アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
pennpenn58さん wrote:
>どうしたらいいでしょう。
そうねえ、取りあえず、ここで書けることは、実際に、御自分の中で、何処まで相手に譲れるのかを、じっと見極める事かな、相手になんと言われようと。自分が何処まで我慢できるのか・・・。(対大人向け)
子供へは、今のままでいけそうだけど・・・??
お子さん達の不適応行動は、親に対してだけでしょう?暴力で無ければ、いいんじゃないでしょうかね。(いいかげんね、わたし)
思春期に入れば、それはそれは、大事(おおごと)になるだろうし(←こわ〜〜ぃ発言!!)今のうちに体力気力、養っておきましょうね。
ナルコレプシーって、タレイヌ解釈だと、嫌いな科目の授業は、眠くなる・・・ってやつの、展開バージョンだと思ってるわけ。とにかく、眠れるだけ、眠ってみたらいいんじゃないかな。風邪とかでも、熱が高いときは眠れないけれど、回復が始まると、異様に眠いじゃないの。でも、眠る事で、ものすごく回復するところがあるんでしょ。だがしかし、子育てしつつ、好きなだけ眠るなんて、実際、かなり難かしいんだけどさ(←矛盾しているカキコだわ)
がんばってね、なんていわない。
しっかり、寝てください。
(タレイヌもまた、寝る)
pennpenn58さん wrote:
>武田君、私も障害村で暮らしたいな。そして結婚はしても子供は作らないの。
うふふ、『時間』は万人に公平に、一つながりで与えられていてね・・・。
そいでもって、ゼーッタイに、逆戻りしないんだよ。(あたりまえだけど)
――――――
これは反発を受ける覚悟で書いているのだけれどAS、ADHDの子供を産んだら子供がかわいそう。
タレイヌ、反発するよ。
子供が可愛そうなんじゃないよ、ぺんぺんさん自身が、自分を、『可愛そう』って思っているのさ。(きつくて、ごめんなさいです。)
――――――
ADHDでも幸せに暮らせる。そういう社会でないものね。日本は。
お医者さんや、社長さんや、株のトレーダー(とか言うんだっけ?慣れない言葉を使ってるのがバレバレ・・・)そういう人たちのなかには、絶対に、ADHDがいる!!
一見脈絡の無い行動に見えるけれど、本人の中では、つながりはあるのだ。『興味を持つ、やってみたい!!』という意味で。その意欲や、その頭の切り替えの早さを、『やる気』として継続するように、うまく、育てていく事ができれば、多様な人間を巻き込んだ、チームワーク仕事の中心核的存在となれるはず。
それこそ、その時、補佐的な役割として、真剣に物事掘り下げて考え、切りのいい所まで、時間の概念を失っても、完成度の高さを目指してしまうAS的な人を、上手く確保できたら、それこそ、百人力だろう!!
理想論かもしれないけれど(というほど、はずれてるとも思ってないタレイヌ、変わり者同士で、業績をあげてるひとたちって、結構いるって、ほんと)ぺんぺんさんの、年齢からすると、すでに、社会の次の「人材育て」に入っているのね。ただただ、なげいたり、『社会』に期待するのではなくて、自分のできること、見つけて、一つでもやってみたらいいよ。(・・・うふふふ、童話を、書くとかさぁ・・・?謎?)
ああ、それから、「過剰適応」は、不登校の子供に、多く見られた現象ね。(←ちょっと、過去形)
周りの人間たち(親、先生、友達、先輩、ぐらいかな、とりあえずは)の、それぞれの「立場」から発せられる、『自分』へのメッセージ=希望に、忠実に答えようとすると、自分が、一つのまとまりある人格としていられなくなる。(平たく言うならば、誰にとっても、「いい子」で、居つづける事ができない、当り前なんだけど)
だから・・不安→誰にも会いたくない→引きこもり→鬱・・・と。単純に言えば、そういうこと。
皆さんが、上手に説明していたね、いろいろな例を持ってきて。
(きまぐれタレイヌ)
あ、こうもりさん、おかえりなさ〜〜い。
はじめまして、白さん。ぶちと申します。
一応前置きをしておくと、実は私もASというわけでは多分ありません(ADHDのはどうやらあるらしい)。実家の兄が昔ADHD(ADD?)と診断されて、今になってASというものを知って考えてみると、ASもあるのかな?って思います。そんな事から興味を持って、迷惑かしらと思いつつ時々こちらに遊びに来ています(書きっぱなしで去っていく事が多い・・・すいません)。
白さんのお話を全部読んだわけじゃないんですが、単に私が思った事を書きます。素っ頓狂だったらごめんなさい。これはあくまで私の話なんですけどね・・・(私は自分の経験した事くらいしか語れないのだ・・・)
白さん wrote:
>でもね、僕は女性心理がわかってないんでしょうが、普通だったら、好きじゃなくて、僕に踏み込まれたくないと言うなら、
>「あたし、白君のこと、どうしても好きになれない」とか、
>「気持ちはうれしいけど、受け止められない」とか
(ごめん、中略)
>なんとか、はっきり断ればいいじゃないですか。
>でもね、彼女の場合は、何かが違うんですよ。もう一度ここでは書きませんが。
その彼女は「今の状態が心地よくて、これを変えたくない」って思っているんじゃないかなー?って、私は思いました。複雑に絡み合った人間関係って、一つ大きく変わると、全体にも影響してどんどん変わっていくでしょ。そういう意味で、「困った」って思ってるんじゃないかな? 彼女ってクラスメートじゃないんですか?(話をよく読んでないのがバレバレですね)
昔、昔のその昔・・・今から10年以上前の私が大学生だった頃のお話・・・私は年頃なのに、全然女の子らしくなくて、でもそれが結構気に入ってました。男子の方が絶対的に多いクラスだったので、みんなが変に気を使わずに男友達と同じように、何でも気軽に話してくれる雰囲気が好きでした。でもあるクラスメートが「付き合って欲しい」って言い出して・・・はっきり言って困りました。
その友達、すごく真面目で悪いやつじゃないし、友達としては特に嫌いじゃないんだけど、全然恋愛感情もってなかったし。お互いのまわりの人間関係が重なってない相手なら、もう二度と近寄ろうと思わなくなるくらい強く断るんだけど、友達としては関係を持続させたいとか、彼に大きな衝撃を与えてそれが他の友達にも波及するのが嫌とか、ま、色んな欲がありまして、最初の時はやんわりとしか断れませんでした。そうすると、「全く脈なし」とは思わないんですよね。向こうはなるべく話したり、少人数になれる環境を作ろうとして、私はかわして逃げ回るような状態がしばらく続きました。でもそういう状態が続くと、まわりにも感づかれるでしょ。教室から出てくるのを彼がぽつんと待ってたりするようになると、もう他の友達にもばればれ・・・もうこれは適当にやって、引き下がってもらおうと思っても無理と判断して、ハッキリクッキリ断ったんですが、もう時すでに遅し・・・
共通の知人と話していたら、「ぶちはさー、あいつのどこが気に入らないわけ?」「あいつ真剣にぶちの事考えているのに、どうしてそういう態度なのかな」「あいつ結構落ち込んでるぜ」「俺はあいつ良い奴だと思うんだけどなぁ」・・・ってあんたら余計なお世話! 彼がまわりに泣きついたとか、友達に頼んで仲介してもらっているとか、そういう事は多分ない(そういう奴じゃない)んだけど、彼は一般的に言う「良い奴」で彼が落ち込んでいると、まわりがなんとかしてあげたくなるだけに、まずーい感じ・・・あー、最低!! 相手が真面目なだけに鬱陶しい!・・・って思いました。もう大学生でみんな大人ですからね、おおっぴらにどうこうはなかなか言われなかったけど、やっぱり彼を応援するっぽい友人はあれこれ気を使ってくるし、居心地が悪くなったのは事実でした。「これが嫌だったのにぃ」・・・特別な「好意」って時には鬱陶しいんです、私の場合・・・
彼女はASであるっていう仮説からはずれると思いましたが、白さんの話を読んでたら、久しぶりに思い出したもんですから、書いてみました。彼女の場合、こういう事って考えられません?
(ぶち)
こんばんは、白くん。今回は、君へのレスというより、自分を確認するための内容になってしまうかもしれません。(実は去年、1度やった。)というわけで、関係ないな、と思ったらここで読むのをやめてもOKです。
白くん wrote:
>>Mariaさん wrote:
>> 現代の義務教育における国語教育(特に小学校)は、具体的になにを教える、という目標を欠いている気がします。(中略)日本人は日本語という環境の中だけしか知らないこともあって、「ことば」を通じて自らを見つめる体験をしていません。
>> だからイーデス・ハンソンさんにも「日本人は『異質なもの』を受け入れる能力が低い」とか言われるんだよな。(中略)そうではなくて、「自分」というものに対する問いかけというものが欠けているのだと思います。だから、「自分」という規準に何の疑問も抱かなくなってしまう。自己中心的だとか社会性の欠如というのは、周囲が見えてないのではなくて、自分が見えていないのだと思います。それは同時に「客観性」に身を置くということで、「社会」という目を持つということです。おとなに必要なのは、社会を見ることではなくて、社会の目でものを見ることです。
>
>僕ははじめASを理解するつもりだったけど、もがいていく中で見えてくるのは、ほかならぬ自分の姿なんですね。
>もちろん、まだ何も見えているわけじゃないんですが、それは単に今までの自分の物の考え方や感じ方を疑うと言う程度のものではなく、もっと根本的な、自分ってどんなヤツなんだろうと言う感じでしょうか。
>考えれば考えるほど、問題が自分に帰ってくるんですよ。
わたし自身、自分の方が周囲と違う、と思うようになってから「わたしは何?」の問いが始まりました。だから、どんどん考えてどんどん聞き、また考える、こういったことの繰り返しで(もうやっているわけだけど)少しずつ白くんや、彼女のことが見えてくるわけだよね。(実際、今までのカキコでもいろいろ書いてきてるわけだし。)わたし自身も今、現在進行で自分自身を捉えようとしています。(時に、早く白黒つけてー!!という思いにかられることもありますが。)
>>あさかぜさん wrote:
>>もちろん、人間はASという部分だけで成り立っているわけではない。男女の違いというものもあろうし、育ってきた家庭環境や出会ってきた人間によっても違いが生まれるわけだ。
>>人間は「個」として確立している、とわたしは考えている。人間はひとりひとり、みんなちがうのだ。人と人が出会うことって、異文化接触そのものだと思っている。たとえ親子の間であっても、だ。たとえばASという背景をしょっていなくても、相手は「自分とはちがう人間」なのだから、ちがう考え方や受け取り方をしても当然、というところがわたしの基本。
これは同感です。(ただ、頭でわかってても気持ちがついていかない時があるのは、わたしの想像力が欠けてるんだろうか?)
>>(すっかり女性心理におびえている白)
>
>>あのなー。これからやんけー。スタートラインに立ったとこじゃんか。
>>「目覚めよ、冒険心!」だぜいっ!!
>
>あ、はい、先輩、すいませんです。m(__)m
>でも、女の子の心理には、基本的に別に興味ないんで、それこそそんなことを研究して、機嫌取りたくないわけで、微妙な心境なんです。
>それじゃやっぱしダメでしょうか。(笑)
うまく言える自信がなくて悪いんだけど、彼女の機嫌とるために研究してるわけじゃないんだから、必要なことはきちんとマスターしてやることはやる、でいいんじゃない?(なんかホントに抽象的だけど…。)
P.S.またもうまく言えなくて悪いけど、No.10403で白くんが書いていた、
「ただ、すごく切ないです。(中略)彼女の心に触れていられたら…と。」
こういう思いは大切にしてね。こういう心を持っているからこそ、彼女のことを大切に思う気持ちも生まれてくるんじゃないかな…と思うので。
(しかし、今回、ホントにきちんとまとめられなくてごめんね。)
Mariaさん wrote:
> えー、あたしは「知る喜び」というものをよく知ってはいるのですが、これに「調べる愉しみ」が加わると、さらにその喜びは大きくなるというのもよく知っているのですね。(中略)べつに専門的な教育を受けていなくてもこうした喜びは味わえるんですよ。
私は一般向けの本を読むことはしても、それ以上のことをしたことはなかったんですね…実は。(専門書をたどろうにも、どうしたらいいのかわからない、というのもありますが。)
> あたしが尊敬する民俗学の吉野裕子(よしの・ひろこ)さんは、戦前に女子学習院を卒業し、ついで結婚して家庭の主婦になりました。その後津田塾大学英文科で学び直し、同大学を卒業後は学習院女子部に勤務して教員となり、その後退職して四十代の半ば過ぎに日本舞踊を始め……とぜんぜん民俗学には関係のない人生を送っていたのに、舞扇を手にして、扇が日本人の芸能・礼法・祭事に果たす役割に気づかれたそうです。で、それから三年ほど経ってから、かつて文理科大学の聴講生として接した和歌森太郎先制に偶然再会した際、「扇のことを調べた人がいるでしょうか」と尋ね、「いない」と言われて「それじゃ、ソレ私にやらせて」と応じたところから民俗学の道に進んだという割ととんでもない人です。(中略)
吉野さんをはじめとして、ゴーギャン、伊能忠敬の前職、『ピグマリオン』が90歳を過ぎて書かれたこと…全部初めて知りました。やはり、Mariaさんの頭は脅威的だなあ…と思います。
> できることは、たぶんいろいろあります。
そうですね。いろいろ方法を探してみましょう。
> まあ、それより図書館の利用者カードを作るのが先決だと思うんですが……持ってます?
あるにはあるのですが、よりによって地元の図書館の利用者カードが、3つに割れて使用不可という体たらくです(^_^;)。情けないなあ…(笑)。
レスありがとうございました!
武田好史 さん wrote:
>ASの女の子の心理を知りたかったら、鬼束ちひろの「INJECTION」という歌を聴い>てごらん。
>これほどまでに近いのは、俺も聴いたことがない!
夕方から外へ出てたので、借りてきました。
「infection」でいいんでしょうか。それしかなかったんで、多分これだろうと思って聞いてみました。
で、今聞いてみて・・・、
言葉がありません。
これが、ASの女の子の心の風景なら、本当にそうなら、僕は、頭で何を分かろうとしていたんだろう・・・。
ただ、すごく切ないです。
それでも、ずっとずっと聞いていたい。
せめてこの一時、彼女の心に触れていられたら・・・と。
武田さん、有難うございました。
多分今までで一番、実感として、僕は何かを感じていると思います。
グルンサさん wrote:
> もともと「レス」と「ログ」の違いから始まった質問が、こんなにいろいろな話になるとは思いませんでした。(中略)でも、読ませていただいた方は、勉強になって楽しかったです。
えー、あたしは「知る喜び」というものをよく知ってはいるのですが、これに「調べる愉しみ」が加わると、さらにその喜びは大きくなるというのもよく知っているのですね。百科事典とか国語辞典とか英和辞典とかで足掛かりを見つけ、一般向けの本(岩波新書とか中公新書とか講談社現代新書とかブルーバックスとか文春新書とかPHP新書とか)でさらに理解を深め、さらに専門書に当たってその先の領域に踏み込む、といった方法を身につければ、べつに専門的な教育を受けていなくてもこうした喜びは味わえるんですよ。
あたしが尊敬する民俗学の吉野裕子(よしの・ひろこ)さんは、戦前に女子学習院を卒業し、ついで結婚して家庭の主婦になりました。その後津田塾大学英文科で学び直し、同大学を卒業後は学習院女子部に勤務して教員となり、その後退職して四十代の半ば過ぎに日本舞踊を始め……とぜんぜん民俗学には関係のない人生を送っていたのに、舞扇を手にして、扇が日本人の芸能・礼法・祭事に果たす役割に気づかれたそうです。で、それから三年ほど経ってから、かつて文理科大学の聴講生として接した和歌森太郎先制に偶然再会した際、「扇のことを調べた人がいるでしょうか」と尋ね、「いない」と言われて「それじゃ、ソレ私にやらせて」と応じたところから民俗学の道に進んだという割ととんでもない人です。
五十代に株屋を引退して画家になったゴーギャンや、同じく五十を過ぎてから家督を譲って庄屋から天文学者に転じて日本全図を作った伊能忠敬の例もあります。ジョージ・バーナード・ショーなんか、九十歳過ぎて初めて戯曲書いたんだぞ。で、それがあの映画『マイ・フェア・レディ』の原作の『ピグマリオン』だったりします。
「学会」とかいうと雲の上の存在、みたいな気がしますが、『日本きのこ学会』とか『日本天文学会』なんていうのは六割以上がアマチュアで、しかも活動の中心はアマチュアです。「誰か偉い人にお任せする」みたいなことでは、答えが出ない問題というのはいっぱいあるのですね。『日本アホ・バカ分布考』なんていうのは、テレビ番組が発端になって、民俗学上の大発見につながった例です。
おいしいお茶を淹れる。おいしいお粥を炊く。そういった、まさしく「日常茶飯事」でも、つきつめてみるといろんな発見があります。あたしはラーメン用の「たれ」の開発にかかわっているうちに(うちうちで作るぶんをちょこっと作るだけなんだけどさ)、胡椒とペプチドの重要性を認識しました。で、ここんとこの重要性を大手食品メーカーもちゃんと認識していないことに気づいてしまったのね。うふふふふ。まあ、分析器機まで導入してどうこうする気はありませんけど、とりあえずおいしいものが食べられるというのはうれしいことです。
あたしたちのことを知っているのは、やっぱりあたしたちなんですよ。それを学問の遡上に載せるにしても、やっぱり主体となるのはあたしたち。あたしたちにできることは、いっぱいあります。だからあたしも『「どっちでもいいこと」が決められない。』とかいった、「あたしたちはあたしたちの『自閉症』をどう捉えているか」みたいな文章を書いているのですね。
できることは、たぶんいろいろあります。
> P.S.最近、メルアドを取得した方がいいのだろうか?と思う今日このごろ。携帯電話では限界があるし(正確には、それもほとんど使わない)、かと言ってないのも不便かなあ…とも思う。ただいまPC入門書を読みながら思考中です。
メルアドを増やすだけならそんなに難しいことはありませんが、自分専用のマシンがあるのとないのとでは全然違います。あたしが使っているのはiMacのスノーホワイトだけど、iBookとかかっこいいぞ。
まあ、それより図書館の利用者カードを作るのが先決だと思うんですが……持ってます?
(Maria)
武田好史さん wrote:
>Joshyaさん wrote:
>> なお、毎時1852メートルは毎分30.87メートルとなり、これは毎分百フィートちょっとになります。毎分47フィート3インチでは「1852m/h」にはならないような気がするのですが。ひょっとしたら計算をお間違えではないでしょうか。
>>
> 小学館の英和辞典「PROGRESSIVE」には、KNOTの意味として「(船の速さを測る)測程線の単位。47フィート3インチ。」とあります。つまり元は地球の1分の長さとは全くべつの基準を用いていて、後になってから、「そっちの基準が優れている」ということで、単位の変更があったらしいです。
もともと「レス」と「ログ」の違いから始まった質問が、こんなにいろいろな話になるとは思いませんでした。(そう言えば、昨年の『お宮入り』もそうだったな。タイトルの名付け親は、私ではありませんでしたが…。)でも、読ませていただいた方は、勉強になって楽しかったです。ご回答下さった皆さん、ありがとうございました。
P.S.最近、メルアドを取得した方がいいのだろうか?と思う今日このごろ。携帯電話では限界があるし(正確には、それもほとんど使わない)、かと言ってないのも不便かなあ…とも思う。ただいまPC入門書を読みながら思考中です。
こうもり wrote:
>>
>>1.日取り 1月26日(土) OR 2月23日(土)
>
> 現時点までの参加希望者は1月26日が大丈夫みたいですね。
>
あいにく俺は、どちらの日も都合が悪くて行けないな。
日曜日ならば行くことができるが・・・
ご意見ありがとうございました。今のところは落ち着いているみたいですが。でも、やっぱり不安というか、常にパニックになりそうな要素というか、タネはもっています。でも、ゆっくりしてしっかりやっていきます。
第2章 「自閉症」という概念の成立
自閉症方面の疾患は、じつにいろんな名前で呼ばれています。これは、医学・教育・行政それぞれの分野で呼び名が違い、あるいは社会の人たちが、医師・教師・親として自閉症患者をどう捉えていて、どう扱うか、どう接するかによって、呼び名が違ってくる、ということだったりします。
代表的なものを上げてみましょう。
・カナー型自閉症/アスペルガ−型自閉症
・自閉症/高機能自閉症
・自閉症/アスペルガー症候群
・広汎性発達障害/高機能広汎性発達障害
・情緒障害
……とまあ、これだけあったりします。
「名は体を表わす」という言葉もありますので、まずはこの「名前」というものについて説明します。
で、最初に「自閉」という概念について。
「早発性痴呆症」という言葉が、その昔存在しました。現在では「精神分裂症(分裂病)」、あるいは「スキゾフレニア」と呼ばれているものです。現在、「精神病」と呼ばれているのは、ほとんどすべてこの「精神分裂症」です(コラム参照)。
そして、「精神分裂症」のうちの、「破瓜型精神分裂症」の症状の中から、「自閉」という言葉が出てきたんですね。
そもそも、この精神分裂症が「早発性痴呆症」と呼ばれるようになったのは、本来は老人に起きるはずの痴呆症によく似た症状が、二十代の若者に起きる、という理由からでした。で、この「早発性痴呆症」を詳しく調べてみると、「痴呆」というような知能の低下とは違った、「自己の統制ができない」という「乖離」、あるいは「他者との心の通いあいがうまくいかなくなる」という「精神的な孤立」という症状が中心にある、ということが分かってきたわけです。この「精神的な孤立」を「自閉(autism)」呼んだのが、この言葉が使われたそもそもの始まりでした。
ところが、一九四〇年代に、それまで「精神薄弱(智恵遅れ)」とみなされていた子供の中に、この精神分裂症によく似た「知能は必ずしも劣ってはいないのに、自閉傾向が見られる」子供がいることに気づいた人々がいました。
すなわち、「二歳か三歳の子供に、『自閉』を特徴とする精神分裂症によく似たもの」があるということが、わかってきたわけです。
この「『自閉』を主たる特徴とする、幼児に見られる、精神分裂症によく似たもの」を、アメリカの精神科医カナーは「早期幼年性自閉症(Early infantile Autism)」、ヨーロッパの小児科医アスペルガーは「自閉性性格異常(Autistic Psychopath)」と呼びました。当時は、「精神分裂病の子ども版」といった認識だったようです。
で、本来ならこの二つは同じものとしてひとまとめにされそうな気がするのですが、実際にはそうなりませんでした。確かにカナーが報告した病像とアスペルガーが報告した病像はその後「自閉症」というひとつの概念で結びつけられたものの、現在でも「カナー型自閉症」と「アスペルガー型自閉症」は別の概念だとされています。
では、なぜ「カナー型」と「アスペルガー型」に分けられているか。
ひとつは、症状に多少差があるらしい、ということがあったようです。
カナー型には、明確な幼児期の言語発達の遅れがある。
アスペルガー型には、言語発達の遅れがあっても、それほど深刻ではない。
そう言われていました。
あるいは、カナーはこの原因を、「何らかの原因で精神の発達が阻害されたもの」と考えたのに対し、アスペルガーは「性格の極端な偏り」と考えたという、原因に対する考え方の差、というものがあったりしたのもあると思います。
ただ、この二つが同じものか違うものかについては、まだはっきりとした結論は出ていません。カナー型と診断されたあと、アスペルガー型に移行したという例も多くあります。
知能や言語能力や学習能力によって、「自閉症」と「高機能自閉症」に分けることもあります。
典型的なカナー型自閉症だけを「自閉症」と呼び、言語の遅れのない、比較的軽いものを「アスペルガー(氏)症候群(Asperger's syndrome)」と呼ぶ人もいます。
また、自閉症とアスペルガー症候群をまとめて「広汎性発達障害」と呼び、とくにアスペルガー症候群のことを「高機能広汎性発達障害(high-functioning pervasive developmental disorder)」と呼ぶひともいます。
……ふぅ。大変だこりゃ。
いろいろ書いてはきましたが、ぶっちゃけた話、こうした『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の名前については、あんまり意味がない、ということだったりします。
そんなわけで、上記の『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の名称は、結局は「自閉症のようなもの」の言いかえにすぎません。ですから、こういうものを全部ひっくるめて、「自閉症圏」とか「自閉症スペクトラム」(あるいは「自閉症スペクトル」)とか呼びます。
だけど、これはあんまりいい言葉じゃないのね。「圏」というと明確な境界線がありそうな感じだし、「スペクトル(ラテン語のスペクトラム)」という言葉には、本来「領域」という意味はありません。「幻影」です。これはプリズムを使って光を屈折させたときに現われる光の帯の意味で用いられ、分光学(ドイツ語のスペクトルアナリーゼ)の語源になり、「領域」の意味でも使われるようになった弧度場です。
それにもう一つ。果たして『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』は「治る」のか?という問題があります。
たとえば、眼鏡をかけることで、近視の人でも普通の人と同じように社会生活を送ることができます。それと同じように、「〜症」「〜症候群」「〜障害」といった言葉は、「社会的な対人技術(ソーシャル・スキル)」を身につけることで「克服」した人間には使えないわけです。
確かに社会にはちゃんと適応していて、社会的なトラブルも起していなければ、知能テストなどでは「正常」の範囲内に納まってしまう。だけど、生きてゆく上での明確なしんどさ、鬱陶しさ、息苦しさを常に感じている。こうした人々を、なんと呼んだらいいのか。こういう問題があります。
そこであたしとしては、「客観的に『自閉傾向』が見られるひとと、自分の『自閉傾向』をはっきりと意識していたり、それによる苦痛を感じているひと」を全部ひっくるめて、「自閉症方面(autisum region)」という、あっさりした名前で呼ぶことを提唱します。
これで、「医師によってはっきり病気と診断された」レベルの人から、「私にはひょっとして自閉症の傾向があるのかしらん?」みたいなレベルの人まで全部含める呼び名ができたわけです。
問題はもう一つ残っています。『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の疑いありとされ、教育上、なんらかのケアを行なう必要のありそうな子供たちをどう呼ぶか、です。
教育上では、知能や言語といった、学習に直接かかわる部分の能力に着目して、「高機能」という言葉を使うことがあります。「高機能自閉症」とか、「高機能広汎性発達障害」とかね。
ですが、じっさいのところ、「自閉症方面のお子さんをお持ちのお母さまがた」には、この「高機能」って言葉はあんまり評判よくありません。「あそこの家の子は『高機能』だけど、うちの子はそうじゃない」とかいった、無用の摩擦を生む原因になっちゃうからです。
で、似たような理由で「自閉症」という言葉もあんまり好かれないのね。お医者さんに「あなたのお子さんはナニナニ(アスペルガー症候群・広汎性発達障害・情緒障害など)です」と診断されて、「それって『自閉症』とは違うんですか?」とお医者さんに訊き返したとしても、明確な答えはなかなか返ってきません。なぜかというと、「自閉症」というと「非常に深刻な障害」みたいな印象があるからなんですね。
これは、「自閉症」というと、「人と人との心のつながり」という、人間の精神の根源みたいところでコミュニケーションができない、という絶望感、あるいは危機感があるからだったりします。まあ、実際にはそんなご大層なもんじゃないんですけどね。「自閉症」の人の考えていることは、わりと分りやすく、なおかつ相当に論理的です。ただ、いわゆる「普通の人間」には理解しにくい、ってだけの話です。
あたしは一応名門といわれる高校(都立日比谷高校です)を出て、ちゃんとした大学(日本大学理工学部航空宇宙工学科です)も出て、けっこう優秀な社会人として生活してきました。で、そのあたしにしてからが、よく考えると自閉症方面の人間なのね。だから自閉症方面のお子さんの考えていることがよくわかる。だから、あたしは自閉症方面のお子さんとそのお母さんの間の通訳みたいな存在だったりします。で、むしろ「普通の大人」の考えていることのほうが、よっぽどわからない。
だから、基本的には、よっぽど重篤な、発達の遅いお子さんを除けば、自閉症方面の子供が社会に適応してくのはそう難しいこっちゃないと思うのね。で、自閉症方面の子供にはかなり強烈な「秩序に対する強い興味」っていうのがあるから、「読み・書き・そろばん」といった基本的な部分は、教えかたによっては結構とんでもない能力を発揮します。実際、自閉症方面の人で、翻訳家やコンピュータのプログラマとして活躍してらっしゃる方もいらっしゃいます。
けっこう身も蓋もない言い方だけどさ、学校の成績さえ良ければ世の中けっこう何とかなっちゃいます。「学歴社会の終焉」とか「実力主義の時代」とかいっても、まだまだ大丈夫。マニュアルがしっかりしていて、職場の人間関係が良好だったら、<私たち>は相当にうまくやっていけます。
ただ、そうやって才能を伸ばすことをえてして邪魔してしまうのが、親御さんの「この子をちゃんとした子供にしてあげよう」という思いだったりするんですね。
自閉症方面の子供というのは、もともと「精神の造り」が違うのね。それを「普通」にして、「普通の世の中」で「普通に生活」させようとなんかしたら、それこそ死んじゃいます。
ただ、自分の流儀をとことん通そうと思うと、世の中では生きていけない。だけど、世の中に合わせていたら、苦しい。その間の、どこか適当な場所を見つけること、あるいはそういう場所を作ることのお手伝いが子育ての本質である、というのを理解しておくべきだと思います。
えー、そんなわけで、「自閉」とか「高機能」とかいった言葉を使わない、『「自閉症」およびその亜型とみられる症候群』の言い換えとして、今後は「関係性発達障磑(RDD:Rerativity Development Disorder)」という名前を使うことにします。
ところで、RDDのお子さんに、「情緒障害」という診断がつくことがあります。なんか、この「情緒障害」っていう言葉だけ、なんとなく毛色が違ってますよね? これはどういうことか、ということです。
じつは、「情緒障害」という言葉はなかなかに困った言葉で、これには大きく分けて二つの意味(行政上の意味と教育上の意味)があり、そのどちらかによって関連性発達障礙を含んだり含まなかったりします。
成人の場合、精神的な障害は大別すると以下の四つに分けられます。
1)精神薄弱(智恵遅れ、精神遅滞)
2)精神病。多くは精神分裂症(分裂病)。かつては癲癇、躁鬱病を含んだが、現在は除外。
3)精神病質(サイコパス、またはソシオパス。性格異常、変質者など)
4)神経症(ノイローゼ)。乖離障害(ヒステリー。多重人格を含めることも)や同一性障害はここに入る。
で、関連性発達障礙(自閉症)はこのうちのどこに入るか、ということになります。
まず、(1)の精神薄弱は除外していいでしょう。そもそもが、「精神薄弱とは明らかに異なった特徴を見せる一群の子供たちがいる」ということで、「自閉症」という概念ができたのですから。
つぎに、(2)の精神病。これはどうか。確かに自閉症と精神分裂症は一見よく似ています。けれどその本質において違いがあるらしい、というのが分かっているのでこれも除外します。
一方、(3)の精神病質(性格異常)という概念は本人の生育歴などの影響が大きく、大人に対しても問題の多い概念であり、まして人格の形成期にある子供には使わないという考え方が強かったりします。しかし厄介なことに、関連性発達障礙を「性格の偏り」とする説があるので、この「精神病質(性格異常)」という言葉も外すわけにはいかなかったりします。
で、最後の「神経症」なんですが、この言葉に対しても、
1)そもそも、子供に「神経症」があると考えていいのだろうか。
2)仮にあったとして、子供に対して「神経症」という診断名を使うべきなのかどうか。
3)「子供の神経症」という言葉が使えないとすると、大人の「神経症」にあたる子供の行動異常を何と呼んだらいいのか。
といった問題があります。なお、「行動異常」のことを、「問題行動」とか「逸脱」とかいうこともあります。「問題行動」とかいうと暴力や他動をイメージしがちですが、チックや夜尿症も「問題行動」と呼びます。これでは誤解を受けやすいので、「逸脱」という言葉が使われるようになったようです。
で、「情緒障害」という言葉は、こうした議論の中から生まれた言葉だったりします。
昭和三十六年(一九六一年)に、児童福祉法の一部改正により「情緒障害児短期治療施設」が新しいタイプの施設として発足しました。つまり、「情緒障害」という言葉は、もともと行政上の言葉でした。
法では、「この施設は情緒障害を有する児童をその障害の軽いうちに収容し、あるいは通所させて短期のうちにこれを治すことを目ざす」となっているのだけれど、「情緒障害」とは何かという定義は、法律にもそれを受けた政令にも書かれていませんでした。
昭和四十二年になって、中央児童福祉審議会が厚生大臣に対して「情緒障害児短期治療施設の対象となるべき子供」についての意見具申を行なったのですが、そこでは施設の対象者を、たとえば人間関係がうまくいかないなどの原因で感情生活に歪みを生じ、そのために行動異常を起したものに限ったため、「自閉症、自閉傾向の強い子は除く」となっていました。
これに対し、文部省が昭和四十二年(一九六七年)に行なった児童の心身障害に関する実態調査の中では、「情緒障害」として「緘黙の疑い、登校拒否の疑い、神経症の疑い、自閉症の疑い、精神病の疑い」が挙げられています。
現在、診断上は「人間関係がうまくいかないなどの原因で感情生活に歪みを生じ、そのために行動異常を起した子供」は「病気」とはみなさないため、「情緒障害=人間関係に関する障害=自閉症」という捉え方をされています。
つまり、診断上は「情緒障害」≒「自閉症方面の障害」という扱いのようです。
次章では、「自閉症」の主症状、および広く見られる症状やその理由、そしてどのように「関係性発達障磑(RDD)」という考え方にあたしたちがたどりついたか、について話したいと思います。
註)
このあたりを詳しくお知りになりたいかたは、玉井収介さんの『自閉症』(講談社現代新書697)をどうぞ。
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☆コラム/「精神病」とは?☆
かつては「三大精神病」という言葉があり、これは「精神分裂症」「癲癇(てんかん)」「躁鬱(そううつ)病」のことを指していました。
その後、癲癇の原因はほぼ解明され、治療法も確立されたので、「精神病」からは除かれました。
また、「躁鬱病」は、現在、
1)鬱病(単極性鬱)
2)躁鬱病(双極性躁鬱病)
3)気分変調症(神経症性鬱病)
に分類されています。なお、これ以外に感染症や薬物中毒によって起きる脳器質性鬱病や症候性鬱病といった鬱病があります。
(1)の鬱病と(2)躁鬱病に関しては「選択的セロトニン再阻礙(碍)薬(SSRI)」という薬を使った治療法が確立して「精神病」という分類からは外され、「気分障害(mood disorder)」と呼ばれるようになりました。わりとよく見られる症状で、しばしば再発もするので、最近では「心の風邪」くらいの扱いです。この「気分障害」で自殺しちゃう人もけっこういらっしゃいますから、さっさと病院へ行って治しちゃうことをお勧めします。
いっぽう、「気分変調症」は「神経症」の一種として扱われており、主にカウンセリングと抗不安薬(癲癇の治療にも使われます)による治療が行なわれます。
これは相当にしつこい病気で、抗鬱剤もあまり効きません。「病気」と考えるより、むしろ性格の一部だと思って、気長につきあうしかないと思います。
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すみません。ちょっと補足レス…
武田好史さん wrote:
>2.知的障害者手帳
>IQがやや低く、自分で考えたり・判断するのが苦手な人
本来、発達障害者が取得すべきなのはこの手帳なんですけど
、これがすごく取得しずらいです。ボランティア先でも
(1)測定された知能(IQ)
(2)障害そのものの重さ
(3)適応状態
の3領域でわたしよりも困難の重い発達障害者でも、厳しいみ
たいです。
>3.精神保健福祉手帳
>ストレスに弱く、人間関係をうまくとるのが苦手な人
で、多くの軽度発達障害者は精神保健福祉手帳の取得を目指
すことになるそうです。二次的障害が発生している場合は、発
達障害よりも精神障害や神経症による困難を主張した方が障害
者手帳を取得しやすくなるためです。
やっとこさ、スキーキャンプから帰ってきたこうもりです。鯨夢
ミグさん、話を進めておいていただいてありがとうございました。
鯨夢ミグさん wrote:
>ミルラさん、いかがでしょう?
>
>開催場所:新宿近郊
>開催会場:参加人数、時間帯によって調整致します。
>費用:実費
とりあえず、待ち合わせ場所は例によってJR新宿駅の南口改札
口にしとくのがいいかな、と。
>1.日取り 1月26日(土) OR 2月23日(土)
現時点までの参加希望者は1月26日が大丈夫みたいですね。
>2.時間帯 11:30集合 OR 13:30集合 OR 17:30集合
現時点では正午がいいという人が多いようです。
>参加希望のある方は、20日13:00までに、掲示板上にレスを下さる
>よう、お願い致します。(20日13時以降に集計いたします)
これについては追加です。掲示板にコメントするのが不安だという
人は、成人LDの会のメールアドレスに参加の申しこみと日時の希望
をお知らせください。
(連絡先)seijinld@msg.biglobe.ne.jp
また、すでに掲示板で希望を出された人も緊急連絡先をお知らせす
る必要上、上記のメールに連絡してくださると助かります。
I wrote:
> これはわかんない人にはわかんない話なんだけど、「ヤッちゃった」「ヤられちゃった」という関係は、すごく重いのね。「援助交際」とかいったものを認めるべきでないのは、この「重さ」がわかってない人間が、セックスという関係を結んじゃいけない、ということだったりします。
白さん wrote:
> ここのところがすごく気になるんですが、もう一度聞き直してもいいでしょうか。
いじめによる自殺、というのが問題になったことがあります。中高年の自殺が統計上の死亡率を押し上げるほどに増加して社会問題化しているという現実もあります。
「正しい」ことをしているひとが、「間違った仕打ち」をされることで自殺してしまうのはなぜでしょうか。それは、「セルフ・イメージ」と、「いま自分が置かれている状況」に乖離があって、セルフ・イメージを維持できなくなっちゃうからです。だから、自分が壊れてしまうまえに、自殺する。
「自分はまちがっていない」というのが分っているのに、大勢に取り囲まれ、袋叩きにされ、屈服されられ、言いなりになっている自分というのが認められない。学校はちゃんと対処してくれないし、親に言おうにも、そういう自分のみじめな姿というのを他人に訴えることで、そういう「事実」が公になることが怖い。そういうセルフ・イメージが社会に定着してしまうのに耐えられない。
中高年のサラリーマンは、自分たちが営々と築いてきたものが否定され、自分の存在が否定されるのに耐えられない。「自分たちのしてきたことは正しかった」という主張が、社会によって否定されてしまう。そして、家族にも受け入れられない。だから自殺する。
変な話ですけどね、「相手と一緒にいるのが楽しい」というのが苦痛だから、一緒にいたくないという人もいるんですよ。親が厳しくて、自己否定的に育てられた人は、親の前で人に褒められて喜んだりすると、あとで親に「つけあがるんじゃない」「相手はただお世辞を言っているだけなのがわからないのか」「うぬぼれるんじゃない」と折檻されたりするのね。そういうことを繰返していると、人に賞賛されるのが怖くなってしまいます。それを素直に信じて、後で痛い目に遭うのが怖い。で、逆に自分を叱ってくれる人に惹かれてしまったりします。「この人は自分を愛しているから、自分を叱ってくれるのだ」みたいに信じこんじゃうのね。でないと、「自分の親は自分を愛していたのだ」ということが信じられなくなってしまうからです。
だから、資産家で良家のお嬢様で美人、みたいな人が風采の上がらない貧乏学者と結婚してけっこう幸せになってたりもします。男性と親しく接して、会話を盛り上げて、それで楽しく時間を過ごす、みたいなことは「商売女みたいな真似」として否定されていたりするわけです。で、周囲の人がちやほやしてくれるのも、財産とか、家柄とか、顔とか、そういったものが理由であって、決して自分の人間性によるものではない、みたいな思いこみがあったりします。
で、そういう人の前に、自分の機嫌を取ろうとも思わず、金だの名誉だのに興味を持たず、「女にモテよう」なんていう意欲を持ち合わせておらず、自分が好きなことばかり熱心に話し、それでも自分が「うんうん」と話を聞いてあげると喜んでくれて、しかも世の中の役に立つ仕事をしているひと、とかいった男性が現われると、がぜん「世話焼き女房」の血が目覚めてしまって、「良妻賢母」への道を突っ走ってしまったりするわけです。
でまあ、だいたいこういう女性は高学歴なので、夫の学界における位置、みたいなのも分ってしまうのですね。有名で業績もあるのにお金はない、みたいな先生はいっぱいいらっしゃいます。そういうのを陰で支えるのが楽しい、という女性は多かったりします。深窓の令嬢とかってつまんなそうだけど、「敏腕マネージャー」というのは女性の職業としてはかなりカッコいい。しかも学問的に意義のあること、とかいった錦の御旗があるもんだから、堂々とできる。
セックスというのは、快感にせよ苦痛にせよ、暴力と似通ったところがあるんです。それを「自分のもの」として引き受けるのに、「プロ意識」にせよ「パートナーシップ」にせよ、それなりの基盤が必要なんです。遊び半分で手を出すと、現実の感覚とセルフ・イメージの間の調節がつかなくなって、精神がおかしくなっちゃうんですよ。
「不感症」という言葉がありますが、この中にはいろんなケースがあって、中には「快感恐怖」なんていうのもあります。つまり、セックスを「気持いいこと」として受け入れてしまう自分というのを認めたくないものだから、セックスを嫌悪する。その結果、暴力的で、苦痛に満ちた、快感のないセックスだったら平気、という女性もいるんです。
高校生にこういう話をするのは早すぎるかも知れないけど、エッチが上手な男性の、たぶん99.7パーセントくらいは奥さんに頭が上がりません。男と女というのは、友情で結ばれているうちは、たとえ相手に嫌われても言うべきことを言う、ということができます。ところが男と女の関係になっちゃうと、女性は「相手に嫌われたくない」というのが先に立って、言いたいことを我慢してしまう……のは最初のうちで、結婚しちゃうと居直るのですね。で、セックスの快感というものは、いやおうなしに女性をそこまで追いつめてしまうのですよ。で、男というのは、そういう女性に対して「守ってやらなきゃいけない」という気持にもなるわけで、同時にそういう自分の優位性みたいなものを実感しているから、奥さんの尻に敷かれてニヤついていたりするのですね。「都合が悪くなると、すぐエッチでごまかそうとするんだから」「悪い。反省してる。ごめん。謝る」「誠意が感じられない。目が笑ってる」みたいなカップルは、おおむねうまくいってると思います。
山仲間と夫婦に通じるものは、「お互いが相手に対して、安心して無力でいられること」だと思います。で、それは同時に、そうしたパートナーが自分には存在する、という喜びでもあるのね。自分しか信じられない状況というのは、社会性哺乳類である人間にとっては苦痛なんですよ。
だから、「プロ集団」というのは居心地がいい。そのかわり、過剰な「甘え」は許されず、自分に割り当てられた職務を忠実にこなすという義務はありますけどね。
そんなわけで、お互いに対して責任を果たすという能力と契約関係のない男女間のセックスというのをあたしは認めません。逆に、そういう能力と契約関係にもとづくセックスというのは基本的に認められてしかるべきだと思うから、「売春」というのを犯罪だとは思いません。それがちゃんとした「双方の合意に基づく商取引」であればね。ただ、自分というものがしっかりしていないと、そうしたビジネスライクな関係で自分を納得させることができません。
その意味で、ビジネスに徹するという「プロ意識」というものが、娼婦には要求されると思います。でまあ、その徹しきれない部分につけこむのがヒモという存在だったりするのですけれどね(^_^;)。そんなわけで、援助交際で稼いではホストに貢ぐ女子高校生、なんていう構図ができあがっちゃうわけです。だから、あたしは援助交際に反対します。あれははっきり言ってビョーキです。
白さん wrote:
> ところでMariaさん、僕ガンダム思いっきり知ってますよ。
あたしはよく知りません(^_^;)。このネタは中島秀之さんという、コンピュータ・サイエンスの分野ではかなり有名なひとが、認知心理学会の発足にあたって『bit』というコンピュータ・サイエンス誌によせた文章で使われたネタのパクりです。
中島さんに「中島さん、ガンダムファンなんですか?」と訊いたら、
「きみ、ガンダムファンじゃないの?」。
「あたしは『宇宙戦艦ヤマト』ですもん」
「ひょっとして、第一回放映組か?」
「そうですけど?」
「ぼくはあのとき留学してて、第一回放映を見てないんだ。だから、第一回放映組には、コンプレックスがあるんだ!」
世界に知られる「DEC−10 Prolog」のインプリメンタの知られざる劣等感、というお話でした。まる。
(Maria)
白 wrote:
>昨日はすっかりパニックで一日過ぎてしまいましたが、もう一度考えてみようと思います。
>取り乱してすいませんでした。
>
>とりあえずですね、僕は今、女の子のことがどうのこうなんじゃなくて、まだよくわかってはいないけれど、今やASの感性そのものに興味を持っているわけですよ。
>いや、興味と言うと、なんだか失礼な言い方じゃないかと思うんですが、最初、これも失礼な言い方なんですが、敢えて伝えるためにそのまま表現すれば、とても受け容れられないと感じたASというものが、実はすごく面白い(これも失礼ですね)物の見方なんじゃないか、それがまだどういものなのかは、繰り返しますが、分かっているわけじゃないですよ。でも、ここを乗り越えれば、何かが見えてくるような、そういう感覚ですね。
>うまく伝わらないかもしれないけれど、ちょっとどきどきするような。
>僕もようやくここまで来ました。
>
ASの女の子の心理を知りたかったら、鬼束ちひろの「INJECTION」という歌を聴いてごらん。
これほどまでに近いのは、俺も聴いたことがない!
日本社会を形容するとき、よく言われるのが、「“みんな同じ”の横並び」。
わしはこのような社会を形成する一翼を担ったのは、教育現場の一部の教師たちではないかと思えてならないのです。
彼らははなから「競争は悪」と決め付けています。
競争なんかせず、学校の成績も徒競走の順位も「みんな同じ」ならば、人はみな平等になり、平和に暮らせる。そう考えてきました。競争によって差をつけるのは差別につながるからダメだ、と言うのです。
しかし、それはまったくの誤りでした。
「みんな同じ」が、「異質なものを排除」の考えを生み出してしまったのです。
いつだったか、一部の教師たちの大会で、東京都の教育長が来賓(つまり、教師たちが招待した)として挨拶に立ったところ、なんと彼らは「帰れ」コールを浴びせました。自分たちの気に入らないものを排除する、ということを率先してやったわけです。
こんな人たちが教師の中にいるのですから、「多様な考えを認める」ことなど望めはしません。
不思議なのは、こういった教師たちの実態を、なぜマスコミはあまり取り上げないのでしょうか? ということです。
100%正しいことなど存在しないと考える 鷲羽丸
白さん wrote:
> 関西の人ならわかると思うんですが、これって確か、ある意味誉め言葉、悪く言っても親しみの表現なんですよね?(実はちょっと不安。あってるんでしょうか。)
東京生まれ東京育ちのあたしとしては、「あほ」という言葉はあまり好きではありません。
遠藤周作さんに『おバカさん』という小説があって、この小説のモデルはたしか新宿・歌舞伎町で『エポペ』というバーを経営しておられるジョルジュ・ネランさんという牧師さんだったりします。大阪の「あほ」が人間の本性のようなものに忠実なこと、つまり「自分に正直」な人間の行動に対するものであるのに対し、東京の「ばか」は世俗の名利や出世・栄達・富を離れ、損得勘定抜きで自分の信念を貫いてゆくことに対するものであるような気がします。大阪の商人文化、東京の侍文化の差、とも言えます。
そういえば、大阪では福袋の中身が気に入らなかったから取り替えてくれ、というお客さんが多いそうです。東京ではちょっと考えれません。
> 「お前変ってるよなあ」は、僕と僕の友人たちの間では、明らかに誉め言葉です。
> 「変人」というのも、言ってみれば一つの称号ですね。
> 「おもしろいぞ」とか「受けてるぞ」とか「大好きだ」とか、場合によっては「お前は天才だ」という感じでしょうか。
この「変人」が褒め言葉だというのも、東京人の感性、よくいって「都会人の感性」なんですよ。
「社会的な規範」というものを尊重しない文化、というのがあります。自分の好きにできる範囲は大きい方がいいじゃないか、禁止されていないことはやっていいのだ、という考え方です。だいたい「田舎」ではこういう考え方が支配的です。日本では非常口に「非常の際はここを開けてください」と書いてありますが、アメリカに行ったら「非常の場合以外はここを開けるな」と書いてありました(-_-;)。まったく田舎はこれだから。
田舎では、「変人」は「あいつは変人だから」ということで「特別扱い」をされてしまいます。つまり、社会的な規範から外れた扱いを受けても、「あいつは変人だから」ということで、通ってしまいます。
ところが都会では、それほど迷惑でなく、お互いを尊重するという合意があれば、誰でもが……つまり、変人であろうがなかろうが関係なく、同じ扱いを受けることができます。だから、「変人」であることが褒め言葉になります。「変人」であることによって、不利益を受けることがないから。
ところが田舎者が都会に出てくると、「禁止されていないことは、やっていいのだ」と思ってやりたい放題をやってしまいます。で、都会人に「そういうことは、やってはいけないのだ」とたしなめられ、「そんなことがどこに書いてあるんだ。どこにも書いてないじゃないか。おれはやりたいんだ。だからやっていいんだ」と喧嘩になります。
そうして世界最大の訴訟大国アメリカというものができあがってしまったのだな(-_-!)。
都会というのは、わりと好きなことができるところなのね。で、田舎者がその自由に憧れて都会に出てくるんだけど、そのうち都会の生活に慣れてくると、他の田舎者の慎みのない振舞にかつての自分を見てしまって、「いかん、これでは世の中がおかしくなってしまう」と思って自ら規範を身につけるようになる、という構造になっているわけです。
で、日本人にはそれができました。百万都市であった江戸には都知事にあたる町奉行が二人とその配下の同心数十名以外に地方公務員というのがいなかったのね。で、その他の業務はすべて民間委託だったわけです。だけど江戸の住民はその中で自分たち自身を統治していったのね。そういう「自由と自律性の間のバランス感覚」が、おそらく都会的センスであり、「粋」というものだったのではないかなぁ、と思います。「『粋』とは常識から半歩踏み出すことだ」と言ったのはたしか池田弥三郎さんでした。
とはいえ江戸東京の人間だって最初から都会人ではありませんでした。江戸時代の法律というのはおおむね「〜してはいけない」という禁令の形で発布されました。徳川綱吉の時代に「老人や病人以外の町民は駕篭に乗ってはならない」というおふれが出ましたが、これは町人に駕篭に乗ることを禁止したわけではなくて、もともと駕篭というのは武士の乗物だったものなのだけれど、町民でも老人や病人は駕篭に乗ってもいいですよ、という話だったわけです。「犬猫をむやみに殺してはいけない」という『生類哀れみの令』も、犬猫を殺すことが悪いことだと思ってない人が多かったから、こういう禁令を出して注意を喚起したということです。
明治時代には軽犯罪法というのができて、「立小便するな」みたいな法律ができました。田舎ではそこら一面畑や田んぼですから、立小便というのは「普通の行動」だったんです。「都会では、立小便というのは恥ずかしい行動なのですよ」というのを知らしめるためには、こうした法律が必要だった、ということだったりします。薩摩だの長州だのの田舎侍が都会に出てきて「どこに何があるかわからん」というので看板ができました。だから江戸時代の武家屋敷に『会津藩江戸屋敷』とかいった看板がかかっているなんていうのは大嘘です。で、その結果現在でも各省庁の入口には「××省」とか「○○庁」とかいった看板がでかでかと掲げてあったりするわけですよ。ああ恥ずかしい。たとえばの話、皇居に「皇居」とかいって看板出てるところを想像するとげんなりするでしょ?
中島義道さんの『うるさい日本の私』の中にくりかえし出てくる「分っていることを何度も言うな」という主張は、こうした「都会人の自律性」というものに対する自尊心を傷つけるな、ということだったりします。たとえば、人と待合せをするときに「いいか、ちゃんと時間通りに来るんだぞ」と念を押したり、本を貸すときに「いいか、本を読むときに、つばをつけてページをめくったり、ページを折ったり、ページを破ったり、書込みをしたるするんじゃないぞ」と注意したりするというのは、失礼なことです。「言わずもがなのことを言うな」という気分が、「うるさい」には込められています。
そんなわけであたしは、言わなきゃわかんないくせに言えば怒り、言わなくてもいいことは言うくせに言うべきことを言わない田舎者が大嫌いです。
久々の黒Mariaさんでした。まる。
(Maria)
武田好史 wrote:
>武田好史 wrote:
>>風呂糸 wrote:
>>>色々教えていただいて、たすかりました。
>>>ありがとうございます。
>>>
>>>武田さん、ちなみにSPECT検査した場合の金額とかはご存知でしょうか?
>>>国保の対象になるのかな?
>>>
>>>風呂
>>
以下に示すのは「東海大学病院・放射線診療センター」のURLです。
>>http://trhome.med.u-tokai.ac.jp/
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