アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
pennpenn58さん wrote:
> 暗黙の了解、「お約束」を守らない人間は世の中の人々を傷つける危険人物だ。
> 自分が傷つくのはかまわない。それは世の中の害にはならないから。けれど世の中の人を傷つけるのははっきりした悪である。
>
> 「お約束」を守らない人間はこの世の中に存在してはならない。
静寂は音楽の基本であり、沈黙は会話の基本です。
その意味で、「お約束」というものは必要ではあるのだけれど、それは通信における搬送波(キャリア)のようなもので、そこから逸脱することにこそ新しさがある、といったものでもあります。だけど、それは「計算されたもの」「意図したもの」である必要があるのね。
人と人との摩擦というのは、激しすぎたら痛いし弱すぎても物足りなくてイライラするし、ちょうどいいと気持ちいいといったものなのですよ。で、そのあたりの加減というのは、苦痛だとか苦難だとか恥辱だとかを乗りこえて身につけてゆくしかない性質のものなのね。で、人はそうして大人になってゆくのですよ。(←まあエッチ(^_^;))
人を傷つけない、というのは、同時に人間関係の拒絶でもあります。それは自分以外の人間の人格を否定することでもあります。
「人間は一人では生きてゆけない」とか言う人がいるけれど、ほんとうは「人間は一人で生きていてはいけない」のだとあたしは思います。ストア哲学だと、人間は神から与えられた能力を社会に役立てる義務がある、と考えます。あたしの考え方はそれに近いんですよ。人に惜しまれるような生き方をしてはいけない。それは、「持たざる人」に対する侮辱だと思います。
人間は、いいにつけ悪いにつけ、人の予想や期待を裏切りつづける存在だったりします。で、目指すべきはマイナス面をゼロにすることではなく、総合的なプラス面を最大限に伸ばすことなのね。
「障害は個性だ」なぁーんていう甘っちょろい言葉は嫌いだけどさ、障害者であることのメリットというのも確かに存在する以上、それをハンディキャップからアドバンテージに転化して生きることを考えるのが前向きな、生き方というものだと思います。あたしは自分のAS的な特性を仕事に活用することで、「システム設計者」「アルゴリズム開発者」としての評価を勝ち取ってきたわけだしね。
そんなわけで、「マイナスをプラスに転化するしたたかさ」というものを身につけないと、かえって周囲の人を暗くし、傷つけてしまいます。で、それは「社会性」の重要な一部でもあったりするわけです。自分の中だけで考えたらマイナスはマイナスでしかないけど、社会全体としてはプラスになりうる、なんていうケースはけっこうあります。個人のレベルで見れば「難病」だけど、大学病院では「貴重な症例」になったりもするし。
自分の不幸を単なる不幸に終わらせない努力を怠るというのは、ある意味身勝手であり、それこそ迷惑、と思うのですが、いかがなものでしょうか。
(Maria)
先日、「アスペルガータイプ自閉症(高機能自閉症にかわる語として使います)」の診断を受けた、鷲羽丸です。
わしは診断を受ける際、「相談票」というものを提出しました。
それには親が自分の子について色々と書くところがあり、その中に「親として感じていること」の項目がありました。
そこには、こう書かれていました。
=====================================
小学校入学の時期、特殊の学校にやるべきか、一般の学校にするか、夫婦で少し迷った。生活習慣について何も不自由はないし、普通になってほしい望みもあったので、一般の学校にした。今日、本人がどれだけつらい日々だったかを想うと、よかったかどうか疑問である。
(以下略)
=====================================
わしはこれを読んで、複雑な気持ちでした。
この頃からすでにわしは、障害があらわになっていた、ということが見て取れます。武蔵野東幼稚園についての本まで、すでに本棚にありましたし。
どうやら両親は、わしの「普通でない」部分を認めたくなかったようで、「一般の学校へ入れれば、普通になってくれるだろう」と考えていたようなのです。
しかし、わしとしては「特殊の学校」の方へ入れて欲しかった、と思います。
やはりこの時は、わしのようなガキは「障害」と診断されず、「性格」の問題とされていたのが、わしの両親を「普通願望」へと導いたようです。
これから現れる、わしと同じようなガキたちには、わしのような思いはさせたくありません。
あらためて、早期の診断が大事だと、切に感じました。
誤診したO大病院の精神科に診断書を見せてやりたい(大人げないが) 鷲羽丸
グルンサさん wrote:
> うーん、実の親子でも互いを理解し合うというのは難しい(おそらく、健常
>者同士でも)。対人関係の構築が難しいというのは、身近な人ですら理解し合
>えないことも拍車をかけているのではないだろうか…ともふと思ってしまいま
>した。
親とわたしの議論には相当なすれ違いが発生しています。つまり、親は障
害を「克服すべきもの」と考えていて、そのために育児に払った努力を評価
されることを願っています。事実、親の子供の頃からのアプローチがなけれ
ば、わたしはASよりもっと重い自閉症の診断を受けていたかもしれないと
診断に立ち会った専門家からは指摘されています。この点について親の努力
を評価しない訳にはいきません。
ところが、わたしの方は障害を「自分から切り離すことのできない体の一
部」と捉え、「障害と共に生きていこう」と決心した時に、二次的障害から
解放されました。19世紀の哲学者ニーチェは「せむしの背中からこぶを取
ってしまえば、その人の偉大な精神を奪ってしまうことになる」と述べてい
ますが、わたしもそれに似た感覚を持っています。(「せむし」は差別表現
ですが、あえてそのまま引用しました)
しかし、この感覚は親には全く理解できません。だから、わたしが障害者
としての立場を主張すると、今までの努力が否定されたような気持ちになっ
てしまうようです。明らかに自閉に対して否定的な感情を持っているため、
わたしもこの部分については反発せざるをえません。
わたし自身は「親に感謝すること」と「障害と共に生きていくこと」は矛
盾していないように思えるのですが。
こんばんは。
こんな日のこんな時間にひとり事務所で仕事をしていて、息抜きに覗きにきたら、
一番上にこんな話が書かれていたので、思わず書き込んでいます。
> はてさて、あなたは、ここで用が足せますか? 大きいの?小さいの?>皆さま
大きいのも小さいのも足せそうな気がします。
っていうか、「やっておかなきゃ、ソン」とか思いそう。
ただ、日本人が一緒にいたら、ちょっと恥ずかしいですね。でも日本人じゃないような顔をしてしてしまいそう。
トイレといえば、タイの山岳民族の村の家にお世話になっていたとき、
「トイレでは紙は使わずにひしゃくですくった水を指先にすくってぴちゃぴちゃかけて洗う」「外でトイレに行きたくなったときにはちょっと道から外れて、用の後は木の葉でふく」と教えらました。
畑仕事の合間に、やや小高くなった見晴らしのいいところでするトイレは開放感があって、
畑の方から「いい葉っぱはあったかー」などと聞こえてくる声を除けば、まさしく「荒野のどまんなか」気分で気持ちよかったです。
お尻にやさしそうな大きくて厚みがあって柔らかな葉っぱの物色も楽しみのひとつでした。
ただ、水で洗うトイレの場合は、乾くまでお尻がぺちょっとしていて、ズボンや腰に巻いた布のお尻の部分もぬれるし、あまり気持ちのいいものではなかったんですが。
(水をすくうひしゃくに黄土色の水垢(だという事にしたかった)のようなものがこびりついていることも多かったし。)
> あの公衆トイレがまだそこに存在しているかどうかは、わたしは存じません。
そのタイの村に一緒に行った友人がその後中国に行った時(3年程前)には、
場所は違うかもしれませんが、まだそのタイプのトイレはあったそうです。
彼女は「おお!開放的!ようちえんの頃のトイレを思い出すなあ。こりゃやっておかなきゃ」と、迷わず用を足したそうです。
類は友をよぶ?
ヒマネタplusシモネタです。
(タイトルの由来についてはNo9736のMariaさんのカキコをお読みください)
あれは1988年のことでございました。
とある団体旅行に参加していたわたしは中国数箇所を訪問し、絨緞工場で最後の見学を終え、天津港へと向かうバスの中におりました。
バスが港に着いても船が見えません。到着まで若干の時間がかかるということで、一行はトイレタイムを許されました。何台ものバスから公衆トイレに向かってぞろぞろと歩く人々に混じって、わたしものんびり歩いていきました。
が……不審なことに、先に行った女性のほとんどが戻って来るではありませんか。用を足した様子もありません。?と思い、顔見知りの女の子に声をかけますと「とてもできない」と答えます。
「えー、なんで?」と尋ねると「行ってみればわかるわよ」との返事。
さても怪訝なことよと思いつつも、わたしはトイレの入り口にたどり着きました。で、中を覗いてみましたら……充分納得いたしました。
入り口の角を曲がると、公衆トイレの内部が見わたせます。通路から一段高くなったコンクリートの床に、一定の間隔をおいて白い便器が並んでおります。他には何もありません。
仕切りは?壁は?扉は? そこには……「個室」という言葉を裏切る、だだっ広い空間が広がっておりました。
「うわー、やだー」と一声残して戻っていく女性達。う〜む、なるほど、これがいわゆる「カルチャー・ショック」とかいうやつか……などと感心してしまったわたしでございました。
さてさて、ここで戻ったのでは話は進みません。わたしはといえば、何台ものバスからやって来た何十人もの女性陣の中で、そこで用を足した数人の中のひとりとあいなりました。
一緒にはいったMさんと、ひとつおいた便器に(だって間隔が狭くて、膝がくっつきそうだったから)しゃがんで用を足しながら「中国の人ってスゴイね」「大きいほうのときはどうするんだろうね?」「きっと知らんぷりするんだよ」「見てみぬふりね」「こうやって壁を見ているんだね」「うん」などと和やかに会話していたのでございます。
砂漠の真ん中で用を足していると思えばどうってことはない。
ここには自分ひとりしかいないと思えばどうってことはない。
目を閉じれば、荒野のど真ん中にいる気分じゃないか……。
言い訳は次々と浮かんできますが、実際のところナイスでグッドな気分の用足しではございました。日本じゃこういうのは、まず味わえないぞ!って、自慢できるも〜ん!!(心のなかで、わはははは〜と笑う)
その後、噂を聞きつけた男性陣がやってきて「ホントかよ、おい」と声をかけるもので、「もうみんな済んだからいいよ」とMさんとわたし立会いのもとで、幾人かが中を覗きこみ「おおー、すげェー」と喚声をあげておりました。写真に撮っていた方もおりましたですね、はい。
ま、なんですな。通路から一目でどこが空いているかチェックできる利点というのは、ありますな。そうでしょ?
はてさて、あなたは、ここで用が足せますか? 大きいの?小さいの?>皆さま
(ちなみに、その後天津港へ行く機会がありませんでしたので、あの公衆トイレがまだそこに存在しているかどうかは、わたしは存じません。悪しからず)
長らくのご乗車ありがとうございました。(お粗末さまでした) あさかぜ
I wrote:
>(内容が的外れになってないことを祈りたい…。ここんとこ、あっちゃこっちゃでやらかしてたよーな気がしなくもないので。)
見事にやらかしていたようです。(しかも、文字どおりあっちゃこっちゃで。)
恐らくはお怒りか、もしくはお呆れであろうみなさま、申し訳ありませんでした。
Maria wrote:
>
> 「お約束」は守ってほしい、と思います。
世の中には暗黙の了解というものがある。誰もが知っているから口に出されることのない約束。けれど中にはその暗黙の了解に気がつかない鈍い人間もいる。私は、暗黙の了解をたびたび侵しては周囲を傷つけそのことで自分も傷ついてきた。そして学んできた。
暗黙の了解、「お約束」を守らない人間は世の中の人々を傷つける危険人物だ。
自分が傷つくのはかまわない。それは世の中の害にはならないから。けれど世の中の人を傷つけるのははっきりした悪である。
「お約束」を守らない人間はこの世の中に存在してはならない。
わたしは、子供のころ、くつしたのことを「つくった」と言っていた。
カンケーナイですね。ソリィ。。。
こうもりさん wrote:
>鷲羽丸さん wrote:
>
>> 先日、まだ診断が下る前に、このときの話を蒸し返す形で、親に話しま
>>した。すると、このような答えが返ってきました。
>>
>>「わからんなー。うれしくないの? 自閉症を否定されて。」
>
> わたしも否定されるのは嫌だ〜。とりあえず、非自閉圏の人々との異文
>化交流に熱心な自閉人ぐらい思われたいっす。
>
> しかし、親は「おまえ(こうもり)のことをノーマライゼーションする
>ことに全力を注いできたんだ」と言って、わたしが障害者を名乗ることを
>嫌がる傾向ありです。
うーん、実の親子でも互いを理解し合うというのは難しい(おそらく、健常者同士でも)。対人関係の構築が難しいというのは、身近な人ですら理解し合えないことも拍車をかけているのではないだろうか…ともふと思ってしまいました。
(内容が的外れになってないことを祈りたい…。ここんとこ、あっちゃこっちゃでやらかしてたよーな気がしなくもないので。))
足の形というのは左右で違い、靴や足袋に左右があるように、ちゃんとしたスポーツ・ソックスには左右があります。
そんなわけで、靴下についているワンポイントマークは左右を示すためについているものだと思っていました。普通に売っている靴下のマークが股の内側と外側の両方についているのは、左右対象にできていて、どっちの足にどっちの靴下をはいてもいいようにできている、ということだと了解していたわけです。あたしは。
ところが、たまたま買った某有名バスケットシューズ・メーカーのマークの入った靴下は、片方に一個だけの「ワンポイント」マークでありながら、どう見ても左右対象でした。
……困るんだよね、こういうの。片方の靴下だけ穴があいちゃったときに。人間って左右対称に歩いているわけじゃないから、利き足のほうの靴下が先に傷みます。
「お約束」は守ってほしい、と思います。
(Maria)
タレイヌ wrote:
>障害があるのが問題なのではなくて、そして、克服すれば、いいのではなくて、上手に組み合わされることによって、お互いが知らないうちに癒されるようになれるのが、いいんだよね。ま、本人達の、日常は、つらい葛藤の連続である事に、何ら変わりはないんだけどね。
タレイヌさん、レスどうもありがとう。もうほんとうに涙です。(ほんとうに泣いている)2ヶ月前に会社を首になったことやらなにやらかにやら最近辛いことが多くめげきっていました。ショックや悲しみはあとからゆっくりくるものなのですね。
夫とは結婚して16年になりますが夫は自分の気持を率直に話すということがない人で何か相談しても(主に子供のこと)お前の育て方が悪いの一点張り。そして、私に対する小言の多い人で私は夫のことが長い間わからなかった。夫の前でも子供の前でも元気なふりをしていたけれどほんとうは夫の前では萎縮してしまっていました。自分の気持ちを率直に話すことに照れがあるということはわかっていたのですが私のことを好きなのか嫌いなのかもわからなかった。
でもタレイヌさんのいうとおりかもしれません。仕事をその時は辞めたかったのかもしれない。私は夫にからかわれていたのではなかったのかもしれない。ほんとに私に慰められていたのかもしれない。そう思うことにします。長い間、夫は私にとって世間の象徴でした。敵だと思っていたのです。世間も夫も敵でした。でもそう思い続けることに疲れてしまったのです。
タレイヌさん、ありがとう。タレイヌさんの言葉は私の胸にしみました。
またでてくるよ〜〜〜ん。
>
>またでてきて下さい。待ってます。
pennpenn58 さんwrote
言葉の鵜呑み、冗談と本気の区別が付かない。最近一番ショックだったのは私の夫は公務員なのですが結婚したときから公務員を辞めたいと言っていたのでそのたびに私はそんなにいやならやめたらといってきたのです。ところがそんなのは全然冗談。本人にやめる気など全くなかったということがわかってショックでした。そんなに辛いのならやめてもいいのにとずっと同情してきたのに。身近な人間のこともわからないで大変大変ショックでした。20年近くそう慰め続けてきたのに。
>
またまたひょっこり、タレイヌです。
pennpenn58さんの悩みには全く答えになりませんが、ご主人はもしかすると、長年癒されてきたかもしれません、だから、20年も勤められているかもよ・・・?
仕事で嫌な事はたくさんあるのは当り前。やめたいと、愚痴りたくなるのも、当り前でも愚痴った時に、「そうなの、いつ辞めてもいいのよ」と本気で言われるのと、「何てこと言ってるの、子供や私は、どうなるの!頑張ってよ」といわれるのでは、全然違うと思います。ご主人もまた、辞める気無かった・・・のかどうかは細かく見たとき、ホントウにそうだったのか疑問だなあ・・・。pennpenn58さんが、あちこちで揉めながらも、頑張って働く姿を見たら、自分も頑張らなくちゃ、申し訳ないな・・とか、思って公務員やってるのかもしれないし(?)←タレイヌの想像よ。
障害があるのが問題なのではなくて、そして、克服すれば、いいのではなくて、上手に組み合わされることによって、お互いが知らないうちに癒されるようになれるのが、いいんだよね。ま、本人達の、日常は、つらい葛藤の連続である事に、何ら変わりはないんだけどね。だから、ちっとも、悩みの解決にはならない話でした。
皆様、よいお年をお迎えくださいね。
またでてくるよ〜〜〜ん。
(タレイヌ)
かんじさん wrote:
> どなたかもしよければ年相応より少し幼い感じになる病、もしくはそれに近い症状を持った病を教えてください。
摂食障害の二次症状、というのがあります。
十代の半ばから栄養不良が続いていると、三十代になっても体形は十代のままだったりします。
見せかけの善意のようなものに長年傷つけられてきたひとは、身体の線を強調したりするような性的な服装や、お化粧をあんまりしません。びっくりするような美人なんだけど、印象が妙にダサかったりするひとが多かったりします。「貧乏画学生か三流私大の化学の助手みたいな恰好」というと、わかりやすいかも。で、対人的な技術として、「幼さ」「愚かさ」を装うことがあります。幼くて馬鹿っぽくしていると、相手の悪意や害意というのが透けて見えるのね。だから、そういう女性は相手の態度をしっかり観察しています。それだけに、話してみると頭のいいひとが多い。
ドラマなんかだと、こういう女性は容姿を褒められると「からかわないでください」とかいって怒ったりなんかしていますが、そういう人は見たことがありません。ポーズとしてはあるかもしれませんが。だいたい、どうでもいい人に褒められると、「うふふふふふふふふ」とかいって笑って済ませてしまうか、胸がないとか性格がヘンだとかおばさんだとかいったマイナス面についてコメントして、なかったことにしてしまいます。だけど、ちゃんと認めてくれて、「美人であること」「女らしいこと」のメリットもデメリットも含めてそのことを尊重されることは不快ではないのね。
なお、このタイプの女性に、愛人体質、多いです。で、友人以上恋人未満の異性の友人(で、貞節が固くて愛妻家だったりする)というのが意外に多くて、そういう男性とは、寝ません。とはいえ奥さんとかがいちばん警戒するのがこのタイプ。敵に回すと勝ち目がなさそうだし、本気になると怖いし。
だけど、結婚すると見た目普通のおばさんになっちゃいます。「おばさん」というのは、目立たないし、人の害意をかき立てないし、人を警戒させることもあんまりありません。あるいは、独身でも文筆業やプログラマーの人に、こうしたおばさんが多いように思います。全体的なイメージは、ジョージ・オーウェルがエッセイで書いているように、「雀」です。強くもなく害を与えるものでもなく、そこいらへんに存在して邪魔にされない存在。そういう、「風景の一部」みたいな存在であろうとしている感じが、伝わってきます。
お役に立ちましたでしょうか。
(Maria)
かんじ wrote:
>実は私、同人誌なんですが小説を書こうと思っているんです。
>その中の登場人物でちょっと幼い感じの女の子を登場させようと思っていて、でもただ幼いというだけでは納得できなかったので実際にある病を引用しようと思ったわけです。
>実際に診断された方には大変失礼かもしれませんが、どなたかもしよければ年相応より少し幼い感じになる病、もしくはそれに近い症状を持った病を教えてください。
えーと、病気とは言えませんけど、親から十分愛情を受けて育たないと、幼児的風貌になるみたいです。
参考になるかどうかわかりませんけど。
鯨夢ミグさん wrote:
>確かに、言葉の鵜呑みであるとか、経験ありますよ。
>冗談が理解できないとか、融通が利かないとか。
>後で理解してから、その次からは、記憶からの照らし合わせと思考力が頼り。
>思考能力だけを駆使して答えを出すので、ちょっとした受け答えだけでも、ぐったりとか。反射的に答えが返せないとか。
>
>一番の特徴は、中間距離の人間関係が上手く築けないってことだと思いますよ。
>自分的には、ですが。
>誰にでも公平な態度で、適度によそよそしくなく、かと言って、馴れ馴れしくなく。公平でありながら、同じ態度ではなく振舞えること。
>それから、段々に仲良くなれること。
>この辺りの頃合いが上手く掴めないですね。
>周りの状況が掴めないことや、想像力の欠如に拠るところが大きい思うのですが。
↑これのせいかな?「(社会人としての)年数のわりに、経験(能力だったかな?)が不足している」と上司に指摘されたのは…。(内容的には、大体こんな感じ)
タレイヌさん wrote:
>もう一つは、ここに来て、ボランティア先に呼ばれて、書記と電話番をしたところ、もうめためたでした。誰かが話している横で、電話を聞き取るのが、大変。
これ、よくわかります。わたしも、前の配属先で自分が電話を取っている最中に、隣から笑い声が聞こえてきた途端、もう音がまぜこぜ、という状態になった経験があります。(幸い、そっちの内容は雑談だということはわかったので、一時電話を中断し、「電話中なんだからトーン落として!」と言えたのは助かりました。)
ASなんて言葉を知らなかった(当然、疑いも考えもしなかった)数年前の話です。
鯨夢ミグ wrote:
>確かに、言葉の鵜呑みであるとか、経験ありますよ。
中略
>一番の特徴は、中間距離の人間関係が上手く築けないってことだと思いますよ。
>自分的には、ですが。
>
私もです。この年になっても悩みます。(年はご想像にお任せします)
言葉の鵜呑み、冗談と本気の区別が付かない。最近一番ショックだったのは私の夫は公務員なのですが結婚したときから公務員を辞めたいと言っていたのでそのたびに私はそんなにいやならやめたらといってきたのです。ところがそんなのは全然冗談。本人にやめる気など全くなかったということがわかってショックでした。そんなに辛いのならやめてもいいのにとずっと同情してきたのに。身近な人間のこともわからないで大変大変ショックでした。20年近くそう慰め続けてきたのに。
人間関係の距離もうまく築けないです。まあ、若い頃とくらべればずいぶんましになりましたが。ニキ リンコさんが訳したウェンディ・ローソン著『私の障害、私の個性』の中で主人公が「友達になろうとして近づいてくる人がいるたびに、私はその人になついてしまうのだった」という一文があります。それが私には耳にいたい。あ、本で読んだのだから目にいたいと言うべきか。そう、なついてしまうのです。ひよこがはじめた目にした物体を母親だと思いこむように。
実際の人間関係では、手痛い失敗も重ねたし大分学びましたがネットの世界では私はまだ新入生のようなものなのでネット上で人様に不愉快な思いや負担をかけないよう学んでいかなければと思っています。トホホです。
こうもり wrote:
>かんじさん wrote:
>>
> 軽度の知的障害児,ダウン症児,脳性まひ児のなかに年齢よりも幼い感じを
>受ける子供もいたような気がします。
>
私は知的障害の人が働いている福祉作業所でボランティアをしていたので、もっと深刻な症例をまのあたりにしています。
最初に所属した、「紙漉き」をやっている班に、背の低い可愛いらしい女の子がいたので、「ああ・・最近入った子だな・・」と思ったら、なんと彼女は作業所に10年以上も通っている人で、私よりも4つ年上の32歳でした!
扉を乱暴に閉めるのが聴覚過敏の私にはちょっとドッキリでしたが、仕事はものすごく一生懸命でした。面倒見がよく、自分よりも障害が重い人の面倒をよく見ていました。結構おちゃめなほうで、よく「あかちゃん うまれるぅ・・」と周りの人にジョークを飛ばして、楽しませてくれました。カラオケのおはこは、『となりのトトロ』のテーマの『さんぽ』で、とっても大きな声で歌っていました。
ダウン症という障害でなかったら、彼女は、恐らくは史上最強のOLさんになっていたことでしょう・・
へりこ wrote:
>私が運動下手なのは努力が足りないからじゃなくてASだからかも、と思えるのは
>気が楽でいいです。「お前は根性がたりん!」と何度言われたことか。
ええ、私も気が付いて楽になりました。
コンプレックスだったんですよ、ずっと。
体育は大嫌いでした。
個人プレーなら迷惑は最小限としても、チームプレーなんか最たるものでした。
だって、何が起きているのか、分からないし。
増してや、どうすべき、なんてのはもっと分かんない。
球技会なんて、みんなの足引っ張るから、視線冷たいし、敵チームからは完全な穴と見られてるし…。
ソフトボールのピッチャーをすることになった(阿弥陀くじで)けど、打たれるかフォア・ボール(? ストライクゾーンに入らないヤツのこと)の連続。
みんな暇で、あたし一人で投げてたけど、見兼ねて、ソフトボール部の子が代わってくれた(とても感謝している)。
すごい迷惑掛けたけど、どうにもならなかった。
チビの頃から走るのは遅くて、鬼ごっこはいつも味噌っかす。
不条理感じてましたね。
運動会も、親への招待状を作りなさいと言われても、なぜって感じ。
まあ、いろいろありますわ…。いくらでも…。キリがなく…。
なんで、こんな症状が出るんでしょう??
体育の授業はなくなって、精神的に楽にはなったけど、周囲に比べていつもトロイのには変わりがない。
現代の科学を持ってしても、手立てがないのかしら?
つくづく、溜息です。
それでも、AS(自己診断で)だと分かって気は楽になったし、ま、いっかー。
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