アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
気が早いですが、食欲の秋が来ようとしています。
わしは「皿の上にある残ったオカズを、そのままにできない」タチです。
普段食事をしていても「残したらダメだ、もったいない」という意識が自然と働き、たとえ食欲がないときでも、皿の上のオカズは全部食べなければと思ってしまい、ムリしてでも食べてしまいます。
食べ物を残すことで「妙な罪悪感」を感じてしまうのです。
わしは大学時代、何度か飲み会に参加しましたが、そのとき出てくる大皿に盛られた料理は、まさにこの意識を強く感じさせるものでした。
大皿の上の料理を数人で取って食べますが、決まって若干の量が残ります。それを見ると、わしは皿を手に取って残りを食べずにはいられません。皿の上の料理の残りを手当たり次第に食べていっていたので、わしはいつも「飲むより食べる量のほうが多い」状態でした。
いわばわしは「オカズ整理要員」だったのです。
「出された食べ物は全部食べなければならない。」これがわしの意識下にある「不文律」です。
しかし、この話を親にしたところ、
「そんなことやめなさい。みっともない。」
と言われてしまいました。ムリしてまで残りのオカズを食べる必要ないと言うのです。
わしは残されたオカズに対し「もったいない」の気持ちがわいてきて、「オカズ整理要員」になるのです。そんなわしの行動は、どうやら「みっともない、恥ずかしい、品がない」と映っているようです。
そんなにわしの行動はヘンでしょうか?それならオカズを残した方がいいとでも言うのでしょうか?
食いもん粗末にすると「もったいないオバケ」が出るぞ〜〜〜〜〜〜〜。
(↑古いネタじゃなー)
食い意地の張った内容ですいません ミッドランド
Tien さんwrote:
>それは、「僕の事も少しは考えてくれよ。(-_-;)」と言う友人の叫びにも似た
>一言でした。
(中略)
>みなさんはこれに類似した体験はありますか?
>「越えて欲しくないボーダライン」を分かってもらうのは難しい。
Tienさんお久しぶりです。
私は逆に「人のことばっかりで自分の事は後回しにしすぎる」といわれました。彼らにとって私は「殉教者」みたいで、自分の人生を自分のために使っていないと見えるらしい。実際は違うとなんどもいっても、結局は分かって貰えないのを分かっただけでした。
「その人といると自分が安心する」だけじゃ駄目なんだろうか?
かおり
私はMariaさんほど頭が良くはないし、理論を打ち立てるつもりも能力もありません。そもそも理論的に検証する以前に、自分の言いたいことを的確に言い当てているかさえ疑問です。
しつこいかもしれませんが、再度こだわってみます。たとえば、今話題になっている教科書問題について、これを批判する主として左寄りの人たちと、つくる会の会長の西尾幹二や、小林よしのり、石原慎太郎といった、国家主義者(と思われている)人たちの対立構造があり、その一方で、たとえば経済学の巨匠竹内靖夫は、左の人たちとは別の観点から国家という概念についての批評、相対化を提唱しています(ただ彼は、つくる会めがけて批判しているわけではない)。
この三者が、思想的にどのように位置づけられるのかとかいったことを、知識人になったつもりで思い巡らしいてるとき
投書欄などでよく見かける「なぜドイツは被害者に対して謝罪弁償しているのに、日本はきちんと処理しようとしないのか」といった口吻と、西尾氏が投稿したナチスドイツやヒトラーがやらかした行為と日本軍が行ったとされる残虐行為とを、それぞれどのように分析し考えているかについての論説とを比較対照しているとき、
このような思考スタイルが適合しやすい心理状態とは、人間関係(とくに親友などのべたついた仲間関係)からの隔離ではないか。
論客Aと論客Bが言い争っているとき、外側に回り込んで両者の対立構造を客観的に眺めようとする、このとき、もしも言い争いに加われば、客観視するのがむずかしくなりはしないだろうか。
かつての物理学者が考えた、「この宇宙に存在するすべての原子の位置と動きの方向と速度が判れば、未来を予測することが可能になる」という発想。
こうゆう発想が出てくるには、俗世間から孤立して沈思黙考するというスタイルが、かならずしも必要というわけではないにせよ、そうした発想を生みやすい背景にはなっているのではないか。これらの条件とは、ASの特性にぴったりと一致すると思うが・・・
これはたんなる思いつきだろうか。すくなくともそうした傾向があるのは事実ではないだろうか。
名加野さん wrote:
> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、
>「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるので
>しょうか?
