃっぽん)。武具馬具々々三ぶぐばぐ、合せて武具馬具六ぶぐばぐ、菊、栗、きく、くり、三菊栗、合せて菊、栗、六菊栗。麦ごみ麦ごみ三麦ごみ合わせて麦ごみ六麦ごみ。あの長押(なげし)の長薙刀は誰(た)が薙刀ぞ。向こうの胡麻殻(ごまがら)は荏(え)の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴいがらぴい風車(かざぐるま)。起きゃがれ小法師(こぼし)起きゃがれ小法師、ゆんべもこぼして又こぼした。たあぷぽぽたあぷぽぽ、ちりからちりからつったぽ。たぽたぽ一丁だこ落ちたら似て喰お。煮ても焼いても食われぬ物は、五徳(ごとく)鉄弓(てっきゅう)かな熊童子に、石熊石持ち虎熊虎きす、中にも東寺の羅生門には、茨木童子が茹(う)で栗五合つかんでお蒸しゃる、彼(か)の頼光の膝元去らず。
鮒金柑椎茸さだめて後段(ごだん)な蕎麦切り素麺(そうめん)饂飩(うどん)か愚鈍な。小新発知(こしぼち)小棚のこ下の小桶にこ味噌がこ有るぞ、小杓子(こしゃくし)こ持ってこ掬(すく)ってこ寄越(よこ)せ。おっと合点(がてん)だ心得たんぼの川崎神奈川保土ヶ谷、戸塚は走って行けば灸(やいと)を摺りむく、三里ばかりか藤沢平塚大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして早天早々、相州小田原とうちん香。隠れござらぬ貴賤群衆(ぐんじゅ)の花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心をお和(やわ)らぎゃっという。産子(うぶこ)這う子に至るまで此の外郎の御評判、ご存じないとは申されまい、まいつぶり角出せ棒出せ、ぼうぼう眉に、臼杵(うすきね)擂鉢(すりばち)、ばちばち、ぐわらぐわらと羽目を弛(はず)して今日お出(いで)の何茂(いずれも)様に、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢(いきせい)引張り東方世界の薬の元締(もとじめ)薬師如来も上覧あれとホホ敬って、ういろうはいらっしゃりませぬか。
みどりさん wrote:
>あ、いま思いついた。ドロドロで穴があいて血が流れ出てるような迷彩服だっ
>たら、都会で着てても私も許せるかもしれない。(目をそむけてそそくさと
>離れるかもしれないけど)
ベネトンの広告で、これに近いコンセプトのものがありました。よかったです。
とはいえ、「ドロドロで穴があいて血が流れ出てるような迷彩服」を都会で来てたら危ないパンクか頭の悪い反戦団体みたいでヤだ。
だいたい、あたしはドブネズミ色の背広を着た草臥(くたび)れたサラリーマンというのが見ていてイヤです。日本のサラリーマン社会には「仕事は『苦役』でなくてはならない」みたいな歪んだ観念があって、そのせいで顔にべっとりと精神的疲労感が張りついたような表情をした人が多いのですね。で、仕事に生き甲斐だとか喜びだとかを感じている人に嫉妬して、いじめを働きます。
そういえばかつての高校野球の坊主頭もヤだったな。「刑務所や軍隊じゃないんだから」と思います。
I wrote:
> だから、迷彩服というと、若い身空でこんなものを着せられて、泥水の中を
>這いずりまわったあげく、ドブネズミのように死んでいった、あるいは殺され
>ていった若者の気分にどっぷり浸かってしまいます。
みどりさん wrote:
>私が迷彩服を見て思うのはまさにこのイメージ。だから街中でかっこよくなん
>て着ないでほしい。戦闘や軍隊のイメージを歪曲してる。特にまだ物を知らな
>い子供が見たときね。
ナチス・ドイツの軍服(特に武装SS)のかっこよさ、というのは確かに青少年にとっては毒です。ネオ・ナチに走っちゃったりする若者がいるのもよくわかります。若者に特有の清潔感というのが、「清潔な帝国」だったナチス・ドイツに向かうのはある意味当然だと思います。理念の純粋さに酔っちゃうんですね。
あたしの感覚からいうと、世の中のきれいごとでない部分、汗臭くて泥臭くて華々しさのない部分というものから目を逸らさずに、なおかつ希望を持って生きてゆく、みたいな気分が、ファティーグからは感じられたりするわけです。人生という戦場に身を置いている感じ、ですね。世界のどこかでは戦争が起きている。自分はその戦場とひとつながりの場所に生きている。あるいは、いまいるこの場所も、また別の戦いの戦場である。そういった感覚というのは、確かにあります。
だから、女性の場合は「人生を戦ってる感じ」があって、鎧とかお守りみたいに着てる感じがスキです。男性の場合は、「人生の一部」として身についちゃってるような貫禄というものがあって、はじめてカッコがつきます。
口を半開きにして進行方向見ないで歩いてるような頭悪そうなにーちゃんや、「あたし、馬鹿でーす」って顔に書いてあって、ガムかなんかクチャクチャ噛んでるねーちゃんが着てるのを見ると、頭痛くなります。
(Maria)
武田好史 さんこんにちは。
>あなたの理想の生活の場は、どんな雰囲気のところですか?
なんだか、そのまま「フルーツバスケット」と言っちゃっても良いですか?(汗
多分、「はずしても」にっこり笑ってくれる所……かな?
訳解りませんね……。うーん自分で考えても「いいのか?」と思ってしまいますが、そういう感じだと思います。
全編(オープニング・エンディング)通して、ふんわりしてます。こんな所でも、リラックスできるかなあと思います。サウンドトラックCDでたら(もう出てるかな?)買おうっと。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~t_c_s/special/tvtokyo/tvkeiretu.html
2000年時の状態だそうです
マザー さんこんにちは。
>> 嬉し涙です。面白涙です。
舌足らずでしたね。……なんと説明しましょう……
>う〜ん、正直な感想を言うと前半だけ見た時、以前二男が見ていた「はれときど
>きぶた」というアニメを思い出してズコーっとなりそうになったけれど、後半は
>うるうるといった感じですね。
はれときどきぶたは、絵本で見ました。アニメでは見てません。(汗
同じような性格の作品群は「こどものおもちゃ」や「彼氏彼女の事情」と言う作品(どちらもアニメと漫画両方あります)でも出てましたが。僕の感覚では「フルーツバスケット」の方が上でした(誰も聞いてない?(汗……)。
> 思い出は大切にしよう。過去は消したくても消せないし過去から逃げては
> だめだよ。強く生きていこう! というメッセージだったのかしら?
> では。
大体そのように捉えて結構だと思います。
登場人物は、どこか「普通人でなく」普通の人に受け入れがたい性格や体質(変身など)。でも主人公は「抜けている」けれども、「正直」で「まっすぐ」で周りの全てを包み込む、暖かさがある。こんな人が居るかどうかはさておいて、願望的にはこんな感じ(どんな感じ?)の癒され方がいいのかなあと……。
この作品では血筋によって自分の意思にかかわらず変身しますが、実際に僕に出会ってる普通の人は、こういう風な状況(いきなり目の前で何者だかわからなくなる)なのかな?
似てるなあ……と。
どんな人でも、「人は人である」と言うのを実感しました。見てると、明日に向かってガンバローという気持ちがみなぎって来ます。自分の感覚に正直でありたいです。嘘で固めたような人間には決してなるもんかー(涙出てきた……
名加野 さんwrote:
> 皆さんこんにちは、名加野です。
>
> ASの話でもなく、アニメの話で興味ない方には申し訳ないのですが……
>
> 今日(というか、木曜日)の夜6時からテレビ東京で「フルーツバスケット」というのが放送されています。
>
この番組は、近年まれにみる(?)「あったかさ」を感じます。まあ、「癒し系」と言ってしまうと、「どこでもある」と言う印象がありますが……
> 僕はこれが、毎回涙無しには見る事が出来ません。
>
> 嬉し涙です。面白涙です。
名加野さん、こんにちはー。 マザーです。
名加野さんの熱意(?)が伝わったので、見ましたよ! フルーツバスケット!
