アスペルガーの館の掲示板(旧)

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Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8305へのコメント
No.8308  Fri, 26 Oct 2001 01:23:28 +0900  みどり [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>>>>Cくんは呼んでも返事しない。
>>>>返事をしない子は耳に障害がある。
>>>>ゆえにCくんは耳に障害がある。

みどり wrote:
>ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。

武田好史 wrote:
>>そこなんです!
> Cくんを含めた「呼んでも返事しない子」について、「返事をしない」理由考えてみて下さい。
:
>診断という作業は特定の「ガテゴリー」に患者を当てはめるのではなく、多角的な視点から見ていかないと、患者さんを本当に苦しめてい
るものを見逃してしまうのでしょう。

えーと文脈がまったくわからないんですが…

「考えてみてください」というのは、誰に対して話しかけているんでしょう? 私?
最初の三段論法まがいにはどういう意味があったのでしょう??
自然主義的誤謬の話との関係は続いてます? それとも関係ないこと?


失業してしまいました。
No.8307  Thu, 25 Oct 2001 21:59:15 +0900  pennpenn58 [この発言にコメントする]

 また失業してしまいました。原因は上司と合わなかったからです。みんながなにかをしゃべる。それについてなにか答える。笑う。私はいつもそれに着いていけない。

 何で笑うんだろう。おかしくないのに。といつもいつも心の中で何度も何度も繰り返す。なぜ私にはできないのだろう。いつもみんなをいぶかしげに見てしまう。

 私はもう43才になる主婦です。でも子どもの頃からみんなを私とはちがう生物のように感じてしまう癖は治らなかった。私は何だか地球人に紛れ込んだ宇宙人のように孤独です。


Re: アスペルガーかも? 8257へのコメント
No.8306  Thu, 25 Oct 2001 21:53:36 +0900  えびす生 [この発言にコメントする]

お返事ありがとうございます。
アスペルガーと診断されたわけではなく
アスペルガーの状況とよく似ている点が多いとしか言えないのですが
そのように判断してから
接し方が変わってきた自分がいます。
そうして
わがままだ、自己中だと思っていたのが
素直な子だ
という見方に変わってきました。

でも、
今日あまりにも丁寧な私の態度に
ぎゃくに彼女は傷ついてしまったかもしないと今思っています。
「わたしはばかじゃないのに」
「私の障害 私の個性」に中に何度がでていた表現
そんな気持ちにさせてしまったかもしれないと思って
いま自己嫌悪中です。

ううん、教育って難しい。
先生って難しい。

すみません。
弱音吐かせてください。


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8301へのコメント
No.8305  Thu, 25 Oct 2001 17:06:47 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>みどり wrote:
>>武田好史 wrote:
>>>Cくんは呼んでも返事しない。
>>>返事をしない子は耳に障害がある。
>>>ゆえにCくんは耳に障害がある。
>>>
>>>この論法は明らかにおかしいですよね。
>>
>>ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。
>
そこなんです!
 Cくんを含めた「呼んでも返事しない子」について、「返事をしない」理由考えてみて下さい。
 回りの子がおしゃべりをしていたために、「...くん」という呼ぶ声が聞こえなかったのかもしれません。
 何か楽しいことに没頭してしまって、呼ばれたことに気づかないのかもしれません。
 耳は聞こえているけど、言葉が不自由で「ハイ!」と返事できないのかもしれません。

このように「耳に障害がある」以外のいろいろな理由があります。これらはすべて、「返事をしない子は耳に障害がある」という命題の反例になります。

ということから、「呼んでも返事をしないCくんは、耳に障害を持っているとは限らない」ということになります。

 診断という作業は特定の「ガテゴリー」に患者を当てはめるのではなく、多角的な視点から見ていかないと、患者さんを本当に苦しめているものを見逃してしまうのでしょう。


Re: 被害をうけたときの反応 8292へのコメント
No.8304  Thu, 25 Oct 2001 15:50:52 +0900  名加野 [この発言にコメントする]

 みどりさん、こんにちは。

>ただ、それを押して拾い食いしてるのを、他人に文句言われる筋合いはないと思います。
>(周囲にいた友人が他人のフリするのを止めることもできないだろうけど)

 僕がやらかした時は、ランドマークタワーの入り口で、人が「たーくさん」居ました。でもその時は、周りは気になりませんでした。

 アイスの方が大切らしい……。

 一歩間違えれば、ガードマンにつかまってたかもしれませんね、と友達に言われてました……(疲。


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8293へのコメント
No.8303  Thu, 25 Oct 2001 15:41:07 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

みどり wrote:

>後半がよくわかりません。「男らしくなければならない」と「正常異常」って
>どう結びつくのでしょう?

 そうか。正常・異常の意味をいつもと違う意味で使用していましたね。ここ
で使用している正常と異常は

(1)正常…通常はこうあるべきである
(2)異常…通常はこうなるはずはない

という意味です。性別の問題に限定するならば肉体的な性が男である人が男と
いうジェンダー(文化としての性に当てはまる行動や挙動,ルックス)に従っ
ていれば、彼は「正常」と見なされてしまう可能性が高くなり、女性のジェン
ダーに従って行動すれば「異常」とみなされてしまう可能性が高くなります。

 当然のことながら、自然主義的誤謬の世界ではこのような価値判断は一切無
効になります。それは性による差別の問題とは一切関係なくです。

>たとえば、「あなたは肺炎にかかっています」や「胃がんではありません」
>も「価値判断」ですか?

価値判断と考えています。肺炎や胃がんには詳しくないので、風邪を例にし
て説明します。医学的に風邪と呼ばれている状態について事実だけを記述する
場合は、「せきをしている」「熱が高い」「鼻水がでている」という個別の臨
床像だけは記述することができます。しかし、そこに「これは風邪である」と
いう診断を下した場合は、やはり価値判断ということになります。

 つまり、臨床的な事実から診断を下すという行為も自然主義的誤謬の範疇に
入ってしまうのです。

>3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。
>
>A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
>B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
>C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)

>Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
>医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。

 発達障害の診断ではBの寄り道がどうしても必要です。仮に医学的に健常と
評価される子供の発達と違いがあったとしても、事実のみを記述する場合は、
「健常児とは発達においてこの点が違う(あるいは遅れている)」という記述
しか行うことができません。これに「障害」とか「困難」とか言う価値判断を
加えた時にはじめて診断は成立します。しかし、「障害」とか「困難」という
価値判断を加えた時点で、診断は自然主義的誤謬の範疇に含まれてしまうので
す。

># 本当は =>C の前には「LDとは〜である」という命題 D が入るし、ここは
>ここで中のボリュームが大きそうですが。

これをやってしまうと今度は規約主義的誤謬という問題が発生してきてしま
うことになります。つまり、診断を行う際に臨床像の観察ではなく、はじめか
らあった解釈体系に、患者を当てはめていっただけなのではないかという問題
です。この場合は「価値判断から事実を導き出す」という新たな誤謬を生み出
すことにつながります。

> 「自然主義的誤謬」論自体を疑うという方法もあるけど。そういう誤謬がた
>くさんあったからといって、なぜ事実から価値を導くのはつねに間違いである
>と言えるのか。それ自体が誤謬じゃないのか。そもそも「つねに間違い」と言
>ったのだろうか、「よくある間違いだから気をつけろ」と言ったのだろうか。

自然主義的誤謬の創始者であるヒューム自体の哲学の特徴は、周囲の人間の
認識と自分の認識のズレを徹底的に考察したことにあります。従って、自然主
義的誤謬は他者に向かって語りかけられた事実ではなく、ヒューム自体が抱え
ていた違和感なのです。ヒューム自身は真理を追究する学究の徒であったため
にこの問題にひどく苦悩していたと言われています。

 しかし、長い歴史のなかで自然主義的誤謬に全面的な反論を加えることに成
功した人はいないため、彼の苦悩は哲学・倫理上の一大問題として後世に残さ
れることになったのです。これに全面的に反論することができれば、自然主義
的誤謬の問題は克服されることにはなります。もっともその後にはヴィトゲン
シュタインの世界との葛藤が残されるような気がしますが…。

 ちなみに、「それ自体が誤謬じゃないか」という反論はもっともです。哲学
史に残る言説の多くは本人の首を締めるような性質を持っています。逆にそう
言う言説の方が後世に残されることが多いような気がします。 

>もとの論文か適当な解説書を読まなきゃいかんかな。理解できるんかなぁ。
>なんかおすすめの本あります?

 加藤尚武著『現代倫理学入門』(講談社現代学術文庫)の第7章がお勧めで
す。

(PS)

 今のわたし自身はとてもじゃないが、自然主義的誤謬を犯さない形でコメン
トをすることはできません。わたしのコメントから価値判断を排除してしまえ
ば、何もコメントすることができなくなってしまいます。


Re: 血液型 8218へのコメント
No.8302  Thu, 25 Oct 2001 14:12:47 +0900  Lingko [この発言にコメントする]

KILROYさんは以下のように書かれました:
>i wrote:
>> とはいえ魚座のOと蠍座のABには何かある気がしてならない。
>
> Lingkoさん wrote:
>>あのー。ワタクシ魚座のOなんですけど……。
>
> なにせ確率的には四十人に一人しかいないのでそうそう大勢に会った訳ではなく、断定的なことは言えないのだが、なんとなく「常識人で有能で変わり者で自己肯定的」という共通した要素がありそうに思う。見たところ快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひとなのだが、興味の対象がちょっとヘンなもので、いわゆる「普通の人」は「ああっ、わからない」と頭を抱えてしまうのだ。

ふむー。いーじゃーん。信じなくてもなお、励みとして使えそうな気がしますもの。これで信じていたら、プラシーボ効果か何かで、なおさら励み効果が得られそうなのにと思えば残念でもありますが。

有能に関しては能力という要素が関わってくるからまあ置いといて。

「常識人」に関しても、実際に常識を学ぶ能力、学んだことが実践できる余裕といった壁はあるかもしれないにせよ、方向性としては私、常識人志向ですから。

なかなかいつも「快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひと」にはなれないのだけれど、本当はそうありたいと思っているし、努力の方向もそっちをむいています。なぜなら、「快活でおっとりしていて人当たりもよく、つきあっていてまことに気持のいいひと」は、他人から必要以上のエネルギーを奪わないといいますか、人をぎょっとさせる必要のあるとき(どうしても言うべきことを言わねばならないときか、いたずらをするとき)を除いては、人を驚かせる出かたをしませんから。

もしかしたら私自身、驚くのが苦手なだけに、驚かせたい場面以外では人を驚かせる出かたをしない人を見ていると「目やすい」(もしかしたら大阪のことばかも)と感じるのかもしれません。ムダな場所で他人の驚き対応・立ち直りキャパシティを消費せず、自分の驚かれ場面収拾エネルギーも消費しなくてすむでしょう。

ただ、「出かた」ではなく、人にむかっていないときから変わらない、その人の「ありかた」が人に驚かれてしまうのは別ですけども。だいいちこれはムダな場面じゃない上に、「ありかた」が人に驚かれる機会は、「出かた」にくらべたら急場に少なく、お互いゆったり何かの本題を話しているときに多いこともあるし。

この掲示板の別のツリーでも登場している「常識」ですけれど、同じ「常識」ということばで示される範囲の中に、何種類もの素性のちがう概念が同居しているから話がめんどうになっているのではないかと思うのです。その中で、「あえて驚かせる必要があるとき以外に人を驚かせることを減らす方針の一つ」としての「常識」は、お互い省エネのために有用だと私は思っています。

私にとって、「人当たりのいい常識人(複数形)」は、驚き対応・立ち直りキャパシティに響きにくい存在というばかりでなく、一度学んだ知識の汎用性が高い、ありがたい存在でもあります。せっかく覚えたてのことがそのまんま使えたら、だって、うれしいじゃないですか。その上に「自己肯定的」な人とあれば、自己否定的なところをつぎはぎするための小細工が少ないがゆえに、なおさら例外事項が少ないときています。

私は自分が疲れてばかりいるから、人を疲れさせない人がありがたくて、だから、人を(必要なときしか)疲れさせない人になりたいという方向に努力しているのです。

これがもし、私が、別の方針を持って努力している人であったなら、あんまり嬉しくなかったでしょうね。良い悪いじゃなく、行きたい方角を向いてるかどうかの話と思ってくださいね。


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8298へのコメント
No.8300  Thu, 25 Oct 2001 12:10:43 +0900  みどり [この発言にコメントする]

武田好史 wrote:
>Cくんは呼んでも返事しない。
>返事をしない子は耳に障害がある。
>ゆえにCくんは耳に障害がある。
>
>この論法は明らかにおかしいですよね。

ここでおかしいのは論法ではなく、「返事をしない子は〜」の命題自体がおかしいんです。
もしくは、「返事をしない子は〜」で文に省略されている部分と、最初の文で省略されている部分に相違があります。両方省略してあるから見た目似てますが、全然違います。

ワイドショーに出てるような人たちはよくこういう間違いをします。意図的なんじゃないかと思うほどよくやります。(じゃあなんでそんな番組を見てるんだ? > 自分)


Re: help(care)について 8295へのコメント
No.8299  Thu, 25 Oct 2001 11:54:45 +0900  Maria [この発言にコメントする]

ぷちさん wrote:
>Mariaさん、お返事ありがとうございました。ぶちです。

 いえいえ、お役に立てればうれしゅうございます。

>うーん、私は「古狸」だから「まずい」って言わない(言えない)かな?  
>事実は事実でも、やっぱり相手を怒らせるか悲しませるかになる、確率が
>高いから。

 病気をしているときは食欲もないし、味覚も変わっていますから、それを説明したうえで具体的にどんな風にまずいかは伝えておいたほうがいい……というか、伝えられる関係にはなっておくといいと思います。末期ガンの患者さんが、鎮痛剤のモルヒネを飲むのがしんどいというので、シャーベットにしたら喜ばれた、という話もあったりしますし。栄養を取る、というのは病人にとって大事なことですから、看護してくれているひとに遠慮して無理にまずいものを食べるというのは、看護してくれているひとにも失礼かも、という考えかたもありますし。
 “Just a spoonful of suger makes medicine go down.”(映画『メリー・ポピンズ』より)という言葉もあります。

>> ・できれば、普段から、なにかあったときのためにお互いが手伝える
>>ことをあらかじめ予行練習しておく。

>3は半分わかりました。半分っていうのは、例えば限られた友人、同僚、
>家族なんかの場合は、実現可能だから、その部分については理解したと
>いう事です。でも相手が不特定多数の場合は、予行演習のしようがない
>です。

 防災訓練に参加するとか、救急法の講習会に参加しておくとかいうのは、いかがでしょうか。
 あるいはご町内の行事に参加するだけでもけっこういいんじゃないでしょうか。何十人ぶんものご飯を炊いたり、豚汁とかカレーとかを作れたり、何百個というおむすびを手早く握れるだけでも、これは相当の戦力になります(とはいえ砒素入りカレー事件とかがあったものだから、こういう行事って下火になっちゃったんだよな。あっても仕出し弁当だったりするし)。ご近所どうしの連絡を密にしておくだけでも、たとえば火事になったときに「あそこの家には子供がいる」とか「身体の不自由なお年寄りがいる」とか、その人たちがいつもどこで寝ているとか、そういうことが分かるだけでも消火救援活動の助けになります。

>> 仕事の場合は、「バディ・システム」といって、どっちかが一時的に
>>戦力外になってもお互いがフォローできるような体制をふだんから作っ
>>ておくことがあります(チームの場合は「減員操法」というのがあります)。

>バディにしないでも、情報を一人が溜め込まないという方法は、どこの会
>社でもとっているんじゃないでしょうか?  情報の共有化っていうか……
>そうじゃないと一人欠けると全体が動かなくなるし。

 「一人欠けると全体が動かなくなる」ものですから、休めないし辞められない、というので、仕事に追い立てられたり会社に縛りつけられたりということになってしまうわけです。それに、「人から責任をおっかぶせられたくない」みたいな理由で他の仕事を覚えたがらない人もいれば、自分の仕事に口出しされたくないとか、社内での立場を守りたいというので、周囲に自分の仕事について教えたがらない人もいます。

 ソフトウェア業界では、他の人に自分の書いたプログラムのソースコードを見せたがらず、開発文書も残したがらない人が少なくとも八割以上いますが、そういう人たちはおおむね職業的プログラマーとしてはクズです。で、残りの二割のプログラマーが、八割の仕事を片付けています。これは多くの分野で「二十/八十の法則」として知られています(本来は「Zipfの法則」といいます)が、システム開発の世界では「五/九十五の法則」が成立つという噂もあります。

 「自立性と向上心と帰属意識」というのは、あたしは不断の努力によって涵養されるものだ、と思っています。日本人はその意味で、文化としてこういうものを持っているから、すばらしいと思ってます。アメリカの企業なんかだと、優秀な人間が周囲の使える人間を引き抜いていきなり辞めたりするものだから、組織がガタガタになって崩壊する、ということがしょっちゅうあります。で、残された人も、「どうせ自分たちだけじゃなにもできないから」とさっさと他の職場に移ってしまいます。「残された人間だけでなんとかしよう」なんてことは、あんまり思いません。マニュアル化がしつこく言われ、ノウハウの保護が徹底されているのは、こうした流動的な人間関係の中で企業活動を行なうための智恵です。ヨーロッパと違って、アメリカは「流れ者の国」ですから。

 あたしたちは結局、「田んぼの国の人」です。千年おんなじ場所で米作って生きてても不思議のない民族だし。牧畜だとこうは行かないし、畑作でも連作障害とか出ちゃうから無理です。水田というのはけっきょく川の一部なのですね。水さえ止まらなければ千年でも二千年でも継続的利用ができます。まあ、ナイル川流域なんかもそうなんだけどさ、あれは洪水で全部流れちゃうからな。いちいちリセットしてるようなものです。

 あたしは「文化が先で制度が後」だと思ってます。「助けあいの文化」を“自分の中に”育てるというのが、けっきょく遠回りのようでいちばん確実なんじゃないかな。

 (Maria)


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8293へのコメント
No.8298  Thu, 25 Oct 2001 09:12:10 +0900  武田好史 [この発言にコメントする]

みどり wrote:
>
>「全員を検査した結果、同年齢の子供の99%は一桁の足し算・引き算ができた(事実2)」とかでも構いません。(もちろん実際にはこの分は仮定です。私はそんな数字は知りません)
>
>3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。
>
>A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
>B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
>C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)
>元の話の構成は (A , b) =>B =>C なんですね。で、=>B の部分が自然主義的誤謬。で、ここですでにジャンプがあるので、後半 (B=>C) には意味がなくなっちゃってます。
>つまり、B の導出方法はヘンでした。そこは無視して、もしもBが (単独で) 正しいとしたら、B=>Cは価値判断をもとに価値判断をするという論理になるわけですね。こうやって導かれるLDの診断は、確かにヘンです。これは医学的診断とは思えない。
Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
>医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。
>
ちょっと別の例も考えてみたいと思います

Cくんは呼んでも返事しない。
返事をしない子は耳に障害がある。
ゆえにCくんは耳に障害がある。

この論法は明らかにおかしいですよね。


武田さん、どうもありがとうl。
No.8297  Thu, 25 Oct 2001 08:37:31 +0900  pennpenn58 [この発言にコメントする]

 リタリンについてのていねいな回答ありがとうございました。やはり、お医者さんに任せるしかないようですね。私は自分ではおそらくASかADDと自己判断してこのページにまぜてもらっていますが病院では鬱の治療をしています。3年になりますがなかなか改善しません。

 その間2つの職場をやめることになりました。今は失業中です。というか会社では依願退職してほしいという意向でまだ正式には言われてないのですがそれを待っているという中途半端な状態です。

 過去のことを考えるといいことが全然思い出せなくて苦しいです。でも数日前からインターネットをはじめてみて少し元気になりました。世の中にはいろんな人がいてこの世の中でうまく暮らせるひとと暮らせない人がいるのですね。


Re: ちょっと聞いてもいいですか? 8268へのコメント
No.8296  Thu, 25 Oct 2001 07:13:42 +0900  あさかぜ [この発言にコメントする]

 こんにちは、ぶちさん。
 ていねいなお返事ありがとうございました。

ぶちさん wrote:
> 私は自分の能力を超えているのを知りながら、悶々
>として止まってしまう事が時々あるようです。

 うーん……似たようなことは、わたしもあります。ただ、あとになって問題が解決してから振り返ると、止まっているようでも何らかの変化はしていて、いつかは困難から抜け出せる可能性があると思っています。
 渦中にいるときはなかなか気が付かないですが、解決する(あるいは何らかの答えが出る)までに時間がかかったのだと考えることができます。

 わたしは鬱で心療内科にかかり、今でも投薬治療を受けている身ですから、エラそうなことは言えないですけど(笑) 自分は「短気」だと思いこんでいたのですが、もしかしたらものすごく気が長いほうなのかもしれません。

> 人の力を借りるのって、そんなに恥ずかしい事じゃないし、
>それで効率よく事が進むなら、その方が便利な事も多いです
>よね(って私も詰まるくせに)。

 そうなんですよ。効率が効果的なときは、そうするのがいいと感じます。でも、効率がすべてではない事柄って、世の中には多いように思います。人間関係なんかはそれが典型的ですね。夫婦関係・親子関係・家族関係なんかは「濃い」関係なので、時間がかかっても仕方ないと思います。

 あららら、横すべりしたかな?

 ヘルプのサインはむずかしい場合も多いな〜って思います。自分の要求がわかってもらえないときや、相手の要求を読み間違えることもしょっちゅうです(苦笑)。失敗してもてらいなく素直に謝れる人間になりたいなと思っています。


Re: help(care)について 8282へのコメント
No.8295  Thu, 25 Oct 2001 06:25:46 +0900  ぶち [この発言にコメントする]

Mariaさん、お返事ありがとうございました。ぶちです。


Mariaさん wrote:

> 病気をすると分かりますが、「自分は相手の気持が分かる」と信じこんでいる非自閉の人のほうがタチが悪いことがあります。

「他人の気持ちを理解する」っていうのは、すごく難しい事で、それが出来ていると思い込むのは危険な事ですよね。

こうもりさんが書かれていたけど、「共感している振りをする」事を、本当に共感している事と誤解している人も多いです。それに自分自身「振り」をしながら、自分は本当の共感する力があるって誤解している人・・・これはMariaさんの言う通り危ない(タチが悪い)です。

自分はいかにやさしいか、いかに良心的だかを表現するために行動している人も多いですよ(あー、こんなこと言うと、またまわりに嫌われそうですね)。
そういう人は訓練を積んで、「こういう時には、こう振舞うと良い人っぽい」とか、「こういう時には、こう答えてあげるとやさしそうに聞こえる」とか、研究して身に付けているだけですから、今までの学習の範囲を超えると、突然すごい事を
言ったり、すごい行動に出たりします。


> (略)「まずい」とか言うと怒って帰ってしまい、台所は散らかし放題で残り物が山できてしまうとか……そういう人っていそうでしょ?

いるいる、いますね。
うーん、私は「古狸」だから「まずい」って言わない(言えない)かな? 事実は事実でも、やっぱり相手を怒らせるか悲しませるかになる確立が高いから。私が高熱出して倒れると、うちのパートナーは必ず氷まくらを持ってきます。何度も「私は寒がりだから、冷たいの嫌い」って言っていても、心配で血迷って持ってきます。それに「要らない」って言ってきかない・・・彼は氷まくらが好きなんです(特に熱のある時には)。自分が私の立場だったら、一番欲しいものなんでしょうね。そういう時は、一応もらっておいて、しばらくしたら横に置いておきます。
私が氷まくらをしていると、「きっとすぐ良くなる」って、彼が安心するみたい。そういう意味でも効果がある(私にはないけど、彼の不安は少し解消する)なら、それでもいいかなぁ・・・って、もらっておきます。ポンポコポン。

> ・どうやったら手伝えるのかが分からないときは、相手が具体的な指事をしてくれるまで放っておく。
> ・自分のやりかたとは違っても、相手の指事通りにする。
> ・できれば、普段から、なにかあったときのためにお互いが手伝えることをあらかじめ予行練習しておく。

上から順番に1,2,3とすると・・・

1は了解。基本的に必要ならその旨言ってくるから、それまで放っておいてくれって事ですよね。前にみどりさんへのメールにも書いたんですが、「何かある?」
って聞くのも、「余計なお世話」になりますか? ちょっとこのあたり知りたいです。困っている時に「困ってる」ってサイン(または言葉)を発信してくれてる場合はいいんですが、むおーんと変な雰囲気は漂って来るんだけど、何がどうなっているのかわからないって事がよくあります。そういう時にも「何かある?」って聞くのは、やっぱりおせっかいなんでしょうか?(実は私はやってしまう・・・)

2も了解。前のメールでちょっと書いたけど、近くに「困ってる」「怒ってる」等の感情を持った人が近くにいるのが苦手なだけですから、私としては、相手のその感情がやわらげばそれで満足なんです。だから「こうしてくれれば困ってる状態が改善する」って伝えてもらえれば、それだけして、それ以上の事はしないと思います(こういう所、ある意味冷淡でもある)。

3は半分わかりました。半分っていうのは、例えば限られた友人、同僚、家族なんかの場合は、実現可能だから、その部分については理解したという事です。でも相手が不特定多数の場合は、予行演習のしようがないです。


> 仕事の場合は、「バディ・システム」といって、どっちかが一時的に戦力外になってもお互いがフォローできるような体制をふだんから作っておくことがあります(チームの場合は「減員操法」というのがあります)。

バディにしないでも、情報を一人が溜め込まないという方法は、どこの会社でもとっているんじゃないでしょうか? 情報の共有化っていうか・・・そうじゃないと一人欠けると全体が動かなくなるし。

(ぶち)


Re: helpについて 8280へのコメント
No.8294  Thu, 25 Oct 2001 03:00:19 +0900  ぶち [この発言にコメントする]

名加野さん wrote:

>> 「言われないと分からない」っていうのは、普通の事だと
>>思います(そう思わない人も多いけど)。
>
> 良い事おっしゃいますね。僕も鈍感なので、言ってくれなけりゃわかりません(無言の会話とは別の話)。けれども、僕の場合言われても中々動けません。

うちの場合、彼もできるだけ仕事をふって欲しくないか
ら、なかなか動いてくれません。まぁ、そういう時は、あ
の手この手で動かすんですよ(「よっしゃ、俺がやったる
!」って言わせる)。

相手の働きかけ方によっては、名加野さんも「よっしゃ!」
って思うかもよ?

あ、これも関係ない話でしたね・・・(ぶち)


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8291へのコメント
No.8293  Thu, 25 Oct 2001 01:05:39 +0900  みどり [この発言にコメントする]

こうもり wrote:
> で、自然主義的誤謬は元々は道徳哲学から発生した概念なのですが、わたし
>自身は事実や正常・異常かの判断にも適用できる概念であると考えています。
>現に自然主義的誤謬の例としてよく挙げられる『「男である」から「男らしく
>なければならない」という判断を導き出すことはできない』というのは、善悪
>(道徳)上の判断ではなく、正常・異常の判断です。

後半がよくわかりません。「男らしくならねばならない」と「正常異常」ってどう結びつくのでしょう?

医学的な診断は、「判断基準に添うかどうか」ですから、どちらかというと「価値」より「事実」側に入りそうに思うのですが、あえて価値側に入れるのがわからないところです。
たとえば、「あなたは肺炎にかかっています」や「胃がんではありません」も「価値判断」ですか?

>>> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)
>>
>>この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか
>>。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながり
>>においてどれだけ違いがあるのでしょうか。
>
> つまり、みどりさんがおっしゃる例は
>
>・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
>・通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算はできる(事実2)
>・ゆえにAくんはLDである(価値判断)
>
>という構図でしょうか?蝙蝠が担当するスレッドの話題ではともかく、こちら
>では、このような構図を想定してもかまわないと思います。上記の例の場合、
>(事実1)と(事実2)から(価値判断)を導き出せるかということが問題と
>なるでしょう。
>
> 上記の(事実2)の部分を事実と見なすか価値判断とみなすかは意見が分か
>れるところです。

「全員を検査した結果、同年齢の子供の99%は一桁の足し算・引き算ができた(事実2)」とかでも構いません。(もちろん実際にはこの分は仮定です。私はそんな数字は知りません)

3つの命題を A,B,Cとして、私が変えた方は A, b, C とします。

A: >・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
b: > 「通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算ができる(事実2)」
B: > 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできなければならない(価値判断1) (文章をちょっと変えました。これ、問題あります?)
C: >・ゆえにAくんはLDである(こうもりさん説では価値判断、みどり説では事実)

元の話の構成は (A , b) =>B =>C なんですね。で、=>B の部分が自然主義的誤謬。で、ここですでにジャンプがあるので、後半 (B=>C) には意味がなくなっちゃってます。
つまり、B の導出方法はヘンでした。そこは無視して、もしもBが (単独で) 正しいとしたら、B=>Cは価値判断をもとに価値判断をするという論理になるわけですね。こうやって導かれるLDの診断は、確かにヘンです。これは医学的診断とは思えない。

Bのジャンプをなくしたのが私の (A, b) =>C 。こっちは C も事実側であれば、別になにも問題はない気がするんですが。
医学的診断をしようってときに B に寄り道するのがヘンなんじゃないかなあ。

# 本当は =>C の前には「LDとは〜である」という命題 D が入るし、ここはここで中のボリュームが大きそうですが。

「自然主義的誤謬」論自体を疑うという方法もあるけど。そういう誤謬がたくさんあったからといって、なぜ事実から価値を導くのはつねに間違いであると言えるのか。それ自体が誤謬じゃないのか。そもそも「つねに間違い」と言ったのだろうか、「よくある間違いだから気をつけろ」と言ったのだろうか。
もとの論文か適当な解説書を読まなきゃいかんかな。理解できるんかなぁ。なんかおすすめの本あります?


被害をうけたときの反応 8283へのコメント
No.8292  Wed, 24 Oct 2001 23:49:31 +0900  みどり [この発言にコメントする]

名加野 wrote:
> くだらない話で申し訳ないですが、他人にアイスを落とされた時に、パニックで拾い食いする事も関係あるのでしょうか?

元の例だと、逆に相手に拾わせようとして失敗する方かも。
相手に床を拭き掃除して新品を買ってこいとか言うかもしれない。(すみません、買ったものにはあんまり執着ないんで、新品でいいんです、私の場合は。)

ただ、他人に理解できない形での代償を求めてしまうという点では、根はつながっているのかもしれません。
自分が作ったケーキとかだったら私も拾い食いしかねない。

> やっぱ僕が悪いのかな? 拾い食いはやっぱアウト?>ALL

健康のことを考えたら、やめといた方が無難だと思います。

ただ、それを押して拾い食いしてるのを、他人に文句言われる筋合いはないと思います。
(周囲にいた友人が他人のフリするのを止めることもできないだろうけど)


Re: 自然主義的誤謬 発達障害 8266へのコメント
No.8291  Wed, 24 Oct 2001 23:21:40 +0900  こうもり [この発言にコメントする]

みどりさん wrote:

>ここでいう「価値」とはなにか、が気になります。事実以外のものは全て価値
>なのか、それとも善悪の判断に限るのか。医学的診断は「価値判断」になるの
>でしょうか?

事実以外の全てが価値になる訳ではありません。例えば、冗談,社交辞令,お
せじ,演劇のセリフ,文学作品などは事実以外のことが書かれていますが、決
して価値判断には含まれないからです。

 で、自然主義的誤謬は元々は道徳哲学から発生した概念なのですが、わたし
自身は事実や正常・異常かの判断にも適用できる概念であると考えています。
現に自然主義的誤謬の例としてよく挙げられる『「男である」から「男らしく
なければならない」という判断を導き出すことはできない』というのは、善悪
(道徳)上の判断ではなく、正常・異常の判断です。


>> 通常、同年齢の子供は一桁のたし算・ひき算はできるはずである(価値判断1)
>
>この文章が「同年齢の子供の大半は〜ができる」なら事実とできるでしょうか
>。その場合、「できるはずである」の場合と、「(価値判断2)」へのつながり
>においてどれだけ違いがあるのでしょうか。

 つまり、みどりさんがおっしゃる例は

・Aくんは10才だが、一桁の計算ができない(事実1)
・通常、同年齢の子供は一桁の足し算・引き算はできる(事実2)
・ゆえにAくんはLDである(価値判断)

という構図でしょうか?蝙蝠が担当するスレッドの話題ではともかく、こちら
では、このような構図を想定してもかまわないと思います。上記の例の場合、
(事実1)と(事実2)から(価値判断)を導き出せるかということが問題と
なるでしょう。

 上記の(事実2)の部分を事実と見なすか価値判断とみなすかは意見が分か
れるところです。


Re: 自然主義的誤謬 悪について 8267へのコメント
No.8290  Wed, 24 Oct 2001 22:58:18 +0900  蝙蝠 [この発言にコメントする]

みどりさん wrote:

>というわけでまたも質問。
>
>>、善悪の問題はわたしに重くのしかかっている…。
>
>ここでいう、「のしかかる善悪の問題」って、どういう種類のものなんでし
>ょう?

 哲学を学んでいるうちに価値判断が成り立たない領域に入りつつあるため、
これまで考案してきた倫理思想をもう1回再構成しなければならなかなってき
たからである…。感情に訴えて善悪を判断する方法はもはやわたしには通用し
ない…。そして今、理論による善悪の判断も自然主義的誤謬の存在によりいき
づまりはじめている…。


Re: もうやだ 8246へのコメント
No.8289  Wed, 24 Oct 2001 21:22:58 +0900  ゆーり [この発言にコメントする]

わっわっわー!
るおうさん、お返事ありがとうございます。

ほんとーに、ゆーりが落ち込んでいる時に声かけてくれるのは
いつも、るおうさんですね♪
とっても、慰められます。

また、親に怒鳴られて・・・
こっちが悪いのじゃないのに謝らなきゃいけない。
「あなたの’申し訳ありません’には誠意を感じたことがないのよね!
 なにニヤついてんのよ!」
とかまで言われて。そんなに信用できないなら自分で育てたまえよキミ。

一生懸命、工夫して、園の制約とかくだらない決まりとか枠とかを
打ち壊しながら、子どものために、子どものために、と思ってやっている。
ガチガチの保守主義・管理主義・付和雷同主義の先生とも対立しながら
毎日の保育を考える。
みんなはつるんで派閥を作って、こっちは仲間はずれ。

でも、親は、結果しか見ようとしない。
運動会の出来が良かったか、子どもがきちんと席について静かにしているか、
製作展で作品がよくできていたか、ケンカが無いか、
そんなところで教師の価値を決める。

ほんとは、過程が大事なのに、そんなこと気がつく大人はいない。
「千と千尋の神隠し」でブタになっちゃった両親、今の日本はあんなのだらけ。

こっちが穏やかでいると、子どもも安定しているのです。
にこにこしていると、子どもも幸せです。
一生懸命やっていれば、必ずこたえてくれるのが子ども。
この子達の未来に、幸あれと思います。

でも、この仕事、長く続けられないだろうな。
今までどこ行っても、うまくいかなかった。
これから、自分にぴったり合った、ほっとできる職場ってないでしょうか。
なんだか今の職場を辞めると、
社会不適応になって、引きこもりになりそうで恐いです。

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