えー、「Hネタの女王」を自称するあたしとしては、この問題にコメントせざるをえないのでしょうね、たぶん。ところで武田さぁ〜ん、引用長いってば。
さて。まずはじめに「下ネタ」と「Hネタ」の違いについてコメントしておきます。
一般に「下ネタ」というと、これは「排泄物ネタ」でございまして、プロのお笑い芸人の間では「禁じ手」とされています。これは、子供が唐突に「ウンコ!」とか叫んで大人の注目を浴びたがるのと同レベルの話だからです。もっともKILROYさんは、「砂漠の民は何で尻を拭くのか? 砂だろうか?」みたいな話に「石で拭くのだぁ〜!」とかいったレスをつけてこの『アスペルガーの館の掲示板』にデビューした人だからな。その場の雰囲気に即していれば、まあ許されるかもしれない。
で、名加野さんのいう「下ネタ」というのはセックス関係のネタでございますね。あたしはこれを称して「Hネタ」と称しております。「H」というのは、「変態」の頭文字だから正確ではありませんが、まあ、そういう「記号」だと認識してください。
この「Hネタの強要」については、中島義道先生の分析がおそらく正鵠(せいこく)を射ているのではないかと思います。新潮社から発売されている『私の嫌いな10の言葉』の中の、「もっと素直になれよ!」の部分をお読みいただけるといいかも知れませんが、そうやって他人にゲタを預けてしまうとどっかに履いてかれちゃうので(←すみません。疲れているのです)、ちゃんとあたしの言葉で語ろうと思います。
でもまあ、一応引用だけはさせてもらいましょう。No.3524でKILROYさんが引用したものの丸写しだから楽だし。
『しかも面白いことに、「素直」とは本人が決めるべきものではないというものではないということ。本人がいかに素直な気持を抱いていても、それが本当に素直であるか否かは自分が決めるのです。「きみ、恋人のひとりもいなくて寂しいだろう」と茶化したところ、「いえ何ともありません」と答えると「素直じゃないんだなあ」と来る。酒の席で「おまえ、アイツにさきを越されて悔しくないか」と聞き「いえ、別に」という返事に「素直じゃねえんだからなあ」と来る。
つまり、人としての<自然な>感情の動きがあり、それが素直なのであって、それから外れている者は素直ではないのです。しかも「自然」とはマジョリティにとっての自然なのであり、マジョリティと感受性を共有しない者は、みんなそれを恥じており、隠蔽しており、無理に平気を装っている。だから「素直」ではないということになるのです。たいした暴力ですが、私はこうした言葉遣いに親和性のある人(「世間度」の高い人)とそうでない人とをただちにかぎ分けられる。』
(中島義道『私の嫌いな10の言葉』、新潮社、本体1200円)
あたしはHネタは嫌いではありません。むしろはっきり好きだと申せましょう。だけど、セックスが「真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではない」とはまったく思っていません。愛のないセックスはセックスではありませんが、セックスは愛そのものではないからです。
とはいえ世の中には「愛のないセックス」というものがあると思っている人々がいて、「セックス」が目的で「愛」は口実でしかない、と信じていたりするのね。で、そういう人々は、それがすべての男の本音だ、と信じたいわけです。
名加野さんにHネタを強要する人々は、名加野さんの「本音」が、自分たちと同じく『「セックス」が目的で「愛」は口実でしかない』というものであり、それを受入れない名加野さんの態度を「恰好をつけている」「気取っている」「無理をしている」「本音を隠している」というものだと「知っ」て、「納得」したいと思っているのですね。
まあ、そういう人はいます。あたしは仕事が好きだし、国文法も数学も物理学も好きです。だけど、仕事だの学問だのというのは「嫌々やらされるもの」「無価値なもの」だと信じたい人は大勢いたりするのですね。嫌気がさしてそれを放棄してしまった人というのはだいたいそうです。
つまり、名加野さんにHネタを強要する人々は、愛に背を向けた人々なのですよ。
そんなわけで、あたしはHネタが大好きではあるけれど、そのHネタは大きく分けて二つに分かれます。一つは「愛のあるセックス」、あるいは単なるセックスの話。もう一つは、「愛のないセックス」と言われるものの滑稽さを嘲うタイプの話。まあ、「愛のあるセックス」だって、客観的に見ればけっこう(あるいは、当事者が真剣であるだけに、なおさら)滑稽なんだけどさ。それはそれで笑えたりします。
でまあ、他人に愛のないHネタを強要するような寂しい人々は適当に相槌でも打って無視するに限ります。「中坊じゃあるめーし小便臭いスケベ話で盛り上がってんじゃねえよバーカ」とか思っていても、顔には出さないほうがいいと思います。出ちゃうんだけどさ。
(Maria)
名加野 wrote:
> 皆さんこんにちは。名加野でございます。
>
> 疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでしょうか?
>
> 友達や同僚は、大体そういう話で盛り上がっています。下手するとそれだけで2時間ぐらい話しています。僕はそれを嫌悪感あらわに聞いて(耳ふさぎたい)おりますと、必ず「話したくない」と公言しているのに聞いてくるのです。
>
> ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」ものだそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われましたけど。
>
> こちらは真剣な話をしたいのに、笑いへ笑いへ持っていこうとするのもどうかと。つまらない(真剣すぎる)話題を聞くとへこむから、流す。良いのかそれで。真剣だとか言って、笑いを取ろうとするほうがよっぽどつまらないと思います。
>
> また、「人間関係」が良くなるにはこういう話についていけなきゃダメ(要するにクビ)と言われました。
>
> どっか別の所でやって欲しい、と思うのは、ダメなんですか? 別に僕は否定してるわけではなくて、笑いを取るために話さないでくれ、というよりも僕を巻き込むなと言いたいわけです。せっかく僕が(お前らのために)運転してやってるのに、嫌な話題を出さないで下さいと言ってるわけです。結局焼け石に水でした。
>
> どうにかならんものでしょうか? 試練ですか?
偉い!結構まともな倫理観だ。いくら遊びとかコンパとかでもそういう話されるのは自分も頭にくるほうだ。
君はそんなことをしないよい上司になって欲しい。
皆さんこんにちは。名加野でございます。
疑問に思う事があります。何故、人(普通と呼ばれる人)は話題に詰まると、「下ネタ」に走るのでしょうか? 走るのはいいとして、強要してくるのでしょうか?
友達や同僚は、大体そういう話で盛り上がっています。下手するとそれだけで2時間ぐらい話しています。僕はそれを嫌悪感あらわに聞いて(耳ふさぎたい)おりますと、必ず「話したくない」と公言しているのに聞いてくるのです。
ある人によれば、それは「ネタ」であって、軽く流して「楽しむべき」ものだそうですが……それは何か違うと思いました。なぜなら、真剣に話すべきものであって、軽々しく口にすべきものではないと思っているからです。(単に古い考えかもしれませんが……)それに関しては、「硬くなるな」とか言われましたけど。
こちらは真剣な話をしたいのに、笑いへ笑いへ持っていこうとするのもどうかと。つまらない(真剣すぎる)話題を聞くとへこむから、流す。良いのかそれで。真剣だとか言って、笑いを取ろうとするほうがよっぽどつまらないと思います。
また、「人間関係」が良くなるにはこういう話についていけなきゃダメ(要するにクビ)と言われました。
どっか別の所でやって欲しい、と思うのは、ダメなんですか? 別に僕は否定してるわけではなくて、笑いを取るために話さないでくれ、というよりも僕を巻き込むなと言いたいわけです。せっかく僕が(お前らのために)運転してやってるのに、嫌な話題を出さないで下さいと言ってるわけです。結局焼け石に水でした。
どうにかならんものでしょうか? 試練ですか?
konetamaさん、こんにちは。(おはつですと言った方が良いかもしれませんが……)
>私は、4ヶ月前診断された後、軽度発達障害の本を読みはじめましたので、
>知識も豊富なほうではないのですが、よろしくおねがいします。
こっちなんて、本すら読んでないです。本屋行っても、ゲームばかり見てるおこちゃまですので、逆にレベル的に僕の方が教わる事多いと思います。本ぐらい買わなきゃいけないなあと思いつつ。では。
Maria wrote:
> あたしもシュッツさんと同じように、「心」の発生的起源には興味があるのですが、『アスペルガーの館の掲示板』では(学校の先生や母親のような、発達心理学の専門家ではないという意味での非・専門家による)発達障害児教育との関連において、(ウタ・フリスの論文に基づいて発達障害児教育に持込まれた)『いわゆる「心の理論」』について論じているのですが。
そうすると、もともと議論している対象が違うということになりますか。
> そんなわけで、あたしは人間の感情というものが、「社会的行動において有害なもの」「押さえつけるべきもの」ではなく、「環境に適応するための適応プログラムの一部であり、単に押さえつけるべきものではなく、適切な形で発達させるべきもの」であるというコンセプト(これが戸田正直氏の基本的立場です)について議論しているわけです。
> 「そのコンセプト自体が間違っているのだ」というのなら、それはそれでまた別の話なのですが。
それはそれでいいと思います。
コンセプトではなく記述法に対して、私は疑問を持っているだけです。
> そんでもって、あたしは「サバイバル技術」としての有効な理論を求めているのですよ。
私が求めているのは、「自分を記述する理論」です。
「記述する」ことで「サバイバル」の半分(個体差あり)は達成できるという考えです。
その点も、噛み合ってない原因でしょうね。
シュッツさん wrote:
>フリスの原文は分からないですが、「心」は上の「mental states」と同じ
>意味なのでしょうか?
おそらく、より高次の「精神」といったものを考えているはずです。
>ただ、ここでフリスの理論にまで触れるのは、話を複雑にし過ぎるのではあり
>ませんか。
>重要なことではありますが、一つのスレッドにあまり広い話題を詰め込むと分
>かりにくくなると思います。
あたしもシュッツさんと同じように、「心」の発生的起源には興味があるのですが、『アスペルガーの館の掲示板』では(学校の先生や母親のような、発達心理学の専門家ではないという意味での非・専門家による)発達障害児教育との関連において、(ウタ・フリスの論文に基づいて発達障害児教育に持込まれた)『いわゆる「心の理論」』について論じているのですが。
そんなわけで、あたしは人間の感情というものが、「社会的行動において有害なもの」「押さえつけるべきもの」ではなく、「環境に適応するための適応プログラムの一部であり、単に押さえつけるべきものではなく、適切な形で発達させるべきもの」であるというコンセプト(これが戸田正直氏の基本的立場です)について議論しているわけです。
「そのコンセプト自体が間違っているのだ」というのなら、それはそれでまた別の話なのですが。
>>私はまず用語ですが、私は「生得」「獲得」と「生得説」「獲得説」を区別して
>>使っています。
>という前提のもとに、基本的な心理学に話題を絞っているつもりなのですが。
了解しました。
>> で、あたしは自閉症児でも、「他者の行動を他者の心に帰属させることに
>>よって構築された、行動と心の関係の法則」は獲得していると考えているわ
>>けです。でないと、「行動的ストーリー」を理解するためには、行動学者な
>>みの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」を身につけ
>>なければなりませんから。この点に関しては、非・自閉症児も自閉症児も有
>>意な差はないわけだから、どちらも「自分だったらこうする」という「自ら
>>の行動を自らの心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の
>>法則」に基づいて推論してるはずだし。
>この文章中の「獲得」という語は、普通の意味で生まれてから得たものとして
>読んでいいのでしょうか。
「普通の意味で」と言われると、なにが普通か、という議論にまた陥ってしまいます。
「その部分は同程度に達成されている」といった表現を用いたほうがいいかと思います。ただし、「同程度に」であって、その達成方法が自閉症児と非・自閉症児において異なっているという可能性は否定しません。ついでながら、この達成方法の差が、「心理的ストーリー」の理解において決定的な差になっている可能性も否定しません。もっともそのメカニズムについてはなんらのアイディアも持っていませんが。
>私は、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見
>方」があっても構わないと考えます。
それが誰であれ、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」をすることに対してあたしは反対しません。
自閉症の幼児が行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」をしているという仮説はけっこう魅力的ですが、あたしは発達障害児童教育の場でそれを主張しようとは思いません。
>「自然に」という言葉に恣意的なものを感じてしまいます。
>平均的人間、あるいは集合としての人間には当てはめられるのかも知れません
>が、実際には個体差が大きすぎると思います。
>本当に「病的」と考えることが「普通」なのか、自己満足が目的ではいけない
>のか、「順位構造」が「自然な」存在なのか……
>これらのように、仮定ばかり重ねている、不自然な解釈に思えます。
自閉症児のお母さまがたも、コンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』を読んで面白いと思うくらいの教養はお持ちです。したがって、動物行動学における基本的なコンセプトによって、自閉症児のお母さまがたが容易に納得しうる程度の解釈、というのをあたしは想定しています。
>> では、「発達心理学における理論」は、自閉症児が他者の行動予測を行なう
>>有効な道具になりうるでしょうか。もし、「なりうる」というのなら、これは
>>自閉症方面の子供を持つお母さまがたには、大変な福音となるはずなのですが。
>>現状はいかがなものなのでしょうか?
>条件付きで道具になるでしょう。
>その条件とは:
>(1)数学的(具体的な数式と言う意味ではなく、数学における思考方法)な法則を>理解し使いこなせるだけの知能を備えていること。
>(2)それを備えていない場合に、理解させるための教育方法が存在すること。
その点について、あたしはpocksさんと同意見です。すなわち、「(平均的なレベルの)自閉症の子供にはムリだ」。おそらく「魔術の年代」と呼ばれる幼年期を脱した少年期、あるいはメタ認知を行えるようになった青年期以降、ということになると思います。
pocksさん wrote:
>「心の理論」と難易度が同じくらいの、人間心理以外のことに関する論理的な
>推論の課題を子供が解けるようになる年齢は、非自閉人が「心の理論」課題を
>解けるようになるよりはかなり後で、高機能自閉人が心の理論課題を解けるよ
>うになる年齢と同じくらいではないだろうか、というのが私の推測で、これを
>実験的に確かめることができれば私も採用している生得説の正しさを証明でき
>ると思うのですが、そうした実験の例はないのでしょうか。ないのであれば、
>誰か専門家の方に実施してもらいたいところです。
あたしが思うに、自閉症児の教育は、「青年期までの時期をどう乗り切り、いかにその後の社会活動に参加してゆくか」に尽きると思います。あたしを含めて、「大人になってから思ったんだけど、あたしって自閉症だったみたい」というひとたちは、この意味で「生き残り(サバイバー)」だったりします。
そんでもって、あたしは「サバイバル技術」としての有効な理論を求めているのですよ。
(Maria)
Mariaさん、レスを返すのはお久しぶりですが、いつも読ませていただいて折ります。なかなか話題的についていくのは難しいです(苦笑
> その後Adobe Indesignかなにかを使って本にするための原稿を作り、この段階でバージョン0をAdobe Acrobatかなにかを使って電子本にし、これも無償配布。で、同時にパーソナル・コンピュータをご利用でないかたのために、印刷したブックレットを実費で配布するサービスを開始。これで部数が捌けるようなら、明窓出版という出版社が「千部程度の予約があれば、流通に乗せてペイする」と言ってくださっているので、出版を考えています。
多分、電子文書だと見ないと思いますので、ブックタイプを買おうと思っておりますが、お値段はいくら位になるのでしょうか?
> いわゆる「健常者」の多くは、自分の「悪意」を奇妙に歪んだ形で保持している、と哲学者の中島義道さんは指摘しておられます(『ひとを<嫌う>ということ』)。悪意を発していながらその悪意が自分に返ってくると、狼狽したり逆上したりするんですね。
僕の知り合いは「何が起こっても君の味方だよ」といった「悪意(もしくは押しつけ?)」を持った(僕の主観です)人がいます。そのくせ、言葉で攻撃(フォローのつもり)してくる。どう考えても「フォローしてる」様には見受けられません。最悪なのは自分という存在の評価が間違っているのに気づいてない(気づいてないふりかもしれませんが)です(主観)。
> タレイヌさんを「変わっている」と評価した人というのは、単にオトナになりきれていない、人を「好きな人/嫌いな人」のどちらかのカテゴリーに押し込めることしかできない人だったんじゃないでしょうか。そういう人にとっては、「悪意」は「絶対的なノー」以外の何物でもありませんから。
僕は「大人になんてなりたくは無い」と思ってたりします(ピーターパンの話では無いけれど)。純粋な心を忘れたらつまらないし、何でもかんでも、自我を守るためにおちゃらけた話に持っていく人にもなりたくないです。そういう大人ばかりでもないのはわかります。
台風でびしょぬれです。特に靴が……。それでは。
Maria wrote:
> さて、「心の理論」という言葉を最初に使用したと思われる、
>
> Premack,D. and Woodruff,G.: Does the Chimpannzee have a Theory of Mind?, The Behavioral and Brain Science, 1, pp.515-526, 1978.
>
>という論文では、「心」というものは直接的に観測することができず、外部からの観察によって論理的にその存在を仮定することしかできないものと考え、「心の理論」という言葉を使用していました。
原文は
「In saying that an individual has a theory of mind, we mean that the individual imputes mental states to himself and to others. A system of inferences of this kind is properly viewed as a theory, first, because such states are not directly observable, and second, because the system can be used to make predictions, specifically about the behavior of other organisms.」
> ところがですね、今回このフリスの『自閉症の謎を解き明かす』という本を読んでみると、「心」というものの存在を自明として、「他者の行動を他者の心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」という意味で使っているのですね。
フリスの原文は分からないですが、「心」は上の「mental states」と同じ意味なのでしょうか?
ただ、ここでフリスの理論にまで触れるのは、話を複雑にし過ぎるのではありませんか。
重要なことではありますが、一つのスレッドにあまり広い話題を詰め込むと分かりにくくなると思います。
私は
>まず用語ですが、私は「生得」「獲得」と「生得説」「獲得説」を区別して使っています。
という前提のもとに、基本的な心理学に話題を絞っているつもりなのですが。
>Maria wrote:
>> ですから、「個人」といったような、いってみれば「夾雑物」を排除したものを「心の『理論』」と呼んでいるのだから、それ以外の物を「心の理論」と呼ぶなぁ〜! ということなんですよ。
>
>それだと結局、言葉の定義だけの問題ということになりますね。
>「発達心理学で『心の理論』と呼ばれるもの」が有害ということではないですね。
>
>それでは言葉を変えて、私は「発達心理学における理論」支持派と言いましょう。
>ただこれでは範囲が広すぎるので、本当はいい言葉を探さなければいけないんでしょうけど。
この文章ですが、私は「言葉を変えて」と書いているように、単に用語の言い換えをしただけです。
Mariaさんが「それ以外の物を『心の理論』と呼ぶなぁ〜!」と書いていたので、その言葉を省いたに過ぎません。
> この場合、自閉症児がその行動を帰属させるべき「いじわる」とか「いたずら」とかいった心の働きを持っていないとしたらどうでしょう?
>
> つまりは、「他者の行動を他者の心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」を教えたらいいのか、「いじわる」「いたずら」という概念を教たらいいのか、といった問題になるわけですよ。
「教える」と書かれていることの意図がよく分からないので、概念についてのみ考えみます。
> で、あたしは自閉症児でも、「他者の行動を他者の心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」は獲得していると考えているわけです。でないと、「行動的ストーリー」を理解するためには、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」を身につけなければなりませんから。この点に関しては、非・自閉症児も自閉症児も有意な差はないわけだから、どちらも「自分だったらこうする」という「自らの行動を自らの心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」に基づいて推論してるはずだし。
この文章中の「獲得」という語は、普通の意味で生まれてから得たものとして読んでいいのでしょうか。
> で、あたしの立場は、「十分に社交化(ソフィスティケート)されていない人間は、フリスの言うような人間の行動-心理モデルなんか持ってない」ということなんですね。
の「行動-心理モデル」と「行動と心の関係の法則」はどう違うのでしょうか。
私は、行動学者なみの「行動を客観的に観察するための、非常に超然とした見方」があっても構わないと考えます。
> で、シュッツさんはどっちの立場を取るんでしょうか。
まず「いじわる」「いたずら」を分解して、「悪意」と「悪意を実現するための行動」に分け、後者をさらに「行動を成功させるための原理」と「原理の実体化」に分けます。
この「原理」の部分が「行動と心の関係の法則」に相当するものと考えます。
> 「感情」という問題解決システムの存在を認めてしまうと、大雑把ではあるものの、「いじわる」や「いたずら」というものに対する小分かりのする説明が可能になります。社会性動物における順位構造の確認、みたいな話に帰着することができますから。「いじわる」や「いたずら」はそのこと自体に意味があるのではなくて、その結果相手が報復を我慢しなければならないことによる、順位構造の確認が目的だと考えると自然に解釈することができます。たとえば、『「サリーとアン」の課題』のケースの延長でアンがサリーのビー玉を叩き壊して、サリーが悲嘆にくれているのを物陰からくすくすと笑いながら見ている、みたいなケースをあたしたちがなぜ「病的」と考えるかというと、それは「順位構造の確認」が単なる自己満足に終わってしまっていて、本来の目的を果たしていないからだ、といったことまで説明できてしまいます。
「自然に」という言葉に恣意的なものを感じてしまいます。
平均的人間、あるいは集合としての人間には当てはめられるのかも知れませんが、実際には個体差が大きすぎると思います。
本当に「病的」と考えることが「普通」なのか、自己満足が目的ではいけないのか、「順位構造」が「自然な」存在なのか……
これらのように、仮定ばかり重ねている、不自然な解釈に思えます。
> 「発達心理学における理論」によって、「いじわる」や「いたずら」がどのように説明されるのかお訊きしてもよろしいですか?
上記参照。
> 「発達心理学における理論」を深く理解することによって、人間の行動予測が行えることも否定しません。
>
> では、「発達心理学における理論」は、自閉症児が他者の行動予測を行なう有効な道具になりうるでしょうか。もし、「なりうる」というのなら、これは自閉症方面の子供を持つお母さまがたには、大変な福音となるはずなのですが。現状はいかがなものなのでしょうか?
条件付きで道具になるでしょう。
その条件とは:
(1)数学的(具体的な数式と言う意味ではなく、数学における思考方法)な法則を理解し使いこなせるだけの知能を備えていること。
(2)それを備えていない場合に、理解させるための教育方法が存在すること。
(1)は教えなくても身に付けている人も中にはいて、そこがカナー型とアスペルガー型の違いかなという気もします(まだ私にも確信を言えない仮説の段階です)。
現状ということでは(2)はまだまだでしょう。
ただし、「発達心理学」(『心の理論』を含む)は単に自閉症のためにあるのではないことに注意して下さい。
> 「他者の行動を他者の心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」を理解していないことが自閉症児の判断を誤らせているのならば、「いじわる」や「いたずら」を理解しているか理解していないかの差は、本質的ではないはずです。
> 「いじわる」や「いたずら」といったものを理解していながら、相手がそういった観念に沿って行動していることが理解できない自閉症の子供、というのは、そんなに多いものでしょうか?
> また、「いじわる」とか「いたずら」とかいった観念は、「心の状態」が「行動」に及ぼす影響について言っていそうな気がするのですが、それを理解している子供が「他者の行動を他者の心に帰属させることによって構築された、行動と心の関係の法則」を理解していない、などということがありうるものなのでしょうか?
前記の理由から、ないとおもいますよ。
> 誰かがこう言った。
> 「非・自閉症児はコーラを買い方を理解しているけれど、
> 自閉症児はコーラの買い方を理解していない」。
この人は十分な検討を重ねないうちに、結論を公表してしまったようですね。
もっと練り上げてから、研究成果を発表しなきゃ。
まあ、研究と途中での仮説の独り言ならかまわないんですが。
Maria さんwrote:
ドラフト版をメールで送信(テキストファイル)いたします。
あ、あ、ありがとうございます!!
ここは、話の進みが速すぎて、タレイヌは、頭が大混乱に陥っております。
ゆっくり、読めると、うれしいです。
> さあ、ここまで言っちゃったらもう逃げ道はないぞ。わはははは(^_T)。(←泣き笑い)
生活していくって、このような、「二律背反」で、流されていくしか、ないかも?
お体大切に、デモ、頑張ってくださいますよう・・・・(お祈り)
pocksさん wrote:
>こうして、ありもしない敵意をめぐっての「いじめ」が始まるわけです。
こうした「いじめ」を行なう人間には二つのタイプがありそうに思います。「牢名主」型と「ちんぴらやくざ」型。
そのことに言及する前に、こうした「いじめ」は縄張り意識が原因になっているということを指摘しておきましょう。
>ところが、ある自閉者が敵意がないことを示す方法は「無視」だったりします。
>そもそも関心のないもの(相手)をどうこうしようという気が起きないのは当
>たり前ですから、無視が敵意の表明になることは少なくとも論理的にはあり得
>ないはずです。
二匹のアロワナを縄張り空間が重なるような小さな水槽に入れると喧嘩を始めますが、さらに多数のアロワナをごちゃごちゃと高密度に詰めこんでしまうと、お互いを無視するようになります。
非・自閉症者でも、混んだエレベーターや混雑した電車内では、足を踏まれたり痴漢行為を行なわれたりしないかぎり他人を無視します。中には本を読んだり寝たふりをしたりして、意図的に他者を意識から遮断しようとします。
したがって、
>非自閉者には、他人のことに異常に強い興味を示す(自閉者比)という特
>性があります。
というのは、自分の縄張り空間の中で、それに関わる形で、ということになります。職場では、保険のおばちゃんやお掃除のおばさんや蕎麦屋の出前持ちというのは、「縄場り空間」とは無関係に存在しています。蕎麦屋の出前持ちに縄張り空間を侵された場合、怨まれるのは出前持ちでも蕎麦屋でもなく、出前を頼んだ職場の人間でしょう。
「牢名主」型は、その空間が「自分の縄張り空間」であると認識しています。ですから、そこに「侵入」してきた人間は、「まずは好意的にというか、微笑むなどして敵意がないことを示しながらその他人に接近する」という対応が当然あってしかるべきだ、と考えます。これを怠ると、「いじめ」に遭うのですね。そこで、その場のキーパースンを即座に見抜いて、その人に挨拶する、というのがけっこう重要な行為になります。
動物はこれを本能的に行ないます。見習いたいものです。なお、このキーパースンは意外なところにいたりします。たとえばお局様とか。
「ちんぴらやくざ」型を見分けるのに手間はかかりません。最初ににこやかに、そして親切ごかして近寄ってきます。で、それとなく「新入り」を自分の勢力下に取込もうとするのですね。で、それを拒絶すると、「優しくしてやりゃあつけあがりやがって。新入りの分際で生意気な」とかいっていじめに転じるわけです。で、新入りがその場所に定着しないように、悪い噂を流したり、陰から足を引っ張ったりします。
こうした「ちんぴらやくざ」型には、たいてい対抗勢力があります。そこで、黒澤明の映画『用心棒』のように、二つの勢力の間で態度を明らかにせず、のらりくらりと過ごすのもいいかもしれません。やりすぎて両方の勢力から怨まれても困るのですが。
あとは、そういった権力闘争から「下りた」人(だいたいが窓際めいたところにいます)とくっつく、という手もあります。この「虚仮猿」型はしばしば組織の黒幕みたいな人だったりするから怖いのと、本人に実力がありすぎるとそこに人望が集まって新たな対抗勢力を形成してしまったりするのが困り物です。こういう時は逃げるか戦うかしたほうが、たぶんいいでしょう。でなかったら態度をはっきりさせて外交手腕で乗り切るとか。ぽんやりしてると潰されます。
ソフトウェア業界だと、一つの対抗勢力が組織から丸ごと集団脱走する、というのがままあります。蜜蜂の分封(ぶんぽう)みたいなものでしょうか。古いところでは、三井造船から脱走した『コスモ・エイティ』の例があります。
(Maria)
やってみるのだ(現在ヒマ人)。
武田好史さん wrote:
> 健常者が自閉症の人を見た時の特長として、ノースカロライナ州の自閉症協会があげているものを以下に記します。
>
>1.通常の教育方法にはのらない
学校で教えてもらうべきことは、ほとんど教科書読んだりして独学でやった。
学年がかわるにつれて、成績がいいときと悪いときがばらつく。
>2.不適切な笑いやくすくす笑いをする
思い出し笑いは多いほう。「目立ててうれしい」なんてとき、
すました顔してたいんだけど、ごまかせない。
これはあてはまってるのかな?
>3.「どこへいくの?」と聞かれて「どこへいくの」と答えるようなオウム替えし
頭の中では、人に言われたことを一度は反復しないと理解できない。
疲れてるときは口に出して反復する。
この条件がいわんとしてるのはエコラリアだろうから、
それとはちょっと違う気がする。
>4.耳が聞こえないような振る舞いをする
聞こえてない。そのとき話してる相手が多くなればなるほど聞こえなくなる。
>5.明かな危険に対して恐怖心を示さない
車の免許とって、助手席に親を乗っけて練習してたら、
「目の前に並木があるのにアクセル踏んで直進するな!」と。
親の悲鳴ではじめて危険であることに気づいた。
>6.痛みに対して鈍感
過敏だったり鈍感だったり。気持ち悪がられる。
「健常者」だって、けがなんかしたとき、周りが心配そうな顔してると
実際以上に痛く感じてしまうらしいからなぁ。
自閉者は、そういう過剰反応がないぶん鈍感にみえる部分もあるのでは。
「イタイ」という他人への意思表示をしない、とかさ。
感覚自体にもかわったところはあると思うけど。
>7.泣き叫びやかんしゃくを起こす
「この程度のことで?」といわれても、「その程度」が耐えがたいんだもん。
要因としては、
1.刺激を過剰に受け止めすぎる
2.かんしゃくをセーブできない
などの生理的なものと、
3.不適切な方法で周囲の注目を集めようとする
といった学習(?)によるものがあるのでは。
>8.物をくるくる回す
これは、私にはない。
なんでもいじるのはたしかだけど、ぐるぐるにこだわりはないです。
>9.あやしても反応がない
私もまさに、「天使の赤ちゃん」だったらしい。
ぐずることもなく、かまってと要求することもなく。
>10.おかしな遊びに没頭する
いまでもあるけど、昔よく言われたのは「砂遊び・土いじりがすき」と。
側溝にたまってる少しの土を傘の先でほじくりかえしていったり、
道の真ん中にすわりこんでその側溝の土であそんでいたり。
>11.他の子どもたちと一緒に遊べない
子供の頃は、一人で砂遊びしてるか本読んでるかだった。
小学校の先生が、学級委員に「あのこと遊んであげて」と頼んだりしてたらしい。
そうして遊んでもらって学んだのは、「友達がいないと、まわりに
よけいな心配をかけたり変な子だと思われたりする」ってこと。
みんなと遊ぶのが楽しいとは思わなかったけど、
以降、気の合わない子とも一緒に遊ぶように心がけた。
気の合う子となら一緒に遊ぶのも楽しいと気づいたのは、中学くらい。
>12.日課や習慣を変えることに抵抗を示す
これもあんまりないな。
>13.視線が合わない
他人に指摘されることはないけど。人と会話してて、
「どこをみればいいんだろう」といつも意識してる。
遠慮しなくていい相手なら、私が元気なときは目をあわせっぱなし、
元気のない時にはまったく視線を合わせない。
>14.冷淡な態度を示す
>
>15.ブロック積みはできてもボールけりをしない(粗大運動と微細運動にアンバランスがある)
ブロックつみもボールけりも、できなかった。
縄跳びが極度に苦手で、あやとびなんて一度もできたことがない。
折り鶴折れない。あやとりできない。
>16.物に不適切な愛着を示す
道ばたでひろってきた石を、何年も宝物にしていた。
お気に入りの食器を親に捨てられるときには、いつも泣き叫んでいた。
親友が転校するときよりだいぶ悲しかったな。
物じゃないけど、たわいもない携帯のメールなんかも、
削除するのがしのびないってよく思う。
>17.非常に多動だったり極端に受け身だったりする
そのとおりだ。状況と体力に左右される。
>>こだわり”の一例を示すなら...わたし、
>>本を、逆さに立てるのがぜったい駄目なのね。「本の頭に血が上ってしま
>>う!」という、訳のわからない恐怖があって。
タイルしきつめたみたいな模様のある道を歩くとき、
色の付いたタイルを左右の足で踏む回数が均等になるようにします。
踏みつける面積も極力そろうように。
左右で偏りがでるのがヤだ。
pocksさん wrote:
>
>本(文字)を上下逆さに見てすらすら読めます。
>
上下逆ならいい。前から読むほどすらすらとは読めないけど。
塾講師などしていて、生徒の問題集を「斜めから」のぞきこむのは一番苦手。
まわりのひとは、まるっきりさかさよりは斜めのほうが見やすいんだって。
ふしぎー。
>>訳のわからない恐怖
>
>モノに感情移入するのは自閉者としてごく当然であり、自然な心の動きです。
小学校の頃は、黒板かくのに使われるチョークが痛そうでつらかったな。
人が書いてるの見るだけでもヤなのに、「宿題を黒板に書いてね」なんて言われた日には!!
今でも、チョークの音や急ブレーキなど摩擦でイヤな音がたつのをきくと、
擦られた物に「あぁ、痛そう!」と感情移入してしまいます。
> でまあ、「感情による推論」に関してはまたしても説明をサボッてしまうのだけ
>ど、少なくとも非・自閉症方面の人間が「心の理論」のような形では人間の行動予
>測をしていないのではないだろうか、というのは確からしいとあたしは判断したの
>ね。
「心の理論」と難易度が同じくらいの、人間心理以外のことに関する論理的な推論の課題(注1)を子供が解けるようになる年齢は、非自閉人が「心の理論」課題を解けるようになるよりはかなり後で、高機能自閉人が心の理論課題を解けるようになる年齢と同じくらいではないだろうか、というのが私の推測で、これを実験的に確かめることができれば私も採用している生得説の正しさを証明できる(注2)と思うのですが、そうした実験の例はないのでしょうか。ないのであれば、誰か専門家の方に実施してもらいたいところです。
注1
たとえば、機械的な因果関係に関するいくつかの要素がからまった推論。簡単なところでは三段論法のようなものか?
注2
逆に、自閉人の「心の理論」獲得の遅れは自閉人の論理的推論能力全般に遅れがあるためだ、など、他の原因を示唆する結果もありうる。(が、その可能性は低いと思ってます。)この例で言うと、自閉人の短期記憶容量は非自閉人より少ないため、一時的な記憶場所を必要とする「心の理論」課題をクリアし辛い、自閉人はメタ思考が苦手、など。
追加です。
>非自閉者には、他人のことに異常に強い興味を示す(自閉者比)という特
>性があります。
んで、物理的に交流可能な範囲に他人がいて、かつ通行人同士のような一時的な接触では済まないことが明らかな場合、非自閉人は、まずは好意的にというか、微笑むなどして敵意がないことを示しながらその他人に接近する、という対応をするようです。
普通はそうして接近された側も接近してきた側に対して敵意の不存在を示して、以後、平和的な交流を行う(少なくとも喧嘩はしない)という意志を示しあうわけです。
(これが儀式化したものが、新参者が贈り物を配りながら行う引っ越しの挨拶まわりなどです。)
ところが、ある自閉者が敵意がないことを示す方法は「無視」だったりします。そもそも関心のないもの(相手)をどうこうしようという気が起きないのは当たり前ですから、無視が敵意の表明になることは少なくとも論理的にはあり得ないはずです。
しかし、非自閉者は自閉者の「無視」すなわち敵対の意志がないという意志表示を、敵意の表明と解釈するようです。
こうして、ありもしない敵意をめぐっての「いじめ」が始まるわけです。
全く別の話で申し訳ないのですが、こういう反射的思い付きをつい口にしてしまうのは自閉の性(さが)というやつでして。
>て、大学からこっち、実家は離れてます。“こだわり”の一例を示すなら...わた
>し、本を、逆さに立てるのがぜったい駄目なのね。「本の頭に血が上ってしま
>う!」という、訳のわからない恐怖があって。いわゆる“平積み”は許せるんだけ
本(文字)を上下逆さに見てすらすら読めます。漫才などで、ボケ役が逆さに持った本を読んでいるフリをし、逆さだから読めてないという前提で突っ込みを入れる、という定番のやりとりがある位、逆から読めないのは常識になってますから、私が逆さ読みの「芸」をやるのを見た人は本当に読めているのがわかると二度びっくりしてくれます。
もっともこれ位は序の口であるべきなのでありまして、向かい合わせで弟子に教えた寺子屋の先生は逆さからきちんとお習字ができなければならなかったそうですから、逆さからは読むことしかできず上下が合っていてもろくな字が書けない私とでははなから勝負になってません。
>訳のわからない恐怖
モノに感情移入するのは自閉者としてごく当然であり、自然な心の動きです。
武田好史さん wrote:
> 今日明日と大型の台風11号が東海・関東地方を通過していくようです。
>現在(正午前)、私が住んでいる埼玉県の入間市は、徐々に雨が強くなり始めています。
実家の愛媛は、今日の真昼くらいが峠だったみたい。
瀬戸内海にむいてるあたりは台風の影響が少なくってお得、
でもなんとなくブームにのりそこねた気分。
> 静岡や三重ではだいぶ雨がひどいようです。
>みなさんの所はどんな様子ですか?
うちの彼氏とやらにおさまってしまった気の毒な人は、実家が伊勢。
現在は大学近くの下宿で、締め切りギリギリのレポート書いてて修羅場らしい。
「こういう場合、『実家は大丈夫そう?』と電話でもするべきなのでは?」
という、世の人付き合いに適応しようとする自分と、
「私がやつの下宿に電話して何の役にたつんじゃ!!
レポートの妨害にしかならんわい」と考えてる自閉的な自分。
「彼氏」なんつー存在にまで、「自分がどうしたいか?」
「どうすれば相手のためになるか?」ではなく
「普通の人ならこうするだろう」「こういう行動をとれば普通っぽくみえるだろう」
なんてことを基準に行動しようとしてしまう。
裏表ありすぎる自分に、罪悪感。
Xanadiiさんレスありがとうございます、現在実家帰省中のため
外員売りのテキストが手元にありません…
下宿に帰ったら、すこしずつアップしていきますね。
(でも帰ったらすぐにサークル合宿。またログがたまるっ……)
で。今日のできごと。
実家は塾なのだが、生徒がこんなうわさ話をしていた。
「あそこの商店街の○○書店の奥さん、自殺したんやって?」
……同級生の親とかならともかく、なんでもともとの知り合いでもないひとが
自殺したからって噂にしなきゃなんないの?
井戸端会議しか楽しめることをもってない人間ならとかならともかく、
もっとほかにおもしろいことがいっぱいあるはずの希望に満ちあふれた若者がさ〜。
自殺くらい勝手にさせておくれよ〜。
親や、私の周りの友人達にショックを受けさせる・責任を感じさせるって
きがねがなければとっとと自殺してしまえるのに、と思っていた私ですが、
私が自殺すると、周囲の人間に「ショック・責任」以外にも迷惑をかけてしまうと
気づいてしまいました。
『これだから健常者は』、な〜んてね。
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