昨日の夕方はいろいろ忙しかったので予約録画にしておき、さっき見ました。
う〜ん、正直な感想を言うと前半だけ見た時、以前二男が見ていた「はれときど
きぶた」というアニメを思い出してズコーっとなりそうになったけれど、後半は
うるうるといった感じですね。
思い出は大切にしよう。過去は消したくても消せないし過去から逃げては
だめだよ。強く生きていこう! というメッセージだったのかしら?
では。
今日の質問も結構答えにくいかもしれません。
あなたの理想の生活の場は、どんな雰囲気のところですか?
こうもりさん wrote:
> でも、(1)がなければ、技術を適切に活用することは困難になります。ま
>た、他人が自分をどう見ているかを意識しなければ、(4)を取得しようとす
>る意志を持つことは困難になります。
なんというか、言いたかったことは、今まで私はうまく場所に応じた演技をやってるつもりだったけど、根本的な気持ちを理解しているわけではないので、実ははずしていたかもしれないな、と思ったんです。
そもそも、状況(こう言われたらこう言う)を先に考えて、個々人の気持ちをまったく考慮していないあたりが、ずれている、と指摘されたこともあります。
> だから、(4)を取得しようとした結果、(1)も身についていったのでは
>ないでしょうか?
いえいえ、技術は技術ですよ(^^
ただ、何年もたって、あのときはああだった、という整理がついたことは、それを次に生かすことはできますけど。同じパターンだと大丈夫です。
なので、年齢ととも楽になっている部分はあります。
ちょうど、たあさんが書き込みされていたのを読みましたが、
たあさん wrote:
> 人に話しかけられて、私が答えた内容に相手が機嫌が悪くなることが、時々あり>ます。その時は、相手が不機嫌になったことには気がつくことはできます。ただ、>その原因がわかるまで、時間がかかります。
これ、とてもよくわかります。
こうもりさん wrote:
>(1)「共感の欠如」という一言で片づけてしまうことによって、自閉人およ
> び非自閉人の抱える多様な問題が見落とされてしまう。
>
>(2)自閉人が全く共感できないというのは誤まりであり、ある部分では共感
> 力が低く、ある部分では共感力が高いと言える。ただし、ただし、共感
> の仕方は非自閉人から見れば、非典型的である可能性は高い。
技術としてなら共感を感じなくても、「そうですね」と短い言葉を返すような形で共感を示すことはできます。
私の場合、人との会話の内容が理解できないのは、共感性に問題があるだけでなく、言葉の理解力にも問題があるのかもしれません。
人に話しかけられて、私が答えた内容に相手が機嫌が悪くなることが、時々あります。その時は、相手が不機嫌になったことには気がつくことはできます。ただ、その原因がわかるまで、時間がかかります。
一番困るのが、何か指示をされたとしても、指示をされたということ事体、理解できていない時があることです。何を言われたのか、記憶はしっかりしているのですが、理解しきれていないのです。
pocks さんwrote:
>言っているほうは真意を伝えようと必死なのですが、コミニュケーション障害のために、揚げ足取りとしか思えない説明になってしまうのです。
>
>アスペが「ムードづくり」と無縁なのは、同時進行中の他の話題にある恋愛相談から想像が付くとおりです。非自閉人が用いる、ムードを醸すような高級なコミニュケーション技は自閉人にはほとんど使えません。逆に言うと、自閉人のコミニュケーションは言っていること=言語化されたことだけが全てで、自閉人から感じられる「ムード」は、少なくとも自閉者が意図的にないし無意識に出しているものではないのです。誤解を恐れずあえて言うなら、自閉人とのコミニュケーションで感じられる「ムード」は幻なので、考慮の対象にせず、あえて無視してかかるべきものです。
>自閉人は、通常非言語的にやりとりされる情報をあえて言語化して伝えられるか、自分にもわかる状況が提示されれば理解できます。
>理解できた結果「人間らしく同情」したのなら、それがその人の本来の姿と言うことです。
pocksさんはコミニュケーション障害のために”かんしゃく”になることがあると言われました。純粋にアスペだけであれば、”かんしゃく”という形の感情表現をしても、その責任は非アスペの側にあるということになりますか?
親戚には境界例的な投影もあったのではないか、それとも”かんしゃく”の範疇の憎しみ表現だったのかと悩んでおります。過去に私に対して、態度の変化が激しかったもので。期待を持っていても、明示しないままに期待を正当化して相手を憎むのはアスペらしくはないでしょうね?
ほめてさえいればアスペの人は献身的であり続けるという発言をした人がいましたが、あれは冗談ですよね?過剰適応で体を壊すほどの賞賛への依存を、純粋なアスペの人がいつもするものでしょうか?そうだといしたら、自信の幅が狭くて傷つきやすいせいだろうから、相当、理解力がないといけないですよねー。
Maria wrote:
> だから、迷彩服というと、若い身空でこんなものを着せられて、泥水の中を這いずりまわったあげく、ドブネズミのように死んでいった、あるいは殺されていった若者の気分にどっぷり浸かってしまいます。
私が迷彩服を見て思うのはまさにこのイメージ。だから街中でかっこよくなんて着ないでほしい。戦闘や軍隊のイメージを歪曲してる。特にまだ物を知らない子供が見たときね。
あ、いま思いついた。ドロドロで穴があいて血が流れ出てるような迷彩服だったら、都会で着てても私も許せるかもしれない。(目をそむけてそそくさと離れるかもしれないけど)
最近返事が早いのは現実逃避中だから、の みどりです。
ぶちさんお返事ありがとう! やっぱりいるのね。私と同じような感覚のひと。いまちょっと感動してます。地球外知的生命体を見つけたような気分 (?)
ぶち wrote:
> でもやっぱり、女の人、男の人の傾向ってありますよね。大学時代
>は、クラスメートは男の子が多かったし、勤めていた会社時代も男の
>人が多かったんですが、子育てしてて、女の人ばかりの集団と付き合う
>ようになって、びっくりしました(元々女子校出身だったので知っては
>いたけど、そういう子達とはあまり付き合わなかった)。
「女性には〜が多い」のは確かにあるのよね。でもそれを「女性は〜だ」と私個人に対して適用されちゃうと、たいてい「いや、違うんだけど…」と言わざるをえなくなっちゃう。私はたいてい例外側にいるから。
私の「女性の集団」初体験は、会社に入ってしばらくしたときでした。ある職場で群れられるだけの数の女性が集まりました。
(それまでいた学校や職場では、女性はいても数人、だったので集団にはなりえなかった)
それでも最初のうちは人数も少なかったので、職種性格関係なく「女の子みんなでランチ」とかやって楽しんでたんですが、人数が増えるうち、結局いつのまにかスピンアウトしていました。やっぱり集団行動は苦手だ。
>確かに性別がかかわる事なら「女性」に入れてもらわないといけないけど(例えば子宮ガンの検診の連絡とか)
それはいい例えかも。今度使わせてもらいます。
「性別を認識する能力に欠けている」と書いたのは、いま別の話題にも出ている「〜を示す能力に欠けている」みたいな考え方が (特にこの掲示板に来はじめた当初) 新鮮だったので、その路線で考えてみたらこうなったのです。
もしかしたら、子孫を残すのに、同性と異性をきっちり区別する能力は有利に働くのかもしれないって。それで一般の人は、どうでもいいときにでもいちいち性別を気にするのかもしれないなあ、と。
とすると、私はそういう能力に欠けているんだろうなあ、と思ったわけです。
あさかぜ wrote
>あ、それはあります。人間的に惹かれるって感じかしら……。
そこに「人間的に」という注釈をつけちゃうあたり、あさかぜさんは潜在的バイではないと思われます。(って私が診断してどーすんだ。)
みどりさん wrote:
>で、いきなりASの話に戻りますが、物語性と言えば、私にとって「社会的な
>物語性がある」ということは概して、自分の好き嫌いへのマイナス要因になる
>ものです。(これについてはイデオロギーと関係なく、一般的に。)
「手垢のついた言葉」という表現がありますが、この場合の「手垢」に相当するものが、おそらくはみどりさんがおっしゃる「物語性」なのだろうと思います。あたしもロゴ入りの商品が嫌いです(「無印良品」やユニクロも嫌いではあるのですが)。
>しかしどうやら普通は逆らしいのです。テレビの半分広告みたいな番組では、
>宣伝効果のために物語性をなんとか加えようとしているのをよく見掛けます。
最近では「マーケティングとはイメージをめぐる戦いである」ということが云われていて、この「イメージ」=「物語性」と言っても間違いではないと思います。煙草の公告なんていうのは「物語性」そのものという気がします。マルボロは「カウボーイ」だし、バージニア・スリム・ライトは「翔んでる女性(読み筋はエリカ・ジョングの『翔ぶのが怖い』)」です。あたしはそれに乗っかる消費者が馬鹿に見えてしまうので、この手の広告ではなくカタログや商品テストを情報源にしていますが。
そんなわけで、
>みなさんはどうですか? これはASとは関係なく単に私がひねくれものなだけ?
に対しては、「他人から物語を押しつけられたくない」という自然な感情ではないか、と思います。
>その「物語性」を知っていて、私が許せる範囲のイデオロギーの持ち主であれ
>ば、たとえ柄は好きでも、少なくとも迷彩柄の迷彩服は着ないと思うわけです。
>同じ迷彩柄でも、巾着とか、せいぜいセーターとかにしといてほしい。
>それでも敢えて迷彩柄の迷彩服を着るのなら、私のような人から嫌われるのは
>覚悟の上よね、と (それが「首をかしげる」)。逆にそんなことを考えもせずに
>着てる人なら「頭軽いのね」、になるわけです。
シルベスター・スタローンが主演した『ランボー』という映画がありました。あたしはあの原作の『一人だけの軍隊』という小説が好きでした。
詳しくは覚えていないのだけど、こんなお話だったように思います。
選挙権も与えられていない年頃の若者が、徴兵されてベトナムに送りこまれ、地獄のような戦場から帰ってきます。「ランボォ」という、フランスの若き天才詩人と同じ名前の、おそらくは柔弱な感じの青年なのだと思います。「ベトナムでは女子供まで殺したのだろう」みたいなことを言われて、町中の人にいぢめられてますから。
ハンバーガーショップで「タマネギを多めに入れてください」と注文すると、腐りかけみたいなのがほんのちょっとしか入っていません。ううううう、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだぁ、みたいな気分で傷んだタマネギをよけていたりすると、保安官にからまれて、ハンバーガーをはたき落とされてしまったりするのですね。で、そこから諍いが起こり、たった一人で戦わなければいけないことになってしまいます。
それが、映画になってしまうとああいうお話になってしまいます。
それに対して、日本で「復員兵」っていうと、非常に厭戦的な気分というか、バナナ・フィッシュ日和な気分になってしまいます。日本の軍歌というのが、またそういう雰囲気なんですよ。『戦友』にしろ、『雪の進軍』にしろ。
あたしは花森安治さんという人のエッセイが好きです。『見よわれら一銭五厘の旗』とか『どぶねずみ色の若者たち』とかね。だから、迷彩服というと、若い身空でこんなものを着せられて、泥水の中を這いずりまわったあげく、ドブネズミのように死んでいった、あるいは殺されていった若者の気分にどっぷり浸かってしまいます。
このところ、世界はなんだかとても勇ましいことになっています。日本も例外ではありません。そんな時代だからこそ、迷彩服を着る意義もあるような気がします。
忘れないために。そして、戦争をめぐる物語が、どんどん勇ましく美しいものになってゆくのを避けるために。
(Maria)
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami