アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
Mariaさん wrote:
> あたしは冬型人間のような気がする。
私は冬を乗り越えるのにすごくエネルギーを使う。
冷えに弱いし、夜が長すぎて明日が来る前につかれはててしまう。
私はきっと夏型人間なんだ。
季節性のウツに気をつけないといけないな。
武田好史 wrote:
>最近僕は、右あごの関節がおかしくなってしまいました。
>口を開いて閉めるときになんか「ガックン」という音がするんです。
>先週パンを食べようとして大きく口を開けたとき、一時的に右側の奥歯がかみ合わせられなくなってしまいました。
> これって最近よくちまたで聞く「顎関節症」なのでしょうか?
>また歯医者さんでも治療してもらえるのでしょうか?
わたしは、今、治療中です。早く,早く,一刻も早く,口腔外科へ!そのままにしておくと、どんどんひどくなります。耳の前の関節に注射を打たれ,機械でガバチョと口を開けられ、痛みはほとんど絶叫ものでしたが、一時的なものですから大丈夫です。口にマウスピースのようなものを、はめるようになります。
武田好史さん wrote:
>最近僕は、右あごの関節がおかしくなってしまいました。
>口を開いて閉めるときになんか「ガックン」という音がするんです。
>先週パンを食べようとして大きく口を開けたとき、一時的に右側の奥歯がかみ合わせられなくなってしまいました。
> これって最近よくちまたで聞く「顎関節症」なのでしょうか?
ほぼそのように見てよいですね。顎関節症について書かれているページ(↓)を見つけたので、参考にしてみてください。
http://homepage2.nifty.com/uoh/12345/gakukansetsushou.htm
>また歯医者さんでも治療してもらえるのでしょうか?
まずは歯科医院で受診してみてください。
そこで様子を見るか、治療をすることになるか、場合によっては大学病院を紹介されるかと思います。
原因としては、かみ合わせの悪さや過度の開口などがありますが、精神的ストレスも要因のひとつとなっています。
鷲羽丸
Mariaさん wrote:
> こうもりさんは「自然主義的誤謬」に対して慎重なのではないでしょうか。
さすがに自然主義的誤謬は、日常わたしが何か行動を選択する場合には考慮
に入れないようにしています。そもそも、事実から価値判断を導き出すことが
できないという話になると、行動を選択すること自体ができなくなってしまう
からです。
どちらかと言うと普段は応用倫理学的な範囲で行動を選択している場合が多
いと思います。もっとも応用倫理学は
(1)倫理学的事実を正しく把握できているか
(2)考察過程に問題はないか
(3)判断の根拠が妥当であるか
などを結論以上に厳しく問われる学問で、この3つの項目のうちのどれかに誤
まりがあった場合はもう1度考えなおさなければならなくなります。
もっとも、今回のアドバイス自体は応用倫理学的に思考する場合でも参考に
なると思います。
> 純粋理性に対する実践理性の優位性を説く、プラグマティストという人た
>ちがいます。あたしもどっちかっていうとプラグマティストです。ですから
>、あたしは「結果は行為を正当化する」と考えています。「目的は行為を正
>当化する」とは考えませんが。
応用倫理学は「どの結論が正しく、どの結論が間違っているということはな
い。その問題についてどこまで多角的に真摯に考え抜いたかが重要である。」
という立場を取っています。それゆえにどうしても結果よりもプロセスが重視
されがちです。
緊急時には、わたしもプラグマティスト的な発想になりがちなのですが、普
段は応用倫理学派的な発想をしています。そして、あまりにも何度も思考を練
り直してしまうために、結論の一致を重視する人からは不安がられてしまうみ
たいです。
そんな訳で、倫理学的に慎重になりすぎるというのが、わたしの特徴だと思
います。そして、そのための対策として以下の提言はとても貴重であります。
> 「自分がどのように判断し行動するか」において、自然主義的誤謬を気にし
>なくていい場合と、気にしなければいけない場合があって、「いまはどっちの
>場合なのか」という判断は、「どうするか」の判断に先行します。「腹が減っ
>たら、喰う」という態度は、とりあえず、正しい。ただし、宗教的食物禁忌と
>か、糖尿病や腎臓病に対する食事療法とかいったケースに出会ったときに、そ
>の先の判断が要求される。
「自然主義的誤謬」という部分を「応用倫理学」と置きかえれば、話が納得
できます。つまり、応用倫理学的な価値判断をどんな場面においても適用しな
ければならない訳ではないという意味ですね?
確かに応用倫理学にはちょっと偏屈な部分があります。例えば、「子供が川
でおぼれているのを見て、何も考えずに助けようとするのは倫理的な行動では
ない」と言い出したりします。哲学の師匠によれば、「この人の行動には悪の
可能性が開けてないから」(行動を選択するのに葛藤を必要としていないから
)だとか…。まあ、それでも川でおぼれている子供を見かけたら、すぐに救助
をしようと考えるのが健全なあり方だとは思います。どういう方法で救助する
か(方向論)については、後から反省が必要になってくるとは思いますが。
> 「一般的な場合に対する基本的な態度をはっきり表明しておく」ということ
>をしておけば、「立場が一貫していない」「態度を明確にしてほしい」といっ
>た文句はだいぶ減りそうに思います。
一般的な状態や日常を掘り下げるのは哲学の一大テーマなので、考えてしま
うことは多いんですよね。でも、特に学問的な話をしている訳ではない相手に
対しては、上記の態度で接していた方が適切なような感じがしてきました。ど
もどもです。
釈さん wrote:
夕日にとけこんだり、木と一緒にいたり、鳥と話したりしています。
> 人間関係のほうは、できないことをはっきり言って様子をみたほうがいいでしょう。わがままな人というのは、へたに自信を見せると難題ふっかけてつぶしたくなるらしいですから。
いつも出る杭打たれるということをされてきたので、最近ではまったく自分を隠すようになっていた自分ですが、やはりそういうことが出てしまっているらしいです。たしかに。。
釈さん色々と有難うございました。
自分自身の現実がまだあやふやで、漠然としたことしかわからないのですが、
調和感覚は、それぞれの人が独自に創ることでつながりあうのだと思います。詳しく知らないのですが、るおうさんは今は無理に動かないほうがいいのではないでしょうか?評価のほうが悪くて誠実な仕事ができているのなら、評価が追いつくのを待てばと思います。
多次元とは私も大好きな自然や宇宙のことだけでなく、知覚できない高度な世界があるらしいということで、近頃とみにいかがわしがられる宗教の領域に、私は救いを感じています。誰もが組織宗教におもねる必要はありません。ただ、宗教的次元は軽視しないほうがいいのです。自然や宇宙の好きな人なら、夕陽に感動するなどで神秘的一体感を呼吸するだけでもいいのではないでしょうか。
人間関係のほうは、できないことをはっきり言って様子をみたほうがいいでしょう。わがままな人というのは、へたに自信を見せると難題ふっかけてつぶしたくなるらしいですから。
最近僕は、右あごの関節がおかしくなってしまいました。
口を開いて閉めるときになんか「ガックン」という音がするんです。
先週パンを食べようとして大きく口を開けたとき、一時的に右側の奥歯がかみ合わせられなくなってしまいました。
これって最近よくちまたで聞く「顎関節症」なのでしょうか?
また歯医者さんでも治療してもらえるのでしょうか?
I wrote:
> 慣れてくると、「ひとりディスカッション」ということができるように
>なり、さらに、そのときに意図的に「肯定的な立場からの視点」「否定的
>な立場からの視点」を使いわけることができるようになります。で、その
>経緯を第三者の視点で読み返してみることで、また新たな発見があったり
>もします。
こうもりさん wrote:
>正確に言えば哲学とはこれなんですよね。つまり様々な角度からの複眼的
>な考察であり、1度出した結論は新たな問題を考えるためのステップに過
>ぎないという考え方です。もっともこれをやりすぎて、「立場が一貫して
>いない」「態度を明確にしてほしい」と文句を言われることも多いのです
>が。
こうもりさんは「自然主義的誤謬」に対して慎重なのではないでしょうか。
純粋理性に対する実践理性の優位性を説く、プラグマティストという人たちがいます。あたしもどっちかっていうとプラグマティストです。ですから、あたしは「結果は行為を正当化する」と考えています。「目的は行為を正当化する」とは考えませんが。
で、あたしは「実効的な正しさ」というものを考えています。天動説というのは、日常生活における「実効的な正しさ」をもっています。あたしたちは、「日が昇る」「日が沈む」「日が高い」といった表現を日常的に使っていて、その時は天動説的な考え方をしています。
機械工学の分野においては、ほとんどニュートン力学の範囲内でしか物事を考えません。アインシュタインの相対性理論によるニュートン力学からのずれというのは、機械工学における誤差に吸収されてしまうからです。そんな訳で、機械工学の分野において、ニュートン力学は「実効的に正しい」と考えることができます。
「自分がどのように判断し行動するか」において、自然主義的誤謬を気にしなくていい場合と、気にしなければいけない場合があって、「いまはどっちの場合なのか」という判断は、「どうするか」の判断に先行します。「腹が減ったら、喰う」という態度は、とりあえず、正しい。ただし、宗教的食物禁忌とか、糖尿病や腎臓病に対する食事療法とかいったケースに出会ったときに、その先の判断が要求される。
ヘーゲルというひとは、「間違ったことを言わない」ことに慎重になるあまり、誰も理解できないというわりとイヤなひと(ヘーゲルが嫌いなのではなく、自分にそういう傾向があるのがすごくイヤ)なので哲学者としてはあんまり評価しないのですが、「つねに逸脱は生じうると考えよ」という警告としての「法則は変化するものである」という思想には学ぶべき点があると思っています。
そうすると、「法則は変化するものである」という発言は「法則は拡張されるべきものである」と考えたほうがいいのか、というとそうではなくて、天動説にはプトレマイオス的な素朴な世界観があり、ニュートンにはニュートン的な(ルネッサンス的な理性信仰、つまり「絶対的な真理としての神の摂理」「絶対的存在としての神や宇宙」にたいする憧れ)世界観があり、アインシュタインにはアインシュタイン的な世界観があり、そうした「世界観の発展」が「法則の変化」の背後にはあると解釈できるんじゃないかなー、と思っています。
「春分の日」は三月二十日だったり三月二十一日だったりします。これ、「法律上の春分の日」を三月二十一日に固定しちゃったほうがいいんじゃない?と言っている天文学者さんがいたりします(カトリックの教会暦はそうなってます)。自然現象と制度はまた別物であって、たとえば「法制度における暦」は太陽暦(グレゴリオ暦)、「生活暦としての暦」は太陰暦(旧暦)でいいんじゃないかと思うんですよ。まあ、そうすると一月一日は「元日」であっても「お正月」ではなくなっちゃうし、五月五日の「子供の日」は「端午の節供」ではなくなっちゃいますが、それはそれでいいような気はします。だいたい労働基準法は定期的に休みを取れとは言っているけど土日や祝日に休めとは言っていません(でないと看護婦さんや警察官や消防士さんの仕事に支障が出ます)。顧客や取引先と相談して営業日を決めたり勤務のシフトを組んだりとかいうのは大変でしょうけど、デメリットばかりではないと思いますし。それに、こういったらアレだけど、イスラム国家における「ラマダン」よりは大分マシという気はします。
「一般的な場合に対する基本的な態度をはっきり表明しておく」ということをしておけば、「立場が一貫していない」「態度を明確にしてほしい」といった文句はだいぶ減りそうに思います。
(Maria)
武田好史 wrote:
> 自分の思考を検証し発展させていくことは、哲学を形作る重要な作業の一つ
>だと思います。
正確にはこれこそが哲学なのだと言ってもいいぐらいです。
> 日本の地球科学者に信奉者が多いヘーゲルは、「法則は変化するものであ
>る。」と説いています。
ちなみにわたしの学生時代の専門であった歴史学ではヘーゲルの語る歴史法
則に基づいて歴史を語る人が多かったりします。ヘーゲル自身が「法則は変化
するものである」と認めているのに、その彼が作った法則に従おうとしてしま
うのはちょっと不思議です。
> 私たちは見聞きするもの特性にいろいろな価値観を抱き、それらの合理・不合理をつき合わせて、新たな思想なり・法則なり・理論を打ち立てられる、今のところ宇宙で唯一の生命体なのです。
>
>その営み全てが哲学なんだと私は思います。
後は恐るべき間の悪さをどうにかできればいいんですけど。当事者の方から
の助言、痛み入ります。
時間が微妙なので、おはこんばんわ。Mariaさん。
Mariaさん wrote:
>こうもりさん wrote:
> こうもりさんはナーバスになっていて、発想がネガティヴになっているので
>はないかにゃ?
1回、自分が練った考えを別の角度から再検討するということ自体は、とて
も大切なことだと思っています。しかし、それがタイミングよくコメントでき
ない…。
特に武田さんとのやりとりでは「正論」を吐いて論難した後に自説の前提の
誤まりに気がついてしまい、ちょっとブルー状態。
> あたしは「書く」「発表する」「ディスカッションする」といった表現活
>動自体も問題解決のプロセスの一部だと考えています。ですから、掲示板に
>アップすることで、「書いたもの」から「書かれたもの(発表されたもの)
>」になった時点で、その内容に向かい合う意識のありようが切り替わるので
>、それまで見えなかったものが見えてきた、ということなのだと思うのです
>よ。
今までもこの手の体験はよくやっていたのですが、後で気がついても沈黙
を通してしまっていたんです。で、今回はこりゃ間が悪すぎると思って、蝙
蝠の口を借りて公表した訳です。もっとも表現がきつすぎて、色々な人に心
配をかけてしまったようでしたが。
> 慣れてくると、「ひとりディスカッション」ということができるようにな
>り、さらに、そのときに意図的に「肯定的な立場からの視点」「否定的な立
>場からの視点」を使いわけることができるようになます。で、その経緯を第
>三者の視点で読み返してみることで、また新たな発見があったりもします。
正確に言えば哲学とはこれなんですよね。つまり様々な角度からの複眼的
な考察であり、1度出した結論は新たな問題を考えるためのステップに過ぎ
ないという考え方です。もっともこれをやりすぎて、「立場が一貫していな
い」「態度を明確にしてほしい」と文句を言われることも多いのですが。
> 「思いついてしまうことが多すぎる」というのは、さっぱり思いつかな
>い人にとっては、かなりうらやましいことだと思うのですが。
そう言っていただけると助かります。では
冬だ。
「冬」というのは、ほんとうに「季節」という気がする。「夏」というのは、冬にくらべると、ちょっと見劣りがする感じがある。「春」とか「秋」に至っては、「冬の終わり」とか「冬の始まり」とかいう感じでしかない。
「夜型人間」という言葉はあるけど、「昼型人間」ってあんまり聞かない。「朝型人間」だ。やっぱり夜は特別な時間だと思う。冬もたぶん同じだと思う。
あたしは冬型人間のような気がする。
(Maria)
■ LDの人の雇用ガイド 日本障害者雇用促進協会東京障害者職業センター ■
------------------------------------------------------------------------
日本障害者雇用促進協会・東京障害者職業センターから、「LD(学習障害)の
人の雇用ガイド」というパンフレットが発行されました。残念ながら残部が少な
くなっているとのことでした。東京障害者職業センターのご厚意により、東京L
D連絡会ホームページへ転載させていただきました。プリントアウトなどして利
用していただくことは支障ないとのことです。
HTMLバージョンをアップしました。20:16 2001/11/03
http://www.ne.jp/asahi/tokyo/ld/ld_koyou_html/
こうもり wrote:
> 最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
>
自分の思考を検証し発展させていくことは、哲学を形作る重要な作業の一つだと思います。
何故なら哲学というものは、過去の思想をよりどころにして、自ら編み出していくものだからです。
日本の地球科学者に信奉者が多いヘーゲルは、「法則は変化するものである。」
と説いています。 変化させる主役はもちろん私たち人間にほかなりません。
私たちは見聞きするもの特性にいろいろな価値観を抱き、それらの合理・不合理をつき合わせて、新たな思想なり・法則なり・理論を打ち立てられる、今のところ宇宙で唯一の生命体なのです。
その営み全てが哲学なんだと私は思います。
わしの18年と6ヶ月の長きにわたる学校生活(義務教育9年、高校で1年、予備校で2年、大学で4年、そして技工士学校で2年6ヶ月)のなかで、わしはあまり「尊敬に値する教師」にめぐり合えませんでした。いつも、どこででもわしは「かわったヤツ」「要注意人物」の扱いだったからでした。
そんななか、わしが唯一「恩師」と思える人がいます。
技工士学校時代の教務主任(当時)の先生です。
その先生は、技工士学校入学のときからわしに厳しく、かつ暖かく指導してくださり、就労への不安から就職で悩んでいたときも、いつでも快く相談に乗ってくださいました。
で、わしは結局2年の本科を終え卒業し、国家試験に合格して資格をとった後も「卒後研修」という形で学校に残りました。
その5ヶ月目ぐらいのとき、わしは先生に
「個人的な相談があるのですが、聞いてもらえますか。」
と言いました。わしがASの傾向があることを話したかったのです。先生は快く承諾してくれました。家族以外の人にわしの複雑な事情を話すのはこれが初めてでした。
わしは本科で先生から
「君には社会性が欠けている。」「協調性がなく、周囲にあわせようとしない。」
としばしば言われていました。先生にASのことを話して、なんとか少しでもわしの事情を理解してもらいたい、そんな思いがあったのでした。
わしと先生は別室でふたりだけで話をしました。わしが自分の事情について話すと、先生は
「すまないが、その分野については私は全く関与できない。申し訳ない。だが、君はまだ自己診断しているに過ぎないんだろう。やはり病院で正確な診断を受けたほうがよいのではないか。まあでも、そういった事情があることはわかった。」
と言いました。少なくともわしの人格を否定することなく、話を聞いてくださったことに、わしは好感を持ちました。
そしてそのあと、先生はわしの母親と電話でわしのことについて話しました(わしはその内容は知りませんが)。あとでわしが母親に聞いたところ、先生はわしのことをとても心配してくださっていたようで「事前にそのことを言ってくれれば、それを踏まえたうえで指導にあたれたのに。」と言った、とのことでした。
だからと言って、具体的にどのような指導をするのか、との疑問はありましたが、わしを気にかけてくれている、というだけで安心できたのでした。
わしは今まで、これだけわしを気にかけてくれる教師に会ったことがなかったのです。
で、先生の言に従い、わしは病院へ行ったのですが……、以前書いたとおり、わしはそこでロクに診察されることなく、失望感に満ち溢れた気持ちとなり、医者不信に陥りました。
しかし幸いその1ヵ月後、念願の就職が決まりました。
欠員の穴埋めという形だったので、1年間の予定の研修を途中でやめることとなりました。ギリギリでわしの事情を言うことができたのはよかったと思っています。
わしは親身になってわしに接してくれた、あのときの先生に、今でも感謝しています。というより、これが当たり前になってほしいのですが。
もちろん今の職場の院長にも感謝している 鷲羽丸
みどり wrote:
>みどり wrote:
>>私が何かすると大抵かえって悪い方に転がるので
>
>これで思い出した。
>私が無意識に他人を傷つけてしまう理由の一つに、自分の言葉の影響力がわかってない、というのがあります。
>「私なんかがなに言ったって、誰も気にかけるはずがない」と思いこんでいるのです。
>
>人の話をきかない家族の末っ子として育って、すごく多弁だけど家族からの反応はまったくないか、適当に聞き流されるか、ハナから馬鹿にされるかという子供でしたから、まあそう思いこんだのも不思議はないなと。
>
人間なら誰でも、一生の中で何百回もそう思うことがあると思う。
でもはっきりと意識できることは、ごくまれであると思う。
それが分かったとき、本当に優しい言葉のストロークを相手に返せるんだと、
私は思います。
こうもりさん wrote:
>最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
こうもりさんはナーバスになっていて、発想がネガティヴになっているのではないかにゃ?
あたしは「書く」「発表する」「ディスカッションする」といった表現活動自体も問題解決のプロセスの一部だと考えています。ですから、掲示板にアップすることで、「書いたもの」から「書かれたもの(発表されたもの)」になった時点で、その内容に向かい合う意識のありようが切り替わるので、それまで見えなかったものが見えてきた、ということなのだと思うのですよ。それを「後知恵」とマイナスに評価するのはいかがなものかにゃ? 「発見があった」というのはいいことだと思うんだけど。
慣れてくると、「ひとりディスカッション」ということができるようになり、さらに、そのときに意図的に「肯定的な立場からの視点」「否定的な立場からの視点」を使いわけることができるようになます。で、その経緯を第三者の視点で読み返してみることで、また新たな発見があったりもします。
「思いついてしまうことが多すぎる」というのは、さっぱり思いつかない人にとっては、かなりうらやましいことだと思うのですが。
(Maria)
最近、後知恵で思いついてしまうことが多すぎる…
こうもり wrote:
>みどりさん wrote:
>>反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いに
>>はいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状
>>酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ
>>反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだ
>>けどなあ。
>
> それはわたしも考えていたことです。かつてオウムの裁判でも気になったん
>ですけど、なぜ減刑されることを目的に早々と反省を表明した人が減刑されて
>しまったのか?わたしには「迷いの中にある」ことを正直に表明し、淡々と事
>実を語って第一審で死刑を宣告された被告人の方がよほど誠実に見えました。
つまり、刑罰において反省をした人ほど減刑されるという原理を用いてしま
うと、反省をすることが減刑されるための手段に成り下がってしまう危険性が
あるのです。反省自体は大切なことですが、何か見返りを求めるような性質の
ものではないような気がします。
今回の件でも反省を口にすること自体を自分の過ちに対する免罪符として利
用することがないように気をつけたいと思います。
横レスです。こんばんは。
釈さん wrote:
> 多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
> ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
↑とても分かりやすくて、同感できる感じがします。
すこしずつエネルギーが戻ってきている状態のわたしは、人もまた自然の中の一部なのだなあ、自然はありがたいなあ、と感じています。
地道な農林水産業に従事する方々に感動することがあります。教わることが多いなあ。人間は死ぬまで学び続けることができるのって、ありがたい。
もうめそめそしていない、あさかぜちゃんからでした。
釈 さんwrote:
>皆さんのお役に少しでも立てれば、大いに私の力になります。
有難うございます。
釈 さん。 色々有難うございます。もしよろしかったらもう1つ知りたいのですが、、お手数でなければ。。。この「多次元への信頼の絆を持てれば」この多次元とは、自然や宇宙のことですか?
実は、人間との関係で信頼感を失ってしまい、そして一般人以外の世界の人からもやはり信頼感を失ってしまい。ずっと身動きが取れなく成ってしまっています。さあ。頑張ろうと思うのですが、どうしても動けなくなってしまいます。本当は好転させて行きたいのですが。自然や宇宙は大好きなのですが。
人間同士の付き合いがないと、この世界ではやっていけないので、なかなか踏み出せないでいます。
もう何年間もそうです。最近自分のまわりで色々な動きもあるのですが、怖くて踏み出せないです。踏み出せばよいと言うことでもないと思いまして。。
> 人間関係に養われるキャラクターよりも深いところで育つ地の感覚が確かなら、どんな人やどんな事態にも適切に対応できるでしょう。
そうなりたいです。人間関係に養われるキャラクターではないものが好きです。
人間関係でつぶされそうに成りますが、地の感覚という自然との結びつきがあれば、超越できるということなんでしょうか?
以下のように人間関係に養われた恐れや色々持っていますが、、
だから色々な人に適切に対応できないのかもしれないです。事態にも。
深いところでは、自然と結びついていると思うのですが。
人間関係だけに意識が狭まった先程例を書かれていらっしゃった、エネルギーの奪い合いゴミを押しつけるような人がとても苦手です。。嫌いです。でもそういう一番性質の悪い人達のご機嫌をとらないといけないという、試練を今与えられています。兆度、最近、自分のことをやるべき仕事をしなければ行けないと思っていた矢先に、別な仕事の方から他のお客サンから苦情が来ているから様子をみて今後を決めるといわれました。以前仕事を中心となっていたその社長さんの母親が悪口のようなことを言っているのも事実で、地の感覚を持っているような良い人達からは、私は気に入られているようですが。。そう言う人は悪口も噂も言わないので、不利になっています。
>「人間関係だけに意識が狭まると、イジメとかの病的な現象に負けてしまう。加害者か被害者かというより、感情に巻き込まれて柄目だけになり、地の感覚をなくしていくのが恐いです。」
最初はいじめや色々その他の概念をもっていなかったので、イジメにあっていることやひどい目にあっているという意識がありませんでしたが、だんだん物心ついてからそれがわかってきてから、どんどん辛くなってきたのは、地の感覚というのを無くしてしまったということなのでしょうか。以前は、自然の中に身を置き人間にいじめられた感覚を元に戻したことがありましたが。
>人間は性急に快を求めて、
合理性で繊細さを押しつぶしています。複雑さの認知を捨てて、整理のしやすさを美と見なす傾向がひどいです。次元を減らすことでゲームに勝とうとしているようです。多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
「捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。 」
捨てるべきものとは、実際の物の話しではないのですよね。自分の中にある人間関係に養われたキャラクターのことでしょうか。
「調和感覚。」は人と交流している時にそして自然から得られたことはあるのですが。満足感のようなものですが。これが調和感覚なのかどうかわかりませんがそうなんでしょうか?
> ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
この中でも、人の文化の常識が様々であることを思い知らされた経験があります。
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