アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
みどりさん wrote:
>これってなんで私の投稿が引用されたの? (因果関係が見つからないので、
>何を読み間違えてるのか気になる)
「反論」ではなく「単なるコメント」であるというのを最初にひとこと断っておいたほうが分りやすかったと、いま思いました。
みどりさんの
みどりさん wrote:
>それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれません
>ね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさ
>んの「説明問題」は解決するかもしれません。
>……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。
>ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返し
>になりかねないか。むむ。
>まあ、探してみる価値はあるかも。
が、
>よく問題になるのは、明らかに保護就労が必要と判断さ
>れる成人ASが、子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、
>就労の段階になって「僕のは個性なのになんで保護が必要なんだ」と反発して
>しまう場合だ。本人が「自分はASだ」という自己認識を持っている場合は説
>明しやすいけど、そうでない場合はややこしい。「あなたの特徴は行政的には
>障害だけど、個人的には個性なのよ」という説明が通じるかどうか…
『Re: 障害についての沈黙の是非』(No.8688、11 Nov 2001 by 蝙蝠(狂人型 ))
を受けたものである以上、『子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられ』た、『保護就労が必要と判断される成人AS』に対し、『就労の段階になって』行なわれる説明に対しての発言だというのはあたしも承知しています。その意味で確かにあたしの引用は「誤読」の誹(そし)りは免れ得ないと思います。
これに対して、障害者に対する「障害は個性だ」という教育そのものに対して、および健常者との関わりにおいてなされる「個性」という表現そのものに対して、あたしは論じているわけです。あるいは、「障害は個性だ」という教育によって生じた歪みが、就労という局面において一気に露呈しているのではないか、というコメントとして受取っていただいてもよろしいのではないかと思います。
だから、「障害」を「障碍」(あるいは「障礙」)という表記に戻しても、「障がい」と書いても、「ハンディキャップト」と呼んでも、あるいは適当な言葉を見つけたり作り出したりしても、それはあんまり本質的な解決にならないんじゃないかなぁ、とあたしは思うのね。それは「言葉」の問題じゃなくて、「障害」というものといかに向き合うか、という理解のしかた・捉えかた・生き方の選びかたの問題だから。
そういえば、「チャレンジド」というのも一時期ありましたね。日本語訳だと「試みられた人々」っていうの。あれも「乗り越えなきゃいけない」とかいった押しつけがましさを感じます。
そういえば「北海道 挑戦する大地」とかいったキャッチフレーズがあったけど、もとから住んでるアイヌの人たちにとってはすっげー失礼な表現だと思うぞ。上越の関山地方(南魚沼群、と言ったらわかってもらえるかな? 「コシヒカリの里」として知られる豪雪地帯です)で、ある人が「東京者には雪国に住んでる人間の苦労は分からんじゃろ」とか言ったら、年長者に「わしらが住む前から雪は降っとるべー」とたしなめられていました。わざわざ他所から来て文句言うんなら出てけ、と東京生まれの東京育ちとしては思います。東京なんか外から来た人間のほうが多いのに言われ放題言われてるし。東京は日本のパレスチナという気がしないでもないぞ。他所から来て喧嘩するんなら出てけー、とか思っちゃいます。
まあ、あたしが言う「障害は適性である」というスローガンの危険性というのは重々承知しているのね。『群書類集』を編纂した塙保己一という偉大な例外もいます。だからといって誰でもが塙保己一やヘレン・ケラーになれるわけじゃありません。宮城道雄や高橋竹山(初代)やレイ・チャールズやスティービー・ワンダーや長谷川きよしがミュージシャンとして成功しているという意味での「適性」であり、それは「才能」と不可分なものです。「一つしか取り柄がない」というのは、迷いがないだけ楽じゃないかなぁ、と思います。日本初のフィールズ賞受賞者は、『ボクは数学しかできなかった』を自伝のタイトルにしています。「器用貧乏」「なんでも来いに名人なし」「けらの十徳」という言葉もあります。
障害者に「なった」人が「障害者としてのアイデンティティ」を獲得する過程において「障害は個性である」というのは有効かもしれません。だけど、あたしという『成人してから、ずっと持ち続けていた違和感を「自閉症」という概念ですっきりと理解した人間』にとっては、「障害は個性である」というのは自明のことなのね。で、そこに至る齟齬による苦痛というのが、「障害は個性である」とかいった言葉で解消できるとはとても思えないわけ。
そんなわけで、「障害は個性である」というスローガンは、先天的障害者にとっては、けっこうデメリットが大きいんじゃないかなー、とあたしは思います。
(Maria)
8704のコメントを削除して再レスするよ。
みどりさん wrote:
>蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>>子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、
>
>これは、暗に「あなたのは障害ではなく個性だ」という意味でしょうから、「
>障害はよくないもの、あなたは違う」と教えてきてしまっているわけで、そう
>やって育ってきたのにいきなり「障害です」と言われたら嫌がるのは無理もな
>いでしょう。
>この教え方にはすでに「障害と個性は排他的なもの」とか「障害はないほうが
>いいもの」という考えがベースにあるわけです。
この辺りは障害の受容という問題も絡んできそうだね。僕は障害者が自分の
プラス面だけを見てマイナス面から目をそらしてしまうような形で自己受容し
てしまうことには疑問を感じる。理想を言えば、プラス面もマイナス面も含め
てあるがままに自己肯定するという形が望ましいと思う。
けっきょく、「障害ではなく個性だ」という2項対立的な教え方をしてしま
うと、障害者本人が客観的な自己評価ができなくなってしまう。これは見方に
よっては気の毒な事だ。今の時点では「障害でもあり個性でもある」という思
考に切り換えていく必要がありそうだね。
発達障害児を健常化させる技術は次第に進歩していっている。でも、発達障
害者本人が自分の障害をどのように受けとめていけばいいのかという点につい
てはもう少し検討しなければ。
これってなんで私の投稿が引用されたの? (因果関係が見つからないので、何を読み間違えてるのかきになる)
こんばんわ、武田さん。蝙蝠のなかでも僕がレスするのははじめてだった
よね。
武田好史さん wrote:
>1.本人が苦であるとそれを「自覚」でき、周りも人もその苦しさを「理解」で
>きるもの
>
>2.本人は苦であると「自覚」しているが、周りの人はその苦しさに容易に「気
>づかない」もの
>
>3.本人には「苦である」という認識はないが、周りの人に「何らかの配慮が必
>要」という認識を与えてしまうもの
>
>>さて君は、現在のアスペルガー症候群児・者は、この中のどれに該当してい
>>ると思うかね?
年齢や発達状況によって3→1→2と変化していくものだと思う。例えば、
小学校低学年ぐらいまでのAS児を見た保護者や支援者たちは、「この子を
何とかしてやらなければ」と思うに違いない。この時期は本人が自覚的に行
動できないために自閉症の特徴が露骨に表れてしまうからね。でも、障害の
自覚がない分、本人はそれほど自分の障害を苦にしていないはずだ。これが
武田さんのいう3.の状態かな。
ところが、AS児たちもいじめに遭ったり、学業につまづいたりしている
うちに、次第に自分の障害にそれとなく気がついてくる。そしていわゆる二
次的障害と呼ばれる状態が発生する。そうなってくると、武田さんの言う「
自分も周りも苦しい」という状態、つまり1.の段階に突入するんだ。なか
にはこの状態から抜け出せなくなってしまうAS人も多いだろう。
で、その中でも社会とうまく折り合いをつけていくことができるAS人は
当然いるだろう。しかし、彼らの折り合いのつけ方は外国人が日本の文化を
模倣していくようなやり方であるため、完全に同化することはできにくい。
しかも、そのための努力は時として彼らを疲弊させることになる。しかも、
その努力は周囲の人には見えにくいため、武田さんのいう2.の状態が発生
してしまうことになるんだ。
だから、一口にAS人と言っても、抱えている問題には個人差があるんじ
ゃないかと思うよ。
pennpenn58 wrote:
> 私は今鬱病と言うことで精神科にかかっています。最近になって自分はナルコレプシーではないかという新たな疑問が生じてきて医師にそのことを言いました。「あのう、わたし、ナレコプシーではないかと思うのですが・・・・」「ナルコレプシー」医師は私の顔を見つめて言い直しました。「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「・・・ナレコプシー・・・」最後に医師は「ナルコレプシー」と紙に書いてくれました。そして私はやっとナルコレプシーということばを会得したのです。
>
私は「原因」を「げいいん」と読むと思い込んでしまっています。
あと「ケア」という言葉が「ケヤ」というふうに聞こえてしまいます。
武田好史 wrote:
>蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>> 僕は蝙蝠(狂人型)。こうもりくんが自分の障害について妙な所に引っかか
>>っているので、僕がかわりにコメントすることになったんだ。
>>
>> こうもりくんの悩みというのはこうだ。こうもりくんが障害者としての自分
>>の立場を説明しようとすると、次のような2つの反応が返ってくることがある
>>そうなんだ。
僕は「障害」という言葉には、次のようなガテゴリーがあると思う。
1.本人が苦であるとそれを「自覚」でき、周りも人もその苦しさを「理解」できるもの
2.本人は苦であると「自覚」しているが、周りの人はその苦しさに容易に「気づかない」もの
3.本人には「苦である」という認識はないが、周りの人に「何らかの配慮が必要」という認識を与えてしまうもの
>さて君は、現在のアスペルガー症候群児・者は、この中のどれに該当していると思うかね?
みなさんこんばんは。
昨日から今日にかけて、父と母と妹夫婦の5人で、軽井沢・嬬恋村へ行ってきました。
昨日の午後は、悪天候で山々はガスに覆われて、よく見えずホテルの夕食のバイキングで中華料理を4皿などをむさぼり、NHKの聖徳太子のドラマを見たりして寝ました。
今朝はそれがうそのように晴れ、山頂が雪に覆われて、水蒸気の白煙を盛んに上げている迫力ある浅間山を望むことができました。これが生まれてはじめて私が見た、生の活火山の姿でした。本当に感激して、何枚分ものカメラのシャッターを押しました。
あと碓氷峠のあたりの紅葉も、山一面色づいた状態で最高でした。
みどりさん wrote:
>それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれません
>ね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさ
>んの「説明問題」は解決するかもしれません。
>……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。
>ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返し
>になりかねないか。むむ。
>まあ、探してみる価値はあるかも。
Mr.Moto wrote:
> 「障害は個性だ」というフレーズは、いかにも嘘臭い。むしろ「障害は適性
>だ」と言ったほうが実感に合ってんじゃないのか?
『Re: お母さんの一言』(No.7212、5 Sep 2001)
「個性」というのは哲学でいう「単子」という概念にしっかり結びついています。集団の中の一個人を指したときの「個人」ではなく、「自分自身にとって、根源所与的な存在としての<私>」、つまり、あらゆるものの基本となる、本人にとってかけがえのない<私>を規定するものが「個性」です。ですから、本人が「障害は“私の”個性だ」と宣言すること、つまり、「世間が私の『障害』とみなしているものは、私にとって“私自身”の存在を規定する、“私自身”と不即不離のものであるという意味で、私の『個性』である」と宣言することは、べつにおかしいことではありません。あたしにとって、自閉症傾向のないあたしというのは、ほとんど想像不能であると同時に、そんなあたしは今のあたしにとってあたしではありません。それを「治療」されるとしたら、それは『カッコーの巣の上を』に出てくるロボトミー手術みたいなもので、いっそ誰かに殺してもらいたいと思うようなものだったりします。
そんなわけで、「アイデンティティの一部としての障害」というものを受容した人間が「障害は個性だ」というスローガンを掲げることは、かつてアメリカ・インディアンが“Dead better than Red!”(共産化より死んだほうがまし)という反共スローガンをもじって“Red better than Dead!”(殺されたとしてもインディアンであるほうがまし=インディアンとしてのアイデンティティを失って生きるより、インディアンとして死ぬことを選んだほうがまし)というスローガンを唱えたのと同じような意味を持ちます。
そんなわけで、「『障害は個性だ』という言葉を健常者の口から聞きたくない」という気分はあるのね。
「私たちには(そして、誰にでも)、できることと、できないことがある」という意味で、「障害は適性である」というのなら、単なる一般論です。「片手で錐は揉まれない」ですから。
ただ、「自らの障害をアイデンティティの一部として取込むこと」を、「逃げ」や「甘え」だとして排除する人々がいます。「障害は個性だ」というスローガンも、そういう人たちの主張に対するアンチテーゼという意味がありそうに思います。「個性なんだから、曲げることはできない」という主張として。ただ、そういう態度に対して、「障害と正面から向かい合い、それを克服する努力」を放棄しようとしている、と非難したがる『いわゆる「健常者」』が、とても多いということは、ひとつの事実として認めてもらえると思います。
Mr.Moto wrote:
---
わしらは根底のところで『いわゆる「健常者」』とは感性がズレている。それを「治そう」とする親(というか、教師や医師などを含む保護的立場の人間)と、『しょせん親なんつーのは「自分をなるべく曲げず世間にもそれほど迷惑をかけず、なるべく適当なポジションを見つけて世間と折合う」ことの手伝いしかできん』と悟った親がいる(中略)。
とはいえ、人間っつーのは誰だって自分の思う通りには生きられないのだ。どこかで挫折しながら他のどこかで自己実現し、それで世の中と折合ってゆくしかないのである。その意味ではわしらはわしら以外の人間と変わりはない。
ただし、わしらの場合は「ASとして世の中と折合ってゆく」という方策を、親が認めない、ということはある。性同一障害の息子にあえて男として生きることを要求する親がいるように、だ。で、この「要求」は、この日本という国においてはほとんどの場合に「強制」として働くのである。
親としては「非・AS」として生きることを当然と思い(当然じゃないのだが)、その結果として「立派な社会人」になることを期待し(期待されても困るのだが)、さらには幸せになれると信じているのだろうけれど(必ずしもそうならないことはうちのJoshya氏を始めとして多くの人によって証明されているのだが)、かといってその結果についてはまったく責任は取れないのである。
「ダメだったらどうすんだよ」みたいな理屈は通じない。『「非・AS」として生きなければ必ず不幸になるのだから、「非・AS」として生きる以外に選択肢はない』と思っているとすれば、「非・AS」として生きた結果がダメだったら、それは「本人のがんばりが足りなかった」とか「運が悪かった」とか、「本人に才能がなかった」とか、そういった原因に帰せられてしまうのである。
---
「障害を個性として生きる」という生き方を不快に思い、迷惑だと感じ、我侭であると考え、障害者を敵視して社会から排除しようとする『いわゆる「健常者」』、つまり、そういう感性が「健常者」全般の感性であり、それ以外の態度(つまりは障害者の社会進出を歓迎する態度)というのは見せ掛けであり偽善でしかないのだと主張する人がいます。バリアフリーだとかユニバーサルデザインだとかは単なるごまかしかおためごかしでしかなく、「障害者にとって使いやすいものは健常者にとっても使いやすい」というのは嘘だと主張し、バリアフリーやユニバーサルデザインの製品を「醜い」と非難する人が、実際にいます。
障害者であり政治評論家である櫻田淳さんは、「私は養護学校で、世間というものは障害者にとって温かいものではなく、生きるという行為は悪意との戦いであるということを学んだ」と言っています。あたしも残念ながら、この意見に注釈つきで半分以上賛成です。「悪意との戦い」ではなく、「『ある種の善意』と『善意を装った悪意』と若干の『わかりやすい悪意』との戦い」であり、「わかりやすい悪意」というのはむしろ敵として怖るるに足りない、と思っていますが。
まあ、障害者を嫌悪する気持はわかんないでもないんですがね。障害者にとって茶道だとか作法・礼法なんていうものはいかなる位置にあるものであるか、みたいなことを考えると、あたしたちの存在自体が「美しい日本の文化の破壊者」みたいに思えてくる人だっていそうに思います。正座ができない人や、長時間じっと坐っていることにはなはだしい苦痛を感じる人だって、世の中にはおるわけだから(もっとも「健常者」にとっても事情は似たり寄ったりなんですけどね)。だけど、茶道だとか作法・礼法だとかいったものの「本質」というものを考えると、問題の本質はそういう点にはない。けれど、「伝統」「型」「様式」といったものにすがる以外に自我の支えを持たない『いわゆる「健常者」』、つまり「障害者」に対する「健常者」という優越意識にしかアイデンティティを見出せない人々というのは、その防壁である「障害者」と「健常者」の境界を侵そうとする者は敵でしかないわけです。
独裁者が国境を閉ざし、自由主義世界の「穢れた文化」が入ってこないようにするのと、理由は同じ。
健常者のすべてがそうした観念(あるいは妄想)に取り憑かれているとはあたしも思ってはいません。だけど、自分が「まとも」であり「ちゃんとしている」ことに執着し、「まったく××連中はなっとらん」とかいって、いつでも怒っているような人というのはいるものです。あたしは「近頃の若い連中」だって総じて好きだし総じて認めてますけどね。あくまで「総じて」ですが。
「被害者ヅラ」「弱者ヅラ」の件のときと同じことを繰返すことになっちゃいますが、「健常者の代表ヅラ」をした『いわゆる「健常者」』を、「健常者の一部」ではなく「本来の『健常者』とは別の存在」として扱うことが、用語やスローガンの問題に先行しそうに思います。
だけど、そういう連中を「人格障害者」とかいって差別しちゃったりしたら……うーむ。これはこれで、深い。
今回は黒Maria……かな?
(Maria)
Maria wrote:
>I wrote:
>
> ただし、あたしは「神に選ばれた存在」としての「キリスト」を信じない(ナザレのイエスが尊敬に値する人物であり、そういう人物が歴史の上に現われたことが「奇跡的」であるというんを認めるのに吝(やぶさ)かではありませんが)という意味で「クリスチャン」ではありませんし、人格神としてのヤハウェの存在を主張する気はまったくありません。
わたしは、神ヤハウェを信じます.キリストは神の子供であり、天に於いてみ使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたということを信じています。
蝙蝠(狂人型 ) wrote:
>子供の頃から「あなたのは個性なのよ」と教えてこられて、
これは、暗に「あなたのは障害ではなく個性だ」という意味でしょうから、「障害はよくないもの、あなたは違う」と教えてきてしまっているわけで、そうやって育ってきたのにいきなり「障害です」と言われたら嫌がるのは無理もないでしょう。
この教え方にはすでに「障害と個性は排他的なもの」とか「障害はないほうがいいもの」という考えがベースにあるわけです。
実際に障害を持っている、もしくは持っている可能性がある子供に対して、そういう「障害イメージ」を作っちゃうのは、それだけでも問題だと思うなあ。
それはさておき、障害という言葉の持つイメージが強すぎるのかもしれませんね。なにか一つ適当な言葉を見つける、もしくは作り出すだけでもこうもりさんの「説明問題」は解決するかもしれません。
……と思ったけど、でも「個性」も、その解決策の一つだったんだろうな。ってことは、よっぽどうまい言葉を持ってこないと、結局同じことの繰り返しになりかねないか。むむ。
まあ、探してみる価値はあるかも。
さらに別方面から。
保護と言えば、日本では専業主婦 (正確に言えばちょっと違うけど) も社会的保護を受けています。別に働く能力がないわけでも仕事が見つからないわけでもなんでもなくても、税や年金において優遇措置が受けられます。
(年金の優遇措置についてはこちら: http://www82.tcup.com/8243/c3.html )
つまり、保護にはあんまり合理的な理由はいらないのです。政治的な理由でもなんでも、成立しちゃえばいいのです。だから、「個性を基準にした保護」があったっていいんじゃない、という考え方もありかもしれません。
( ´∀`)さん wrote:
> ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
> ( ´∀`)< オマエモナー
> ( ) \_____
> | | |
> (__)_)
↑某掲示板のマスコット
__________
へ_へ /
( ~w~)< こっちも負けないにゃ〜
( ) \__________
| ||
(__)_)
↑僕が考えたキャラクター
こうもりさん wrote:
> 久々にこうもりに戻りました。
>
> 自分のコメントを他人の視点で読んでみると、意外な発見があるので
>ちょっと面白いです。
ぅふふ、ちょっとだけ、分かる気がします。
頑張ってくださいね、静かに学習しています。
(タレイヌ)
Lingkoさん,みどりさん,慎言居士さんのレスをまとめておく…
(障害と個性の関係について)
(1)Lingkoさん→障害と個性は排他的な概念ではない
(2)みどりさん→行政的な障害の評価と個人の自己評価は別物
こうもりは基本的にご両人の意見に同意した模様である…。後は、慎言
居士さんがレスしたように、具体的にそれをどう説明していくかという問
題である…。その際に説明の対象となるグループは
(1)医学的評価,自己評価が共に健常者である人
(2)医学的評価は障害者であるが、障害を認めたがらない人
ということになる…。いずれの場合も、軽度発達障害に関する予備知識を
持たない可能性があるという前提で話を進めなければならない…。
こうもりはこの点について考え込んでいる様子である…。
私は今鬱病と言うことで精神科にかかっています。最近になって自分はナルコレプシーではないかという新たな疑問が生じてきて医師にそのことを言いました。「あのう、わたし、ナレコプシーではないかと思うのですが・・・・」「ナルコレプシー」医師は私の顔を見つめて言い直しました。「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「ナレコプシー?」「ナルコレプシー」「・・・ナレコプシー・・・」最後に医師は「ナルコレプシー」と紙に書いてくれました。そして私はやっとナルコレプシーということばを会得したのです。
そして改めて自分が聴覚認知障害の可能性のあることを理解しました。Toxさんと同じように私もレジで正しく金額を聞き取れた試しがありません。
口頭での議論は自分が正しいと思っていても最初から負けることにしています。相手の言うことを理解するのが難しいのです。
このごろ、学生時代の友人と会う機会がありました。でも時間が長くなるにつれ、どうして私は数少ない友人と話すのにこんなに苦痛を感じるのだろうと思っていました。
自分に障害があることはうれしいことではないけれど障害があったのだと自分への理解が深まることはうれしいことです。
p.s名加野君へ
掲示板が治ったことの連絡ありがとう。私はパソコンの操作にまだ慣れていなくて名加野君の言うとおりにできなくてゴメンね。
久々にこうもりに戻りました。
タレイヌさん wrote:
>こうもりさんは、合計6人格!?
>>(1)蝙蝠(悪魔型)→悪を主題としたテーマを扱う
>>(2)蝙蝠(狂人型)→狂気や正常と異常を主題としたテーマを扱う
>>(3)蝙蝠(混乱型)→こうもりが精神的に不安定になった時に出現
>>(4)蝙蝠(激怒型)→頭に来るコメントを見た時に登場する
>>(5)蝙蝠(内省型)→こうもりの発言を自己点検する時に登場する
ひとまず、わたしがシビリアンコントロールしていますので、ご心配
なく。蝙蝠のうちの狂人型は元々自分を励ますためのキャラクター(く
ると)が原型なのでそれほど怖くはありません。混乱型も不安定な人格
ですけど、基本的には人畜無害です。内省型も自己点検のためのキャラ
クターなので他人に危害を加えることはあまりないでしょう。
残る悪魔型と激怒型ですけど、悪魔型は元々扱いにくいテーマを扱う
ために発生したので、見る人によってはちょっと怖いかもしれません。
ただし、悪魔型はわたしに病識(障害の自覚)が発現した頃の心情を反
映しているので、全くわたしと無関係な存在ではありません。
激怒型は基本的に他人に対する中傷コメントを見た時だけに出現する
予定で、私的な目的で出現することはまずありません。
自分のコメントを他人の視点で読んでみると、意外な発見があるので
ちょっと面白いです。
Maria さんwrote:
> 「尽天地は一軸の経巻」。世界から、自然から、学ぶことは多いと思います(ルソーみたいですが)。イエスもまた、そうした自然主義者、自然哲学者だったとあたしは思っています。
アア、そう考えると、わかります。
ところで、もう、お疲れはとれました?
タレイヌも「神」について、考えた事がありました。
やはり、Mariaさん的地球物理方面(っていう言い方があれば?ですが)からの詰めより方で・・・・。
そいでもって、でも自分で、実際に目で見れない範囲のことになったら、Syakuさんがお書きになっている「限られた意識」の範囲で、暮らして来ています。
「自分が、好き!」って、思う事が、意識には上ったことは、ほとんど無いに等しいです。「この人が、好き!」っていうのは、結構あるけど。自分の嫌いなところって、結構自分で知ってるし、やばいよなぁ・・って、よく思ってるから。だから、子供(に限らず他者)に対しては、いいなあ、とか、すごいなあ、とか、結構思うかも?タレイヌには絶対出来ないことやれている人たちって、世の中にはもうもう、たくさんいる気がしてる。
(「あんた馬鹿じゃない?」とよくいわれてたタレイヌ)
蝙蝠さん wrote:
はじめまして、だよね?
ちっと、こわい。
こうもりさんは、合計6人格!?
>(1)蝙蝠(悪魔型)→悪を主題としたテーマを扱う
>(2)蝙蝠(狂人型)→狂気や正常と異常を主題としたテーマを扱う
>(3)蝙蝠(混乱型)→こうもりが精神的に不安定になった時に出現
>(4)蝙蝠(激怒型)→頭に来るコメントを見た時に登場する
>(5)蝙蝠(内省型)→こうもりの発言を自己点検する時に登場する
気持ちは、わかるけど・・・もうお一方、確か、4人格は、お持ちで・・・これで、意味ないけど合計10人だっ!!
タレイヌ、読みこなすのに、大変そうだ。が、がんばりまっす。
「障害認定」境界の辺とは、無縁で来てしまっていたので、よくわかりません。年齢的にも、偏り度合いも、引っかかれる領域でなかったことが、大きな理由ですが、単純に、金銭的にやはり、大変です。(ま、子育てというのには、お金はかかるものなんですけど、これは、障害の有る無しの問題を抜きにしてもですけど、当然)区分としては、医療費と言う事になるかもね…つまるところ(ごめん、親の愚痴書いちゃった、ついついこうもりさんには、甘えてしまう・・・)
こうもりさんに学ばせて、いただきます。
(タレイヌ)
おはよう。慎言居士さん。蝙蝠ヴァージョンでお会いするのははじめて
だったっけ。
Makichan改め『慎言居士』 wrote:
>すこし意味が解かり辛いのですが、『他の軽度発達障害者(らしき人)が自ら
>を障害者と認めたがらない気持ちを尊重して、彼に何も言わないでおいた方が
>いいのか、あるいは正直に彼に障害者(らしき人)であることを告げ、支援を
>仰ぐことを勧めたほうがいいのか迷っている』というような意味でしょうか?
これには2つの問題が含まれているんだ。1つは、医学的な意味での非障害
者にどう説明するかという問題で、もう1つは保護や支援を必要としている障
害者にどう説明するかという問題。
で、慎言居士さんのコメントは後者に対するものだと理解しているよ。こう
もりくんはいちおう下っ端ボランティアをやっているし、比較的表現力が高め
な自閉人ということで、そういう問題に関わっていくことも希にはあるかもし
れない。
>そういう意味でしたら、障害者という言葉をなるだけ使わないで、「勉強す
>る上で、なにか困難感じるようなら、支援する団体があるけど参加してみた
>ら?オレも居たんだよ。」ぐらいに軽くやんわりと勧めるというのはどうで
>すか?
こうもりくんは支援団体に所属したことはなかったんだ。第1、ASが正式な
診断基準に採用されたのは1992年、こうもりくんが18才の時だった。また
、診断基準に採用されたからと言って、すぐに支援態勢が整う訳ではないしね。
大人になってから教育学的LDであり、ASである事が明らかになったこうもり
くんには支援は間に合わなかった。全く関係のない医療機関には出入りしていた
ことがあったけど。
でも、こうもりくんが「教育学的LD」や「AS」の立場からそのように発言
することには、それなりに意味はあると思う。いちおう、適応状態の良好な軽度
発達障害者ということになっているから、障害者として支援を受けることへの抵
抗感を減らせるかもしれないね。
>このレス自体がいらぬお節介かしらん。
いやいや、こうもりくんはすごく助かっていると思うよ。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami