アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
内容がわたしの診断の問題に移ってしまったようなので、スレッドを移項
します。
みどりさん wrote:
>助けが必要な人と必要でない人の境界線は、助けが必要かどうかでしかひけ
>ないんです。弱者だからどう、弱者じゃないからどう、とグルーピングする
>のは、差別のもとになるだけです。
ええと、わたしの方は今回、支援という視点はほぼ視野に入れずにコメン
トしています。「障害者」という言葉は、わたしの特徴をうまく捉えている
概念が「軽度発達障害」に分類されていることが多いため、便宜的に使用し
ております。説明不足ですみません。
>で、やっと理解したんですが、こうもりさんがもともと必要なのは障害の認
>定よりも、障害による困難を他人に理解してもらう方策、なわけですよね。
>(そういえば手帳が欲しいって言ってたのはこうもりさんでしたっけ)
以前、あさかぜさんにコメントした通り、わたし自身は「治療と支援と保
護は必要としていないが、障害者としての位置付けとインフォームド・コン
セントだけは必要としている」という立場です。逆に「わたしは支援はいら
ない」と発言して、Makichanさんたちから反発をくらっていますね。
少し、補足しておくならば、これはわたし自身が障害者として困難を抱え
ていないという事を意味している訳ではありません。「わたしについてだけ
言えば、社会に適応できなければ野垂れ死にしてもいい」という特異な価値
観を持っているためです。当然の事ながら、この価値観はわたしにだけ適用
されるべき、私的ルールです。
以前、やはり「わたしは生きなければならない根拠を持っていない」とい
うコメントをこの掲示板でしたことがあります。(自殺したいわけではない
のであしからず)生きる根拠を持たない人間に治療や支援や保護はそれほど
必要ではないのです。
という訳で、今回の検査は障害者としての「所属」の確認とインフォーム
ド・コンセントを受けに行くという目的が全面に押し出されています。
最後に面白い障害観を提供してくれてありがとうございました。
横RES、悪いですが。
タレイヌ さんwrote:
>個々人は、『自分の認知方式』から、離れる事はできません。(体から、精神が抜け出したりはしないので…本来ならば。つまりこれができたら、病気!!)そして、他者と接触する時に、当然誰にでも均等におきる事が『自分の認知方式はいつも危険に晒される』ということです。
これは、正常な人の常識なのでしょうね、多分。私には最も違和感を感じた文章でした。悲しい話です。私の根底的願望はタレイヌさんが「これができたら、病気!!」ということです。11才ぐらいから痛切にそうなりたいと思いはじめました。人の認知方式に囚われてゲームの駒にされるのは自殺したいくらい不愉快なことで、何とか逃れようと人は悟りを求めます。
<誰にでも均等におきる>
は正しくなくて、ADDはどうしようもなく主体が不明瞭だったりします。感じているのが、何の心か判別できずに苦しみます。
『自分の認知方式』を壊したいのが遊びです。開放欲求です。よく人のしたがる恋というのは、本質的に消滅願望です。それが浅いとストーカーで終わります。
犯罪にまでならなくても、暴力なだけです。自分以上の存在に融けたいのが恋愛であり、その先が宗教です。
存在の小ささへの嫌悪を捨てたくて、生き物は、関わりを肯定します。
理性で世界を捉えることは純粋ではあるけれど、純粋というのは何かに勝つことではありません。
それなのに、いのちをゲームにして勝ちたいと思えば、何かを傷つけます。誰かの自由は、ゲームを生きる人を必ず傷つけてしまいます。辛いことです。ほんとうに。
「味ぽん」のメーカーとして知られる「ミツカン」が東京の主婦二三一人を対象に行なった、調理器具に関するアンケート結果を見ていたら、うちのJoshyaさんがとても珍しいひとだというのがわかってしまってちょっとびっくりしました。
