アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
グルンサさん wrote:
> 私も、かつて外回りをしていたときに、大宮公園や熊谷市内で(だったかな?)
>桜を見かけたり、秋になると黄金色の稲穂を見たり(これはまた、別の所で)、
>他の所では小さな町工場といったところで家主(?)と思われるおじさんが仕事を
>していたり、畳職人さんが畳を作っていた風景を見て、心がほっとしたことを思い
>出しました。(人も緑も、暖かさを感じさせてくれるものって好きです。)
あたしも熊谷市内で麦の花が咲いているのを見て感激したことがあります。麦秋というのもよかったです。うどんもおいしゅうございました。ほくほく。
熊谷には虹鱒の養殖場があって、そこでは汲み上げた地下水を使って虹鱒の養殖をしており、その「廃水」が一年中摂氏十四度〜十六度くらいの小さな川を作っています。で、そこがムサシトミヨというトゲウオの一種の日本唯一の自然生息地として知られていました。魚は見えなかったけどいいところだぞ。
大森は堤灯屋さん・経師屋さん・建具屋さん・畳屋さんといったご商売のうちがいっぱいあっていいところです。
武田好史さん wrote:
> 畑が全く無くってビルばかりで、食料自給率パーセンテージ一ケタ台の国だっ
>たら、みなさんは暮らしやすいと思いますか?
グルンサさん wrote:
> 断じてNO!私は、コンクリート・ジャングルが大の苦手です。食料を外国に
>頼ってばかりというのにも、どう考えても限界(というより破綻)がある(来る)
>と思うし……。
香港島やシルクロードの一部や原子力空母の中なんていうのはそれに近いものがありますが、人というのはそれなりに生きてゆくものだなぁ、と思っています。
JR大森駅前には「白鳥パッキング」というゴム製パッキングや金型を製造している会社があるのですが、ここのビルは別の意味で「コンクリート・ジャングル」です。つまり、「世界の七不思議」のひとつ「空中庭園」じゃないけど、ビルそのものが森であり畑になっているんですね。
北海道やカリフォルニアあたりの広々とした大地というのが好きな人は、東京の見通しの悪さ、ごちゃごちゃした町並なんかにはちょっと絶えきれないものがあると思います。だけど、ニューギニアや南米のジャングルみたいなところに住んでいるひとの気持がちょっと分かっちゃうようなあたしは、赤ずきんのお婆さんじゃないけど、「山深いところ」「森の奥深く」みたいなところが好きだったりします。
そういう意味では、あたしは都市の「界隈」の雰囲気がとても好きです。「そうよ銀座はあたしのジャングル 虎や狼怖くはないのよ」(『東京カンカン娘』)じゃないけど、下町のごちゃごちゃしたところが好き。
で、東京のひとは、昔のお屋敷町だったころの伝統が生きているのか、緑を大切にします。あっちこっちに緑があるのでとてもうれしゅうございます。落ち葉だとか毛虫だとか鳥のフンだとかを毛嫌いする人がたまにいるので困るのだけど、都市の中にはまだまだ自然は増やせると思うんですよ。だから公園もヘンな遊具なんて取っぱらっちゃって、自然公園にしてほしいと思います。土蜘蛛つかまえたりどんぐりやぎんなんを拾ったりだんごむしを捜したりありを観察したりアゲハを育てたり、そういうのが遊びだと思うんだけどな。砂場や滑り台やぶらんこやジャングルジムが面白いかぁ?と思っちゃうんですけどね。
人間が都市にごちゃごちゃ集中して住んでいるから、この狭い日本列島にも自然林がいっぱい残っていたりするわけです。
そんなわけで、あたしは潜在自然(もともとそこにあったはずの自然、あるいは人間の手が入らなかった場合、本来そこにあるべき自然)に即した都市緑化や水耕栽培なんかを利用した都市農業、「江戸川の金魚」のような都市における養殖漁業みたいなものに、ちょっと興味があったりします。
ポリバケツ一個あればお米は作れるしトンボも来ますし、プランター一個のスペースがあれば鳥や蝶も呼べます。
都会も捨てたもんじゃないですよ。
(Maria)
シンタロウ wrote:
>
> 今日、ネットでいろいろ検索したら、興味深い文章を見つけました。そこには差別のことがいろいろと書いてありました。
>
> そしてもっとも印象深かった言葉が『差別を受けている人々の中には逆に健常者差別が生まれてきていることも事実です。強い人は健常者社会を敵視し、弱い人絶望する。
わたしは、以前、LDという言葉を不用意に何回もしゃべってしまったら、本当にLDの障害を持っている人から、ものすごい恨みを買ったことがあります。こちらとしては、勿論、悪気はなかったのですが、LDの為に辛い思いをしてきたその人にとっては、私の発言は無神経極まりないことだったのでしょう。私だって、AS傾向で、普通じゃないのだから、障害者を表現する言葉使いや、そのことの話には充分な思いやりを示して気をつけなくてはと、この時のことは随分と反省しました。シンタロウさんのカキコで、つい、思い出してしまった昔のことです。
Mariaさん、かおりさん、こんにちは。ぶちです。
私も「医師の指示に従う」に1票。
Mariaさん wrote:
> 問題は、本人や医師にとって「改善された」と感じられたとしても、それが単に本人の感覚や医学的データでしかなく、直接的に示せないことにあります。
> 医学的には、心臓の周囲に溜っていた水が抜け、肝臓の肥大も正常に戻りました。
レントゲンとかデータをお母様に見せて説明してもらっても、理解は得られないのでしょうか?
入院していれば筋力が弱ってよたよたするのは、運動を禁じられている患者さんみんなそうなんじゃないでしょうか?(入院経験者は語る)
Mariaさんwrote:
>> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が
>>死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分
>>な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
かおりさんがおっしゃる通り、病院食は完全に栄養士によって管理されています。足りないように見えてもちゃんと必要な物はあるはずなんですけど・・・(特に今は管理栄養士の資格がないと、病院の食事にはたずさわれない場合が多いそうですから、それなりにしっかりした物のはずなんですけどね)。たしかに心臓のための水分管理とかすごいらしいですから、見ていてお母様が辛く思う気持ちは分かりますが・・・
これはもうお母様の感情的な問題なんでしょうね・・・
Mariaさんwrote:
>>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違って
>>いたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
かおりさんwrote:
>>これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作
>>を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないので
>>すか?
Mariaさんが言うのは、「お母様は妹さんがやせていった時に食べろと勧めた事」が、心臓病の食事制限を見ていると「違ったんじゃないか?」って思うって事でしょうか(ボケボケなんで理解悪くってすいません)。
かおりさんの言う通りだと私も思います。
Mariaさんwrote:
> それと同じように、「自分の家族ががりがりに痩せ細っている」という現実の前には、理性は無力だったりします。
やっぱり感情的な問題なんでしょうね。Mariaさんのお母様がどういうタイプの人なのか分からないんですが、人には理性と気持ちのようなものがあって、感情の強い人は理屈を話してもダメです。理性的でも、それを超える感情の波が押し寄せている時は、やっぱり「頭で理解する」だけでは難しいようです。やっぱり気持ちをなだめる方法をなにか取らないと駄目みたいです。
かおりさん Wrote:
>>因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を
>>認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ない
>>のですか?
かおりさんの言う通り、本当はお母様がMさんの意見を尊重してくれれば、それにこした事はないんですが。
親から見ると、子供って予想以上にすごく重みのある存在なんですよ・・・私、前に書いたけれど、結婚するつもりもなければ、子供を持つなんて考えた事もなかった人間なんです。それに「感情派」のうちのパートナーの家族から見ると、「ぶちってロボットなんじゃないの?感情あるの?」って聞かれたくらいの人間なんですけど、それでも娘の事となると血迷うんです・・・(いやー、情けない)
だからMさんの妹さんが、同じようにやせ細って亡くなった過去があるとしたら、「この子も同じように死んじゃったらどうしよう!」って思う気持ちは分かります。「同じような状況で、また死なせてしまった」って思うでしょうね。別に自分が死なせたわけじゃなくても、「何か方法はあったはずだ。それをしなかった私がいけなかったんじゃないか?」って責めるんですよ。きっと「なんであの時食べさせなかったのか?あの子が死んだのは私のせいだ」って自分を責める気持ちがあるから、お母様はMさんの状態を見ると、冷静ではいられないんだと思います。
Mariaさん Wrote:
> ダメな親でも親は親、なんです。それは尊重しなければなりません。
でも事情を聞くと、決して「ダメな親」なんじゃないと思いますよ。心配なだけです。
> どうしたらいいんでしょうか。
これはあくまで私だったらですが・・・
1.Mさんが病院の治療に納得しているなら、医師の指示を守る事(これが一番)
2.できればお母様にも治療を理解してもらう。
2−1.できるだけデータを揃えて、「良くなった」事を強調する。担当医が若くて信用できないというのなら、もっと偉そう(馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど、案外「雰囲気にやられる」って事はある)な人に説明してもらう。
2−2.栄養士さんからもデータをもらって、食事も管理されている事を説明する。
2−3.その食事制限や入院がどのくらい続くのか分からないんですが、もし退院できるとか、食事制限が少しやわらいで行くものだったら、そのスケジュール(見込み)を提示して、「今はこうかもしれないけど、そのうちこうなる」って説明する。「今頑張れば今に家に帰れる」とか「食べられるようになる」とか「今だけだ」と、相手に希望を持たせて、気持ちを和らげ、同意しやすくする。
2−4.同じような病気の患者さんから、自分もこうやってる、これで良くなったと話してもらう。もし随分改善した退院した患者さんでもいてくれると、助かります。
2−5.お母様が意見をいれやすい人がいるのなら、その人に説明してもらう。
とにかくMさんのお母様は安心したいんですよ・・・だから気持ちを和らげてこらえるように、Mさんのお母様が受け入れやすい人を総動員して、話を聞いてもらったり、説明してもらったりするのが良いと思うんですが・・・
上手くいくかどうかは保証の限りではないですけど・・・それに誰でも考えつくあたりの事ですから、お役に立てなくてすいません。
うちも(Mさんのような大変な病気じゃないですけど)娘の周辺で同じような事がありました。その経験から「医師の指示は守るべし」がルールになってます。
(ぶち)
武田好史さん wrote:
>ルールとは・愛とは・大人とは・仕事とは・社会性とは・・・と悩みまくりながら過ぎ去っていく日々!もう、10年以上だ。
>
>がんばって生きよう!それでも!こんな僕でも、いつかどこかで幸せにめぐり合えると信じて。
人生の最後に笑って満足して死ねる...そんな人生になれるよう、1歩ずつでも近付けるようにがんばろうね。それでは、おやすみなさい。
武田好史さん wrote:
> 今朝私は散歩に出たのですが、これまで一度も通ったことのない道を通ったら、
>がけの下に農家があって、その前の畑でおじいさんとおばさんがなにやら掘り出している姿に、何かすごい安らぎを感じました。畑の傍らの赤紫の小菊の花も見事でした。
私も、かつて外回りをしていたときに、大宮公園や熊谷市内で(だったかな?)桜を見かけたり、秋になると黄金色の稲穂を見たり(これはまた、別の所で)、他の所では小さな町工場といったところで家主(?)と思われるおじさんが仕事をしていたり、畳職人さんが畳を作っていた風景を見て、心がほっとしたことを思い出しました。(人も緑も、暖かさを感じさせてくれるものって好きです。)
> 畑が全く無くってビルばかりで、食料自給率パーセンテージ一ケタ台の国だったら、みなさんは暮らしやすいと思いますか?
断じてNO!私は、コンクリート・ジャングルが大の苦手です。食料を外国に頼ってばかりというのにも、どう考えても限界(というより破綻)がある(来る)と思うし...。
この間のいろんなカキコを読んで。「お宮入り」では、Mariaさん、Toxさんからの詳しい内容におどろき!(「お宮」の一言にも意味は深かった!!) 認知障害について。前にこうもりさん(だったかな?)が、「視覚に認知的障害のあるAS」と医学的所属が決まった、と書いていましたが(確か、そうだったと思いますが、間違いだったらごめんなさい。)発達障害者というのは、一見してそうだとわからない人が多いもの。数日前、私と同い年くらいのお母さんが、読売新聞に「発達障害者だとわかるようなマークか何かないでしょうか?(この方も、1級の発達障害者のお子さんがいらっしゃるとか。)」というようなことを投稿されていましたが、よくわかる、と思いました。(この掲示板でも、誰か書いていた方、いませんでしたっけ?武田さんでしたか?)
話は変わりますが、適職について。この間の、武田さんや某院生さんたちのカキコを読みながら、また、自分の学歴、職歴を思いながら、「私の能力って何だろう?」と思います。大学については、前に書いた通りですが、世間に出されてこのかた、「大人の世界」というものに慣れたためしがない。前の職場では、幾分子供っぽいところがあっても見逃してくれた時もありました(場合にもよりましたが)が、今の職場がまるっきりそーはいかず、今になって初めてホントの「大人の世界」に放り込まれた(というよりほっぽられた?!)感じです。上司からは、「分別相応に動かなければいけない大人なんだから...」といった感じのことを言われた事がありましたが、どーしても根回し、女性だけに課される事等未だに慣れません。(こういう事を、世間では「いい大人になって云々...なんていうんでしょうけどね。)世間に出されて9年以上経ちますが、未だに自分がわからない。というよりますますわからなくなった感も...。 来年度の人事のことを考えているうちに、「私は何ができるのかなあ...」と思ったら、ついキーボードを叩いていました。(人事の希望の方を先にやらなくてはならないことは、わかっているのですが...。) 最後になってしまいましたが、Mariaさんへ。「ふたりで聖書を」届きましたよー!これから、展開を楽しみにしています。
truthさん wrote:
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>
>そんな時は、「うんうん・・・」と聞く努力をして、分かっているように頷いたりするのですが、全然分かっていない時があります。一対一だと比較的相手の話が分かるのですが・・・。後、概念的な話とか・・・物とかに対する話だったり、単純な話だと理解出来るのですが、全体を把握したりする話・・・現実的にどうするかという話だとほとんど全然分かりません。
>
>メールや文章だと理解でき、又、人間対人間でない方が理解しやすいです。
>
>無理して合わせるより、そういう時は、「分かりません」と言うべきでしょうか?又、「よく分からないので、ゆっくりもう一度言って下さい。」と言うべきでしょうか?
>
>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>
さっきの続きです。私も会議の時は、すごく頭を抱えます。最初のうちは話を飲み込めても、だんだん話が進んでくるとワケがわからなくなってきたり...。
答えになっているかわかりませんが、例えば会議でしたら、終了後誰か(上司でも同僚でも)をつかまえて、改めて聞いてみるのも1つの方法ではないでしょうか?(ただし、親切に教えてくれる人というのが必須ということはいうまでもありません。私は、しょっちゅう「的外れな事を言う」と上司に言われ続けて、例え話の内容がわからなくても、人前で聞くのが嫌になってしまったクチなので。)
truthさん wrote:
>他の人達は・・・必要な事だけを聞き分けて、必要じゃない情報は遮断しているのかもしれません・・・。でも、私には色々な音というか、声とかが聞こえてしまうため・・・肝心の仕事の方がうまくいかなくなってしまう事があります・・・。
はじめまして。実は私もです、これ。電話の会話1つとっても、電話以外の他人の声が耳に入って来たりして。耳をふさいだりして、必死(!)に対応はしてるのですが、それでも相手の言いたいことを掴み取れなかったりすることも...。
>
>変なこと書いていたらすみません・・・。失礼しました・・・。
全然変だと思いませんよ。前に、私自身、聴覚認知(障害)のことで「アドバイスを下さい!」と書いたら、同じような悩みを持っている人、アドバイスをくれた人、これについてのURLを見つけてくれた人...といろいろな人が出ました。(変な書き方ですが。)ここの住人の皆さんは、親切な方が多いようですから、たとえ小さなことと思っても、本気で悩んでいることがあれば相談してみるのも1つの方法ではないでしょうか?(かくいう私自身も、このホームページを知って、まだ1か月くらいです、実は。えらそーに書いてしまいましたが...。)
pennpenn58さん wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試
>みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったり
>している。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピン
>とこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理と
>いう段階に来ているような気がします。
わたしのコメントの主旨を少し説明しておきますね。わたしが「社会とは何
か」というスレッドで扱っていたのは主に社会という言葉の二義性の問題でし
た。つまり、社会という言葉は
(1)存在する対人交流の全てを含んでいる場合
(2)いわゆる社会人と呼ばれる集団に限定して使用される場合
という2つの意味が混同されているために、一言で社会と言ってもどのような
範囲を扱っているのがあいまいであるというのがそもそもの問題提起だったの
です。で、わたし自身は社会というのは(1)の意味で捉えていて、(2)の
意味に限定して捉えることについては批判的ですから、当然のことながら生産
群と非生産群という言葉も批判的に使用しているのです。
> 例外的なことが多すぎて人を外面的に分類して対立的にものを考えるのが
>難しいように思うのです。
自閉的境界人(AS)であるわたしも分類が難しいという点については同意
します。ただし、わたしは「分類する」という事と「対立的にものを考える」
という事は別の次元の問題だと考えています。わたしが分類を行なうのは多く
の場合問題を一時的に整理するためであり、「対立的な考え方をしている」か
らではありません。
この点について、pennpenn58さんとの意見の相違がどこにあるの
か、理解しかねています。わたしが分類をするのは全体を部分に分解しながら
理解していく方法(分類)が自分に1番合っていたからに過ぎません。
>
> 私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるという
>ことです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくて
>も幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思
>うし、不幸せな人もいる。
この点についても、「障害が持っているという事実から、障害者は不幸で
あるという価値判断を導き出すことはできない」「健常者であることが本人
の幸福を保証している訳ではない」という観点から同意します。
ただし、ここでも障害者と健常者を便宜的に分類することが、健常者と障
害者を対立構図で捉えているということにつながるのかどうかという疑問が
残ります。
夜と昼をよりよく理解するために両者を便宜的に区別したからと言って、
その人が夜と昼を対立的なものと考えているかどうかまでは判断できないと
思います。
ふれさん wrote:
>Mariaさんのカキコはとても難しいことがあります。理解するのに一苦労・・・。
>私のあたまが悪いだけかも。気にしないでください。
いえいえ、あたしの方も心苦しく思っています。
問題が抽象的すぎると実感が湧かず、具体的すぎると問題の構造が見えないという相反する要素があるものですから、あたしとしても苦慮していたりします。
あたしがいま考えているのは、「セルフケア」と「自己決定権」についてです。つまり、「『自分で自分のことができない人間(セルフケアが困難な人間)』は、自分のことを自分で決めることはできないのか?」です。つまり、「他人様のお世話になっている人間が、あれこれ煩いことを言うな」という形で、自分が受けているケアに対して疑問や不安、あるいは苦情があっても、それを訴えることが許されないことが多い、ということなんです。
たとえば、身体に麻痺がある人や、安静を求められている人が、車椅子を押してもらっている場合。
こういうとき、予告なし、予備動作なしに、いきなり急発進・急停止をする人がいます。車椅子というのは視点が低く、しかも見通しがきかないため、スピードが速く感じられて、とても怖い思いをします。それから、他の人とおしゃべりをしていたりいて、前方を注意しているかどうかが押されている人間にわからない場合もあります。これも怖い。曲がり角で、向こうから来た人とぶつかりそうになることもあります。なにしろ位置が低いですから、向こうも気づきにくいんですよ。で、普通の人なら人にぶつかられてもそうそうひどいことにはならないでしょうけど、点滴を受けながら車椅子に乗っている人間に誰かがぶつかった場合を考えると、とても恐ろしいです。
そんなわけで、急発進・急停止をしないとか、「出まーす」「止まりまーす」「右、曲がりまーす」とかいったように、車椅子がどう進むかをちゃんと教えてくれたりとか、曲がり角では大きく回って衝突事故を防ぐとか、前方に車椅子に気づいていなさそうな人がいたら、「車椅子、通りまぁす」と声をかけるとかいった心遣いというのをちゃんとしてくれるひとは、とても信頼できたりするわけです。
ですが、こういうことを車椅子を押している人に訴えても、「面倒をみてもらっているくせに、いちいちうるさいことを言うんじゃない!」という形の感情的反撥を喰ったりするんです。
こういったことが、インフォームド・コンセントとか、そういったものにつながってゆくんじゃないでしょうか。
こういう「ケアをする側とされる側の相互理解」というのは、ケアをする側にとってもいろいろとメリットがあるんですよ。
まず、ミスが減ります。ケアをする側とされる側の両方によってチェックが行なわれるわけですから。投薬なんかのときに、患者さんに名前を訊く、というのも、こうした相互チェックのひとつです。
それに、ケアに避けがたく伴う苦痛によって、ケアする側とされる側の人間関係が悪くなることが避けられます。
たとえば、動脈採血なんていうのは、とても痛いです。しかも、なかなかうまくいかないことも多い。ですから、する側も緊張しますし、そのあげく何度も失敗されると「いいかげんにしてくれ」と言いたくもなったりするわけです。
ですが、「あまり慣れていないので、うまくいかないかも知れませんが、許してください」とあらかじめ言われれば、「じゃあ、あたしも練習台になったつもりになりますから、思いっきりやってください」ぐらいのことは言っちゃうわけです。「ああっ、また失敗した」「大丈夫、落ちついてください」とかいいながら何度もチャレンジして、ついに真っ赤な動脈血が採取できたときなんか、「やったね(^_^)」とかいって二人してガッツポーズを決めてしまいたくなります。急いでガス濃度を計んなきゃいけないからあんまり感慨にもふけってられないんだけどさ。
こうしたコミュニケーションがうまくいくと、戦友意識みたいなものが生まれてきたりなんかもするわけですよ。特に難病なんかの場合は、医療側のスタッフと患者の間に、「同じ病気と戦っている仲間」という意識が芽生えてきます。こういう関係が医療の中で生まれれば、たとえ結果が思わしくなくても、「私たちはやるべきことはやった」という形で納得でき、「ご苦労さまでした」と素直に言えるようになるんです。
ですが、実際の医療や介護の現場では、「言いたいことが言いにくい雰囲気」というのが、重く重くのしかかっているわけです。
そのうえ、病人に対しては「自己管理もちゃんとできない迷惑な人」というイメージが一方的に貼付けられることが多い。その「病気」というものが外から見えない場合はなおさらです。「単なるわがまま」と見なされて、患者側の訴えを無視されたりとか、あるいはつらく当たられたりもします。
そんなわけで、ケアする側はケアされる側の発言を「わがまま」と決めつけずに是々非々に受けとめ、ケアされる側も忌憚のない意見を述べることが、必要だと思っています。
もっとも、ケアする側には「そんなこと言われたって、こっちは手一杯だし忙しいんだよ。いちいち文句を言うな」みたいな人が多いんですけどね。
(Maria)
るおうさん wrote:
>
>自分で生み出しました。そういう言葉遊びで、遊ぶのが好きです。
>でも後で気がついたのですが画家のルオーというのの響きとも最初のところが似ているから面白いと思っています。
この文章を見て。もしかしてるおうさん、アナグラムもお好きかな?
>遅くなってスミマセンでした。
いえいえ。こちらこそ、お返事ありがとうございました!
ひま人 wrote
>
>このような、「いろんな生き方や考え方があっていい」というたぐいの口吻を最近よく新聞などで見かけるのですが、これはある種無責任ではないでしょうか。
>それが、そうした意見が出てくる背景が、場合によっては当事者の責任ではないという慰安感をあたえる範囲内なら結構でしょうが・・・
ひま人さん、レス、ありがとう。私もひま人です。だからひま人さんのHNにはなんとなく親近感を覚えます。でもこのページであまりお名前を拝見しないのでほんとうはお忙しいのかな。
私は要領が悪く20代の頃は自分は一見普通に見えるけどほんとうは知恵遅れに違いないと思っていました。左耳が聞こえないので日常生活に不便は感じるけれど障害者手帳をもらうほどではないし、障害者と健常者に分けた場合自分は頭の悪い健常者なのだと信じていました。
中学生の頃からの私の夢は30才になるまで私は普通の人になりたいというものでした。普通の人になって誰にもわからない理由で自殺したいと思っていました。それほどこの社会は私にとってつらかった。ASであるということはむき出しの子供の心のままで生きるようなもの。つらかったのは当然だったと思います。
徒労に徒労を重ねるような人生を送り続けて鬱病になったのですが他の人には私は幸せに見えることがあるらしいのです。他の人には見える自分の幸せが私には見えない。自分の幸せに気がつくことができないのは不幸だと思います。
つらいことが多かったので今の私にはもう幸せを感じる心の機能が失われたような気がするのです。そのことが今一番つらい。だから私は逆境にあってめげない人を見ると尊敬してしまうしうらやましいなあと思うのです。
武田好史 wrote:
>ルールとは・愛とは・大人とは・仕事とは・社会性とは・・・と悩みまくりながら過ぎ去っていく日々!もう、10年以上だ。
>
>がんばって生きよう!それでも!こんな僕でも、いつかどこかで幸せにめぐり合えると信じて。
私もむかし、こんなふうに思っていました。でも、聖書を教えてくれる人に会い、すべての謎がとけたと思いました。神様が本当にいることも、本当にこの地上に楽園がくることも、しんじられたし、神の活動力である聖霊を受けてからは、鬱病も治りました。
今月の17日、私が住んでいる入間市の隣町の狭山市で、悲しい事件がありました。
知的障害のある女の子ののお母さんが、その子が「普通学級に入るのは、困難でしょう」と就学前検診で言われたことを苦にして、子供を道ずれに車に火を放って無理心中をはかり、その子とその妹の姉妹が焼死し、お母さんも全身に大やけどを負い、車の前で途方にくれていたところを発見されたというものです。
僕自身就学自前検診では、結構もめたほうと聞いているので、何かひとごとでないような気がしました。
このような事件の背景には、知的障害児の教育に対するインフォーム・コンセントつまり納得のいくような説明の不足があるのではと、私は思います。
養護学校というと、「子供の未来が閉ざされる」「馬鹿の烙印を子供に押してしまって自身をなくさせてしまう」と思う親御さんが多いかもしれませんが、断じてそんなことは無く、むしろ場合によっては、より良い人間関係を学べたり・特殊な才能が開花したり・将来社会で仕事をしていくために不可欠な能力が早い段階でつくというメリットもあるのです。
そこで全国の教育委員会のみなさんに、私は次のようなお願いをしたいです。
1.地元の障害児の教育の状況に対する詳細な実態調査を行い(一年に一度)、白書的なパンフレットを作成して、全ての就学期の子供がいる世帯に配布する。
2.就学時前検診で「普通学級には入るのは困難」という判定を子供が受けた親御さんに、養護学校や卒業生が通勤している事業所・福祉作業所を見学させる。
3.判定の回数はできれば2回にする。またその子が専門の医療機関で検査を受けている場合は、その結果も考慮するようにする。
Mariaさんのカキコはとても難しいことがあります。理解するのに一苦労・・・。
私のあたまが悪いだけかも。気にしないでください。
かおりさん wrote:
>最近Mariaさんしかお見掛けしませんが、大森研のみなさまはお元気ですか?
おおむね元気です。JoshyaさんとKILROYさんは、大森総研の独自サイトを立ち上げるためにいろいろ動いているので、ちょっとご無沙汰しております。Motoちゃんは出番がないのでここのところお休み。
I wrote:
> Mさんが、心臓の病気にかかりました。心臓の筋肉が腫れて、膨らんでしまう
>病気です。医学的には突発性拡張型心筋症、それも非常に特殊なもの、という診
>断を受けました。
(中略)
> Mさんはみるみるうちに痩せ、筋肉や骨格が浮き出し、鼻が高く飛びだし、目
>だけがぎょろぎょろと光り、同時に水分が減ったためにしわしわのカサカサになっ
>てしまいました。ですが、とりあえず危機的な状況は脱しました。
かおりさん wrote:
>ここでの質問は、Mさんが病院にかかった時、明らかに具合が悪かったからか、
>それとも何となく疲れやすくなって念のため病院に行ったらいきなり聞いた事も
>無い病名を言われ、入院の運びとなったか、です。
外見上は咳と痰、それに浮腫(むくみ)です。それほど悪そうにはみえません。自覚症状としてはだるさと胸部から腹部にかけての苦痛。お母さんは、「風邪が胃に来たのだろう」くらいに思っていたのですが、本人が心配になって受診した、ということです。
>危機的な状況を脱したというのは、Mさん本人が自覚するほどの改善だったの
>でしょうか?それとも、検査の結果上は良くなっただけのことで、体重が減っ
>たためと喉の渇きで本人は返って状態は悪くなったと思っているのでしょうか?
問題は、本人や医師にとって「改善された」と感じられたとしても、それが単に本人の感覚や医学的データでしかなく、直接的に示せないことにあります。
本人は、たしかに楽になりました。安静にしていたために筋肉がごっそり落ちちゃってちゃんと歩けなくなっちゃいましたけど、これはリハビリで戻ります。
医学的には、心臓の周囲に溜っていた水が抜け、肝臓の肥大も正常に戻りました。
だけど、外見はまるっきり幽霊のようで、逆に病気がひどくなったようにしか見えません。歩きかたも、よたよたしています。
> そういう経験を持つMさんのお母さんは、「このままでは娘(Mさん)が
>死んでしまう」とパニックを起こし、担当の医師に対して、Mさんに「十分
>な水と栄養」を与えるよう要求しました。(略)
>ここで言う十分な水と栄養という意味があいまいです。食べ物の中にも水分は
>含まれている訳で、別にお茶とかコーラとかわざわざ飲まなくてもカロリーメ
>イトの様な食事でないかぎりは病院食というのは必要な栄養と水分を栄養士さ
>んがわざわざ考えてメニューを作っているものと私は理解しています。(中略)
>少なくとも病院側は必要最小限の水分、栄養はMさんに摂ってもらっている筈
>です。じゃないと今度は腎臓やら肝臓やらに負担がかかりますから。
理性的に考えればその通りです。ただ、お母さんにとってはとても十分に栄養が足りているようには思えないような食事内容だった、ということです。
>また、Mさんや担当の医師を認めるということは、妹さんとの関係が間違って
>いたことを認めることになりますから、そもそも心理的に無理があります。
>これも変な話です。Mさんは心臓病で、妹さんは食思不振症が最初で心臓発作
>を起こした訳ですから二人を同一視する必要が無い事をはっきり出来ないので
>すか?
戦後の食料不足の時代を生きてきた人にとっては、自分の身近にいたひとが栄養失調を起こしたり結核にかかりして、がりがりに痩せ細って死んでいった、というのが現実です。ですから、「痩せる」ということに対する生理的ともいうべき恐怖感があります。
それと同じように、「自分の家族ががりがりに痩せ細っている」という現実の前には、理性は無力だったりします。蛇嫌いの人に、「この蛇は毒蛇ではなく、人間には無害だから」と言っても説得力がないのと同じです。
>私の考え、
>Mさんは自分の治療に専念だけしてください。(中略)
>いづれにせよ私がいいたいのはなぜに具合の悪い病人にそんな負担をかける?
>本人は自分の命を掛けて病院にいるんでしょ?医療サイド(医者、および看護
>士、栄養士、ソーシャルワーカー)は患者とその家族に十分な説明(相手がちゃ
>んと納得するまでの)を与えるべきだし、「上司の医者の指示」という、言い
>訳にもならない言い訳を患者に与えるくらいなら、担当医になるな、と言いた
>い。そんな言い訳をするから、お母さんはその医者に信頼が置けなくて自分の
>考えに固執するのでは?
大学病院における研修医の立場はとても弱いものです。で、お母さんにとっては自分の子供のような年齢の人間で、とても信頼できる医者には見えなかった、ということです。
同時に、大学病院のような医療機関や、現代医学そのものに不信感を抱いている人も大勢いますし、それは当然のことでもあります。たとえば原作・取材:遠山一歩/作画:小山田いく『生命(いのち)のダイアリー』秋田書店チャンピオン・コミックス(ホームページ:『姉の日記より』、http://www.asahi-net.or.jp/~jp8s-wtnb/、およびhttp://www2.tokai.or.jp/keikomama/)等を見ていただければおわかりになると思います。
そして、たしかに突発性拡張型心筋症なんていう病気に対しては、正直なところ現代医学はほとんど無力です。
>因みに、Mさんが成人し、なおかつ、意識がはっきりしており、精神に異常を
>認めない限りは、家族の同意はあればそれにこした事はない、程度に出来ない
>のですか?
本人が病気である場合、本人が常に意識がはっきりしている状態は期待できません。ですから、そうでない「万一のとき」のために、「保護者たるべき家族」による治療に対する同意、というのが必要なんです。つまり、病気した段階で、本人は一種の「禁治産者状態」に置かれ、本人の権利の行使を保護者が代行することになるわけです。
で、その「保護者」が理性的な説得を受けつけられない程度に感情的であり、しかしながら保護者としての権利を強制的に剥奪できない程度に社会的である場合(そして、その保護者の判断が、「感情的には社会的に認められるもの」である場合)について、あたしは想定しているわけです。
「理屈の上では正しいのかもしれないけれど、私には理解できないし、感情的・感覚的にはまったく納得できない」ことを受け入れることを、法は強制できません。
そして、「受益者本人」以外の誰かによってしかそのことが決定できず、しかもその決定権が法的に保護されている場合があります。その場合、本人の意志に反した決定が、本人以外の誰かによって決定され、正当な手続きによっては本人ですらそれを覆すことが不可能である場合がしばしば存在する、ということなんですよ。
『エホバの証人』というキリスト教系宗教団体では、輸血を禁じています。その場合、意識を失った『エホバの証人』の熱心な信者の子供が緊急の手術を要し、しかも輸血が不可欠である場合、保護者の同意が得られません。そんなわけで、法的にはその子供を救うことは(厳密にいうと)「犯罪」となります。基本的人権のひとつである思想・信条の権利を犯すわけですからね。その場合、その子供が意識を失う前に「宗教なんかどうでもいいから助かりたい」と医師に伝えたとしても、その意志を尊重することは杓子定規に言うと犯罪にあたります。実際には裁判官がどうにかしてくれるでしょうが、条文重視の杓子定規な裁判官だって少なからず存在したりもするわけです。
精神障害者は、しばしば自己決定権を剥奪され、保護者の管理下におかれます。問題は、その「保護者」の判断が「自然な感情」を尊重するあまり合理性を欠いたときに、法制度はそれに対して無力だということなんですね。そういうときにどうするか、っていう話なんです。これは「親のしつけ」をどこまで尊重するか、みたいな問題と結びついています。「折檻したら死んでしまった」とかいった場合、単なる過失致死(第二一〇条、三十万円以下の罰金または科料)で済ましちゃっていいのか?みたいな話になるわけです。
こうした問題は、あらゆる場面で出てきます。外務大臣が独断で条約を結んでしまったらどうなるか(批准の段階でチェックは入りますが)。企業経営者が、独断で取引をしてしまったらどうなるか。国民や従業員の権利はどうやって守られるのか。そういうことなんです。
民法第一条には、『私権は公共の福祉に遵ふ。権利の行使及び義務の履行は真偽に従い誠実に之を為すことを要す。権利の濫用はこれを許さず。』とあります。だけど、こういうことをすべての人に期待することはできませんし、強制することもできないんですよ。人の弱さや愚かさというものがありますから。
ダメな親でも親は親、なんです。それは尊重しなければなりません。
どうしたらいいんでしょうか。
(Maria)
こんにちは、シンタロウです。
今日、ネットでいろいろ検索したら、興味深い文章を見つけました。そこには差別のことがいろいろと書いてありました。
そしてもっとも印象深かった言葉が『差別を受けている人々の中には逆に健常者差別が生まれてきていることも事実です。強い人は健常者社会を敵視し、弱い人絶望する。』
僕は↑の文を見たとき「自分のことだ」と思いました。僕はいつも健常者を憎み、敵視していたような気がします。
詳しい全文は↓にのってます。
http://www3.big.or.jp/~muma/konsyuu104.htm
truth wrote:
>あまり書き込みをしていないのに、すみません・・・。
>
>仕事で・・・プライベートで人と会っていて・・・例えば、会議の時とか・・・沢山の人達がいて、喋っていると、何言っているのか分からないときがあります。分かろうとして・・・一所懸命聞く努力をしていても、話は次の話に移っていたりするのです・・・。
>>沢山の人が喋っていると、色々な人達が喋っていて、誰が誰に喋っているとか・・そんな事が分からなくて、気が動転してしまうのです・・・。
>自分に対して話しているとか・・・そーいう事も分からないことがあります。
>そんな経験がある人がいたら、教えて欲しいのです。そんな時は、どう対処しているんでしょうか?
これはいわゆる「聴覚認知障害」の症状の一つだと思います。要するに、聞こえてはいるけれども、その中で何が重要かという篩い分けをする脳内のフィルター(脳幹網様体だといわれているが・・・)が、うまく働いていないのです。
このような人は、現代の若い歌手(倉木麻衣・安室奈美江・浜崎あゆみなど)が歌っている歌の歌詞の聞き取りに、チャレンジしてみると良いかもしれません。私は最初、聞いてもあまりよく聞こえなかったので、こういったジャンルの歌は好きではなかったのですが、倉木麻衣の「REACHING FOR THE SKY」がNHKの朝ドラのテーマで流れたのを聞いていくうちに、それらの曲がだんだんと聞き取れるようになっていきました。
「君が教えてくれたこと」の繭子さんのように気象に興味を持っているなら、NHKのラジオ第二の「気象通報」を聞いて、聞いた各地の気圧・気温・天気・風向・風速の情報を用紙に書き込んで、天気図を作るのも良い訓練になると思います。(私も昔やったことがあるけど、これは結構難易度が高い)
また重要な会議に参加するときは、テープレコーダを持ち込んで、会議のやり取りを録音するのも、多くの人がやっている対策の一つです。
pennpenn58 wrote:
> 最近、このページでコウモリさんが社会を生産者群と非生産者群に分ける試みをしたり、慎言居士さんが富裕者群と非富裕者群に分ける試みをなさったりしている。私も色々考えたのだけれどどうも今の私にはその分類の仕方がピンとこないというよりもうこの現代社会は対立構造を設定するというのが無理という段階に来ているような気がします。
そうです。そしてこのことはすでに知識人と呼ばれる人たちによって指摘されています。
> 人を生産者だからこうだ非生産者だからこうだと決めつけるのが難しいと思うのです。たとえば昔なら障害者は不幸なことが多かった。でも今ではきっと不便はきっと色々あると思うのですが現状に満足している障害者もいれば現状に満足することができない健常者もいる。
障害が不幸の要因になりうるという事実は、いつの時代も変わらないと思われます。今後も。
そして今後どんなに医療技術が進歩して障害者の負担が軽減出来るようになっても、幸不幸の落差、生きていく上での有利さにおける格差はなくならないでしょう。
> 私がいつも感じる対立構造は世の中には幸せな人と不幸な人がいるということです。富裕であっても幸せな人がいれば不幸な人もいる。お金がなくても幸せに暮らしている人がいる。ASであっても幸せな人もきっといると思うし、不幸せな人もいる。私は・・・・・幸せではありませんが・・・・・。
裕福な人たちに占める不幸な人の比率と、貧しい人たちに占める不幸な人の比率を比較してみれば、おそらく貧しくて不幸な人の比率のほうが大きい(多い)のではないでしょうか。
同様に、健常者に占める不幸な人の比率とASに占める不幸な人の比率を比較すれば、これも後者のほうが大きくなるのではないでしょうか。
> いつも思うのです。世の中はなんで不公平なんだろうと。でも人によっては私が幸せだと思う人もいるかもしれない。結婚して3人の子供がいる。世の中には子供を産みたくても産めない人もいるのに・・・。
徹底的に不平等です。そしてこの事実は人類が絶滅するまで動かないでしょう。
> 私はこの世の中を2分類するとしたら大脳生理学的にセロトニンの多い人と少ない人に分類したい。自分の状況に幸せを感じることができる人とできない人。私の問題はASかどうかではなく幸せを感じることができないことにあるような気がします。たしかにASであることでいじめられたこと、苦労してきたこと、悩んだことは多かったけれど今の私の状況は人によっては幸せという人もいます。自分の実の親と同居できていいねなんて・・・・・・。沈黙・・・。
それはあなた自身の責任ではないでしょう。
どんなタイプの人間であろうと、幸福だと感じることの出来ない状況というのは存在するでしょう。
> 武田君は散歩して農作業をしている老夫婦をみて安らぎを覚えたとのこと。そうなんですよね。些細なことに安らぎと幸せを感じる。それが大事。セーターを裏返しに着たっていいじゃないですか。でもASってそうなんですよね。些細なことでショックを受けるような気がする。些細なことでも繰り返しが続くとストレスになるのですよね。長々とすみません。ではまた。
このような、「いろんな生き方や考え方があっていい」というたぐいの口吻を最近よく新聞などで見かけるのですが、これはある種無責任ではないでしょうか。
それが、そうした意見が出てくる背景が、場合によっては当事者の責任ではないという慰安感をあたえる範囲内なら結構でしょうが・・・
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami