アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: つまらないQですが 4322へのコメント
No.4328  Sun, 22 Apr 2001 10:34:27 +0900  るおう [この発言にコメントする]

ななは san wrote:
>
>同じ様な悩みの方や、私はこれで乗り切っている、という方はいらしゃいますか?

最初は、、ものすごく身体がきついですが、、無理して、、
運動。。例えば,,エアロビとか、、ヨガとか、、そういうのをやっているうちに、
身体が、、代謝の良いものに変わることはあります。エアロビははーどですが、
ヨガなどは、、それより穏やか。。
ただし。。これは無理して頑張るという、、個人差が出ますから、、どうぞお大事に。ダンス系って、、楽しくなれますよ。ただしこれも個人差あり。。。


Re:共感能力  4271へのコメント
No.4327  Sun, 22 Apr 2001 09:53:44 +0900  yachan [この発言にコメントする]

やんちゃん wrote:

>はじめまして。やんちゃんといいます(なんか名前が似てますねー)。
(^^ゞ ホント。こちらこそ、はじめまして。(←これって日本語大丈夫?)

>でも解ったからといって、一緒になって嗤う気にはなれない。私も話題の人に近いからね。。

へへ私も(弱点多い。人の話が聞き取れないし、うまく言葉が出てこないし、人に合わせるのが苦手だし、基本的に人と変っているし)。私はさ、側で聞いてて、或はその人と話してて、グサッグサッって感じで暗くなってたりする。それって、私もだよって。話してる方は気づいていないのだろうけど。
それに・・、人を嘲笑しててもつまんないもんな〜。大概が。こういう人って、ストレスでも溜まってんだろうか?

>それに、そんなに馬鹿にするようなこと?って思っている。そういう人って、自分たちを「できる人間」だと思ってるんでしょうね。私はその場にいるのが、ひたすらいたたまれない。

色々な人を馬鹿にしちゃうことができる人って、「あんたはそんなに偉いのか?凄いのか?」 と思ってしまう。  それに、そんなにその人が気になるものかな〜?
>だから、こういう会にはできれば参加したくないんだけど、でも一応「顔つなぎ」っていうか、交流できる時にはしておかないと、と思って、頑張って参加しているのです。

・・・・。私はズルズルズルズルひきずるのが嫌なので、嫌な飲み会とか旅行の誘いとかスパッと断ることにしています。次回のお誘いが怖いですから・・・。
以前はよく一緒について行って、自宅に帰ると死んでました(動けなくて寝込んでた) (いいんです。仕事に関わることはないから。)

・・・え〜と、今回つい過去の色々な不快な体験を思い出して書き込んでしまいました。で、その人達(普通の人という言葉で)の全てを否定しているような文章みたいになってしまって反省してたりします。ごめんなさい。


ワードハンター心得 4325へのコメント
No.4326  Sun, 22 Apr 2001 09:36:56 +0900  Maria [この発言にコメントする]

青りんごさんwrote:
>この手の作業に『広辞苑』などは有効でしょうか? 来月から値上がりするらしい
>ので、購入するなら十日以内にしなければ……と考えています。

 「国語辞典を引く」というのは、意外に効果的ではなかったりします。出費を考えると、あまりおすすめできません。知人か親戚に子弟が高校に入学したとか大学に入学したとかいう人がいたら、その人に「『広辞苑』とか余ってませんか?」と訊くのがひとつの手です。卒業祝いだとか入学祝いだとかで、だいたい一冊や二冊は余分が出ます。
 もらいっぱなしでは悪いので何かお礼を、と考えるのですが、そうするとそっちの方が高くついちゃうこともあります。「安いモンでごまかせる相手」を狙う、というのもひとつのコツです。

 ただ、辞書に載っている言葉、というのはスーパーでプラスチック・トレイに載せられて売られている魚の切り身みたいなもので、しょせんは「死んだことば」です。だから辞書ばっか引いてると、「なんか、『ことば』が身についてない」という感じになります。沖縄でいう「知ったかー」「学ぶりー」です。ですから、「自分の言葉」を見つけるよう気をつけましょう。
 私の恩師の佐貫亦男先生は、「翻訳はこたつに限る!」とおっしゃっていました。で、辞書をなるべく遠くに置いておくのだそうです。そうすると、「日本語としてこなれた訳」になるそうです。

 ただし、「国語辞典を読む」という方法はお勧めです。社会人として手紙を書いたりいろいろと使うことがあるので、これは一冊買っておいて損はないでしょう。『岩波国語辞典』派と『新明解国語辞典』派が二大派閥と言われております。

 『新明解−』(ただし、三版以降)では「合体」の項に『(1) 起源・由来の違うものが新しい理念の下(モト)に一体となって何かを運営すること。「公武−」(2) 「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。』とか書いてあって、「通好み」と云われており、『岩波−』はマスコミ関係が用字・用語を統一するさいの目安にするので愛用者が多い、と云われています。

 日常的なトレーニング方法としては、「語源を調べる」「英語で言い換えてみる」というのが効果的ではないかと思います。

 「普通である」だったら、「一般的である」「珍しくない」「おかしくない」「劣っていない」「正常である」「ノーマルである」「スタンダードである」「エキセントリックでない」みたいな感じでずぅっと挙げてゆくわけです。そうすると、「ある規範から逸脱することで注意を惹くことがない、あるいは非とされないこと」みたいな性質が浮かびあがってきます。つまりは「法的にいって犯罪ではない」とか「医学的にいって病気ではない」とかいうのが「普通」で、「〜的にいってアリなもの」は「フツウ」だと言えましょう。こう考えると「若者ことば」というのもけっこう日本語として正しい、ということがわかります。

 こういうときにあたし自身が使っている辞書は、百目鬼恭三郎(どうめききょうざぶろう)さんに『風の書評』という本の中で「高校生にだけ使わせておくのはもったいない」と紹介されてから人気が出た『例解古語辞典』(三省堂)と、『新明解漢和辞典』(三省堂)と『新英和中辞典』(研究社)です。『イミダス』や『現代用語の基礎知識』なんていうのも便利は便利だけど、そういうのいちいち買ってるとお金がいくらあっても足りません(「そのうちシステムソフトあたりから評価用ベータをギッてきてやる」と所長さんは言っています。あてにしないで待ってましょう)。

 でまあ、こういうトレーニングを積んでいると、半年くらいで「あのひと、頭いい」とか人に言われるようになるはずです(もっとも、「あの人は理屈っぽくていちいちうるさい」くらいのことも言われるようなことにもなるんですが)。そうすると、話の合うひとというのが周りに集まってきたりします(ハエやハゲタカやカラスみたいなのも寄ってきますが)。

 メモ用紙と鉛筆を常に携帯して、思いついたことを忘れないうちにメモする、というのはいい習慣だと思います。これは人によってさまざまな流儀があり、京大式ノートだったり3・5カードだったりシステム手帳だったりします。
 「このとき、一番大切なことは何かわかるか?」「『忘れないうちにメモする』こと」
 「理由は解るな?」「忘れちゃったらメモできないから。」
 お約束のギャグでございました。ぺこり。(←一礼している)

 またまたいっぱい書いてしまった。反省反省。 − Maria −


Re:Re: 『共和国』その後 4316へのコメント
No.4325  Sun, 22 Apr 2001 02:31:32 +0900  青りんご [この発言にコメントする]

Maria wrote:
>
> 「調子」と「具合」と「加減」の意味の違い、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いというのは、決して「あいまい」ではありません。
>
そうですね。
私の頭の中で、「これらの語彙の認識が曖昧だ。明確でない。」という事なんでしょうか。
>
>まず青りんごさんが、教えようとする言葉について、「思いつく限りの用例を掻きあつめ、そこから自分が無意識に使い分けていることを、なんとか意識の上に引っ張りあげて整理し、その上で分かりやすい説明を考える」ことをしなければならないんです。
> ……でまあ、そういうことをいちいちやっていると手間がかかってしようがないので、

本当に手間の掛かる作業です。幼児期は、なんとか自分なりに調べつつこなしていましたが、今後のことを考えると今の私では早々に限界が来るだろうと予想しています。(この手の作業に「広辞苑」などは有効でしょうか?来月から値上がりするらしいので購入するなら10日以内にしなければ・・考えています。)
>
> つまり、実際問題として、現在そういう分野で役に立ちうる人物というのは……たぶん世界中探しても、大野晋先生や金田一春彦先生を含めてなお二十人以上ということはないと思います。で、我が大森総研の所長さんは、その中の貴重なひとりなんです。だもんだから、「これは何とかせねばいかんのじゃぁ〜っ!」とかいって、所長さんとKILROYさんは騒いでいるんです。

少なすぎますー。一家にひとりこうゆう方がいてくれれば・・。
>
> と、いうわけで、今のところもっとも効果的な教育方法は、「娘さんと一緒に悩み苦しむ」というものだったりします。娘さんにとって青りんごさんは、「ぜんぜん勉強してないのに、成績のいい優等生」と同じ立場にいます。ですが、「それを明確に説明する義務を負う」という立場に立ったことで、青りんごさんはようやく娘さんと同じ場所に立つことができた、ということです。

最近は即答できない質問も増え「調べて後日、回答するからねー」と・・。(たまに「明日、担任に聞いてみてね」ということもありますが)
私自身は「いつも宿題が溜まっている状態」なんです。
子供が寝静まった後に、「あーだ、こーだ」考えるのが日課なんですが、それでも
「効果的な教育方法」だったのでしょうか。

> ですが、いずれにせよそのためのテキストは、これから作らなければならないんです。そのためのネットワークづくりも、現在準備を進めている段階にしかすぎません。ですから我々としては、そのための働きかけを青りんごさんにも手伝ってもらいたい、くらいに思っているんです。

こうゆうテキストが存在すれば、私も図書館通いから解放されるし、家事もはかどるのですね。

> まず、同じような悩みを抱えるひと同士が集まってネットワークを作り、関係各所に働きかけを行ない、ノウハウを結集してお互いに知らせあう……そうした地道な努力を続けることしかないと思います。
>
> よろしかったら参加してください。ご連絡お待ちしております。

「ただの一主婦がどこまでお手伝いできるものなのか?」いささか疑問ではありますが、迷惑にならない程度にお手伝いさせて頂きたいと思います。
メールを送らせていただきましたので、よろしくご検討願います。


Re: つまらないQですが 4322へのコメント
No.4324  Sun, 22 Apr 2001 02:17:15 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 揉ませてほしい、と思う。

 (KILROY)


人間として向き合うこと(横レスです) 4315へのコメント
No.4323  Sun, 22 Apr 2001 01:48:37 +0900  さくらかのえ [この発言にコメントする]

あさかぜ さんwrote:

>そのひとがもし自分のグループのこどもたちに「小5の○○さん、中1の○○くん」と呼びかけたら、その場で監督者から「お前は今すぐ荷物をまとめてここから出て行け」と告げられることになります。理由は一切説明されません。
>自分でその理由を考え反省し、監督者とグループのこどもたちに謝ることができれば、そこに留まることが許されることもあります。『人間として向き合う』ことは日々鍛錬していかなければ見につかないし、鍛錬を怠ればすぐに忘れてしまうものだという考えかたがその根底にあります。

厳しい世界ですね。
社会生活をしていると、どうしても人を肩書やなにかのカテゴリーで見てしまいます。
5分と経たないうちに追い出されてしまいそうです。


つまらないQですが
No.4322  Sun, 22 Apr 2001 01:14:15 +0900  ななは [この発言にコメントする]

みなさん、こんばんは。いつもありがとうございます。
私は最近特に辛いなあと思う肉体的な悩みがあります。
集団行動が苦手だったため、学生時代から運動クラブには一切入って
いませんでした。それも関係しているのかなと思うのですが、代謝が悪く、
体質的に非常に冷え性で悩んでいます。体脂肪率は女性の許容範囲の最低の
パーセンテージです。今日たまたまホテルで夕食を取る機会があったのですが、
ちょうど冷風の空調の下に席が決まってしまい、食事は一時間足らずだったのですが、身体が冷え切ってしまい、咳が止まらなくなって困りました。
応急措置として漢方薬、血行促進剤としてのデパス、温かい煎じ茶・お風呂等
でやっと2時間ぐらいして寒気は収まりました。
下着・靴下等もかなり気を遣って温かくしているのに、少し冷風に当たっただけ
でこの始末です。単に適応力が不足しているのかな、とかなり憂鬱です。
寒いとてきめん鬱状態や気力停滞や、漢方で言う水毒の状態になってしまいます。
同じ様な悩みの方や、私はこれで乗り切っている、という方はいらしゃいますか?


Re:Re: いじけ虫のつぶやき 4310へのコメント
No.4321  Sun, 22 Apr 2001 00:20:52 +0900  Maria [この発言にコメントする]

大槻いつきさんwrote:
>大森総研のみなさまが実は同一人物だと思うとなんともはやな気分ですわ
>わたくし。
>でもでも、わたくし繊細なあまり強くならざるをえないMariaさんが大好
>きですことよ。

 ありがとぉ〜! いつきさぁ〜ん、愛してまぁ〜す!

 ……というような話は置いておいて。よいしょ。(←置いている)
 あたしはなんでこんなふうに発言しまくっているのか、という話をしようかな、と思う。

 で、なんでか。それは楽しいからだ。
 ……こう言ってしまうとミモフタモないのだけれど、もうひとつの大きな理由は、「発言する楽しさ」っていうのをみんなに知ってもらいたい、というのがあったりする。

 この掲示板を見ているひとのほとんどは、たぶん自分ではカキコなんかとてもできない、と思いながら見ているんじゃないかと思う。「文章の才能がある人って羨ましいなぁ」とか思っているかもしれない。だけど、あたしは「そうじゃないんだよ」と言いたいのである。

 文章を書くことの七割は、才能ではない。残りの三割にしても、「才能」というよりも「個性」の部分がほとんどであり、この掲示板のメンバー大部分はといえば、ASあるいはAS傾向という個性の持ち主だったりするのである。だったら、残りの七割をなんとかすれば、たぶん百点満点で八十五点くらいをコンスタントに狙える人がほとんどなんじゃないかとあたしは思うのである。

 じゃあ、その「残りの七割」というのは何かといえば、「理論」と「訓練」と「スタイル」だと思う。

 あたしの『いじけ虫のつぶやき』(No.4309)にしても、じつは、そうだったりするわけです。

>あたし、「Maria」なのに。しくしく。あたし、けっこう人の名前には気とか
>使ってるのに。めそめそ。
>いいもん。ASの妻もどきさんとか、BISさんとか、そういうひとと仲良くし
>ちゃうもん。いじいじ。

 あたしの言いたかったことは、「人の名前は正確に表記しよう」ということも含めて、「自分なりの規則を定めて、それに忠実な文章を書こう」ということだったりする。これが「スタイル」だ。そのスタイルが厳密であればあるほど、そこからの逸脱というのは目につくことになり、それを「文章の味付け」として生かすことができる。だけど、テンやマルの打ちかたもめちゃくちゃ、改行も不規則、かな漢字変換のミスも放ったらかし、言葉遣いぐちゃぐちゃ、みたいな文章だと、文章のどこにポイントがあるのかがまるっきり判んないのである。

 で、それをどう表現するかなのだけど、ここに書いたようなことをそのまま言っちゃったとしたら、これは単なるお説教になってしまって、読むひとだって不快になる。で武田好史さんとXanadiiさんをオカズというかサカナというか、そういうものにさせてもらったのだけど、それがおふたりの非をとがめるみたいな形になっちゃったら、これは失礼なことになってしまう。

 そこで、あらかじめ「あたしはいじけているんだぞ」という意味で、『いじけ虫のつぶやき』というタイトルをつけ、おふたりを責めるのではなく自分がいじけることで、ポイントを強調したというわけだったりする。
 で、あたしは「こんな掲示板からは出ていってやる!」みたいなことも言わず、ただASの妻もどきさんやBISさんと仲良くすると宣言しているわけで、これにはまったく実害はなかったりするのである(←オカマにすり寄られるのが迷惑でなければだが by Mr.Moto)。

 ……そう、↑こうやって雰囲気が気づまりになりそうだったらすかさずハズす、というのもパターンのうちだったりするのですね。で、こういうものの集積が「スタイル」だったりするんです。

 「ちゃんとした文章」の書き方については、いろんな本が出ています。ですから、「理論」の部分を勉強するのに不自由はありません。「スタイル」については、「このパターンは面白いからまねっこしてしまおう」みたいに、ちょっとづつちょっとづつ作っていけばいいと思います。で、それを自分のものにするためには、やっぱり経験、つまり、実際に文書を書いてみて、あーでもないこーでもないとひねくってみる時間、というのが必要だと思います。

 「まず文章を書くだけでも大変だし、自分の考えてることを伝えるだけでも精一杯なのに、『どう伝えたらいいか』まで考えてられないよぉ!」って、言われちゃうかもしれません。ですけど、いちばんの読者は自分です。自分がいったい何をどう考えているのか、をはっきりさせるには、「とりあえず書いてみる」というのがかなり有効です。「書くことは考えること」です。書くことで、自分が見えてくる……ということは、あるんです。本当に。
 この掲示板にやってくるひとは、みんな、自分のことをぐるぐるぐるぐる考えて、苦しんできているひとだと思います。そういうひとにとって、「書く」という行為はたぶん「癒しへの道」になるんじゃないかと思います。だからあたしはあえて言います。「書きなさい」と。

 そんなわけで、あたしは自分を癒すために文章を書きはじめ、いまやその福音(「福音」というのは「いいこと」ということです)を宣べ伝えるために文章を書いています。

 どうです? 発言してみませんか?

 とはいえあたしはやっぱり自分のために書いているような気がする。 Maria


質問(吃音・どもりについて) 4319へのコメント
No.4320  Sat, 21 Apr 2001 23:15:16 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

みなさんの中に吃音・どもりで悩んでいる人はいませんか?
 私はよく、自分ではちゃんと話しているつもりなのに、相手から「何て言ってるのか判らない」「もごもごと話すな!」ととがめられることがあります。
 特に何か仕事をしたりして疲れているとき・心配事があるとき・なんか伝えたいと焦っているときに、そういわれるので、時たま家族喧嘩の種になってしまいます。
 このようなときは、何となく耳がキーンとしていて、口の周りの筋肉がうまく動かせないような感じがします。必死で話しているのに、判ってもらえなくって、とてももどかしい感じがします。子供の時からずっとそうです。父が60才を越え、だいぶ聴力がおとろえてきたようなので、今後のコミュニケーションに著しい不安を感じています。

 ドナ・ウイリアムズさんは、「自閉症だった私へ」の中で、自分の話し言葉の不安定性を

#何かものを説明するとき、私の話しぶりや声のピッチ・アクセントは、全く不安#定だった。ある時は極めて上品なアクセントで洗練された話し方ができるのに、#別の時には、スラム街で生まれ育ったかと思うような喋り方になってしま#う・・・

と述べていますが、正にそんな感じです。


ヒマネタだったりする。
No.4318  Sat, 21 Apr 2001 23:02:58 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 他のひとのカキコが少ないものだから、なんか退屈。
 そんでもって、ヒマネタに走ってみる。
 ASのこだわりを感じてもらえれば、ありなのではないかと。

 「下着」と「ランジェリー」
 下着は上着の反対語。英語の “underwaer” に相当する。したがってシャツと名のつくものは下着の扱いであり、Tシャツもワイシャツも下着のうち。ついでながら日本では靴下も下着の一種(→『「靴下」と「ストッキング」』)。
 フランス語「ランジェリー( “lingerie” )」の語源は「麻(リネン)の下着」であり、装飾性の高い下着のことである。ただし、ストッキングはランジェリーではなく “hosiery” (靴下類)で別扱い。
 英語「ファウンデーション( “foundation” )」はラテン語 “found” (「…の底を置く」)から、「土台、基礎」の意。「基金」を意味する英語 “fund” も同源。基礎化粧品をファウンデーションと呼ぶのも同じ理由から。体型矯正機能があるものは原則的にファウンデーション。
 したがって、「ランジェリーは見せるもので、ファウンデーションは隠すものである」といえる。
 なお、肌に直接つける衣類が「肌着」で、下着の一種。

 「ブラジャー」と「キャミソール」
 フランス語「ブラジャー( “brassie´r” )」はフランス語で「小さなキャミソール」の意味。
 「キャミソール( “camisole” )」は古い英語で「女性用の長下着」(→「スリップ」と「ネグリジェ」)。

 「スリップ」と「ネグリジェ」
 「スリップ( “slip” )」はドレスの下に着て肌との滑りをよくするもの。
 なお、「スリップ」と間違えやすいものに「スリッポン( “slip−on” )」(「スリップ・オン」とも)がある。スリッポンは、ボタンや紐などの留め具がなく、滑らせるようにして脱ぎ着できるもの」を指す。頭から被って着る「スリップオーバー( “slip−over” )」やセーターのような「プルオーバー( “pull−over” )」などもスリッポンの一種。肩紐で留めるタイプの女性用の服で、上からも下からも着られるものを「スリップ・オン・ドレス」といい、この形の下着や夜着を「スリップ」と呼んでいる例もある。
 「ネグリジェ( “ne´glige´” または “negligee” )」は女性が寝巻の上に羽織る化粧着・部屋着。日本語でいう「ローブ」「ドレッシング・ガウン」である。日本語でいう「ネグリジェ」は “night gown” か “nightdress” で、口語では “nighty” 。

 「パンツ」と「ショーツ」
 「パンツ( “pants” )」は「パンタロン( “pantaloons” )」の略。「パンタロン( “pantaloon” )」は、古いイタリア喜劇・黙劇(パントマイム。「パントマイム」はギリシャ語の「すべてを真似る人」から)のパンタローネ(痩せこけた老人の役)を意味し、パンタローネが細身のズボンを穿いていたとこから、「ぴったりしたズボン」のことをパンタロンと呼ぶようになった。「パンティ( “panties” )」は「短いパンツ」。
 「ショーツ( “shorts” )」と「ブリーフ( “brief” )」は共に「短いもの」を意味し、本来は同じもの。
 「スキャンティ( “scanties” )」は「不足した」の意。覆っている面積が少ないものを特にこう呼ぶ。
 「Gストリング( “G−string” )」は一枚布の前後に紐が結んであるもの。左右の紐を均等な長さに縛るのが厄介なため実用性に欠け、用途は主に女性用のランジェリーに限られる。別名は「バタフライ」「ストラップビキニ」「紐パン」。
 「トランクス( “trunks” )」は「(首や四肢と区別して)胴、胴体」を意味する “trunk” から。
  “trunk hose” (複数扱い)は十六・十七世紀に流行した(主に男子用の)股までの長さの半ズボンで、中に詰め物をして穿いた。昔の王子様が穿いている提灯ブルマーのようなものがこのトランクホース。その後「股までの長さの半ズボン」を意味するようになってトランクスと呼ばれるようになり、さらに半ズボン型の下着をトランクスと呼ぶようになった。ちなみに下着のトランクスの場合、ヨーロッパ式には前開きがなく、前開きがあるのはアメリカ式。映画『キャノンズ』(ジーン・ハックマン主演)には、被害者の身元を下着からヨーロッパ人と割出す場面がある。
 「ズボン」はフランス語 “jupon” から。ポルトガル語( “giba~o” )経由だと「襦袢(じゅばん)」。本来は上から下までの長着を指したが、日本語になる過程で上下が別れてしまった。
 これ以外に、「股覆」ともいうべき名称不詳の下着がある。これは一枚の布を前後にあてがい、腰に締めた一本の紐で留め、余った部分を前後に垂らすタイプ。この形の下着はヨーロッパ・アルプスで発見された五千年前の凍結ミイラが着用していたことが分っているし(文献)、イエス・キリストが着ていたのもこのタイプだとされる(註)。現在でもアメリカ・インディアンやポリネシア等の南島原住民の民族衣装として残っている。
 「ふんどし」は「踏通し」が語源とされ、「たふさぎ」(「股塞ぎ」が語源といわれる)の別名もある。代表的なものは「越中褌」「六尺褌」「もっこ褌」の三種。
 「越中褌」は、布の一方に紐をつけて後ろに回し、腰紐で前を押さえて垂らすもの。同じ形のものに、医療用に使われる「T字帯」がある。
 「六尺褌」は長い一枚の布を巻いて腰を覆うもの。相撲の「まわし」がこのタイプ。問題なのは下着として着用するとかさ張るというのと、横になると後ろの結び目が腰に当たって痛いこと。
 「もっこ褌」は、布の前後に紐通しがあり、一本の紐を通して脇で結ぶものである(前だけは縫いつけてあるものもある)。紐さえ解けば下ろさずに用が足せるなど便利な面も多いのだが、紐が抜けてしまうと道具なしには元に戻せないという欠点もある。

註)
 『兵士たちは、イエスを十字架につけてからその服を取り、四つに分け、各自に一つづつ渡るようにした。下着も取ってみたが、sれには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、くじ引きで決めよう」と話し合った。』(『ヨハネによる福音書』、十九・二十三−二十四)

文献)
 コンラート・シュピンドラー著/畔上司訳、
 『5000年前の男 解明された凍結ミイラの謎』、文藝春秋社、1998、
 文春文庫、ISBN4−16−730977−7

 「シャツ」と「ブラウス」
 英語「シャツ(“shirt”)」は古代英語の「短い」が語源で、シャツブラウス(“shirtwaist”)の省略形。シャツ襟のワンピースでありシャツドレス(“shirtwaister”)は、シャツの先祖帰りであり、シャツという名がありながらシャツではないというややこしい存在。
 ちなみに「シャツ」と同じ語源の言葉に英語「スカート(“skirt”)」があり、「裾」の意味。このあたりは日本語の「襦袢」と「ズボン」の成立事情に似ている(→「パンツ」と「ショーツ」)。
 英語「ブラウス(“blouse”)」は上半身に着るもので上着とも下着ともつかないものをいう。もともとは軍装の一部だったものが女性のファッションに取入れられ、なんとなく「女性用」というイメージが定着したらしい。しかしながら作業服の上(上に着るジャンパーではなく、その下の上半身)や軍服の上(礼装用の軍服ではなく、野戦服の上半身)も「ブラウス」である。

 「ダブル・セット」と「ダブル・ニット」
 「ダブル・セット」とは、同じ糸、同じ柄で編んだカーディガンとセーターのセットをいう。「ダブル・ニット」は誤用。

 「背広」と「スーツ」
 日本の「背広」は、一般にジャケットとズボンが同じ布でできているもの。これにベストがつくと「三揃い」。
 「スーツ」は、「揃い」のことで、日本でいう三揃いのこと。ホテルの続き部屋も「スーツ」
 背広というのは詰襟の軍服のいちばん上のボタンを外して折り返し、下のボタンを外して崩して着たものがスタイルとして定着したである。襟に隠しボタンがある場合は、坐るときだけ一番下のボタンを外すというのが正式らしい。

 「チョッキ」と「ベスト」
 日本語「チョッキ」はポルトガル語 “jaque” が変化したもの。日本語「ジャケツ」は英語「ジャケット( “jacket” )」から。ジャケットは英語「コート( “coat” )」(日本語「外套」)の短いもの。
 米語「ベスト( “vest” )」はラテン語の「衣服」から。英語では「ウェストコート( “waistcoat” )」
 なお、女性用の胴着は “bodice” という。

 「スパンコール」と「ラメ」
 英語「スパンコール( “spangle” 」は「ぴかぴか光るもの」。
 フランス語「ラメ( “lame´” )」は、金属製の金糸・銀糸。
 したがって、ラメもスパンコールの一種のはずだが、スパンコールといえば金具、ラメといえば金糸・銀糸と使いわけるケースがほとんど。

 「靴下」と「ストッキング」
 靴下は靴の下に穿くから「靴下」なのだが、英語では “hose” (発音は “ho´uz” )。撒水用のホースと同じで、複数形で靴下類を表わす。ただし “hosier” は「靴下屋」ではなく、米語で「洋装小物商」、英語で「下着商」。
 ちなみに「パンティストッキング(日本語における略称は「パンスト」)」は英語で “panty hose” (複数形なし)。
 「ストッキング( “stocking” )」は「メリヤス編み( “stockinette” または “stockinet” )」から、膝上まである長い靴下のこと。ただし、英語で「ストッキングを穿いて( “in one´s stockings [stocking feet] ”)」は、「靴を脱いで」の意味。したがって、「ストッキング」のほうが「靴下」の語感に近い。

 「ガーター」と「サスペンダー」
 「ガーター( “garters” )」は古いフランス語で「脹脛(ふくらはぎ)」のこと。ここから「靴下留め」の意味になった。
 「サスペンダー( “suspender” )」はラテン語で「下に掛ける」を意味する英語 “suspend” (「吊るす」)から、「ズボン吊り」「靴下吊り」をいうが、米語では女性用のストッキング用靴下吊りのことを「ガーター」という。

 「サンダル」と「ミュール」
 「サンダル(“sandal”)」は古代エジプトから存在した履物で、革紐で足に留めるものの相称。踵の紐があるのは「サンダル」。日本の「草履(ぞうり)」や「草鞋(わらじ)」はサンダルの一種。
 「ミュール( “mule” )」は日本語でいう「スリッパ」で、別名は “scuff” 。本来の「スリッパー( “slipper” )」は、踵の低い室内履き。
 米語の「ゾーリ( “zori” )」は、「主に薄くて安物の、海岸用や室内用の日本式サンダル」。ほとんどが台湾製であるという話。

 最近ちょっと暴走ぎみの Maria


Re:Re: 『共和国』その後(補) 4316へのコメント
No.4317  Sat, 21 Apr 2001 21:09:31 +0900  Maria [この発言にコメントする]

 「ちょっと」と「すこし」に関しては、所長さんから以下のようなデータの提供がありました。

問題:「ちょっと」と「すこし」)
 「ちょっと」と「すこし」は、ほぼ同じ意味に使われますが、微妙に違います。
 だいたいにおいて、「すこし」の代りに「ちょっと」を使ってもほとんど意味は変わりませんが、その逆は成立たないことがときどきあります。
 たとえば、「ちょっとそこまで」とは言うけれど、「すこしそこまで」とは言いません。
あるいは、「ちょっと!」と声をかけることはあっても、「すこし!」と声をかけることはありません。
 「日本酒、どう?」なんていう質問をされたとき、「ちょっと」と答えれば「ちょっとだけなら」という容認の意味と「ちょっと遠慮させてください」という拒絶の意味の両方の可能性がありますが、「少し」と答えればふつうは「少しだけならいただきます」という意味を考えて、拒絶の意味は考えません。
 「ちょっと」と「すこし」はどこが違うのですか?

解答:
 「ちょっと」は「“ちょい”と」(あるいは「ちくっと」「ちょくと」)が語源で、副詞です。
 「すこし」は「少しく」から派生した形容詞の連用形で、「すこしの」という連体形があります。
 「ちょっと」は動作(あるいは変化、差など)、「少し」は量に対して用いる場合が多いようです。
 「ちょっとそこまで」は「ちょっとそこまで(行ってくる)」ですが、「そこ」はすでに「少しの距離」なのが分かっているので、「少しそこまで」だと「少し(の間)そこまで(行ってくる)」という感じになり、そういう表現が使われる場面が想像しにくくなります。
 「日本酒、どう?」と質問された場合、「ちょっと」には「遠慮します」と「注いでください」の両方の可能性が考えられますが、「少し」の場合はお酒の量以外に想像が働きにくいと思います。

 ついでながら、「日本酒、どう?」とか言われたときに「いや、ちょっと」と答え、「そんなこと言わないでさぁ」と重ねて勧められて、「いや、全然ダメなんです」とか答えてしまうと『“ちょっと”ではないではないか』ということになってしまいます。こういう場合は最初から、「いや、全然ダメなんです」と最初から言うのが礼儀です(「いや、申し訳ありません」とかいうのもありますが、これは微妙なところです)。「日本酒、どう?」「いや、ちょっと」「そんなこと言わないでさぁ」「じゃあ、ちょっとだけ」。曖昧なようで、日本語は論理的です。

 なお、日本語に関しては、以下のサイトが現在構築中(一部運用中)です。

 日本村(http://homepage2.nifty.com/nihonmura/japanese/index.htm

 − Maria −


Re:Re: 『共和国』その後 4314へのコメント
No.4316  Sat, 21 Apr 2001 18:18:00 +0900  Maria [この発言にコメントする]

Mr.Moto wrote:
> ASの人間は言語の習得に困難を覚えるがゆえに、「調子」と「具合」と
>「加減」の意味の違いとか、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いとかいっ
>たものに敏感である。こんなものは日本語の中で生活している限りにおいて
>は大して役にも立たないが、翻訳や外国人に対する日本語教育の世界におい
>ては必須の感覚である。

青りんごさん wrote:
>現在、10歳の娘(高機能自閉?)に↑のような「あいまい」な表現を教え
>ています。どうも、この辺りの感覚が理解しにくい様子です。
>視覚から教えた方が有効か?と考え 、
>「月の満ち欠けの連続写真」
>「氷が溶けていくさまをビデオで撮って見せる」
>「透明ボトルに水がたまっていく様子をみせる」などを検討している最中です。
>なかなか私自身では他に考えつきません。

 「調子」と「具合」と「加減」の意味の違い、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いというのは、決して「あいまい」ではありません。

 「木曜日、どう?」「その日はちょっと具合が悪い」とは言いますが、「調子」や「加減」は使いません。で、「その日は具合が悪い」のと「その日は都合が悪い」のでは、「現在話題にしている事柄と関連がある」「現在話題にしている事柄とは関連がない」という、明確な差があります。
 あるいは、「あの子、調子がいいんだよな」だと悪口になりますが、「あの子、具合がいいんだよな」だとエッチな意味になってしまい、「あの子、加減がいいんだよな」だと、相手の女性はマッサージ師か何かだと想像されます。

 あるいは、「ちょっと! そこの人!」と声を掛けることはあっても、「すこし! そこの人!」とは言いません。これは「あんまり使わない」とかいったレベルの話じゃなくて、はっきりした差です。

 また、『奇跡の人』ではないのですから、いくら「概念」を教えてもダメなのですよ。これは「概念」と「ことば」の間の行ったり来たりがどれだけスムーズにできるかどうかなのですから。したがって、「月の満ち欠けの連続写真」「氷が溶けていくさまをビデオで撮って見せる」「透明ボトルに水がたまっていく様子をみせる」といった方法では、言語能力を発達させることはできません。

 そもそもの問題点は、青りんごさんにとって「あたりまえ」であることが、青りんごさん以外の人にとっては決して「あたりまえ」ではないことです。ですから、まず青りんごさんが、教えようとする言葉について、「思いつく限りの用例を掻きあつめ、そこから自分が無意識に使い分けていることを、なんとか意識の上に引っ張りあげて整理し、その上で分かりやすい説明を考える」ことをしなければならないんです。

 ……でまあ、そういうことをいちいちやっていると手間がかかってしようがないので、一応アンチョコをご紹介します。ジャパンタイムズ社から出ている、『日本語基本文法辞典(A DICTIONARY OF BASIC JAPANESE GRAMMAR)』(五千八百円!)です。ただし、この本は英語で書かれている(つまり、英語を理解する人のために書かれている)ので、英語がわからないと役に立ちませんし、そもそも必要なことのごく一部しか載っていません。

 「みんなで考える日本語教育」(http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/3484/)というサイトがあるにはあるんですが、ここもほとんど役に立ってはくれません。

 つまり、実際問題として、現在そういう分野で役に立ちうる人物というのは……たぶん世界中探しても、大野晋先生や金田一春彦先生を含めてなお二十人以上ということはないと思います。で、我が大森総研の所長さんは、その中の貴重なひとりなんです。だもんだから、「これは何とかせねばいかんのじゃぁ〜っ!」とかいって、所長さんとKILROYさんは騒いでいるんです。

 と、いうわけで、今のところもっとも効果的な教育方法は、「娘さんと一緒に悩み苦しむ」というものだったりします。娘さんにとって青りんごさんは、「ぜんぜん勉強してないのに、成績のいい優等生」と同じ立場にいます。ですが、「それを明確に説明する義務を負う」という立場に立ったことで、青りんごさんはようやく娘さんと同じ場所に立つことができた、ということです。

 もちろんわれわれも相談に乗ることはできますし、その用意もあります。ですから、KILROYまたはMariaまでメールで連絡をいただければ(タイトルの名前の部分をクリックしてください)、こちらの連絡先をお教えします。
 ですが、いずれにせよそのためのテキストは、これから作らなければならないんです。そのためのネットワークづくりも、現在準備を進めている段階にしかすぎません。ですから我々としては、そのための働きかけを青りんごさんにも手伝ってもらいたい、くらいに思っているんです。

 まず、同じような悩みを抱えるひと同士が集まってネットワークを作り、関係各所に働きかけを行ない、ノウハウを結集してお互いに知らせあう……そうした地道な努力を続けることしかないと思います。

 よろしかったら参加してください。ご連絡お待ちしております。

 大森総研スタッフを代表して Maria


MOさんへ(4312補足)
No.4315  Sat, 21 Apr 2001 13:41:16 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

こんにちは。
私は娘のことを語るのに「小3」と書きますが、これは娘の所属組織と階級を示すことばであると認識しています。
たとえばの話ですが、カウンセリングのワークショップへ行きますと『クライアントを一個の人格ある人間として受け止める』ために、所属や階級を示すことばは一切必要とされません。「○○さんのおとうさん」だとか「何々会社に勤めている」とかいうことはまったく関係なく、そのひと個人を見つめようという方法がとられるわけです。クライアントが子供であった場合(夏に菅平で不登校や非行のこどもたちを集めてサマーキャンプが行われたりします)、監督実習に来ているひと(カウンセラーの卵と思ってください)がグループリーダーを務めることもあるわけですが、そのひとがもし自分のグループのこどもたちに「小5の○○さん、中1の○○くん」と呼びかけたら、その場で監督者から「お前は今すぐ荷物をまとめてここから出て行け」と告げられることになります。理由は一切説明されません。
自分でその理由を考え反省し、監督者とグループのこどもたちに謝ることができれば、そこに留まることが許されることもあります。『人間として向き合う』ことは日々鍛錬していかなければ見につかないし、鍛錬を怠ればすぐに忘れてしまうものだという考えかたがその根底にあります。
こういう考えかたも存在するのだと知っておいていただければと思い、蛇足ながらつけ加えさせていただきました。


Re: 『共和国』その後 4311へのコメント
No.4314  Sat, 21 Apr 2001 13:00:54 +0900  青りんご [この発言にコメントする]

間違えました。改めて・・。

KILROY wrote:
>
> さて、ここで思い出していただきたい「ASに向いた職業」として必ず挙げられるのが「コンピュータ・プログラマー」と「翻訳家」である。
>
> ASの人間は言語の習得に困難を覚えるがゆえに、「調子」と「具合」と「加減」の意味の違いとか、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いとかいったものに敏感である。こんなものは日本語の中で生活している限りにおいては大して役にも立たないが、翻訳や外国人に対する日本語教育の世界においては必須の感覚である。
>
現在、10歳の娘(高機能自閉?)に↑のような「あいまい」な表現を教えています。どうも、この辺りの感覚が理解しにくい様子です。
視覚から、教えた方が有効か?と考え
「月の満ち欠けの連続写真」
「氷が溶けていくさまをビデオで撮って見せる」
「透明ボトルに水がたまっていく様子をみせる」などを検討している最中です。
なかなか私自身では他に考え付きません。
こちらにおいでの皆さんで、「これが一番解る」というご意見がありましたら
教えていただきたいです。

違う話題で申し訳ありません。
ご意見をいただければ嬉しいです。


Re: 『共和国』その後 4311へのコメント
No.4313  Sat, 21 Apr 2001 12:42:05 +0900  青りんご [この発言にコメントする]

KILROY wrote:
> 所長はその昔英語が大嫌いだった。
>
> というより、「英語が喋れる奴」が鼻にかけていた特権性みたいなものが嫌いだった。そのうえアメリカ人は英語(正確には米語なんだろうが)というのは世界中で通じて当然と信じこんでいたうえに、非キリスト教徒を「キリスト教の恩寵にあずかれなかった哀れむべき連中」と見下していた(少なくとも日本にやってくる宣教師の大半は、現在に至るもそうした勘違いの大馬鹿野郎である)ので、アメリカ人も嫌いだった。
>
> だいたい大森生まれの大森育ちという奴がアメリカを好きになるわけがない。大森の町工場は女子供まで含めた家内制工業だから、大森の住宅はみな軍需工場でありその作業員である女子供も含めて戦闘員であり、したがって京浜工業地帯への攻撃は民間人に対する攻撃には当らない、というとんでもない理屈で国際法無視の絨緞爆撃を行ない、五月の大空襲で大森・蒲田・川崎一帯を一面の焼け野原にしたのはアメリカである。戦後は住民を一夜にしてたたき出し、ブルドーザーで住宅をなぎ倒すという無茶をやらかした羽田空港の接収というのもあった。現在は移転してちょっとだけ位置がズレた羽田空港内の穴守稲荷の鳥居はわれわれの怨念の象徴である。
>
> そんなわけで外国人にファーストネームで呼ばれるのが大嫌い。譲治だからジョーだとか正男だからマーシーとかいった野郎を見ると後頭部に回し蹴りの一発もくれてやりたくなるという過激さである。
>
> したがってサインは「姓の後にカンマを打って名前」というスタイルを徹頭徹尾貫いていたし、「ミスターなんとか」みたいに呼ばれると「〜さん」と呼んでくれ、と変じしていた。さすがに面と向かってファーストネームで呼ばせろとかいう厚顔無恥な野郎はおらんかったが、「せめてMr.と呼ばせてやれ」という日本人の上司はおって、「じゃあ、私のことはモトと呼んでくれ。『ミスター・モト』だ」と返事したら以後「プロフェッサー」と呼ばれたといういわくつきの人物である。で、この性格の悪さが私の性格の悪さと直結しているのである。
>
> だもんだから発音も日本語べったり、切符が「てけ」で水が「わら」、林檎が「あぷぅ」でオレンジが「おーりんじ」である。
>
> その所長がなんとか泥沼の反米感情から脱したきっかけは、ロサンゼルス近郊にあるフラトンという町に出張したことである。
>
> フラトンは日本の豊田市みたいなもので、ヒューズ・エアクラフトのいわば城下町。かたや所長は日大航空宇宙工学科出身。敵の本陣に単身乗りこむようなものである。
> で、ここで米軍側のスタッフと交流するようになって、アメリカ人の対日感情の意外な一面を見たのである。
>
> アメリカ人は日本人が心底怖かったのだ。だから広島・長崎に原爆を投下するとかいった無茶もやったし、国際法をねじ曲げてでも東京・大阪を焦土と変えねば安心できなかったのである。
> 英国が誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とし、名機メッサーシュミットを駆逐したバトル・オブ・ブリテンの覇者スピットファイアを叩き落とした日本の航空技術は当時の欧米の航空技術者を文字通り震撼させた。当時の日本の核物理学のレベルは世界の最高水準であり、原爆の恐怖に怯えていたのはアメリカ側も同様だった。
> さらには硫黄島の激戦である。アメリカ海兵隊にとって最悪の戦いと言われたこの戦闘において、日本兵は地獄の戦士ヴェルセルクの軍団のごとく強かった。「イオージマ」は、現在もなお米国軍人に悪夢を催させる言葉なのである。
>
> 「もう日本兵とは戦いたくない」。そうした米軍側の感情が、原爆投下や市街地への無差別爆撃という形で噴出したのが太平洋戦争末期のあの戦いだったのである。
> その後米軍はベトナムでかつての悪夢を思い出した。北爆や枯葉作戦もまた、日本恐怖の後遺症だった。
>
> そして、現在である。
>
> アメリカはもはや日本を「恐怖」あるいは「脅威」の対象として認めることを恥とは思わなくなった。「東洋の魔物」は、「アジアの大国」としてアメリカの前に立っている。
>
> 所長氏は「日本語」をコンピュータに乗せることで、アメリカに代表される世界に「日本語」を売ることを考えている。そのために必要な技術はほぼ揃っており、現在は「どう売るか」について根回しをしている段階である。
>
> さて、ここで思い出していただきたい「ASに向いた職業」として必ず挙げられるのが「コンピュータ・プログラマー」と「翻訳家」である。
>
> ASの人間は言語の習得に困難を覚えるがゆえに、「調子」と「具合」と「加減」の意味の違いとか、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いとかいったものに敏感である。こんなものは日本語の中で生活している限りにおいては大して役にも立たないが、翻訳や外国人に対する日本語教育の世界においては必須の感覚である。
>
> ASは日本の世界に向かって開かれた窓になれはしないだろうか。
>
> 『アスペルガー共和国』プロジェクトはなお進行中である。乞う、御期待。
>
> − Mr.Moto −


Re:あまり参考にならないかもしれませんが 4229へのコメント
No.4312  Sat, 21 Apr 2001 11:38:53 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

MOさんwrote:
>はじめまして。
>小4と小1の男の子を持つ父親です。
>上のお兄ちゃんの方が「高機能自閉アスペルガー疑」と診断されており
>現在、普通学級に通っています。(入学時は障害児学級に入れるかどうか
>とても悩みましたが)

こんにちは。
娘(小3)がASで、今年度から特殊学級への入級を許可されました。

>妻の努力と学校(担任)の理解?のおかげで、現在は多少落ち着きを持って
>彼を見ることが出来るようになりました。

とりあえず息子さんを受け入れることができていらっしゃるのですね。

>1.これから高学年、中学生と進んでいく過程の中で、学校or家庭の中
>でこんな問題が発生したとか、そんな時はこう対処したといった様な体験談
>を聞かせてほしいのが1つ。

私は母親ですし、父親の役割というものが今ひとつ納得できていない状態です。それに自分に起こっていることが納得できるようになるのには一年くらいかかるうえ、一般化して話したり書いたりすることは、なかなかできないです。なので、自分のことばかり書いてしまいますが、ご迷惑でなければ読んでください。
昨年5月、娘から「おとうさんと離婚してくれ」と言われました。私は愕然としたのですが、まっさきに思いついたのは(ばれてる!)という感覚でした。これはいよいよ何とかしなければとアセり、かといって夫に話すのも手紙を書くのも冷静にできないと思いましたので、携帯のメールでむすめのことばと私の気持ちを伝えました。会社から帰った夫はそれについて何もひとことも言いませんでした。私は話したくてたまらなかったのですが、こわくてできませんでした。ただ、彼なりに何か考えているらしいというのは感じましたので「頼むから娘に手をあげるのだけはやめてほしい。言葉で説明すればちゃんとわかるし、叩いたり脅したりまでして教えなければならないことなんかないはずだ。娘をおびえさせるのは逆効果を生むばかりだ」と必死に訴えました。それ以来、夫は手をあげることだけはやめてくれました。どなりつける回数もへりました。
このことは私自身へのいい教訓になりました。それまでとらわれ続けていた「母親の役割」「妻の役割」「嫁の役割」「主婦の役割」などといったものから少しずつ自分を解き放つきっかけとなってくれたのです。わりとその・・他のおかあさんたちの話をきいても、けっこうとらわれている人が多いように思います。ダウン症の男の子のおかあさんも自戒をこめて、彼女自身がお子さんたちから教えられたと語っていました。
子供って自ら育つ力も学ぶ力も備えていると思います。それは大人が一般的に考えているよりもはるかに幅広く力強いもののように感じます。「親」の役割にとらわれすぎて見えなくなってしまうより、ひとりの人間として、生身の人間として子供に接することができたほうが、親子の関係っていい関係に育っていく可能性があるような気がしてなりません。
日常では細かい心配事は数限りなくあります。障害のあるなしにかかわらず、こどものことを心配しない親なんていませんが、「親意識」がこどもを追い詰めてしまうときもまたあるのだと自覚できれば、すこしは肩の荷が軽くなるような気がしています。ことばが足りなくても、気恥ずかしくても、おずおずとでも手をさしのべれば、こどもは気づいてくれます。「おかあさんは」でなくて「わたしは」あなたの力になりたいんだ、あなたを心配し、あなたの助けになることなら何でもしようと思っているよ、と日々むすめに伝えつづけています。わたしだって生き物だから、意思も感情もある人間だからいつもすべてうまくいくとは限らないけれど、それでも一生懸命やるさと自分にいいきかせながら・・・。

>2.彼の様な、「情緒障害児学級に通級するには物足りないが、普通学級に通わせておくのはこれからの事を考えると不安」といった中途半端な状態の子供を
>受け入れ上手く運営されている小中学校・機関等はご存じ無いでしょうか?
>関東近辺でそんな所があれば是非知りたいのですが。

情報は持っていなくて、すみません。「アスペ・エルデ親の会」のような全国組織に入会して探すとか、あるいはフリースクールの全国組織などに参加なさってみるのも手かと思います。ただ・・「不安」はご自身のものなのか、息子さんのものなのかを明確にしておかないと、情報洪水のなかで行き惑ってしまいかねないように思います。えらそうなことを言ってしまいましたが。

学校のなかで、家庭のなかで、息子さんが心から安心していられる居場所がちゃんとあれば、それでいいのではないでしょうか。そこからスタートして、ありとあらゆる方向へ可能性をさぐっては戻って休息し、またさぐりに出かけるということで。「気が長いね」と人に言われましたが、『こどもの速成栽培』なんか私にはできないよと、思っています。   失礼します。


『共和国』その後
No.4311  Sat, 21 Apr 2001 10:23:31 +0900  KILROY [この発言にコメントする]

 所長はその昔英語が大嫌いだった。

 というより、「英語が喋れる奴」が鼻にかけていた特権性みたいなものが嫌いだった。そのうえアメリカ人は英語(正確には米語なんだろうが)というのは世界中で通じて当然と信じこんでいたうえに、非キリスト教徒を「キリスト教の恩寵にあずかれなかった哀れむべき連中」と見下していた(少なくとも日本にやってくる宣教師の大半は、現在に至るもそうした勘違いの大馬鹿野郎である)ので、アメリカ人も嫌いだった。

 だいたい大森生まれの大森育ちという奴がアメリカを好きになるわけがない。大森の町工場は女子供まで含めた家内制工業だから、大森の住宅はみな軍需工場でありその作業員である女子供も含めて戦闘員であり、したがって京浜工業地帯への攻撃は民間人に対する攻撃には当らない、というとんでもない理屈で国際法無視の絨緞爆撃を行ない、五月の大空襲で大森・蒲田・川崎一帯を一面の焼け野原にしたのはアメリカである。戦後は住民を一夜にしてたたき出し、ブルドーザーで住宅をなぎ倒すという無茶をやらかした羽田空港の接収というのもあった。現在は移転してちょっとだけ位置がズレた羽田空港内の穴守稲荷の鳥居はわれわれの怨念の象徴である。

 そんなわけで外国人にファーストネームで呼ばれるのが大嫌い。譲治だからジョーだとか正男だからマーシーとかいった野郎を見ると後頭部に回し蹴りの一発もくれてやりたくなるという過激さである。

 したがってサインは「姓の後にカンマを打って名前」というスタイルを徹頭徹尾貫いていたし、「ミスターなんとか」みたいに呼ばれると「〜さん」と呼んでくれ、と変じしていた。さすがに面と向かってファーストネームで呼ばせろとかいう厚顔無恥な野郎はおらんかったが、「せめてMr.と呼ばせてやれ」という日本人の上司はおって、「じゃあ、私のことはモトと呼んでくれ。『ミスター・モト』だ」と返事したら以後「プロフェッサー」と呼ばれたといういわくつきの人物である。で、この性格の悪さが私の性格の悪さと直結しているのである。

 だもんだから発音も日本語べったり、切符が「てけ」で水が「わら」、林檎が「あぷぅ」でオレンジが「おーりんじ」である。

 その所長がなんとか泥沼の反米感情から脱したきっかけは、ロサンゼルス近郊にあるフラトンという町に出張したことである。

 フラトンは日本の豊田市みたいなもので、ヒューズ・エアクラフトのいわば城下町。かたや所長は日大航空宇宙工学科出身。敵の本陣に単身乗りこむようなものである。
 で、ここで米軍側のスタッフと交流するようになって、アメリカ人の対日感情の意外な一面を見たのである。

 アメリカ人は日本人が心底怖かったのだ。だから広島・長崎に原爆を投下するとかいった無茶もやったし、国際法をねじ曲げてでも東京・大阪を焦土と変えねば安心できなかったのである。
 英国が誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とし、名機メッサーシュミットを駆逐したバトル・オブ・ブリテンの覇者スピットファイアを叩き落とした日本の航空技術は当時の欧米の航空技術者を文字通り震撼させた。当時の日本の核物理学のレベルは世界の最高水準であり、原爆の恐怖に怯えていたのはアメリカ側も同様だった。
 さらには硫黄島の激戦である。アメリカ海兵隊にとって最悪の戦いと言われたこの戦闘において、日本兵は地獄の戦士ヴェルセルクの軍団のごとく強かった。「イオージマ」は、現在もなお米国軍人に悪夢を催させる言葉なのである。

 「もう日本兵とは戦いたくない」。そうした米軍側の感情が、原爆投下や市街地への無差別爆撃という形で噴出したのが太平洋戦争末期のあの戦いだったのである。
 その後米軍はベトナムでかつての悪夢を思い出した。北爆や枯葉作戦もまた、日本恐怖の後遺症だった。

 そして、現在である。

 アメリカはもはや日本を「恐怖」あるいは「脅威」の対象として認めることを恥とは思わなくなった。「東洋の魔物」は、「アジアの大国」としてアメリカの前に立っている。

 所長氏は「日本語」をコンピュータに乗せることで、アメリカに代表される世界に「日本語」を売ることを考えている。そのために必要な技術はほぼ揃っており、現在は「どう売るか」について根回しをしている段階である。

 さて、ここで思い出していただきたい「ASに向いた職業」として必ず挙げられるのが「コンピュータ・プログラマー」と「翻訳家」である。

 ASの人間は言語の習得に困難を覚えるがゆえに、「調子」と「具合」と「加減」の意味の違いとか、「ちょっと」と「すこし」の意味の違いとかいったものに敏感である。こんなものは日本語の中で生活している限りにおいては大して役にも立たないが、翻訳や外国人に対する日本語教育の世界においては必須の感覚である。

 ASは日本の世界に向かって開かれた窓になれはしないだろうか。

 『アスペルガー共和国』プロジェクトはなお進行中である。乞う、御期待。

 − Mr.Moto −


Re: いじけ虫のつぶやき 4309へのコメント
No.4310  Sat, 21 Apr 2001 08:55:35 +0900  大槻いつき [この発言にコメントする]

気をつけようと思いつつ・・・

Mariaさん wrote:
> あたし、「Maria」なのに。しくしく。あたし、けっこう人の名前には気とか使ってるのに。めそめそ。

>
> いいもん。ASの妻もどきさんとか、BISさんとか、そういうひとと仲良くしちゃうもん。いじいじ。
>
> あたしだって好きで強くなったんじゃないやいっ! − 今夜はいじけ虫のMaria −

大森総研のみなさまが実は同一人物だと思うとなんともはやな気分ですわわたくし。
でもでも、わたくし繊細なあまり強くならざるをえないMariaさんが大好きですことよ。
初カキコのときただ「KILROYさんのファン」と申しましたけど、具体的には所長さんとMariaさんのファンですの。
(なに言ってるやら)


いじけ虫のつぶやき
No.4309  Sat, 21 Apr 2001 01:57:53 +0900  Maria [この発言にコメントする]

武田好史さん wrote:
>mariaさん・ななはさんありがとうございました!

Xanadiiさん wrote:
>【mariaさん】

 あたし、「Maria」なのに。しくしく。あたし、けっこう人の名前には気とか使ってるのに。めそめそ。

>(KILROY)
> 私は一度だけ「キルロイ・W・アシュア(Kilroy.W.Ashere)」という名前でこの掲示板に登場したことがありますが、あれは「KILROY WAS HERE.」のシャレです。正式表記というものがあるとすれば「KILROY」で、一般には「キルロイ」と表記されます。英数文字を打つのがご面倒であれば、「キロイ」とお呼びください。

ASの妻もどきさん wrote:
>キロイさんのカキコ見てると−

BISさんwrote:
>もうKILROYはキロリイさんでゲーテはギョエテにしかみえない。
>キロイさんのレスとか−

 いいもん。ASの妻もどきさんとか、BISさんとか、そういうひとと仲良くしちゃうもん。いじいじ。

 あたしだって好きで強くなったんじゃないやいっ! − 今夜はいじけ虫のMaria −

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