アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
るおうさん wrote:
>大切なことを色々有難うございました。励まされました。
皆さんのお役に少しでも立てれば、大いに私の力になります。
><基本的信頼感覚が弱りやすいのでは。
>主語は。これは人間同士の信頼感覚ということですか?
人間同士のという問題以前に、いのちが存在する根拠としての環境への感覚です。人間関係だけに意識が狭まると、イジメとかの病的な現象に負けてしまう。加害者か被害者かというより、感情に巻き込まれて柄目だけになり、地の感覚をなくしていくのが恐いです。
地の感覚は、人間関係によって強くなるだろうと思いますが、普通のひとには認識できない領域から、枠組みを得るように思います。人間関係だけに閉じ込められるから、エネルギーの奪い合い、ゴミの押し付け合いで悲惨になる。
人間関係に養われるキャラクターよりも深いところで育つ地の感覚が確かなら、どんな人やどんな事態にも適切に対応できるでしょう。人間は性急に快を求めて、
合理性で繊細さを押しつぶしています。複雑さの認知を捨てて、整理のしやすさを美と見なす傾向がひどいです。次元を減らすことでゲームに勝とうとしているようです。多次元への信頼の絆を持てれば、徐々にでもすべては好転していきます。捨てるべきものと求めるべきものが次第に明瞭になり、利への執着よりも大切な、調和感覚が得られるでしょう。
ASとかADDとかLDとかは自然からの、人の文化の常識への違和感の表明ではないでしょうか?
武田好史 wrote:
以下のULRは、東海大学放射線診療センターが作成した、最近ADHDの診断で注目されている「脳SPECT検査」をはじめとする、「核医学検査」を受ける患者さんのためのガイドブックです。
http://trhome.med.u-tokai.ac.jp/contents/kaku/INDEXHTM
タレイヌさん,みどりさんへ
どうも祝辞をありがとうございます。
(タレイヌさんへ)
わたし自身の自己イメージは「自閉的境界人」だったので、この診断には
十分すぎるほど納得しています。
(みどりさんへ)
「とにかく長かった…」という気持ちと「やっと故郷(原点)に帰ってこ
れたのだ」という気持ちが入り混じっています。
(みなさんへ)
様々な叱咤激励やアドバイスをしてくださりありがとうございました。ま
た、検査の前後に気が立ってしまい、ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し
あげます。
ぶちさん wrote:
> それにこうもりさんの書かれている、「過去に与えた被害を元の状態に復す
>ること」が、相手に対して何をすることなのか、ちょっとピンと来ないんです。
>過去に起きた事で、たくさんの事がその問題から発生してしまったであろうし
>「元の状態に復する事」なんてありえるのかな。物なら替わりの物を持って来
>たり出来るけど。
この償いの難しさこそが、レヴィナスの語りたかったことだと理解していま
す。ほとんどの場合、「元の状態に復する」という形で過去の償いを行うこと
は困難なのです。
見方を変えれば、レヴィナスの説は「過ちをおこしてもそのことを悔い、反
省することによって、神(社会と置き換えても話はつながる)の赦しを得るこ
とができる」という考え方に対する批判でもあります。これを言い出すと近代
刑罰は成り立たなくなってしまうんですけど。
> 贖罪という私の書き方が悪かったです。自分がおかした罪って、本当は消え
>ないのかもしれません。やってしまった過ちについて精一杯考えて、それを良
>い方向に生かしていくだけだと、私は言いたかったんです。
これが今のわたしにできる未来への償いだということになるでしょうね。
加害者としての過去も引き受けながら、実践していきたいと思います。ども
どもです。
みどりさん wrote:
>実際のところ、これが可能なケースはあまりない (特に内容が深刻なものは)
>と思うのですよね。
そう。例えば婦女暴行を受けた被害女性が加害男性から「一生賭けて償いを
したい。」と申し出られても、「それ以前に近づかないでほしい」という気持
ちの方が先行すると思います。
>被害者が加害者を許せるようになるような行動を取るってのがせいぜいかなあ
>と。
以前コメントした哲学者レヴィナスの説というのは、まさにこの償いの難し
さを語っているんです。
>話が少しずれますが、私がいつも疑問におもうのは、誰かの家族を殺したと
>して、その家族に補償するってのはどういう根拠によるのかなあと。
そして、レヴィナスは「償いは生きている者同士の間でしか成立しない。死
