アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
どうもこんにちは、ぶちです。
あさかぜさん、お返事どうもおありがとう
ごさいました。
あさかぜさん wrote:
> 困っているとき助けてもらえるのはとてもありがたいので、わたしは人に尋ねることも人を頼ることもします。具体的な内容を端的に伝えて、相手ができる範囲で助けてもらえればそれでいいので。
それって良い考えですね。
うちの兄(小学生の頃他動と診断された)は、弱音を吐か
ないし、頼らないし、困っている感情すら外に見せないので、
時々どっかでつっかえてたりよくしました。聞いてみると、
彼には苦手で大変な事でも、私にとっては何でもない事だった
り(得意分野の違い)するので、「私がやるよ」ってやったり。
得意不得意があるんだから、そんなに大変なら、頼めばいいの
に・・・って思う事もあるんです。私だって、兄の得意分野で
兄の力を借りる事があるんですから。
得意不得意もありますから、相手にとっては何でもない頼み
事ってあると思うんです。そういう時には、そういう人の手を
借りるのは、すごく良い方法だって、私は思います。
> ただ、こちらの困難の内容が正確に伝わっていない(あるいは相手がなにか誤解している)こともありますので、何度か説明してみてダメなようなら……他の人を探します。人に頼ることが恥ずかしいとか思ったことは、ほとんどないです。
> 「困っている」とは、つまり「自分でできる範囲を越えた困難をかかえている」という意味にとらえての話ですが。
やっぱ、あさかぜさんって、バイタリティーありますね!
すごい! 私は自分の能力を超えているのを知りながら、悶々
として止まってしまう事が時々あるようです(ちょっと兄に
似ている部分もある。パートナーによくそれを指摘される)。
でもそういう時に、なぜか助けてくれる人が来てくれる場合
が多いので、なんとか大事に至らず乗り越えて来ました。
人の力を借りるのって、そんなに恥ずかしい事じゃないし、
それで効率よく事が進むなら、その方が便利な事も多いです
よね(って私も詰まるくせに)。
どうもありがとうございました(ぶち)
蝙蝠さんはじめまして、ってのも変か。
蝙蝠 wrote:
>もっとも、大人になってしまったら生きるための
>したたかさが身についてしまい、そのまま妙に倫理に口うるさい人間になっ
>てしまったのだが…。
身勝手なことを言わせてもらえば、死刑にならないでいてくれて私はとても嬉しい。こんなにおもしろい話をしてくれる人はなかなかいないもの。
こうもりさんの話は大抵、「漠然と感じていたけどちゃんと考えたことがなかったので言葉やまとまった概念にはなってなかった」ことを、ずばっと説明してくれるので読んでいて気持ちがいい。
ただ、話がこうもりさん自身のことに及ぶと、いつもいきなりわからなくなってしまうんだな。
「話はだいたいわかった。私個人としてはとても楽しく読んだ。でも核心部分はさっぱりわからない。こうもりさんがこの投稿をした理由が隠れてそうなんだけど?」という感じ。
で、今回もそうで、話の大半は「うんうん、なるほど、そうだよなあ」という感じで読み進んできたのだけど、最後の一行で悩んでしまった。
というわけでまたも質問。
>、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。
ここでいう、「のしかかる善悪の問題」って、どういう種類のものなんでしょう?
おもしろそうな話ですね。これを読んで初めて知った概念なのですが、いま調べたばかりの付け焼き刃状態でコメントします。
こうもり wrote:
> こうして考えていくと、医学的な発達障害の診断はどこまで行っても自然
>主義的誤謬の範疇から抜け出すことはできません。ここで「全ては解釈だか
>ら」と言って相対主義に逃げ込むことは可能です。しかし、それは第三者の
>論理であって当事者の論理ではありません。当事者にとって、医学的な診断
>に基づく所属は本人の人生に大きな影響を与えるからです。現在、この問題
>に葛藤しています。
ここでいう「価値」とはなにか、が気になります。事実以外のものは全て価値なのか、それとも善悪の判断に限るのか。医学的診断は「価値判断」になるのでしょうか?
最初の説明のように、『「〜である」は「〜でなければならない」ではない』の後半は、善悪の判断ですよね。
もしも診断の話の最後のところが、「LDとして対処しなければならない」とかなら、この誤謬の範疇に入りそうなんですけど。
「善意の第三者」みたいに、日常語彙とは違う意味の「価値判断」という用語があるのでしょうか?
もう一つ。
> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)
この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながりにおいてどれだけ違いがあるのでしょうか。
みどり自身の場合だったらどうかというと、私は基本的に医者や医学をあまり信じていない (科学が人間の精神はおろか肉体を正しく理解するにはまだ1000年早い、と思っている) ので、医学的な診断は間違いだろうが仮定にすぎなかろうが割とどうでもいいと思っていたりします。(変な投薬されたり必要な治療がされなかったりするのは嫌だけど、診断そのものはどうでもいい)
蝙蝠参上…
今回は精神的には安定している状態であるが、少しきわどいテーマを扱う
ことになるので、こうもりの分身「蝙蝠」がコメントをする…。なお、蝙蝠
は悪や狂気の事例を扱いながらコメントしていく事が多いので、ご注意を…
こうもりwrote
> 自然主義的誤謬とは簡単に言えば事実から価値判断を導き出すことができ
>ないという話です。
(中略)
> 精神医学の世界の診断にも自然主義的誤謬は深刻な影響を与えます。例え
>ば、精神科医が厳密な検査や臨床像の観察に基づいて診断を下す場合でも、
>最後はやはり価値判断を必要としています。その場合の価値判断は「通常の
>健常者はかくかくしかじかである」という事実から、患者本人がそれから逸
>脱しているという価値判断を導き出さなければなりません。そして、その逸
>脱に対してさらに価値判断をすることによって、「〜障害である」という診
>断が導き出されるのです。(これをわたしは二重の価値判断と勝手に命名し
>ております。これが三重の価値判断,四重の価値判断になっても話の構造は
>変わりません)
こうもりはここでヒュームの学説から離れて、事実から価値判断を導く場
合だけでなく、価値判断から価値判断を導く場合があることを指摘した…。
(二重の価値判断)数年前に流行した「なぜ人を殺してはならないのか」と
いうテーマを例に挙げれば次のような構造になる…
(例1)
・人は人を殺すことができる(事実)
↓
・人を殺すのは悪である(価値判断1)
↓
・故に人を殺すべきではない(価値判断2)
つまり多くの人は事実から価値判断を導き出すだけではなく、「人を殺す
のは悪である」という価値判断から「故に人を殺すべきではない」という新
たな価値判断を下す場合があるのである…。価値判断から価値判断を導き出
すのもある種の誤謬の一例と言えよう…。
なお、価値判断1と価値判断2を区別したのには理由がある…。両者は一
見すると矛盾するような結果を導き出すことがあるからだ…。例えば、不肖
蝙蝠は青年時代に「人を殺すのは悪である」(価値判断1)という価値観を
持ってはいた…。しかし、それでも「わたしは人を殺すべきだ」と考えてい
たのである…。蝙蝠は子供の頃、いじめによる自殺が流行した時に、同級生
から「お前が自殺すればいいのに…」と言われ続け、自殺をすることすらで
きない状態にあった…。蝙蝠は自殺をせずに死ねる方法を考え続けた…。誰
にも同情されずに死ぬ方法を考え続けた…。それこそが「社会的に悪と見な
される殺人を行うことによって、死刑になること」だったのである…。しか
し、蝙蝠は成人になる前に人を殺しても死刑になることができず、少年院に
しか行くことができないことを知っていた…。だから、大人になってから人
を殺そうと思っていた…。もっとも、大人になってしまったら生きるための
したたかさが身についてしまい、そのまま妙に倫理に口うるさい人間になっ
てしまったのだが…。ともかく、「人を殺すのは悪である」という価値判断
から必ずしも「人を殺すべきではない」という結論を導き出せる訳ではない
ことはお分かりいただけたと思う…。よく、「やっていい事と悪い事の区別
も分からんのか!!」という説教を耳にするが、両者の区別がついていても
あえて悪の道を選ぶことはあり得る…。
逆の場合を想定してみてもよい…。
(例2)
・人は人を殺すことができる(事実)
・人を殺してもよい(価値判断1)
・ゆえに人を殺すべきである(価値判断2)
この場合も、「人を殺してもよい」という価値判断1と「人を殺すべきで
ある」という価値判断は必ずしも結びつかない…。仮に「人を殺してもよい
」という価値判断が与えられたとしても次のような反論が想定されるからで
ある…。
(1)例え、どんな理由があっても人を殺すことは許されない。
(2)特に人を殺さなければならない理由を持っていない。
(3)人を殺してもよいと思うが、法律や制度や多数派の支持を後ろ盾にし
て、実現すべきではない。
(4)社会的に許容された行為には一切魅力を感じない。
(5)社会にどんな決まりがあろうと、わたしがそれに従わなければならな
い理由はない。
おそらく、今のわたしが他人から「人を殺してもよい」とほのめかされた
場合でも、上記の理由のうちのどれかで拒否してしまう可能性が高いと思う
…。どの理由で拒否するのかは秘密だが…。「人を殺さなければ、お前を殺
す」と脅されても事情は変わらないと思う…。
話をまとめておこう…。事実から価値判断を導き出せないのと同様、価値
判断から価値判断を導き出すこともまた不可能である…。ある程度、周囲の
人間と共通感覚を持つことができる者であれば、感覚的に善悪を判断すると
いう道も残されているだろう…。しかし、周囲との感覚の不一致に悩まされ
ている者にとってこれは至難の業である…。犯罪の危険性が遠のいた今でも
、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。
シンタロウさん wrote:
> あと、「健常者をぶん殴ってもいいんだよ!」「健常者が意地悪してきたら殺しなさい!」「健常者にムカついたら殴り殺しなさい!」「俺達自閉人は健常者より優れているんだ!」「下等な健常者を皆殺しにしろ!」「この腐った世界をぶっ壊せ!」
そりゃあいくらなんでもマズいでしょう。そんな言葉は「アスペルガーはとんでもないことを考えるヤツだ」と思われてしまうだけで、ますます「いわゆる普通の人」との距離を広げるだけのような気がします。
あと、軽軽しく「殺せ」などと言わない方がいいですよ。
>> #生きるための書
>>#君は生まれてきてよかった。
>>#みんなは本当は君が生まれてきたことを本当はよろこんでいる。
>>#生きるのだ。
>>#君にとって楽しいことは、きっとある。
>>#それが私にはわかる。
> てゆうか、健常者には↑の本を読んでも俺達の気持ちなんて分かる分けネエよ!!
前々から気になっていましたが、その「いわゆる普通の人」(健常者)を「悪」と決め付けて罵倒するのは、もうやめにしてもいいのでは?
その考え方は「障害者」と「いわゆる普通の人」の間にすれ違いを生じさせるだけで、ひとつも進展がないと思うんですよ。
いまのシンタロウさんには難しいことかもしれませんが……。
もし気を悪くしたようでしたらごめんなさい ミッドランド
対して目新しい哲学上の見解ではないけど、わたしが気になっているテー
マの1つに自然主義的誤謬というものがあります。これについて、発達障害
を題材にして考察を加えてみたいと思います。なお、ここでは自己評価の問
題ではなく、医学的評価の問題のみを扱うことにします。
自然主義的誤謬とは簡単に言えば事実から価値判断を導き出すことができ
ないという話です。このことにはじめて気がついたのは17世紀のイギリス
の哲学者デービッド・ヒュームでした。彼は「〜である」(事実)から「〜
べきである」(価値判断)を導き出せないという形で問題を提示しました。
この論理でいけば、「男である」という事実から「男らしくなければならな
い」という価値判断を導き出すことはできないし、「人間である」という事
実から「人間らしくなければならない」という価値判断を導き出すことはで
きなくなります。
自然主義的誤謬は現在存在する諸学問にとって鬼門のような存在です。ど
んなに客観性を重視する学問でも、資料やデータ(事実)を解釈分析する場
合には価値判断が必要になるからです。もし全ての学問から価値判断を取り
除いてしまったら、諸学問に可能なのは資料とデータの集積だけになってし
まうでしょう。最も重大な影響を受けた学問は善悪という価値判断を扱う倫
理学でした。例えば「人を殺した」という事実から「人を殺すのは悪である
」とか「人を殺してはならない」という価値判断を導き出すことさえ無理だ
という話になってしまうのですから。現在でも自然主義的誤謬に対する全面
的な反論は打ち出されていません。唯一サールという哲学者が制度,習慣,
約束,義理,黙約などの拘束下の置かれている場合にのみ、事実から価値判
断が可能になるということを証明しているに過ぎません。
(例)
・AさんはBさんにお金を5ドル借りて、「必ず返す」と約束した。(事実
)
↓
・AさんはBさんにお金を返すという義務の拘束下に自分を置いた(事実)
↓
・ゆえにAさんはBさんにお金5ドルを返さなければならない(価値判断)
しかし、この例はあくまで義務が発生している時だけに成立する関係であり
、学問の世界ではほとんど役に立ちません。
精神医学の世界の診断にも自然主義的誤謬は深刻な影響を与えます。例え
ば、精神科医が厳密な検査や臨床像の観察に基づいて診断を下す場合でも、
最後はやはり価値判断を必要としています。その場合の価値判断は「通常の
健常者はかくかくしかじかである」という事実から、患者本人がそれから逸
脱しているという価値判断を導き出さなければなりません。そして、その逸
脱に対してさらに価値判断をすることによって、「〜障害である」という診
断が導き出されるのです。(これをわたしは二重の価値判断と勝手に命名し
ております。これが三重の価値判断,四重の価値判断になっても話の構造は
変わりません)
話を発達障害に限定しましょう。発達障害もまた価値判断なしに診断を行
うことはできません。例として医学的LDを挙げておきましょう。当然の事
ながら、この例は他の発達障害の例に置き換えても当てはまります。
(例)
・Aくんは10才で一桁のたし算・ひき算ができない(事実)
↓
・通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判
断1)
↓
・故にAくんはLDと診断される(価値判断2)
こうして考えていくと、医学的な発達障害の診断はどこまで行っても自然
主義的誤謬の範疇から抜け出すことはできません。ここで「全ては解釈だか
ら」と言って相対主義に逃げ込むことは可能です。しかし、それは第三者の
論理であって当事者の論理ではありません。当事者にとって、医学的な診断
に基づく所属は本人の人生に大きな影響を与えるからです。現在、この問題
に葛藤しています。
pennpenn58 wrote:
> るおうさん。レスありがとう。うれしいです。今酔っぱらってる?私は気持ちよくなる前に気持ち悪くなる。
itido haite mata nonndemasu
> ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?
soreniそれについては、私は存じませんがm他ノ人がわかるでしょう。
健常マジうぜーーーーーーーーーーーーー!!
はじめまして、子供とかかわる仕事をしています。教室に入れず、人間関係がうまくとれず、母親自身もASと言われている中3の女の子がいます。かかわり始めてから、1年半児童相談所にもかかっています。小児精神科の診断では、ASとのことでした。今引きこもろうとしていますが、大人として、何が彼女に必要で、何ができるか???それともこのままほっておいていいものなのかどなたか教えてくださいませ。
るおう wrote:
>pennpenn58 wrote:
>>でも大事なのは人を尊重する姿勢があることかな?
>あれま!同じですね。私はそういう人が好き。そしてそのかわり私のことを尊重しない人は嫌いになってしまいますが。。
>>でも私は友人が少ない。
>同じく。。
>人を大事にしない人が多いから。私も縁を切るし。
>大事にしたいと思うと、少なくなるのだろうか?
>まあ。
>しかし
>以前
>、、私に電話をするのは、電話に出て欲しいからなのか。と言われたときには絶句しました。色々な知人がいるものです。
>
>因みに。ストレス性飲酒の真っ最中。
るおうさん。レスありがとう。うれしいです。今酔っぱらってる?私は気持ちよくなる前に気持ち悪くなる。
ところでずっと気になっていたのですが前に武田さんがリタリンを処方してもらったら?といっていたことがありますが言えば処方してくれる薬なのですか?
小学校の教師をしています。
今うちのクラスにアスペルガーかな?と思われるお子さんがいます。
中学年です。
以前は、なんか変な子だな、わがままだな、自己中だなと思っていました。
でも、本を読んだりこのページを見てから、
アスペルガーかなとおもいました。それから、具体的な指示を心がけるようになりました。
パニックの時の原因もなんとなく分かるようになった気がします。
教師としてはそのように関わるように努力しているのですが、
周りの子へはどう指導したらいいのでしょうか。
親御さんにどうつたえればいいのでしょうか。
親御さんもなんか変な子だなと思っているみたいです。
本人も自分がなんかへんだと思っているみたいです。
ぜひいろいろ教えていただきたいのですが。よろしくお願いいたします。
武田好史 wrote:
>武田好史 wrote:
>>> これまでのあなたの経験からみて、「自閉症の子どもたちに真っ先に伝えたい」>と感じているメッセージはどんなものですか?
>
> 私が自閉症の子供たちに真っ先に伝えたいのは、「生きていていいんだよ!」ということです。
あと、「健常者をぶん殴ってもいいんだよ!」「健常者が意地悪してきたら殺しなさい!」「健常者にムカついたら殴り殺しなさい!」「俺達自閉人は健常者より優れているんだ!」「下等な健常者を皆殺しにしろ!」「この腐った世界をぶっ壊せ!」
>
> 最近、臨床心理士で自閉症の専門家の酒木保さんが、PHP新書から「自閉症の子供たち 心は本当に閉ざされているのか」という本を出しています。その中に酒木さんが、「お願いします。どうか私に太宰治と同じ首吊りか入水をしてください。お願いします。お願いします。生まれてきてすみません。」という遺書をセラピー中に書いた少年に贈った、次のような詩がありました。
>
> #生きるための書
>#君は生まれてきてよかった。
>#みんなは本当は君が生まれてきたことを本当はよろこんでいる。
>#生きるのだ。
>#君にとって楽しいことは、きっとある。
>#それが私にはわかる。
>
> 読み終わった私は、目に涙があふれました。「ちゃんとしなさい!」「早くしなさい」「・・・・してはだめ!」「・・・・してくれないかな・・・」という言葉で、自分の落ち着ける居場所がないと感じている、すべての自閉症児・者に伝えたいメッセージだと思いました。
てゆうか、健常者には↑の本を読んでも俺達の気持ちなんて分かる分けネエよ!!
武田好史 wrote:
> これまでのあなたの経験からみて、「自閉症の子どもたちに真っ先に伝えたい」と感じているメッセージはどんなものですか?
健常者をぶっ壊せ!!!!!!!!!
武田好史 wrote:
>> これまでのあなたの経験からみて、「自閉症の子どもたちに真っ先に伝えたい」>と感じているメッセージはどんなものですか?
私が自閉症の子供たちに真っ先に伝えたいのは、「生きていていいんだよ!」ということです。
最近、臨床心理士で自閉症の専門家の酒木保さんが、PHP新書から「自閉症の子供たち 心は本当に閉ざされているのか」という本を出しています。その中に酒木さんが、「お願いします。どうか私に太宰治と同じ首吊りか入水をしてください。お願いします。お願いします。生まれてきてすみません。」という遺書をセラピー中に書いた少年に贈った、次のような詩がありました。
#生きるための書
#君は生まれてきてよかった。
#みんなは本当は君が生まれてきたことを本当はよろこんでいる。
#生きるのだ。
#君にとって楽しいことは、きっとある。
#それが私にはわかる。
読み終わった私は、目に涙があふれました。「ちゃんとしなさい!」「早くしなさい」「・・・・してはだめ!」「・・・・してくれないかな・・・」という言葉で、自分の落ち着ける居場所がないと感じている、すべての自閉症児・者に伝えたいメッセージだと思いました。
私も、けっこう人からめちゃくちゃに言われたり扱われるのですが。。
本当。。いい加減でルーズでそれで迷惑かけられて、、と言う人が
反対に、、良い人だと人から思われたりね。人間的と思われたり。
色々ありますが。。
でも自分がどう生きるか。。なんですよね。
といいいつつ。もうつぶれています。
生きる気力は、。。元気が無いとね。トラウマもないとね。
あ。。
あまり書くと、、
以前、、だったら死ね!
と この掲示板で書かれたことあるからね、。
やめとくか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
pennpenn58 wrote:
>でも大事なのは人を尊重する姿勢があることかな?
あれま!同じですね。私はそういう人が好き。そしてそのかわり私のことを尊重しない人は嫌いになってしまいますが。。
>でも私は友人が少ない。
同じく。。
人を大事にしない人が多いから。私も縁を切るし。
大事にしたいと思うと、少なくなるのだろうか?
まあ。
しかし
以前
、、私に電話をするのは、電話に出て欲しいからなのか。と言われたときには絶句しました。色々な知人がいるものです。
因みに。ストレス性飲酒の真っ最中。
名加野さん wrote:
> この「人生経験」が曲者だと思います。というか、疑問を発すると、「人
>生経験」に終止符を打つ人は多いと感じます。2言目には「人生経験」なの
>はやめて欲しい。
この言葉は部下や後輩や年下の相手を納得させることができない時に苦し
紛れに言うことが多いような気がします。
> 僕もよく他人の意図を間違えます。「要するに」とか言ったら要注意(苦
>笑。でも、人それぞれ、誤解する時によく使う言い回しがあると思います。
> その時に注意する姿勢を見につけたいです。でもあんまり、対抗策って講
>じてないんですよね……。
意図を誤解しやすいというのがわたしの基本的障害の1つなので、わたし
もよく間違えます。だから、間違えることによって人を責めるつもりはない
のです。そんな事にいちいち怒っていたら発達障害者の世界では生きていけ
ませんから。
でも、意図を誤解している人が自分は意図を誤解している事に気がつかず
に、他人の共感性の無さを非難していたとしたら、やっぱり腹が立ちます。
例え、意図を誤解することがあっても、自己内省力のある人であれば、好
感が持てます。
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