アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
あさかぜさん wrote:
> うちの娘を見て、ということだけなので、アスペっ子全体に言えるかどうかはわかりません。(なら書くな?そんなことおっしゃらないで〜)
……言いませんって(^_^;)。
I wrote:
> アスペっ子は、他の子供をいじめることがない。
> アスペっ子は、他の子供にいじめられることが理解できない。
> アスペっ子は、明確な危険やはっきりとした苦痛に鈍感であると言われている。
> アスペっ子は、相手が誰であれ、苦痛を受けているのを見るのが苦痛だったりします。だから、いじめができない。
> 逆に、なぜいじめられるのかがわからない。相手だって同じように苦痛を受けているはずだから。
あさかぜさん wrote:
> 娘が「学校に行きたくない理由」を三択クイズ形式(こういうの好きみたいです)で突き詰めていって、「同じ部屋(教室とは言わない)の男の子が、お友達の悪口を言うのがいや。そういうのは聞くのも見るのもいや」という原因が出てきたことがありました。
> 娘自身も悪口を言われたり、イスを蹴飛ばされたり叩かれたりという意地悪にあっているので、これはその時のことが蘇って思い出されたせいかな?と最初は思いました。でも、少しちがうような気がします。うまく言葉にならないんですけど。
>
> 「正しくないことを認めにくい」というか「(自分が教わってきた、あるいは信じてきた)正しいことが、ちゃんと行われていないことに対する嫌悪感がある」とでも言いましょうか。(ホントに説明しにくい)
「正しくないことを認めにくい」
あるいは、
「(自分が教わってきた、あるいは信じてきた)正しいことが、ちゃんと行われていないことに対する嫌悪感がある」
というのは、確かにあります。
あたしにしてからが、「『ひらたけ』を『しめじ』と呼ぶなぁー!」とか、「『馬鈴薯澱粉粉』を『片栗粉』と呼ぶなぁー!」とか、「急須の口についている塩化ビニールの管は輸送時の割れを防止するためについているのだから、使うときは外して使えー! 不衛生じゃないかー!」とか、「『独壇場(どくだんじょう)』じゃなくって『独擅場(どくせんじょう)』だぁー!」とか、「お寺で拍手(かしわで)するなぁー!」とか、「『被害をこうむる』とか言うなぁー! 『害を被(こうむ)る』から被害なんじゃー!」とか、年中怒っています。はあはあ、ぜぇぜぇ。(←叫びすぎて息切れしている。)
秩序がゆきわたっていると、安心できます。ただ、「秩序は絶対に乱されてはならない」といったものでは、ないように思います。
仮にそれが乱されても、回復されればいい。「因果応報」「天網恢恢疎にして漏らさず」。そういう原則が貫かれていれば、安心できる。
そういう意味では、『ウルトラマン』はわりと安心。人が死ぬ場面というのはほとんどないから。仮に人が死ぬ場面があっても、「子供をかばって死ぬ」とか、「誰かを助けて死ぬ」とか、「死を覚悟して死地に赴いて殉職する」とかいう設定があって、その遺志が引継がれる、みたいなのだと、納得できる。
だけど、理不尽なことが当然のようにまかり通っていると、これは、耐えられない。
みどりさん wrote:
> やなのよー。そうなのよー。正しくないことをする人、しかも平然とする人たち、そんな人たちがいるなんて信じられない。
> ニュース見るは耐えられないことが多いし、親しい大好きな友人が相手でも批判的に思ったりしてしまうの。
とはいえ、「私刑(リンチ)」というのは、倫理観が許さない。だから、ちゃんとした裁定機関に委ねて、正しく裁定してもらえば、納得できる。
だけど、そうしたはっきり白黒をつけてくれるような、「裁定」の機構というのがないんです。学校だって「体罰の禁止」だとか「自主性の尊重」だとか言ってて、ぜんぜん役に立ってない。
「いじめ」というのは、「むかつく」から「いじめ」るという明確な構造を持っています。なぜ「むかつく」かというと、それが自分の中の秩序に反するからなのね。間違ったことを正すのは正しいことだ。強い人間が弱い人間を支配するのは当然のことだ。だから、これは「いじめ」じゃない。「いじめ」は悪いことだけど、自分は正しいことをしている。「いじめ」をする人間はそう思っています。だけど、心の底ではそれを信じられずにいる。「これは『いじめ』じゃないんだ」ということを確認しようとして、反復強迫して、それがエスカレートする。
こういう、「いじめ」を学校は止めることができないんですよ。本人が納得して「いじめ」を止めるように説得する以外に方法がないから。だから、「いじめ」をなかったことにしてしまうのが、いちばん楽。「学校はいじめばあったとは認識していなかった」「本人の態度にも問題があったのではないか」とか言って時間稼ぎをして、関係者が口裏を合わせ、被害者を孤立させ、うやむやにしてしまう、ということが当たり前のように行なわれています。
だけど、少なくとも義務教育の場では、「大人の理屈」なんて通用しないんだいっ! いじめに加担した教師なんていうのは、校長が手打ちにして自分も切腹するくらいの覚悟で教育しなくて、なにが教育なんだっ!
でまあ、「そっち側」の人間になりたくない、という気持はすごくあるのね。そんなわけで、
> 「人をいじめちゃいけないよ」「人の悪口を言ったり、叩いたりしちゃいけない」などは、幼児の頃から誰でも言われて育ってくると思います。それが「正しいこと」としてストレートに心に定着していて、正しくないことに対する違和感や嫌悪感が生まれているような感じです。これはどちらかというと「融通がきかない」ほうの部類に属するのではないかな?とわたしは思いました。こういう子は「やられたら、やりかえせ」などと言われたら泣き叫びます。「正しくないこと」をするのは自分自身と「矛盾」するからです。
>
> 「矛盾」を越えてまで行動に出るほどのところまで達していない(うーん、言葉が変です)という気がします。
ということにもなるし(主に思春期以降ですが。子供のころは、単に「矛盾に直面して混乱する」だけだと思います)、
みどりさん wrote:
> しかももっと嫌なのは、実は自分がたくさん正しくないことをしちゃってることに気づいたとき。
> もうどうしようもなくイヤなのよー。もうどうしようもなく腹立たしくなるのよー。どうしていいかわからなくなるのよー。
>
> うえーん
ということにもなるのだと思います。
だから、ボロボロになるまで戦ってしまう、というのがあります。だから、挫折したときの傷は深いんですよ。
I wrote:
> で、危険や苦痛はおそらく感じているのだけれど、それが「自分のこと」だというのが、よくわからない。そわそわしたり、イライラしたり、パニックを起こすことはあっても、状況と自分の中の「感覚」がどう結びついているかが、いまひとつよくわからない。
あさかぜさん wrote:
> この辺も、「我慢しなさい」と「我慢は正しいことである」という教えを受けてきた場合には、「外に向かって痛みや苦しみを表現する」ことは「正しくない」という状態におちいっている可能性もありうるかもしれないという気がします。すべての危険や苦痛に対していえる事柄ではありませんが。
それよりも、「切実さ」が伝わらないところに問題がありそうな気がするんですよ。で、これって問題の根はとても深いのね。
単に「『切実さ』が伝わらない」というケースは、全体のごく一部だと思います。むしろ、「自分ではどうにもならないので、なんとかしてほしい」と思って訴えるのに、「どうにもならない」ものだから、「我慢しなさい」としか言えない。で、訴えられたほうは、「我慢させている」苦痛に耐えかねて、認識が歪んでしまうんです。で、「本当は大したことがないのに、大袈裟に訴えている」みたいに思い込んでしまう。で、訴えられても、「ああ、まただ」と思って、「いい加減にしなさい」みたいに、逆に罰してしまう。その結果、「『切実さ』『つらさ』を訴えると、逆に罰せられて、ますますつらくなる」ということを学習します。
そんなわけで、「感情的な説得」を諦めて、「論理的な説得」を行なうようになるんだけど……それは子供には無理なのね。で、ある程度成長して「論理的な説得」ができるようになったとしても、「言われたほうもどうしようもない」という状況は変わっていないので、「言ってることがむつかしくて、さっぱりわからない」とか言われてしまう。
そういう状況が積もり積もって、「キれる」性格が形成されて、「危ないヤツ」と思われることで、自分を守るという方法を身につけてしまうわけです。
そんなわけで、「子どもの切実さを理解しようと努める」「自分の無力さから逃げない」「『なにがなんでも、なりふり構わず子どもを守る』という態度を、はっきりと表わす」の三点が、いちばん重要なんじゃないかなぁ。
これ、会社組織でも同じなのね。部下が上司に組織の問題点を一所懸命に訴えても、上司は取り上げようとしない。それは「組織に問題点があるのは分っているのだけれど、自分にはなにもできない」と心の底で思っているんだけど、それを認めたくないから、「問題などない」と思いこもうとする。で、いよいよ破綻して大事になったときに、部下は「あんなに言ったじゃないか」と言い、上司は「いや、ぜんぜん聞いてない」みたいなことに、なってしまう。で、この「上司」というのが、本当に忘れているのね。部下から報告書とか上がってきてても、始末してしまってすっからかんに忘れてしまっている。都合の悪いことは、意識の外に追い出されてしまう。これ、本当に「病気」なんじゃないかと思っちゃうんだけど、そうなっちゃうんです。
新潟の女性監禁事件でも、母親が「二階に女性がいたことには気がつかなかった」とか言ってるでしょう? あれも、都合の悪いことは意識が排除しちゃってるんですよ。で、その原因は無力感なんです。「自分は何もできない」という。で、現代の学校教育制度というのは「『学校の成績が悪い奴は、何をやってもダメなんだ』という無力感を子どもに植えつけて、扱いやすい人間を作る」を目標にしてると思ってる教師がゴロゴロしてたりします。「最初にガツンとやってやんなきゃダメなんだ」とか言ってる連中は、すべてそう。
そんなわけで、幼児期・少年期・思春期とそれぞれ状況は違うだろうけど、「コミュニケーションに対する挫折と絶望」というのが、いわゆる「言葉の遅れ」の中にはあると思うのね。それは、「自殺した子どもがどれだけ苦しんでいたかに、親や教師がまったく気づいていなかった」みたいな話と同じような話なんです。「『言われてもどうしようもない』ものだから、『言わせない』態度が身についてしまっていた」んです。で、それは親や教師自身も気づかないほど、「大人の態度」として身についちゃってたんです。
そんな親や教師が、子どもがさんざんいじめられたあげく精神的に追いつめられて自殺した後で、「なんで言ってくれなかったんだ」とか言っても、あたしは「ふざけんじゃねぇ!」と怒ってしまうのね。
子どもがたった独りで集団(いじめをはたらく子供)や社会(世間)や組織や大人(親や教師やいじめをはたらいた子供の父兄)と戦って、心身ともにボロボロになって死んでいったとしたら、それはもうあたしにとっては赦すべからざることなのね。今すぐ行って生きながら一寸刻み五分試しに切り刻んでなぶり殺してその場面をスナッフ・ビデオとして発売しちゃうぞ、みたいな思いがあるわけです。
とはいえ、「子供を信じる」とかいっても、それだけじゃ済まないこともあります。自分の子供が同級生をリンチして殺しちゃったとかいったらどうするか、という問題もあるのですけどね。あるいは、音楽だとか体育だとか美術だとかいった受験科目以外を担当する教師が、「腕白なくらいなほうがいい」「のびのびと育てなきゃいけない」とかいって、いわゆる「優等生」をいじめている一部の生徒を擁護してて(あたしはそういう例を実際に知ってます)、その結果いじめに耐えかねた生徒が自殺しちゃったらどうするか、とか。これは仮定の話ではありません。似たようなことは、いままでいくらもありました。
あたしが横溝正史の小説やスプラッタ映画が好きなのは、こうした「硬直した正義」みたいなものから生まれる理不尽なことをぶっ壊したいという欲求があるせいかもしれません。
あたしが見るところ、親のエゴとか教師の立場とかいったものを素直に認める親や教師はいい親でありいい教師である場合が多いし、子どももわかってくれてそうな気がします。だけど、「いい親」「いい教師」であろうとするツケを他人に払わせようとする親や教師は総じてロクなもんじゃありません。で、そういう親や教師に、子供は心を開きません。
体裁より、子どもです。そこんとこは、わきまえるように。
(Maria)
基本的に私は恋愛が出来ないし、男性と親密に関わりたくないのだと思う。
そのうちイギリスへ1か月ほど旅行する予定です(4月以降)。「留学」という体裁をとってはいるけれど、メインはアンティーク漁りに尽きるかな(^o^)。
孤立するかもしれないという覚悟は、いまから充分しておく必要があるかも知れない。もとより30代に入ってからは、なにごとも過剰に期待はしないという心性をもって、物事に対処してはいるのだけれど。
「留学」という2文字は、じつは私にとって、苦いにがい響きをもたらすものだ。大学生の頃私は、ひとりの中国人女性のチューター(留学生の世話係みたいなものと思ってくれ)をかって出た。はじめのころは、実によいすべり出しだったんだ。県で行われている、外国人留学生の作文コンクールに、彼女が応募するというので、私が文章を添削・アドバイスしてあげた。むずかしく考えすぎないで、日常のことを、わかりやすい言葉で書いたらいい。彼女の作文は、最優秀に選ばれた。
だけれどもそのうち、私の最大の失点、「ともだちがいない」ということに、彼女が気付くのには、そう時間がかからなかった。「ふつう、知り合いのひとができれば、あなたは私にあなたの友達を紹介してくれる。でもあなたはいつまでたってもしてくれない。あんくさんって.....」その先は言われずとも分かりすぎている。例によって私はなにも答えることができず、懇親会の帰り、「じゃあ私、用事があるから」と彼女は去ってゆき、それきりになった。外人にまで言われちゃお終いだ。当時はそう思ったものだけれど、あとはもうなにも言ってもらわなくっていい。
海外旅行は何度か経験しているけれど、私に注がれるまなざしは、日本とそう変わりばえしているものじゃない。例の、一種、ゲンシュク〜な、神妙〜な目つきで、(ああこの子は、可愛そうな子なんだな。でも、気味悪がったり差別しちゃいけないんだよな。馬鹿だから分かりゃしないと思ってたら、全部伝わっちゃってたなんてこともあるしな......)どうしても越えられず加えてもらえない、一線というのがある。外国だからこそか、いっそう強く感じられることがある。
それらも全部、受け入れるしかない、これからは。
Keepin'low don't make sense
Keepin'low doesn't make no sense!
(這いつくばってちゃ意味がない、這いつくばってちゃ意味がない!)
―The Pixies‘Alec Eiffel’
例によってメランコリックになっちゃっているけれど、滞留先のブリストルで、なにか発達・療育関連の情報を持ち帰ることも出来るかもしれません。
ともあれ乗馬も楽しんでくるつもり。
>タレイヌさん
「たてがみ通信」は、ご紹介するほどのしろもんではないのですが、去年の秋頃から不定期に発信しております。だから「発信」なんて大仰なものじゃないって(笑)。
どんな動物もそうだけど、ただ遊んでくれるだけじゃなく、せっせと世話したり、餌をくれたりする人間に対して、特別な感情を抱いたりするものである気がします。もと競走馬のサラブレッドなんかは、ちょっぴり気位の高いところもあるけれど、走り終わって、体やひづめをみがいたり洗ったりしてあげると、自分から頭をスリ寄せてきたりして、カワイイな〜と思える。個体差はあるけれど。やっぱりほかの動物もそうだけれど、馬なんてべつに人間が世話しなくたって、じゅうぶん生きていける動物なのに。奴らは、世話している間中、あのでかい目でこちらをじっと凝視して、ふと目が合うと、サッと逸らしたりする。ちょっとした風の音にも耳をピクピクと反応させ、人見知りし、物事の理解は悪いが記憶力は高い。意外とわれわれと似てるとこもあるんじゃないかな。
私はフゥイヌムになりたい!
寺林さん wrote:
>ASの発生は圧倒的に男性が多いと聞きます。
>私はいかにも「変人」っていう男の子とカップル扱いされてしまいます。
>郵便局ではまさにそうでした。私にはそれが大きな精神的苦痛でした。
哀れな男の立場から一言。まあ、その男性も軽度発達障害者である可能
性があると思われますので、寛容に接してやってくださいまし。
ちなみに不肖こうもりは関東地方で郵便局の短時間職員もやっておりま
す。勤務先の女性職員にわたしのことで迷惑がかからない事を祈る…。で
は〜。
寺林 wrote:
>オレンジブルーさん、メールありがとうございます。
>ASの発生は圧倒的に男性が多いと聞きます。
>私はいかにも「変人」っていう男の子とカップル扱いされてしまいます。
>郵便局ではまさにそうでした。私にはそれが大きな精神的苦痛でした。
>できれば女性のASの人と友達になりたい。そうすれば、私の価値観も変わるし、
>心も和らぐと思います。
私は、美術系大でも「宇宙人」と言われてたこともあります。
私の場合、何の苦もなかったんですよ(‐‐;)
何についていわれているかよく解らなかったし。
中学時代には、私もいかにも「変人」のような奇抜な少年と
セットのように担任の先生に扱われてしまったことはありましたが、
その少年は今思えば、バリバリのADHDエジソン君系で、私なんかより
バリバリ音楽の天才君でそれはそれで、カッコ良くて不思議な異色好感
は私は持っていたのでした(^^)
その子は(って今は大人ですが)、いかにも「変人」な行動、シャーペンんに裁縫の芯を入れて私に投げてくると思いきや
14歳の癖に読んでいる本は「マルクス社会主義」とかメッチャ分厚い本なんか
恥ずかしそうに隠れて真面目に一人読んでるもんだから、私は本当に声が出ないくらいびびりました。「息を呑む」とはこの事でしょうか!?
その子は、勉強嫌いで全然勉強していないので期末テストとかは最低なのに、
知能検査は学校一番。実力テストは何故か良いという、「変人」でも私とは全く
違った意味の「変人」振りな人でした。。。
終わり。
自閉症者のための社会福祉施設があるんですけど、
http://www.vcnet.toyama.toyama.jp/~mehino/index2.html
高機能の人たちのグループホームか施設があればいいですね
あさかぜさん、るうさん、こんにちは。ゲームばっかりやっている名加野です。
テトリスに昔ハマりました。最近はやっていませんが、「テトリス」「ぷよぷよ」「クォース」などなど色々やりました。
とにかく一人でやるより対戦が面白い。格闘ゲームだと、負けるとすんごい悔しいのですが、テトリス等の場合勝ったり負けたりして、いつも新鮮な感じがします。パズルモードも面白いですけど。
なぜか、テトリス対戦用に2つも所持(汗。
> ここには、女性の方もたくさんいますよ。あなたの方からも、どんどんレスしたり、メールを送ったりしてみてはいかがでしょうか?あなたと同年代の方もいるんじゃないかな。きっと。(ちなみに、私は30代、未診断ですが、よろしければ。残念ながら、メルアドはないのですが…。)
ありがとうございます。私、ホームページを立ち上げました。広汎性発達障害に関するものです。
良かったら、遊びに来て下さい。
遅まきながら、ようやく『つぶやきチャット』に到着しました!長かったあ。(笑)しかし、最初に入ろうとした時は、なぜPCにゴネられたんだ?
(最初に教えてもらったのは去年でした。ホントに長い。[笑] グルンサ)
こんばんは、ayaさん。
ayaさん wrote:
> 自閉の人が結婚してる、という事実は、「そうか!彼らなりにひとと一緒にいるんだ」じゃなくて、「ほんとにそのひとは自閉なの?」と、受け止められることが多いですよね。
>
> 例えば自閉かもしれない、って思われた子供が、「友達をほしがってるからこの子は自閉じゃない」と、診断をきちんと受けられなかったすることも、まだまだあるような気がします…。成人の場合もそうだし。
>
> もちろん言葉自体が誤解されやすいということはありますけれど、そういう発言に行き当たるたびに、ちょっとかなしいなぁと思います。
そうですね…。自閉といわれる(もしくは、そう思われる)人が、他の人に関心を持っただけで「(その当人が)自閉じゃない」という捉えられ方をされること自体、ある意味での偏見ではないだろうか?と思います。自閉というと、家庭医学書の記述をイメージするという人が、まだまだ多いのではないだろうか、とも思うのですが…。(中途半端な書き方でごめんなさい。)
はじめまして、チュウメイさん。こんばんは、ミグさん。(掲示板上では、ミグさんもはじめてですね[笑]。)
鯨夢ミグさん wrote:
>チュウメイさん wrote:
>(前略)今はこれを支えに何とか毎日社会に出ていっています。しかし周り全部が知人という人間関係の中で、ひとりでいるのはさすがにかなり辛いものがありますね。誰もいないところで自分ひとりとか、見知らぬ人たちの中でひとりぼっちというのは全然平気なのですけれど。
>
>相手との距離のとり方に凄く辛いものがある。
>思考回路が違う相手に囲まれて、どう接するべきか、気を揉みながら、その場にいるというのは、とてもしんどい。
>そういうことを考えずにいられることで、どんなに気持ちが軽くなるか。
人との距離のとり方は何年生きても難しい。今、ホントにそう思う。(今まででも、思わないわけではなかったのだけれど…。)それだけに、そういうことを考えずにいられるのが、どんなにか…とは私も思います。
>AS人間には、天才も秀才も凡人もいる。世間一般に同様に。
>思考回路が違うことで、くだらない失敗やドジを踏むこともある。
>人間関係で辛い思いをすることは多い。
>それと同時に、新しいことを生み出すことも、正しい答えを導くことも多くある。
>辛いことをばねに、それを跳ね返す道を見出すこともある。
私も見習わねば…。(「それと同時に〜見出すこともある。」のくだり。)
横レスごめんなさいね。でも、読んでいて、よかったな、と思ったので。(グルンサ)
はじめまして、寺林さん。
寺林さん wrote:
>ASの発生は圧倒的に男性が多いと聞きます。
前に何かで読みましたが、どうやらそのようで…。(ただし、私が目にしたものには、「自閉症」と書かれていましたが。)
>
>できれば女性のASの人と友達になりたい。そうすれば、私の価値観も変わるし、
>心も和らぐと思います。
ここには、女性の方もたくさんいますよ。あなたの方からも、どんどんレスしたり、メールを送ったりしてみてはいかがでしょうか?あなたと同年代の方もいるんじゃないかな。きっと。(ちなみに、私は30代、未診断ですが、よろしければ。残念ながら、メルアドはないのですが…。)
チュウメイ wrote:
>毎日会っていれば、普通のひとは遠慮の垣根がとれて仲良くなっていくのでしょうが、私は全くその逆です。こういうのもアスペルガーの症状なのでしょうか?