者は元の状態に復する(生き返す)ことができないから」と述べたのです。
だから、死んだ被害者の家族に補償するというのはレヴィナス的な観点から
言えば、全く償いにはなっていないことになるでしょう。家族以外の者に補償
する場合も同様です。特に殺人とかになると、元の状態に復することは絶望的
に不可能になりますから。
>この二つを、時間的なものととらえてもいいんですが、私は対象の違いと考え
>た方がわかりやすいかとも思います。
ええ、対象の違いと見てもいいですよ。つまり
(1)過去への償い→被害者本人に対する償い
(2)未来への償い→これから出会うことになる不特定多数の人に対する償い
という意味です。で、よく話題になるのは、現在欧米や日本で優勢になってい
る教育刑は、未来への償いが重視され過去(被害者に対する)への償いという
観点が欠けているという批判です。ちょっと前に話題になった被害者立法とか
「犯罪者に重罰を!」という主張もこの流れの中から発生しました。
>ま、自分のことはさておいて、社会的にまずいことをしたのなら、第一の被
>害者は社会全般なわけで、償いも社会全般に対しておこなうことが可能です。
>犯罪被害者の救済や、被害の未然防止に役立つ行動がこれにあたるかなと。
>社会的にはそれで許されていいんじゃないかと思います。
社会とか世間というのはわたしには実体がつかめず、把握がしがたい存在
です。でも、少なくとも未来に対する償いの方はそれで十分なんだと思いま
す。
>反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いに
>はいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状
>酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ
>反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだ
>けどなあ。
それはわたしも考えていたことです。かつてオウムの裁判でも気になったん
ですけど、なぜ減刑されることを目的に早々と反省を表明した人が減刑されて
しまったのか?わたしには「迷いの中にある」ことを正直に表明し、淡々と事
実を語って第一審で死刑を宣告された被告人の方がよほど誠実に見えました。
なんか頭がこんがらがっているので、なぜかレスを2つにわけちゃいました。
それから遅くなりましたが、こうもりさんASの診断をもらったそうで、おめでとうございます。
こうもり wrote:
>> こうもりさんは、ここまで考えて悩んで、自分を責めたわけですから、贖
>>罪はすんでいると思います。次はこの経験を何かに生かせればいいんじゃな
>>いですか?
>
> 哲学者のレヴィナスは言いました。「償いは過去に与えた被害を元の状態に
>復することができる場合のみ、成立する」と。殺人とかのように元の状態に復
>することのできない(死者は蘇ってこない)罪ならともかく、相手が生きてい
>る状態ならば、かろうじて償いは成り立つと思います。
みどりさんがちょっと書かれているようですが、相手に会って謝罪する機会があったとしても、それは相手が望んでいる事かどうか分からないと思います。その人が自分の辛かった過去と向き合って、乗り越えて行く事を望んでいるなら、こうもりさんが現れて昔の事を謝るというのはいいかもしれません。もちろん相手の人にも、辛い経験を乗り越えてもらわないと、本当の解決とは言えないのかもしれません。でも本当に辛い時には、壊れてしまいそうな時もありますから。相手がその頃の傷をずーっと背負い続けていて、必死にそれを忘れる事でかろうじて自分を守っているような場合には、その頃の話を聞くというのは、辛いだけかもしれません。謝るというのは、こうもりさんの気持ちには有効なのは確かですが、その誠意が相手にとっても良い方向に働くかどうかは、私にはわかりません。
それにこうもりさんの書かれている、「過去に与えた被害を元の状態に復すること」が、相手に対して何をすることなのか、ちょっとピンと来ないんです。過去に起きた事で、たくさんの事がその問題から発生してしまったであろうし、「元の状態に復する事」なんてありえるのかな。物なら替わりの物を持って来たり出来るけど。
贖罪という私の書き方が悪かったです。自分がおかした罪って、本当は消えないのかもしれません。やってしまった過ちについて精一杯考えて、それを良い方向に生かしていくだけだと、私は言いたかったんです。相手が謝罪を望んでいるなら、それをすれば良いし・・・でもしてしまった事にとらわれて、身動きが取れなくなるのは、二重に良くない(相手にも良くないことをした上に、自分にも良くない)ような気がして、ああいう書き方をしてしまいました。ごめんなさい。
自分は困った事があっても、改善してもらえば基本的には納得、安心してしまう単純な人間なんで(しかもずーずーしく改善要求したりする)、人間の深い問題は理解出来ないのかなぁ・・・ふぅ・・・反省。
(ぶち)
黒Mariaさん wrote:
> 被害者として加害者を理解することは、それほど難しくないように思いま
>す。それは相手を赦すこととはまた別問題ですから。むしろ問題はその逆で
>す。あたしは被害者ヅラした連中、弱者ヅラした連中に対して、あえて加害
>者あるいは強者として対峙することに決めました。
わたし自身が被害者ヅラ・弱者ヅラをすることにはひどい嫌悪感がありま
す。理由としては
(1)自分が弱者や被害者であることを売り物にして、相手に自分の意見や
主張を押し通そうとするのは卑怯な態度である。
(2)自分が弱者や被害者であるという立場で発言すると、相手を自分と同
じ土俵に立てることができなくなる。スポーツにおいて対戦相手に「
自分は弱いのでハンディーをつけてくれ」と要求しているようなもの
であり、公平さに欠く。
(3)弱者や被害者という立場から発言すること自体にニーチェの言うルサ
ンチマン(怨恨感情)的な要素を感じる。
などが挙げられます。この点、Mariaさんの考え方に賛成します。ただ
他人に対して、弱者や被害者という立場を放棄するように主張することがで
きるかという点には迷いがあります。
自分が取っている立場を他人に強要できるかという点ではよく葛藤が生じ
ます。
(PS)
わたしはこの掲示板でよく軽度発達障害者の一員という立場から発言しま
すが、わたしには障害者は弱者であるという観点が欠けているので、上記の
コメントとは矛盾していません。
ちょっと題を変えてみました(内容が「どうして憎いと思うのですか?」から離れてきているので)。
どうも、こうもりさん、3さん、みなさんこんばんは。ぶちです。
> この連鎖を止めるのが難しいんです。で、わたしがいた小学校ではいじめ
>られっ子同士がお互いをいじめ合うという状態が続いていました。
こうもりさんの言う通り、いじめの連鎖ってあります。上手く引用して来られなかったんですが、3さんの言う通り、同世代の連鎖だけではなく、世代を超えて受け継がれる「ゆがみ」(その一つの現れ方がいじめだったり)もあります。
子供を制御する方法として「腕力」を使う親の子は、友達との揉め事を「腕力」で解決しようとする子が多いような気がします。自分がされて嫌な事を、なぜか他人にするようですね。いじめられたから、いじめてしまう、叩かれているから、叩いてしまう・・・
やっぱり、どこかで止めないと・・・って思います。
そして出来れば、個々の間での問題をそれぞれ解決していかないと。すこしずつでも解決していけば、長い時間はかかるけど、いつか少しはましになるような気がしてます(いじめに限らず、全ての問題について)。
その時から随分たってしまったとしても、自分の非を認めているこうもりさんは、すごいなぁと思ったわけです。こうもりさんの相手の人に対する直接の謝罪はまだなされてなくても、そうこうもりさんが思われた事で、ほんの少しでも、何かが良い方向に動いたような気がするんです。全ては自分の過ちを認めた所から始まるんだし(って私が一番自分の非を認めない人間だったりして・・・)。
> 日本でも逆の問題が発生したりします。
本題に関係ないんですが・・・娘のいじめ問題の相手は、こっちに来た後のものまで、相手は全部日本人の子です。こんなに日本人の少ない地域に住んでいるのに、なんでまた相手が日本人なんだか・・・
わりと安全な地域に住んでいるので、アメリカの標準っていうのは分からないんですが(危険な地域の子供はどうか?とか知らない)、アメリカの子供は案外単純で、陰湿ないじめはうちの近所の場合、低学年では見かけません。わが道を行っちゃってる子が多いし、特定の子をターゲットにして「ストレス解消」のような子供には、今の所会った事がありません。機嫌の悪い日に、「地雷踏んじゃった」状態でヤツアタリされるくらいでしょうか? 自分に合わない子には、元々関わろうとしないみたい。
高学年や中学、高校になると、ドラッグや暴力も含めた色んな問題があるようですが、今の所はみんなスッキリしてます。
他の地域で暮らす日本人の知人とも話したんですが、小さい頃から「陰湿ないじめ」(反撃しなさそうな子を狙うとか、特定の子を追いまわしてまでする)をするクセがある子は、なぜかみんな日本の子なんですよね・・・どうしてなのかは、わからないんですが・・・単に私達の周りがそうなだけなのかしら?
(ぶち)
Maria wrote:
> あたしは被害者ヅラした連中、弱者ヅラした連中に対して、あえて加害者あるいは強者として対峙することに決めました。
弱者のふりをしている人に対してはそれでいいと思うんですが、本当の弱者と弱者ヅラを区別できるかどうかが問題ですね。
私には残念ながらそれを見抜くだけの力がないので、危険性が少ない行動をとりたいと考えています。
真の弱者を弱者ヅラとみなすことは、弱者ヅラを真の弱者とみなすより遥かに危険なので、それは避けたいです。
武田好史さん wrote:
>みなさんこんにちは。
> 今日はみなさんが就労に関してどのような意識をもっているのか、お尋ねしたいと思います。
>4・その他
今回、保健所の勉強会で、病院でケース ワーカーをされている精神保健福祉士
の方の話を聞いて、生活支援センターなどの施設を利用するのも いいかな、と
思います。支援センターで働いておられる相談員に自分がどの程度、社会性に困
難をもっているかを理解してもらい保護的配慮を受けられる、職場を斡旋して
もらえるよう働きかけてみたらどうかともおもいますが……。
こうもり wrote:
> ちょっと追加です。わたしは償いには2種類があると思います。
>
>(1)過去に対する償い
>
> 過去のおこなった加害について、被害を受けた本人に直接償うこと
実際のところ、これが可能なケースはあまりない (特に内容が深刻なものは) と思うのですよね。
被害を受けた側は、加害者に関与されること自体が新たな被害となるかもしれませんし。
被害者が加害者を許せるようになるような行動を取るってのがせいぜいかなあと。
話が少しずれますが、私がいつも疑問におもうのは、誰かの家族を殺したとして、その家族に補償するってのはどういう根拠によるのかなあと。
本人への補償をしてそれを家族が相続するならまあわかるんですけど、どうもそうではないようです。
悲しみに対するものなら、なぜ家族なのか。家族以上に大切な友人は。籍を入れていなかった恋人は。被害者が抜けたおかげでつぶれちゃった会社は。それらのものをさしおいてなぜ家族だけが優遇(?)されるのか、私にはよくわかりません。
(家族を特別扱いすることに関する疑問はほかにもつきないんですが)
>(2)未来に対する償い
>
> 過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと
この二つを、時間的なものととらえてもいいんですが、私は対象の違いと考えた方がわかりやすいかとも思います。
「悪」とされているものの多くは、そのものの善悪は別として、「それを悪いことにしておかないと社会的にいろいろまずい」という側面もあるわけです。
(私自身は「そのものの善悪」というのは誰にも決められない、もしくはそもそも存在しない、という立場をとっています。ただし自分が被害を受けたときにはその考えがふっ飛ぶので、ダブルスタンダードになってます。未熟者だ。)
ま、自分のことはさておいて、社会的にまずいことをしたのなら、第一の被害者は社会全般なわけで、償いも社会全般に対しておこなうことが可能です。
犯罪被害者の救済や、被害の未然防止に役立つ行動がこれにあたるかなと。社会的にはそれで許されていいんじゃないかと思います。
で、またも話がずれます。
反省については、反省自体はしてくれた方がいいんですけど、裁判での扱いにはいつも疑問があって、「計画的な犯行ではなく反省している」みたいな情状酌量って、どういう根拠から来てるのかなあと。「よく考えもせずやってすぐ反省しちゃえる」ような軽はずみな犯行なら、きっとまた繰り返すと思うんだけどなあ。
こうもり wrote:
> こうもりです。今日ようやくわたしの医学的な診断が正式に下されました。
>
>「視覚的認知に困難を持つAS」
おめでとうございます。
診断を聞いたときはどうでしたか? ほっとしました?
こうもりさん wrote:
>ちょっと追加です。わたしは償いには2種類があると思います。
>(1)過去に対する償い
> 過去のおこなった加害について、被害を受けた本人に直接償うこと
>
>(2)未来に対する償い
> 過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと
黒Mariaです。
あたしはこうもりさんが言う「償い」と、いわゆる「謝罪」との関係についてちょっと思うところがあります。
世の中には、自分が悪いことをしたときに、それを「生きてゆく上でしかたがないこと」と考える人がいます。したがって、「被害を受けた本人に直接償うこと」もないし、「同じことを二度と繰返さないよう心掛けること」もなく、それが「過ち」であるとも思いません。それは悪いことではありますが、必要なことだと考えているからです。で、それは社会的に認められていることであり、同時に説明する必要のないことでもあると考えていて、「謝る」という行為は、「私は自分が悪いことをした結果、あなたに迷惑がかかったことを残念に思っている」ということを相手に伝えることだと考えているようです。
つまり、一般に(「一般に」というのは研究者が使う俗語で、「傾向としては言えるが、無視できない例外がある」といった意味のようです)、「謝る」=「謝罪」とは言えないんですよ。すなわち、「謝罪」というのは、こうもりさんがいう「償い」を含んでいると考えられるからです。
加害者が、「自分は加害者ではあるけれど、それは被害者に被害を受ける当然の理由があるのだ。だから、そういう状況が発生したら、被害を受けるのは当然なのだ」と思っている場合、「謝る」ことはあっても決して「謝罪」はなされません。で、また同じことが繰返されます。そうすると、被害者の側は「ちゃんと『謝罪』」しろと要求するのですが、加害者は「悪いことをした」と「謝る」だけで、それに対して被害者側は「『謝罪』に誠意がない!」と腹をたてることになります。
この状況を、逆に利用して加害者を責め続ける被害者もいます。
中国(=中国共産党が支配する中国政府の中の主流派である対日強硬派)や韓国(=韓国政府の中の主流派である対日強硬派)がしつこく日本に「謝罪」を求めるのは、「日本は『謝って』いるけれど、ちゃんと『謝罪』していない」という解釈を日本に押しつけているのだと思います。つまり、「過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと」を前提としない「過去のおこなった加害について、被害を受けた本人に直接償う」行為(中国が「本人」であるかどうかには大きな疑問がありますが)は、「口先だけの謝罪」と同じく「本質的な『謝罪』」ではないのだから、「謝罪」と解釈しなくていい、と考えているのでしょう。そんなわけで、中国や韓国は、何度でも「過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと」を保証することを要求し、相変わらず「謝罪」を求めることができるということです。
「償い」っていうのは、具体的にはどのようなものなんでしょうか?
被害者が、「私の受けた苦痛はこんなもので購(あがな)えるものではない」と言ったら、「過去に対する償い」は不可能になります。子供を殺された親に対しては、いかなる「過去に対する償い」もできません。
「未来に対する償い」も同様です。「過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと」といっても、その「反省」を具体的に示すことはできませんし、「二度と繰返さないこと」を保証することもできません。だとすれば、二度と繰返さないように、殺すしかありません。さらに「反省」を求めるとすれば、自分のやったことを後悔するように、できうるかぎりの苦痛を与える、といったことにならざるを得ません。
アメリカは異民族に対して開かれているがゆえに、「他者」を信じることができます。日本は異民族に対して長らく閉じていたがために、「他者」を「同胞」の延長と見ます。ですが、「異民族はしょせん異民族でしかない」と考え、「他者はしょせん他者でしかない」と思い、「最後に信じられるのは血族だけ」あるいは「最後に信じられるのは自分だけ」といったところまで後退しちゃう人々もいるのですね。そういう人々に対して、はたして「謝罪」は可能なのでしょうか?
障害者ならずとも、「私の苦しみは私にしかわからない」という断絶と絶望を抱えている人は多いと思います。そういう「恨」に対して、「償い」や「謝罪」はありうるのでしょうか。
「加害者と被害者の相互不信の構造」から抜け出さないと、真の「償い」「謝罪」はありえないのですね。ですから、「償い」「謝罪」は、加害者と被害者がどこかれ理解しあうところから出発したければなりません。それを拒絶したまま、「償い」「謝罪」を行なうこと、あるいは要求することはできません。
被害者として加害者を理解することは、それほど難しくないように思います。それは相手を赦すこととはまた別問題ですから。むしろ問題はその逆です。
あたしは被害者ヅラした連中、弱者ヅラした連中に対して、あえて加害者あるいは強者として対峙することに決めました。
寄生虫に身体を食い荒らされて死ぬのはごめんです。
(Maria)
昨日所沢市の図書館で読んだ、「Can I help? 援助する側とされる側の間で」という本の中に、次のような1節がありました。
助けることは、秤にかけ熟考したすえに起こるものではありません。
助けることは、そのもともとの自然発生的な表現を阻む障壁が崩れ落ちることから起こるのです。
日頃「思いやりがない・・・」と非難されてばかりの私には、本当に目からうろこが落ちるような言葉でした。
「同じようなことで生きる自信をなくしているアスペ人たちにも伝えてあげたい」と思いましたので、掲示板に記しました。
こうもり さんwrote:
> こうもりです。今日ようやくわたしの医学的な診断が正式に下されました。
>
>「視覚的認知に困難を持つAS」
>
おめでとう(?)ございます。
納得のいくもので,ありましたでしょうか・・・・それなら,本当によかったですけれど。
いろいろありながら,何とかここまで,たどり着けたのは,やっぱり,こうもりさんの努力のたまもの。その,バイタリティは,生まれつきのものかもね。よい,資質をおもちでした。
まだ,100歳までの(!)4分の1.(ちなみに,タレイヌ100歳までの2分の1)お互い,楽しみながら・・・(?)がんばりましょうね。
では、また。
(タレイヌ)
こうもりです。今日ようやくわたしの医学的な診断が正式に下されました。
「視覚的認知に困難を持つAS」
思えば、わたしが発達障害と初遭遇したのは3才児検診で小児自閉症の疑
いをかけられた時でした。なんか、話が振り出しに戻ってきたような…
ともあれ、名実ともに自閉人となれたことを素直に喜びたいと思います。
また、同朋に恥じぬ自閉人となれるよう、今後も精進を重ねてまいりたいと
思います。では
不肖こうもり wrote:
>>こうもりさんは、ここまで考えて悩んで、自分を責めたわけですから、贖
>>罪はすんでいると思います。次はこの経験を何かに生かせればいいんじゃな
>>いですか?
>
> 哲学者のレヴィナスは言いました。「償いは過去に与えた被害を元の状態に
>復することができる場合のみ、成立する」と。殺人とかのように元の状態に復
>することのできない(死者は蘇ってこない)罪ならともかく、相手が生きてい
>る状態ならば、かろうじて償いは成り立つと思います。もっとも、わたしが小
>学生の時に加害した子たちはみな学級内でのいじめを苦に地方に転校してしま
>い、消息さえ分からない状態です。本人に直接償うことができないのが心残り
>です。
ちょっと追加です。わたしは償いには2種類があると思います。
(1)過去に対する償い
過去のおこなった加害について、被害を受けた本人に直接償うこと
(2)未来に対する償い
過去の過ちを反省し、二度と繰り返さないこと
今は、(1)の償いができない状態と言ったところです。
皆さんこんばんわ。
このたびハンドルネームを「ミッドランド」から「鷲羽丸(わしうまる)」に変更します。
「ミッドランド」は元々わしが安易につけたHNであること、他のあらゆるサイトでもチラホラと見られる名前だったこと、が理由です。
新HN「鷲羽丸」の由来は、
1・自分のことを「わし」と呼んでいることへの引っ掛け
2・郷土・岡山出身の名力士、鷲羽山(現・出羽海親方)にちなんで
3・かつてあった宇高連絡船の名前
と、3つの要素が絡み合っています。
新しい名前、よろしくお願いします。 鷲羽丸
やんちゃん wrote:
自己レスです。
なんかずれたこと書いてますね。書きたいことにはすぐコメント付けたくなるので。すみません。
最初の話題に沿って言うと、つまり「ドラマの登場人物に感情移入?して、自分も同じ感情になってしまう。」ということですね?
私は特にそういうのはないです。
ドラマ自体あまり普段みないのですが、たまに見ても、直接自分に関わる感じにはならないです。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami