アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
訂正です。
Moto wrote:
> ご拝察感謝申し上げます。
正しくは、
> ご賢察感謝申し上げます。
でございます。失礼申し上げました。
ついでながら、「なぜ人を殺してはいけないか」、あるいは「ぶち殺されても当然と思われる奴であっても、いざ殺すとなると逡巡してしまうのはなぜか」については、「それが境界(リーメン)を犯す行為だから」という説があります。これは『タブーの謎を解く 食と性の文化学』(ちくま新書)の中に紹介されている人類学者のターナーの説を敷衍したものなのですが、世の中には「殺していいもの」と「殺してはいけないもの」が存在し、人間は「殺してはいけないもの」に属するがゆえに、「殺人」は「日常」から隔離されなければならない、ということだったりします。
鮒と金魚は生物学的にいえば同一種であり、鯉と錦鯉も同一種です。一方、「ペット」は「食べはいけないもの」であり、「サカナ」は「食べていいもの」です。したがって金魚や錦鯉を食べることは「ペット」と「サカナ」、「食べてはいけないもの」と「食べていいもの」の境界を侵すがゆえに食べてはならない、ということになります。
とはいえ、この「境界を侵す」行為は非日常的であるがゆえに人をしてドキドキさせるものなわけですから、殺人だの不倫だの幼児性愛嗜好だのといった行為に魅せられる人というのが存在するわけですが。
で、こうした「境界を侵す行為」は人をして不安にならしめる行為であるがゆえに、それを「タブー」として禁止することで安心する、というのがタブーの起源である、と人類学者は説いています。
古代の日本では、戦って死んだ人間やニワトリを食う(あるいは戦えなくなった人間やニワトリを殺して食う)のはタブーではないのに、食べるために人間やニワトリを殺すのはタブーであったらしい、というのが分かっています(これは「禁止されている」というより、飢饉になっても人間やニワトリを食う奴がいなかった、あるいは食った奴は「罪人」ではなく「狂人」とみなされた、といったレベルの話です)。そして江戸時代に食用とされたニワトリはすべて軍鶏であったとか。つまり、「相手の生命あるいは精力を継承する」という意味でのカニバリズム(人肉食)、というのは認められており、「ニワトリを食う」というのはカニバリズムの代償行為だったと思われます。
なお、カニバリズムの場合、「食べる」側ではなくて「食べられる」側のカニバリズムというのがあって、ボクシングを題材にした劇画の「選手生命に限界を感じたチャンピオンが、リングの上で戦って死ぬためにふさわしい相手を選ぶ」というパターンはこの「食べられる側のカニバリズム」の一形態と見なすことができると思います(代表例:松本大洋『ZERO』、小学館、ビッグコミックス、全2巻、本体485円)。
なお、『赤ずきん』も古典的解釈によればこのカニバリズムにおける「食べる」側と「食べられる」側の「結婚」の物語だったのですが、フランスのロマン派を代表する作家であるシャルル・ペローの馬鹿野郎とドイツの後期ロマン派を代表するグリム兄弟の糞ったれがロマン主義的な立場からその解釈をぶち壊した、と所長は考えています。
ついでながら、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では兄妹相姦あるいは姉弟相姦は「罪」である以前に「狂気」ですが、日本では単なる「罪」でしかありません(なにしろ「妹」という字には「妻」という意味があります)。その意味で、「タブーは狂気と犯罪を分かつものである」と言うこともできると思います。
(Mr.Moto)
私は、人は「殺さないほうがいい」と思っています。
ちょうど、ものを「壊さないほうがいい」のと同じです。
自分が、「ものを捨てられない」性格だからかもしれません。
なんだか、もったいない気がするんです。
Xanadii wrote:
> なぜ人を殺してはいけないの?
お呼びにあずかりましたMr.Motoでございます。
私は「人を殺してもいい」と思ってます。その理由はXanadiiさんにはすでにお解りのことだと拝察するんですが、おそらくはXanadiiさん自身意識されておられないと思います。
死刑以外の合法的殺人を認めない、というのは法治国家を維持する以上しかたのないことで、安楽死を認めていない国(あるいは州)でも「法律上は犯罪だが、運用上罪に問わない」という形で安楽死を認めているケースはあります。
ですから、安楽死を実質上認めている日本において、安楽死の要件において「医師の手による」といった条件が付与されているというのも、言ってみれば「言い訳」にすぎないわけで、殺される本人が、たとえば「病気」というものに屈服、あるいは敗北する形で死ぬことに精神的な苦痛(屈辱)を覚え、恋人なり配偶者の手によって「殺される」ことによって相手に対する「何か」でありたいと望んだならば、その旨遺書なりビデオ・レターなりに残して「殺され」ればいいのであり、その場合は「依托殺人」ということで最高で四年だか六年だかであり、自首すればおおむね執行猶予がつくということになります。
で、殺す側にしても、「有罪」という判決を受ける、ということで心理的な句切りがつく、というメリットもあります。恋人あるいは配偶者が死病に冒されているにもかかわらず何もできない、という状況が続くことは恐ろしく精神を消耗させることであり、「殺人」という世間では最大級のタブーを犯すことによってそれに関わる、というのは、「喪の仕事」として効果的であると判断します(ところが警察がこれを「自然死」と認定しちゃったもんだから、犯人がなんとか自分を裁いてもらおうとして手記を書いて警察に訴える、というネタでミステリーを一本書こうと思っております。なお、この註は所長によります)。
で、問題は「ヤな奴をぶち殺してやりたい」という衝動についてですが、人間の生理というのはなかなかそれを許してくれません。頭では「ぶち殺してやりたい」と思っていても、身体がなかなかいうことを聞いてくれないのです。
だったら生かしておいていじめた方が面白いしこっちの心理的な負担も少ない、と思います。できれば「世間」というものを利用すると、より心理的に楽です。マスコミなんていうのはそういった機能を担っています。
>私は今までの人生、「今度会ったら殺してやりたい」と本気で思う相手が、
>少なくとも3人はいるんですけどね(当館に当該者はいませんからね!)、
>だからといって殺したからって、私の汚された自尊心が戻ってくるわけでは
>ない。だから殺さないってだけの話。
所長氏は実際に二人は「殺して」います(ついでながら、相手が失踪しちゃったりしたために三人ばかり殺しそこねてます)。「合法的に、社会的に抹殺する」という意味でですが。ただし「復讐として」ではなく、「邪魔だから排除した」んですが。説得の通じない相手には恫喝くらいしか手がないんですが、感情を抑えきれない人間は損得感情もクソもなく、相手を破滅させることしか考えられなくなります。言葉の通じない人間は「動物」と同じですから、「有害鳥獣駆除」と同じ感覚でぶち殺してやってもいいんじゃないでしょうか。
>こうなってくると「必殺仕事人」みたいのがいてくれないかなーってなって
>くるけど、法で裁けぬ相手を、天に替わって…ってやつね。
「天が赦しても俺が赦さん!」というのはKILROYの決めゼリフです。すべての責任を自分で引き受ける覚悟のない人間は、その手の行為に手を染めないほうがいいと思います。サポート業務を引き受ける業者はあってもいいと思いますが、最終的に手を下すのは本人であるべきだと思います。
> えっと本日最後になりますがKILROYさん、いやMr.Moto(呼び
>捨て風になったのはなにも敵意があるわけでなく、みすたー・なんとか「さん」
>ってのも変だと思った訳)でしたっけか、以前の女性差別なんとやら、の部分
>もしかして私に振ってらっしゃったのですかね。
ご拝察感謝申し上げます。なお、「Mr」の部分を省略して「あの fuck'n な Moto の野郎」くらい言っていただけると、こちらも毒舌の吐き甲斐があるというものです。
>(前略)そもそも土俵が「神聖」であるっていうのも、もしかして近世以降の
>考え方なんではないでしょうか。男であろうと女であろうと相撲取りは肥満の
>巨体、つまり「フリークス」(畸形)によっておこなわれるもので、不可触と
>された人々の生業のひとつであり、「聖別」された儀式として完成されていった、
>というのが真相なのでは?
『古事記』や『日本書紀』にはタケミナカタの神とオオナムチの神(違ったかも知んない)の闘いなんかが出てきますので、「神聖な場所」というより「異界」なのだと思います。だから「一般人の社会」とは明確に隔絶された社会の住人、ということでああいう形になったというのは十分に頷けます。女子プロレスと小人(「コビト」は差別語なのだそうで(そうだろうな)、最近は「ミゼットプロレス」と呼ぶらしい)が一緒に興行を打つ、というのも、同様に「女性+闘い」がタブーを犯すという理由だと思われます。
>でもMr.Motoの言うとおり、女が全部無防備で、異常な男をみんな排除して
>いっちまったら、あとに残るのは腑抜けばっかりになっちゃうでしょうが。
私は馬鹿は差別されてしかるべきだと思っています。「私が馬鹿なのは私のせいじゃない! 世間のせいだ! 馬鹿の人権を認めろ!」みたいな身勝手で傍迷惑な馬鹿は、寄ってたかって袋叩きにされることで、せいぜい我々のストレスの解消のお役に立ってもらいたいと本気で思っています。
私がいう「慎み」と「尊重」というのは、たとえば「職場で知り合った女性(仕事上のパートナー)と一緒に飲んだあとに彼女を送ったとして、マンションの敷地内に入らずにドアの見える場所で「じゃあ」と分かれて彼女が部屋に入るところで手を振って別れる」という一線をこちらから超えようとしない、とかいった意味です。
「だけど部屋にヘンな人がいるかもしれないから」とか言われたら、玄関まで行って靴を脱がずに待機して、彼女が安全を確認してから「じゃあ」。で、「せっかくだからコーヒーくらい飲んでいってください」みたいな話になって、話しこんでるうちに「電車終わっちゃうから」で「じゃあ」。「なんなら泊まってけば?」と言われてそのまま終電の時刻を過ぎるまで部屋に残ってから、「やっぱりタクシーでも拾うよ」で「じゃあ」。
で、玄関まで行って靴履いて、なおかつ相手の女性が別れがたそうにしてたら、すぅっと額を寄せてって、相手が目ぇつぶったらもう遠慮なし。そのまんまベッドまで連れてってぐちゃぐちゃに犯してしまいます。で、その後は「ひどい。こんなつもりじゃなかったのに」みたいな相手の泣き・愚痴を甘んじて受けるのね。ただし、「本当に厭なときは英語を使うか、タップをすること」というのは事前に申し合わせておきます。すなわち「だめ」とか「やめて」とか言うのはOKで、「ストップ!」「タイム!」とか言われたらNO。「ストーップ!」というから何事かと思ったら、ピアス外してブラウスの袖口のボタン外してパンティ・ストッキングを脱いで、それから改めて「ああっ、だめぇっ!」(^_^;)。私はシャレの分かる女が好きだ。
ここまで配慮しておいて、なおかつ「むりやりヤッちゃったんだから、責任取って結婚してください」とか言われたら、素直に「承知いたしました」と頭を下げてしまうのが男っちゅーものなのだな(言われる前にプロポーズするのが本当は礼儀なのだが)。それを女房と別れる気もないのに部下の女の子に手を出すだの、結婚する気もないのに女の子に手を出すなんぞは言語道断。こっちにその気がない場合は、もはや平身低頭、土下座をして謝るわけです。「けっしてあなたが女性としての魅力に欠けているわけではありません。すべて私が悪いのでございます」と謝罪する(「ごめんなさい、私、女房が怖いんです」というのもいい。女性に恥をかかせないためにも、理由は徹底的に情けないほうがいい)。
……で、それが女性にとって「自慢」になるような男でないといかんのだな。「私、××さんに振られちゃいましたよ。ひどいと思いません?」「それって食っちゃうのが常識よね」「『据え膳食わぬは男の恥』って言うじゃない。ねぇ?」みたいなことを職場で聞こえよがしに言われ、「ううううう、言わんでくれぇ」みたいに苦悶する、というのが、ある意味「男の勲章」でございます。仕事のできる男は、それを見て「くそー、カッコええのう」と思うんですね。
そういう「男の美学」を理解せん奴は職場でいじめられても当然、と私は考えます。女を扱えない男が人の上に立つなんていうのは、はっきり言って迷惑だから。
結局のところ、私は法治国家の限界というものを感じているために、社会通念のレベルで歯止めをかけようという考え方をするわけです。日本はそれが可能な国だと思いますし。
(Mr.Moto)
(以下、KILROY)
「障がい者」問題が続いていて非常に不快(議論をしているひとを責めているわけではない。単に読んでて気持ち悪いだけだ)なので、一発コメントを入れることにする。
「障礙者」、あるいは一歩譲って「障碍者」。これ以外の表記は使うなぁ〜! 読めないんならルビを振ってくれぇ〜! それも無理ならせめて括弧でくくって読みを示してくれぇ〜! 「礙」あるいは「碍」の字が使えないなら、「ショウガイシャ(シヤウガイシヤ)」と書いてくれぇ〜! 気持悪くて気持悪くて死にそうなんじゃぁ〜!
「礙」という字は、「さまたげる」という字なのである。「碍」は俗字だ。日本碍子(NDK)という会社があるけれど、あの「碍子」というのは、電気の絶縁体である。つまり、電気が流れるのをサマタゲる、つまりはジャマをするのが「碍子」なのである。
私にとって「障碍」と「障害」は別の言葉なのである。「摂食障碍」といえば、「食べることに困難がある」ことだし、「摂食障害」といえば、過食を含めて「摂食行動にトラブルを抱えている」という意味になる。前者はお年寄り(「老人」でいいのだこんなものは。中国拳法の世界には二十代三十代の「老師」はゴロゴロいる。「老」は「なつかしい」の意味で使うから、「旧友」は「老朋」である)に多い「噛む・呑みこむのが困難な人」も含めた概念だし、後者はアナレクシア・ナルボーザなどを含めた乖離性障害である。
だいたい「えん罪」だとか「すい星」だとか「ら致」だとか「ふ頭」だとか、見てて気持悪いと思わんのかぁ〜!
これが平気でいられる人間がASだとすると、私はASの定義をまた見直さなければならなくなる。私はこういう「理屈で割切れないこと」が大っ嫌いなんじゃぁ〜!
(以下、Mr.Moto)
オレは「障害者」という表記こそ普及させるべきだと思っている。現代において、「障礙」のほとんどはテクノロジーによって解消可能である。昔だったら近視は「障礙」だったろうが、現代において眼鏡を掛けている人間を全員「障礙者」と決めつける奴がいたらそっちの方が異常である。
世間の連中、すなわち「普通の人間」にとっては、「障礙者」は「害虫」と同じように「存在自体が悪」であり、世が世ならこの世から抹殺すべき対象なのである(ナチス・ドイツでは実際に行なわれた)。
逆の立場から言えば、生まれつきの「障礙」というのはそれほど苦にならないのである。小学校時代の所長氏は典型的なASだが、それを苦にしたことはなかったらしい。
なにしろ授業をまともに聞いていたことがないのである。勉強はすべて二歳年上の従姉に教わっており、教科書なんていうのはとっくに読み終わっており、授業中は騒ぐと叱られるのでずっとお絵描きをしていた。所長氏の母親の言うには、授業参観なんていったらその時間中ずっと後ろを向いて母親を見ていたそうである。
しかし上には上がいるもので、高校の天文部で一緒だった鈴木明江氏は高校に入ってなお授業中はずっと寝ていた。物理の教諭に加川さんという名物教師がいたのだが、演習問題を解ける奴がいない時は「しょうがない。鈴木を起こせ!」と言ったという武勇伝が伝わっている(この鈴木氏(「鈴木女史」と書くと差別になるそうだ)が京大を落ちたときは、衝撃のあまり職員室が総立ちになったというエピソードがある才媛であった)。で、この鈴木氏にしてからが「どっかヘン」なひとであった。
スティービー・ワンダーやレイ・チャールズが、自分が「黒人」であり「盲人」であるということに対してどう考えているかを想像してみてほしい。問題は、「障礙者」であるがゆえに、世間によって苦痛を受けさせられることにあったりするのである。
所長氏(当時は「KILROY」を名のっていたが)が「ASって病気なの?」と問題提起をした背景には、「障礙者」は「普通の人間」によって排除された結果「障礙者」となったわけで、「被害者」という意味で確かに「障害者」であるという現実がある。
したがって、「普通の人間の世界」、すなわち「世間」というものに対する冷たい抗議の視線、というものを含めて、「障害者」という表記を積極的に押しすすめ、結果として「障害者」という言葉が死語になり、別概念としての「障礙者」という言葉を持ってこざるを得なくなる、というのが理想なのである。
物事の本質から逃げてはならんぞ、と私は言いたい。
とはいえ、これを言うとまた百日紅に叱られそうだが。これでも最近は百日紅に配慮してポリティカル・コレクトを尊重しておるのだが、百日紅がさっぱり顔を出さんので馬鹿馬鹿しくなってきた。私は差別語を差別的な意味で使うことに対して肯定的である。差別語を差別的な意味で使って軽蔑される奴は放っときゃいいし、私は軽蔑されるために存在するキャラクターなのである。したがって今後ビビビだのビビビビビだのピヨピヨピヨだのといった言葉を堂々と使うから覚悟して……あれ? 何だなんだこれは。かな漢字変換機能が。だからピヨピヨピヨ、そうじゃなくてビビビビビ、うわぁぁぁぁぁぁあ……
(Mr.Moto)
@PHOOさん
はじめまして。
この4月から小学校5年生の男子を甥に持つ者です。
その甥は若干の障害を生まれつき持っています。甥が今年に入ってか
ら心理的にかなり落ち込んでしまい、それはもう大変な状態だったよう
です。
甥のことは、私のサイトの取材として、甥の母親である姉と頻繁に話
をすることがありましたが、今回のこの件でショックを受けてしまった
私は、確かに甥は落ち込みから立ち直りつつある中、未だに姉とは話す
ことができていません。
…落ち込んでいた時の甥は、大昔の私と全く同じだったからです。
すでにななはさんからのRESにもありますが、百戦危うからずのた
とえのように、どのような抗不安薬を処方されているか、その辺りから
攻めてみられてはいかがでしょうか。
お子さんは朝の立ち上がりが弱いとのことを拝見させていただきまし
た。ひょっとして、その「抗不安薬」というのは、CG202という刻
印がなされているのではないでしょうか。
この私のメールアドレスの「@」の前のcg202もそうですが、この刻印
を持つ薬は、抗不安薬ではないのですが、リタリンというADHDに効
果があると言われている薬で、この私も、気づけば満2年にわたって飲
み続けています。
もしよかったら、こちらをご参照ください。
http://homepage1.nifty.com/CG202/mydrug/cg202.html
それはさておき、どちらにしても、どんな薬か不明で、しかもどう飲
ませるかはっきりしない物を、しかもお子さんに飲ませるというのは、
インフォームド・コンセントという難しい言葉を持ち出さないにしても、
私の姉なら病院や保険調剤の薬局に怒鳴り込むほどの見過ごせないこと
です。調剤ミスの恐れも医療事故多発の今では無視することができませ
ん。姉の怒りに触れた薬局に閑古鳥が鳴くほどのことが起きています。
抗不安薬ということで、その副作用がお子さんにどう及ぶか、それも
心配になっています。すでに大人であったこの私でさえ、一時期飲んで
いた抗不安薬の副作用には辟易していました。
http://www11.freeweb.ne.jp/family/ms25/index.html
皆さんお久しぶりです。JETです。
昨年末からの体調不良は依然として続き、つい先日、インフルエンザ
に罹ってしまって半死半生の状態で入院の憂き目に遭いました。
内科で入院したのに、主治医の熱血治療のせいか、退院する時には精
神科扱いになったということもありましたが、それでもなんとか生還で
きたことはうれしく思っています。
入院中に、何気なしに新聞の広告で見た本をオンライン書店に注文し
て読みました。
「恋愛できない脳」(原書房・1800円+税)という本です。
レンアイについては、ずいぶん前にこちらの掲示板に投稿させていた
だきましたが、私が物心ついてから抱いていたレンアイに対するわだか
まりというか、ソーシャル・スキルのなさに起因する謎であった部分が、
この本を読んでいて、ほんの少しですが氷解していくのを感じました。
でも、こういったことを入院先のベッドの上で考えるというのは、心
理的に若干つらいものを感じましたが、この機会を与えてくれた入院中
の数日間は決して無駄ではなかったと思っています。
http://www11.freeweb.ne.jp/family/ms25/index.html
Xanadii wrote:
>> 中国語では「障害者」は「残障者」になるそうです。どーですかねーこれ。
日本のろう者が用いている、「日本手話」では、「障害者=骨を折る仕草+人々」となっています。
突然ですが、今になってこの問題を蒸し返すのもどうかと思われるのですが。
といっても、世間ではあらかた意見が出尽くし、新味がないと思われる向きもおありかとは思うのですが。
私はやっぱり一生この問題にこだわってゆきたい。
ここでは過去ログを見ても、まだこの哲学的命題が語られていると思われるものがなかったもので、ここに今一度、問わせていただきます。
なぜ人を殺してはいけないの?
「じゃあおまえは殺されてもいいのか」といった類の、単なる表層的混ぜっかえしはなしで。ルールはこれだけ。
これに関して私が考えてきたことなんだけれどね、まあひとことで言えば、「私は「人を殺していい」という世界では生きていたくはないし、明日一秒たりとも生きてはいられないだろう。これは回答のひとつ。答えは多分ひとつじゃない。あなた自身の答え、理論の展開を聞きたいのね。
さっきの私の回答だけでは不足だとしたら。私は今までの人生、「今度会ったら殺してやりたい」と本気で思う相手が、少なくとも3人はいるんですけどね(当館に当該者はいませんからね!)、だからといって殺したからって、私の汚された自尊心が戻ってくるわけではない。だから殺さないってだけの話。
まあ殺して何の得になるかって話にもなってくるのかもしれないけれど。ほら、日本には、例外的に許された殺人ってあったじゃん?いわゆる「私的復讐権」、「仇討ち」ってやつ。あれ現在では、おそらくは時代にそぐわないって理由その他があって削除されたのだろうけれど、西洋諸外国が介入してこなかったらあるいはそのまま残っていたらと思うと...。「殺人」って形じゃなくてもたとえばすっ裸にして町ん中ほうり出すことを許す!とか、ああこれじゃ別の犯罪になっちまうか(笑)。こうなってくると「必殺仕事人」みたいのがいてくれないかなーってなってくるけど、法で裁けぬ相手を、天に替わって...ってやつね。これいまでも結構ニーズ高いし、探偵事務所なんかがやってるのかも。ただ昔の仇討ちっていうのは、個人のエゴではなく、親のためわが主君のため、亡き者の尊厳のため...という大義名分が存在したと、習った気がする。しかも、ちゃんと役所にしかじかの訴状を提出した上でね。いまの「殺し」は、秩序がない。
あとは結局、殺そーと思えば殺せるし、そういう能力も備わってはいるんだが、行使しないだけって考えもあるのかな。能力っていえば、酒鬼薔薇少年の「僕には人間を2度殺す能力が備わっている」なんて思い出すけれど、そういう能力って普通じゃないかなあ。2度「生かす」っていうんなら、これはもう人間を超えたものとして認定され得るだろうけれど。まー私の頭脳を駆使していえる「殺しについて」観とは、かようにチャラいものです。
えっと本日最後になりますがKILROYさん、いやMr.Moto(呼び捨て風になったのはなにも敵意があるわけでなく、みすたー・なんとか「さん」ってのも変だと思った訳)でしたっけか、以前の女性差別なんとやら、の部分もしかして私に振ってらっしゃったのですかね。いろいろとこちらの都合でレス遅くなってしまうもので、ケンカも間延びすることはなはだしく、失礼申し上げるのですが(あ。ケンカっていってもね、私KILROYさんの主張していることはすべて、けして個人攻撃ではなくおのれの美意識をもってご自分の項を読む人すべての意識に働きかけようとしておられるのだろうと了解している訳だから、そもそも腹の立てようがないのですけれどね)、ええまあ私は特にインテリでもなければ「いわゆるフェミニスト」でもないことは、ご了解のとおりです。何となれば人間のポンコツ、自己診断名ADD/AS、貴方がエキセントリックスであれば私めはせいぜいリディクール(無能の人、でくの棒)とでも自称いたしましょうか。
勉強不足で申し訳ないのですが、中里介山の「大菩薩峠」には、たしか女人相撲についての描写があったと記憶しているけど(話中では巨体の美人力士対盲目の男達という、世にもおぞましく怪奇な相撲試合の様相が展開している)、そもそも土俵が「神聖」であるっていうのも、もしかして近世以降の考え方なんではないでしょうか。男であろうと女であろうと相撲取りは肥満の巨体、つまり「フリークス」(畸形)によっておこなわれるもので、不可触とされた人々の生業のひとつであり、「聖別」された儀式として完成されていった、というのが真相なのでは?
ま、女性の「穢れ」ということなんですが、ミもフタもないこと言っちゃえば私毎月の生理なんて、もううんざりだしこれさえなければっていつも思うよ。人間が変わっちゃうのよね。穢れというより何らかの化学的作用を、脳の内側で感じる。もう毎回、影響の出る部分が違うのね。きっと私の場合、黄体ホルモンの出すぎね。私さあ、ほんとは自分が女だってバラすのはあんまり賢いことじゃないとは思ったんだけれど。でもMr.Motoの言うとおり、女が全部無防備で、異常な男をみんな排除していっちまったら、あとに残るのは腑抜けばっかりになっちゃうでしょうが。男女論っていうのは私のごときリディクールには予言できないことばかしだけれどね。でも理想はやっぱり理想のままにしておくほうがいいみたい。
あ。最後まで読んでくれた方なんているかどうか分からないけど、最初のテーマのほうのやつどうかよろしくね。
武田好史 さんwrote:
>あなたが見た夢で、奇妙だったものには、どんなものがありますか??
最近は見ないのですが、10年くらい前までは以下のような夢をよく見ていました。
1.町中を歩いている。自分以外には誰もいなくて寂しい感じ。どこかに向かっているのだが、なかなか行き着かず、同じ道を何度も行ったり来たりしている。
2.1とほぼ同じシチュエーションだが、歩いているとき、両足が後ろから引っ張られているかのように重く、なかなか前に進めない。
3.口の中で歯がくだけて口の中いっぱいにあふれ、じゃりじゃり言っている。
4.場所はたいてい教室。ひとりだけ仲間の輪からはずれている。
5.好きな相手からにらみつけられたり「迷惑なのがわからないのか」などと面と向かって言われたりする。
6.家族と仲良くしている。
2と3は思い出しても嫌な感じ。
最近はなぜか知らない人や芸能人と仲良くしている夢をよく見る。
あと、一生懸命起きようとしてるんだけど起きられない夢というのもよく見ます。
空を飛んだり神秘体験をするような夢は見たことないなぁ・・・
武田好史 さんwrote:
> 戦時中の日本の歴史で重視しなくてならないのは、「どちらが悪い」ということではなく、
事実関係については
いっそのこと、両説併記して「どちらが正しいかと争われている」と解説すればいいのじゃ。
戦時中のできごとが歴史的事実であるのと同じくらい、
そのことについての責任問題を50年以上も引きずってあーだーこーだやっているのも歴史的事実。
どのような観点に立った主張であれ、
「子どもたちに正しい(または「真実の」)歴史を!」などと言ってる人たちの存在にはぞっとします。
絶対的な「正しい」とか「真実」なんてあるのかい?
もう買ってしまいましたか?息子さんの生活用具。そうですよね。4月ですものね。
武田好史 wrote:
> 明日のNHK教育テレビ「にんげんゆうゆう」(19:30)は、ASの子供たちのことを特集するようです。親御さんはぜひ見てみて下さい。
見ました!!
教えてくれてありがとう。
武田好史 wrote:
> 明日のNHK教育テレビ「にんげんゆうゆう」(19:30)は、ASの子供たちのことを特集するようです。親御さんはぜひ見てみて下さい。
はい。私“親”でありながら親の仲間には入っていけない“本人”なのですが
・・・見ました。
自然な感じがとっても良かったです。
嘘偽りのないストレートさも良かったです。
ありのままが伝わって来て、画面の前でうなずきながら見てました。
アスペの会に拍手です。
久々に杉山先生のお顔も拝見できてちょっと嬉しいMebiusでした。
大切なのは教科書の内容量ではなく、「学び方」なのではないでしょうか。
いちから十まで手っ取り足取り教えるのは、学びはじめ、学びたての子供たちにとっては、最重要項目ではあるかと思います。教科書はあくまでそのための手引書、教師は子供たちの、みずみずしく、あくなき知的欲求心の火付け役であるのが理想でありましょう。つまり「なにをいかにして学ぶか」を、段階を追って子供たち自身に考えさせ、目をひらかせるのは、教室を出発点として、人間社会すべてがフィールドなのであり...ありゃなんか私、あたり前のことばっか言っちゃってるよな。でも、私も自分が学ぶ年齢の子供だったら、「教科書を信じすぎたり、あてにするな」という言葉も聞きたかったよ。だってさあ、大学はいったとたん、「義務教育ってやつはいったい何を教えているのか」なんて、あたかも私ら(ここでいう私らとは、まかり間違っちゃって学士を志した連中のことね)のせいであるかのように、教授は嘆かれておられてね。ま、よく言われるように大学っていうのは「世の中」じゃないんだから、こんどは社会人になってからこっち、大学流ってやつも振るわなくなってきて、私みたいのはあっちでもこっちでもやっかい者扱いされていくことになるのね。ありゃ愚痴になっちゃった。
とにかく「新鮮さ」「学究心」だけは失われることのないように、ウソを書いたんなら書いたなりに、どういった歴史的必然性があったのかを、ちゃんとわかるように説いていくのは生きた「からだ」、つまり教師たちな訳だからさ。私はむしろそっちのほうが心配だよ。いまどき常識も知性のかけらのへったくれもないような、へんな奴が多いからね。
...あ、教科書の話なんていうから、自分が数学の成績がLDなんじゃないか?てぐらい絶望的で、追試2度受けたこと両親に言えなかったり、大学入試(いにしえの共通一次ね)で自己採点結果23点だったりしたことを、思い出してしまった...こんな私に教育をどーたらいう資格など、ありませんでしたね。
今なんて教科書もテスト用紙も、紙質なんて世界最高でカラーで、他国から見ればうらやましい限りなのに。私だって教科書の内容の方が貧弱で、あけてびっくり、なんていうのは悲しいけれど。逆に歴史の流れとともに教科書が複雑精緻になってゆくっていうのは、可能なもんなのかしら。
教科書編纂者がAsならばあるいはね?結局その流れか(^-^)。
風鈴 wrote:
>来週には息子を北海道に送り出す為、ここ数日その準備に追われながら・・・
>なんか無性に淋しくなってしまって・・・荷造りしていても、生まれた頃からの思い出が走馬灯の様に駆け巡り、涙が溢れてくるのを悟られない様にするのが精一杯の毎日です。
風鈴さん、こんばんは。
息子さん、一人っ子なのですか? なんだか私、淋しい気持ちわかります。
私も息子をどこかに山村留学でもさせた方がよっぽどいいのかな〜、なんてずっと考えてましたから・・・。
(北海道には結構あるんですよ。自然に恵まれた(恵まれすぎた?)過疎地域で廃校寸前の学校。)・・・でも私には出来なかった。・・・心配だし淋しいし。
今だって、息子の将来の事、高校はきっと地元の学校だし、大学だって家から通えるところがいい〜!・・・なんてね。
(そういえば、我家から通える範囲にある唯一の大学は国立だった。(^^;) )
ま、それはさておき、北海道・・・よいところです。
私は20年前に一人で北海道へやって来て、人生が変わりました。
大きな北海道の自然に身をまかせてみたら、いかに人間というものがちっぽけなものであるかがよくわかります。
所詮、人間など自然の威力にはかないません。ぜひ長期の休みなどには北海道を訪れて、疲れた心をリフレッシュなさると良いと思います。
息子さんにとっても風鈴さんにとっても、きっと良い事がありますように!
息子さんの北海道生活、陰ながら応援しています。
久々に書き込みました。
でも、風鈴さん、もうそろそろ忙しいのに読んでる暇あるのかな?
ま、いっか! 陰ながら・・・という事で。
−Mebius−
はじめまして、4歳と2歳のむすこをもつ30歳のははです。
実は長男の幼稚園にもASらしき・・(まちがっていれば申し訳ないのですが)
お友達がいます。ただ、その子は悪気はないにしろほかの子供たちをたたいたり、
帽子をバスの窓から投げたりします。大人からみればしょうがないな・と思えるのですが、正義感の強い子供からすれば悪い子、自分をいじめることおもっているようです。
むすこが・・ちゃんはなんであんなことする?ってきかれたのですが、
私自身こたえられませんでした。
私自身勉強不足、理解不足です。これからこういうことがたびたびあると
思います。むすこたちには正しことを教えていきたいのですが、
なにかよい本などありませんか。
あつこ wrote:
>こんにちは
>いつも皆さんの書きこみを読ませてもらっています。
>お聞きしたいのですが、どなたか福岡の方で AS に理解ある
>先生をご存知ないでしょうか?
>福岡方面の情報をさがしています。
>よろしくお願いします。
院長先生やスタッフに話しを聞いてみました。
病院名 野添病院
住所 福岡県久留米市藤山町
TEL 0942-22-5311
ASと診断した患者はいるらしいです。
治療は通院の場合130人いる患者を班分けしてあり、
班活動をしたり、
午前、午後で心理教育、社会技術訓練、話し合い、カラオケ、習字など etc...
のプログラムが組んでがあり、曜日ごとに変わります。
気の合った仲間で一日中話しをしてる人達もいます。
全国レベルで上位の病院らしいです。日本各地から見学に来りしています。
ASに関しては治療の難しい病気であると話しておられました。
私自身はASとは診断されていません。
ゆーり wrote:
> 「害」は「公害」「被害」などに使われてイメージが悪いという
> 考えに基づく。”
>
>ひらがなに変えたって、使ってるもとの言葉がおんなじなんだから
>意味がないのでは?と思ってしまう。
>だいたい、そんなのけちなごまかしじゃないのか?
>漢字の間にひらがなが入ってるのも変な感じで落ち着かない。
>日本語としてキレイじゃない。
ほんとそうよね。
「障害」というのは、熟語として既存のものなのだから、ひらがなにしたからどうなったって言うんでい! という抗議の手紙は、、早速次の日から新聞社に舞い込んでいることだろうから、あえて追求しないことにして。
大体さあ、新聞社の表記って、おかしなものが多すぎるんだよね。『いわゆる「日本人妻」』だの(ああこりゃテレビの謂かあ)だの覚醒剤を「覚せい剤」ってゆうのも。私はこれらの表記が使われ出した起源というものを知らないのだが、インテリの層の間でのご都合ってやつで、その言説が直接かかってくる対象(人間)と、その報道に関わる自分たちの社会的引責がどーたらこーたらいうのが、本音の部分だったりするんだろうな。
彼らとしちゃ「十分な配慮と検討を重ねた結果」のつもりなんだろうけれど、なに、『障がい者』だって?語感からしていかにも「あんたがたは特殊なんですから...」てな感じで気ん持ち悪い。それともわれわれはバカだから漢字が読めないとでもいうんでしょうか。「害」という字が人に向けられた時点で、「おまえ普通じゃない」という意識があるのは十分明白なんですから、堂々と使えばいい。それで職失う覚悟もないような奴らに、仕事してほしくないよほんと。
ご参考までに。
中国語では「障害者」は「残障者」になるそうです。どーですかねーこれ。
皆さん、どうもありがとうございました
あれから、相手は何も言ってきませんでした。
パソコンソフトは、有料・無料に関わらず、損害の補償はないとのことです。
現に、私の使っているWindows2000の契約書(?)にも「免責事項」が書かれていました。
病院とかのコンピュータ・システムも無保証で危険なものなのでしょうかね?
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