アンケートによれば、「知らない調理器具」の代表として「焙烙(ほうろく)」と「片口(かたくち)」があり、焙烙は二十代・三十代の八割、四十代の五割が「知らない」と答えているそうな。うちのJoshyaさんは番茶をアルミの片手鍋で炒り、掻玉汁(かきたまじる)をパイレックスのメジャーカップで作っているのですが、「ああ、焙烙と片口が欲しい」とぼやいています。じつは焙烙はあるんですけどね。お盆の迎え火・送り火を焚くやつですけど。ちょっと違うと思う。注ぎ口のない急須のような恰好をしたのがいいようです。で、持ち手のところから炒ったものを取り出すようになっているのが便利とか。
「昔使われていた懐かしの調理器具」の代表としては「擂鉢(すりばち)」(保有率73.2%、使用率16.5%)「鰹箱(かつばこ。アンケートの項目としては、『かつお節削り箱』)」(保有率22.2%、使用率1.7%)「七輪」(保有率8.2%、使用率0.4%)が上げられていました。うーん、Joshyaさんちでは七輪こそ使ってないけど擂鉢と鰹箱は現役バリバリだぞ。
さて、ここで面白いことがあります。Joshyaさんの家ではかれこれ四十以上年前、Joshyaさんが生まれる前から擂鉢と鰹箱を使うのは男性の仕事でした。家業が塗師屋(ぬしや。渋屋(しぶや)ともいう。塗装業のこと)だったので、下地用の胡粉(ごふん)を摺るのに擂鉢は使うし、鉋だって研いだりします。だから包丁研ぎも男の仕事。
で、女性の場合は台所仕事というのは「日常の一部」ということで、ついつい忙しさに紛れて手を抜いてしまうことが多いのだそうです(あたしが言うんじゃありません。主婦の皆さんの中にそういうことを主張される人が散見される、ということです。あしからず)。だけど、男のひとの料理って、そうじゃないんですね。なにか儀式のように、きちんとした手続きを踏まえてゆく。焙じ茶を淹れるときに、いちいち焙烙で炒るというのもそうした手続きの一部だし、行平なべでお粥を炊きながら、鰹節を掻くのも手続きの一部。葛を引いたお汁(つゆ)の中に、すぅーっと糸のように玉子を垂らして、天女の羽衣のように玉子が広がってゆくのを楽しんでしまうのも、また手続きの一部だったりします。で、研ぎすました包丁で薄く薄く削ぎ切りにして、茗荷の断面がきれいに見えるように、そして生っぽくならないようにするのもこだわりです。
「郷愁(ノスタルジー)はそれと意識されている限りにおいて無害である」と、昔ある人に教わりました。こだわりも「こだわり」であると意識している限りにおいて、「遊び」や「粋」に通じる部分があります。
「道具の手入れから洗い物・片付けまできちんとやる」「どこに何をしまうかきっちり決まっている」までやるのが「職人的こだわり」です。男の料理もそこまで貫くとカッコいいぞ。
そんなわけで、家の中に自閉症的こだわりを受けとめる役割が用意されている、というのは、けっこう重要なことかもしれないと思うあたしでした。まる。
(Maria)
シンタロウ wrote:
> そのおかげでいじめられました。そんな自分が嫌でいつも「普通になりたい」と思い続けてました。でも、いくら普通になろうと努力しても普通にはなれなかったです。
こんな例があります。僕は「普通に成るにはどうしたらいい?」と友達に問いました。色々話し合いました。
結論的には、「君は普通に成りたい成りたい言うけど、自分から実践して無いし、同じ過ちを繰り返す。結局君は、普通には成れないよ。なぜなら、普通の人がやってる事を否定するのだから。」んでもって、「君は君の生き方(やり方)があってるんだよ、誰もそれを止めることが出来ない。君自身でさえ制御できないんだから。」
っつーことらしいんですが、確かに思う所があります。シンタロウさんはどう思いますか?
Mariaさんこんにちは。
>
> Lingkoさんもうちのメンバーが出汁に使ってしまったことがあります。ごめんなさい。
いえ、今、さがす余裕がなくて、味わったりウケたりを先送りにさせていただくけど、きっと楽しい話のようだから、素材として自分がお役に立てたんだと想像されるので。まだだしがらにはなっていないようですし。
> ぜんぜん関係ないけど、バンブルビー・フィッシュというハゼの仲間の熱帯魚がいます。かわいいぞ。
「余裕があることが確実にわかっているときに検索するもの」の項目に、貼っときます。そのときまでのお楽しみだわ。マルハナバチやクマバチのように丸っこいのかな。ミドリフグみたいな形状を勝手に想像して、あとはお楽しみとしておきます。
> 「Lingko」は「銀杏(gingko)」を意識しているのではないか、と勝手に想像しています。
