アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
風呂糸さんへ
リポートありがとう。
フロイトさんはカナダに住んでいるの?
ちなみにアメリカはどーなってるんだろ?
いつか外国のAタイプの方々と交流出来る機会があればいいなあ。
世界アスペルガ−集会みたいな・・。
こんにちは、風呂糸です。(このHN恥ずかしいですね・・・)
カインの城に出没している者です。(僕は多分アスペ、でも未診断)
先日カナダ・バンクーバーに行った際、現地のアスペ事情を知りたくて、つたない英語で走り回り(疲れた!)発見しました。
最初に電話帖で Autism Society Of British Columbia、オーティズム・ソサエティ・オブ・ブリティッシュコロンビア、
BC州立自閉症協会、 www.autismbc.ca に問い合わせ事務所まで行き、(ヘタな英語で電話しても殆ど理解不能(^^;)) (最初電話したら、犯罪被害者救済センター?みたいのに繋がり大混乱)
自閉症協会の事務所でパンフなどをもらった後、アスペの事を尋ねると、そこの自閉症協会ではアスペは扱っておらず、「アスペのグループが、別に有るよ」と教えてもらい、数日後にワーク・ショップも有るとの事で、早速電話で予約!
そのアスペグループは、「ANCA] ”アンカ”と言う名称で、(何の略か、聞き忘れました。) www.naturallyautistic.com です。(残念ながらHPは9月1日オープン予定で、まだ見られません)
僕のヘタな英語での電話の応対に出てくれた人は、吃音が有りました。(英語の吃音は初めて聞きました、そんなに違和感なかったです。) ←この文章悪意は有りません。もし不快に思った方がいたらごめんなさい。
(違和感無かったのは自分の英語力のなさ?)
自分のメチャクチャな英語で、何とか予約に成功し、
いざ、当日!
ゴチャゴチャした、バンクーバー・ダウンタウン東部、(バンクーバー市は東部に行くほど、低所得者、移民の人達などの多く住む地域になります。治安も若干、悪くなります)自動車整備工場の2Fにありました。
ワークショップと聞いていたので、大人数の集会を予想していたのですが、協会側が4人と、参加者の女性1人だったので、少し拍子抜けしましたが、
「小人数なので皆と仲良くなれるな」と思い、うれしくなりました。
僕は簡単な自己紹介して、代表の Leonora、リオノラさん(白人女性35−40才くらい?自身もアスペ、とても陽気でお喋りな人。)が、会のことを紹介してくれました。
その外に会の人で、Rさん、Tさん、S君などが、いました。
最初は雑談などをして、僕の日本でのバイクに乗った写真などを見せたりして和気藹々って感じかな?
でも途中で代表のリオノラさんが、「用事がある」との事で退席し、それから真面目なワークショップ!て感じに、なりました。
もう一人の参加者の女性(ADDだそうです)が、色々自身の置かれた状況なを、相談していました。
僕も、「何か質問は有るか?」とか「日本の状況は?」などと聞かれたりしましたが、いかんせん言葉の壁は、予想以上に厚く(T.T)
しかも、医学的専門用語のオンパレードで、もうお手上げ!!
いくら耳を凝らして聞いてみても、脳味噌をフル回転させても、分からないものは、やっぱり分からない、
だんだん僕の集中力も切れてきて「あーもういいや」てな感じになりました。
(T_T)
会の人たちも、最初は一生懸命僕に伝えようと努力してくれましたが、お互い伝わらなくて、ストレスばかりが溜まり、最年少18歳位?のS君は、部屋の中を行ったり来たり・・・
終了時間になり、僕は少しガッカリしつつ、会の人とE-mailアドレスなどを交換しました。
リオノラさん以外の人と、話していて余り打ち解けた雰囲気には、なれずに残念でした。
まぁ初対面だったので仕方がないのでしょうか・・・
まだ会が発足して間も無いそうで、事務所内もガランとして、会の方も手探りでやってる、という感じを受けました。
情報面や、自閉症、アスペ関連の団体、グループなどの数は、日本の方がはるかに充実してる、という印象を受けました。
詳しいことは分かりませんが、おそらく日本に比べ、国や州の福祉のサポートなどはシッカリしていそうなので、そのぶん当事者の団体などが少ないのかなぁ?
カナダは元々人口も少ないので、「こんなもんなのかなー」と少しガッカリ・・・(自分の語学力の無さを棚に上げて・・・何言ってるんだ)
アメリカやヨーロッパの方が色々な団体が有りそうで、尋ねるのはそっちの方が楽しいかもしれませんね。
まぁ、でも2−3日ネット上で検索して、たいして下調べもせずに、行っただけなので、実際はもっと様々な団体があるかもしれません。
以上、カナダ・バンクーバー、アスペ探索記でした!!!
長文ですいません。
No.6910 Makichan wrote:
>考えてるのは「我」じゃないかも知れません。「他者」かも・・・。
その他者を想定しているのは誰?
喫茶店で冷水を作るときは、水指しにたぷとぷと水を入れ、そこにがじゃごぼと氷を入れます。(←ちょっと擬音に凝ってみた)
で、「の」の字を逆順裏返しに描くように水指しを回して水を撹拌するのですが、そうではなくて氷を入れたまま台の上に置いておくと、下から曇りがゆっくりと上がってくるのがわかります。これは、水面に浮いた氷から、摂氏四度の水が一筋の滝のように水指しの底に下りてきて、下からゆっくりと摂氏四度の「滞水層」を作って上がってくるのが見えているのですね。で、これが氷の下面の位置まで上がってきたときに水指しの表面を乾いた布巾で拭くと、今度は上からさらにゆっくりと曇ってゆくのがわかります。これは摂氏零度の水の層です。
このとき、水面というのは一旦下がり、それからちょっと上がり、氷が溶けきるまでは下がり、氷が溶けおわったらまた上がりはじめる、というちょっと予想外の挙動をしているはずなのですね。もっとも、その割合はごく僅かで、計測できるかどうかも分からないほどなのですが。ですが、とにかくそうなるらしい。
よく、「コップの中に水を入れ、氷を浮かべます。氷が溶けたら、水面はどうなるでしょうか?」とかいった理科の問題が出されたりするのですが、あれって自然に向けられるべき鋭敏な観察力を鈍らせるという意味で、けっこう粗雑かつ怠惰な発想の産物だと思うのですよ。少なくとも科学的な態度ではありませんね。「水は冷えると収縮する」と考えれば、「下がる」と考えてもおかしくない。「冷却による収縮分は無視できる」とかいうのだと、「何をもって『無視できる』と決めつけられるのか?」みたいな話になっちゃいます。「だいいちコップだって収縮するじゃん。ガラスと水の収縮率ってどっちが大きいんだ?」みたいな話とか、「水が蒸発することだってあると思う」とか、「それ言ったら凝結で空気中の水分がコップに入ってくることだってあるんじゃない?」みたいな話にもなるわけで……で、そういうことをいろいろ考えて、実際に調べ、予想を立て、実験をし、それを確認する……といった行為こそが、「科学」なのだと思うのですね。
「ゆとり教育の是非」にからんで「教育の効率」みたいなものがいろいろと議論されておるのですが、肝心の「教えるべきこと」の本質をなおざりにして効率は論じられないのね。「ものごとの本質を教えるのには、手間と暇と金がかかる」ということは、主張しておきたいと思います。
(Maria)
I wrote:
>わかんない人は美内すずえさんの『ガラスの仮面』を参照のこと。
かおりさん wrote:
>これって完結したのですか?
あれだけ引っ張っておいてエンディングがしょぼかったらがっかりなので、舞台が「紅天女の里」に移ったあたりから読んでいません。「そういうオチかいっ!」とかいって腹の立つ長篇って多いものですから。
『サザエさん』にしろ『ちびまる子ちゃん』にしろ『ドラえもん』にしろ、主人公が成長しない物語というのは、ずっと読んでいると言いようのない倦怠感に苛まれてしまいます。その点、『のらくろ』はいいかも。
(Maria)
車押す 姉弟の姿 可愛きや
子どもなる今 光あふれる
Makichan wrote:
> デカルトは「我考う 故に我あり」という言葉で自我意識の存在証明をした
>のだと言います。けんどもそれには問題があります。最初に「我」という言葉
>をつけることですでに「我」の存在を規定しているんです。この言葉は同義語
>反復してるにすぎないんですね。「コギト エルゴ スム」を直訳すると「考
>う 故に我あり」になり、これだとなんら論理になりません。考えてるのは
>「我」じゃないかも知れません。「他者」かも・・・。(このあたりはある本
>に書いてあったパクリだけどネタ本教えてあげないよ。ヘヘッ)
ラテン語にはとてもうれしい動詞の活用(ほくほく)があって、日本語と同じように主語が省略できるのですね。ですから、「コギト・エルゴ・スム」は、「考えるゆえに存在する」となります。つまりこれは「考える→存在する」という「定義」を述べたものと解釈することもできるのですね。とはいえ天下の豪傑デカルト先生の性格からすると、「考える存在としての<われ>がいてるのやぁ〜!」という強烈な自意識があったようにも思いますが。
で、考えているのは「脳」なのか「思考」そのものなのか、たとえばとんでもないサイズの計算機(宇宙みたいなものを考えてみましょうか)で脳をシミュレートしたときに、「考えている」実態としての私はどこに存在するのか、みたいな話があったりなんかするんですが……これは唯識論(認識論)からいうと、思考そのものが実体なのだ、ということになるし、中間論(存在論)からいうと、存在(色)と相互作用(空)のかかわりの中に存在する、ということになるのですね。
これは人工知能の世界では『中国人の部屋』という思考実験で論じられておるのですが、ここで解説するとややこしくなるので『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(ダグラス・ホフシュタッター)かなんか読んでください。
で、日本の伝統であるドイツ医学だと、「病因論」の立場を取るので「おかしい」以上は「原因」があるのだぁ、ということになって、やたら学説だとか病名だとかが増えるだけでさっぱり治療に結びつかないことがあり、アメリカ医学だと「病識論」の立場を取るので「とにかく『苦しい』のだから『治す』」という「症状→治療」という立場を取るのですね。これが「症候群」という考え方の基礎になっています。これも「病気」はどこに「ある」のかという解釈の問題ですね。
とはいえ病識論の立場からいうと本人が苦しくなかったら治さんでえーのと違うか?みたいな話にもなるわけで、軽度のADHDなんていうのはどーせ放っときゃ治るんだから薬(リタリン)で症状を押さえるなんていうのは親や教師のエゴだ、みたいな主張をする人もいます。まあ、全世界のリタリン製造量のうち九割を消費しているといわれるアメリカだから言えることであってね、日本の場合は周囲との軋轢(学校の先生やお姑さんから叱責されるとか)がけっこう深刻なストレスになっちゃうので、母親が潰れちゃわないように子供の症状を薬で押さえる、というありかたは認められましょう。
今回は言いっぱなしのMariaでした。まる。
(Maria)
ちょっと前のYanさんのカキコにねちっこく、しつっこくレスさせて頂きます。
Yanさんは私が言いたい事を、私以上に上手く説明される方なので、私の出番がな
くなったなあと思ってるんですが、あえて・・・。
>Makichan wrote:
>>私が先のカキコでいいたかったのは、今の精神医学が、なにひとつこれといった治療法確立していないくせして、むやみに新しい病名をつくるのにやっきになってんじゃないかとい気がして腹立たしい思いがするということなんです。AS的人間を分析するのはいいですが、じゃあどうしたら克服できるのかも同時に考えるべきです。知りたいのはそこんとこです。
>
>新しい病名を作って、患者を増やして、業界全体の規模を大きくしようという魂胆ではないかと、邪推したことがあります。
私はそういう意味で発言したこと一度も無いんですよ。わたしゃ関西人で、確かに、なんでもお金に換算してしまう癖ありますけどね(笑)。彼ら(一部の医者たち)は良かれと思ってやってるそれは疑ってないです。ただ仕方がどうかなって思っただけです。CHIPさんは私の言葉を誤解したのかなあ。だとしたら言葉に気をつけなあかんなあと思いつつ、かといってカキコ内容薄めたくないしなあというジレンマ感じてるんですね。私もYanさんのフォロー欲しいです(笑)。
>でもそれによって、今まで自分は健康で普通なんだと考えていた人が、自分にも少しおかしなところがあるかもしれないと考えるかもしれない。だったらよい面もあるのかなとも思った。自分のことをよりよく知るきっかけになるだろうから。そしたら安易に障害者に対して優越感を持てなくなる。
そのとうりだと思います。
>障害が障害なのは、社会の仕組みと偏見によります。治療が必要なのは、障害者ではなくむしろ障害を異端たらしめている社会の方です。
全くそのとうりだと思います。私がこの掲示板で言いたいのはその一言に尽きます。ですから非Aタイプの人にむしろ言いたいこと多いんですけどね。
>治療というと、今の社会が絶対で、そこからはみ出した者を治療するという風に聞こえる。実際問題としてね、むにゃむにゃ、医者には治せないし、理解できないんじゃないかな。だから薬を出すだけ。後は自力でってことになります。過剰な期待は禁物ではないでしょうか。生き難さを克服する方法を考えるのは自分であって、医者の仕事ではないですよ。
ここで一言申します。そもそも障害者は自分で自分をHELPできないから障害者
なんだと思うんです。医師に過剰な期待できないなら、できない分をカウンセラー
に期待したらいいのかなあ。それでも克服できないなら自分が、自分の運が悪いと
思うしかないのかなあ。somosomojibunnantearunokanaa・・・。
デカルトは「我考う 故に我あり」という言葉で自我意識の存在証明をしたのだと言います。けんどもそれには問題があります。最初に「我」という言葉をつけることですでに「我」の存在を規定しているんです。この言葉は同義語反復してるに
すぎないんですね。「コギト エルゴ スム」を直訳すると「考う 故に我あり」
になり、これだとなんら論理になりません。考えてるのは「我」じゃないかも知れません。「他者」かも・・・。(このあたりは或本にかいてあったパクリだけどネタ本教えてあげないよ。ヘヘッ)
今の社会は「我あり」という西欧の発想を基本に発達してきたように思えます。「オレのことを認めろ、そしたらオマエを認めてやる」というところから権利意識が生まれ。民主主義が発達したんでしょう。そのことが法律、経済、科学技術にまで影響されているのが今日の社会です。
一方東洋では、というか仏教唯識論(仏教二大根本原理のひとつだってサ)では
自我意識より深いところに、自他未分の集団意識があるんだという。そのあたりから輪廻転生の概念につながるらしいけどね。ユングはそれに影響されてか、無意識な集団意識があるといい、ラカンは無意識なんてなくて言葉があるだけで、それが
集団意識をつくってるんだというふうに言ってる。それ以上のことはわたしゃ知らないんだけどね。(どなたか知ってたら教えていただきたいです。)
自分とはなにか。他者とは。自我意識はほんとにあるものなのか。それとも単なる錯覚か。そのあたりを見直すことで今の社会全体を検証しなおす必要があるように私は思います。時間をかけてゆっくりとですけど。Aタイプ人にはそれができるし、その任を負っているように思うんです。
めっちゃ飛躍した論理立てになりました。どなたかフォローしていただければうれしいです。
わたしゃYanさんの言葉に匂い感じるんだわ。昔なつかしいどこかで嗅いだような。それも女性の。クンクン。
>
ミッドランド wrote:
>S「話は変わるけど、ASであることって、子供のときに本人に知らされたほうが
> いいのかな。」
わたしは高校生の時に母から知らされました。でも、実際には自分のどんなところが障害といえるのかは知らされていなくて、「いつかふつうになれるはずだ」と思っていました。大学生の時に学外実習というかたちで初めて社会に出た時、わたしはASだと受け止めました。病院で検査・訓練などの実習(リハビリ関連)をしていたのですが、周囲のスタッフによって自閉症的な障害をもっているらしいということが見抜かれていました。最初は「緊張しているのかな」とか「慣れてないからかな」と思われていたらしいのですが、日が経つにつれて「明らかにおかしい」と思ったそうです。あのときに投げかけられた言葉はちょっとしたことでビデオを巻き戻して再生するかのように思い出して、今でも苦しんでいます。「不器用でイライラする」「あいさつできない」「気をつかえない」「機械みたい」「感情がない」などなど。わたしは必死でやってきたのに、他の人は自然にできているなんて知らなかった。わたしは全然できていないなんて知らなかった。もっとショックだったのは「あんたみたいな人間が選ぶ仕事じゃない。人と関わろうなんて思わなくていい。どうしてもこの仕事がしたいんだったら、研究所みたいなところで1人でやってろ」という言葉でした。
今でも苦しいのは自分がASだから、ふつうにはなれないからではありません。いつかまた同じトラブルを起こしたり、同じことを言われたりするのではないかと常に感じながら生活を続けていること。そして、わたしの選んだ夢(職業)がやっぱり間違っていたのではないかという不安。ずっと長い間「ふつうになりたい、なれるはず」と信じて必死でやってきたからこそ、そう思うのかもしれません。
>A「いいに決まってるじゃない。最近ここの診療室に、大人で『わたしはASかも
> しれない』って言って来る人がやけに多いもの。その人たち、きっと子供のとき
> すっごく苦しんで、悩んでたんだよ。見た感じは普通なのに、周りと何かが違う
> って思い続けて。自分が『性格の悪い人間』と思い込んで、社会にうまく対処
> できなくてダメな人間だと思ってしまって。だから、早くに知らされてれば、
> こんな思いをせずに済んだんじゃないのかな。」
わたしは知らされていなかったからこそ、自分のやりたい夢を追いかけました。多分、もっと小さいころに知らされていたら、人と関わる仕事をあきらめて別の夢を選んだことでしょう。やりたいことを選んだ結果、わたしは苦しむことになりました。でも、すごくすごく苦しい時、わたしは小学校の卒業文集を開けます。将来の夢の欄に、すでに今の夢が書かれています。誰もがなりたい仕事に就けるわけじゃない。いろいろな理由で諦めていく人も多いでしょう。わたしはこの夢を数年後には叶えようとしている。そういう意味ではわたしは幸せなのかもしれません。 わたしはこれからも苦しいことがたくさんあるだろうと思います。今の夢を叶えるまでも、叶えてからも。いつ自分がASだと知るのが1番いいのかは分かりません。でも、わたしはこれで良かった。そう思えるのは「わたしはAS、ふつうの人と比べたらできないこと・分からないことがたくさんある。わたしはこのままで生きてく。それでいい。」と障害のことを受け止められるようになったから。そしていつか、母に伝えたい言葉があります。「わたしはお母さんがいなくなっても、ちゃんと生きていけるよ。」
自分の気持ちを確かめるためにも書きたかったのです。
長くなってすみません。
Maria さんwrote:
わかんない人は美内すずえさんの『ガラスの仮面』を参照のこと。
>
これって完結したのですか?
とある病院の精神科の診察室。診察が終わり、誰もいないこの部屋で何やら不思議な話し声が聞こえる。
それはなんと、人形のサリーとアンの会話であった。
この2体の人形、実は単なる飾りではないのである。さて、2体、いや2人の正体は何なのか、2人の会話を聞いてみよう。
サリー(以下S)「今日もわたしたち、使われちゃったね。」
アン(以下A)「うん、診断の指標だとか言って。」
S「わたしがカゴのなかに入れたビー玉を、わたしが外に出て、いないすきにアン
が自分の箱に入れました。さてわたし、サリーはカゴ、箱のどちらを探すでしょ
うか、って患者さんに質問するんだけど、なーんか最近、『これ、本当に診断の
指標になってるの?』って思っちゃうのよねー。」
A「そうそう。ASっていっても結構いろんなタイプがあって、本当のところは
ASだけど『カゴをさがす!』って言う人もいるんじゃないのかな。」
S「それはいると思うわ。つまり、わたしたちを使ったテストだけじゃ、ASの
判断基準にするのは無理がある、ってことね。」
A「でもこれからも使われるんだろうねー。」
S「話は変わるけど、ASであることって、子供のときに本人に知らされたほうが
いいのかな。」
A「いいに決まってるじゃない。最近ここの診療室に、大人で『わたしはASかも
しれない』って言って来る人がやけに多いもの。その人たち、きっと子供のとき
すっごく苦しんで、悩んでたんだよ。見た感じは普通なのに、周りと何かが違う
って思い続けて。自分が『性格の悪い人間』と思い込んで、社会にうまく対処
できなくてダメな人間だと思ってしまって。だから、早くに知らされてれば、
こんな思いをせずに済んだんじゃないのかな。」
S「それはもっともだけど、知らされた子供はどう感じるかしら。多分、ショック
を受けると思うよ。やっぱりどこかで負い目を感じちゃうんじゃないかな。他の
子にできることが自分にはできないって。それで夢をあきらめざるを得なくなる
ってことになって、悲しい思いをすることも考えられるよ。」
A「等身大で受け止めるしかないんじゃないの。わたしは子供のときにASを知ら
されたほうが、社会への対処法が早くから身につけられていいと思う。」
S「うーん、でも対処法と言ったって、普通の人と同じにできるわけじゃないで
しょ。」
A「それはそうだけど、少なくとも『自分はもともと普通の人とは違うんだ』って
いう意識は出るでしょ。知らされないよりだいぶマシよ。」
S「それ、なーんか思いっきり現実主義者になりそう……」
A「現実を知るしかないんじゃない。さっきから自分で酷なことばかり言ってる
ようだけど。」
S「それだけASの人を取り巻く環境が厳しいってことかな。」
A「同感。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は趣向を変えて、こんな投稿をしてみました。 ミッドランド
Mariaさんこんばんわ。
Maria wrote:
> そんなわけで、あたしは喫茶店のサービスというものに目覚めてしまったわけです。冷たいおしぼりはあくまで冷たく。熱いおしぼりはあくまで熱く。お客様がお店の中に入ってこられたら、「いらっしゃいませ!」とご挨拶し、一秒でも早くご要望に合ったお席にご案内し、おしぼりとお水で一息ついていただく、というのが、喫茶店のサービスの第一歩なのですね。
Mariaさん!ぜんぜん、「つまんないこと」ではないですよ!
私は19歳の時、鰻屋さんでバイトしてました。
開店前にお絞りを洗濯したり、冷やしたりして用意してる時の、
こりゃまた幸せだったこと!「ああ。これでお客さんが手や顔ふくんだー」って思って、なんかほくそえんで、おしぼりの準備をしていました。
かなり小さい店でして、昼だけのバイトだったんですが、なんとかレジやメニューも聞けてやっていました。
たまに、やな銀行員のおじさんがいて平気でゴミを床にすてることもありましたが。。。
結構どうでも良いことに、嬉しそうに「にこにこ」してるので、
愛想良い子に映ってたみたい(^^)
> あたしはだいたい人間関係というのが苦手だったのですが、こういう「お客様本位の人間関係」というのは、けっこう心地よかったりします。
そうそう。
ホテルのメイドさんもやってたことあるんですが、
私、掃除が大好きなんです(^^)
ほんと、あの作業は、ちょっと結構離れですが「お客様本位の人間関係」だと思っていました。同じメイドさんとの関係は、「一緒な仕事こなしてやっている仲間」ってな感じで、お昼に私は「下宿してる子」ということで、沢山ご馳走を頂いちゃったりしてました(^^)
「あんた若いのにエライねー」って言われてましたが、
何がえらいのか、よくピンとこなかった(汗)
そう!
お客様の為って思うと、なんかすごいやりがいがあるよね。
ややっこい人間関係のうざったさも少ないし!
> 実効性を伴わない「まごころ」だとか「思いやり」だとかは鬱陶しいだけ、みたいな気がします。そういう意味で、自閉症方面の人間って、サービス業に向いてそうな気はしないでもありません。
ただ、レジは駄目だったです(T_T)
ジャスコの店員は、超難しかった。
ずっと前、喫茶店で働いていたころに気づいたこと。
金属というのは、比熱が小さくて熱伝導率が高いです。ところが、喫茶店で使っている水指し(ウォーター・ピッチャー)というのはステンレスでできているのですね。あれでは中に入っているお水はすぐにぬるくなってしまうのではなかろうか?と思いました。だいいち、周りに露がついて、ポタポタと垂れてしまいます。ですから、布巾の上に置いて、しかもしょっちゅう乾いた布巾で拭いていなければなりません。だいいち、金属では中にどれだけ水が入っているかが見えないではありませんか。
ホテルなんかでは、ガラス製の水指しを使っています。ラーメン屋なんかでは、プラスチック製の、断熱性が高くて中が見える水指しを使っています。じゃあ、喫茶店では、どうしてわざわざ不自由なステンレスの水指しを使っているのでしょうか。
じつは、喫茶店では「『お店に入ってきたお客様に、きりっと冷えたおいしい水をまず提供する』というのが第一のサービスである」という理由から、ステンレスの水指しを使っているのですね。
水というのは、摂氏四度で密度が最大になります。したがって、ステンレスのピッチャーに、水面から下に向かって露がつく状態(つまり、下のほうが温度が高い状態)なら、中の水の温度は摂氏四度未満であるということになります。つまり、水温と水量が同時にわかる状態であれば、水温は四度未満である、ということなのですね。
なんだか知らないけれど、あたしは「美しいなぁ」と思ってしまいました。
そんなわけで、あたしは喫茶店のサービスというものに目覚めてしまったわけです。冷たいおしぼりはあくまで冷たく。熱いおしぼりはあくまで熱く。お客様がお店の中に入ってこられたら、「いらっしゃいませ!」とご挨拶し、一秒でも早くご要望に合ったお席にご案内し、おしぼりとお水で一息ついていただく、というのが、喫茶店のサービスの第一歩なのですね。
あたしはだいたい人間関係というのが苦手だったのですが、こういう「お客様本位の人間関係」というのは、けっこう心地よかったりします。「喫茶店の店員と図書館の司書は、システムエンジニアを志望するなら経験しておくべきだ」という意見もあったりします。
実効性を伴わない「まごころ」だとか「思いやり」だとかは鬱陶しいだけ、みたいな気がします。そういう意味で、自閉症方面の人間って、サービス業に向いてそうな気はしないでもありません。
(Maria)
くると wrote:
> くるとです。きたる9月2日に成人LDの会のオフ会を開きますので
>ここに告知します。
>
>(集合)JR新宿駅東口改札口前に9月2日(日)AM11:00集合
>
> →わたしがエーリッヒフロムの『破壊』という本を持って立っていま
> す
>
>(会場)アフリカンレストラン ローズドサハラ
>
> →JR新宿駅南口から徒歩3分、甲州街道沿いのシティバンクの
> 向かい
>
>(費用)800円から2500円ぐらい
>
>(解散)PM2:00ぐらい。希望者がいれば2次会もやる予定
>
>(申しこみ先)成人LDの会seijinld@msg.biglobe.ne.jpまで。まあ、
> わたしが顔を出している掲示板やMLに書きこんでくださ
> ってもOKです。
>
> みなさまのおこしを心よりお持ちしております。では
私も参加したいのだが、東口集合だと範囲が広く迷いやすいのでは・・・。
南口の方がテレビでおなじみだし、範囲も狭いので集合しやすいと思う。
niinaさん wrote:
>なぜリンコさんが「奇跡の人」なの?
>ヒニクなのかな?
映画『奇跡の人』(ヘレン・ケラーの伝記)がヒットして以来、「障害を克服した人」は、「奇跡の人」と呼ばれることになっています。う、うぉ〜たぁ〜。日本では姫川亜弓さんと北島マヤさんがダブル・キャストで演じたヘレン・ケラーが有名。わかんない人は美内すずえさんの『ガラスの仮面』を参照のこと。
(Maria)
Yanさん wrote:
>「まるごとの受容」ということなのかもしれません。「筋道を通すコミュニケー
>ション」ではなく。
「まるごとの受容」だと、「酔ってからむ」のほうが、ありそう。
他にも、「人が嫌がることをする」場合には「愛情飢餓」「ボーダーライン性格」といった例があるんですが、これも名加野さんの場合には当てはまらないように思います。
おそらくは、「注目依存(アテンション・アディクト)」でしょう。自分の態度に相手が激しく反応するのに昂奮し、その関係に依存してしまうんです。まあ、はっきり言えばいじめ(ハラスメント)なんだけど。
注目依存は「認められたい」という衝動が原因です。だから自己実現してるひとは注目依存にはなりません。さりとて自己評価が低い卑屈な人は、注目されようとは思いません。
そんなわけで、自己評価が高く、しかもその根拠が脆弱で傷つきやすい人が注目依存になります。この性格は粗暴犯の性格そのもので、「カッとすると何をするかわからない」人でもあります。今後は近寄らないのが賢明。
どうしてもつきあわなければならないときは、「潰す」という手があります。「冷静に話しましょうよ!」「なにカッカしてるんですか?」「恐いなぁ……」とかいって、相手に「キれやすい人」「カッとすると何をするかわからない人」というレッテルを貼付けてしまうのです。そうやって相手の態度にいちいち言及すると、相手はますます興奮して態度が乱暴になります。で、周囲の人間の目に余るようになり、本人もそれに気がついたら、相手は自滅します。足掻けば足掻くほど周囲から疎外されてゆくのですね。
ただ、相手が会社における重要人物だったりすると、職場からだんだんと人が辞めていったり、最悪の場合は本人が使い込みを働いて会社が倒れたりもします。うちのJoshyaさんはそういう会社をいくつも見ています。さんざん仕事の上でいじめられたあげく会社が倒産してお金が入らない。
こういう性格異常(サイコパス/ソシオパス)の人というのは、本人に病識がなく、医学上の「病気」でもないのが困ります。
やっぱ殺すっきゃないのかなぁ、とか、ときどき思います。
(Maria)
ちびのはげさんこんにちわ。
花風社からでている、「私の障害、私の個性」をインターネットで
頼みました。
早く来ないかなーーとまっています。
ちびのはげ wrote:
>すこし静かになったようなので、奇跡の自閉 ニキリンコさんの救世主をお知らせします。ニキリンコさん翻訳界デビューの立て役者 浅見淳子さん です。
>図書館にあった公開資料よりの転記です。
>
>浅見淳子(アサミ、ジュンコ) 筆名=沢木あさみ(サワキ、アサミ)
>{学歴}慶応義塾大学文学部卒
>{経歴}昭和63年 翻訳大手出版社に入社 編集者に。
> その後著作権代理店に移り、翻訳本とかかわる。
> 平成8年女性が読みたいすぐれた本を出版したいと、
> 出版プロデュース会社「花風社」を設立。
> 翻訳家としてもデビューし、自ら探し出した原書を翻訳し出版。
> 一方女性翻訳家会議代表を務め、プロのスキルアップセミナーや、
> 新人翻訳家コンテストなどを計画。訳書にリンダホーガン「大地に抱かれて」
> アンソニーミンゲラ「イングリッシュペイシェント」などがある。
>{所在地}東京都渋谷区桜丘町26−1セルリアンタワー5階
>TEL03−5728−1091
>
>リンコさんを取り上げたのですから、自閉症の方にも理解の深い方だと思います。
>運がよければ、奇跡の人ニキリンコさんにも会えるかもしれません。
なぜリンコさんが「奇跡の人」なの?
ヒニクなのかな?
リンコさんは自分の才能を生かして、生活してるだけじゃない?
それって当たり前のことじゃないの。
自閉のスペクトル上にいる人だって、才能を持っている人は
多くいるのじゃないの?
人は人、自分は自分。
なんでそんなにリンコさんにこだわるのかな?
うらやましいから?ファンだから?
翻訳家になりたい人は、浅見さんにコンタクトしてみればいいし、
その人に才能があれば、それは認められるのじゃないのかな?
リンコさんに会う、会わないなんて関係ないんじゃない?
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