はじめまして、チュウメイさん。
私は自称ASです。ASには未診断のまま、社会生活を送っている人が半分くらいでしょうか(この辺りは詳しい方にお任せいたします)、少なくないようです。
私自身の経験から言いますと、相手の気持ちを考えて、周りに合わせて仲良くなりそうな振りを続けると、段々、辛くなっていきます。
>最後に、面談してくださった児童精神科医の先生が、「人と人とがわかりあっているのはある意味幻想なのですよ」と言ってくださいました。
そうだと思いますよ。
TVの受け売りなんですが、愛情、というのは、共感なんだそうです。
で、共感と言うのは、コニュミケーションの際に、同じリズムを共有することなんだそうです。(母親と子供の関係)
まあ、相当かなり大雑把な説明ですが、普段の社会生活で息苦しさを感じているなら、こちらの掲示板は大変良い処方箋になると思いますよ。
先日、こちらの掲示板上で、オフ会(こうもりさんに主催をしていただきました)を持たせていただいたのですが、普段、職場などの公共の場で、周りの人間関係に合わせられない(あるいは強引に合わせる)辛さなんて、どこ吹く風ってくらい、楽しく過ごすことが出来ました。
今はこれを支えに何とか毎日社会に出ていっています。しかし周り全部が知人という人間関係の中で、ひとりでいるのはさすがにかなり辛いものがありますね。誰もいないところで自分ひとりとか、見知らぬ人たちの中でひとりぼっちというのは全然平気なのですけれど。
相手との距離のとり方に凄く辛いものがある。
思考回路が違う相手に囲まれて、どう接するべきか、気を揉みながら、その場にいるというのは、とてもしんどい。
そういうことを考えずにいられることで、どんなに気持ちが軽くなるか。
オフ会で身をもって体験して参りました。
文面の意味を取り違えていたら、ご免なさい。
AS人間には、天才も秀才も凡人もいる。世間一般に同様に。
思考回路が違うことで、くだらない失敗やドジを踏むこともある。
人間関係で辛い思いをすることは多い。
それと同時に、新しいことを生み出すことも、正しい答えを導くことも多くある。
辛いことをばねに、それを跳ね返す道を見出すこともある。
違う思考回路。
チュウメイさんは、個性的なキャラクター(性格)をお好きですか?
ここの掲示板は、暖かいですよ。
(鯨夢ミグ)
オレンジブルーさん、メールありがとうございます。
ASの発生は圧倒的に男性が多いと聞きます。
私はいかにも「変人」っていう男の子とカップル扱いされてしまいます。
郵便局ではまさにそうでした。私にはそれが大きな精神的苦痛でした。
できれば女性のASの人と友達になりたい。そうすれば、私の価値観も変わるし、
心も和らぐと思います。
去る1月26日に、オフ会にお集まりいただきました、皆々様、本当にありがとうございました。
私のほうからも、お礼を申し上げたいと思います。
特に準備に奔走していただきました、こうもり様、こちらの掲示板を運営して下さっている管理人様、ありがとうございました。
お陰を持ちまして、つつがなくオフ会を持つことが出来ました。
これも一重に皆様のお陰です。
こうもり wrote:
> 準備まではやっていたけど、オフ会当日は自分の関心のあるテーマ
>に熱中してしまい、幹事役をほったらかしにしてしまっていたこうも
>りです。(ミグさん、みなさん、ごめんなさい)
いいえ、そんなことないです。
きちんとやって下さいました。
ほったらかしだったのは私のほうだったかもしれません。
ただ、参加して下さった皆様が、思った以上にとても協力的で、特に何かしなければならない局面というのもありませんでしたので(と私一人で思っているかもしれない)、私自身、参加者として楽しく過ごさせていただきました。
> 土曜日の正午という時間帯にも関わらず、12人もの人が参加し、
>自分でもびっくりするぐらい盛況のうちに終わることができました。
>これも一重に参加してくださった皆様の多大なご尽力のおかげです。
全くその通りです。
今回お会いできた方にも、今回はお会いできなかった方にも、また機会があれば、是非にお会いしたいと思っております。
個人的に、今回、皆様に会えてテンション高めで暴走気味(自省)でしたが、これに懲りず、またお会いして頂けたら、と思います。
良かったら、また、遊んでやって下さい。
本当は、いっぱい、いっぱい、書きたい事はある(オフ会で考えされられたこととか、その続きとか)し、掲示板のカキコ見ながら、「あ、あ、あ、そうそう、そうなのよ〜っ」と相槌打ったり、「あ、それでね」とレスしたくなったりするのですが、先ずは、オフ会でお会いできた皆様にお礼を言いたいのです。
ありがとうございましたm(__)m。
(鯨夢ミグ)
初めて投稿させていただきます。私もつい2週間前にアスペルガーといわれました。会社が契約している心理相談室に行ってそういわれたので、きちんと診断を受けたわけではありませんが。
はじめアスペルガーだと言われたときも、なんのことやら分からず目がテンになりましたが、だんだん話をきいてゆくうちに、なるほどなと思い当たるところがあって、「そうだったのか!」というのが正直な感想でした。今まで人間関係がうまくいかないことも、場が読めない取り回しのきかなさも全部自分の性格が悪いせいだと責め続ける日々でしたが、先天的なものであるならばある程度それも仕方がないと、少しですが思えるようになりました。
それでも今は会社づとめですので、周りの人たちには「おかしな人」とか「心のうちを見せない水臭いひと」だとか思われているようです。確かに私に対して心を開いてくれる人に対しては、それに報いてあげることができなくて申し訳ないなと思う気持ちはあります。でも駄目なのです。毎日顔をあわせる、その無期限さに押しつぶされそうになるのです。そばにいればいるほどその人の気持ちがわからなくて、それ故いつか傷つけてしまうのではという恐怖心がだんだん膨れ上がってくるのです。毎日会っていれば、普通のひとは遠慮の垣根がとれて仲良くなっていくのでしょうが、私は全くその逆です。こういうのもアスペルガーの症状なのでしょうか?
最後に、面談してくださった児童精神科医の先生が、「人と人とがわかりあっているのはある意味幻想なのですよ」と言ってくださいました。今はこれを支えに何とか毎日社会に出ていっています。しかし周り全部が知人という人間関係の中で、ひとりでいるのはさすがにかなり辛いものがありますね。誰もいないところで自分ひとりとか、見知らぬ人たちの中でひとりぼっちというのは全然平気なのですけれど。
オレンジブルーさん wrote:
>わあ。こうもりさん、私ねえ「フォレストガンプ」見た時は、「自分に似ち
>ょる」とおもいました。あの単独一方通行運動系。。同じことばっかりやっ
>てて「凡人離れ」した集中力。かっくいい!と、しびれました。
今まで見た障害者ものの中では1番好きな映画です。とことんまで考え悩
み抜く障害者というのも好きですが、ああいう障害者も大好きです。
>「レインマン」がテレビで放映された時は、家の親から
>(私は女の癖にマザコン傾向です)「家に似たようなイキモンがいるから別
>に画面でまで観たくないわい」と発言されてしまいました。<ぶほっ
ひで〜。ちなみにわたしは子供の頃、同じクラスの自閉児の母親から
妙に親近感を持たれていました。「うちの子にそっくりだ」という理由
で。今から見れば、卓見ですね。
そういう意味ではわたしはずいぶん得をしました。
「外なるコトバ」において、複数の人の間で話を通じさせるためには、話に参加している人それぞれの言葉の定義が一致している必要があります。
ここでは、直接の会話やインターネットなどの文字の交換など、話を交わすことをまとめて「対話」と呼ぶことにします。
自閉症の子供によく見られる現象として、独自の言葉を作り出すというのがあります。
成人になると作り出すことは減ったとしても、既存の言葉に独自の解釈や定義を与えることはあるようです。
ただ、健常者であっても独自の言葉を作ることはあり得るので、程度および頻度の違いと捉えた方がいいかも知れません。
言葉の定義を共通化するためには、対話に参加している人が個人それぞれの定義から(定義の妥当性も考慮して)お互いに歩み寄るのがいいと思います。
しかし自分の定義以外を認めようとしない人もいます。
自分が絶対的に正しいと思っている人か、定義の重要性を認識していない人でしょう(他にも理由があるかも知れない)。
その時には対話をあきらめるか、不本意ながらも相手にできるだけ歩み寄ることになるでしょう。
それだけ自分の負担が増大することになります。
どうやって共通する定義まで歩み寄るかですが、私の場合を分析すると、数値計算におけるiteration(繰り返し計算)のように、ずれの修正(つまり歩み寄りにおける一段階)を何段階も繰り返して、目的とする「共通の定義」に辿り着く、あるいは辿り着こうとしているようです。
試行錯誤と似ていますが、どれだけずれていてどれだけ修正すればいいかをできるだけ精度良く推定する点が、試行錯誤と違います。
繰り返しは意識的に行っているとは限らず、無意識の内にこの作業が脳内で行われていることもありそうです。
ASではない人はどうしているかというと、これは私の想像でしかないのですが、数学で言えばファジー理論に相当するやり方をしているのではないかと思います。
修正量を一点に固定せず、一回の修正で辿り着く先を点ではなく(面のように)範囲を持たせることで、早く一致点(共通の定義のこと)に行き着いているのではないかと思うのです。
あるいは、点と面ほどの決定的な違いではなく、範囲の大きさの違いかも知れません。
独自の言葉(内なるコトバ) →(繰り返し修正)→ 定義の共通した言葉(外なるコトバ) → 対話
という流れの中での修正における繰り返し回数が、ASであるかないかで格段に違うのではないかと考えています。
言語優位の人の場合は以上ですが、ビジュアルシンキングをしている人の場合には、さらにこれに加えて「映像から言葉を作る」という作業が必要になります。
つまり、映像という形の思考を基にして他人と話を通じさせるために、最初に映像から独自の言葉(内なるコトバ)を作る段階があります。
しかし、それ以上に大変になるのは繰り返しの作業の中で、映像←→言葉の変換を毎回行っていることです。
内なるコトバ、外なるコトバの映像との変換はもちろん、修正量も一旦映像に直して映像ベースで内なるコトバに修正を加えて、という作業が繰り返しの度に行われているのです。
そのためますます修正作業に手間がかかり、つまりは考えていることに基づいて対話をするのに時間がかかってしまいます。
ただしこれは完全にビジュアルシンキングの人の場合なので、実際には言葉と映像を混ぜていることが多いのではないかと思いますが、映像の比率が大きくなるほど、負担も大きくなるでしょう。
負担の大きさが対話(特に会話)の遅さにつながっているし、手間の多さに途中でギブアップしてしまい、対話を打ち切ってしまうこともあります。
あさかぜお母さん wrote:
> ホントはね、ちょっと疲れてる。
> 掲示板で元気なフリもできなくなるほど。
どうしたの、あさかぜさん?なんか辛いことでもあった
の?なんか分からないけど、ボクもちょっと辛くなってき
ちゃった。
> おやすみなさい。
> みんな、元気でね。
おやすみなさい。素敵な夢を見てね。あ、ボクへのレス
は今はしなくていいからね。じゃあ
寺林 wrote:
>武田好史 wrote:
>>お互いに支えあいながら生活できる場が欲しいなと思ったりしますが、なかなかうまくはいかないでしょう。
>
>高機能の人たちを取り巻く環境は厳しいです。私も支え合いながら生活できる場、作業所があればいいと思います。
私に自閉の診断をくだされた、1年間じっくり向き合ってくれた主治医が初めから私に言ってました。
「オレンジブルーさんのような人達が利用できる施設が、まだどこにもできていないという現状なんです。」と。
初め、私の利用できる施設を色々と先生、探してくれていたのです。
授産施設の話しは、在学中の保健婦さんを通して相談したら、「ゆっくりとした
時間だし偏見もつ心配は無いから、一度とりあえず見学に行ってみたら?」といわれました。お世話になった在学中の知人にも同じ事をいわれました。
後に、主治医は私を通して自閉症スペクトラム・アスペルガー症候群・高機能自閉症の情報、勉強を結構されたようでした。非常に勤勉な誰にでも平等の視点で話しをしてくれる先生です。頭が下がる思いです。←しかし甘えたのアホみたいな子ども丸出しです。
日本にだいたい 60万人も居ると思われている発達障害。
みんな集まって、施設設立の運動起こしてもいい気もしちゃいます。
主治医は授産施設の作業をむしろ私には勧めない気のようです。
「そこを通してできる仕事があるならやりたいんです」と言いましたが。。
施設で働いている従業員が誰もまだ自閉を学んでいる人が居ないのだそうでうす。
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