してますしてます。それがすべてではないですけど。「lingo」と「link」を合成してみたってのもあるし、ちいさいときから「L」って字は好きだったし、いちょうはだいすきな木だし。最初の「筆記体のg」→「筆記体のy」の転記ミスという事情からいえば(このエピソードの真偽は知らないのですが、真偽はともかくとしてもお話としては気に入ってる)「ginkgo」の方が正式なのが残念だけど、私は「gingko」の方が自然っぽくて好き。
> 「銀杏(いちょう)」を「公孫樹」と書くのは「公孫」の代まで実がならないとか花が咲かないとかいったところに由来があるとかいった話を書こうと思ったら、「子」「孫」「曾孫(ひまご)」「玄孫(やしゃご)」まで調べたところで探索が尽きてしまいました。手元の漢和辞典にはこれ以上載っていません。しくしく。
私は「鴨脚樹」っていう表記も好きなんです。だってぇ。そのまんまでしょ。
>
> 「梅(むめ)遠近(をちこち) 南(みんなみ)すべく北すべく」。「ええですなぁ」と吐息(といき)してしまいます。
ああそうか。遠近を「をちこち」とあらわすのに揃えるなら梅は確かに「むめ」が相応しいですよね。実はこの句、音声でだけ覚えていて、表記を覚えていないのです。リズムが気に入って記憶に残ったからだと思うのですけれど。音だと、「むめ」でも「んめ」でも「うめ」でも、結局は、「ある音」になっちゃうものだから、区別したいという動機が私の側になかったのでしょうね。
と言いながら、膝の屈伸感覚、両手の羽ばたき感覚といった運動感覚と、予定の決まらない目移り気分(少しの加減で快感にも苦痛にも展開しうる)はすぐに再生されるのに、においはすぐには想起されないんです。まちがって沈丁花の方が出てきたり。
私の場合、すんなりと正しいにおいを想起できるのは、ある一連の体調の悪さに困っているときに多いことなので、それができないのは良いしらせでもあるのですけど。今はほかの部分が不調なので、これまでが重なったのでは大変ですから。
それでは、また当分ゆっくり読んだり書いたりできないと思いますので、しばらくさようなら。
みどり さんwrote:
>こうもりさんは線をイメージしていらっしゃるようですが、私のイメージは円、もしくは球です。
>中心部に近いほうの人が健常者、いろんな方向にはずれた人が障害者。
正式に、はじめましての、タレイヌです。
タレイヌも、円、または球のイメージをもっております。
今、『人間であること』という限り在る平面(?)で、イメージしていくとするなら・・・・・在る一人の人間を、同心円、あるいは楕円、さらには、正多角形とは言い切らず、ゆがんだ多角形?でもいいから、仮にそれぞれ個々人を、描き、重ねていったとすると(そんな事できない!といわれたら、それまでですが)微妙に重なり合うこと、一部がかさなりあうこと、すぐ隣に在ること、全く離れてしまう事、という風にいろいろな場所に、描いていく事になるでしょう?それを、できることとして無限個(?)に近く重ね合わせていった時、なんとなく、色濃く線が重なっているところが、たち現れるんじゃないかな?タレイヌのイメージでは、『健常範囲』あるいは『正常範囲』とは、そんな形でしか、見えてこない。
そして、始めに、書いた、『人間であること・・平面概念』も、広さや、形自体が、その時代背景や、地域、文化に、左右されている・…のだろうと思う。
(追加。この平面を、時間に従って、縦方向に移動すれば、単純図式で(!)球体あるいは、立体形で、立ち上ってくる『形』が、見える気(?)がしているタレイヌ)
そこで、これがタレイヌにとって、何を意味しているかというと、
何を正常であると認識させられるのか!・・・・なのです。
個々人は、『自分の認知方式』から、離れる事はできません。(体から、精神が抜け出したりはしないので…本来ならば。つまりこれができたら、病気!!)そして、他者と接触する時に、当然誰にでも均等におきる事が『自分の認知方式はいつも危険に晒される』ということです。
ですから、みどりさんが、お書きになっている、
> 「人は自分の信じたい事だけを信じる」
>この言葉で、周囲の理不尽な行動のうち、かなり多くの部分に納得がゆきました。なにを言っても聞き入れてもらえなかったり、わかりきった内容をいつまでも誤解している人がいるのは、その内容がその人の信じたくないことだからなんだなあ、と。(>と同時にあきらめというか、悲観的な考え方が強くもなっちゃったんですが。)
という形で、なるべく、簡単に自己不安を、解消する人たち(=できる人達)が居るんですよ。自己検証もしないまま誰かに教え込まれた『普通は…』を、丸呑みする事で疑問をもたない(ことにしている)人達が、きっと。(手抜き処理だぞ!!わたしゃ、むかつくぞーーー!と思ってるタレイヌ)
まぁ、疑問を持つことは、さらに自己不安が広がる事では、ありますけど…確かに。
で、つまり、そこまでで、真剣に関われる段階は、終了するわけです。それ以上突っ込むと、「普通は、もめる」と、相手の側が判断するので、こちらとしては、諦める・・という事にならざるを得ません。
そうやって、あちこちで、「行き止まり」を、経験しながら、『ああぁ、この辺がつまり限界ってことか』って、タレイヌの場合は、思った。
ところが、ずるい奴・・というかMariaさんが、お書きになってる、『勝ちたいという欲求が、暴走する奴』は、その、行き止まりを、真剣に模索中の真面目な人達の前で、突然、『普通の側』に立ち、勝利の凱歌を、嬉しそうに上げたりするんだよ、「君は、昨日は違う論点で、喋っていたぞ?!」って、いぶかしげに見ている私らの視線にも気づかないで・・??だって、こいつの、昨日と今日をつなげてみると、言ってる事が矛盾するぜ!!でも、この人の中心に『何が何でも、目の前に登場する奴のうちで、勝てる奴には勝ってやる』というものがあるなら、一見ばらばらな主張であっても、「一纏まりな人格」には、成り得ますから。(こわ〜〜い)
この例が、決して正常であるとは言いませんが、でも、こんな事が繰り返されて、外側から眺めてみると、『健常者群』らしき概念が、個々人に出来上がってくるのかな・・と、思うわけです。
タレイヌ自身は、自分が、どの変に位置しているのかを、いつも、探しています。こうもりさんが、仰っているところの、『距離感を、量る』に、当たるところだと思います。もし、特に付け加えるならば、『健常者』あるいは、『健常者群』に対して、というよりは、むしろ、目の前に居る「一人の人間」に対しての、距離を個別にはかり、タレイヌなりの、図面に書き込み加えていっている…というのが、一番当たっているかもしれません。
なんか、いろいろ書いて、長くなってしまった・・・おしごとしなくちゃ。
それでは。
(タレイヌ)
Toxさん wrote:
> 抗精神薬を服用した場合、しばしばシンドロームマリン(悪性症状)と呼ばれる無動緘黙(カタレプシー)、強度の筋強剛(カタトニア)、嚥下困難、頻脈、血圧の変動、発汗などが発現し、それに引続いて発熱が見られることがあります。この場合は身体を冷やし、水分を補給するなどして、すみやかに処方医に連絡してください。
> また、長期投与により、遅発性ジスキネジーと呼ばれる口周部などの不随意運動が現れ、中止後も持続することがあります。
詳しい情報をありがとうございました、Toxさん。
SSRIをパキシルに戻してもらってから、見違えるように症状が改善しました。体調が悪いのは薬のせいだともっと早く気づいていれば、こんなに苦しまなくて済んだのですね。
元々ぼーっとしているから、さらにぼーっとして異変に気づくのが遅れました。
え〜、こんちわでやんす。ちょっかい小僧でござんす。
蝙蝠さん wrote:
> 「蝙蝠」というハンドルネームで投稿している時の
>わたしの取り扱いにはお気をつけください。では
便乗しやすが、ごめんなせぇよ。
おいら、めったに出てこないんでやすが、あさかぜの野郎の一部(ってぇのもナニだがなぁ)でござんしてね。「荒らし」と勘違いされちゃあコトなんで、ちょっくら顔だすていどなんすよ。
長く書いた割にはいろいろ抜かしてしまいました。
みどり wrote:
>同じ方向にずれた人だけ集めれば、ひとまとまりになっていて集団として扱えますが。(これが個々の障害という意味)
こうもり wrote:
>>ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐらいの意味です。
個々の障害を認めてもらうというのは、「私は○○人だ」という主張するようなものになるわけです。「日本人じゃない」とだけ主張するより、副作用が少なそうに思いません?
「日本人じゃありません」「ああアメリカ人か」みたいなヘンな短絡もよくあるし、勘ぐる人だと「日本がそんなに嫌なのか」みたいな方向に行ったりします。
みどり:
>主旨とずれた方便の割には、効果が薄そうで、副作用が大きそうな気がします。
「対症療法の割には」という意味でした。
み:
> 「人は自分の信じたい事だけを信じる」
憶測になりますが、相手にとって、こうもりさんのイメージと障害者のイメージがかけ離れすぎているので、こうもりさんを障害者と認めることは、その人の中の障害者のイメージを打ち砕く必要があるわけで、それには当然心理的抵抗があるのです (もちろん本人は無意識)。それでなかなか理解してもらえないのではないかと思います。
こうもりさんと似たようなイメージの人で、こうもりさんと似たような困難を持つことが広く知られている著名人を見つけられたら、その人をダシに使えば、相手の心理的抵抗が少なく受け入れてもらいやすい説明ができる、なんて可能性があるかもしれません。
とっくに試してたらごめんなさい。
こうもり wrote:
> わたし自身、障害者と健常者の間に「発達的境界人」の存在を想定している
>ので、健常者と障害者の2つに分類することは無理だという点についてはみど
>りさんの意見に同意します。
こうもりさんは線をイメージしていらっしゃるようですが、私のイメージは円、もしくは球です。
中心部に近いほうの人が健常者、いろんな方向にはずれた人が障害者。
健常者の集団は、境界のあいまいさはあれど、まあひとつにまとまるのですが、障害者の集団というのはまとめて扱うには扱いにくい形状をしています。(中心が抜けてるから)
同じ方向にずれた人だけ集めれば、ひとまとまりになっていて集団として扱えますが。(これが個々の障害という意味)
> ただし、わたしの今の状態を見て「健常者だ」と評価されることが多いと言
>うのは心外なんですよね。異常だと思われてもいいので、健常者と認定されて
>いる人とはっきりと区別してもらった方がいいです。
> これは、別にわたしが健常者と認定されている人に反発をしているからでは
>ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐ
>らいの意味です。
どちらがいい悪いという話をしているわけではないので、その点は (私については) ご心配なく。
まあ、現状ではしかたない部分もあるとは思うのです。世の中には「障害者=助けが必要な人」「健常者=助けが必要ない人」みたいな考え方も多いようなので。
こういう考えだと、助けが必要な人は障害者認定を受けるか、歳を取るかしかない。
でも実際は助けといっても必要な内容も量もばらばらだし、健常者と言われる人たちだって、一時的に助けが必要になることはよくあるわけです。
(説明の都合上わかりきった内容をくどく書いていることをお許しください。)
友人が妊娠初期の通勤中、たっていられなくてシルバーシートに座っていると、お年寄りたちから散々嫌がらせを受けたそうです。
じゃあ妊娠中の人も「障害者・老人・妊婦」として弱者グループに入れればいいのかというと、そういう問題ではなくて、見えないところに大けがしてる人とか、その日やたら体調が悪い人なんかもいるわけです。私も「電車で座っていたら目の前のお年寄りににらまれたけど、降りたあと階段をよっこらよっこら登っていたら、そのにらまれたお年寄りに軽やかに追い越された」なんてことはよくあります。
助けが必要な人と必要でない人の境界線は、助けが必要かどうかでしかひけないんです。弱者だからどう、弱者じゃないからどう、とグルーピングするのは、差別のもとになるだけです。
でもそこがどうしてもわからない人がやはりいて、、新聞の投稿欄に「身障者用エレベータを周囲に誰も居ないからって使ってる若者がいた、許せない!」みたいなのが堂々と載ったりするわけです。
> 「個々の障害そのものを認めてもらう」というあり方は、どうしてもこの問
>題には答えてくれないのです。
で、やっと理解したんですが、こうもりさんがもともと必要なのは障害の認定よりも、障害による困難を他人に理解してもらう方策、なわけですよね。(そういえば手帳が欲しいって言ってたのはこうもりさんでしたっけ)
確かに障害者として (医者なり役所なりの) お墨付きをもらうのは、もしかしたら方便としては有効なのかもしれません。特に理解してもらいたい相手が行政なら、間違いなく必要になるでしょう。
でも、一般の人が相手なのだとしたら、う〜んどうかなあ。
説明して理解できないのに障害者手帳を見せれば納得してもらえる人が相手だとしたら、そういう人の「障害者観」ってのはどういうもので、いったいどういう理解をしてくれるのか、心配になってしまいます。
それに、説明して理解できない人は、障害者である証拠を見せても、 「でも○○さん全然普通だもん大丈夫だよこんなものいらないよがんばって」みたいな、見当ちがいな反応をもらって終わりになっちゃいそうな気がするんですけど…
主旨とずれた方便の割には、効果が薄そうで、副作用が大きそうな気がします。
# あれ、なんかデジャヴ。同じこと前にも書いてたらご勘弁。
まあ私はちょっと悲観的すぎるのかもしれません。
そうそう、私が目からウロコが落ちた言葉がこれ。
「人は自分の信じたい事だけを信じる」
(で、私はこの言葉を信じました) (誰の言葉なのかはさっぱり忘れました。どなたがご存知?)
この言葉で、周囲の理不尽な行動のうち、かなり多くの部分に納得がゆきました。なにを言っても聞き入れてもらえなかったり、わかりきった内容をいつまでも誤解している人がいるのは、その内容がその人の信じたくないことだからなんだなあ、と。
と同時にあきらめというか、悲観的な考え方が強くもなっちゃったんですが。
> pocksさんはコミニュケーション障害のために”かんしゃく”になることが
>あると言われました。純粋にアスペだけであれば、”かんしゃく”という形の
>感情表現をしても、その責任は非アスペの側にあるということになりますか?
あえて「責任」という捉えかたをするなら、どちらにもないとしか言い様がないように思います。なぜならば、お互いのことを知らない、わからないゆえにすれ違いが起きているだろうからです。
>それとも”かんしゃく”の範疇の憎しみ表現だったのか
具体的にどうだったか見えないので断定しかねますが、自閉者の「かんしゃく」は、多くの場合コミニュケーションがとれないことへのいらだちの表現です。憎むとか愛するとかいう対人関係の認識や表現は、一般に自閉者が最も苦手とするところです。
いま、あたしは『ドラマ理論』というのを勉強しています。
これは難しくいうと、「多主体複雑系モデルの理論」というのですが、具体的にいうと、「『正常な人たち』はなぜズルをしたことを自慢するのか?」ということだったりします。
あたしたち……というか、あたしとあたしのごく親しいひとたちは、まずそれぞれに適用される「ゲームの規則」があって、それぞれの「勝利条件」があり、その「ゲームの規則」の中で最善を尽して勝利条件を満たす、という形でゲームを進めています。で、そうして得た勝利にこそ価値がある、と思っているのですね。
ですが、「正常な人たち」はそうではありません。ただ、「勝ちたい」ために、カードを隠し、チェス盤をひっくり返し、果ては相手に殴りかかったりします。優等生を殴っても成績が上がるわけじゃないし、「学歴社会への痛烈な批判」だとかいって誰かが誉めてくれるわけでもありません。
「自分の参加しているゲームに勝つ」わけでもなく、「勝てるゲームに参加する」わけでもなく、「自分の参加しているゲームとは違うゲームをプレイすることで、『自分のゲーム』に勝つ」ということをしてしまうわけです。ふつう、こういうのを「妄想」というのですが、その勝利条件が本来のゲームの勝利条件と一部重なっているので、あながち「妄想」と決めつけられないところに問題があったりします。「試合に負けて、勝負に勝った」とかよくいうけど、よく考えるとよくわかんないぞ。
たとえば会社のお金を何億円も私的に流用していながら、「横領ではなく、会社の資産を効率的に運用しようとしたのだけれど、不可抗力によって利益が上がらなかっただけだ」みたいなことを言っちゃう人がいます。実際は株で失敗して大損をし、借金の穴埋めに会社のお金を横領して注ぎ込んだだけの話だったりするんですけどね。
あたしたちは仕事をしている時に、「労働基準法」という制約の中で、どれだけ効率よく、どれだけ効果的に働き、会社に利益をもたらすか、というゲームをプレイしています。で、その結果あたしたちが勝利した場合、特別賞与とか昇級とか労働環境の改善とかいった報酬が得られるのですね。
ですが、このゲームの中に、「出世競争」なんていう訳のわかんない概念が入ってくると、ややこしくなってしまいます。
だいたい派遣業務なんかだと、リーダーのほうがメンバーより単価が安い、なんてことは珍しくありません。つまりは誰がどんなポジションにつけば利益を最大化できるか、というテクニカルな問題でしかないわけです。野球でいえば、リード・オフ・マン、先発投手、ストッパー、キャッチャーといったポジションに対して給料が決まっているわけではありません。研究職なんかだと、研究者ごとの給与格差というのは微々たるものです。全体の業績が上がったのに特定の個人の給与が下がった、なんていうことは、その人物がモラルに反したことをしない限りはありえません。
ところが、『正常な人たち』は、「職場内の順位構造」なんていうものにこだわって、組織全体の効率を落としてしまいます。あのー、「こだわり」って自閉症方面の人間の専売特許みたいなものなんですけれど、と言ってあげたくなります。「目標」が、「目的」を離れてひとり歩きしてしまっています。そして手段と目的の関係が逆転してしまっています。こういうのを「フェティシズムの病」というのですね。
下着は女性の生身の肉体を包むがゆえにセクシーなのだけど、女性の生身の肉体よりも下着に興奮してしまう人がいます。地位だけ上がってなんか意味があるのかなぁ、とあたしなんかは思うのね。だから「生涯一プログラマ」というのをあたしは標榜しておりました。だけど、そうした社内抗争みたいなものに巻き込まれて、仕事がうまくいかないことがやたらに多かったりします。
あたしなんかは自分より有能なひとが来てくれたら、なむなむなむ、と拝んでしまいます。それで仕事が進むんなら文句はありません。お山の大将になるつもりはありません。だけど、「お山の大将おれ一人 後から来るのは夜ばかり」みたいな人が多かったりします。
とても悲しいことですが、「正常な人たち」にとっては、「有能な人間」は、「権力者」か「暴君」でなければいけないのだと思うんです。「正常な人たち」の一人である親は、有能な子供を「謙虚な」人間に育てようとして、「へりくだる」ことを要求します。ですが、それはひょっとしたら、とても危険なことのように思います。「権力者(力がある)」か「暴君(何をするかわからない)」か、とにかくそうした「攻撃性に対する歯止め」がなかったら、戦後民主主義における「平等」を叩きこまれた「正常な人たち」は、嫉妬による攻撃性を抑えきれないのではないか、と思うんです。
目の前にいる人間に対する「勝ちたい」という欲求が、全体的な利益を無視して暴走してしまうのが「正常な人たち」です。だとすれば、有能な人間は、従順であってはいけない、と思います。社会全体の利益を考えたときには。
こうした見方は、「正常な人たち」に対する偏見に囚われた見方だ、という反論はあると思います。だけど、有能であるがゆえに嫉妬され虐待されたひとたちに対して、多くの「正常な人たち」は、「それが普通だ」と主張してきました。優秀な人間は嫉妬され、真面目な人間は馬鹿にされる。それが当たり前だ、と主張してきました。
だからあたしはそういう「正常な人たち」に、きっちり責任を取ってもらいたいと思っています。有能な人間、ちゃんと仕事をする人間が求められる時代が、そろそろ近づいてきた気がします。「正常な人たち」には、エリートを軽蔑し、真面目な人間を馬鹿にしてきたツケを、きっちり払ってもらいたいと思います。
(Maria)
こうもりさん wrote:
> そして、わたし自身が「彼ら」との違いをはっきり自覚して、思考錯誤を
>しながら接点を探っていくことしか、残された道はないと思っています。
はい、そうですね。
こうもりさんの場合とは、反対に、親自身が自分を「健常では無い」と気づかずに偏りつつ、あちこちに文句を飛ばしながら、我が子を育てた場合、も、似たような事になるのです。
これは、いわば、誰も認めないでしょうが、『虐待』の、一つの形です。
(タレイヌ)
こうもりさん wrote:
> ここでみなさんに質問です。医学的・教育学的に高機能の軽度発達障害者と
>認定されている人と健常者と認定されている人の違いはどこにあると思われま
>すか?
ものすごく、愚問かもしれませんが・・・・→またもや、ずれてる、かも?
「医学的に、健常者と認定されている」また「教育学的に健常者である」(こちらのほうがまだ、わかる気がしますが…そう、教育学的にです←問題を解かせて平均値からどれだけ隔たっているか示せば皆が簡単に納得するからね、数値化しやすいし)には、一体どのような基準があるのでしょうか?心理検査の事かしら?(こちらも、数値化なんだけど、傾向しかわからないと思うな…だって、本気でやらなきゃ、如何にでもなるし相手は、大人なのだし)
ここからはタレイヌの単なるイメージなんですけど。
医学的に「健常者と認定される」って、とても範囲が広い気がします。どちらかといえば、支障さえなければ、どんなに偏っていても、健常範囲内となって、健常側に、分類されるのではないのかしらねぇ・・?(コレ!という症状があるからこそ、その症状に「病気」を認め、その病気ゆえに、健康ではない…とはじめて診断できる。精神科=医学的には、その程度までしか、関わらないんじゃないかと・・・)
それをあえて、「非健常」である・・と本気で訴えてくる場合は、何故、そう思うのかについての検証が必要となって、「通りいっぺんの病気分類上で、診断はできない事」に、逆転してしまいませんか?
だからこそ、「発達障害」のところまで、逆戻り(=深入り?)する事になってしまうんでしょうけれど。(というよりは、そこに、原因を探そうとしている、というべきかしら?)
タレイヌ、なんか自分でもよくわかんないけど、ややこしいこと言ってる気がする。すみません・・・変な文章で、その上、答えになってないかもぉ・・?
(タレイヌ)
シンタロウさん wrote:
>>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ場
>> 合が多い
>>
> 僕は小学校2年から4年まで特集学級に通ってました。そのおかげでいじめ
>られました。そんな自分が嫌でいつも「普通になりたい」と思い続けてました。
>でも、いくら普通になろうと努力しても普通にはなれなかったです。
わたし自身、普通になろうという努力は20代前半まで続けていました。「
普通の人の猿真似ができるようになるために生きていてなんになる!!」とい
う絶望的な気持ちを抱えながら…。
シンタロウくんには味わってほしくない気持ちです。
ARAさん wrote:
>これは、「私を障害者してあつかえ」ということではなく
>「普通」への距離感だと思います。
たぶん、この距離感については、わたしはわたしより深刻な困難を抱えて
いる障害者より、はるかに溝を抱えていると思います。
家庭ではかなり強制的なノーマライゼーション(健常化)が行われました。
(親自体が多くの発達障害系の相談機関に門前払いを食らい続けていたので
、この件について非難することはできないでしょう)そして、健常者と認定
されている人に近づいていくにつれ、「彼ら」との間に深い溝ができていき
ました。家族はノーマライゼーションによって、わたしが健常者の世界に融
けこむことを期待していたのでしょう。しかし、わたしは健常者に近づいて
いくにつれ、「彼ら」との違いに嫌というほど気がつかされるようになって
いったのです。
そして、わたし自身が「彼ら」との違いをはっきり自覚して、思考錯誤を
しながら接点を探っていくことしか、残された道はないと思っています。
みどりさん wrote:
>>(1)大人になってから障害を認定された人は障害者の側に所属意識を持つ
>>場合が多い
>>(2)子供の頃から障害を認定されていた人は健常者の側に所属意識を持つ
>>場合が多い
>
>つまり、どちらも「場違い」な感じですごしてきた、ってことでしょうか??
この理由は今でもよく分かりません。ただ、この掲示板でもそうですが、軽
度発達障害について、盛んに発言を繰り返しているのは
(1)大人になってから軽度発達障害と認定された人
(2)未診断のまま大人になったが、自分自身が軽度発達障害であることを疑
っている人
が圧倒的に多いんです。自閉者本人の手記を書くのも(1)のタイプがほとん
どですしね。
>個人的には、二つにわけること自体無理があると思うので、健常者か障害者か
>というよりは、個々の障害そのものを認めてもらうという方向の方がいいので
>はないかと。
わたし自身、障害者と健常者の間に「発達的境界人」の存在を想定している
ので、健常者と障害者の2つに分類することは無理だという点についてはみど
りさんの意見に同意します。
ただし、わたしの今の状態を見て「健常者だ」と評価されることが多いと言
うのは心外なんですよね。異常だと思われてもいいので、健常者と認定されて
いる人とはっきりと区別してもらった方がいいです。
これは、別にわたしが健常者と認定されている人に反発をしているからでは
ありません。外国人が「わたしは日本人じゃない」と主張しているのと同じぐ
らいの意味です。
「個々の障害そのものを認めてもらう」というあり方は、どうしてもこの問
題には答えてくれないのです。
一本のすみれが牧場に咲いていた、
ひっそりとうずくまり 人知られずに
それは可愛いすみれだった
そこへ若い羊飼いの少女がやってきた
軽やかな足どりで 晴れやかな心で
こっちの方へ近づいてくる
牧場の中を 歌をうたいながら その歌はいかにも楽しげだった
ああ と すみれは思った もしも自分が
この自然で最も美しい花だったらと
ああ、ほんのちょっとの間だけでも
あの少女に摘みとられて
胸におしあてられて やがてしぼむまでの
ああ ほんの ああ ほんの
四半時だけでも
ああ それなのに 少女はやってきたが
そのすみれには目もくれないで
あわれなすみれを踏みつけてしまった!
すみれは倒れ 息絶えたが それでも喜んだ
だって死んでも たとえ死んでも
あのひとに あのひとに ふまれて
その足のしたで 死ぬんだもの
かわいそうなすみれよ
それは可愛いすみれだった
〔ゲーテ+モーツアルトのすみれ〕
ミッドランド wrote:
>アトラさん wrote:
>>http://www.anzu.or.jp/com/byoki/byoki08.htm
>
> ↑これ、見てみました。愛知県一宮市にある「杏嶺会」という医療法人のHPらしいです。
>
> 「自閉症」の項、はっきり言ってムチャクチャです。
> 「精神病の代表的なもの」?「青年期に発病することが多い」??「次第に非社交的になり、自分の世界に閉じこもる」???
>
> 早速、メールで訂正要望してきました。 ミッドランド
ありがとうございました
アトラさん wrote:
>http://www.anzu.or.jp/com/byoki/byoki08.htm
↑これ、見てみました。愛知県一宮市にある「杏嶺会」という医療法人のHPらしいです。
「自閉症」の項、はっきり言ってムチャクチャです。
「精神病の代表的なもの」?「青年期に発病することが多い」??「次第に非社交的になり、自分の世界に閉じこもる」???
早速、メールで訂正要望してきました。 ミッドランド
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