アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
名加野さん wrote:
> 「ココア」の場合もおかしいみたいです。「ココワ」と発言してるみたい
>ですし……本当は最初の「コ」を強調。でも僕は2番目の「コ」を強調……。
>
> まあ、逐一注意されるんですが、相手はきっと我慢できないのでしょうね。
>僕も単語間違ってる時に訂正したくなるので文句言える立場じゃないですが……。
以前は「彼氏」の「カ」にアクセントを置いたものですが、最近は「レ」に置く人も多いようです。
「富」「中」はどっちも第一音(「トミ」の「ト」、「ナカ」の「ナ」)にアクセントがありますが、「富田」さんは「ト」にアクセント、「中田」さんは「カ」にアクセント。「浜」「山」はどっちも第二音の「マ」にアクセントがあって、「浜田」さんは「ハ」にアクセントで「山田」さんは「マ」にアクセント。
で、「山田氏」は中・高・高・中と発音するのが普通のようですが、それだと「山田一族」みたいな意味になっちゃいそうだ、というので中・高・高・高と発音する人もいます。ですが、それだと「山田師」みたいに聞こえる、という人もいます。
「彼氏」も、「(その場で指示された)特定の男性」「(その人にとっての)特定の男性」「特定の関係にある男性」といったそれぞれの意味によってアクセントが変わってきそうにも思います。
宝石の“opal”は日本語では「オパール」となってパにアクセントですが、英語だとオにアクセントがあって「オゥパル」。
外国同士でも、「技術者」はドイツ語で「インゲニアー」で「ニ」にアクセント。ロシア語だと「インジェニェール」で「イ」にアクセント。
羊毛の“wool”は日本語だと「ウール」ですが、英語だと「ワゥル」みたいな発音ですが、きっちりワ行の音で、しかも伸びません。
“bed”・“bag”・“dog”など、語末の濁音は澄むことがしばしばあります。だから、「ベット」「バック」「ドック」になってしまいます。「ブルドックソース」は、ブルドッグの絵が描いてあるのに「ブルドック」と澄みます。
“simulation”(「シミュレーション」。原語に忠実っぽく発音すると「シミュレイシュン」)を「シュミレーション」、「アボカド(“avocado”)」を「アボガド」と覚えている人も多いようです。
「間髪を入れず」は、「間、髪を入れず」だし、「失楽園」は「失・楽園」だから、大半の人はアクセントが変、ということになります。「失楽園」は「楽園追放」という言い方もあります。
こうした例を挙げた上で、「で、どっちが正しいの?」と訊いてみるのも面白いと思います。「本当ね? 本当にそれで正しいのね?」と詰め寄られると、大抵の人は「……たぶん。」とかいって腰が退けてしまいます。
(Maria)
みどりさん wrote:
>ときどき自分で自分のことがうるさくてたまらなくなるんだよねえ。少しは黙らんかいっって。
>誰かと話してるときも、自分一人で考えてるときも。
こんにちは〜。
↑上記の言葉に反応しちゃったので、コメントさせてもらいます。
同じだ〜!
って、それがどうしたと言われれば、「単に、わたしがうれしかっただけ」のことなんですけどね。迷惑かしら?
それともうひとつ、「人は自分の信じたいことだけを信じる」とカキコしてたのは確かみどりさんでしたよね? これもすごく同感(この言葉でいいのかな?わからん)できたので、伝えておこうと思いました。
自称グレーゾーン(自称AS傾向+ADD傾向って書くと長いし、面倒くさいのでこう書きます)のあさかぜは、最近「な〜んだ、あたしって充分すぎるほどASじゃん。けけけ」とひとりごちて、ほくそえんでいます。
どうやら「自信」(?)が上昇中らしいです。みどりさんは、カキコを拝見するかぎりは下降中か、あるいは疲れがたまっていらっしゃるのかな?って感じたので、「たっぷり休んでくださいね」とひとこと言葉をかけたかったのです。
よけいなお世話?
十年近く疲れをためたあげく、一年以上休息することでやっと(!)元気が出てきたあさかぜの老婆心でした。笑っていいですよ〜。(でも怒らないでくれると、うれしいかも……)
タレイヌ wrote:
>シンタロウ さんwrote
>
>>
>>
>> へ_へ
>> ( ・w・) <にゃ〜
>> 〜(___)
>>
>お久で〜〜っす。
>ずいぶん、腕を、あげたねっ!!
>
> (タレイヌ)
へ_へ
( ^w^) ニコニコ
〜(___)
パックンさん wrote:
>パックンです。
>私は、この子はASだと思うんですけど。
>そこで、質問です。
>皆さんは、彼のことどう思いますか?
>皆さんなら、彼になんと言ってあげますか?
>皆さんの素直なご意見・ご感想をお待ちしています。
パックンさん、見ましたよ!しゃべり場。
二人の息子も見ていたのでそれぞれの感想を書いちゃいますね。
長男17歳(AS)
この人は、これだけ人が居る中でよくこんなに自分の気持ちを
しゃべれるよね。俺は一対一でもうまく言えそうにない……。
二男15歳
この人は、自分の気持ちをしっかりと表現出来ているし、自分の意見を
持っている。他の人達より人間をよく観察している人だね。
まー、確かに宮川くんはASに近い部分を持っているAタイプなんだろうけど
あれだけの遣り取りが(テンポの速い会話)が出来るだけでもすごい。ちゃんと
相手の目を見て話しが出来ていたしね。自分の生き辛さを表現出来るのも
言語能力が高いってことだろうし、表現したくても出来ない人も居るから……。
番組最後に、屋上で皆で唄っていた時の笑顔は良かったよ。少し、すっきりした
んじゃないかな? 宮川君は納得のいく助言を得られなかったかもしれませんが
きっと、人それぞれ感じ方は違うってことに気付いたでしょう。誰かの言葉に
傷つき、悩みながら少しづつ自分を知って大人になっていくのでしょうね。
レスが遅くなってしまって、UPしようか、しないでおこうか、と迷いつつ…。
pennpenn58さん、こんにちは。
> けれど私は教会にも行かないし聖書も今は読みません。ただ自分一人の信仰をたった1人で信じています。
僕も、自分で勝手に「自分だけの神」(言い方が変だな)を作り上げてしまっています。人は全て、無意識の内に作り上げてる(というか、元から持っている。)気がします。「人は、一人一人、心に必ず神が住んでいる。」という、母の受け売りではありますが……。
(ここから独り言……というか、愚痴)
宗教勧誘(悪徳商法みたいな感じなので、厳密には宗教ではないが)で、一時期参りました。押し付けは勘弁して欲しい。どこだったか忘れたけど、ただの知り合い(クラスメイト)だっただけなのだから、頼むから中学のクラスの連絡網とかを使うのは止めて欲しいと思いました。
後、勧めに来ておいて、否定しただけで、切れないで欲しい。親を出したからって切れないで欲しい。
なーにが「真実を見せるから、駅まで来い!」だ……。
武田好史さん、こんにちは。
>私は「原因」を「げいいん」と読むと思い込んでしまっています。
>あと「ケア」という言葉が「ケヤ」というふうに聞こえてしまいます。
僕の場合イントネーションがおかしいらしく、相手が「なまってるように聞こえる」&「違う単語に聞こえる」らしいですね。
「ガスト」の場合、「ガ」を強調するのが正しいらしいですが、僕の場合「ガストー」と横に棒読みになるようです。
「ココア」の場合もおかしいみたいです。「ココワ」と発言してるみたいですし……本当は最初の「コ」を強調。でも僕は2番目の「コ」を強調……。
まあ、逐一注意されるんですが、相手はきっと我慢できないのでしょうね。僕も単語間違ってる時に訂正したくなるので文句言える立場じゃないですが……。
武田好史さん wrote:
>私は理性というものは、この災難を防止するためにあるものであり、神とか
>信仰というものは、その表現形態の一つなのだと思います。
あたしは、「理性の全体性の喪失」というものが、問題の本質にあるような気がします。
>「いま、ある大脳生理学者が学生に<心というものは、脳の中での電気信号の
>流れの総体にすぎない>と説いたとする。その中に彼を憎んでいるやつがいて、
><じゃー教授をぶっ殺して、その流れを止めれば、単位を落とした俺は救われ
>る>と思っているかもしれない。学者が殺害されれば、彼は自分の思想によっ
>て滅びたことになる。
『銀行の預金残高というのは、オンライン・システムの中の電子データにすぎない。したがって、「富」というのは「データ」である。したがって、銀行のオンライン・システムをハックして自分の銀行講座の預金額を増やすことは、富の蓄積である。』と考える人はいそうに思います。ですが、こうした思考過程からは、「金銭」「富」「豊かさ」といったものに対する考え方・捉え方といった根源的な部分がずっぽりと抜け落ちています。
科学というものは、部分によって論じられるものではありません。論理的整合性・無矛盾性・実証性・現実性、そして方法論や「真理への憧れ」といった哲学や「研究者」という文化も含めて、全体が「科学」なんです。
「一本のパイプを切断する」というのは、その行為だけを取りあげて「器物損壊」であるとは言えません。それが人間の頸動脈や稼働中の原子炉の一次冷却水のパイプなのか、それとも学校で花壇の水撒きに使っているゴムホースが長すぎると思ったので勝手に短くしちゃったら端のほうまで届かなくなっちゃったのかでは、その意味するところがまったく違います。だからこそアルフレッド・ノーベルはダイナマイトが軍事用に転用されたことに対し、そしてアルバート・アインシュタインは自分たちの研究が広島・長崎の原爆投下につながったことに対し、嘆き、そして苦しんだわけです。
「科学のひとり歩き」に、科学者は無関心ではいられません。それは、科学の本質たる「全体性」の喪失であり、「科学は人類に奉仕するものである」という、科学の基本テーゼからの離反だからです。
ぜんぜん関係ありませんが、角川映画で『金田一耕助の冒険』という映画があります。その中の最後のほうで、金田一耕助が「事件というのはね、ひとり歩きするんですよ」と述べる場面があります。
暴力は、力です。暴力はひとり歩きします。それは、力というものが背負った業です。
科学もまた力の一種であるがゆえにひとり歩きします。妖刀・村正ではありませんが、力はそれを手にしたものをしばしば狂わせます。いわゆる「不祥事」なんていうのはその際たるものです。
信仰は、「力」と不即不離のような気がします。無力なものに力を与え、力のひとり歩きを防ぐものとして、信仰は機能しているように思います。
(Maria)
シンタロウ さんwrote
>
>
> へ_へ
> ( ・w・) <にゃ〜
> 〜(___)
>
お久で〜〜っす。
ずいぶん、腕を、あげたねっ!!
(タレイヌ)
武田好史さんwrote:
> 昨日の午後は、悪天候で山々はガスに覆われて、よく見えず
> 今朝はそれがうそのように晴れ、山頂が雪に覆われて、水蒸気の白煙を盛んに上げている迫力ある浅間山を望むことができました。
> あと碓氷峠のあたりの紅葉も、山一面色づいた状態で最高でした。
前日が雨で、翌日が晴れという場合、大体は快晴になりますね。
軽井沢という事ですから、車でしょうか・・・?
山の天気って、変わりやすい。でも、おもしろいこともたくさんあるの。
横から見ると、山の、右と左でまるで、天気が違うのです。(アア、富士山なんか見ると良く分かりますよね。)これが、実際歩くとなると、結構、狐につままれたみたいな気持ちになるんですよ。
大菩薩に、塩山の側から登ったら、霧雨で、寒くって、冷たくって…なのに、頂上を一足越えたら、空は晴れて、秋晴れ・・かえでの紅葉が陽にすけて、きれいだった。
いくら、話で聞かされたり、写真や映像で見せられても、感動って、できないものなんですよね・・・実際に寒い思いをして歩いたり、風が谷を渡る音を聞きながら見た、もみじの紅さは、そこへ体を運んだ人だけに与えられる恩恵ですもの。
火山の迫力は、きっと、凄かったんでしょうね。自然エネルギーって、伝染しますよーー!
(タレイヌ)
へ_へ
( ^w^)
( ) ____へ_へ
| | | C____( ~w) <にゃ〜
(__)__) U U U U
____
C____U ^ェU <きゃんきゃん
U U U U
へ_へ
( ・w・) <にゃ〜
〜(___)
ヽ( ~w~)ノ ランランラ〜ン♪
( へ)
く
pennpenn58 さんこんにちは。
> p.s名加野君へ
> 掲示板が治ったことの連絡ありがとう。私はパソコンの操作にまだ慣れていなくて名加野君の言うとおりにできなくてゴメンね。
いえいえ、僕のつたない説明で、色々混乱された事と思います。ゆっくり覚えていって下さい。
ちなみに、僕はよく、コンピュータの所の「パソコン何でも相談室」に出没しております。何かわからない事があったら、遠慮なくお聞きください。
もし居なくても、その部屋の方に聞けば解決の糸口は見えると思います。ただ、「自分で調べろ」とか言う人もたまに居ますが、お気になさらずに。
また、チャットにいなくても、「rairurairu」というハンドル(多分友達に追加されたと思うので、大丈夫でしょうけど……)に送ってくれれば、答えます。
shaku
人間って、止めたほうがいいことをいつまでも繰り返してしまうんですよね。これは多分自分だけで悟らないで、人類の集合的無意識に浸透するまで自分を掘ろうという衝動なのだろうね。だけどもうそろそろイエスの犠牲は目的に達して、犠牲死の要求が収まらなければ。
> 犠牲を求めない、多様性尊重の仏道が世界を救うのだ。
私もsykuさんの見解に同意します。私はいつも神のことを考えています。なぜ神は私に試練を与えたもうのか。いつもいつも私の心の中には神が存在しています。
けれど私は教会にも行かないし聖書も今は読みません。ただ自分一人の信仰をたった1人で信じています。
自分というものを深く見つめざるをえなかった人は結局神という存在に行き着くのではないでしょうか。
里辺華 さんwrote:
>わたしは、神ヤハウェを信じます.キリストは神の子供であり、天に於いてみ使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたということを信じています。
里辺華さんって、ユダヤ人なの? 私は、人格神としてのヤハウェはユダヤ人を偏狭にするように思えるんだけど。異教徒殲滅とか、”正常な”ユダヤ人を結集して集団として強くする力がヤハウェなんじゃないの?集団の利のために、個を犠牲にする原理の権化みたいな気がする。
『ふたりで聖書を』(明窓出版)は救いを求める現代人の、神秘の次元を感じられない渇望を表現していて新解釈の宗教書ですが、なぜなのかラブロマンスって。遠慮してるんだろうな、里辺華 さんみたいな人に。
私がナザレのイエスを信じるのは、犠牲思想を否定するために、犠牲になったという見方から。民族の、集団のために犠牲を必要とするという旧約の世界から、犠牲は終わりにして愛で世界を救おうよってメッセージをイエスは磔刑であらわした。愛は、エゴの強さを示す為の異物排除の犠牲として死にはしないと。愛の摂理面を示したロゴス。
ところが、イエスの後のキリスト教は旧約と切れずに、十字軍だのと異教徒狩りにふけってしまう。人間って、止めたほうがいいことをいつまでも繰り返してしまうんですよね。これは多分自分だけで悟らないで、人類の集合的無意識に浸透するまで自分を掘ろうという衝動なのだろうね。だけどもうそろそろイエスの犠牲は目的に達して、犠牲死の要求が収まらなければ。
犠牲を求めない、多様性尊重の仏道が世界を救うのだ。
pennpenn58さん wrote:
> そして改めて自分が聴覚認知障害の可能性のあることを理解しました。Toxさんと同じように私もレジで正しく金額を聞き取れた試しがありません。
「聴覚認知障害」という言葉はあまり聞いたことがないのですが、
私も似たような問題を抱えています。感音難聴とASで、「聞こえない」と「聞き取れない」との問題が混ざってしまっているようです。
本題ですが、最近、2日続けてテレビを見るときにヘッドフォンを使いました。
映画と、健康番組でしたが、映画は話の筋がよくわかり、細かいジョークに笑うこともでき、健康番組は、視覚と聴覚の両方から話が頭にするする入ってくることに感激しました。
音量を家族が嫌がるぐらい上げなくても、ヘッドフォンだと半分ぐらいの音でちゃんと聞こえるんです。
今までテレビを見ていても、自分の内部に注意が飛んだりしていたのは、飽きっぽいからだけではなく、音声をちゃんとまとめて頭に入れられなかったからだ、と思いました。ヘッドホンがその役割を代替してくれてるんでしょうね。
日常生活はヘッドフォンがないので(泣)、あまり改善しないですが、テレビやビデオを楽しめるのは、ずいぶんうれしいです。
最近信仰とか科学ということが、話題なっているので、ちょっとこんなことをお話します。
童話作家で・思想家でもあったドイツのミヒャエル・エンデは、科学が万能ではないことを問題提起するために次のようなことを語っています。
「今ある大脳生理学者が学生に<心というものは、脳の中での電気信号の流れの総和にすぎない>と説いたとする。その中に彼を憎んでいるやつがいて、<じゃー教授をぶっ殺して、その流れを止めれば、単位を落とした俺は救われる>と思っているかもしれない。学者が殺害されれば、彼は自分の思想によって滅びたことになる。このように科学というものは、解釈や使われ方によっては人類に危害を及ぼすものになりかねない。」
私は理性というものは、この災難を防止するためにあるものであり、神とか信仰というものは、その表現形態の一つなのだと思います。
里辺華さん wrote:
>わたしは、神ヤハウェを信じます。キリストは神の子供であり、天に於いて
>み使いだったが、ヨセフ、マリアという夫婦のもとに人間として生まれ、
>奇跡と宣教を行った後で、全人類の罪の為に犠牲として死なれたという
>ことを信じています。
あたしは里辺華さんの信仰を疑う気持は毛頭ございません。そんなわけで、『アスペルガーの館の掲示板』で、里辺華さんが信仰告白をなさる理由がよくわかんなかったりします。
うちにはイエス先生本人であるJoshyaさんはいるわ(同時に十大佛弟子の一人で「智恵第一」と云われたシャーリプットラさん本人でもあります)、ベタニアのマリア本人であるあたしはいるわで、相当わけわかんないことになっているのですが、べつにあたしはそれを誰かに信じてもらうことを要求することもなければ、それを前提とした対応を他者に迫ることもありません。「妄想」と片付けていただいて結構です。
日本人にとって『古事記』や『日本書紀』は神話(あるいは民話とか説話とか伝説とか)と歴史がごっちゃになったようなもので、民話的解釈と歴史的解釈の境界がどこにあるかがつねに問題になるようないいかげんな代物です。
これに対して、キリスト教徒にとって聖書は信仰の基盤であり、「死後三日目にイエス・キリストは蘇られた」というのはあくまで「事実」です(だって『使徒信条』にそう書いてあるし)。だけど、「死んだ人間が生き返る」と主張する人間は、現代社会において、たぶんいかさま師か狂人とみなされます。まして神様が人間と相撲を取ったとかいった話を信じろと言われたら(『創世記』、三十二章二十五節から三十二節)、ちょっとおつきあいを遠慮してほしいと思っちゃいます。
原理主義者は、「私はそう主張するつもりもないし、それを他者に要求することもありません。だけど、私はそう信じているし、その結果において一般の倫理観を(大きく)逸脱した行動をとって(総じて)健全な社会に対して(はなはだしく)迷惑をかけることはありません」といった態度を「不信仰」に分類するでしょう。彼らにとって、「教理に基づいて社会を改革する」のが「教徒としての義務」なんですから。ですが、あたしは「健全な社会において説得力を持たない理由に基づいて行動しない」という、「消極的不信仰」を「信仰」の側に分類します。で、現代宗教における「信仰」というものは、そういうものだと思っています。この境界線を踏み出してしまったら、それは「狂信」になると思っています。
まあ、このあたりの境界というのはあまり厳密なものではありません。タイの仏教寺院で日本人観光客がついつい拍手(かしわで)を打ちお賽銭を上げてしまったりとか(だって、そうしたくなる雰囲気なんだもん)、クリスチャン人口が人口比で1%ほどしかいないと云われる日本が聖バレンタインの日やクリスマスに浮かれたりとか、そういうのを狂信と呼ぶかどうかには議論の余地があります。だけど、「赦しがたい不信仰」であり「死に値する罪」とかではないと思うので、あんまり迷惑でなければよろしいんじゃないでしょうか、と思います。あたしは「隣のモスクから夜明け前に聞こえてくるコーランの詠唱がうるさい」とか思っても、そのうちに慣れちゃうくらいの音量だったら「宗教だからしょうがない」と思って我慢します。剣とコーランを持って不信仰税(ジズヤ)を取り立てに来たら警察呼びますが。
『創世記』あるいは『ヨハネによる福音書』によれば、神はロゴス(摂理/論理/真理)だそうです。イエスはロゴスであるがゆえにキリストなわけです。
あたしはロゴスに従います。だから、「ロゴスである神」は信じるけれども、お兄さんの祝福を騙しとっちゃうような奴(ヤコブ)を贔屓する神様なんていうのは信じません。あるいは、「あたしにとって事実」であっても、一般の人々にとって事実として受入れがたいことを、事実として主張することは、ロゴスに反すると考えています。「あたしはそう信じている」と表明することは吝(やぶさ)かではありませんが。
信仰というのは、幽霊みたいなものだと思っています。「私は見た」というのは事実であっても、客観性は持ちえません。そして本来説得力を持ち得ないものです。論理的説得は疑似科学に堕してしまいますし、功利的な説得というのは「信仰」という本来の目的から外れています。感情的説得はロゴスに反します。
そんなわけで、あたしは信仰に関して「あたしは信じている」という態度は表明しますけれど、あたし以外の誰かがそれを信じることの根拠を示すことはできません。宗教は本来、「信じたいがゆえに信じる」以上のものではないと思います。デカルトのように神の存在を示そうとも思わないし、御利益や罰を理由に勧誘もしないし、情に訴えることもしません。ただ、あたしはロゴスそのものである「天」というものを、研究者としての実感から、自明なものとして受入れています。で、あたしが一流と目する研究者の方々と、「絶対あるよねー」「ねー」と実感を確認しあっています。
オイラーの公式やマクスウェルの波動方程式に神を見るひとだっています。あたしはそれを宣べ伝えるだけで十分だと思っています。コペルニクスもガリレオもケプラーも、あるいはメンデルも聖職者でした。彼らは信仰の破壊者ではなく、ロゴスの伝道者として評価されるべき人たちだと思っています。
(Maria)
最近僕は、ピアノを弾くと必ずこの曲を弾いている
世の中に向き合おうとしても、どうしても向き合えない自分に腹が立つからだ
決して「繭子」のような可愛い恋人が欲しいというわけではない
だから嵐のように、この曲を弾いている
新しい自分の扉を開けていく力が自分に戻ってくると信じて
いつの日か全てのアスペ人たちに、安らぎが訪れることを願って
蝙蝠(内省型) wrote:
> こんばんわ、武田さん。蝙蝠のなかでも僕がレスするのははじめてだった
>よね。
>
>武田好史さん wrote:
>
> 年齢や発達状況によって3→1→2と変化していくものだと思う。例えば、
>小学校低学年ぐらいまでのAS児を見た保護者や支援者たちは、「この子を
>何とかしてやらなければ」と思うに違いない。この時期は本人が自覚的に行
>動できないために自閉症の特徴が露骨に表れてしまうからね。でも、障害の
>自覚がない分、本人はそれほど自分の障害を苦にしていないはずだ。これが
>武田さんのいう3.の状態かな。
> ところが、AS児たちもいじめに遭ったり、学業につまづいたりしている
>うちに、次第に自分の障害にそれとなく気がついてくる。そしていわゆる二
>次的障害と呼ばれる状態が発生する。そうなってくると、武田さんの言う「
>自分も周りも苦しい」という状態、つまり1.の段階に突入するんだ。なか
>にはこの状態から抜け出せなくなってしまうAS人も多いだろう。
> で、その中でも社会とうまく折り合いをつけていくことができるAS人は
>当然いるだろう。しかし、彼らの折り合いのつけ方は外国人が日本の文化を
>模倣していくようなやり方であるため、完全に同化することはできにくい。
>しかも、そのための努力は時として彼らを疲弊させることになる。しかも、
>その努力は周囲の人には見えにくいため、武田さんのいう2.の状態が発生
>してしまうことになるんだ。
> だから、一口にAS人と言っても、抱えている問題には個人差があるんじ
>ゃないかと思うよ。
そのとおり。ASの真の問題点を知っているのは、ほかならぬ我々自身である。だから我々は沈黙をしていてはいけない。かつ偽善的や独善的にもなってはいけない。
それを踏まえたうえで、軽度発達障害児・者のケアに我々の意見が反映されていくように、適度に働きかけていかなくてはならないと思う。
>みどりさん wrote:
>>これってなんで私の投稿が引用されたの? (因果関係が見つからないので、
>>何を読み間違えてるのか気になる)
Maria wrote:
>…あたしの引用は「誤読」の誹(そし)りは免れ得ないと思います。
私が書いた「読み間違えてる」の動作主体はみどりでした。まぎらわしくてごめんなさい。(あーややこし)
で、本題に戻る。
私が「探してみる価値はある」と言ったのは、置き換える言葉ではなく、説明のための言葉です。置き換えちゃったらだめ。「障害じゃなくて個性」みたいな、二者択一のイメージを作ってもダメ。
最初から表裏ありそうな、多面性がありそうなイメージの言葉がいいですね。用法としては、「私は〜〜の障害をもっていて、これは私にとっては○○みたいなものだ」って感じかな。(もちろん最後の部分は選んだ言葉によって変わります)
もうひとつ。
「障害は個性である」という言葉は、障害という言葉にこびりついたマイナスイメージをひきはがして、障害を別の視点から考えさせるのが主な働きだと認識しています。
もちろん当人の自己イメージの問題に作用することもあるでしょうけど、それだけではなく、周囲の、障害者を忌み嫌う人や、そこまでいかなくても特別視せずにいられない人、障害のある子供が生まれて罪悪感にかられている両親なんかに役に立つのかもしれません。
ただ、他人から一方的に言われたら、「人の苦労も知らずに」になりかねないけど。方向性があるなあ。どうしてかなあ。
自分のことを言えば、個性というよりは欠陥と捉えていたので、個性だと思えたらいいだろうなと思いつつ、あまりそうは思えていない。
ときどき自分で自分のことがうるさくてたまらなくなるんだよねえ。少しは黙らんかいっって。
誰かと話してるときも、自分一人で考えてるときも。
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